はてなキーワード: イスラームとは
これまで苦痛に満ちた生を強制されてきた子どもたちも、ついに大人と同じように解放される道筋が整えられたオランダ。
子ども本人による同意が難しければ、保護者の許可を得た安楽死も柔軟に認められる形だ。
2014年に世界で初めて子どもの安楽死を認める法律が成立したベルギーでは、子ども本人の同意が必要となる。しかし、オランダの手続きでは、子ども本人が同意できない場合、医師と相談した上で、保護者の許可を得て安楽死を行うことも可能になるという。
オランダでは売春が合法となったり、軽い薬物なら合法となったりと、世界のリベラリズムがうらやむ飛びきりの先進的な取り組みが次々と合法化している。
性を売りたい女性たちが不当に自己決定を阻害されずに済むし、健康を害しない範囲であれば薬物によるQOL向上も認められるという。
また、移民・難民の受け入れにも寛容で、欧州の中でも特にイスラーム化が進展している国だとも言われている。
難病患者も、女性も、LGBTも、イスラーム教徒も、共にありのまま生きられる、そして人生の自己決定を望み通り行える社会となった。
何がオランダの進み具合の決め手になっているのだろう。
要点は下記の通り。
・欧米の結婚では「愛を神に誓う」が、日本の結婚は愛など前提にしていない
・日本は同性婚制度が大昔から存在してもおかしくないが、発生していない
キリスト教、というかカトリック教徒における結婚は「配偶者への永遠の愛を神に誓う」儀式によって成立する。
「健やかな時も、病める時も~」っていいうやつだ。
プロテスタントも結婚式を教会で挙げるので、本質は変わっていない。
欧米において、同性愛者同士が愛し合っているなら結婚を認めることは文化的に筋が通っている。
結納や夫婦のみでの三々九度的なものや宴会は存在していたが、神前や人前での儀式は存在しない。
現在の神前式はキリスト教の結婚式を参考にして明治時代に開発されたものである。
近世以前の庶民の結婚ではハレの日が存在せず、淡々と同棲が始まることも普通だった。
大抵の結婚は家の都合や成り行きで決まり、ぬるりと「男女の組合せ」が「夫婦」となっていた。
これが日本の結婚で、そこに「愛を誓う」というプロセスは存在しない。
このように「欧米の結婚」と「日本の結婚」は、「カミ」と「GOD」、「保険」と「共済」のように似て異なる風習である。
同性愛者が「我々は愛し合っているから結婚したいのだ」と主張しても、「日本の結婚」からは「まあ、嫌い合っているよりはいいかもですね」という感想が出て来るだけであろう。
それに加えて、日本は嫡子を跡継ぎにすることへの拘りが弱く、それなりの武家であっても養子を迎えて跡継ぎに据えることも多かった。
この2つから考えると、日本では男性同士の結婚が行われ、養子を跡継ぎにする事例が多々発生していてもおかしくない。
何故発生しなかったのか。
そのようなことは起きなかった。
日本では同性婚のハードルが低かったにも関わらず、発生しなかった。
日本においては男性同士の同性愛が広まっていたにも関わらず、男性同士の結婚が発生しなかった。
欧米では愛する者同士が結婚するという風習から同性婚が認められることは妥当性があるが、日本においてはそのような風習がないため、「日本の結婚」が同性婚を認める理屈がない。
「日本の結婚」は男女間のみに発生する風習であったから、憲法は「両性の合意のみ」と定義したのである。
政治上のテクニカルな手法では「憲法24条は同性同士の結婚を禁止するものではない」という解釈で「法律上の結婚」において同性婚の導入は可能であろう。
憲法改正がなければ、同性愛者はそのような不安定な立場に立たされる。
「日本の結婚」に同性婚を取り入れるのであれば、国民投票による憲法改正が必須だ。
国民投票を経れば、同性婚は日本の新たな風習として始まっていく。
時が経てば、胸を張って「同性同士の結婚は我が国の風習で、国民投票で認められている」と言えるようになるだろう。
個人的に「欧米に倣って同性婚を導入しよう」というのが気に食わない。
日本でホモフォビアが決定的になった理由は、欧米に倣ったからである。
その過ちを全く反省せず、脳死で「欧米では~」と同性婚を導入しようとするなら、それは愚かとしか言いようがない。
イスラームは2070年から2100年の間に世界最大の宗教人口となる見込みだ。
「日本の結婚」に同性愛をしっかりと組み込んでおかなければ、50年後に「世界では~」と言って同性愛を禁止するであろう。
隣人が末永く安心して夫婦(夫々、婦々とかいう呼び方になるのか? これも決めなければならない)でいられるよう、しっかりとした地盤を作っておこう。
前半では美術を知的にとらえようとした。後半は生物学がテーマ。
平安文学のマイブームが続き、続いて神林長平とヴォネガットを読み始める。
英国の貴族や執事、メイドがテーマ。なぜか田中啓文も読みだす。疲れたので脱力系を。
シオドア・スタージョン「一角獣・多角獣」
奇妙な味シリーズがしばらく続く。たまに古いSFが読みたくなる。
ブラウン神父シリーズは途中で飽きる。「聊斎志異」を読みだす。
冊数が少ないのは、中島敦全集がぶ厚いからだ。ページ数では一冊で実質三冊ほど読んでいる勘定だ。
ひたすら中国の古典を読む。物語としては読みやすいが、脚注について調べていると意外と時間がとられる。
アーネスト・サトウを除いて中国文学が続く。明治維新が一日単位で記録されていると見落としていた事実が多いとわかるし、刻一刻と情勢が変わっていったのも感じられる。。
やっと森薫を読み始める。ハルタコミックス(旧fellows!)ばっかり。
コロナで回数は少なめ。
「パディントン」
「イェスタディ」
「JUNK HEAD」★★
生物学、脳科学、歴史、SF、海外文学が多い傾向は昨年から変わっていない。
東京都立大学の宮台真司教授が何者かに襲われたという衝撃的な事件が起きた。言論を暴力によって封じることは当然許されない。強い憤りを覚える。
さて、大学構内で大学教員が襲われたという事件で有名なものは中大の事件、そして筑波大学の「悪魔の詩」訳者殺人事件だろう。
サルマン・ラシュディの『悪魔の詩』に対してホメイニ師が反イスラーム的とし、関係者に死刑を宣告するファトワーを発令し、日本語訳の訳者であった筑波大学の助教授が何者かに殺害されたという衝撃的な事件だ。最終的に迷宮入りで犯人が捕まっていない。
ラシュディも近年アメリカで襲われたりといまだに尾を引いている事件である。なおインドのムスリムとして生まれたラシュディの『真夜中の子供たち』は最近岩波文庫入りして読みやすくなり、とても面白いので是非読んでみることをお勧めする。
中大の事件が個人的な怨恨であるのに対し、本事件は明確な言論の自由、学問の自由への挑戦であるし、多くの人の印象に残っている事件だろう。
当然、学問の自由・言論の自由を守るべき大学としては語り継いでいき、定期的なセレモニーなどを通して大学として言論の自由、学問の自由を再度確認すべきメモリアルな事件である。
筑波大学は歴史が浅い大学でブランド力の弱さを気にしているらしく、前身校である東京高等師範学校、東京教育大学の権威を借りようといろいろと嘉納治五郎(師範学校教授)の銅像を建てたり、朝永振一郎を顕彰したりしている。そんなに東京教育大学が素晴らしかったというなら潰すなよ。
それはともかく、その最たるものが筑波大学ギャラリーなのだが、ここには筑波大学の「悪魔の詩」訳者殺人事件の展示・記述は一切ない。誰もが認める大学史、言論史上に残る大事件であるにもかかわらずだ。
https://www.tsukuba.ac.jp/about/campus-gallery/
秋野豊博士というタジキスタンで国連政務官として平和維持活動中に凶弾に倒れた先生の展示はある。
寡聞にしてこの秋野先生という方は存じ上げないが大事な方だったろうとは思うが、ニュースバリュー・事件の重要性を考えればここに並んで悪魔の詩訳者殺害事件で倒れた五十嵐助教授の展示がないのはかなり解せない。
遺族側と仲悪いのか?とも考えられるが、近年出た記事では遺族側は事件の風化を気にされており、大学側の顕彰を拒むとは思えない。
では、何故筑波大学の歴史からこんな重要な事件が葬り去られているのか。その答えは、近年の大学(ひいては文科省)の方針にある。
筑波大学は指定国立大学として、国から高い目標を掲げさせられている。その中で重要なKPIとして設定されているのが留学生数だ。
留学元は大抵の大学がそうである通り、アジア圏が多い。中国・韓国はもちろんだが、筑波大学は中央アジアやアラブ圏とのつながりも強く、学内でもイスラーム圏の留学生を観ることは多い。
これで答えが出ただろう。イスラーム圏からの留学生を受け入れ大学として数値目標を達成するためには、殺された五十嵐助教授は闇に葬られなければならないのだ。
本来であれば、大学として許されざるテロであることをイスラーム圏からの留学生にも理解してもらう努力をすべきだと思うのだが、その努力を放棄し大学の言論の自由と学問の自由を犠牲にして大学としての達成目標をとったということだ。
学生運動渦巻く東京教育大学を潰して、文科省肝いりで作ったトップダウンの大学である以上、仕方ないかもしれない。だけれども、五十嵐助教授が大学の短期的な利益のため大学からも葬られていることに強い憤りを覚える。