はてなキーワード: 自死とは
何で、生活の糧を得るのか。
食っていこうが、何をしようが。
欝病になって、自殺に走ったらどうしようという恐怖心が強い。
健康な身体がなければ、生きていても、無駄だよねみたいな極端な思考に陥る。
人には、死ぬ死ぬって言ってる人は死なないみたいに、言われて、傷つく。
いやほんと。
世間に出ているだけでも充分なのではって。
ほんとに、辛いってことが、言えなかったんだよな。
悲しい。
自分でも、深い深い悲しみに囚われないようにと、表面上とりつくってきたのに。
そのことを他の人は分かってくれない。
親戚や家族でも、伝えようがなかったりする。
かといって、自死遺族会へ足を運び、世の中には、こんな...悲しみあるのかっていう。
中には、半分実名みたいなハンドルネームで、辛さを書いている人もいるようなのだけれども。
昔から夢に自分の認識を頻繁に狂わされてしまうのだが、似たような仲間はいないだろうか。
何かを読んだり、考えたりしている途中でフッと瞬間的に意識を喪失して、気付かぬうちに夢でその続きを追っていることがよくある。
私の場合は意識が戻ってもまばたきをしていたかな?くらいの感覚であり、さらに戻った直後は寝起きのせいか、
ややぼんやりしているので判断力も低下しているらしく、意識を喪失していたこと自体にうまく気付くことができない。
実際に経過している時間も、数秒から長くて数分程度のようだし、下手をすると周囲の人間も私が寝ていたことに気付かない程度の時間だ。
さらに夢による疑似記憶を埋め込まれた状態なので、その間の記憶というものも自分としては明確に思い出せる状態になっている。
大抵は、続きの文章に目を走らせて、整合性が取れずにおや?となってから、今意識が飛んでいたのかなとようやく気付くことになる。
そんな調子なので、いつ自分に疑似記憶が差し込まれているかわからず、
攻殻機動隊的な感じでいくと、日々記憶や認識にランダムにハッキングを受けながら生活しているようなもので、大変に危なっかしい。
時折、夢の中で読み終えたと納得して画面を閉じてしまったりすると、
ちょっとした記事や小説なら勘違いしていても多少恥をかく程度で何の問題もないのだが、契約書やマニュアルだと高確率で後で困ったことになる。
なるべく気を付けてはいるものの、買ってきたばかりのものを組み立てながら
「次はここをひねるらしい!固いからちょっと勢いをつけるのがコツだって!」と自信満々にパーツをへし折ってしまって、
どう見ても正常ではない結果を前に、そんなバカなと慌てて説明書を見たらそんな記載はどこにもなかったとか、そういった考えられない失敗をやらかしてしまう。
結局自分の認識が信用できないので、一人で作業を進めるのはとても怖い。
なるべく説明書を開いたまま何度もチェックしながら作業を進めるとか、
少しでも異変を感じたら2秒前にチェックした項目でも行動する前に再度チェックするとか
自分を信用しないように気を付けてはいるものの、作業スペースの関係で紙に目を落としてから作業するために視線を上げたら、
もう疑似記憶が刷り込まれた状態になっていることもあるので、なかなか完璧な対策というのが見いだせない。
どうやら今ヤラれていたと気付いても、どこからどこまでが疑似記憶なのかも自分では判断がつかないのも大変恐ろしいし、その度にイチから工程を追い直す手戻りが発生する。
さらに、瞬間的な意識の喪失だけでなく、普通に寝ていたあとに寝ぼけて強烈な失態を犯すこともある。
起きるなり大慌てで支度をして、小一時間ほど鬼の形相でたこ焼きを焼いていたことがあるが、
その時は外国から久々に遊びに来る来客をたこ焼きで迎える約束をしていたのに忘れていた、もうすぐ来てしまう!
と慌てていたのだが、よく考えたら外国人の知人自体が私にはいなかった。
またこれは家族にも相談出来ていないが、パンデミックや戦争や異星人の侵攻など、世紀末な感じの夢を見て、社会が崩壊した状況にあると勘違いしてしまい、
「もうダメだ、こうなってしまった以上私が殺すしかない」と寝起きに武器になりそうなものの物色をし始めたことも実は数回ある。
パンデミックの夢を見た時に、家族が助からない病気にかかってしまっていて、
政府の出した命令によれば世帯主は責任をもって感染者を殺処分し、その後感染拡大を防ぐため自死しなければならなくなったと思い込んでいた時などは、
幸運にも家に一人の時だったので途中で違和感に気付いて正気に戻ったために実行に移すことはなかったが、正直かなり危なかったと思う。
昼間に瞬間的に寝てしまうということでナルコプレシーなどの何かの病気なんかを疑ったこともあるが、
どうも文章の先を予測出来てしまって脳が一瞬退屈を感じると瞬間的に落ちやすくなる傾向があるようなので、もしかすると私の場合はADHDがあるので、そっち由来のものなのかもしれない。
ADHDの薬で昼間の眠気が無くなったみたいな話も見かけるので試してみたいけれど、主治医はあまり重症だと思っていないようなので投薬はまだ受けられていない。
そういえば、読んでいるときだけでなく、書いているときでも頭の中に続きが思い浮かんでいると途中で寝てしまうことがよくある。
タイピングが極端に遅いということはないと思うのだが、思考速度にタイピングが追いつかない限り、待っている間にダレて寝てしまう感じというか。
元増田と増田と、どっちの言ってることも正しいし、わかるんだけど、
「無駄」ってことはないと思うなー。
自殺の可能性のある人を声掛けで助けようなんて、網で水を救うようなもん。最悪その「声掛け」が自殺に繋がることだってある。
「無駄だから気に病むな」ってんなら同意するけど「無駄だから何もするな」ってんなら違うと思うね。
ガン患者を治せる家族はいないけど、末期ガンじゃなけりゃ医者に通えば寛解するだろ。
うつ病も同じ。ただ、ガンと違うのは、孤独だとうつ病は治んないってこと。
後悔するかもしれん人に、「出来る事はあるよ」って言いたかっただけだろ。
自分自身自死遺族だから無駄ってのはわかるし、自死は寿命って僕は思ってる。
出来る事があっても、家族にその余力がないのが大半の現実だと思う。
けど、出来る事があるケースもあるよ。
クソ長いまとまりの無い文章なのに読んでコメントくださった方、ありがとうございます。時間のある時お返事させていただきたいと思います。
ちなみにうちの父は多分ですが仕事キッカケで鬱になっていた→自死。
ただ、私たち家族が、鬱になっちゃいそうだからお父さんのこと気をつけて見てようね、なんて言ってた矢先に唐突に死んでしまって、本当に鬱だったかとかは憶測でしかないし(調べたけど通院履歴とか無かった。)
本当はもっと深いところに自死に至る根があったのではないかって考えている。
急に最近忙しそうにしてる、疲れてるなとは思ってたけど、所謂ブラック企業ばりのヤバい働き方だったかというとそうとは、言い切れなかったから。
仕事はただそれを加速させた要素に過ぎなかったのかも。
でもそれでもせめてその仕事の苦しさから逃げてたら結果は少し違ってたかもとか思っていて、
だからもし皆さんの周りに、外的な要素で最近めっちゃ落ちてるなーって人がいたら、すこし声かけなどしてみてください。最近どうしたの?って。その一言でもしかしたら何か変わるかもしれない。
そして渦中のあなたは少しずつでいいから周りに何が苦しいか伝えてみてほしい。あなたが思ってるより問題は実は軽いかもしれない。あなたが気づいてないだけであなたは既に鬱になってるのかもしれない。
その苦しさの原因はもしかしたら、その仕事のミスなんかじゃなく、心の病気によるものなのかもしれない。
誰にも言えない、自分にしか解決できない、自分の死でしかもう償えないかもしれないと思ってるあなたの罪は、
本当は存在しないかもしれない。本当は周りの手助けでいくらでも変えて行けることかもしれない。
とにかく1人で抱え込まないでください。いろんな人に、話しやすい人に、ちょっとでいいからそのあなたの考えてるあなたの罪について話をしてみてほしい。それは本当に罪なの?そんなことないよ、って言う人がきっといると思うんだ。
無能な働き者は銃殺せよというのは、あくまで指揮を取る立場の人間からみた考えだ。
会社はなるたけ早く無能な働き者を解雇せよ、と言い換える事ができるかもしれない。
当然、会社に不利益であれば、他の社員も迷惑している。であれば、やめて欲しい、死んで欲しいと思うのも当然である。
しかし、自分が無能な働き者である場合、取るべき行動は他人から見るそれと必ずしも一致しない。
自分が無能な働き者であると、会社からとってみても簡単に解雇が出来るとも限らないから、すぐに自主退職すべきなのでは。と考える
どこで働いても今のままだと必ず迷惑をかけるばかりで仕事にならない。そうなると死ぬべきなのでは。と考える。
死ぬにしても、働けないから死ぬなんて程度では、もっと不自由を強いられていても強く行きている人がいるだろう。
無能であるから、脳と能がないから、正しい思考をもとに正しい行動を取ろうと自分に強いる。
しかし、正しい思考がわからない。そもそも、そんなものはあるのか。
誰が脳信号の移動経路の過程を、これが正しいものだとして提供してくれるだろうか。
思考は自分自身の力で最善を尽くす他ないからだ。思考の姿の理想を他人からコピーすることは出来ない。
存在するのはあるべき言動の姿である。あるべき姿は、優秀だと思う人、自分が真似できる範囲のものを参考にする。
同じように振る舞おうとし、失敗するのであれば、きっとそれは思考もコピーしようとしている。
自分自身で考えて、言動を人を真似ることで、単調増加的に成長する。
現状、このままだと死ぬしか無いとみなされる状態は、まだスタートラインでしかない。
ただ生きてるだけでも辛いのに、敢えてより辛い自死を選ぼうとする人の思考が全く理解できなかったんだが、そもそも死への理解が間違っていたことに最近気付いた。
可愛がっていたペットが死んだ、身内が死んだ、という出来事がなかったわけでも無いが、自分のイメージしていた死とはたとえば「入院して動けない状態」のようなものに近かったのだと思う。だからきっと、死んだらあー死んだのかーって霊魂にでもなって現世を彷徨うのだろうとか。
しかし考えてみれば、死者は自分の死を自覚できない。死を認知できるとしたらそれは死の瞬間。その瞬間を越えた後はもう、死んだということすら気付けない。
死を意識できる方法があるとしたらそれはきっと身投げなんだろう。飛び降りた人は地面にぶつかる瞬間まで生きてはいるが、同時に死んでいる。
死の瞬間さえ越えてしまえば、形の無い不安に怯えることも、孤独に震えることも、誰かを妬むことも、くだらない人間関係に苛まれることも無くなるのだから、なるほどそれは大層な救いだと思う。誰かに迷惑を掛けるかも知れないが、それを知ることは無いし心痛めることも無い。
元より悼んでくれるほどの他人なんていなかった。親ぐらいは自分の死を悼んでくれるかもしれないが、いつまでも生きているわけでは無い。
誰も悼む人がいなくなったあと、生きてる自信が無い。
発達障害型コミュ障の治し方を具体的に教えてくれるブログを読んだ。
HyogoKurumi.Scribble
http://hyogokurumi.hatenablog.com/entry/2016/03/30/003242
自分は常々、
「アスペって自分の中でトライ&エラーを繰り返して記憶してコミュ障を修正するらしい。
と思っていた。
まさにこのブログがそれ。
感想を三行で表すなら、
すごい。
わかる。
ありがとう……!
・悪意はない
・むしろみんなと仲良くしたい
という流れがあるあるでとても切なくなった。
周囲に迷惑をかけている
=自宅や職場や学校などの和やかな雰囲気を乱している自覚がある
このような場合、
→自死
つらかった。
周囲もつらかったと思う。
「生きるのはつらいことだ」と言われても納得できないくらい、つらかった。
コミュ障を治せたら、社会と普通に関われたら、自分は今より幸せだと思う。
このブログにたどり着つくまで
ヒグコハ
http://www.higukoha.com/entry/2016/06/09/172128
→ヴィパッサナー瞑想と発達障害への対処方法が近しいことへの驚き
ヒグコハ
http://www.higukoha.com/entry/2016/04/01/230955
HyogoKurumi.Scribble
http://hyogokurumi.hatenablog.com/entry/2016/03/21/025003
HyogoKurumi.Scribble
宮澤賢治のいわゆる「雨ニモマケズ」は検定教科書で出てくることが多く、やたらともてはやされてきた。しかし、「雨ニモマケズ」が宮澤賢治自身の信仰の表れであって、いわば宗教であることは、習っただろうか? 習っていないとしたら、いろいろとまずい。国家的にしれっと宗教教育をやっているということであるし、また、正しく教えていないという、まさに学力低下以前の話。
宮澤賢治がなりたかった「そういう人」というのは、ブッダである。欲は無く、いからず(瞋らず)、よく(能く)観聴きする、すなわち貪瞋痴(三毒)の無い、覚った人だ。相談を受けて廻り、調停に入って争いをやめさせる人物。なりたい姿を自ら書いて携帯することで、己への戒めにしたのである。本来の「お守り」、憶持仏のたぐいだ。
宮澤賢治には、肉食(ニクジキ)に批判的な著作がよくある。豚を主人公にしてみたり、人の方が食われそうになる話を書いたりした。農業を研究していたのもおそらくは、肉食をせずとも生きていけるからだ。
そしておそらく、宮澤賢治は、ブッダ(釈尊)に関して事実誤認をしている。史実の釈尊は、雨季安居をしている。つまり、雨季には外を出歩かず屋内で過ごしている。
史実の釈尊は、無理をするなと説いていた。しかし往々にして捻じ曲げられるもので、無理をしたり、苦行をしたりする「仏教」がつくられてしまっている。
それに、和國(日本)に届いた仏教と称するものは、中国の信仰がごちゃまぜになっていて。つまり、儒教が混ぜ込まれている。それは、中国での布教教化のために都合がいいからだし、権力者などが儒教の教義と矛盾しないことを求めたからでもあるだろう。そうして、中国では仏教と儒教が習合し、それが輸入された。ちなみに、中国の技術・文化を受容するためにも、神道も仏教と習合したり、儒教とまぜられたりして、現存する神道も本来のものではない。
ともかく、史実の釈尊も丈夫な身体はもっていたけれども、雨風に勝とうとはしなかった。
教科書にやたらと出てきて「雨ニモマケズ」がもてはやされてきたのは、いわゆる根性論、「頑張る」ということを注入するためだろう。無理をして「頑張る」ことを美化することが未だに行われ、わざわざ公的に教育されている。世(国家社会)のため、ひと(他人)のためには、己を傷めつけることも厭わない、そうした生き方がずっと美化されてきた。世のため人のために自らを犠牲にするという教条は、そもそもは儒教であり、言い方を換えれば軍国教育のようなものだ。要は、階級差別と、全体のために個を犠牲にするという全体主義である。
かように日本とかいうものは未だに政教一致国家なのだけれども、そのことに自ら気づかなかったり、気づかないようにしむけられていることは危険だし、だからこそ、社会の既成構造を優越させて変革を避け、創造性や生産性が低く、そして、自死率は高い。
すこし前に宿題が終わらなくて自殺しちゃった中学生のこと皆バカにしてたけど、私はその子の気持ちちょっとわかるよ。自死の理由は目下の宿題だけじゃあないんだよ、きっと彼は、(憶測だしほとんど妄想だけど、)そのときに限らず「計画的にものごとを進められなかった結果ギリギリになって大変な思いをした、あるいは実際に間に合わなかった」っていう経験を何度もしていたんだと思う。締め切り直前に必死で課題をやってるときって単に追い込まれて大変ってだけじゃなくて、どうして直前まで放置してしまったんだろう、どうして自分はいつもいつもこうなんだろうって50トンくらいの自己否定が上から降ってきて精神的にマジでゲロしんどいんだよね。そんなのを何度も繰り返していると次第に、みんなが当たり前にできている中学の宿題すらまともにできない自分は高校でも大学でも仕事でもずっとずっとずっとこんな調子で何ひとつ成し遂げられず周囲の人を失望させながら生きていくんだろうなっていう絶望が100トンくらいに膨れ上がって、まあ傍から見れば不確定要素の多い将来に関して中学生がこんなふうに悲観するのはまったくもってバカバカしいんだけど、でも本人にとってこれはものすごく深刻なことだから、彼の自死という選択に対して単に思慮が浅いとか馬鹿だって言葉で切り捨てる気にはなれない…ということ……
11月に父が前触れもなく急逝して、今こうして2ヶ月近く経って、
人が亡くなった後によく信じられなくてその後の生活が嘘モノのよう、とか言うけれど、
私のなかではどうも父がいた頃がむしろフィクションだったかのような、本当に父は居たのだっけ?というような感覚があってそれが
父に申し訳ないというかあまり寂しさがピンとこないのが良くないことというか、人がいなくなるのってこんな呆気ないのかとか意外となんともないのかとか、思ってしまって、
よく故人と向き合うみたいにいうけどそれって、皆どのようにしてるんだろう。
私が薄情なのかな、こんなんじゃあっという間に忘れてしまいそうで、亡くなり方だってどう考えたって不幸だったし気づけなかった申し訳なさとかあるのに、
ほんとにこんなんで良いのかな、わかんなくて困っている、
案外悲しくなくて、普通にセックスして、飯食って飲んで、二日酔いなって、父のいない家で普通に笑ってゴロゴロして、
本当にこれでいいのかなあ、ほんとはもう一年とか考えて考えて考え続けるべきなのではとか思うけど
4歳の自閉症スペクトラム児が家にいる。
一度パニックを起こしたり、ふざけはじめると、口でいかなる注意をしても全く通用しない。
子の頭を握り拳で力一杯殴らないと止まらない。
「頭は叩くな」とか「打ち所が悪かったら…」と言う人もいるだろう。
一歩外に連れて出れば、心ない罵声を赤の他人から浴びせられる日々。
我が子に人権がない事を実感させられる。
自閉症の相談をした療育機関の職員からも、「外に出すの大変なら家から出すな」と言われた。
療育機関って、結局は自閉症の子供の対応が嫌いなのだ。仕事だからやってるだけで。
数年後には小学生だが、うちは親の義務として、自閉症の我が子を学校に通わせるつもりはない。
介助員も足りない。外には出すな。
自分中心の奴らとも関わりたくない。
ポンコツ親子はポンコツらしく、自死するのが日本の為のようだ。
あぁ、生きるの疲れた。
彼女がどうして死んだのかを考えた。
事故だというが、自殺だとか自死してもしょうがないようなODによる事故だとか、様々な憶測が飛び交っている。
過去に妊娠して産めなかったんじゃないかとか失礼したんじゃないかとか、正直ひとりの女性に対してかなり堪えるような推測がまことしやかに語られてもいる。しかも「ご冥福」と書き添えて、そいつらに罪の意識なんかない。
彼女の本は2冊くらい読んだ。記事はいくつも読んでいる。美人で論理的な文章を書く人だと感じた。同時に、繊細でとても自分と近しいタイプの人たちにとても優しいとも。
自叙伝的なコラムを読むに、幼少から賢かったけれど女性で格好良い成功がしたくて、その結果好きだったサブカル方面での活動を選び成功したんだと知った。
けれど、見ていていつも「いつかはアダルトライターを脱したい」という思いをひしひしと感じた。
ネットでは賢くて高学歴で美人なのに…と色々書かれていたけど、彼女は確か6大学卒ではないはずだ。それっぽくコラムで書いているだけで実際には違うことは関係者や当時世話した大学の教授は知っている。けれど彼女がプライドゆえにどうしても大学を公表したくなく、そんな彼女をかわいがっていた教授や講師たちは静かに口を噤んでいた(がしかし、自分のゼミ生や受講生にはポロッと喋ることはあった)。
冒頭に戻るが、彼女が死んだ理由は理想の自分になれなかったからだと思う。
自殺か事故かはわからないけど、若くしての死の理由は持病を除き大抵理想と現実の相違であることが多い。
しかし、自分がなりたかった自分とは違った。目指してもなれなかった。
頑張れば将来的にはなれたかもしれないのに「もうダメだ」と見切りをつけた。
だからと言って自分の人生に見切りをつけることは、周りの人への冒涜にはならない。
自分が憧れた人生と戦うことは、想像する以上に疲れただろうと思う。
ゆっくりと休んでほしい。
今の世界が息苦しい。
みんながこぎれいな身なりをして、それなりの生活を手に入れられて、生きてることなんて当たり前で、ああしなさい、こうしなさい、なんでそんなこともできないのって、求められることばっかり。
まわりの要求や、自分の理想通りに生きられなかったら、自己嫌悪に陥ったりする。
「生きてるってすばらしい!」なんて言えるのは、バカか勝ち組か、どちらかなんだろうなって思う。
生きることは別にすばらしいことでもなんでもない。
人肌恋しくなることも、死が恐ろしいのも、生命にインプットされた本能なのだから抗えない。
生きることはすばらしくもなんともないけども、生きることに必死なのが本能なんだから、仕方ないのだ。
時々、頭脳が本能に勝っちゃって、自死する人間だっているけどね。
人生がいかに馬鹿馬鹿しいか、人間ならば自死を選んでしまうのも仕方のない話。
だけどやっぱり悲しいよね、残されるほうは。
やっぱり、生きててほしいって、思うよね。どんなに他人でも。
この件、そもそも何で黒石市が批判されなければならなかったのか、まったく理解ができないです。観光PRを目的とした写真コンテスト受賞作に、撮影の10日後に自死した人間が写ってるなんて、普通に不適切だと思うのですが。なぜって、被写体少女が自死者であることが流布されれば、自死やイジメに注視度が移って、<観光PRという本筋の目的達成が困難になる>からです。件の写真が市長賞をとっていたとして、このご時世、その被写体がイジメ被害者で自死者であることは早晩明らかになったことでしょう。「この子は祭りの10日後に自死しました」という但し書き付きの受賞作を見て、この祭りに行きたくなりますか?気にしないとかじゃないですよ。「行きたく」なりますか?僕はならないし、多くの方がそうであるなら、「多くの人に祭りを知ってもらうという賞の趣旨になじまない」という市長の発言は、まったくもって正しいとしか言いようがないではないですか。
自死者であることを理由に、祭りのPRの場<では>評価できない、とされることの、どこに故人や遺族の尊厳を踏みにじる要素があるのでしょうか。
腹が立つのは、第一に、「自死者が恥ずかしいというのか!」みたいにネットで吹き上がる人たち。祭りのPRのためのコンテストなんだから、見た人が祭りに行きたくなる写真が受賞するのが正しいんです。自死やイジメを防ぐといった大きなトピックのもと、お得意のネットリンチで気持ちよくなってる人たちには、ほんとうにうんざりします。
第二に遺族。そもそもこの件、受賞が取り消された時点で、遺族が「確かに祭りのPR<には>ふさわしくない」と市の判断に理解を示しながら、とはいえ、いい写真なのだから、娘の願いを伝えたいから、と別枠で公開していれば、誰も傷つかず、また議論が散らかること無くいじめ抑止のトピックになったはずです。なぜ、わざわざ市に敵愾心をむき出しにして、祭りのPRという場を踏みにじったのか理解に苦しみます。
もっとも、結果としては確かにPRの目的を達成するどころか、かえって自死と関連付けられたイメージが祭りに付着する、悪手となってはしまいました。しかし、それも無理からぬことです。
「祭りのPRに自死者の写真が不適切とは何事だ!(お前らの祭りのイメージなんか知ったことじゃねえから笑)」と騒ぐ幼稚な似非正義漢がこれほど多いことを。遺族がこれを好機とばかりに「娘の願い」を伝える場として利用することを。
誰が、予想し得たでしょうか。
若くして自死した女子中学生は確かに悲劇です。しかしその悲劇感の大きさに目がくらんで、地方のお祭りPRに過剰な押し付けをするべきではないんです。市長を弾劾するのであれば、教育行政のレイヤーにおいてであって、祭りのPRで自死中学生の問題を内包せよなどという批判は的外れも甚だしいのではないでしょうか。騒動がここまで拡大してしまってはもうどうしようもないですが、なぜ何も悪いことをしていない祭りが、自死とともに語られる存在にされなければならなかったのか。「黒石よされ」という祭りをPRしようと、努力をされてきた方々の悔しさを思うと本当に心が痛みます。遺族は辛い状況でしょうからあまり責められませんが、少なくともネットリンチで快感を搾取している連中は猛省すべきと思います。
若者の自殺のニュースがあるたびに湧いて出てくる、「もう二度とこんな悲しいことが起こらないようにという大義名分をかかげて自分の主張を押し付けようとしてくるひとたち」
人の自死を利用してる卑しい行為だって気づいていないから、あんなにも堂々としていられる。
本来なら、「人が自死を選んだ。悲しい。ただただ悲しい」でいいはずなのに、そこからさらに踏み込んで「社会はこうあるべき、世の中はこうあるべき、じゃないと人が死ぬ。俺の主張は人が死ぬのを防いでやってる崇高な行為。という大義名分がある自分の主張の押し付け合い」が始まるのをみていつも悲しくなる。
そう言うと決まって「いやいや、尊い人の死をもってしてシステムの警鐘があったのだから、そこは改善しないと。彼らの死を無駄にしないためにも」みたいな反論がある。それこそが大きな間違いだ。
間違ったこれによって得られる未来は、「自殺しようか迷っている人に対して、自殺によって社会をいい方向に変えられるという後押し」でしかない。
「人の自殺にかこつけて自分の主張を押し付けようとするひとたち」は、「人の自殺にかこつけて自分の主張を押し付けようとする害悪」のみならず、自殺しようか迷っているけどぎりぎり踏みとどまっている人の背中まで押してしまっている。この汚さに気づいていないから、あんなにも堂々としているのだろう。
君が自殺したら、悲しい。ただただ悲しい。君が死んでも、世の中なんてよくならないし、だからこそ、ただただ悲しいんだ。
人の自殺にかこつけて自分の主張を押し付けてよっているだけの声の大きい汚い人間のいうことに、どうか惑わされず、君の悲しみはみんなにとってのただただ悲しみの中にあるということを忘れないで。
サラリーマン生活ですっかり忘れていたが今問題になっている広研に入っていた。
悪さはしなかった。それなりに規律があったので報道を見ていると正直違和感がある。
今は変わってしまったのかもしれない。あのころは楽しかった。多少派手な奴もいたが普通の学生の範疇だったと思う。
マスコミから写真を抜かれるのでFBからステータスを消せというローカルな連絡だけ来る。
特に電通はえぐい苛めの話をよく聞いた。だが、そのうち給料も上がって仕事も楽になる。辞めはしないんだろうなと思って聞いていた。あいつらはそれなりに勝ち組だった。
世の中の比率はわからないが、たいした数でもないサークルの同期はすでに二人自死している。心を壊して行方知れずになった奴もいる。
だが、生まれつきなのかなんなのかとんでもなくタフな奴もいる。普通に死ぬほど仕事して、実家の仕事手伝って、更に同期もまとめて、子供三人とか。
まあ、自分は第一線で働いている奴らからすると、取るに足りない仕事をしている。それしかできなかった。
格差が激しいのが空しくなりもう何年も誰とも会っていない。
最近分相応という言葉をよく考える。人間を生き物だと思う。晒されるプレッシャーに耐えられる奴だけが、場を与えられて、生き残っていくのだろう。
先週からぼんやり考えてきたんだけど、結局、お金の悪いところは消えないってとこだよなあ。
誰かの手にあるお金は経済的な活動を通して他者の手元に移動する。個人の感覚では「手元から消える」けれど、お金側に立った視点で見れば、消えない。移動しただけだ。世界にあるお金はどんどん旅をして(移動を繰り返し)、消えたりしない。それどころか信用創造で増えたりする。それが20世紀の経済発展の原動力になってきたのは確かなんだけれど、コントロールするという視点に立つと、消えない、不死である、不滅であるってのはすごく厄介だ。
自然界にあるものは何でも時間が立つと消えていく。放射能だって、老人だって、消えていく。だから「問題が起きたら耐えて時間経過を待つ」って戦略が取れるし、多分これって生物生存の基本戦略なんだと思う。お金は、そこの「消える」ってシステムが基本構造に組み込まれてないので、災害が起きると手がつけられない。消すためには誰かが買い取って(まあ国だよね)燃やすしか無いわけだけど、それって非情にコストが高い&即時性がないわけで、制御手段としてはいまひとつだよなあ。
100年後の世界は「死ぬお金」で社会が運営されてるんじゃないかなあ。
追記:バブルの崩壊を、「生態系を破壊するほどに増殖したお金が適正規模を回復するために行う自死行為」って見立てる研究って、誰かやってるんじゃないかな。