はてなキーワード: 倫理学とは
タイトル通りの内容について話していく。
日本ではシュレディンガーの猫と並ぶ有名な思考実験であり、それと比べて随分と簡単な内容なのに本質を理解している人が少ないように感じたのが書こうと思ったきっかけである。
まずトロッコ問題の具体的な内容なのだが…説明するのが面倒なんでwikiからコピペしてくる。
線路を走っていたトロッコの制御が不能になった。このままでは前方で作業中だった5人が猛スピードのトロッコに避ける間もなく轢き殺されてしまう。この時たまたまA氏は線路の分岐器のすぐ側にいた。
A氏がトロッコの進路を切り替えれば5人は確実に助かる。しかしその別路線でもB氏が1人で作業しており、5人の代わりにB氏がトロッコに轢かれて確実に死ぬ。A氏はトロッコを別路線に引き込むべきか?
なお、A氏は上述の手段以外では助けることができないものとする。また法的な責任は問われず、道徳的な見解だけが問題にされている。あなたは道徳的に見て「許される」か、「許されない」かで答えるものとする。
というものなのだが、ようするに5人を助けるために1人を殺すか、何もせずに5人を見殺しにするべきか?という2択から選べというやつだ。
まぁ先に結論から言ってしまうと、これは「功利主義」か「義務論(カント主義)」どちらを支持するか?という倫理学の問題である。
倫理学にはいくつかの流派があって、その中に「皆が幸せならそれでいいじゃない」という考えの功利主義と「正しいことは絶対正しいんだよ!」という考えのカント主義が存在する。
功利主義では「1人が死んでも5人が助かるなら幸福の総量は多いんだからそれでいいじゃない」と1人を殺して5人を助けるほうが正しいと考える。
逆にカント主義では「他人を目的のために使ったりしてはいけない」と考えるので、結果的に5人が死のうがそれを助けるために1人を殺すのは悪だと考える。
ようするに功利主義が正しいと思うのなら分岐点のレバーを引いて1人を殺し、カント主義が正しいと思うのなら何もせずに5人を見殺しにするという至極単純な問題なわけである。
くだらない議論だし、功利主義は「最大多数の最大幸福」という基本原理を掲げてるだけでそれが正しいという根拠はないし、カント主義はカントというドイツのおっさんが「目的のために他人を利用するな!」と言ったからそれが正しいとされてるだけで、その正しさにも根拠はない
ただ日本には義務論的な土壌がないので、直感的に5人を助ける方が正しいと答える日本人が多いと思う。
どっかの高校の教師が授業中にトロッコ問題を出して、とある一人の生徒がカント主義の考えを主張したら冗談だと思ったという冗談みたいな話がある。
これを昔、授業でやったら「なぜ助ける必要があるのかわからない。俺は傍観者だから放置して5人が死んでも責任はない。でも切り替えたら俺の責任になる」と言った生徒がいて衝撃を受けた。確かにその通り。「5人の人に感謝されるメリットよりも、1人の遺族に責められるデメリットの方が大きい」と。 pic.twitter.com/BU9tmtMnMU— とある高校教師S (@hellohellock) April 11, 2019
彼はひねくれていたから敢えて俺を困らせようとした可能性は濃厚だけど、彼が本気でそう思っていたのかはさておき、そういう意見が出てくる授業というのは「良い授業」だと思う。周囲も衝撃を受けていたけど、どう受け止めたのかは未知数。それが良い点であり怖い点でもある。授業はまさに生き物だ。— とある高校教師S (@hellohellock) April 11, 2019
仮にも大卒の教員が問題の意義も知らない上に、それを生徒に出題するなんてアホだと思うが、それだけ「トロッコ問題」という名前だけが独り歩きして本質が理解されていない例だと考えている。
ちなみにこのトロッコ問題に関連する事柄があって、5人を助けるために1人を殺しても許される。と考えるならば「5人の臓器移植しないと助からない患者のために、1人の健康な人を殺してその臓器をそれぞれ5人に移植しても許されるはずだ」という論調が存在する。
トロッコ問題では「1人を殺してでも五人を助けるべきだ」と直感的に答えた人の数が多かったとしても、臓器移植の問題になると罪悪感を覚えるのか、五人の為に1人を殺そうと考える人が急激に少なくなる。
トロッコ問題も臓器問題も「多数の幸福のためならば少数の犠牲を厭わない」という功利主義の原理は同じなのだが、前者と後者で人間の善悪の判断は変わってくる。それはなぜだろうか?
と、このように「功利主義」と「カント主義」どちらを支持するか?でなく、その根拠になる人間の善悪や罪悪感の基準はどこにあるんだろう?といった話に繋がる思考実験なのである。
心理的安全性という言葉はGoogleが掲げていることで有名になった。ではGoogleに真の心理的安全性は存在するのか。
Googleが「カースト差別」に関する講演をキャンセル、「私たちの職場にカースト差別は存在しない」と広報担当者は主張
https://gigazine.net/news/20220606-google-cancelled-talk-caste-bias/
現代世界に残る最大規模の差別はヒンディー教のカーストであることは誰もが認めるところであろう。Google社内でカーストについて語ることはご法度になっている。真に心理的安全性があるのであれば昨今流行りのDiversity and Inclusionイニシアチブとしてカースト制度は積極的に批判されるべきであるが誰も問題にしない。アメリカや中国の問題ではないからである。
インドのカースト差別は深刻で海外に移り住んでもつきまとってくることがある。例えばGoogle社長やMicrosoft社長はインド人だが彼らはカースト最上位のバラモンである。カースト最下位の人達がこれらの会社の社長になれるだろうか。なれないだろう。彼らがカースト差別を批判しているか?していない。アメリカ企業で勝ち組となったインド人はそもそも特権階級であることが多くインドの差別問題を訴えるインセンティブは皆無である。彼らは現在アメリカの白人のように特権階級であるとして迫害されることを恐れている。アメリカであれば有色人種のマイノリティとして美味しい汁を吸うことができるためそれに甘んじているのだ。世の中は偽善で溢れている。
Google、中の人の「女性は生まれつきエンジニアに向かない」文書回覧で社内騒然
https://www.itmedia.co.jp/news/articles/1708/06/news034.html
"Google’s Ideological Echo Chamber"という社内文章でGoogleが違法な逆差別を行っていることを示し問題点を指摘した文章である。この文章を書いた人物は解雇された。心理的安全性が真にあるのであればGoogleは真っ当な批判に真摯に向き合うべきであった。GoogleはAI倫理学者も解雇したが彼女はヒステリックであった。この文章は彼女のヒステリックな主張に比べると幾分かはまともな主張であり皆がこっそりと気付いていることを文章にしたものである。米国では雇用の際に性別や人種をもとに差別を行うことが禁じられている。逆差別も本来は違法であるが大きく問題になることは少ない。Googleは違法であることを知っているので隠れて雇用トレーニングを行っていると著者は主張している。
Google’s Ideological Echo Chamber
https://s3.documentcloud.org/documents/3914586/Googles-Ideological-Echo-Chamber.pdf
TL;DR
- Google’s political bias has equated the freedom from offense with psychological safety, but shaming into silence is the antithesis of psychological safety.
- This silencing has created an ideological echo chamber where some ideas are too sacred to be honestly discussed.
- The lack of discussion fosters the most extreme and authoritarian elements of this ideology.
- Differences in distributions of traits between men and women may in part explain why we don't have 50% representation of women in tech and leadership.
- Discrimination to reach equal representation is unfair, divisive, and bad for business.
さてそんなGoogleであるが女性社員の給料を意図的に少なくしていた。口で言っていることと実際にやっていることが異なる。
どうして他人が私にした仕打ちを、私は他人にしてはいけないのか、ということについて、自分なりに納得したいと考えています。参考になる哲学・倫理学の分野や書籍はありますか?
私は30代の会社員です。 職場で短気な上司に当たっては、「態度が気に入らない」「失言をした」などの理由でみんなの前で怒鳴られたり、ゴミ箱を蹴られたり、ライングループで叱責されたりしてきました。冷静に考えてパワハラではないかと思いますし、その上司らの情緒がおかしかったと思いますが、「お前が悪いから怒鳴られても仕方ない、お前を変えるためだ」と正当化され、そのたびに何とか自分を納得させてきました。
さてそんな私も中間管理職になり部下を持つようになりました。部下のほとんどは、私に言わせれば、かつての私と同様に、態度が悪く、失言も多いです。かつての私だったら怒鳴られていたと思います。でも私はなんとなく、怒鳴らないようにしています。
しかし時々、ものすごく苦しいです。どうして自分が他人に怒鳴られたり威圧されたりすることは正当化され、納得しなければならなかったのに、私は他人が悪い場合にも他人を怒鳴ったり威圧したりしてはいけないのでしょうか。
「なんとなく」怒鳴らないようにしていますが、何で私はゴミ箱を蹴るのを我慢しなければならないのでしょう。蹴っていいのかな。いややっぱりだめだと思います。だめなことは分かりますが、理由が分かりません。
つまり、どうして自分が他人にされたことを、他人にしてはいけないのでしょうか。 悪いことならしてはいけないのは分かります。でも相手が悪ければ、どんなに怒鳴ってもいい、というふうに正当化された話だったはずです(私を怒鳴った人たちはそういう態度でした)。なぜ私は、悪い部下を怒鳴ってはいけないのでしょうか。 もしくは、やっぱり怒鳴るのは悪いことだったとして、かつて他人に正しくない、悪いことをされ苦しんだのに、どうして自分は他人にその同じ悪いことをしてはいけないのでしょうか。どうして他人は私を虐げてよい(よいかどうかはともかく実際虐げた)のに、私は他人を虐げてはならないのでしょうか。
・児童虐待を受けて育った子どもが、自分の子どもを虐待して罪に問われる
・いじめ被害を受けた子どもが、非行に走り、加害者になる なども同じ構造ではないかと考えます。なぜ人間は自分にされたひどいことを他の人間にしてはいけないのでしょうか。
この問題について自分なりに考え、納得したいのですが、参考になる哲学や倫理学の分野はありますか? 「なぜ人間は自分にされたひどいことを他の人間にしてはいけないか」という問いについての答えや皆様の持論を伺いたいのではなく、自分で勉強して考えて納得したいので、そのヒントとなるような学問分野を教えていただけるとうれしいです。
誰かを傷つけたり叩いたりするつもりはないけど
あとマイノリティに優しくしたいとかではなくて、誰かを好きになるってどういうことなの??という、なんというか倫理学?美学?みたいなことを知りたいので、増田でやることにしました。
ちなみに倫理や美学に詳しいわけでもない。学のない俺に教えてくれ。
性的マイノリティって性自認と性指向の2つの考え方があると思うんだけど(wikipediaにもそう書いてあった)、性自認は自分のアイデンティティであって、必ずしも身体的な性別と一致しないよね。
その一方で性指向は相手の身体的な性別を主な問題にしているように感じるんだけど、この2つの要素は性的マイノリティという概念を考えるに当たって適切なのか?
まず性自認が女性の男性が別の男性を好きになるとして、その人はヘテロなの?ゲイなの?
誰かを好きになるというのが身体性な行為ではあれば性自認に関わらず同性愛者だし、精神性な行為ものであればヘテロ?それともそもそも彼我のどちらにおいても身体は好意に関係ないのだろうか?
別の疑問もあって、例えばゲイ(と自認する)男性が、身体は男性だが性自認は女性という人を愛するとき、その人はゲイなのだろうか?
この状況自体は当然ヘテロの人間にも起こりうる話なんだけど、そのときにヘテロの人は「(今までヘテロだと思ってたけど)もしかしてゲイなのかもしれない」と考えることはあるんだろうか?
もちろんトランスジェンダーが好きだって人もいるだろうけど、見た目で明らかにわかるわけじゃないし、知り合って話して相手がトランスだとわかった途端に好きになるっていうのも(ありえるかもしれないけど)人を好きになるってそういうことなの??
とっちらかってしまったけど、性自認が自身のアイデンティティ、言っちゃえば自分の気持ちを大事にしているのに対して、性指向が相手の体を対象にして考えているように見えてとても強い違和感があるんだよね。
表現の自由って実は2種類あって法学的な意味での「表現の自由」と倫理学的な意味での「表現の自由」があるんだよ。
具体的な例を出すとヘイトスピーチは法的な意味での「表現の自由」に照らすと何も問題がなく自由おこなえる(規制法もあるが、あれは国家がヘイトスピーチを無くすように努力することを決めた理念法で人々がヘイトスピーチをすることについては触れてすらいない)。一方で倫理学的にはヘイトスピーチは反対派と賛成派がおり、必ずしも自由におこなえるものとは言えない。ヘイトスピーチの例のように法学的なものか倫理学的なものかで同じ表現の自由でも全く内容が変わってしまう。
今回の個人間での表現の自由の侵害がありうるかというのも法的な意味か倫理学的な意味かで変わってくる。
法学的な「表現の自由」では基本的に個人が表現の自由を侵すことはあまり想定されていない。一方で倫理学的な「表現の自由」では個人が侵害することは想定されておりそれの是非に対する議論も存在する。
てっきり平安時代あたりの宮殿を守る兵士とかから生まれたとか妄想してたわw
あ~しらなんだ♪しらなんだ♪
柔道創始
1874年(明治7年)、育英義塾(後の育英高校)に入塾。その後、官立東京開成学校(後の東京大学)に進学。1877年(明治10年)に東京大学に入学した。東京大学時代には中村正直や三島中洲に漢文学を学び、渋沢栄一の経済学の講義を受け、またアーネスト・フェノロサの薫陶を受けその指導の下、政治学、理財学(経済学)、哲学、道義学(倫理学)、審美学を学ぶ[3]。また1878年(明治11年)には漢学塾二松學舍(後の二松學舍大学)の塾生となる[4]。しかし育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。当時は文明開化の時で柔術は軽視され、師匠を探すのにも苦労し、柳生心眼流の大島一学に短期間入門するなどした後、天神真楊流柔術の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。この時期の話として、「先生(福田)から投げられた際に、『これはどうやって投げるのですか』と聞いたところ、先生は『数さえこなせば解るようになる』と答えられた」という話がある。
1879年(明治12年)7月、渋沢栄一の依頼で渋沢の飛鳥山別荘にて7月3日から来日中のユリシーズ・グラント前アメリカ合衆国大統領に柔術を演武した。8月、福田が52歳で死んだ後は天神真楊流の家元である磯正智に学ぶ。
1881年(明治14年)、東京大学文学部哲学政治学理財学科卒業。磯の死後、起倒流の飯久保恒年に学ぶようになる。柔術二流派の乱捕技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作る。
1882年(明治15年)、下谷北稲荷町16(のちの台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁・将棋から段位制を取り入れ講道館を設立した。
結局「絶対悪ではない」と言いたいのは合ってるんだよな、それは「何か理由があれば許される」と言ってるということだが、どう考えてもそうはならない
いや、なるよ。絶対悪ではないとはまさにそういうことだよ
ちなみに昨日もはてサが「どうせお前らだってスターリンやポルポトを評価したら発狂するだろー」みたいなこと言って藁人形と戦ってたけど、当然ながら発狂する必然性はまったくなくて
「個人の信条としてはスターリンやポルポトを悪だと思っており、少しも肯定したくないこと」と「論理的にはスターリンやポルポトですら絶対悪だとは断定できないこと」は両立する
現実の話をするなら中国共産党は今でも自国の「ジェノサイド(※他国視点)」を「治安維持のためだから仕方ない、絶対悪ではない行為」だと吹聴しているし、数億人の中国人がそれを信じている(と思われる)
アメリカによる広島人の虐殺行為だって、さすがに最近は善とは言いづらくなってるかもしれないが「戦争終結のためだから仕方ない、絶対悪ではない行為」と考えられていたりするだろう
善悪はイデオロギーによって容易に変わりうるし、現代ですら各国の間でコンセンサスはとれてないわけ
だから善悪を語るときには「ある時代のある集団における善悪」という留保をつけることが必須で、「この対象はイデオロギーにかかわらず”絶対的な”悪だ」と断言するのは極めて難しい行為なわけ
はたして普遍的な善悪が存在するか?という議論は哲学や倫理学が千年以上かけてやっていることであり、理論武装もなしに安易に拝借しても一瞬で切り捨てられるのがオチ
個々の史実研究の議論にとどめておけばよかったのに、「絶対悪」などという歴史学にはない言葉をカッコいいと思って無理に使うから泥沼にはまる
女性学(じょせいがく、英: women's studies; 仏: études féminines)とは、第二波フェミニズムから生まれた新しい学問領域であり、従来の男性中心主義的な学問の客観性・中立性を問い直し、これまで度外視または過小評価されてきた女性の存在、経験、問題・関心を顕在化、言語化、理論化し、これによって従来の知の体系の脱構築を目指す幅広い学際的研究である[1]。
領域としては社会学、人類学、法学、経済学、地理学、倫理学、文学、歴史学、哲学など従来の人文・社会科学の各領域に個別にまたは分野横断的に関わる学問であり、女性史研究、音楽・アート・映画・メディア等に関するフェミニズム批評、さらにはケアの倫理、エコフェミニズムなど新たな概念が提唱されている。
anond:20210301102544 LGBTを嫌う自由はあるのか、に対する b:id:muchonov 氏の意見 anond:20210302093544 について、
結論に関しては同意しなくは無いものの、やはり倫理学的にみてロジック部分に引っかかる部分があったので指摘 & 自分の意見を書きます。
マジョリティがマイノリティーに対する嫌悪を公開することを悪的行為としているが
そもそもマイノリティーがどっからマイノリティーなのか、というのは実は非常に曖昧ですよね。
日本においては男女の人口比は 49:51 なので この論だと「男は嫌い」という意見も差別ということになってしまいますよね。
(もちろん、はてぶで見る過度なブコメはまずいと思っていますが)
そもそもマジョリティもマイノリティーも切り取るコンテキストによって大きく立場が変わりますよね。
前述したように切り取るコンテキストによって勾配の傾きは変わる以上、ロジックとしては非常に危ういんですよね。
何より、その理屈でいえばマイノリティーがマイノリティーに対する嫌悪は問題ないということになるのでは。
ゲイ本人が自身のもつ特性に嫌悪感がありそれをもって「ゲイの人間はクソだ」と言うのは問題ないんですか?
むしろその属性が持つ本人がいうことにより、偏見が社会的に強まりません?
表現をするものの属性のみによってその表現の道徳性が変わるのは倫理学的におかしいですよね。
だから社会的少数派へ嫌悪を表明してはいけない、というロジックはいささか問題ありますよね。
内心で嫌う自由はある。マジョリティに100%保障されたその自由を、存分に享受してほしい。それって、すごい特権だと思わないか? だってマイノリティにはさまざまな社会的抑圧や差別によって、内心ですら自分自身を100%受容・肯定することがままならない人達もたくさんいるんだぜ
まるで性的マイノリティは内心の自由すら無いような表現だけど余計なお世話。
本当に余計なお世話。
なんで他の人と違うんだろうとか自分が受け入れてもらえないとか悩むけど、その悩みがあることと内心の自由の権利の有無は別の話。
社会的抑圧のせいで自分の性を肯定できないでしょ、って言わんばかりの上から目線というか。
マイノリティーだから内心の自由が制限されているはず、という id:muchonov 氏の意見の方が内心のあり方に関する干渉にしか感じられない。
そこは人によって違うし性的にマジョリティであっても様々な要因でうまくいかない人もいるはず。
(突き詰めていくと自己決定はどこからか、という話になるんだけどそれを言い始めると全ての人に話がおよびますよね)
もちろん、嫌いの公言の仕方にもよります。なんらかの先入観や偏見を伴った言説を元に嫌いだとか排斥運動するのは
あと、「LGBTを禁止する社則/校則を作って欲しい」とか言ったりするの。
でも、そうーいうのをさけ、「男のくせに女の格好しているのは嫌いだ」とかの話は
ただ、この日本においてはTVのバラエティ番組などでLGBT、
というか特にホモセクシャルは面白おかしく扱われ、自分の性的指向を公開することをためらわせる
exclusive な流れがあった/ある、ということはご理解いただけると思います。
「私たちはあなたたちがこの社会の中で当たり前に存在することを許さない」という価値観の表明で、それは彼らに対する抑圧に直結する
とまでは言う気は無いものの、やはり結構きついものがあります。
なのでできたらやめて欲しいのです。
これを強制するつもりは無いですし、なによりできないでしょう。
何が言いたいかというと、あなたがLGBTを嫌いであったとしても敬意を持って欲しいということです。
敬意持って欲しいとは偉いと思ってくれってことではなく、僕もあなたと同じように仕事をしたり、遊んだり、
日々いろんな悩みを持って駆け回ったりしていて
ただ性自認があなたの想像と違うだけでそれ以外はほとんどあなたと同じ人間である、ということを認めて欲しいということです。
本来、多様性やダイバーシティとか言われることの根幹はそーいうことですよね。
だから、id:muchonov氏の元増田の考えを悪と断罪する考えは同意しませんし、
マクドナルドの二階、階段から一番近い席で、おれはポテトをパクつきながらスマホをいじっていた。
その奧、壁際の席ではおばさんが二人、向かい合って談笑している。
おれの席からはその姿が嫌でも目に入る。
階段を上り切るその瞬間、少年は最後の一段につまづいてバランスを崩し、飲み物をトレイから落としてしまった。
床に広がっていくコーラ、直立不動で固まる少年、少年を見つめるおれ。
少年と目が合い、数秒間見つめ合う。
「え、こぼした。飲み物めっちゃこぼれてる。え、助けた方がいいのか、何してんのトレイを一旦横の回収棚かテーブルにでも置けばいいんだ、助けるっていっても出来ることないよな、外国の子かな、ナプキン余ってるから拭いてやるか、こっち見てる、二枚じゃたいして吸えない、いやそこまですることないだろ、なに固まってるんだ、棚に置いて店員呼びにいけばいいのに」
時間にして3,4秒。咄嗟のことで何も出来ず、ただ頭の中でぐるぐる思考を巡らすおれ。固まるおれたち二人の間に奥の席で談笑していたおばちゃんの一人が割り込む。
「あらあら〜、もう一回店員さんのところに言ってこぼしちゃったって言っといで!たぶん新しいのくれるから」
「優しいわね〜、やっぱり子どもがいると違うわね」
ということが先程起こったんですが、おれの情けないことと言ったらね。
なんであそこで動けないのか。優しさを発揮する前に「でもそこまでする必要があるかな」とか余計なことを考えてしまうんだよな。
少年がマスクをしていて表情が読めなかったとか、落としたのがハンバーガーだったら拾ってやったけど飲み物はもう拾えないし特にしてやれることがなかったとか、このパターンは初めてで戸惑ったとか言い訳じみたことは色々思いつくものの、おばちゃんの方が立派だよね。人として。
自分が行動を起こす妥当性というか「これ、おれが助ける必要があるか?一人でなんとか出来そうじゃない?」とか一旦考えてしまうんだよな。優しさなんてその原理からして妥当性を超えたところにあるんだから、余計なこと考えずに助けてやればいいものを。とりあえず近付いて「大丈夫?」とか声を掛けてやればいいものを。
もし、飲み物を零したのが自分だったら、即座にカップの残骸を拾って捨ててトレイ一旦置いて店員さん呼びに行くから、なんで子どもが何もしないで突っ立ってるのかマジで理解できなかったんだけど、中一ぐらい?ってあんなもんなのかね。どうしていいかわかんないものだったっけ。お兄さんもう覚えてないや。
しかも、その時スマホで見ていたのが倫理学の講義のレジュメだっていうのが、また情けなさを引き立てるよね。「医師は、重度の知的障害者を持った新生児が命を落としかけていた場合に、両親が望まぬ手術を施すべきか」なんて問題を医者になる予定もないおれがうんうん考えてる暇があったら、もっと現実的な問題に目を向けろ。「マックで飲み物をこぼした少年を助けるべきか」を考えろよ。知行合一でないと。頭だけでっかちでも仕方ないんですよ。実践経験のない現代っ子はこれだから困る。
でも本当に子どもと関わる機会なんてゼロだからね。どこで実践なんて積めばいいんだ、という話でした。少年はトレイに新しくもらった飲み物を乗せて、今度は転ばずに階段を上り切り、それじゃおばちゃんまで届いてねーだろってぐらい小さい声でボソッとお礼言ってました。おわり。
https://twitter.com/tm2501/status/1356865620206186496 と連続するツイートの
主張を箇条書きにしてみると、こんな感じだろうか
原:何度も言ってるけど、「社会学と哲学は真理の探求や再発見を目的とした学問じゃないことが問題」なんですよ。
訳:社会学や哲学は、真理の探求や再発見を目的とした学問に見えず、問題であると感じる。
訳:社会学や哲学は科学ではない。「議論に参加するまでの難しさ」や「成果を示すこと」によって、大衆を納得させることができないからである。
→意味不明。主張者が科学の一般的な定義について理解しているのかは不明。
原:だから個人的には哲学は歴史学や倫理学の一部ぐらいに(以下略)
訳:社会学や哲学は、真理の探求や再発見を目的とした学問に見えず、問題であり、また、社会学や哲学は科学ではないから、哲学は歴史学や倫理学の一分野として扱うべきだし、社会学は民俗学、経済学又は心理学の一分野として扱うべき。
→意味不明
訳:国家機関(官公庁)に例えてみると、不法行為を取り締まるのは、基本的には警察である。
但し、法律で定めのあるものについては、公正取引委員会、麻薬取締官、労働基準監督署、国税庁や消費者庁等所管が違う場合があ(って、一見ややこしく見え)る。
原:「ややこしく見える」は控えめな言い方で(以下略)
訳:哲学者や社会学者は、自らの学問のみでなく、周縁の学問についても深い学識を有すべきだが、そうした訳でもなく、自らの狭い理解で物事を語ろうとしており、問題である。
→前の主張とどう繋がっているのか、いまいちわからない。また、実例が挙げられないので、有効な主張としては取り扱えない。
訳:国家機関(官公庁)で言えば、被害額の多い事件等、ある種の犯罪については、警察とは違う官庁に取り扱わせようというのは、合理性があるから、納得できる。
訳:しかしながら、社会学や哲学は、現代において重要性が低く、また独立した一ジャンルとして扱う必要・合理性は認められない。これが世論の見解である。
→理由や根拠が示されないので到底同意はできないし、それが世論であるとは言えない。
以上