はてなキーワード: のりをとは
そういう僕も考えた最強のメソッドが早期に実現してくれれば良いんだけれど。社会的には治療無し対策なしの空白の期間を作るのってあまりよろしくないんじゃないかな。
今の精神科医が完璧でないのは同意だけれど、現状成果のある場合もある(だから医療と認められている)わけで。元増田の医者無能説は現状と合ってない感じがする。
他の病気と違って、精神病の重傷者が他人に危害を加える可能性がある、というのは問題視されるかもしれないけれど精神病患者のほうが犯罪が多いという説は、犯罪統計などで繰り返し否定されている。精神の病気がある程度知られているからこそ、救済できたのでは、という観点から報じられるけど、逆に治療の見込みがなければそもそも論じられず、生活保護受給者で困窮してやけになったと報じられていただろう。
長い道のりを覚悟するのなら、完全新規でなく、現状の医療の延長線上でも構わないと思うよ。新しい手法含めあらゆる手は考えられないといけないけど、既存の医療を否定する必要はない。あるいは医者をあきらめて、さっさと全員座敷牢送りにしてしまうとかだね。
今この時点で医者が直せないこと、元増田によれば社会の救済対象でもない
と考えを真に受けると、手詰まりに思えてとても鬱だな…。
そのためにはまずいま「専門家」とされている精神科医が全くの無能であることを認めるしかないし、その地位と医療保険チュウチュウの利から彼らを放逐すると共に、あらたな対処メソッドを一かは開発してその専門家を養成する長い道のりを踏む覚悟をもつことだ。
みたいなアホ発言を踏まえてですが?
医者は科学的に手法が確立した手法でやるだけであって、科学的に手法がないものはない。
作れるものならお前が作れと言ってるまで。
深夜、日課のやけ酒をしていると酒が切れていることに気がついた。
俺はいつもこの瞬間が大好きだ。深夜特有の雰囲気と冷えた空気、それをゆったりとしたペースで身体に受けながら、暗い住宅街を抜けてコンビニまでの短い道のりを堪能する。
そんな道中の話。
道路の歩道の出っ張りのところで一人の女が座り込んでいた。その女は驚くような薄着でただただ力なく座り込んでいた。
暗くてよく見えなかったが、缶のブラックコーヒを片手にどこかを眺めていた。
俺はその女を横目に通り過ぎて目的地に向かった。
コンビニでもその女のことを考えた。
「何かあったのかも」
「ただ涼んでいるだけかもしれない」
「あんな薄着で」
酒を買いながら一通り考えて、コンビニを出る頃には腹が決まった。
「まだあそこにいるなら、今度は話しかけよう」
いないことを願っていたが、女は変わらずそこに座り込んでいた。
俺は女の前で自転車にブレーキをかけた。この自転車はオンボロ。ガタガタ言いながら、すこし女を通り過ぎて自転車は止まった。
女は身をぱちくりさせて俺の顔を見た。自分自身に緊張する隙を与えないように、すぐに話しかけた。
「大丈夫ですか?」
女はなんとなく、すこし笑みを浮かべて力なく首を横に振った。そうか、と思って俺は無言で自転車を家の方向に進めた。
その日は家に帰っても酒は飲まなかった。だけど数日ぶりによく眠れた。
お前の「見える」なんか知ったこっちゃねーよ。そういう風にできてんだよ
幸福追求権。
非モテのそれを無視するなら、女やほかの人の幸福追求権も無視されて当然だよね
例えば・・・・・・「お前のケツに液体のりを入れても良いか?」って聞かれたとしよう。
それでお前が断ったら
生物として全く不必要で、そういう風に体も出来てないことを要求する奴はキチガイだし、
これが例えになってると思うお前もキチガイ。
誰だって大切なのは「自分の居ない未来」よりも「自分の今」だ。
誰だってそうだろうが。
人と一緒に何かをしたいと思うのであれば、お互いの同意が必要なのは当たり前だろ。
セックスしたいんだったら、相手の合意を得ろ。上手く行かなきゃ次探せ。
セックス自体、「男の加害行為」に見えるんだよ。入れる側だしな。
非モテの権利?知るか。セックスする権利なんて何処にも落ちてねぇよ。
動物世界、分かるだろ?「強いオスだけが良いメスをゲットできる」それに変わりねぇよ。
例えば・・・・・・「お前のケツに液体のりを入れても良いか?」って聞かれたとしよう。
それでお前が断ったら
「俺の気持ちを蔑ろにしている!人権侵害!」って言い出すキチガイみたいなもんだ。
世界で配車サービスを展開するUberに関して、今回たまたま使う機会があったので諸々書くことにする。
知ってる人にとってはn番煎じって感じだろうが、個人的にまとめたいので書く。
海外ではUberに登録することで、アプリ一つで配車サービスを利用する客にもなれるし、バイト感覚で運転手にもなれるようである。
いわゆる白タクというやつで、プロではないタクシー運転手に任せることで安価に利用できるらしい。
一方国内では白タクが法的に認められていないため、普通にプロのタクシーの配車サービスとなっている。
Uberのサービスは、調べたところ都内では使えるが、プロの配車サービスなので普通のタクシー使った方が安い場合が多い、らしい。
今回自分が利用したのは兵庫県淡路島で行われていた試験運用のUberタクシーである。
自分はとある事情で最終バスが終了した状況で淡路島に取り残されてしまったので、Uberで淡路島から本州側まで移動した。(淡路島でUberが利用できるのは知らなかったので非常に驚いた)
利用した感想としては、以下が挙げられる。
アプリについてだが、国内で電話でタクシーを呼ぶのと比べて、非常に便利である。(当然?)
まずアプリのUIはスマホ上に地図が表示され、自分の位置と近くのUberタクシーの場所を表示し、大体何分くらいで配車できるか教えてくれる。
ここでポイントなのは地図上のピンでも、あるいは自分のGPS上の位置でもどちらでも配車場所を指定できる点である。
GPSで指定すれば移動しても大丈夫だし、ピンならば容易に離れた待ち合わせ場所を指定できる。
加えて、運転手と客の評価システムがあるため高評価の運転手で安心できたし、運転手も安心できる。また、評価をもとにした運転手の性格(社内の会話が多い等)が表示されるため、運転手に話しかけていいかなどがわかりやすい。
Uberタクシーを利用する前に普通のタクシーを電話で呼んだが、タクシーが空かずなかなか来てもらえなかったためキャンセルしたので、この点でUberはかなり良かった。
値段についても前の電話のタクシーに聞いたものと同様の値段であったため、特別高いということはなかった。
地味に驚いたのが、高齢のドライバーがタブレット端末の地図アプリを使って運転していたことである。
この地図アプリはUberと連携してアプリで指定した目的地までの道のりを示してくれるのだが、高齢であるのにも関わらず新しいテクノロジーを使いこなしているのは驚いた。(偏見か?)
ちなみに淡路島におけるUber実証実験は外国人観光客の増加目的で淡路島側は受け入れたのだが、全然外人がこないためむしろ日本人の若者が利用してるらしい。
面白い取り組みだと思うし、自動運転が好きな自分としては、自動運転タクシーにつながるであろうUberには頑張ってほしいと思っている。(色々やらかしてはいるが)
アーケードまたはオンラインでの初心者向け対戦型格闘ゲームを考えた。
究極には「トレーニングモードの"2プレイヤー操作"を追加する」という案に至った。
それがアーケードなら、対面する人たちで変えられる遊び方の多様性が優位になる。
検証だかスパーリングだかで詰める方向も、または気の知れた同士でガチャガチャ操作してみる入り口も、どちらもあると思う。
数分間の1クレジットを2人で共有する遊び方。
どうやらオンラインの"2プレイヤー操作"は、いくつかのタイトルで存在しているらしく、それを知らない自分自身の不足もあらわになっている。
さて、アーケードと比べて、顔の見えない相手の優位は何になるだろうか。
印象で浮かんだのはCo-opモード。
トロフィーあたりをぶら下げて、ランダムマッチの2人で協力して、ミッションだかトライアルだかチャレンジだかの課題を次々と、を導線に。
なんと全課題クリア(できなくても)のおまけには対戦もできてしまう。
いずれにせよ、ゲームそのものを変える必要はなくて、対戦に至るまでの上達を、ひとつひとつ確認させるか錯覚させることだと思う。
数年前に見入り浸っていたネット上の対戦風景と、道のりを担っていたマイナーなタイトルの初心者講座配信を思い出しながら。
郡山は雨だ。
文字通り真っ暗な車窓に、水滴が張り付いている。
少しでも遅れると困る。このまま大宮まで在来線を乗り継いでいかなければならない。
グーグルからの通知で、宇都宮から遅れているとの情報を受け取る。
日付が変わる頃には家に着いていたい。
土曜の7時過ぎ、平日なら都内の方面へ向かう大宮駅の在来線ホームにいるはずだが、この日は打って変わり、新幹線ホームにいた。
金曜の夜のうちに、鳴子温泉の宿を取っていた。
昨晩熟睡できたおかげか、頭はすっきりしている。
少なくとも午前中には宿に着いてしまう、余裕を持ちすぎた旅程だった。
出発の5分前に新幹線は入線した。構内のブックエクスプレスで買った本を読みながら発車を待つ。
雪が降っていた。
西口のペデストリアンデッキの隅々には黒く汚れた雪がそこかしこに避けてあった。
本来なら、鳴子温泉にまっすぐ向かうのであれば、古川行きの特急券を用意するのが一般的だが、気分の変わりやすい私は、なんとなく先のことを見越して仙台行きでやめておいた。
別に、仙台から東北本線、陸羽東線を乗り継いで行っても問題ない。
また、結果的にその通りになったのだが、仙山線に乗り迂回しながら鳴子温泉にも行ける。
コートのポケットの中には行き先指定の乗車券ではなく、乗り降り自由の周遊券が収まっている。
これでふらふらと時間の許す限りどこまででも行ける。
雪を見たら必ずどこかに行きたくなる。
仙台に降った雪にそそのかされ、仙山線で山寺を目指すことにした。
山形県境を超えると、雪が濃くなった。
車窓には白色が占める割合が高くなり、車輪が雪を踏みしめる音が聞こえる。
私は学生の身分から社会人になったが、仙山線のこの風景は何も変わってはいない。
立石寺までの道のりや、参道の茶屋の雰囲気、何もかもそのままだ。
昔のことを考えていたらなぜか気恥ずかしくなり、1時間半滞在した後、すぐに山形方面を目指した。
あの頃は、貧乏学生で新幹線なんて使えず、全て鈍行での旅程だった。
駅前では旅館のおかみさんがボートを手に掲げ、待っていてくれた。
一晩お世話になる宿は、とても素晴らしいものだった。
なによりも、お湯が最高であった。
鳴子の湯は、湧き出る箇所によってその特色が全く異なる。
今回の宿は、これでもかというほど白く濁りきり、硫黄の匂いで脱衣所どころか、宿全体が溢れていた。
2階建てですべてが和室。こたつにストーブ。更には湧き出る源泉の温度を利用したヒーターが備えてあった。
夕食後は湯に浸かり、酒を飲んで、気付くと朝を迎え、あっという間にチェックアウトをしていた。
かつての震災。実家が青森の私は、知っておくべきことではないかという観念があった。
整然としている。真っ先に思い浮かんだ感想。
列車の中で見た女川までの車窓は、やはり想像していたとおりだった。
復興の力とはすごいものだ。震災直後の町の有り様は、詳細には私にはわからないが、一つだけ言えるのは、さっきまで見ていた車窓とは全く異なっていた、ということだ。
これこそが活気だと感じた。
だか、確実にここには人が住んでいる。そういう気分にさせた。
私はその後、今日何度目かの温泉に浸かり、土産を買い、ただの観光客という身分でそこにいた。
観光客でいられるということは、よく考えてみれば、それはもう立派な町だ。
間違いなく東北は立ち直ってきている。一部分の一瞬を切り取っただけを見た私が言うのは甚だ軽薄で軽率であるが、そう思わずにはいられなかった。
一年前、仙台から鈍行で東北本線を上ったことがやけに懐かしくなり、私は300km超の道のりをゆったりと列車に揺られている。
残りの時間は少し眠ろうと思う。仙台で少し買いすぎてしまった酒がもう底を尽きた。
なんとまあ奔放で堕落した2日間だっただろう。
スティックのりのスティックには『棒』という意味の他に『くっつく』『貼り付ける』という意味が掛けられている。少なくともWikipediaにはそう書かれているが、出典が示されていないので世界で最初にスティックのりを作り出したというPritt社のホームページを見てみる。
Since 1969, Pritt Stick is the ideal clean, quick and accurate way of sticking paper, cardboard and photos. ...
http://www.prittworld.ca/en/consumer/about-pritt/products/glueing/original-pritt-stick.html
中途で入った会社だけど勤務年数もだいぶ長いし、上司からなんか気に入られてるのもあってか、管理職にならないかと言われた。
自分としては給料もちょっと上がるし、立場良くなったらいろいろ動きやすいかなーと思ったし。
本当はプレイヤーとしての道を極めたかったけど、自分の部署の中で管理職向いてそうな人間は誰かと言われたら確かに自分かもしれないとその時は思ったので、受けることにした。
で、管理職になったのを機にもともと支店にいたのを本社に異動になったのだが、この本社がすごい問題だらけだった。
・それによってみんな残業時間が月60〜80時間くらいになってる。
・そもそも人が育てられていない。教える立場にいる人間が忙しくて後輩を見れていない。
・ていうか、そもそも本社を管理していたはずの人が全く管理職としての仕事をしてなかった。
・案件数やスケジュールを管理するツールが何もなく、現状の把握すら出来ていなかった。
ざっと言うとこんな感じ。
本社は忙しいとは聞いてたけど、こんな状況とは知らなかった。
もともと本社にいた管理職の人が現状を支社と共有してなかったし。
知ろうとしなかった私も良くなかったけど。
で、自分がこの中に入っていろいろ変えようとしているんだけど、これがめちゃくちゃしんどい。
・みんなが抱える案件数が異常なので、自分も実務に回らざるを得ない。
・特殊案件を処理できる人も限られてるので、自分もやらないといけない。
・ので、管理職としての仕事をする時間がなかなか取れない。目の前の仕事で精一杯。
・みんなが安心して相談できるよう常に機嫌良くいるけど、元はただの根暗野郎なので、笑顔でいるのがしんどい時がある。
・管理職の中でも下っ端なので、管理職としての雑務が回される。
・チームの中には年上の先輩もいるので、気を使う。
・支社に助けてもらったり、外注を入れてはいるが、そもそも管理すべき案件が多過ぎて管理しきれない。
・その中で業務改善しろと言われる。しなくちゃいけないのはわかるが時間が取れない。
気が付いたら、毎日23時くらいまで残業し、休みの日も仕事をしてる。
どんどん自分がすり減っているのがわかる。
休めばいいって言われるけれど、みんながんばってるの知ってるから休みたくない。
辞めればいいって言われるけれど、この会社のこと基本的に好きだし、一緒に働いてるみんなのことが好きだから、なんとかしたいって思うから、辞められない。
でもこのままではあと1ヶ月もしない内に自分が先に潰れる気はしてる。
だから何とかせねばと思ってる。
今までだったら「無理でーす!!」って悲鳴を上げたらそれだけでもいいんだけど、管理職だから「無理です!だからこうしてください!」までの道のりを自分で考えないといけない。
今週、上司に一応それを相談するつもり。うまくいくといいんだけど。
本当につらいなー。
プレイヤーのまま「忙しいのは管理職のせい!」と人のせいに出来る立場の方が楽だったな。
裁量は増えたけど、今の私には使いこなせていない。
あぁ、頭がぼんやりするな。
もうすぐ昼休みが終わる。
しがないサラリーマンなので、1人で30分以上の道のりをタクシー移動とかまずない。
「急いで届けてくれ。先に金は渡すから領収書もらってこい」と送り出された。
うちは営業が多い会社なので、社の前には常にタクシーが何台か待機している。
「〇〇ビル、分かりますか?」「当然分かるよ。私はお宅の会社の人を運んで15年だからね」
人懐っこくおっちゃんが笑う。
そんなにタクシーに乗ったことがある訳ではないけど、タクシーの運転手も色んな人がいる。
自分もそれなりにおしゃべりした。
おっちゃんが、うちの会社の人を15年以上運んでいるのは本当みたいで、
「かつて、おたくの会社の営業はタクシーチケットを束で持っていたもんだよ」
「あー!タクシーチケット、自分は1回しか使えた事ないです!」
「あと、前は〇〇駅近くのビルにも人を運んでいたね」
「自分が入社したての頃は研修で行きました。今もあるらしいんですが、役割が変わったんですよね。」
おっちゃんは、話し上手聞き上手を自称していたが、確かにそうかもしれない。
自分の知らない、外から見た会社の姿がちょっと見えて、話はそれなりに盛り上がった。
次第に話は、会社のことを離れ、どこそこの土地の飯が美味いだの、葬式の話だのになっていった。
「いやさぁ、若い頃は年金とか分からなかったけど、貰い始めてみるとありがたいもんだね」
「あぁ、なるほど」
自分は、あまり年金に期待できない世代なので、曖昧な返事になってしまった。
おっちゃんは寂しそうに続けた
「でもさ、年金だとか色んな補助とかどんどん削られていくんだよね。国は年寄りに死ねって言っているみたいだよ」
凄く凄く悲しそうな声音で言われたそれを聞いて、自分ははっとした。
「それ、働き盛りの世代でも、似たようなことを言っているんですよね。
そっか。年寄りとか若いとか関係なくて、日本って国全体が貧乏になっていってるんですね。」
でも大学に回すお金は減らすのに、高齢者の人材活用にお金回すとか、
自分はこれまで、まだ日本には使えるお金が残っていて、その使い道をお年寄りを優先するような政策になっているってなんとなく思っていた。
でも多分。何よりも一番の原因は全体が貧乏になっていっているんだなぁって、妙にストンときた。
まだ、残った富を優先的に回してもらっていると思っていた世代が「俺たちに死ねって言っているようだ」と思ってしまうくらいに
残ったパイは、自分が思っていたよりも小さくなっていたんだなぁ。
鶴見俊輔の指摘するような、自分にとっての根源的な問いを問い続け、応答し続けることなのだろう。
鶴見俊輔は、生きることを通してその根源的な問いを生きることと、それを場当たりの適応の問題にすり変えて生きることを分けている。
根源的な問いを生きることは、たとえば不登校になった当事者が、「不登校新聞」に関わり、自分がインタビューしたい人をインタビューしていくことで、「正しい答え」を見つけ、そこに抵抗しなければならないと思っていた自分から解放されていくといったようなことに現れていると思う。彼はその後編集長になり、自分と同じように当事者のインタビュアーを育てている。
どうしようもない生きづらさや圧迫があり、そこから抜け出ていくためには、彼は「自分がどうして生きるのか」という根源的な問いに応答して生きる必要があった。そしてその問いへの向き合いは、彼に逆に強みをつくり、彼自身が生きていく力を増大させ、やがては彼と同じような苦労を抱える人たちに一つの回復の道のりを提供することになった。
『不登校新聞』編集長に聞く。挫折から始まる「私」の人生について
https://www.huffingtonpost.jp/bamp/not-going-to-school_a_23515108/
鶴見は以下のように言う。
ー
自分の傷ついた部分に根ざす能力が、追い詰められた状況で力をあらわす。自覚された自分の弱み(ヴァルネラビリティ=vulnerability)にうらうちされた力が、自分にとってたよりにできるものである。正しさの上に正しさをつみあげるという仕方で、人はどのように成長できるだろうか。生まれてから育ってくるあいだに、自分のうけた傷、自分のおかしたまちがいが、私にとってはこれまでの自分の道をきりひらく力になってきた。 鶴見俊輔『教育再定義への試み』
ー
一方、誰もが根源的な問いを「生きねばならないのか」と考えてみたとき、向き合いをした人はそれに相当する強い生きづらさの圧迫があって、そうせざるを得なかったという側面を無視できないように思う。誰もが根源的な問いにつながれるわけではない。「順調」に生きれば生きられるほど、根源的な問いの力を利用するよりも、その場の適応を優先するほうが生きやすい。
根源的な問いまで追い詰められるということは、世間一般的には「恵まれない」ことであるし、そこから抜け出ることは保証されていない。途中で力つき、倒れる人もいる。
根源的な問いを問うて生きることは、あるべき姿なのではなく、そのような状況に追い込まれた人が自分を救っていく手段としてあるのだと思う。
自分とは過程を生きる存在であり、世界や社会を変えられなくても、ある地点からある地点までどのように向かうかというあり方を選ぶ可能性は残されている。
日曜日の昼下がり。外は冷たい風が吹いているけれど、部屋の中は暖房を強く効かせているのでまるで春のようだ。Tシャツにホットパンツ。だらけた格好のまま休日を過ごす私は、クッションを胸に抱き込むように腹這いに寝転がって、あろえのコミュニケーションブックを調整していた。
コミュニケーションブックには、イラストに言葉を添えたカードがたくさんファイルされている。自閉症は言語能力に障碍があるかわりに、視覚から認知する能力は強い。口で言って解らないことでも、絵や文字にして目から読み取れるようにすれば比較的容易に伝えることが出来る。だから、こうして言葉を視覚化したものをファイルにして携帯し、いつでも参照出来るようにすることで、日常の言語能力を支援しようというのがこのコミュニケーションブックのねらいなのだ。
まだ慣れない頃は、他人に開いたページを見せながらカードを指さして意図を伝えていたけれど、いま彼女はカードを自分で見て言葉を組み立てて話せるようになっている。
使っているうちに、どうしても足りない言葉や、あっても使わない言葉というのが出来てくる。それを見つけるたびに、学校の先生や、深沢君がメモにして教えてくれる。私はその意見を参考に、あろえがよりストレスなく会話が出来るようにブックの中身を構成する。それは、彼女自身はもちろん、私も含め周囲の人間のためでもある。
ガラス越しに差し込む太陽の光が素肌に当たって温かい。あろえは、大好きなキラキラのついた、金や銀の色紙で輪飾りを作っている。部屋にクリスマスの飾り付けをするのに使うのだ。
静かで平穏な昼下がり、私はカードを握りながら、気が付けば傍らの携帯電話を見つめてしまっている。クリスマスイブの予定が空いたのなら、早めに月島君に連絡したほうがいい。こんな山奥の田舎町とはいえ、いや田舎町だからかもしれないが、人の集まるところはすぐに予約で一杯になってしまう。早く決めなくちゃ。第一それが礼儀というものだ。変にもったいぶるのは失礼に当たる。
いや、まて、いつのまに私は一緒に出かけるのを決めてしまってるんだ。大体、一緒に出かけていったとして、何をするというのだろう?
色々余計なことを考えてしまって、どうも、顔が熱くなってしまう。いやだなあと、思う。
「はい」
「私は困ってしまいました」
「はい」
「私はクリスマス出かけるかもしれないんですよ」
「はい」
「はい」
「相手は昔からの知り合いなんだけれど、二人で出かけるなんてはじめてなんです」
「はい」
「私の話なんか聞いていませんよね」
「はい」
言うなり、あろえはそれまで熱中していた色紙とでんぷんのりを放り出して、すっくり立ち上がった。あんまり現金な態度に、私はあきれるのを通り越して失笑してしまう。
あろえにコーヒーを、自分にはジュースを、そして向かい合って食卓に座っている。彼女は皿にあけたクッキーには目もくれないで、カップに集中している。このところあろえは一時期よりはずっと穏やかになってるし、クリスマス当日はいつも面倒を見てくれている深沢君もいる。きっと私がいなくても大丈夫だろう。となれば、結局、私が行きたいかどうか、が問題なんだな。
本当にどうすればいいんだろう。いや、答えはわかっているのだけれど、それでも迷っていた。
行こう、と決めたのは結局翌日の月曜日になってからだった。会社の帰りに月島君を追いかけて告げると、彼は驚いてから嬉しそうに微笑んでくれた。私が店の予約を気にすると、心配しないで当日を楽しみにしてくれればいいと言った。
その日私は新しいコートとブーツを買った。
https://www.saibunkan.co.jp/lechocolat/soft/ka_swan/images/preswan.htm
エスパーしちゃうと、あなたは最終的に息子さんの挙動が落ち着いて欲しいと思っているんだと思う。
けれども、そこまでの過程がいろいろな理由で見えてこない。いろいろな理由ってのは息子さんの挙動がひどいとか、旦那さんが協力的でないとかそういうこと。
そしてその理由にばかり目がいって、あなた自身が何を望んでいるのかも見えなくなっている。というより、何を望んでいるのかは自明過ぎてかえって認識に登ってないというか。
だから、まずしっかりと考えて、自分の望むゴールを認識する。それが一番難しいかも知れないけれど、でも逆に言えばそれさえわかればあとはどうにでもなるよ。道は一つじゃないって言葉の意味がそれ。
で、それがわかったらそのゴールに到達するために何をしたらいいか考える。もし何のアイディアも出なかったら、自分はこのゴールを望んでるんだけどどうしたらいいかわからないから一緒に考えて欲しい、って旦那さんに助けを求める。
もし旦那さんが助けてくれなかったら、なぜ助けてくれないのか考えて解決する or 他に頼れそうな人を探す、という具合に道のりがまた見えてくるから。
こうやって増田に文章にすることもできているんだから、多分ゴールはもう無意識にわかっててそれへの道のりを探している最中なんだと思うよ。