はてなキーワード: ヴァルネラビリティとは
大学のハラスメントを看過しない会というツイッターアカウントは、bioにもあるように「早稲田大学文学学術院元教授の文芸批評家からハラスメント被害に遭った原告A /深沢レナとその支援者からなる団体」であり、無記名ツイートは深沢氏本人によるものであるという。
先週末にこのアカウント(無記名なので以下深沢氏のものとみなして進める)が「ブラック団体」という言葉を用い、それに対して差別的な用語だという指摘がなされるという一件があり、そこから支援者を巻き込みつつ揉め事的なやりとりが5日間にわたって続いている。
いろいろと対応、お待ちください。
健康や生活や家庭を壊してまでやらなきゃいけない活動なんか、絶対ブラック団体になるから。
これは自分も常に気を付けなきゃいけないなって思う。
https://twitter.com/dontoverlookha1/status/1657404178275377157
常識的に考えれば「勉強不足で使ってしまいました。ご指摘ありがとうございます。以後気を付けます」で終わる話なのだが、深沢氏本人が「なぜこんな大変な思いをしている私に配慮せずそんな指摘をするのですか。それが本当に正義なのですか」というようなことを長々と言い続け、支援者たちも「大変なあなたはわるくないよ」「これいじょう深沢さんを傷つけるのは控えていただけないですか」と群がり、とはいえ指摘した方もそう反撃されて収まるものでもなく、今に至っているようだ。
でもこういうのは、やはり「勉強」しなくては知りえないわけで、毎日、裁判やその他もろもろの加害によって、その「勉強」の機会も時間も奪われているわたしからすると、それを奪っている側の方に、あらゆる加害行為をまず止めるよう尽力して頂きたく思います。
https://twitter.com/dontoverlookha1/status/1658009876482891776
わたしが大変な日常についてどれだけ発信しても、励ましの声をくれるわけでもない。活動支援してくれるわけでもない。普段交流があるわけでもない人が、突然、リプで「それは差別です」とだけ指摘し、その問題について詳細に説明する手間もかけないの、ほんとにそれは「人権意識の高い」行為なのか?
https://twitter.com/dontoverlookha1/status/1658417437589786627
支援者の一例
横から失礼します。深沢さんがおっしゃられているとおり、mamegomaさんがおっしゃっている内容に対する応答はすでに深沢さんの過去のツイート(https://twitter.com/dontoverlookha…)によってなされていると思いますので、どうか深沢さんをこれ以上攻撃するのをやめていただけませんか……?
https://twitter.com/hydropunk_2019/status/1658520258309931009
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のか、なぜか深沢氏は「トランス差別反対」にまで疑問を呈する事態に。
今回執拗に叩いてきている人たち、トランス差別反対を掲げている人が多いような気がするんだが、これはなぜだろう?
https://twitter.com/dontoverlookha1/status/1658481316260884482
また、彼らは「トランス」という括りでトランスの人たちの考えを単一化しているため、それ自体がトランス差別になってしまっているわけだけど、その点はわかっているのかな……。
https://twitter.com/hydropunk_2019/status/1658988608190300161
下記のTweetは、「傷ついた」「恐怖を感じる」などヴァルネラビリティを全開にしたコミュニケーション手法が持つ限界を象徴しているように思う。
ちょっと頭回らなくなってるんですけど、わたしのツイートご覧になってるのなら、わたしが今日どういう一日を過ごしたかもご存知ですよね? あなたのRTやリプはこちらの痛みや疲弊に対して全く配慮がなく、正義感が先立っていて、恐怖を感じます。このようなやり方で、差別がなくなると思うのですか?
https://twitter.com/dontoverlookha1/status/1658511719982043137
深沢氏は被害者として感情が揺れ動くことがあり、それをTweetで綴っていくので支援者たちは見過ごすことができず逐一なぐさめの反応をしなければならない。
鶴見俊輔の指摘するような、自分にとっての根源的な問いを問い続け、応答し続けることなのだろう。
鶴見俊輔は、生きることを通してその根源的な問いを生きることと、それを場当たりの適応の問題にすり変えて生きることを分けている。
根源的な問いを生きることは、たとえば不登校になった当事者が、「不登校新聞」に関わり、自分がインタビューしたい人をインタビューしていくことで、「正しい答え」を見つけ、そこに抵抗しなければならないと思っていた自分から解放されていくといったようなことに現れていると思う。彼はその後編集長になり、自分と同じように当事者のインタビュアーを育てている。
どうしようもない生きづらさや圧迫があり、そこから抜け出ていくためには、彼は「自分がどうして生きるのか」という根源的な問いに応答して生きる必要があった。そしてその問いへの向き合いは、彼に逆に強みをつくり、彼自身が生きていく力を増大させ、やがては彼と同じような苦労を抱える人たちに一つの回復の道のりを提供することになった。
『不登校新聞』編集長に聞く。挫折から始まる「私」の人生について
https://www.huffingtonpost.jp/bamp/not-going-to-school_a_23515108/
鶴見は以下のように言う。
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自分の傷ついた部分に根ざす能力が、追い詰められた状況で力をあらわす。自覚された自分の弱み(ヴァルネラビリティ=vulnerability)にうらうちされた力が、自分にとってたよりにできるものである。正しさの上に正しさをつみあげるという仕方で、人はどのように成長できるだろうか。生まれてから育ってくるあいだに、自分のうけた傷、自分のおかしたまちがいが、私にとってはこれまでの自分の道をきりひらく力になってきた。 鶴見俊輔『教育再定義への試み』
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一方、誰もが根源的な問いを「生きねばならないのか」と考えてみたとき、向き合いをした人はそれに相当する強い生きづらさの圧迫があって、そうせざるを得なかったという側面を無視できないように思う。誰もが根源的な問いにつながれるわけではない。「順調」に生きれば生きられるほど、根源的な問いの力を利用するよりも、その場の適応を優先するほうが生きやすい。
根源的な問いまで追い詰められるということは、世間一般的には「恵まれない」ことであるし、そこから抜け出ることは保証されていない。途中で力つき、倒れる人もいる。
根源的な問いを問うて生きることは、あるべき姿なのではなく、そのような状況に追い込まれた人が自分を救っていく手段としてあるのだと思う。
自分とは過程を生きる存在であり、世界や社会を変えられなくても、ある地点からある地点までどのように向かうかというあり方を選ぶ可能性は残されている。