はてなキーワード: 対応とは
いまの市役所って働いてる人ってトータルで言うと並の民間以上に腰低くて親切なんだけど、ゴミ袋貰いに行った際に対応してくれる環境局のオッサンだけなんか違うんだよな。タメ口で雑
@analfella0721
今日はうちの店でバイトが粗相してカウンターの中で叱責してたら、カウンターで飯を食ってたメガネをした気難しそうな弱者男性が少し吃ったカン高い声で
「人前で叱るな。雰囲気悪くて飯がまずなった」
そこで、千円程度の安いラーメン屋に居心地の良さとか求めるなよ。
居心地の良さを求めるんだったら、もっと高いホテルのレストランとかに行けよ
お前みたいなカスハラマンがいるからただでさえ雰囲気悪い店がもっと雰囲気悪くなったわwって論駁したったw
弱者男性さんは顔を真っ赤にしてそのまま顔をふせて店を出てった
丼もカウンターの上に戻さなかったし常識ないんだろうなあって思った
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5/04 23:26
いきなり本格的な広告管理ツールを作るためにデータベース設計するのではなく、最初は簡易的なプレーンテキスト形式の設定ファイルで管理するところから始める。
そうすれば当面の間はその簡易機能で対応できるし、対応の速度も早い。
広告管理のスケールが大きくなってきたと感じたところで広告管理のCRUDを設計するのでも遅くはない。
ただし、このアプローチを採用する際には、将来的にデータベースに移行することを見越した設計をすることが重要。
具体的には、設定ファイルの形式を選択する際には、データベースに容易にインポートできる形式を選ぶこと、また、データの整合性を保つための適切なバリデーションルールを設けることなど。
本当は美容院でやったほうがいいんだが、行きつけがカット専門店(1000円カットよりもうちょいオシャレ寄りなところ)なので眉は対応していない。
長さを揃えて眉間の繋がりと周りの産毛っぽいところを剃ったらいい感じにくっきり眉毛になった。眉毛は境界を作ることが大事。
使ってるのは貝印のGroom!という眉トリマー。コンパクトで使いやすいので初心者でも失敗しにくい。SchickやパナソニックやPhilipsや果ては俺達のオーム電機まで出しているが、正直どこでもいいと思う。
IT業界で、昔はSESで働いていて、大手によく客先常駐していた。どこも大手ばかりでノウハウはしっかり蓄積され、設計書なども充実していた。
SESを脱退し、そこそこ大手のIT企業の正社員になれた。しかし、そこはこれまでのSESで客先常駐していたような企業とは違い、あまり体制的には良くはなかった。
工数管理は基本中の基本であり、やらないIT企業はなかなかないだろう。しかし、当社は違った。
1日に何をしたのか、報告の義務はなく、ただ作業していればよかった。
工数管理とは、案件ごとに工数管理のための番号(工数番号)を振り、さらにその工数番号ごとに要件定義、基本設計、詳細設計、実装/単体テスト、結合テスト、総合テスト、などのサブ番号に分割して、工数を登録することである。
さらにセキュリティ教育などは個々の案件と無関係なことが多いので、維持管理用の工数番号が振られていることもある。
リリース後のトラブル対応なども工数を消費するので、それ専用の工数番号などもあったりする。
さらに、日々の工数を詳細に記載する日報のようなものも導入しているところが多く、どの作業に何時間作業したかを15分単位などで記載する。
工数管理のいいところは、作業をサボりにくくなることだ。作業効率が客観的に見えてしまうため、現実を突きつけられ、もっと頑張らなきゃ、と思う。
工数管理のだめなところは、とにかく面倒くさいことだ。当然だが、工数管理を行うための工数、は工数管理には入力できる枠はない。が、確実に無視できないレベルで工数を消費する。あとトイレなどにつける工数などもない。
しかし、活用されておらず、形式上だけ数字さえ入っていればそれでいい、というものだ。
その形式上すら煩わしいらしく、若手の意見をバリバリ言う人から、
・工数管理は全く意味がない。適当な工数を入力していても誰もチェックしていないのか、何も言ってこない。
・工数管理をしっかりすれば、1日に働いた時間がわかるのだから、勤怠システムは不要である。工数管理システムと勤怠システムを一本化すべきだ。
などの意見が出ていた。
そりゃあ工数管理が根付いてない企業に工数管理を行えばそうなるでしょう。
工数管理は業務に結びつくものではなく導入メリットは明確には測れない。しかし、めんどくささは圧倒的だ。
結果、工数管理システムは完全に廃れ、入力すらしなくても誰も何も言わなくなった。
つまり、当社はよく言えば従業員の意見が通りやすい、悪く言えば従業員のわがままが通ってしまう企業なのだ。
従業員の意見を尊重し、押し付けをせず、それぞれのルールを重んじる。良いことであるが、それでは業務は改善できない。
これまでもそこそこやれてるのだから、それを無視して新ルールを導入しても、組織が壊滅する可能性が出てくるだけだ。
工数管理は基本中の基本だ。どこもやっている。それすらも当社は従業員のわがままが通ってしまうのだ。
(まあ当社の工数管理はテキトーだからダメだったのであって、もっと厳密に管理して、日報なども義務化すれば、これまでサボってた社員もサボれなくなり、結果的に業務は改善していたと思うが。)
PDCAはPlan, Do, Check, Actionの頭文字を連ねたもので、つまり、まずは予定(Plan)ありき。予定がないと実行(Do)はしてはいけない。
実行した後は必ず振り返り(Check)を行いなさい。
当社もPDCAの概念はあるし、週報という形でそれを実現している。
しかしその概念は根付いておらず、週報以外ではPDCAは無視している。
つまり当社は、まずは実行があり、計画は立てることは必須ではない。多くの人は計画を立てない。
振り返りも当然実施しない。実行のみがある。Do, Do, Doである。
これは作業者レベルでそうであるし、案件レベルでもそうだ。案件はたしかに最後には振り返りの資料を作成する必要がある。しかし、これは単に作成しなきゃいけないから作成してるだけで、綺麗事をまとめた振り返りである。
本来は、まずは理想を語り、次に現実を語る。しかし当社は、過去をグダグダ言っても仕方ない、と理想を一切語らず、現実のみを語る。しかし振り返り資料には上司受けするような荒唐無稽な対策が記載される。
当社は、作業の前には計画ありき、などの文化は全く根付いていない。優秀な人間でも根付いていない。
私はただの平社員なので、それらについて指摘はできない。指摘したところで「じゃあどうするの?」と詰められて終わりだ。指摘するなら十分な資料の作成と具体的な対応策の準備、そして責任と人を動かすカリスマ性が必要だ。私にはそれらを準備してまで無駄に頑張る気はない。
と書かれていた。
本来は、業務改善は個々のチームだけの問題ではないので、上層部でマニュアル化してルール化すべきではないのか?
アイデアは個々のチームから出してもらっても良いだろうが、それを取りまとめて全体で取り組ませるのは上層部の役目ではないのか?
それをなぜ、個々のチームに依頼する?
業務改善といえばマニュアルの作成や設計書フォーマットの作成だ。
それは能力の低い人でもマニュアル通りに作業することで能力の高い人と同等の仕事をできるようにするためである。
しかし、当社はマニュアルを作る習慣はない。自分用のメモは作るが、維持管理に使えるマニュアルは誰も作らない。
フォーマットがあるだけで記載漏れがかなり減る。考慮漏れも減る。作業が具体化されるからタスクも細分化して記載できる。
当社には推奨するプログラミング言語はなく、推奨のフレームワークもない。
これらが共通化されていれば、開発者がいろいろなチームに参加しやすくなるし、別のチームの有識者に相談しやすくもなる。
こういった業務改善は本来は上層部が率先して枠組みを作るべきだ。しかしやらない。
上層部に知識がなく、やるとしたら雑な仕事しかしないから、やられると逆に困るのだが。
当社はとにかく従業員の声が大きい。強い。
業務改善などの施策を出しても、従業員が納得しないと続かない。
そういう文化を変えるのは並大抵のことでは出来ない。
環境が変われば人は変わるだろうが、そもそも環境を変えるには人を変えないといけない。だから変わらない。
仕事が回らなくなり死にかければ変わるかと思ったが、たぶん変わらない。
仕事の仕方を変えるくらいならきっと死を選ぶだろう。それくらい変わらない。
2024/05/15 10:48
工数管理すべきなのは、成果物ではなくサービスを提供する人なのかもしれない。例えばPMなど。
当社の開発チームは、開発者やPM以外にも、君必要なの?何やってる人なの?打ち合わせには参加してるけど、ただの工数食い虫じゃね?みたいな人もいるのです。
メゾンときわ台というのは住宅相談員の鈴木が、小さいものが好きなのかしら、といった感想で、糞らぼに待機していたよびのりの親戚のキーポイントの嶋田と協議して、令和4年4月11日までに
済ませることにした建造物である。郁子は、アパートに住むとぞ、と言っていたが、入居時に、消防司令補の佐藤正雄がゴキブリを入れていた。検討期間は長期に及び、実質的には、
令和4年2月28日の富澤佳代子のシェアハウス経営閉鎖から優に4か月後の入居であった。延岡への一時帰省に引っ越し代6万円、4か月後の引っ越しに6万円で合計12万円を
かけての大移動であった。敷金礼金は230066円であり、合計で35万円の出費のため、それまでの預貯金は、100万円前後を推移していたが、このころに、預貯金が、概して60万円
以下を推移するようになった。令和4年6月8日引っ越し時点で早速にも増田の糞らぼの指令により、付近の空き地と公園に行くような強制があり、当時、空き地をみせにいったはずでその部分だけを
人工知能に記録しており、それ以外の荒川河川敷での活動は警察官の人工知能に記録しており、本人の前野町での活動としては記録していない。CWはただちに小俣に変わり、ここから先は
自分がなんとかするという不審な言動がみられたものの、そういった不審な言動が存在した矢先の、7月8日に、安倍晋三暗殺となった。安倍暗殺後の、令和4年8月吉日と称して、GLAYのファンが
建造物に、大声でGLAYを歌っている、といった、張り紙をしたことで当時、盛り上がっていた。しかし、令和4年9月2日からただちに別の装置が起動し、11月6日、7日に室内窃盗に入った形跡
PS3のPS2互換が消えたのは、エミュレーションが不十分でまともに動かなかったからだぞ
昨年育休より復帰
が、いざ復職するも具体的な分担の話はできないまま
私がほぼリモートの一方で夫は地方の役所づとめで毎日遠距離通勤(片道1.5時間、平日朝は6時には出て帰りは20時近く)もあり、復職前と変わらず平日ほぼワンオペ状態が半年以上続いてました
仕事で色々あったこともあり、育児家事分担が妻である私に偏ってると感じ分担の見直しの相談を持ちかけました
ここでよくなかったと反省はあるのですが、前段で他の家庭での話を出してしまいました
うちの会社の同世代以下の男性陣がかなり育児に協力的な人が多く、奥さんが専業でも平日終業後は育児家事専念してる、などの話を聞いた直後でしたので、その話を夫にもした後に分担の話を切り出しました
今思うと、比較され気分も悪かったかとも思いますが、こちらもいらつくことに、返答として「人は望めば望むほど更に望む」といった主旨の話を夫が切り出しました
(イラつきマックスで詳細忘れましたが、当時よく読んでいた仏教関連の話から引用したそうです)
更に「具体的に何すればいいの?」と聞かれたので、保育園の準備や朝ごはんの用意など、いまの通勤形態でもできる内容を挙げました
ここでまた、聞き方が人を馬鹿にしているとしか思えないもので、私が「保育園の準備」などと言うと「あとは?」と、こちらが分担したい家事育児を挙げるのに対して、ただ一言「あとは?」を繰り返すのみです
今思えば仏教の話にある、望めば望むほど、を繰り返しの問で気づかせようとでも思っていたのかとも思いますが、私としては話し合いする気もないとしか受け取れないし、真剣に相談したかったのに対してバカにされているとしか感じられませんでした
その場は私が呆れ返ってしまいそれ以上の話ができずだんまりモードで話し合い(?)も打ち切りとなりました
それ以降、望めば望むほど、と返され傷つくのが嫌で愚痴も相談もできなくなりました
今度話しをするとしたら、離婚を切り出すときくらいかなと思います
本人も言ってましたが、家事など「やれるところはやっている」※ので、ゴミ出しや洗濯干しなどやってもらっているところも確かにはあるので、その多少の支援と一緒の空間にいることの辛さとの天秤がいずれ崩れたときが決断のときかなと思います
(※夫が「やれないところ」は否が応でも私が対応してる点を言った上で上記の流れになった点もあったのを書いてて思い出しまたイラつきが再発してきました、、)
いないと思って全部自分でやるほうが精神的には楽なのではという割合が最近増えてきました
直近だと飲み会に関しても思うところがあったものの、仏教の話切り出されるのが怖くて思うことを言えませんでした
子供2人目も考えたかったですが、現段階では産後の負担を考えて(かつ生理的にも)到底無理そうです
年齢的にも難しい齢に踏み込んできているところだったので、もともと考えどころではあったものの、こういった事情で諦めざるを得ない状況になってしまっているのは自分としても結婚当初は想像もつかず大変残念なところではありますが、そういった相手であることを分かりきれずに選んでしまった自分の落ち度でもあるかなと思い、自分自身を無理やり納得させている状況です
吐き出しどころもなくモヤモヤしてましたが、せめてもの決断のときの証跡にでもどこかに残しておきたかったのでここに投稿させていただきます
k-holy たぶん釣りだとは思うけど、元増田とは全然「同じようなこと」じゃないでしょ…こっちの投稿から感じるのは嫉妬ではなく、男性嫌悪と歪なプライドばかり。男はBLを描くな、みたいなこと言ってるのもこういう人かな?
「普通の恋愛 (に反感持って)できない人がBL好きになるんだろ」
は明確な対応になっている。同じようなこと、だ。
飲み屋でビール片手に、後輩に語りかける感じで話すよ。今日は、AIがどれだけプログラマーに影響を与えてるか、特にChatGPTについて話そうと思うんだ。
まず、ChatGPTってのはすごいよ。俺たちが昔必死に学んだことを、秒で答えちゃうんだから。でも、だからって俺たちプログラマーが完全に不要になるわけじゃないんだ。実際、ChatGPTが得意なのは単純で定型的なタスクなんだよ。例えば、基本的なデータ処理スクリプトとか、テンプレートベースのコード生成、単純なデバッグやエラーハンドリング、そしてドキュメント作成なんかはChatGPTに任せられる。
じゃあ、俺たちプログラマーの役割はどうなるかって?もっと高度な問題解決とか創造性が求められるようになるんだよ。複雑なシステムの設計や高度なアルゴリズムの開発は、やっぱり人間の得意分野だ。ChatGPTにはまだそこまでの理解力や創造性はないからね。
でも、これまでインターンやジュニアプログラマーがやってきた基本的な作業がChatGPTに取って代わられると、彼らが経験を積む場所がなくなるんじゃないかって心配もあるよな。これにはどう対処すればいいか?
まず、教育の場を再定義する必要がある。メンター制度を強化して、シニアプログラマーが直接ジュニアを指導するのがいいだろう。リアルなプロジェクトに参加させて、実際の問題解決を体験させるんだ。ChatGPTはサポートツールとして使えばいい。例えば、基礎的な質問にはChatGPTが答えて、シニアはより複雑な問題や高度な質問に対応する。
次に、ソフトスキルの育成も重要だ。チームでのコミュニケーション能力やコラボレーションスキルを磨く機会を増やすんだ。ペアプログラミングやコードレビューを通じて、実際に協力して問題を解決する力をつけることが大切だ。
それに加えて、高度な技術トレーニングも必要だ。オンラインコースや社内ワークショップを活用して、最新技術を学ぶ機会を提供するんだ。ジュニアプログラマーが自分で学び続ける意欲を持つようにサポートするんだよ。
シニアプログラマーやメンターには、新しいスキルセットが求められるようになる。技術的な専門知識はもちろん、教育能力やフィードバックの提供方法、対話スキル、プロジェクト管理能力、そしてモチベーションを高める力が必要になるんだ。俺たち自身も常に学び続け、適応し続ける必要がある。
だから、ChatGPTが登場したからといってプログラマーが不要になるわけじゃない。むしろ、俺たちの役割はさらに重要になる。AIと共存し、お互いの強みを活かしながら、より高度なスキルを身につけていく必要があるんだよ。
未来のプログラミングの姿は、AIと人間が協力し合うことで成り立つ。新しい技術を学び続け、常に自己研鑽を怠らずにいれば、どんな時代でも必要とされるプログラマーでいられるはずだ。AIをうまく活用しながら、俺たちの強みを最大限に発揮していこうぜ。
電子ピアノ市場の低迷を理由に挙げているので、このあたりの部門が縮小されるのだろうか
そもそも近年のカシオは売り上げの8割が日本国外で、その大半が時計事業の稼ぎだった
その時計事業は、スマートウォッチの台頭にうまく対応できていないことを経営陣がみとめている
それで何をやっているかといえば
・売り切りのプロダクトからサービスで稼ぐ方向に色気を見せている
いまの社長さんはG-SHOCKをつくったカシオの中高の祖みたいな方なので、会社の戦略としてひたすらG-SHOCK推しが続くのだろう
だがカシオが自分で公開している、時計事業の売り上げ内訳を見ると、G-SHOCKが占める比率はじりじりと下がっているような気がするのだが、なにかおかしくない?
自分がApple Watchではなくてカシオのお安いデジタル時計をつけている理由は、
毎日充電するとか無理
ハードウェアスイッチ(ボタン)がついている時計の方が運動中に操作しやすい
水に強い
とかだ
もしカシオの時計がAppleWatchみたいなライフスタイル雑貨になって、
すぐこわれる
数年おきにむりやり新型に買い替えさせられる
よくわからないサブスクリプションに加入しないと使い物にならない
みたいになったら、もう買わないと思う
ほんとうに高品質で堅牢なものづくりを、まともな価格で続けてきた企業だと思うので、Appleみたいにならないで欲しいなと心から思っている
カシオがんばれ、まじでがんばれ
社会的な進歩(本当に進んでいるのかはわからないけど)って生物学的にいびつだからな。
人類が生まれて20万年くらい前で文明を構築して社会的に生きてるのなんてここ数千年でしかないことを考えると人間が最適化した環境と今の社会が全然違うなんて当たり前のこと。
社会というシステムを進歩(と信じている何か)に向かって邁進するのはいいけどシステムを稼働させて恩恵を受ける側の人間というハードウェアはそれに対応できてないんだから早晩破綻するのは目に見えてんだけどなあ。
実際にはENTPという文字列が何を言い表しているのかというのは置いといて、ENTPと評価された人間はサイコロ降るよりは高い頻度でENTPと評価されるんだからブラックボックスでもなんかの再現性のある対応はあるってことで、対応がある限り科学になりうる余地はあるでしょ。
横から突っ込んじゃうとそもそもENTPなんていう分類そのものの存在を疑わないのは何で?
意思決定の傾向は診断結果に相関するかというとそうではなく、実際には外的要因のほうが強く作用しそうじゃない?
※てか実際そんな研究結果をどっかで見た。p値が0.03とかだったと思うからマジで相関関係がない。ソースを忘れたので嘘かもしれない。
統計的にもパーソナリティ診断って眉唾どころか外的要因のほうが強く作用するならパーソナリティという存在そのものが眉唾という話。
実際にはENTPという文字列が何を言い表しているのかというのは置いといて、ENTPと評価された人間はサイコロ降るよりは高い頻度でENTPと評価されるんだからブラックボックスでもなんかの再現性のある対応はあるってことで、対応がある限り科学になりうる余地はあるでしょ。
世間で疑似科学と見做されてないような精神医学の領域からタイプ診断をうまく切断処理できるような理屈があるなら今度から俺がそれ振り回すから聞きたいんですけど
友人が荒れ狂っている。
理由は、今年入ってきた新入社員があまりに仕事ができなさすぎるから。(友人は指導担当らしい)
詳細は省くが、話を聞く限り、その新入社員は発達障害だと思う。
診断済みか未診断かは知らない。本人自身、気づいていないかもしれない。
普段全く怒らない上司が、静かに怒っていたのが印象に残っている。
「昨日も言いましたよね?」
「もう10回は同じミスをしていますよ。何度言ったらわかるんですか?」
「わからないならわからないと言ってください。わかったふりをしないでください」
「期限は守ってください。遅れそうなら早めに教えてください」
これが何度も何度も繰り返された。
結局、その人は三年目でやめてしまった。もっと向いている仕事を探しますと言っていた。
何か、解決策はあるのだろうか……。
違うんじゃない?
親って属性でわける。さらに必要に応じてい親のうち個別に特定する必要があるときは対応する。
親がそもそも父母って属性からなる結合体ではないって示したうえで、親そのものに下位属性をもたせないようにするんだから。
そもそもの問題は数字を付けることによる無機質性のレッテルを貼るっていうレトリックだろうけど、一方当事者や「いずれか」とかだったらそういった問題は生じないわけで。
だいぶ前に、ふとした拍子に「好きな作品なら理由が言えるはずだ」と言ったら、「逆でしょ。嫌いなものには理由があるけど好きなものには理由がない」と返されて考え方の違いに驚いたことがある。
その時はそれも筋が通っていると感じたからそれ以上は踏み込まなかったが、思い返すにまだ腑に落ちないものがある。
それは、結局突き詰めて考えると、自分が「好きなものには理由がある」と言う場合、加点法を念頭に置いているからだ。
一般的に加点法と減点法ということを言うとき、加点法の方が分別があるとか生産的だとか言う。
そして加点法で言うならば、「好きな理由」を上げていくことが評価のスタンダードでなければいけない。
となれば、逆に「嫌いなことに理由がある」という考え方は、減点法であり、非生産的な考え方であると言えるはずだ。
しかし一方で、「好きなものはなんとなく好きで、特に嫌いな理由があるときだけ嫌い」というのも穏当な理屈であるように見える。
この、論理の噛み合わない感じが、自分の中でまだ消化しきれない。
「好きなものには理由がある」という加点法的な考え方に対して、「嫌いなものにこそ理由がある」という減点法的に見える考え方は間違っていると言えるのか。
ひとつ重要なポイントとして、「嫌いなものに理由がある」という場合の「嫌い」というのがどこまでのことを意味するのかがあると思う。
「好きなものに理由がある」自分にとって、「好きでないもの」は「どうでもいいもの」だ。特に価値がない、なくて良いけどあっても別に無視するだけのもの。
それは加点法で考える限り当然のことで、加点法で点がつかないものはスタート地点の0。そこから上がりもしないが下がりもしない。ある意味でニュートラル。
なので、「理由があるくらい嫌い」と言う場合、逆にそんなに嫌うほどのものってどれだけあるんだろうと思う。
虫が嫌いとか食べ物の味が受け付けないとかならわかるが、芸術作品など一般的な存在に対してそこまで嫌うということは、単純に珍しいものなのではないか?
その場合、「嫌いなことに理由がある」という人は、「嫌いな物はほとんどないからほとんどのものが少し好き」になるのか、「嫌いなところが目についてアレもコレも嫌い」になるのか、どっちなのだろう。
というところが、分かれ目になる気がする。
結局、普通はどっちが多いのだろう。「好きな理由があるから好きになる」ことが普通だと考える人。「嫌いなものには理由があるけど、好きな理由は特にない」という人。
後者の場合、その「嫌い」はどこまでのものを指すのか? あれも嫌いこれも嫌いで、好きな物以外は嫌いだらけという生きづらい人ならかわいそうだけど、特にこれといった理由がなければ何でも楽しめる、というポジティブな人も多いのだろうか。
また、これは加点法と減点法という観点で語って良いものなのだろうか。一般論としての加点法と減点法の善し悪しに関する議論と、どう論じ分ければ良いのだろうか?
疑問は尽きない。なんか尻切れとんぼ。
自分で整理してみて思ったけど、「嫌いには理由があるけど、好きには理由がない」って、恋愛の理屈みたいに聞こえるね。
自分はものを好きになるって評価するってことだから加点法が誠実だと思ってしまうけど、「好きには理由がない」っていう考え方は、もしかするともっとロマンチックなものを求めてるのかも知れない。
「嫌いなことには理由をつけないと失礼」という意見が多く、考えたこともなかったので驚きました。
自分にとっては嫌い(というよりどうでも良い)理由を説明しないといけないか? 大抵のことは大抵の人にはどうでも良いのがデフォルトだろ? と思ってしまうので、そういう感覚がありませんでした。例えば、鬼滅の刃に興味がない、見る気がない、っていうのに理由がなきゃいけないのかな? 子供向けの漫画を大人になって読む方にこそ強い理由がいらない? って思う。(「評判なので試しに読んでみる」は十分な理由の範囲として。それでも「興味ない」の方が強くても別に普通だよね、くらいの感覚。ちなみに増田は連載を斜め読みした。)
ただ、「嫌いに理由をつける人はすべてのことがうっすら好き」はほんとか? とコメントを見てると思うw これを言う人の言い回しが博愛主義者に見えないw
加点法は性悪説というのは、確かにと思った。自分は「すべてのものの90%はカスである」がデフォだと思っているので(カスであっても存在は否定しない)。
面白いね!