はてなキーワード: 鉄板とは
第一次世界大戦時の塹壕戦では有刺鉄線が恐れられていたという。
兵士が有刺鉄線を恐れるあまり戦車が開発されたというような話もある。
第一次世界大戦において有刺鉄線が重要な役割を占めていたことは現代人にとって半ば常識と化している。
だが、有刺鉄線がそれほど恐れられていたというのが不可解ではある。
機動を制限する……、というのであればただの針金で十分ではないか?
有刺鉄線のダメージは所詮はトゲトゲが刺さって痛い程度のものではないか?
医療設備の整っていない当時ではあのトゲトゲのダメージが後々の致命傷となったのだろうか?
トリカブトでも塗られていたか、もしくは高圧電流でも流されていたのか?
少なくとも一般人は有刺鉄線の効力を把握している様子はない。
なぜ人々は有刺鉄線に関心を示さないのだろうか?
当時の人々が誤解していただけで有刺鉄線は取るに足りないくだらないものだったのか?
あるいは有刺鉄線は約立たずだったから廃れてしまったのかもしれない。
当時の生死感は現代とは異なりちょっとした盗みで驚くほど簡単に人が死罪、死刑にされたりする。
そんな生死感の人々がちょっと足にトゲトゲが刺さったくらいで怯むだろうか?
マキビシにトリカブトでも塗っていたのだとすれば取扱を誤って自滅するリスクもある。
しかもカンボジアの地雷問題のように遺棄されたトリカブト・マキビシが重大な社会問題ともなりうる。
仮にマキビシが容易く死を招くほどの殺戮兵器であったなら鉄板入りの特殊なゾウリが普及していたはずだ。
マキビシはオリエンタルなニンジャブームによってその実用性が捏造されてはいまいか?
日本人はニンジャの実力についてメディアのプロパカンダを真に受けず正しい認識を持たなければならない。
さて、インターネットにはマウンティングを取りたがる輩がゴマンといる。
そんな人々が有刺鉄線に目をつけていないというのも不可解だ。
「素人さんにはわからないだろうけど有刺鉄線はとてつもなく恐ろしいものなんだ」
というようなマウンティングの手口が常態化していたとしても不思議でない。
戦車や銃についてならいくらでも情報が手に入るが人々は有刺鉄線に関心を向けない。
当時の人々は有刺鉄線をどのように思っていたのだろうか?
第二次世界大戦の生きた証言者はいても、第一次世界大戦の生きた証言者はもはやいない。
現代人は当時の認識を予想はできても生きた声を聞くことはできず失われたミッシングリンクの一種である。
しかも人々が有刺鉄線に関心を示してさえいれば防ぐことのできたミッシングリンクなのだ。
塹壕戦でスコップが過剰と言っていいほどもてはやされることはあっても有刺鉄線の描写はお察しだ。
塹壕は描かれていても有刺鉄線はまるごと省略されるようなことがままある。
もしかすると実写映画では有刺鉄線に関わる演技が難しいという事情もあるかもしれない。
コピー元の映画で有刺鉄線が省略されるから、そのコピーである漫画などでも同様に省略される。
現代日本の創作物はたとえオリジナルを謳っていても現実でなく映画をベースとしているのだ。
だが有刺鉄線がそれほどまでに恐ろしいものなら、それも当然と言えよう。
今にして思えば街中のたかが私有地を防衛するために恐るべき軍事兵器である有刺鉄線を使うというのは相当にロックな行為だったのではあるまいか?
ふと思ったが釘バットと有刺鉄線バットとではどちらのほうが殺傷力は高いのだろうか?
有刺鉄線の謎は尽きない。
俺今45。人生振り返って、これまで挫折らしい挫折した経験がない。
学校の勉強、スポ少、習い事、なんでも出だしはそこそこのレベルでこなして、ぼちぼちの出番を与えてもらって。でも何かにずば抜けているわけでもなく、そこそこの成長したら頭打ちで、モチベ下がって、でも叱られるのや失望されるのは嫌だから顔だけは真面目になんとかこなして。大きく成功しないからそんなに目立つことなく、妬まれることもない。ベストじゃないけど、でもまあいっか、次に期待って言えるレベルで踏みとどまるから、露骨にがっかりされることもない。小さい頃思い描いていたまんまではないけど、広い意味でやりたかったことやれているし、ここで人生終わってもまあ良かったねと言えなくもない。出会うべき人にも多分巡り会えて、子供こそいないけど結婚もできたし、裕福ではないけど、ここに至るまで不自由したこともなく、環境にも恵まれて、巡り合わせにも周りに支えられてきたことにも感謝でいっぱいだ。このまま枯れていっても、幸せだと思いながら死んでいけるだろう。でもこの生き方で面白いのか?って、ここ10年単位でなんか引っかかってた。
病気、災害、失業、いじめ、身内の不幸、周りはみんな何か一つは鉄板の苦労話を持っていて、でも自分にはない。いくら無い物ねだりでも、不幸は望まない。死ぬまでぬるま湯に浸かって暮らせるなら、そうしたい。でももし、誰もが一度は大きな不幸に見舞われるなら、遅かれ早かれいつか自分にもその日がやってくるんじゃなかろうか。挫折を知らず、そこから立ち上がる訓練も受けずに、ずっと年取ってからいきなりどん底に突き落とされるくらいなら、早い方が良かった。大人になってからおたふくに罹るとしんどい、みたいな後になるほどしんどい痛みがいつかやってくるんじゃないかと、漠然とした不安が拭えない。
多分、日本で生まれ育ったなら、ほぼもれなくどっかで災害を体験していて、非常事態の自分の心の動き、辛さを共感しあえる部分で繋がっているんだろう。でもそれすら運がいいことに(引越が多かった)、自分は晒されずに回避してここまできているものだから、被災した誰かに心から共感できてる気がしない。いざという時の備えに対して緊張感ももてず、貪欲さもないから、どのコミュニティーにいてもアウェー感が否めない。何を語るにしても表面的で所詮お前には他人事だろう?と思われてるんじゃないかってコンプレックスが湧いて、どうしても一歩引いてしまう自分がいる。きっとみんなどこかで苦難を乗り越えたからこそ、今、強く生きていて輝いてみえるんだろうな、と観客のような気分でこの世界、この時代を生きてた。のうのうと。
で今年、コロナが起きた。
世界的な非常事態となって、客観的に見ても間違いなく、初めて自分が、この特殊な状況の当事者になった。そして案の定、苦労してない俺は、挫折に弱かった。3ヶ月間、職場に行けず、ほとんど出歩けず、家で過ごす非日常の日々を体験してわかった。俺はいざとなったら、いや、いざとなっても、危機感がなさすぎて動けない。失敗体験が少なすぎて、行動して状況を悪化させるくらいなら、何もしない。何かを考えようという発想がない、世の中になんの影響も与えられない人間だった。同じ境遇に置かれた周りを見渡すと、環境にすぐ対応して新しい生活習慣に移行して、ネットワークを活用して、自分に何が必要で、何が提供できるか考えて、みんな行動に移していた。なるほど、挫折経験が産むものはそういう思考回路なのか。それに比べて自分は何やってるんだろうな。コロナの前も後も変わらず、何の価値も生み出してない。引きこもり期間、ずっとそういう思考に陥ってどんどん落ち込んでいった。今思えばそれすらも、何か不幸な自分をファッションで演じてみたかったんだろうなと、恥ずかしい気持ちになるけど。とにかく、ようやくまわりと同じ境遇になったと自覚して改めてわかったが、自分の挫折を感じるセンサーはとても鈍い。実際自分よりもっとしんどい思いをしている人はいつだって絶えないけども、同じ境遇を逆境だと受け止める人がいて、さらにその中には、それを自分への挑戦だと受け止めて、立ち向かっていく人たちが世界を変えている、支えている。それを未だ自分は恵まれているとしか思えないから、敗れて悔しくてそこから這い上がるっていう体験につながらない。そういう思考が育たない。
生き延びるために今を必死に生きている人間がいて、そういう人たちに向かって手を差し伸べることができるサバイバーが多分世の中にたくさんいて、それを求める人が大半なんだろう。それと比べると、挫折のない人間が挫折してこなかった結果どうなるかを語るような場面はほぼない。死ぬほどの苦しみを味わったことがない人の、うすぼんやりした悩みなんて悩みとすら言えないんだろう。そうやって行き場のないモヤモヤを受け止める場所、手を差し伸べてくれる先人はなかなか見当たらない。でも、それこそ自分がずっと知りたかったことだし、もし自分に価値を与えるなら、そういうニッチな生き方の語り部としてのテメエの分際くらいしかない。流されて生きてきた事例、チャレンジせずにサバイブする方法、これからも目立たないように、でもほどほどに必要とされて生きていくために、情熱のない情熱大陸みたいな話を一応書き留めておこう、いつか必要としている誰かにそっと手渡せるように。とようやく心の整理がついて、ひとまず持ち直し今に至る。
初めに言っておくとこれは性根ド腐れザコ創作マンのお気持ち表明増田です
読みてー奴だけ着いて来な!ヒャウィゴッ
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事の発端は数年前にさかのぼる。私は創作畑的な界隈の端っこで活動していた。
いくらぼかしてもわかる人にはわかるだろうが、いわゆる「うちの子」的な概念とそれに付随するいろんな形のデータをネットに放出するタイプの創作だ。
私もいろんな人の作成した「うちの子」を借りてなんかいろいろやっていた。とても楽しかった。
人が人なら黒歴史かもしれないが私はめちゃくちゃ自分の創作大好きマンなので全然今でも楽しかったなぁと思っている。
なんならその数年前の作品は今でもたまに見返すし、楽しそうだなぁこいつと微笑む余裕さえある。自分の創作大好きマンの懐は深い。
が、自分の創作大好きマンの創作はしかし、基本鳴かず飛ばすだった。
これは「うちの子」的な概念の創作をしたことがある人なら大体わかってもらえると思うんだが、他人に「うちの子」を好いてもらえる快感ったらない。
もちろん基本はアタシが誰より一番!一番好きよ!てなもんで常にラムのラブソングな訳なんだが、このラムは同担歓迎だからあたるがモテてたら最後列彼氏面で腕組んで静かにうなづくタイプ。
サンキュー、いいだろ、うちのあたる……。もっと良いとこあるんスようちのあたる。ちょっと待ってね今用意するから、あたるの新衣装!
そんな感じ。つまり、誰かに推してもらえるとこっちも捗るわけだ。
今はどうなんだかいまいちわからんが、私がその界隈にいた当時、そこは別に広い界隈じゃなかった。
とはいえ全員顔見知り限界集落みたいな界隈でもなかったので、もちろん超絶人気の鉄板アイドルみたいな「うちの子」もいればそうじゃない草の根みたいなやつもいた。
うちのあたるはどちらかといえば草の根タイプだった。学芸会でも石ころの役を任される方だった。
それに関してはまぁ、別に良いと思ってた。少なくとも当時は。
超絶人気の鉄板アイドルのいわゆる「親御さん」は、それに見合うだけの労力も支払っていたし、努力をたくさんしていたし、普通に推せた。
学芸会でなんの役ももらえないような「うちの子」だって何人もいたような規模の界隈であることは確かなので、なんなら石ころでももらえるんじゃん!やったなおめぇ!って思っていた。
まぁ、うちのあたるも頑張ってるんでね…わかる人が分かってればいいんだっちゃ……っつって。うちのあたるが主役をやれる劇はうちのリビングでやればいいんだから。
あたる!今日はなにやる?!シンデレラ?!よーし!お前がシンデレラだ!
ホームビデオ撮っとく?!ヒュウ!ダーリンが一番輝いてるっちゃ!
そんな風なスタンスで、まぁ数年、楽しくやっていた。
その界隈から離れたのは、普通に別ジャンルでの活動が忙しくなってしまったからだ。
ただ楽しかったことは覚えているし、本当にたまに風のうわさでうちのあたるがよその家の発表会に出させてもらったという話を聞くこともあったので、気が向いたらそちらの界隈のアカウントを覗くようにしていた。
(「親」が活動していなくてもその「子」を借りるということは全然ある界隈だし、すくなくともうちのあたるに関しては好きにしてくれと表明していた)
ある日、そのアカウントの方にリプライが届いていた。どうやらうちのあたるを発表しているページに不備が出ていたらしい。
メンテナンスもしていなかったからそんなこともあらぁなと改修した。ついでに、界隈を離れたころに気づいてずっと手を入れたかった部分もすこし修正してうちのあたるを発表しなおした。
まだこの子を必要としてくれる人もいるんだなぁと本当にうれしかった。
ご連絡ありがとうございました。これからもうちの子をどうぞよろしくお願いしますとメッセージを添えて改修の旨をお知らせした。
しばらくして、どんなもんかなと連絡をくれた人の様子をうかがいに行ったら、見事に燃え上がってた。
燃え上がってたって言葉には齟齬がある。なんか一人で燃えてた。ショックを受けて意気消沈したあと、一週回って燃え上がってる感じだった。
えっマジで何事????なんかうちのあたるの話してる????何????修正できてなかった???
慌てて確認する。ちゃんとできてる。オッケー今日もダーリン輝いてるっちゃ。
趣味の良い事じゃない気がしたから嫌だったんだけど、気になるのでその人のツイートを激さかのぼった。
どうやらお知らせした私の態度があまりにも事務的だったことが事の発端らしい。
「私はこの子をこんなに愛しているのに、生みの親に愛されてない」「なんてかわいそう」「こんなお情けで更新されるしかないなんて」
「今回の対応でこれからさき絶対に供給がないことを思い知らされた」「これから先この子を扱っていく自信がない」
というようなことをここ数日呟いているらしかった。
「かわいそう」ってなんだ。
かわいそうなのか?うちのあたるは。
「生みの親に愛されてない」のか?うちのあたるは。
数年放置していた「うちの子」だ。確かには端から見れば愛がないように見えるのかもしれない。
でも、私のつくった子だ。これだけは絶対に言える。私が一から作って、命を吹き込んだ子だ。アタシが誰より一番だ。
何で「愛してない」なんて言われなきゃいけないんだ。何が「かわいそう」なんだ。
じゃあなんで数年前、私があたると二人でリビングでやっていた劇を見に来てくれなかったんだ。
あなたがあの時「最高のシンデレラじゃん」って言ってくれたら、手拍子の一つでもしてくれたら今だってあたるのシンデレラドレス作ってたかもしんないじゃん。
シンデレラどころか赤ずきんコスだって第二形態だってタキシードだって作ってたかもしんないじゃん。
おんなじ場所にいたはずなのに、あの時あなたはこっちを見向きもしてなかったじゃん。
それを今更好きだとかだいじにしてほしいだとか言われたって困るがな。
ってことでもやもやしてたんだけど。
「近所の店の閉店が決まってから、本の絶版が決まってから、『好きだった』なんて言ったって無駄」みたいなツイートが別のアカウントのTLで回ってきて、なるほどこういう気持ちね!って思った。
『報われなかった子が・店が・本がかわいそう』なんて、何にもしてないまっさらの手をかざして、泥だらけになって頑張ってた人の目の前で言ったって本当に無駄なんだな!びっくりした。
つまりそういうことです。ここまで付き合ってくれた増田一同、好きなものにはリアルタイムで好きって言っておけよ!
「#育児漫画」「#エッセイ」とタグつけられた、作者自身が主人公のTwitter漫画
を、読んで
なんとも言えない気持ちになっている。
「私は幼い頃◯◯な子供でした」から始まり、子供の頃のエピソードやら当時の自分のお気持ちやらを語り、それを踏まえて我が子には◯◯を心掛けています…と締めくくる。
いや、これ、「エッセイ」か?
もっと自分の子供と向き合えよ。幼い頃の自分と向き合う前にさ。
あんたと、あんたの子供は全くの別個体なんですけど、ちゃんとわかってる?
今日見たやつに限らず、最近この手の漫画が多い。ホントよく見る。大抵、夫婦生活か育児に関するTIPS紹介(する程で自分語り)。必ず女作者。
エッセイに限らないが。
自分の話をするときは、相手を「楽しませる」って意識がほしいよね。
この意識がない人の自分語りはキツい。マジできつい。みんな、実は、それほど他人の人生に興味はないんだよ。あんたは漫画の主人公じゃあないんだよ。いや実際漫画の主人公になってんだけどさ、そういうことじゃあないんだよ。
これ、そんなに難しい話じゃないと思う。
鉄板なのは自分の失敗に関する話。みんな、他人の失敗談は大好きだから。
・歌
単発の「歌ってみた」動画を上げることも、「歌枠」「カラオケ枠」として長時間配信で複数の曲を歌っていくこともある。
企業勢であれば、収益多角化としてCD販売や音楽ライブに力を入れているので、歌手活動がメインではないVtuberにしても、ある程度の歌唱力が求められることが多い。
大手レーベルと契約してメジャーデビューするVtuberもいる。
・ゲーム
「一人でゲームクリアまでひたすらプレイする」「何人かで集まって対戦や協力プレイで遊ぶ」「企画を立てて大人数を集める」といったいくつかのパターンがある。
何十人ものVtuberを集めての大型企画は非常に盛り上がるが、それだけの参加者を切り回す企画者の運営手腕が問われることになる。
個人配信ではゲームの上手さはあまり売りにならない気がするが(もっと上手い人がV以外にいるので)、複数人が集まる企画だと上手いプレイヤーは注目されて爪痕を残しやすいと思う。
「芸能人格付けチェック」や「恋のから騒ぎ」といったテレビ番組のパロディも多い。
どんな企画を立案するかはVtuberの腕の見せどころで、出演交渉や配信での見せ方なども含め、ゲームの企画以上に難しいかもしれない。
雑談との境界は曖昧だが、定期配信の「ラジオ」として、視聴者からのお便りを募集するものもある。
「凸待ち」という形態もあり、これは本来「Skype IDなどを公開して凸=突撃してきた視聴者と会話をする」というものだが、企業勢のVtuberにおいては「あらかじめ声をかけておいた他のVtuberたちがひとりずつやってきてトークする」ような形式が多い。
・雑談
コメントを拾ったり、スパチャを読んだり、マシュマロを消化したりなど。
・ASMR
バイノーラルマイクを使って、耳かきをしたり、ビーズを混ぜ合わせたりなどの、どことなく心地良い「音」を配信するもの。
本来的には必ずしもエロ目的というわけではないのだが、女性Vtuberの吐息や心音を聴かせたりするのは、まあエロだよね…。
主婦化幼児化家族化みたいなああいうヤツをマミーポルノって言うの初めて知った。
でもあれ、男性向けでもよく見るよね?●●ようちえんみたいな二次創作やたら見かけるけど。
自分はああいうの全然よさがわからなくて、でも昔から鉄板の売れ線ネタとして認められているから何がいいんだろうって思っていた。
マミーポルノというからにはそれこそ女が好むものっぽいけど男性向けにもたくさんあるのは男も好きって事?
それとも男性向けジャンルでもああいうの買ってるのは皆女って事?
好きな男の人が居るなら何が好きなのか教えてほしいわ
何で今伸びてんや。
あと確かにここ数年は見づらくなったかも。ようちえんもあるけどちび◯◯みたいなネタも。
まあ今現在主流じゃないにしろ昔から描くネタない!って言うと「幼稚園描いたら笑」なんて言われる所ではあるよ。
そんでブコメとか見てたらあれはどちらかと言えばバブみから派生してるネタなのかも。と気づいた。
10日も前の日記で申し訳ないんだが、ふとログインしたらブクマがついてたり言及もらってたりしたので
今更返事を書く。
一人目については、
聞いてきた正社員様はFBで繋がりがあることを知っていて聞きに来ている
次の職場の社長なので、以前職場で一緒だったとかそういう話なら人柄を聞きたいな〜みたいな話だったらしい
だが俺から聞かされる話が「あいつの家の犬が変態で、よく俺の足でヘコヘコ腰振って射精してた」とか
「あいつの兄貴がクッソ小物でこんな悪事を働いたので、思わずあいつがぶん殴ったけど全然応えて無くて俺に憂鬱な顔でどうしたらあの兄を厚生させられるか相談してきた」大学卒業の時就職に悩んで相談に来たときの話しとか、昔の話しばかりなので「想像していたのとは違ったけど想像の150倍くらいクソワロタwwwww」と言ってくれた、よかった
二人目はそいつが文化祭に出したプログラムが(今の仕事にも関係する)鉄板ネタで面白いから(内容は秘密、言ったら個人が完全に特定される)
歓迎会の飲み会でネタにして話してたら、後日その場にいなかった別の正社員から聞かれた。
が、こっちについては、俺の名字は珍しいので(https://myoji-yurai.net/ で調べたら 日本でおよそ100名と出た) そっち関係かもしれん
友人関係をやめようと思う。
予めお話しをしておくが私はビームガンという生き方を否定するつもりは全くない。ただこの悲しい気持ちを吐き出したくてここに書き込みをしようと思っただけである。
友人はとある星間戦争の記事を見てからビームガンに目覚めたようだ。
私はビームガンという武器自体否定することはないし鉄板を易々と貫く威力は尊敬する。
ただ、友人に恐怖を感じるようになった。
たった数人しかフォロワーがいない鍵をかけたSNSの中で他の人にもこの世の現実を知って欲しいとビームガンの方のYouTubeや記事を紹介するようになったのがきっかけである。
これ見ても何も感じない訳はないだろうと。肉体という檻に閉じ込められた自分がかわいそうだと思わないのかと。それらを見ることによって自分と同じ考えになるはずだと信じて疑わない発言をする様になったのだ。
私も知らない世界について頭ごなしに否定はしたくない。友人が見ているビームガンの世界を理解しようと思って貼られているURLの動画は全部見た。ギャクサツの動画や最先端β粒子型ビームライフルの現状についてだった。とても興奮する動画だった。
それを見て感じた個人的な意見としては、根本的な問題はビームガンになることで解決はしないだろうということ。
友人が紹介したURLに貼られているエキサイティングな現実について真実なのか、現状日本で製造されている型はなんなのか、入手手段はないのかについても自分なりに調べたが長くなりそうなのでここでは話すことはやめておく。
ここでお伝えしたいのは私はその現実を知ってもビームガンにはなろうとは思わなかったという事である。臆病者と言われるかもしれない。
それでも私は友人と友だちという関係を辞めたくなかった。個人的にもビームガンとの付き合い方について理解しようと調べた。一緒に行けるご飯はどこだろうか、なんの話がタブーなのか、不快に思うことはSNSで呟かないようにしよう、とか、いろいろ考えた。調べているうちにとある記事を見つけた。
『一般的なビームガンは他者に強要せず、あくまで個人のライフスタイルとして取り入れている』
『人間の身体に拘る人が多いことは理解しているので、その人たちを否定することは無い』
あれ?友人はおかしいのでは?
本人に強要してるつもりは無いのだろうが他者に同様の理解を求めようとしている。同じ動画を見たなら、私と同じ思想になるでしょ?と言ったことを発信をしている。この世の人全てが鋼鉄の殺人機械になるべきだと発言している。
ビームガンという思想に触れてハイになってしまったようだ。私が感じた気持ち悪さはここにある。ビームガンが悪いわけではなく、ただ友人が変わってしまった。価値観・思想の押し付けをする様になってしまったからだ。こんな人ではなかったのに。攻撃的な虐殺装置に変わってしまった。友人と接することが恐怖になってしまった。友人の発射する光線を見るのが辛くなってしまった。友人の機嫌を伺いながら会話しようとする自分も嫌になってしまった。友人が私にとって負担になる存在になってしまった。本当に悲しい。
本人に伝えるつもりはない。私からひっそりと離れていくつもりだ。私は私の生き方があって友人には友人の生き方がある。相容れないのに無理に一緒にいる必要はない。こんな考えの私と友人も一緒にいたくないはずだ。
ただ、こんな事で15年一緒にいた友人とお別れをしてしまうとは思わなかった。
ただただ、悔しくて悲しい。