はてなキーワード: 自己評価とは
女子大生だったころ、金銭とか高価なプレゼントが介入するようなオッサンとの関係があった。
妻子がいる冴えないオッサンでも、若い女を買えるなんてお金があることは最強だなーなんてそのときは思っていた。
社会人も2年目を迎えた24歳の今、若さがもたらす恩恵を積極的に得るようなことはもうしなくなったが、
先日、45歳近くのおっさんにガンガン口説かれた。お金があるわけでもカッコイイわけでもないオッサンに正直ときめきなんてないんだが、全身から溢れる謎の自信に驚いた。娘でもおかしくない年齢の女を口説いてベッドに持ち込めると本当に思っているのかと。
そのオッサンは、自分が拒絶されることなんて一切考えていないような顔で直球に口説いてくる。もう失敗や拒否されることに恐怖がないからこそできる芸当だなあ、と思った。
若いことがいかに素晴らしいかを説かれ、24歳の私が忘れかけていた若さによる全能感を少し思い出しましたし、ここまで若さを肯定されると30代の女より絶対的な価値があるんだと微かな優越感に浸ることもできた。
言っていることも矛盾が気になった。
あと、自分も匿名で感情的な指摘なので、支離滅裂していることは最初に謝っておきます。
どの会社もwebの仕事はしていても、お客さんはwebの世界だけではないので、
言うほど閉鎖的なものではない。
他業種について、本業の方と同レベルで詳しくなることもあるんじゃないかと。
できる人とそうでない人の違いはどこにあるかというと、仕事の幅なんだそうです。
技術の幅が狭いエンジニア、例えば「JavaScriptしかできません」のような専業エンジニアがいる。これは東京に多いんだよ。
逆に、大阪には、仕事の幅が広いエンジニアがいる。大阪の場合、「なんでもやれる」と言えないと仕事がとれないから、結果、フルスタックエンジニアが生まれる。
なんとなく言いたいことは分かる。だが、
一方、大阪のエンジニアは自己評価が低く、基礎的な技術をしっかり学んでいるそうです。PHPからRubyといったように言語の浮気をしようとしないんだとか。
おいおい他言語に浮気はしないけど、一言語だけではダメとかどっちなんだよ。
何でもできるんですか、それとも知ってることだけですか?
フロントとバックの違いは浮気にならないとでも言いたいのでしょうか。
でも、言語としてはjsとphpの2言語となるので1言語以外をやるなら、それは浮気ととれるでしょう。
結局、言葉遊びで「言語の浮気」って使いたいだけだろ。浮気の定義からやり直せ。
加えて、東京と大阪の違いは分かった。だが、東京をディスる必要はない。
他人から聞いてきた話を引用するなら、不快になると分かる箇所くらいオブラートにつつめ。
別に今だってweb以外はあるだろうに。なんなら、エンジニア不足って言われているんだよ?? あと、IoTでググって。
あと、webの世界だと35歳になったプログラマーが悩むなんてことがよくある。これは、35歳定年説を信じてのことなんだけど、気にする必要はない。そんなの実際はないから。
おそらくですが、「35歳定年説」をそのまんま鵜呑みにしてるのは、webで働いてない人がほとんどかと。
web系の人は、ずっとプログラマーでいく意識が強い。生き残るために新しい言語を求めてしまうけど、そうじゃなく、仕様書を書いたり、情報処理の勉強をしたりして基礎的なことを学ぶ方が賢いよ。
プログラマーをバカにし過ぎ、基礎をやってるやってないは個人差。プログラマという職業は関係ない。
だから、稼ぎたいなら銀行のシステムを作ったほうがいい。ペースもゆっくりだし。銀行のシステムは作るのに数年単位かかるしね。
数年かかるのはいいが、終わらないのは困る。「みずほ銀行 システム開発」でぐぐれ。
特に、webの世界はまだ単価が低く、紙の方がギャラが高いというのが現状。なので、割のいい仕事をしたいなら、やはりwebを出ないといけないんですよね。
また、手を動かす仕事から離れる話でも、最近思うところがあるんです。先日、界隈の人と話した時に「目立ってる人より、影に隠れている人の方が稼げてる」なんて話を聞いたんですよね。
これって、ライターの世界にも当てはまっていて、注目を浴びているライターよりも、その人に仕事を振る人、編集をする人の方が効率的に稼げてるなんてことがあるんですよ。
単価の話関係ないじゃん!!
なので、この記事を読んで、その重要性に気づいたエンジニア、デザイナー、ライターなどの専門職の方は、ぜひ将来のキャリアについて考えてみてください。
その重要性ってなに?
フルスタックになること? 情報処理の資格をとること? 管理職を目指すってこと?
それとも、Webをでること?
締めで使う「その」という指示語の範囲が広すぎる。記事の内容をまとめた後に使ってください。
それと、年収をあげるのは、別にプログラマのままでもできるんじゃない?
そこそこ給料はよくなりそうだが??(そんな職種があるかは知らんが)
(提供:らふらく(@TwinTKchan))
お前が聞いてきたはなしじゃねえのかよーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
89世代の意識高い「系」だったら、平成生まれの視点での言葉を言ってほしいわ。
この増田を読んで、煽りの重要性に気づいたブロガーは意味のある煽りについて考えてみてください。
エロサイトか。
ブラックで悩んでいたのは聞いていたが、良いところに転職できたのだという。とても良い話なのだが、それ以来自分のメンタルがおかしい。
どうやら超絶ホワイトで休みも多いうえに給料も高いらしく聞いてもいないのに社員旅行が海外やらボーナスの額やらを母や兄から聞かされ(正直言わなくてもいいだろうと思ったが、嬉しかったのだろう、他に言えるところもないだろうし)、共働きの我が家の世帯年収と、専業主婦を持つ兄ひとりの年収が同等、もしかしたら兄のほうが上になったのだろうと思う。
我が家には保育園児が2人おり、私は時短勤務で正社員として働いている。
夫は元は管理職だったが激務で鬱病になり、今は一般社員になった。年収は下がったがストレスが減って、今はとても楽に仕事に行けているようなので、夫にはこれ以上がんばってほしくない。私も働いているのだから全然問題ない。というか、私がこんなことでモヤモヤしていることは悟られたくない。
兄家とは家もさほど遠くなく、こども同士の仲が良いので定期的に遊ぶ。そんなおりにちょこちょこと兄の良い話が出てきて(最近では聞かなくても勝手に想像してしまったりもする)、我が家ふたりのほうが休みも少ない業種で働いていて、兄ひとりと同等の収入なのかと思ったら非常に無力感に苛まれ、落ち込んでしまう。
私は働くのは苦じゃないので、専業主婦になりたいのか? と言われると違うように思う。ただ、働いてなかったらこどもにもっといろいろしてあげられるのかな、とか、これから訪れる「小1の壁問題」とやらを聞いて不安を感じているので、羨ましいと思う気持ちは否定できない。
兄が努力していたのも知っているし、兄家に対して悪感情はないので、もちろん「良かったね!」と笑顔で接しているが、黒い感情が沸いてくるのが嫌で嫌で、自己嫌悪ばかりが膨れ上がっている。それ以来、誰々が有名な○○に勤めてるらしいだの、テレビで今年のボーナスの平均額(あんな額見たことない)だのを耳にすると激しく気分が沈み、それなのに気になってしょうがない、という状態が続いている。今まで顔も知らない人の年収がいくら高くても気にならなかったのに、ネット上の第1階層だとか裕福層だとかいう話にさえなぜか落ち込むようになってしまった。
このような話題で落ち込むようになったのは初めてで、急に出てきた感情に困惑し、うんざりしている。他人は他人、自分の現在の境遇に大きな不満があるわけでもなし、ボーナスはまぁ少ないけども会社にも良くしてもらっているので転職したいわけでもない。これでいいんだ。そう頭ではわかっているつもりなのに、どうにも消化しきれない。
兄と自分を比べてしまう。人と比べてしまうのは自己評価が低いと聞いたがそうなのか? とか、育ってきた環境が影響しているのか? とか、結局は気の持ちようなのだから、とか、色々自分を納得させようと必死だが、欝々と考えてしまってどうにも辛くてたまらない。兄に会いたくない。でもこどもたちは遊びたいと言う。いっそ、「自分はお金が大好き!他人には良い顔しながら、裏ではマウンティングをとりたがるゲスい人間です!」と開き直ることができれば楽になれるんだろうか。でもそれも上手にできない。
リアルでは誰にも言えないんだ。こんな気持ちもういやだ。余計な事考えないで、がんばって仕事して、可愛い我が子を力いっぱい愛でていたい。
上位2割には間違いなく入るくらいの美人。
年齢は26歳。
しっかり始業前に出勤して、応接のテービルとか拭いてくれるし、必要があれば残業も厭わない(ほとんど残業の必要はないが)。
外見だけ見ると、美人で、非常に賢くて、しっかりしている感じ。
あ、まったくできないというわけじゃない。
こういう女性は早くお見合いでもして家庭に入ってくれればと思う。
少子化で若い人が減った職場にポンコツがいるとまったく仕事が捗らない。
このまま教え続ければいつか使えるようになるのか?
その見極めが難しい。
こういう人って「教え方が悪い」と開き直るようなゲスな人なら分かるけど、
常に初見の外部評価>自己評価で悩んでる場合ってあるんじゃないかな。
単なる大器晩成型なのか。
晩成型なのであればいつ大成するのか。
このままずっと辛抱の時期が続くのか。
菅野完さんから性暴力被害を受けたというXさんからの依頼で、7月14日に「菅野完 noiehoie の性暴力」というエントリーを上げました。
http://c71.hatenablog.com/entry/2016/07/14/153922
これは自発的に書いたものではなく、一部の人の思惑に沿って書いた作為的なエントリーでした。善意からとはいえ係争中の案件を裏取りもせず、頼まれるまま無責任に書いてしまったことを関係者の方々、ならびに読者のみなさまにお詫びしたいと思います。
この件には私が知る限りでも週刊金曜日編集者の方、係争事件の弁護士の方、濁山ディグ太郎さん、中島岳志さん、山口智美さん、いとうせいこうさん、朝日で女性問題を多く取り上げている林美子記者始め多くの方が水面下で結束しています。私はこの繋がりが純粋に性暴力被害者を救済し、再発を防止するためものなのか、菅野完さんの日本会議批判と関係があるのか、疑問を持っています。
7月14日、Twitterフォロワーであるfさんから性暴力事件についてのエントリーを被害者を助けるために書いてほしいという連絡があり、被害者を名乗るXさんとグループチャットでお話しました。私は自分自身が性暴力被害者であるため、そこで聞いた話と発売前の週刊金曜日のキャプチャの内容に強い衝撃を受け、フラッシュバックで正常な判断力を失ってしまいました。Xさんとも菅野完さんとも面識がないにも関わらず、被害に遭ったというXさんとかつての自分が重なり、無条件で力にならなければならないと思い込んでしまったのです。
見ず知らずの方の係争中の案件に関わることは軽率なのではないか、発売前の雑誌の紙面を大きく掲載したキャプチャの使用が著作権の侵害に当たる場合、その責任は誰が取ることになるのか、そういったことについてさえ十分に話し合うことなく、とにかく発売までにエントリーをアップして拡散させなければと必死で記事を書きあげました。
パートナーは私が本業の準備、食事や持病のための休息時間も犠牲にし、フラッシュバックでふらふらになりながら、ひたすらテキストの加筆修正を繰り返す様子を見て、とても心配しました。彼は当初から先方がこれだけの依頼を出しておきながら、執筆料の申し出を一切しようとしないことにも疑問を持っていたようです。
長文のテキストであることに加え、Xさんと彼女の支援者を名乗る人たち、また弁護士や週刊金曜日編集部からの要望が後からいくつも追加され、私はその度に細かい修正に応じました。加筆修正の度、何度も何度もおぞましい性暴力のについて読み返すことで自分自身の性暴力被害が蘇り、吐き気と動悸と冷や汗でとても苦しかったです。でもそのときは「性暴力被害を許してはならない」「被害者に自責の念を持たせてはならない」ということしか考えられませんでした。
ようやくOKをもらったエントリーはXさんの支援者ではなく、紹介者のfさんを通じてリツイートしてほしいと頼まれました。私と同様事件と無関係のfさんがなぜ?と疑問思いましたが「被害者探しを避けるため」といわれ、「被害者を危険に晒す気ですか?」と脅されているように感じ、何も言えませんでした。
また「フェミのお仲間を通じてリツイートしてほしい」「互助会!互助会のノリで、お願いします!」という言葉には(フェミの仲間なんていません。一人一人が自分の考えで発言しているんです)(互助会なんてありません)と思わずにいられませんでしたが、言い返すだけの気力もなく、上手く言葉にすることができませんでした。
パートナーはXさん、濁山ディグ太郎さんらに新規はてなidを取得してブログを書いたり、増田を使って匿名エントリーを上げてみたりしてはどうかとすすめましたが、誰一人それに応じた人はいませんでした。憔悴している私を傍で見ていた彼は私一人が矢面に立たされることに強い憤りを感じており、それを見ているうちにようやく私も「これは何かおかしい」と自分の感覚の異常に気付くことが出来ました。
私は自己評価が低く、記事の作成を依頼されたときも「なぜ私が?」という思いがありました。そのことについてXさん、naeさんらから「自己評価が低いからこそ被害者によりそういい記事が書けた」といわれたとき、限界が来ました。私自身は自己評価の低さと戦うため、これまで命を削ってきたからです。個人差はあると思いますが、性暴力被害者が自分を無価値であると考えるのは謙虚さとは違います。この苦しさは「だからよかった」といえるものではありません。
記事を書いている間の緊張とエントリーの反響、そして休息や食事を後回しにしていたこと、何よりフラッシュバックで普通の状態でなかったことが重なり、私はXさんの支援者の皆さんに感情的な反応を返してしまいました。そのことはお詫びしたいと思います。
しかしようやく少しだけ判断力を取り戻したいま、パートナーをはじめ友人たちに話を聞いてもらい、この件を伏せておくことは良心的に出来ないという結論に達しました。私は知らずに政治的な駆け引きに加担し、証拠不十分な係争中の事件について、言われるままに一方的な宣伝をしてしまいました。裏で糸を引く大勢の人たちの思惑に従い、とても公正とはいえないやり方で日本会議批判を攻撃する立場に立っていました。
このような事情によってあのエントリーを書いたことを読者のみなさんに知っていただきたいと思います。このような結果になったのはひとえに私の迂闊さと甘さによるものと反省しています。今後は利用できそうな人間は誰彼かまわず利用する人の餌食として踊らされないよう健全な自尊心を持ち、自分と他人の心の境界、責任の所在を明確にしていきたいです。他人の回復の前に自分自身の安全を守ることが、私を大切に思うパートナーや友人たちへの愛情だということを忘れないでいたい。またXさん、菅野完さん、そして日本会議に対する思想や立場について、感情的な思い入れに流されない視点を持ちたい。都合よく踊らされるのはもうたくさんです。
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数年前、SNSでとあるコンテンツが好きな仲間を探していた時に、気に入った人間にはしつこくダル絡み、自己評価低い割に漫画家目指すなどと声だけ大きく、そのくせ絵は下手クソで、同居する家族のことを口汚く罵ったかと思えば、(存在するかもわからない)恋人が恋人が、とリア充アピールは欠かせないような奴が、そのコンテンツのオンリーイベントの主催をすると意気込んでいた。
参加費取ります!やっぱり取りません!などと繰り返して最終的にどうなったかは覚えていないが、告知不足や責任能力の無さが露呈し、その主催含め4サークルくらいあったのが、2サークルくらい辞退して、主催と主催のお気に入りの2サークルしか残らなかった。
本出します!とも言っていたが、普段でも漫画はおろか絵すらほとんど投稿しないような奴だったので結局出せず、貴重な1サークルは、小学生が描いたような線画と平面塗りのゴミみたいなポストカードを金取って置いていたらしい。
何度か同人誌を出し即売会に慣れているもう1つのサークルは、本やグッズを売っていたようで、そのサークルのおかげもあってかそこそこ客は入ったようだが、尚更ゴミポスカだけの主催は恥ずかしくなかったのかな、とか、付き合い以外で売れたのかな、とか思ってしまう。
とにかく、その場のノリで主催やろうと思うのは間違いだし、イベント経験がないなら他の人に委ねるという選択肢もあったはずなのに、自分がやらなきゃ誰もやらない!と勝手に思い込んで暴走した挙句辞退者続出してスペースをゴミポスカで埋めるのも自業自得。
同僚のAさんが仕事が出来ない。雑な上に遅い。業務についての知識も不十分、仕事を効率化することも不得手のようだ。
自分は早いが雑、でもAさんよりは大分ミスが少ない。少人数の会社で他に比べる人もいないので一緒に働いていると自分がとてつもなく優秀に思えてくる。
しかし自分には前の職場の記憶がある。前の職場のBさんは自分と同じくらい早くて雑、Cさんは早くはないがミスがほとんどなく話し方がしっかりしていて取引先にも信頼されていた。
前の職場ではCさんには敵わないと思いながら働いていた。
幸せだったから、その環境に満足してしまい、真剣に取り組んでこなかった。
人生ってすごくちょろいと思ってた。
でも、今、自分が窮地に立たされ、迫害される立場になった時、ようやく世の中の不条理、好奇心論理的な考え方などの知力、そして力の大切さを知った。
小さい頃、大人達が口をすっぱくして説明してきたその重要さを、わかった気になっていた。
テキストの問題を素早く正確に解く能力は、必要な知力のうちのわずか一部分であって、もっと重要なものはたくさんあった。
大人のいうことに耳を傾けるべきだった。
本当はその歪みに気づいていたのだけど、受け入れられなかった。
追い詰められてようやく受け入れることができた。
受け入れたら、やるべきことが見えてきた。
そして、いろんな力や知識を身につけた。
でも手遅れだった。
それを駆使しても手に入れられないものがあった。
手に入れるたくても締め切りが過ぎていた。
もし、小さい頃から今の力があれば。
今はそれを夢想することが心の支えになっている。
しかし、その支えも風化し、支柱にヒビが入り始めている。
自分が自分の意識を観測していることや全身麻酔の経験を考えると、自分という主体は物質的なものに起因していると考えたからだ。
生まれ変わり、運良く人間として生まれてしまった場合、同じ過ちを繰り返してほしく無いという想いがある。
22歳女。
セックスしたくない。
今まで付き合った人数は2人。
初めての彼氏は20歳になってからできた。私も彼もセックスをしたことがなかった。
彼のキスは、歯がガチガチぶつかるほど荒々しかった。舌はガンガン突っ込んでくるし、鼻も押し当てられてた。
彼は二次元オタクで男子校出身だったから、彼の男女の性的なものに対するイメージはエロ漫画やエロゲの影響が強いんだろうなと思い、萎えた。
中学に入る手前から、大学生半ば頃まで、ずっとずっと夢見ていた憧れのキスは、実際には、「仕方なくやるもの」になってしまっていた。
それはセックスに関しても、同じだった。キスが下手ならセックスも下手だ。
彼が下手だった理由は、生身の女に対する知識がなかったからだと思う。ナルシスト気味で女性経験のないオタクだったからしょうがない。
手荒く胸を揉まれても乳首つままれても女性器に指突っ込まれても、苦痛でしかなかった。身体的にも精神的にも。
でも私が感じなかったのは彼のテクニックのせいだけではない。
人を信頼できない。自分も信頼できない。体型コンプレックス(少年のような胸)。醜形恐怖。自己主張するのが苦手(好き嫌いを表に出すのに勇気がいる)。
八方美人。我慢してしまう。自己評価が低い。不安症。恥ずかしがり。怒られるのが怖い(特に男性から)。ネガティブ。被害妄想しがち。
ざっと思いつくまま書くとこんな感じ。まだ何かありそう…
これらの性格特性は、機能不全家族と、自分の元々の性質のせいだと思ってる。
こんな自分を人に知られないように、自分の本心を隠して人の顔色を伺って生きてきた。
会話は苦手だけど、人からつまらないやつだと思われないように面白いことを言って笑わせて場を明るくすることに努めた。
元カレ2人に対しても自分を偽っていい子で明るい子を演じてた。空気を壊したり怒られるのが怖いから不満や意見を言えなかった。
キスやセックスの際もそう。相手に身をゆだねて自分をオープンに出すなんて、できなかった。嫌でも痛くてもそれを相手に伝えられなかった。
ね、こりゃあーセックス嫌いになるわ。
1年前くらいから、ネットで有名な港区のモテモテ美人OLさんたちが「自分を愛せない女は幸せになれない」「自分を大事にしなきゃだめ」と主張してるのを見てきたけど、ほんとその通り。
自分を軽視してるから、人とのコミュニケーションで自分を消耗して疲れる。
自分を愛したり信じたりできないから、そんな自分を好きになる人も愛せないし信じられない。
恋愛でうまくいくまでの道のりが遠いな。
東北の田舎からトーキョードリームを求め都内のIT企業に勤め1年、
貞操観念が180度変わった。秋田の実家で家族に守られていた私は渋谷でヤリマンになりました。
どうしてこんなことになったんだろうとボンヤリ考えたけれど、
今まで大学や地元の友達・家族に補完されていた承認欲求が行き場を失い、
誰かに求められることを渇望するようになってしまったからだろうと思った。
美容室でトリートメントをしてもらって綺麗になった私を誰かに褒められたいとき、
tinderやpairsを開けば。すぐ優しくしてくれるそこそこイケメンがつかまる。
「自分を大切にしなよ」と周りに言われるけど、自分を愛しているからこそ、
自分を渇いた23歳にさせたくないからこそ、いろんなひととセックスしているんだ。
彼氏ほしいよ~~~~~~~
自分を他人のように、静止画で捉えて、他の人や「理想像」と比較評価することです。
重大なことに、自己を評価するということは、見ているのはどんなに「今の」自分だと思ったところで、結果であって、過去でしかありません。
そうして自分の評価だけを追い求めると、人は今を生き未来に向かって生きる力を失うのです。
プライドを持てないときに、逆の自己評価、自分は駄目だという自己嫌悪が起きます。
それを引き起こしたのが他人だと感じると、「屈辱」感が起き、相手への怒りや憎悪が起きます。
全てが、「人間として善か悪か」という生き方、その中で自分にダメ出しをしたのが始まりです。
人に接する時に、「明るく喋っている自分の姿」を思い描く。恋人に会いたいという気持ちの中に、「その人を愛している自分の姿」がある。
それは、理性より深いところで、「自己を評価して生きる」姿勢が塊のように存在しているものです。
それを追い求めるべきもののように映し出したとしても、実はそれは自己への自信に導くものではないという自覚を持って下さい。
逆にそれが、自己嫌悪を始めとする破壊的感情を生み出した大元だと。
そうして静止画のような「姿」を追い求める気持ちが減るにつれて、「本当に自分がしたいこと」が見えてきます。
ある自分に「なる」のではなく、今なにを「する」かです。
「幸福」について、仕事の成功とか、結婚とか、友達に囲まれた暮らしとか、「イメージ」で考えるのも同様に無益です。
「こうあれれば」という硬直した姿を捨てた時、人間の多様性は愕然とするほどのものであることを感じると思います。
生まれた環境も、持って生まれた才能も容貌も、家柄の有利不利も。
その中で、何10万人に一人という恵まれた星の下で生まれたアイドルのような人と自分を比較するのは全くの無意味というものです。