はてなキーワード: 教養とは
ファーストガンダムもアムロと対になる女性がフラウ・ボウからセイラ・マスに変わる話なんだよね
子供の頃にテレビも劇場版も観ていたはずなのに、このへんのことをまったく理解できていなかったみたいで、
成人近くになって改めて観たとき、あー、そうだったのかー、そういう話だったのかー、と感心したりした
酷いネーミングだなあとずっと思ってたのだけど、劇場版だけなんだろうか、
最近もガンチャンでファーストの二作目と三作目は観てしまったのだけど、
フラウはもう自分がニュータイプとして覚醒したアムロと不釣り合いなことを自覚していて、
アムロよりハヤトとの会話を楽しむようになっていることをカイが皮肉を言ってゲラゲラ嘲笑し、
台詞で明確に、アムロにはセイラさんがいるでしょ?みたいなのがあったんだったかな…、
どんどんアムロに置いて行かれてる感じがするみたいな台詞があったと思う
アムロ・レイという少年、青年が大人になる、自立する、父殺し、母殺しがファーストのテーマの一つだったはずなのだけど、
成長と共に付き合うべき異性も変わる、という話を含んだガンダムってやっぱりスゴかったんだと思う
というか、庵野氏は学生時代に女性に「ガンダムって知ってる?」みたいにいきなり話しかけたんだったか、
しかしながら、庵野氏は不思議とあんまりガンダムについて語らないんだよなあ
宇宙戦艦ヤマト、ウルトラマン、仮面ライダー、富野作品はイデオン、
オタクの教養として当然ガンダムは観ているはずではあるのだけど、あんまり語ってるのを知らない
なんとなく思ってたのだけど、意外と内心では一番ファーストガンダムをライバル視しているのではないか、
観客に感謝を述べられる最後の機会になるかもしれないから、みたいに思ったとかで、
その席でたしかロボットアニメとして、とかガンダムの名前がちょっと出てきた覚えがあるのだけど、
エヴァはガンダムと全然違うようなストーリーではあるのだけど、
意外と内心では対ガンダムというか、俺ならガンダムはこうやるのにな、みたいな話だったりして、
とずっと前から思ってたのだけど、意外とそうだったりするのだろうか
つまり、マリはセイラの役割、アスカがフラウになってしまうわけだけど、
ドイツ人女性の記事でも、アスカが可哀想と書いていたけど、こうなるともっと可愛そうではある
でも、セイラって自立した女性って感じだし、アムロと籍を入れるという感じではないし、
実際にそうでないのはZガンダムを観ても明らかなわけで、
まあでも、オリジナルのアスカは旧劇で惨めに死んだのかもしれないし、
当然、フィクションでシンジが主人公なのだから、物語上主人公が優先されるのは当然であって、
シンジはアムロみたいに覚醒するより、いつまでもグチグチしているタイプではあるわけだけど、
みたいな異性関係の変遷は現実でもあながち間違ってない気がする
なんにせよ、庵野氏がなのか、エヴァは最初から最後まで非常に屈折した話だったので、
多分、今回の映画がそのぐにゃぐにゃになった身体を徹底的に矯正してしまうのだろうけど、
何分屈折しているので、ラストでアスカと結ばれて、おめでとう!なんてやるかバーカ!
みたいに庵野氏は内心思っていただろうと思われるので、
あんなことになって、あー、やっちゃったー、な感じになってしまったわけだけど、
でも、新劇でCGを全面採用するだけでなく、何か仕掛けてくるんだろうなあとは思っていた
エヴァは終わらせる、今度こそ終わらせる、という信念で作っていたと思われるので、
しかしながら、アスカは旧劇でもう役目を終えてしまっているので、誰か別のキャラがいいなあ、
と自分だったら考えると思う
考えると思うが、うん、言われてみれば新キャラってマリしかいないわけだけど、
観客から見れば本当に泥棒猫とでもいうか、高速道路の合流で強引に入ってこられたような、
ではあるが、いきあたりばったりであれ、物語の進行上、
今度こそアスカの役割を担う、アスカとは別の新キャラを登場させたい
だから、多分新劇ではなく、もう一度テレビシリーズのエヴァをやるとすれば、
マリの存在感をちゃんと表現できたのかもしれないけど、映画数本でやるとなるとああなるわな…
あと、安野モヨコ氏がモデルかはともかく、庵野氏が老いたというか、
みたいに思ったのか知らんけど、まあ、そんな感じでアスカを外したかったんだろうなあと
だから、俺妹と違って、シンエヴァは終わらせるための物語なので、
続編を作るとしたらシンジも中年になって離婚を考えるようになったりした矢先、
そこから不倫に発展して、ある日マリに目撃されて修羅場になり、
でも、中年になってもボクだって男性なんだし、幸せを探す権利だってあるよね、
みたいな開き直りを言い出したりすることになるわけで、
こういうのを、現実から逃げてない、と仰っているようにも思えたのだけど、
庵野氏に言いたいのは、
うん、そうなんだけど、そうなんだけどさ…、
それでも現実逃避の場所としてのフィクションも忘れないでね、とかえって思ってしまうのでした
でも、銃とかメカとか兵器の描写にはリアリティを求めるのに、物語内の男女関係にリアリティを求めないのはおかしいよね!
とか言われると、自分もぐうの音も出ないのでした
あ、ずっと出掛かっていた表現が出た
すごく可愛い。
シナリオライターだったら、教養や知識は他の人より多いらしい。
読み書きが出来ない人間を基準に考えて「俺はできる!」と言っているみたい。
じゃぁ俺も、俺は他の人間より稼いでるぞおおおおおおおおおおお!
大多数の日本人が無教養なんだから基準として不適切だと思ったけど、別の増田が言うように「長文の読み書きができない大衆」を基準にしたら教養あることにはなるな。
前提が共有されてないコミュニケーションってのはむずいな。
こういうランキングは「偉大」だとか「名盤」とかいったフワッとした基準で選ぶから良くない。だからどうやっても、独断と偏見が混じった「好きなアルバムランキング」になってしまう。
このような類のアルバムランキングに独断と偏見が混じってしまう理由は、ランキングを作る上で必要な音楽やそのバックグラウンドにまつわる教養が、作成者に不足しているからだと思われる。
特に、元増田のような自称音楽好き素人ランキングではその傾向が顕著である。元増田は色々と御託を並べてはいるものの、
・度々「影響力」という言葉が出てくるが、それは具体的に何を指し、どのように測っているのか
などといった点で不明瞭で、これでは選考が理にかなったものであるか第三者は判断できない。
「日本音楽史上の最も偉大なアルバム20」と銘打つのならば、同じ選考基準で誰が選んでも同じ結果になるような普遍性を持つランキングを目指すべきである。しかし、そういった配慮が一切なされていない元増田のランキングは、所詮「独断と偏見で選んだ好きなアルバムランキング」である。
元増田は『日本人は音楽センスが乏しく、既存のランキングには問題がある』と論じている。しかし、このランキングも個人的なフィーリングで選んでいるにすぎず、元増田は自身が見下す「音楽センスの乏しい連中」と同類であると言わざるをえないのは、何とも皮肉なものである。
もし、アルバムランキングのような試みをしたいのであれば、「数百年後、数千年後に残したいアルバムリスト100選」とかにしたらどうだろう。何百年後の学者たちが、今の時代の文化、歴史などを研究する上で有益となるアルバムをリストアップする。より具体的な理由づけがしやすくなるし、リストにすることで偏見が入る余地を狭くすることができるだろう。
それに対する反論が、学力とか友達とかそんなのばっか目に付くんで、小学校・中学校に行く意味はそうじゃないと言っておく。
学校ってのは、自分がどうなりたいのか、どうなって行くべきなのか知るために行く場所だ。
学校という集団の中で、色々な子を見て、その成功も失敗も挑戦も振る舞いも見て、何をすればどうなるのか、どういう振る舞いがどういう結果につながるのか。
どういう振る舞いが評価され、どういう振る舞いがけなされるのか、どういう子に人気があり、どういう子に人気がないのか。
何をしたらいい結果につながるのか、何をしたら悪い結果につながるのか。
何をしたら誇りになるのか、何をしたら恥をかくのか。
他人をまとめるとはどういう事か、集団の中ではどの程度まで勝手が許されるのか。
自分が何に優れていて、何に優れていないのか。
自分一人だけでなく、周囲の同学年や他学年の子達、同じ部活や違う部活の子達も見て、色々試行錯誤する場所だ。
優れた子とも劣った子とも交わって、他者との距離感の取り方や、自分を演じる事を学ぶんだ。
そうすることでバランス感覚や、信用できる人や信用できない人への嗅覚を養い、その後の人生で致命的な事態を避けて上手く恥をかけるようになる。
それは、学校に行けない海外の難民やストリートキッズみたいな子達であっても、同年代の子たちと同じ時間を過ごす事で身につける事ができる、社会で生存するための最低限の教養と言っていい。
学校に行かず同年代の子たちと恥をかいたりかかせたりという事をしないまま齢を重ねるのは、
その教養を身につけないまま失敗できるモラトリアムの期間を失って社会に放り出される事を意味する、本当に危険な事だ。
彼の周囲にいるのは、すでにそれらの修羅場を潜り抜けて、社会で生存するための最低限のバランス感覚や距離感を身に着けた人たちばかりだ。
たまにネットで炎上する人はいても、死なずに済ませるための基本的な対処法はみんな知っている。
逆に言うと、彼の周囲では「やらかすとまずい事」「どうやったらうまくいき、どうやったらうまくいかないか」「何をやったら褒められ、何をやったら叱られるのか」を体当たりで見せてくれる子たちはいないのだ。
おそらく、彼はこのままだとその辺のバランス感覚が欠如した、ネット上でしか通用しない引きこもりのような存在になってしまうだろう。
学校に行かなくても良いけど、同年代の子たちと過ごす時間を失うのは、大変危険な事だと認識するべきだ。
茂木健一郎氏とか、日本の学校教育の内容に一家言あるらしくて学校教育批判の文脈で彼を擁護してる人もいるようだけど、
そういった人たちは、自分たちが小中学校で得たものが本当に学力だけなのか、小中学校に行ってなかったら自分はどんな人間に育っていたと思うのか、その辺を考えて言ってるのだろうか?
ゆたぼんという子は、周りの子たちがロボットに見えると言ったそうだが、なぜロボットのように見えるのかちょっと立ち止まって考えてみたらどうだろうか?
それは、外国人がみんな同じような顔に見えるのと同じで、もう「差異を感じ取ることができないほど異質な存在になってしまったから」そう見えるんじゃないのか?
ロボットに見えるというのなら、なぜその子達がロボットに見えるような振る舞いをしているのか、それを考えたのだろうか?
あなたを擁護してる人たちは、みんな学校に通ったうえで、その齢まで生き抜いて名を遂げてきた人たちだぞ。彼らはロボットに見えるのか?
なんか学校に行ってない期間が長すぎて、もう立て直しようがないんじゃないかという気がしないでもないけど、
どこか同年代の子供たちと一緒になって、彼らを自分の鏡としながらバランス感覚を養う場所を持った方がいいんじゃないかと思う。
この件、「学部」を主体とした対応が色んなとこで言われるけど、なぜ国際教養だけで独立した学校みたいに扱われてるん?
他学部の授業も単位稼ぎ枠なら算入できるし、逆に言えば国教も他学部に授業提供してるじゃん。
単純に定員とかの話をするなら大学全体での問題だと思うんだが。
国教の特殊性云々は理解するけど、それでも一応ある大学の1学部であるということに起因する事情が無視されていいとは思わんのだけどなあ
実質就職予備校になってるのに、それを無視して行く必要ないって言われてもな。
大卒の資格が必要無い仕事に大卒資格を求めている現状に対する意見であれば、理解はできる。しかし、元増田の意見は、大学で勉強しない、ついていけない奴には大学は必要ないというものだ。
就職予備校として大学に行く人からすれば、大学の勉強が身につけられなくても行くべきものとなる。
それに、教養人としての自信が付いて主観的に豊かな生活を送れるのであれば、大学に通うことも無駄ではあるまい。カルチャースクールやオンラインでや学べば良いという反論もあろうが、無料のオンライン講座に興味を示す人って自分のことを教養人とか文化人って思ってないと、なかなかそんなことにアンテナ張らなくないか?
https://togetter.com/li/1698356
キャンパスは同じでカリキュラムも概ね社会科学・人文科学系なので多少は共通項もあるはず
国際教養は1学年600人くらいで、政治経済は1学年800人くらい
https://waseda.app.box.com/s/mm9excnx8y4qfd92ls95bqzbtx5lpm51
https://waseda.app.box.com/s/6jfnkx02vtydrgbxm8xrzb7mdshufppc
あと「留年」という言葉で誤解されがちだが、早稲田の学部は基本的に年度取得0単位でも進級はする。その代わり、5年生以上を「延長生」と呼称する。俺は詳しいんだ。
→定員分を吸収できるだけの講義数があっても、多くの人が取りたがる特定の人気講義に人が集中したら抽選にせざるを得ない。それは早稲田に限った話ではない。
→選外となった希望者にオンライン聴講権限を付与するような制度はあっていいと思うが(あるかどうかは知らん)、
いくらオンライン講義とはいえ質問への対応や課題の採点、単位認定等は担当教員が行うわけで、限度がある。
その辺は大学教員の多忙さに理解のあるはてなブックマークユーザーの皆さんならご理解いただけるかと思いますが…
・定員が多すぎるのではないか
→定員が多すぎるから抽選になるのではなく、募集数を超えて人が集中している講義のみが抽選になる。
・必修が抽選なんてひどい
→例の学生は必修の抽選に落ちたなんて書いてないように見えるんだけど、どこかにそう書いてあった?
必修が自動登録されて、空いたところに教養科目とかを入れるのがよくあるパターンだと思う。
同じ必修でも担当教員を選べるタイプの科目であれば、当然教員や内容によって人気の差は出るので抽選は発生し得る。だとしても全員を受け入れきれない必修科目なんてまずないと思うけどなあ。
→申請した科目が抽選ばかりで、それに落ちまくったらそうなる可能性はある。
ただ科目数自体は確保されているはずなので、本来は2次や3次登録でそういう学生を吸収しきるという仕組みになっている。
件の学生の場合、1次で半分以上落ちたとはいえ2次で十分挽回できる範囲のはずなので、なぜベストを尽くさなかったのかという気持ちもある。
https://www.waseda.jp/fire/sils/assets/uploads/2021/03/Schedule_Spring_CurrentStudents_J.pdf
n次登録が終わった時点でまだ空きのある講義の情報(現在の履修者数/定員)が掲示板やポータルサイト(全学共通)で提示され、学生はそれを見て次の登録申請を行うのが基本的な流れ。
全てが抽選というわけでもなく、担当教員が選考を行うこともあるが、そこは人による。
自分のいた頃は3次登録が終わってもあぶれてる人はかなりレアケースだった記憶があるし、全登録期間が終了して全講義の定員が埋まってるなんてことはあり得ない(必修科目なら尚更)のでどこかしら滑り込めた。
そもそも人気講義は選外になることを織り込んで「取りたい講義」「取れそうな講義」を組み合わせて申請するものなので、件の学生は不運とはいえその辺もちょっと不器用だったのかなという印象。
ただ…推奨17単位で、3次登録の申請が全て通っていたとしても合計18単位というのはちょっと履修計画に余裕がなさすぎると感じた。
窮状を訴えるのに2次登録の結果だけ触れてないのが引っかかるんだけど…申請忘れてたりしないよね…?(他人のことなのに止まらない冷や汗)
先行:0(1科目限定)
1次:9/19
2次+3次:5/9+?
大体の人は1次で落とされまくっても2次で半期20単位分くらいの履修を確定させる。(年間取得上限は必修込みで40)
1次よりも2次や3次の方が通る可能性は高いだろうに「1次の登録数>2次+3次の登録数」になっているのはさすがに2次+3次の申請自体が少なすぎるような気がする。
これだけ見ると典型的な「人気講義ばかり申請して抽選で爆死する人」のようにも見えるが、今年の講義実施状況が分からないのでそこは何とも。
とはいえこういう人は少数ながら毎学期必ずいる。自分がいた頃も、履修登録を忘れていて自動登録の必修以外ゼロ単位になった奴がいるなんて話も聞いたことがある。(真偽不明)
件の学生は期間内に登録自体はしてるようなので憤懣遣る方ないというのは分かる。なので問題は抽選云々というより救済措置の方にある。
定員が多すぎるというブコメが多いが、普通に定員を吸収しきるだけの講義数はあるよ。履修登録の度に全講義が定員いっぱいになる学部が回るわけないじゃん。
だから登録期間終了後にあぶれた学生を定員に余裕のある講義に受け入れるくらいの融通はきかせてあげてほしい。
個人的に優先してほしいのは
って感じ
自分がいた頃は学部事務所に行けば誰かしら履修相談に乗ってくれたが、今のご時世でそこのバックアップがうまくいってない、行き届いてない、周知されてない可能性は大いにある。
特に「抽選で選外になる可能性を織り込んで履修計画を立てる」のは基本のキみたいなものなので、各学部はそこをもっとフォローするべきだと思う。
(選外になる可能性を考慮しろという注意書きはシラバスに明記されていたし、今もされているとは思う)
国際教養の細かい事情は分からないが、一般的に1年生は必修が多いのであぶれることはさほど多くない。
(必修科目が定員超過することはまずないし、そもそも自動登録されることが多い)
件の学生は新2年生とのことなので、去年と同じ感覚で取りたい科目を申請していった結果、抽選で爆死したのではないかな~と思った。
従来は2年次に1年間留学する学部だと思うけど、コロナで留学できてない分国教で履修登録する学生が例年より増加している可能性もあるのでは。学部内履修学生数の増加に対して開講科目は増えているのだろうか。
国際教養学部というのは早稲田でも少し特殊な学部で、学部生は原則として2年次に海外留学する必要がある。
ところがこのご時世で留学生の行き来が殆どなくなってしまっている。
これは推測だが、
・本来であれば留学で国外にいるはずの日本人学生が、学部内の講義に集中して抽選が多く発生してしまった
・コロナ禍において、急に学部内の講義を増やすことができなかった/オンライン対応で定員を増やすことができなかった
この辺りは要因としてあり得るのかなと思う。
Add-Onlyというのはおそらく国際教養学部独自の制度だと思うが、これがコロナの影響でなくなったというのはよく分からない。
https://twitter.com/naataso_wsd/status/1382293955446902792
ただまあ、政経には元々そんな制度なかったので、救済措置として登録期間終わった後も空きの残っている講義にぶち込める制度作れや!というのは賛成。
1次でどれが抽選になるか分からなくて選外いっぱい出るのは仕方ないし、自分も経験がある。ただ2次以降は充足状況が公開されるので、それを加味して計画を立てるんやで。
2次は…?
人気講義が既に埋まっている段階ではもはや公平もクソもないので
選外になった講義の資料を融通してもらうくらいええやろがい。皆大体同じ額払ってんだろ
(このご時世でアレだがメールだけでなく直談判も意外と通ったりする)
(この時期は履修専門のアドバイザーがいた気がするけど今もあるんだろうか…?)
「戦略が悪い」という話にしてしまうと「人気のない講義に余裕を持って申し込んだけれど、本当に運が悪く低確率で全部落ちてしまった」人も自己責任になる。あなたは運悪い0.01%だから留年ね!で納得できるか…
そもそも人気のない講義は抽選になりません!!!!!!!!!!!!ストレートインです!!!!!!!!!!!!!!
人気がなさすぎてマンツーマンみたいになることもあります。(胃痛)
だからこそ「取りたい科目」を軸に「人気や日程を鑑みて取れそうな科目」を組み合わせて申請すればほぼ問題なく単位数確保できます!!!!
オンラインの授業なら物理的に講義室が足りないってこともないはず。何故対応できないのか/調べたら毎年600人以上入学してるのね。それは確かにオンラインでもパンクするわ。でもだから対応できないはおかしいよね。
確かにオンラインでもパンクするわ→だからといって対応できないはおかしい
「パンクするから対応できない」は成り立つだろ???何が言いたいんだ???
上でも書いたけど、聴講生としての視聴権限を与えるのは良いと思うしやるべきだと思うよ。
受講生として受け入れるのであればまた別の話だけど
獲得した科目数の少ない生徒を優先的に当選させればこういう事は無くなりそうだが何故そうしないのか?
履修科目数までは考慮してないと思うが、年次が高い方が優先になるというのはあったと思う(うろおぼえ)。4→3→2→1か4→1→2→3
より良い、より偏りの少ない抽選システムがあり得るのではないか?というのは同意するし、件の学生もそういう主旨の発信だと思う。
授業料ほしさに、教えられる分以上に定員増やしすぎたのかな。
定員100名の人気講義を希望者全員が受講できるように学部定員を100名にしました!
かくして不人気講義は廃止され、それに伴って学部の研究領域も縮小し、研究能力も低下しましたとさ。めでたしめでたし。(これは皮肉です)
総合大学を選ぶメリットはカリキュラムの選択肢の多さで、カリキュラムの選択肢は多ければ多いほど履修希望者の偏りが「人気」という形で生じるわけ。
だから登録期間終了後の救済措置や聴講制度の導入には賛成だけど、抽選が発生すること自体はある程度避けられないんですよ。
人気講義なら増やせばいい!って言う人もいるけど、ぶっちゃけ講義の人気なんて楽単か教員個人の人気に拠るところが大きいので、例えば同じ「政治学」をA先生とB先生がそれぞれ受け持ったところで、結局教え方の上手いA先生の講義に人が集中するだけなんだよね。
沢山の授業を開講し、管理する立場からすると、「人気科目だけでカリキュラムは作れない」「カリキュラムは学問の体系の表現である」から、全体として万遍なく履修登録されて学問を身に着けて欲しいとは思う。
そう思います。人気科目だけでは学部、ひいては学問も成り立たない。
救済措置云々とは別の話としてね。
マイルストーンなんか見て、楽単、人気講義だけ取っていったら、抽選外れまくった時はこうなるよね。過度の集中を促すマイルストーン誌が元凶のひとつ。
学生の有志団体がアンケート等を基に集計・出版している「マイルストーン」という情報誌があって(毎学期周辺の書店や大学生協に平積みされている)、
シラバスと見比べながら大体どういう講義があって、どれが人気で、どれが楽単で、どういう試験方式で…といった口コミ情報を新入生でも入手できる。同学科の友人が少なかったので大変お世話になりました。
ただその一方で、楽単や人気講義への過集中を促した面も否めないとは思う。
今はそれに加えてSNSの発達が一部講義の人気先行に拍車をかけている面もある…かもしれない。
自分の時代も人気科目とそうでないのがあって、落ちた科目は他で我慢して、最低限の科目数は確保できたのに、今は違うのか?/ドラフトではないが、ある程度抽選で落ちたら、他を優先的に選択できるようすべき。
俺がいつも言ってんじゃん。500歩譲って早慶以下の大学はいらん。旧帝だけでもいいくらい。
高卒で教養足りんってのはわからんことはないので、職業訓練高等学校とか、基礎教養課程とか適当なモラトリアム機関を作ったらええのでは?
そういう知識人が教養をやたら持ち上げて「金や就職目的で大学に来るな」みたいなのがよく言われるけど
あれって要するに五輪やラグビーのアマチュアリズムみたいな一種の階級意識なんだよな
食うに困らない奴だけが大学に来て教養を学べばそれでいい、それ以下の奴なんか来たら我々のアカデミズムが汚される、とそういうわけだ
まず言っとくと、大学は就職予備校ではないから、就職に不利になるとかそんなのは知らん。この反論をよこしてくる奴は、文章の一文目すら読めないアホだから無視する。
大学に行っても、ほとんどの人はそこで習うことを身に付けられないし、将来役に立つこともないから、そいつらが大学に行くのは無駄だ。
ところが、インターネット上を見ていると、大学教育の必要性を説く自称知識人が驚くほどいる。いわく、「大学は教養を身に付け、豊かな人生を送るために重要」だとか。
もちろん、本当に「教養」のある人がこういうことを言ってる分にはいいのだが、そうじゃない人がこんなことを言ってるのは相当恥ずかしい。童貞がセックスのテクニックを語っているようなものだ。
専攻にもよるが、大学の専門課程の内容をきちんと理解している学生は、東大や京大でも上位の2〜3割程度だ。それよりもレベルの低い大学では、その割合はもっと低い。
インターネットで評論かましてる連中の大半は、言うまでもなく、残りの7割強の層である。こいつらはただ遊びに大学に行ってるのと変わらないし、もちろん「教養」なんて身についていない。
というより、こいつらは大学、真面目に勉強している学生、企業などにとって迷惑なのだ。
標準的な履修内容が理解できない人が大半であるため、大学はそれに配慮する必要が出てくる。
たとえば、授業のレベルは落とさざるを得ない。真面目な学生は授業から十分な内容を学ぶことができない。
それでもなお、再履修や留年をする馬鹿が一定数おり、翌年の担当教員、TAの大学院生、事務員などに多大な迷惑をかけている。
大学の成績は当てにならないから、企業の採用活動は形骸化する。結果、多くの学生が勉強するインセンティブを失い、ますます全体の学力は低下していく。
「私は大学で何も勉強してきませんでした。今では、そのことを本当に後悔しており、同級生や大学職員の皆様に多大な迷惑をかけたことを申し訳なく思っております。」
くらいの前置きがあってもいい。彼らはなぜそうしないのか。要するに自分が大学に行ったのは無駄だったと自覚できていないのだ。それどころか、自分が大学で何か貴重な能力を得たと思い込んでいる。
ブコメ見て皆が何を言ってるかわからず、しかしとにかくひどい言われようで、今はただあれを良い話と思うこの受け取り方が悪なんだと思うことしかできない。
よくわからないが皆の剣幕を見てこれは自分が改めなければいけない感覚なんだと思うし、この感覚を持ったまま生き続けることは無教養なクズであるということを公言するようなものなのだろうと思う。
思えば東日本大震災の時もデマツイートに踊らされてリツイートしてしまったクチだった。あれで怖くなって自分はTwitterをやめるべきだと思ってやめたのだけれど、無道徳と無教養までは直らなかったらしい。
小中学生の頃は自己責任論者だった。それが無教養だと知ったのは、高校生になってはてなにアカウントを登録して、はてブでいろんな人の意見を見て学んだからに他ならない。(言い訳がましいかもしれないけど、自分も含めて高校ではほとんどの人が、成績が悪いのは単なる努力不足以外の何物でもないと思っていたと思う。成績が悪い人間に人権はなく、裕福な人間が多い高校だった)
苦手なものを自虐したら人を泣かせたことがある。その人が自分よりその物事が苦手だったということを後で知ったのだが、そういう可能性があるという思慮が足りなかった。
想像力の問題ですむ話だろうか。自分は平気で人を傷つけるサイコパスなのかもしれない。
それでも沢山学んで昔より少しましになったのだと驕っていた部分があった。
今はブコメを見て皆があの記事をそのように批判する理由を繰り返し読み込むしかない。まだ悪いから悪いというレベルの学習しかできないが、同じ感じ方をいつか身につけられるだろうか。