それに対する反論が、学力とか友達とかそんなのばっか目に付くんで、小学校・中学校に行く意味はそうじゃないと言っておく。
学校ってのは、自分がどうなりたいのか、どうなって行くべきなのか知るために行く場所だ。
学校という集団の中で、色々な子を見て、その成功も失敗も挑戦も振る舞いも見て、何をすればどうなるのか、どういう振る舞いがどういう結果につながるのか。
どういう振る舞いが評価され、どういう振る舞いがけなされるのか、どういう子に人気があり、どういう子に人気がないのか。
何をしたらいい結果につながるのか、何をしたら悪い結果につながるのか。
何をしたら誇りになるのか、何をしたら恥をかくのか。
他人をまとめるとはどういう事か、集団の中ではどの程度まで勝手が許されるのか。
自分が何に優れていて、何に優れていないのか。
自分一人だけでなく、周囲の同学年や他学年の子達、同じ部活や違う部活の子達も見て、色々試行錯誤する場所だ。
優れた子とも劣った子とも交わって、他者との距離感の取り方や、自分を演じる事を学ぶんだ。
そうすることでバランス感覚や、信用できる人や信用できない人への嗅覚を養い、その後の人生で致命的な事態を避けて上手く恥をかけるようになる。
それは、学校に行けない海外の難民やストリートキッズみたいな子達であっても、同年代の子たちと同じ時間を過ごす事で身につける事ができる、社会で生存するための最低限の教養と言っていい。
学校に行かず同年代の子たちと恥をかいたりかかせたりという事をしないまま齢を重ねるのは、
その教養を身につけないまま失敗できるモラトリアムの期間を失って社会に放り出される事を意味する、本当に危険な事だ。
彼の周囲にいるのは、すでにそれらの修羅場を潜り抜けて、社会で生存するための最低限のバランス感覚や距離感を身に着けた人たちばかりだ。
たまにネットで炎上する人はいても、死なずに済ませるための基本的な対処法はみんな知っている。
逆に言うと、彼の周囲では「やらかすとまずい事」「どうやったらうまくいき、どうやったらうまくいかないか」「何をやったら褒められ、何をやったら叱られるのか」を体当たりで見せてくれる子たちはいないのだ。
おそらく、彼はこのままだとその辺のバランス感覚が欠如した、ネット上でしか通用しない引きこもりのような存在になってしまうだろう。
学校に行かなくても良いけど、同年代の子たちと過ごす時間を失うのは、大変危険な事だと認識するべきだ。
茂木健一郎氏とか、日本の学校教育の内容に一家言あるらしくて学校教育批判の文脈で彼を擁護してる人もいるようだけど、
そういった人たちは、自分たちが小中学校で得たものが本当に学力だけなのか、小中学校に行ってなかったら自分はどんな人間に育っていたと思うのか、その辺を考えて言ってるのだろうか?
ゆたぼんという子は、周りの子たちがロボットに見えると言ったそうだが、なぜロボットのように見えるのかちょっと立ち止まって考えてみたらどうだろうか?
それは、外国人がみんな同じような顔に見えるのと同じで、もう「差異を感じ取ることができないほど異質な存在になってしまったから」そう見えるんじゃないのか?
ロボットに見えるというのなら、なぜその子達がロボットに見えるような振る舞いをしているのか、それを考えたのだろうか?
あなたを擁護してる人たちは、みんな学校に通ったうえで、その齢まで生き抜いて名を遂げてきた人たちだぞ。彼らはロボットに見えるのか?
なんか学校に行ってない期間が長すぎて、もう立て直しようがないんじゃないかという気がしないでもないけど、
どこか同年代の子供たちと一緒になって、彼らを自分の鏡としながらバランス感覚を養う場所を持った方がいいんじゃないかと思う。