「対象」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 対象とは

2024-08-13

結局蔦屋本屋としては使いものにならない

書店を真面目にやる気がないなら書店看板下ろして総合スーパーにでも業態転換しろ


この付近で面積だけはあるくせに他の商品に比べて本の取り揃えも文房具の取り揃えもクソ、その割にブルボンとか服とか成城石井とか置いて面積削ってんじゃねえ


加えて接客ゴミで聞いてもロクに答えない、逆ギレまでされる


挙げ句の果てにかなり高めの商品を何年も日ざらしにしたままなのに定価販売とか、商品商品として扱ってないのはマジで販売業失格


紀伊国屋丸善もそこそこアレだけど、蔦屋比較対象に入れる価値がないわ

anond:20240813164227

普通に自虐ネタ以外では名の知られた人がチー牛叩きしたら今でもキャンセル対象だろ

anond:20240813164114

性同一性障害GID)のための特例法を悪用したい「一部のトランスジェンダー」が、自分たち対象しろ自分たちに不利な要件をはずせと主張する上で、まずはトランスジェンダートランスセクシャルGID)とを意図的混同させたのでしょうね。

ほら「くたばれGID」の人とか。

中高生セックスしちゃいけないじゃなくてさ

中高生セックスしたいのは分かるけど我慢しようって方が健全なんじゃないか

どう考えても普通中高生相手でもセックスしたいだろ

今は18で成人だけど、17歳なんて子供全然性欲の対象になりませんなんてことあり得ないわけじゃん

ちゃん現実を捉えて対策しないと、意味ないと思うんだよね

大抵の場合男は未成年であっても性欲の対象になる

未成年は男の性欲を利用して接触してくるけどそこは我慢しなきゃいけない

これを前提にして具体的な対策方法を考えていかなきゃいけないんだよな

じゃないと何度も同じこと起きるよ

多様性尊重(※ただし、○○は除く)

パリ五輪多様性尊重(※ただし、アジア人選手は除く)」

https://x.com/eurosport/status/1822750807634145729

左派女性多様性尊重(※ただし、私達の主観で「性的興行」と見做したものは除く)」

https://togetter.com/li/2417157

この手のもので(※勿論、○○もちゃんと含む)的なものほぼ見たことないんだけど。

そういう言葉立派そうに掲げといて平気で自分主観例外的対象作って「○○なんか私たちの掲げている主義思想範疇には含まれねーよバーカ」とか抜かすとか、はなから兎に角俺は○○が大嫌いだ気に入らないんだ差別してやるぜイヒヒ多様性なんて糞くらえだそんなもんぶっ潰してやるぜ」みたいなこと言ってる輩がそういうことやってるよりもたち悪い。

anond:20240813072030

差別できる」のは身近にその対象存在するからで、「差別できない」のは身近に存在しないからなんだよな

2024-08-12

anond:20240812220340

納税させた後の方がいい

60歳以上対象制限しよう

ポリコレってアップデートを繰り返し過ぎた結果「発言者」「対象」「TPO」で複雑に条件設定されて後に引けなくなってるよな

ポリコレ違反主張するなら詳細に条件設定しないと無条件でポリコレ違反になることにしよう

ぶっちゃけ弱者男性って迫害対象ですやん?

将来、都内ファミリー住宅難民ってなったら

おい、弱者男性!お前らは財産没収収容所行きだ!没収した資産未来あるファミリー層に分配するから安心しろ!なるやん?

逆に女も男の匂い気にするんだって驚いた

例の女子アナ話題

観測範囲での話になってしまうけど、

隣の誰々が臭くて困る…とかお前の口臭えんだよ!とか風俗嬢のマ◯コが臭くてさ~みたいな「臭いdis」をするのはたいてい男性だった。

逆に女性から推しの(臭いイメージした)香水かにまり現実の男の体臭に関しても好きな臭いの話を嬉々として語られることが多く、

いわゆる臭いフェチの人も女性に多い印象。

なんでああいう形で女性炎上するというのは個人的には驚いた。

逆に言うとこだわりがある?からこそああいう余計なアドバイスと受け取られるような発言になったのかな?とも思う。

まあ観測対象は夜職界隈の人達なので偏りがあると言われたらそれはそうとしか言えないのだが…。

anond:20240812122348

普段物事性的だと叩く時には「女性はみんな痴漢にあったことがある、第三者ではなく当事者だ」みたいなノリでいるというのに

臭い男というかなり汎用性のある対象に向けた罵倒にすら当事者がいないように見える感覚ちょっとおかしいよ

頼むから女は男向けのコンテンツに関わらないでくれ


こういうクソフェミお気持ち表明が最近多いけど、賛同してるやつも含めて大抵が女なんだよ

いや、お前ら男向けのコンテンツに関わんなよ、マジで

そもそもお前らは本来対象じゃねえんだよ プリキュアを見ているおじさんと同等な存在なわけ。

部外者勝手他人のものを楽しませて頂きありがとうございますという謙虚姿勢を持てよ。そんでひっそりと楽しめ。

それを事もあろうかその島のルールにまで口を出すって、どういう面の皮の厚さしてんの?恥ずかしいと思わないのか?

男に置き換えたらプリキュア乙女ゲーの内容に口出しているおじさんと同じなんだよ。恥ずかしすぎるでしょそんなの。

結局こういう厚かましい女ばかり生んだのは俺らにも責任の一端がある。男向けコンテンツに女が寄り付くことをステータスみたいに扱っていたことがこいつらの増長を生んだのは間違いない。

現実は「女が寄り付く=リスク」でしかない。チャイナリスクならずウーマンリスクだ。男たちが楽しんでいる場所にいきなり現れて、勝手に学級会開かれ女に都合の良い空間に作り替えられるだけなんだよ。

これに懲りたら女人気に頼ったコンテンツ作りなんて考えないことだ。

そして、女は男向けコンテンツに関わらないでくれ、頼むから

清潔感絶対的ものだと思わないでくれ

ネットの男女論、モテ論、それに類するもの

どうにも対象を「平均的理想像」と捉えるケースが多い気がする

話すときにはそのほうが良いんだろうけどさ

とうぜん女性一人一人にとって「清潔感がある人がいい」の定義って違ってるから

唯一の正解を求めるとそりゃ議論破綻するよ

まるで「優しい人が好き」に対して「優しさとは何か」を定義しようと議論してる人らみたいなんだけど

それって滑稽じゃない?

まずは具体的な相手に「どういう人が優しいと思う?」って聞いたり

それができなかったら何人かに聞いて幾つかのパターンインプットするのが妥当でしょう?

どうもネット議論はその具体的なところを置いといて、男子校の中で女性のことを話すみたいになってるんだよね

 

よくない流れだと思うのは

「俺はこの程度の清潔感を出して女性と仲良くなることに成功した。この程度の清潔感は当然だ」

みたいな主張ね

女性だって個人差あるんだからそんな明確にボーダーライン引かれても困るんだよ

そもそも「優しい人が好き」とか言ってそれが虚偽であるケースが有るのと同様に、「清潔感がある人が好き」と言ってる人の言葉額面通りに受け取るのはおかしいんだよ

 

清潔感を上げるのはとても良いことだけど、それで「清潔感がある人がいい」と言ってる全女性がなびく訳では無いし

なんならやり過ぎて引く人も居るんだから

全てはファジーなわけで

何が言いたいかと言うと、そこまで議論定義に夢中にならないでくれって

「美しい」という概念は、日常的な意味芸術哲学における意味で異なる側面があります。主な違いを以下に示します。

### 1. **日常的な「美しい」**

- **感覚的な快楽**: 日常的に「美しい」という言葉を使う際、人々は主に視覚的、聴覚的な快楽に基づいていることが多いです。たとえば、美しい風景、花、音楽などが挙げられます。これは、個人感覚や好みに依存やすく、比較主観的です。

- **直感的な反応**: 美しさは、しばしば瞬間的な直感感情的な反応として経験されます特に美的評価を深く考えたり分析したりすることなく、「美しい」と感じることが多いです。

- **普遍的基準の不在**: 日常的な美の概念には、普遍的基準がなく、何が美しいかは人それぞれです。

### 2. **芸術哲学における「美しい」**

- **哲学探究**: 芸術哲学で「美しい」とされるものは、単に感覚的な快楽にとどまらず、より深い哲学探究対象となります。美しさの本質普遍性、そしてその社会的文化的な意義について考察されます

- **形式と内容の関係**: 哲学的には、美はしばしば作品形式と内容、つまりその構造や秩序、調和に基づいて論じられます。例えば、ある芸術作品の美しさは、その要素がどのように組み合わさり、全体としてどのような意味感情を生み出すかに依存します。

- **普遍的価値の探求**: 芸術哲学では、美が単なる主観的感覚にとどまらず、ある程度の普遍性客観性を持ち得るかどうかが重要議論対象です。例えば、イマヌエル・カントは、美を感覚的な快楽のみに基づかない普遍的判断であると考えました。

- **美の批評評価**: 芸術哲学においては、美は批評的に評価されるべきものでもあります。これは、美的経験が単なる個人的な感覚ではなく、理性的評価批評を通じて共有され、理解されるべきであるという考え方に基づいています

### 3. **重要な違い**

- **深さと反省**: 日常的な美しさは、即座に感じられる感覚的な反応に基づくのに対し、芸術哲学的な美しさは、深い反省分析を通じて理解されることが多いです。後者は、感覚を超えた理性的理解社会的文化的背景の中での美の位置づけを重視します。

- **対象範囲**: 日常的な美は一般自然や人々が美しいと感じるもの限定されますが、芸術哲学では、美の対象は必ずしも「心地よい」もの限定されず、異様なもの不快ものにも美的価値が見出されることがあります

これらの違いを通じて、芸術哲学の「美しい」という概念は、単なる感覚快楽を超えて、深い哲学的探求と普遍的価値観の探求を含むものとなっています

もしアップデートだとしたら早すぎると思う。

個人的には、こっちのアップデート仮説より

ポリコレのアップデートが早過ぎてついていけなくなりそう

こっちの、以前から選好の自由セーフではなかった説を推したい。

170cm以下は「私は」キライ、なら燃えなかった...

調べたら、低身長炎上は2年前。

それから2年で私的領域の選好の自由でさえもポリコレ対象になったと考えるのは奇妙だ。

2年間でフェミニズムの発展があったわけじゃない。

特に大きなイベントは無かった。

時代は変化するとは言っても、さすがに2年は早すぎる。

女性の私は嫌い、に男たちは内心ずっとガマンしてきたんだと思う。

anond:20240812152806

チー牛はそもそも食べ物チーズ牛丼のことを指す略称なので直球の差別用語などにして言葉狩り対象にされては困るのですが

anond:20240811120625

エジプトにいた増田です。

思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています

そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分出会ってきた)アラビア語イスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます

大前提ですが、自分は基本、道楽勉強してきた人間で、職業的研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくま個人体験を元にした個人の感想で、学問裏付けあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。

(いきなり余談ですが、わたし出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリジムスリム、つまりムスリム結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)

シリア人結婚シリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。

また日本在住のマリジムスリムでも、家族親族との交流クルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます

ほとんどの場合ムスリム男性日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)

先述の通り、わたしアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。

イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンアラビア語はお経みたいなものイラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います

お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。

日本仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味勉強すると思います。非アラビア語話者ムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。

何ならアラブ人にとっても、クルアーンアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。

(お世話になっていたエジプト人の先生クルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見アラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからんものです)

一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います

ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハー勉強します。普段使っているアーンミーヤエジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。

外国人視点で見れば、フスハーアーンミーヤラテン語フランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます勉強しないで自然にできるわけがありません。

話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。

キリスト教聖書は色んな言語に訳されていて、普通各自言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。

何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的理解できるもの第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。

現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップ全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味整合性全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味あいまって全体の美しさが練られると思います歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。

英語ヒップホップ歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉ダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為信仰というものは、容易に翻訳可能知的了解やすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。

特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語ヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。

クルアーン特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教ルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象イメージが多いですね。

音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょエピソード的な話が続くと、とてもわかりやす言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりフレーズがビシッと入りますごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。

またヘブライ語聖書旧約聖書)のエピソード知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。

こうしたエピソードっぽいフレーズ時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます

この文体翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります

わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーン読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。

良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。

余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記学問的な界隈では結構からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのはコーラン」ですよね。

カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります

クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います

では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。

英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。

ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセント表現したようです。

実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人感覚簡単カタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。

別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語ラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。

同様にラテン文字表記英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。

あと不思議なのはアッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。

これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います

その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為のものは単なる殺戮肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚殺戮であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。

では実際のところ、平々凡々たる市井ムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います

色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。

キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですからムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリム感覚同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから

この低水準の信仰感覚というのは、あくまわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います

大人ですから知的敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています

そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています言語文化宗教連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。

まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います

そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢しょうが、違う場所から違う視点ものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。

人生、旅じゃないですか。

体臭が苦手すぎる」の感想

あの手の、男を嫌悪して貶すような女性は少なから存在する。

ネット上の文字のみならず、リアルで堂々と男を貶しまくる女性は昔からありふれている。

あの手の女性は、男を性的対象として見ているのだろう。

から自分性的関係になりたくない男を遠ざけるべく、嫌だと表明しているのではないか

普通の男も女性も、他人のことをそこまで攻撃的に貶したりはしない。

心の中で「体臭が苦手すぎる」と似たような思いを抱いたとしても。

自分には、あの手の女性は、まるで「男が女性を舐め回すように見る」の女性版のように思えてならない。

深層心理性的なことで埋め尽くされているのだと思う。

好みに合わないどころか嫌悪対象ならスルーすればいいのに。

何でわざわざ煽るようなことをするのだろうか。

疑問は膨らむばかり。

anond:20240812133906

その統計って本当に正しいのか?

暗数は?そもそも対象が偏ってない?

anond:20240812061052

たし🦀

電車の中とかシチュ限定した発言ならともかく、

日頃仕事で接している周囲の男……事務所テレビ局スタッフ・お偉いさん、取材対象……が臭い

と言ったと受け取られたなら仕事仲間やお金出す人を侮辱するコイツとは一緒に仕事できないと切られたのも仕方ない。

anond:20240811161747

キャンセルカルチャーを奪い返す 「表現の自由戦士」は正しいか

https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20230605/pol/00m/010/007000c

――もともとの意味はなんでしょうか。

 五野井氏 力なき人々にとっての最後の手段としてボイコット運動がありますインド独立運動英国商品不買や、米国公民権運動ではローザ・パークスの「バスボイコット」(※)がありました。

 情報発信主体ユーチューバーのようなインターネット上のサービスに移るなかで、抗議の対象国家企業だけではなく、情報を発信する個人現象価値観へと変化しつつあります

 キャンセルカルチャーそれ自体伝統的なボイコット運動の延長線上にあります

 ――ネットの発達で大きな影響力を持つようになりました。

 ◆#MeToo象徴される、ハッシュタグアクティビズムが盛んになりました。社会マジョリティー側がもつ特権に異議を申し立てます

 フェミニズムでいえば、男性中心主義の秩序に抗議します。キャンセルカルチャーは、メジャー価値観のなかでは取り上げられづらい人々の声を、SNSを通じて効果的に発信するものです。

 ――日本では、あまりそのようには思われていません。

 ◆本来ならばキャンセルされる側の人たちがキャンセルカルチャー手法を用いる逆転現象が起きています

 たとえば、女性差別的な表現を守ろうとする、いわゆる「表現の自由戦士」と言われる人たちはその典型です。

夢でも救われた

救われた夢というか、自分が一番見たかった夢というか、これが現実であればと空想していた夢

子供時代、転校を繰り返してていたのだが、どこいってもいじめられていた

といっても、小学生当時はいじめられた認識はなかった。

ただ、転校後にもらった手紙

いじめらていた君がいなくなったから、代わりにいじめられるようになった」とか書いてあって

あ、自分はいじめられていたんだと思うようになった。

振り返ると、普通の遊びと、いじめとかからかいとかの区別を感じれないくらい、

学生時代から自尊心はないまま過ごしてたんだなと思う。

小学校はまあそんな感じだったのだが、中学は完全にいじめられていた

教室の中で自分けがからかい対象になり、はたかれ殴られ、泣きながら家に帰ったシーンを今でも思い出す。

まあそれでも何故か不登校になるようなことはなく、中高大となんだかんだいじめからかいを繰り返しながら卒業したのだが、

自尊心がぼろぼろなのに気づかず社会にでてしまったので、会社入ってから全くコミュニケーションがとれず完全に病んでしまった

あ、なんか自分おかしいんだと思って、色んな本読んだり、いろんな精神科心療内科に通った

会社ではなんとか普通に見られるように必死擬態してたけど、

自信なさげに周りの目を気にしてキョドってるから会社の人にバカにされるし、

時に「生きてて楽しい?」とか言われても、侮辱されたとか怒りとか感じることができず、

当時は話のネタができたくらいにしか感じれないくらい心が病んでたと思う

それからいろいろあって、今は心は落ち着いている。

ただ、友達がいない

ドラマ漫画学生時代友達と会い、昔話に花を咲かせるみたいなことは、全然できない

はいっても中高大のときの級友は友達だったか?と言われるとたぶん友達じゃない気がする

対等な関係じゃなく、たた自分卑下して無理にくっついてた感じがあるし特に会いたいとも思わない

ただ転校前の小学生時代友達だったと自分でも思ってる。

中高大では感じなかった、楽しいとか一緒にいて安心するとかの感情は当時確かにあった

ただ転校後のいじめコミュ不足から自分から連絡を断ってしまった

会いたいなとか空想しても、もう一生会うことはないんだろうなと思っていたら

今日、夢に出てきた

結構な年月がたって同窓会?的なところに自分が参加してる感があった

夢の中でも、自分の事覚えてるかな?みたいな不安を覚えながら皆のところへ足を運んでいた

何人かが振り返って自分の事を覚えていそうで安心した気がする

その時、友達の誰かが自分を抱きしめてくれた

声を交わしたは覚えてないが、

「転校してから辛かったよな」

いじめられて辛かったんだよ」

みたいな心のやりとりがあったと思う

一応現実は安定しているから、自分では過去いじめとか病とかは振り切ってたつもりだったのに、

から覚めて

ああ、これが一番待ち望んでいたことだったんだと思ったことに、

驚いたとのもあるし安心したのもあるし、なんか救われた感じがした

現実であればなおいいんだろうけど、夢とはいえ自分の心の傷を癒やしてもらった友達感謝したい

ありがとう

2024-08-11

人間サイコパス

子供が何か損害を与えることをしてしまったとき「まあまあ子供のすることだから」と寛容に受け止めるという発想はあくま文化的ものなのだろうか?

子供には簡単に罰を与えない→子供を大切にするという発想は人間以外の哺乳類なら割と一般的だと思う。実の子供は命がけで守るような。

しかし「小さな大人」と呼ばれる存在しかいなかった中世あたり、それ以前では、都合が悪くなったら実子だろうが平気で口減らしするし、売買の対象にするし、減刑対象にもならない。

(口減らしするような人間天災人災時に子に覆いかぶさってでもその命を守ろうとは思わないだろう)

しかすると人間精神性というのはある点では他の哺乳類よりも遺伝的に劣っているのだろうか?いまでこそそれを文化カバーしているに過ぎないのだろうか?

乳児が誤って物を壊したときですら中世以前なら「もうお前許さねえ。間引き決定」な感じで大人同様一切の容赦がなかったんだろうか?ベビースキーマというのもあくまで「子供誕生」とともに培われて行ったものにすぎないのだろうか?

趣味が続かない理由を探った

趣味が続かない。

数か月前、はてブ小説に関するエントリを見て熱が湧き読書趣味になった。ハマった時は盲目的でそれしか無いような熱中っぷりで読み進めた。ところが、その熱も三日坊主で2ヶ月には冷めた。読み切ったとか関係なくふとした拍子で燃料が途切れる。

読書に代わりゲームにハマった。これもまた同じ様に熱を帯び、そして冷めた。そんな繰り返しでまたエントリ等でその対象へと移ろう。

元々飽きっぽい性格である事は自負していたけれど、どうも続ける意味必然性を求めてしまい、一旦「これを続けても何もならないのでは?」と思ってしまうと繋がれていた興味関心という回路が切れてしまう。

自己分析をするとコミュニケーションに繋がってないと思ってしまう事が要因だった。つまりその行為他者との繋がりに活かされていないと感じてしまうとその熱が冷める。

改めて振り返ってみると思い当たる節がある。昔は自分ゲームが好きな方だと思っていた。でも、それはあくまコミュニケーション手段、みんながやっていたか自分もやっていただけで実はそこまで好きじゃないかもと思った時期があった。今もやる時はやるけど声を大にして、趣味だと言えるほどはやらない。

今後自分がどういう人生を送るかは分からないけど共に歩める何かに出会いたい。

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん