はてなキーワード: 対象とは
書店を真面目にやる気がないなら書店の看板下ろして総合スーパーにでも業態転換しろ
この付近で面積だけはあるくせに他の商品に比べて本の取り揃えも文房具の取り揃えもクソ、その割にブルボンとか服とか成城石井とか置いて面積削ってんじゃねえ
挙げ句の果てにかなり高めの商品を何年も日ざらしにしたままなのに定価販売とか、商品を商品として扱ってないのはマジで販売業失格
性同一性障害(GID)のための特例法を悪用したい「一部のトランスジェンダー」が、自分たちも対象にしろ、自分たちに不利な要件をはずせと主張する上で、まずはトランスジェンダーとトランスセクシャル(GID)とを意図的に混同させたのでしょうね。
ほら「くたばれGID」の人とか。
中高生とセックスしたいのは分かるけど我慢しようって方が健全なんじゃないか?
今は18で成人だけど、17歳なんて子供全然性欲の対象になりませんなんてことあり得ないわけじゃん
未成年は男の性欲を利用して接触してくるけどそこは我慢しなきゃいけない
これを前提にして具体的な対策方法を考えていかなきゃいけないんだよな
じゃないと何度も同じこと起きるよ
https://x.com/eurosport/status/1822750807634145729
左派「女性の多様性を尊重(※ただし、私達の主観で「性的興行」と見做したものは除く)」
https://togetter.com/li/2417157
この手のもので(※勿論、○○もちゃんと含む)的なものほぼ見たことないんだけど。
そういう言葉立派そうに掲げといて平気で自分達主観の例外的対象作って「○○なんか私たちの掲げている主義思想の範疇には含まれねーよバーカ」とか抜かすとか、はなから「兎に角俺は○○が大嫌いだ気に入らないんだ差別してやるぜイヒヒ多様性なんて糞くらえだそんなもんぶっ潰してやるぜ」みたいなこと言ってる輩がそういうことやってるよりもたち悪い。
隣の誰々が臭くて困る…とかお前の口臭えんだよ!とか風俗嬢のマ◯コが臭くてさ~みたいな「臭いdis」をするのはたいてい男性だった。
逆に女性からは推しの(臭いをイメージした)香水とかに始まり現実の男の体臭に関しても好きな臭いの話を嬉々として語られることが多く、
なんでああいう形で女性が炎上するというのは個人的には驚いた。
美少女コンテンツが好きでセクハラ表現が苦手なオタクって本人達は結構本気で苦しんでるんだけど、セクハラ表現OKのオタクにはこの苦しみが理解できないからカッコつけてると思われてるっぽいんだよね— 田宮 (@tamiya__y) August 11, 2024
こういうクソフェミのお気持ち表明が最近多いけど、賛同してるやつも含めて大抵が女なんだよ
そもそもお前らは本来の対象じゃねえんだよ プリキュアを見ているおじさんと同等な存在なわけ。
部外者が勝手に他人のものを楽しませて頂きありがとうございますという謙虚な姿勢を持てよ。そんでひっそりと楽しめ。
それを事もあろうかその島のルールにまで口を出すって、どういう面の皮の厚さしてんの?恥ずかしいと思わないのか?
男に置き換えたらプリキュアや乙女ゲーの内容に口出しているおじさんと同じなんだよ。恥ずかしすぎるでしょそんなの。
結局こういう厚かましい女ばかり生んだのは俺らにも責任の一端がある。男向けコンテンツに女が寄り付くことをステータスみたいに扱っていたことがこいつらの増長を生んだのは間違いない。
現実は「女が寄り付く=リスク」でしかない。チャイナリスクならずウーマンリスクだ。男たちが楽しんでいる場所にいきなり現れて、勝手に学級会開かれ女に都合の良い空間に作り替えられるだけなんだよ。
これに懲りたら女人気に頼ったコンテンツ作りなんて考えないことだ。
話すときにはそのほうが良いんだろうけどさ
とうぜん女性一人一人にとって「清潔感がある人がいい」の定義って違ってるからね
まるで「優しい人が好き」に対して「優しさとは何か」を定義しようと議論してる人らみたいなんだけど
それって滑稽じゃない?
まずは具体的な相手に「どういう人が優しいと思う?」って聞いたり
それができなかったら何人かに聞いて幾つかのパターンをインプットするのが妥当でしょう?
どうもネットの議論はその具体的なところを置いといて、男子校の中で女性のことを話すみたいになってるんだよね
よくない流れだと思うのは
「俺はこの程度の清潔感を出して女性と仲良くなることに成功した。この程度の清潔感は当然だ」
みたいな主張ね
女性にだって個人差あるんだからそんな明確にボーダーライン引かれても困るんだよ
そもそも「優しい人が好き」とか言ってそれが虚偽であるケースが有るのと同様に、「清潔感がある人が好き」と言ってる人の言葉を額面通りに受け取るのはおかしいんだよ
清潔感を上げるのはとても良いことだけど、それで「清潔感がある人がいい」と言ってる全女性がなびく訳では無いし
なんならやり過ぎて引く人も居るんだから
全てはファジーなわけで
「美しい」という概念は、日常的な意味と芸術哲学における意味で異なる側面があります。主な違いを以下に示します。
### 1. **日常的な「美しい」**
- **感覚的な快楽**: 日常的に「美しい」という言葉を使う際、人々は主に視覚的、聴覚的な快楽に基づいていることが多いです。たとえば、美しい風景、花、音楽などが挙げられます。これは、個人の感覚や好みに依存しやすく、比較的主観的です。
- **直感的な反応**: 美しさは、しばしば瞬間的な直感や感情的な反応として経験されます。特に美的評価を深く考えたり分析したりすることなく、「美しい」と感じることが多いです。
- **普遍的基準の不在**: 日常的な美の概念には、普遍的な基準がなく、何が美しいかは人それぞれです。
- **哲学的探究**: 芸術哲学で「美しい」とされるものは、単に感覚的な快楽にとどまらず、より深い哲学的探究の対象となります。美しさの本質、普遍性、そしてその社会的・文化的な意義について考察されます。
- **形式と内容の関係**: 哲学的には、美はしばしば作品の形式と内容、つまりその構造や秩序、調和に基づいて論じられます。例えば、ある芸術作品の美しさは、その要素がどのように組み合わさり、全体としてどのような意味や感情を生み出すかに依存します。
- **普遍的価値の探求**: 芸術哲学では、美が単なる主観的な感覚にとどまらず、ある程度の普遍性や客観性を持ち得るかどうかが重要な議論の対象です。例えば、イマヌエル・カントは、美を感覚的な快楽のみに基づかない普遍的な判断であると考えました。
- **美の批評と評価**: 芸術哲学においては、美は批評的に評価されるべきものでもあります。これは、美的経験が単なる個人的な感覚ではなく、理性的な評価や批評を通じて共有され、理解されるべきであるという考え方に基づいています。
### 3. **重要な違い**
- **深さと反省**: 日常的な美しさは、即座に感じられる感覚的な反応に基づくのに対し、芸術哲学的な美しさは、深い反省や分析を通じて理解されることが多いです。後者は、感覚を超えた理性的な理解や社会的、文化的背景の中での美の位置づけを重視します。
- **対象の範囲**: 日常的な美は一般に自然や人々が美しいと感じるものに限定されますが、芸術哲学では、美の対象は必ずしも「心地よい」ものに限定されず、異様なものや不快なものにも美的価値が見出されることがあります。
これらの違いを通じて、芸術哲学の「美しい」という概念は、単なる感覚的快楽を超えて、深い哲学的探求と普遍的な価値観の探求を含むものとなっています。
もしアップデートだとしたら早すぎると思う。
こっちの、以前から選好の自由セーフではなかった説を推したい。
それから2年で私的領域の選好の自由でさえもポリコレの対象になったと考えるのは奇妙だ。
2年間でフェミニズムの発展があったわけじゃない。
時代は変化するとは言っても、さすがに2年は早すぎる。
思いのほか多くの方に読んで頂けたことに当惑しつつ、大変感謝しています。
そんなに人の興味のあることではないとは思うのですが、せっかくの機会なので、自分の考える(自分の出会ってきた)アラビア語とイスラームのことを、ちょっと書かせて頂きます。
大前提ですが、自分は基本、道楽で勉強してきた人間で、職業的な研究者ではありません。大学の専門も西南アジア史とかではないです。あくまで個人の体験を元にした個人の感想で、学問的裏付けのあやふやな大雑把なお話だとご理解下さい。
(いきなり余談ですが、わたしが出会ってきた「アラビア語の達者な日本人」は必ずしも研究者ではなく、一番多いのはマリッジムスリム、つまりムスリムと結婚した日本人です。彼女たちはエジプト社会に溶け込んで普通に暮らしているので、普通は言葉が達者です……十年いても全然ダメでかつ謎の力で意思疎通できる不思議な人もいましたが(笑)。
シリア人と結婚しシリア在住の女性とは、帰りの飛行機で隣り合わせて、息継ぐ間もなく喋り続けて良い思い出です。彼女から聞いた当時のシリア事情は外から見た「残虐なバッシャールvs自由シリア軍」みたいな構図とは全然違って、目を開かされました。
また日本在住のマリッジムスリムでも、家族親族との交流やクルアーンのために熱心に勉強し、大変流暢な方がおられます。
ほとんどの場合、ムスリム男性と日本人女性で、これはイスラーム圏において異教徒の嫁を貰って改宗してもらうのは敷居が低い一方、女性をよその男性にさらすのは極めてハードルが高いせいでしょう。逆のパターンを1組だけ知っていますが、これは女性側の家が相当裕福なインテリ層で、留学経験などもあるためでした)
先述の通り、わたしがアラビア語に関心をもったのはイスラームへの興味からでした。
イラン人についての書かれた元増田の方が、「クルアーンのアラビア語はお経みたいなもの、イラン人にはわからん」といったことを記されていましたが、本当にクルアーンはお経的だと思います。
お経的というのは、意味内容以前に「音をそのまま」読誦することが重視されている、という点においてです。
日本の仏教徒で熱心にお経を読まれている方も、楽譜みたいな感じで音そのものを覚えつつ、意味も勉強すると思います。非アラビア語話者のムスリムにとって、クルアーンはちょうどそんな感じです。
何ならアラブ人にとっても、クルアーンのアラビア語は非常に古い言葉ですので、普通に読んだら意味のわからないところは沢山あります。ただ幼少期から声に出して読誦し丸暗記しているし、その意味も大抵は教えられているので、特に疑問に思わないだけです。
(お世話になっていたエジプト人の先生とクルアーンについて話していた時、「アン=ナージアートとかぶっちゃけ全然わからん!」と言っていたのを覚えています。これはクルアーンの後半の方にある非常に韻文的で語彙的に難しい章で、短いので多くのムスリムが丸暗記していますが、初見のアラビア語として見たら大学出のエジプト人でも「全然わからん」ものです)
一点留保をつけると、「古いからわからない」という意味では日本人にとっての平安時代の言葉に似てはいるのですが、前のエントリでも書いた通りアラブ世界ではフスハーという形で古いアラビア語が割と保存されているため、日本人における古語ほどは難しく感じないと思います。
ついでに言えば、少なくとも大多数のエジプト人は、アラビア語と言えばこのフスハーのことだと信じていて、学校の「国語」にあたる時間ではフスハーを勉強します。普段使っているアーンミーヤ、エジプト方言はその「崩れたもの」くらいの認識で、「勉強するに値しない」「文法なんかない」と本気で思っています。大学出の語学教師さえ、「この仕事につくまで、アーンミーヤをわざわざ勉強するなんて考えたこともなかった」「文法なんかなくて、自然にできると思っていた」とか言い出すほどです。
外国人視点で見れば、フスハーとアーンミーヤはラテン語とフランス語くらい離れていて、勉強すれば連続性がわかり、「ここがこう変化して今こうなのか!」と感動するのですが、最初に耳で聞くとまったく別言語に聞こえます。勉強しないで自然にできるわけがありません。
話がズレましたが、クルアーンは(お経のように)そのままのアラビア語を声に出して読み丸暗記するのが基本です。
キリスト教の聖書は色んな言語に訳されていて、普通は各自の言語で読むものだと思うので、その点がかなり異なります。ただ、周知の通り聖書の大衆口語への翻訳が本格的に行われるようになったのは宗教改革以降で、元来はキリスト教でも「音そのまま」が基本だったのではないかと思います。おそらく大抵の聖典とか、宗教的行為というのは、意味以前に音や身体操作をそのまま発して覚える、反復することが大切だったのではないでしょうか。
何が言いたいかと言うと、現代日本に生きるわたしたちは、宗教というと信念体系とか戒律とか、知的に理解できるものを第一に考えてしまいがちですが、元々はもっと音楽的で、意味や論理性よりも「ノリ」みたいなものを重視していたはず、ということです。
現代で言えば、ヒップホップみたいな感じでしょうか。ヒップホップに全然詳しくないので的外れだったら申し訳ありませんが、フロウとかライムとかは、意味的整合性が全然どうでもいいとは言いませんが、音ノリと意味があいまって全体の美しさが練られると思います。歌詞を紙に書き出して意味を深堀りする、みたいな作業は、批評的・研究的には意味があると思いますが、そこに第一義があるわけではありません。
英語のヒップホップの歌詞を全部翻訳して、その意味内容だけをじっと見つめていても、多分その曲の本質にはあまり近づけません。同様に、イスラームについて「戒律が厳しい」とか「豚肉はダメ」とかそんなところだけ見ても、実際にムスリムたちが行っている、あるいは身体化している「それ」からすると、的を外してしまっている可能性が大いにあります。そしてイスラームに限らず、(現代的にはただの迷妄のように片付けられがちな)宗教行為、信仰というものは、容易に翻訳可能で知的に了解しやすい部分だけ追っても、なかなか「肝」のところが見えてこないのではないでしょうか。
特に聖典のような古い言語は韻文的性質が強いです。アラビア語とヘブライ語のような近い言語ならともかく、日本語のような遠い言語に翻訳すると、どうしても元々の「ノリ」が失われてしまいます。やはり対象言語を基本だけでも学び、翻訳と原典の両方を活用しないと、うまく「詠む」ことはできません。
クルアーン、特にマッカ期と呼ばれる初期に啓示された後半部分は、大変韻文的性質が強いです(クルアーンは概ね時系列と逆に章が並んでいます)。日本では「戒律の厳しい宗教のルールブック」みたいなイメージが強いかもしれませんが、そういう約束事みたいなことを書いている部分は、まったくないとは言いませんが極めて少なく、では何が書かれているかというと、概ね「神様スゴイ」ということを手を変え品を変え表現しているだけです。本当に同じことを言い方を変えて反復しています。あとは「現世は戯れ」「不信仰者を待つのは火獄の責め苦」「楽園には川が流れている」みたいな抽象的イメージが多いですね。
音楽的ノリが強いので「サビ」みたいな部分もあって、ごにょごにょとエピソード的な話が続くと、とてもわかりやすい言葉で「まことアッラーは慈悲深い」みたいなお決まりのフレーズがビシッと入ります。ごにょごにょのところが言語的にちょっと難しくても、サビだけは聞き取れるので外国人にやさしいです。
またヘブライ語聖書(旧約聖書)のエピソードが知識として前提されている雰囲気があり、ちょっと二次創作っぽいというか、ユースフ(ヨセフ)とかイブラーヒーム(アブラハム)とかヌーフ(ノア)とか、旧約キャラの話が脈絡なくフラッシュバックのようにパッパッと入ります。旧約エピソードがアラビア語的にカッコイイ韻文で表現されているのは、こんなことを言うと怒られそうですがファンアートっぽいというか、音楽的に昇華されている感じです。
こうしたエピソードっぽいフレーズは時系列で並んでいるわけでは全然なく、「そういえばアイツもこうだった」みたいに話題ごとに何度も引っ張り出されます。
この文体は翻訳で読むと非常に冗長で退屈極まりないのですが、音で聞くと大変心地良く、カッコイイのです。情報として全然新規性がなくても、「出ました! ムーサー(モーセ)の話!」みたいに盛り上がります。
わたしは今でも、車を運転する時は「今日はアル=アアラーフでいくか」みたいに、正に音楽をかけるノリでクルアーンの読誦を流しています。心が落ち着いて安全運転です。
良く言えばノリが良く、悪く言うと深く考えてない感じです。
余談に次ぐ余談ですが、「クルアーン」というカタカナ表記は学問的な界隈では結構前からポピュラーだと思いますが、昔から一般的なのは「コーラン」ですよね。
カタカナで正確に書けるわけがないのだからどっちでもいいんじゃない?とは思いますが、ちょっと疑問に思っていることがあります。
「クルアーン」というのは表記に忠実な感じの書き方で、あまり良い例ではないかもしれませんが、「stand up」を(ステァンダッではなく)「スタンドアップ」と書くみたいな方針だと思います。
では「コーラン」の方が音に忠実かというと、そうではなく、これは多分、英語表記からカタカナに起こしたものです。ラテン文字表記でquranとかkoranとか書かれていたのを、カタカナにする時に「コーラン」にしたのでしょう。
英語圏の人たちが一般にこれをどう発音しているのかよく知らないのですが、もしアラビア語の音に似せるなら、後半にアクセントがあるはずです。
ところが、理由はわかりませんが、カタカナにする時になぜか前半アクセントのイメージで「コ」の後に伸ばし棒をつけて、擬似的に強弱アクセントを表現したようです。
実際に耳で聞けば後半にアクセントがあるのは歴然としていて、日本人の感覚で簡単なカタカナ表記を考えるなら「コラーン」あたりが音的には一番近いと思います。これを普通にカタカナ読みしても多分通じますが、「クルアーン」「コーラン」はまずわからないでしょう。
別にどっちでもいいのですが、アラビア語には日本語のように長母音的な概念があるので、素直に似せていけばいいものを、わざわざ第三言語のラテン文字表記に引っ張られているのがちょっと悔しいです。
同様にラテン文字表記(英語圏での表記)に引っ張られているらしいものとして、「メッカ」はどう考えても「マッカ」で、これはカタカナ読みでも通じます。「カタール」は普通に聞いたら「カタル」が断然近いです。
あと不思議なのは「アッバース朝」とPLOの「アッバス議長」は同じ名前なのですが、なぜか文脈で表記が違いますよね。「アッバース」の方がアクセント的に近いです。これも多分、議長の方がラテン文字表記に引っ張られたのでしょうね。
これは完全に自分語りですが、わたしは割とキリスト教の影響のある環境に育ちました(信者ではありません)。子供時代はどちらかというと反発し、宗教とはなんてアホで小うるさいものなんだ、くらいの幼稚な考えを抱いていたのですが、肯定否定はともかく、信仰なるものについて考える機会は日本人としては多い方だったと思います。
その中でイスラームは、911やその後の騒動もあって印象が強烈でした。行為そのものは単なる殺戮で肯定できるものではありませんが、何年もかけて潜伏し飛行機の操縦を学び、自分の命を投げ捨てて突っ込むというのは尋常ではありません。一方で、世界に16億いるというムスリムが皆こんなぶっ飛んだ感覚の殺戮者であるのは、常識的に考えてありえないと思いました。
では実際のところ、平々凡々たる市井のムスリムたちはどうなのか? 彼らが信じている、その中で生まれ育ち生きているイスラームとはどんなものなのか? というのが、今思うと出発点だったと思います。
色々本を読むとそれなりにイスラームについての一般常識はつくのですが、それらはあくまで、頭の良い人が外から観察してまとめたものです。しかしわたしが知りたかったのは、もっとレベルの低い大衆的な肌感覚みたいなもので、それを知るには内的に追体験するというか、彼ら自身の立ち位置になるべく入ってみて、そこから世界を眺めてみないといけない思いました。
キリスト教でも仏教でも熱心な信徒もいればなんちゃってクリスチャンみたいのもいるわけですから、ムスリムだって色々なはずで、「さほど熱心ではないけどやっぱり信じてる」みたいな人もいるはずです。どちらかというとヘボいムスリムの感覚に同化してみたかったです。わたしはヘボい日本人ですから。
この低水準の信仰感覚というのは、あくまでわたし個人の感じてきたところでは、幼い頃から聞いている歌がつい口をついて出てしまうみたいなものかと思います。
大人ですから知的に敷衍して約束事のように語る部分もありますが、多分そこは本質ではなく(彼ら自身は見栄っ張りなので、よそ行きにもっともらしいことを語るものなのですが)、もっと身体的で音楽的なものこそが大元なのだと、自分は感じています。
そしてこの感覚は、サピア・ウォーフの仮説ではないですが、言語と密接に繋がっています。言語、文化、宗教は連続体で、どれか一個だけ取り出して眺めようとしてもなかなかうまくいきません。
まぁ、そんな風に見てみると、意味のわからない人々についてもちょっとは親しく感じられるんじゃないかなぁ、と思います。
そんなこと興味ない、親しみたくなんかない、という人が大勢でしょうが、違う場所から違う視点でものを見てみるのは、何でもすごく面白いものだとわたしは思いますよ。
人生、旅じゃないですか。
ネット上の文字のみならず、リアルで堂々と男を貶しまくる女性は昔からありふれている。
だから、自分が性的な関係になりたくない男を遠ざけるべく、嫌だと表明しているのではないか。
普通の男も女性も、他人のことをそこまで攻撃的に貶したりはしない。
心の中で「体臭が苦手すぎる」と似たような思いを抱いたとしても。
自分には、あの手の女性は、まるで「男が女性を舐め回すように見る」の女性版のように思えてならない。
何でわざわざ煽るようなことをするのだろうか。
疑問は膨らむばかり。
キャンセルカルチャーを奪い返す 「表現の自由戦士」は正しいか
https://mainichi.jp/premier/politics/articles/20230605/pol/00m/010/007000c
――もともとの意味はなんでしょうか。
五野井氏 力なき人々にとっての最後の手段としてボイコット運動があります。インド独立運動の英国商品不買や、米国公民権運動ではローザ・パークスの「バス・ボイコット」(※)がありました。
情報発信の主体がユーチューバーのようなインターネット上のサービスに移るなかで、抗議の対象も国家や企業だけではなく、情報を発信する個人や現象、価値観へと変化しつつあります。
キャンセルカルチャーそれ自体は伝統的なボイコット運動の延長線上にあります。
――ネットの発達で大きな影響力を持つようになりました。
◆#MeTooに象徴される、ハッシュタグ・アクティビズムが盛んになりました。社会のマジョリティー側がもつ特権に異議を申し立てます。
フェミニズムでいえば、男性中心主義の秩序に抗議します。キャンセルカルチャーは、メジャーな価値観のなかでは取り上げられづらい人々の声を、SNSを通じて効果的に発信するものです。
夢でも救われた
救われた夢というか、自分が一番見たかった夢というか、これが現実であればと空想していた夢
子供時代、転校を繰り返してていたのだが、どこいってもいじめられていた
ただ、転校後にもらった手紙に
「いじめらていた君がいなくなったから、代わりにいじめられるようになった」とか書いてあって
振り返ると、普通の遊びと、いじめとかからかいとかの区別を感じれないくらい、
小学校はまあそんな感じだったのだが、中学は完全にいじめられていた
教室の中で自分だけがからかいの対象になり、はたかれ殴られ、泣きながら家に帰ったシーンを今でも思い出す。
まあそれでも何故か不登校になるようなことはなく、中高大となんだかんだいじめとからかいを繰り返しながら卒業したのだが、
自尊心がぼろぼろなのに気づかず社会にでてしまったので、会社入ってから全くコミュニケーションがとれず完全に病んでしまった
あ、なんか自分はおかしいんだと思って、色んな本読んだり、いろんな精神科や心療内科に通った
自信なさげに周りの目を気にしてキョドってるから、会社の人にバカにされるし、
時に「生きてて楽しい?」とか言われても、侮辱されたとか怒りとか感じることができず、
当時は話のネタができたくらいにしか感じれないくらい心が病んでたと思う
それからいろいろあって、今は心は落ち着いている。
ただ、友達がいない
ドラマや漫画で学生時代の友達と会い、昔話に花を咲かせるみたいなことは、全然できない
とはいっても中高大のときの級友は友達だったか?と言われるとたぶん友達じゃない気がする
対等な関係じゃなく、たた自分を卑下して無理にくっついてた感じがあるし特に会いたいとも思わない
中高大では感じなかった、楽しいとか一緒にいて安心するとかの感情は当時確かにあった
ただ転校後のいじめやコミュ不足から自分から連絡を断ってしまった
会いたいなとか空想しても、もう一生会うことはないんだろうなと思っていたら
今日、夢に出てきた
結構な年月がたって同窓会?的なところに自分が参加してる感があった
夢の中でも、自分の事覚えてるかな?みたいな不安を覚えながら皆のところへ足を運んでいた
声を交わしたは覚えてないが、
「転校してから辛かったよな」
「いじめられて辛かったんだよ」
みたいな心のやりとりがあったと思う
一応現実は安定しているから、自分では過去のいじめとか病とかは振り切ってたつもりだったのに、
夢から覚めて
ああ、これが一番待ち望んでいたことだったんだと思ったことに、
驚いたとのもあるし安心したのもあるし、なんか救われた感じがした
子供が何か損害を与えることをしてしまったとき「まあまあ子供のすることだから」と寛容に受け止めるという発想はあくまで文化的なものなのだろうか?
子供には簡単に罰を与えない→子供を大切にするという発想は人間以外の哺乳類なら割と一般的だと思う。実の子供は命がけで守るような。
しかし「小さな大人」と呼ばれる存在しかいなかった中世あたり、それ以前では、都合が悪くなったら実子だろうが平気で口減らしするし、売買の対象にするし、減刑の対象にもならない。
(口減らしするような人間が天災や人災時に子に覆いかぶさってでもその命を守ろうとは思わないだろう)
もしかすると人間の精神性というのはある点では他の哺乳類よりも遺伝的に劣っているのだろうか?いまでこそそれを文化でカバーしているに過ぎないのだろうか?
乳児が誤って物を壊したときですら中世以前なら「もうお前許さねえ。間引き決定」な感じで大人同様一切の容赦がなかったんだろうか?ベビースキーマというのもあくまで「子供の誕生」とともに培われて行ったものにすぎないのだろうか?
趣味が続かない。
数か月前、はてブで小説に関するエントリを見て熱が湧き読書が趣味になった。ハマった時は盲目的でそれしか無いような熱中っぷりで読み進めた。ところが、その熱も三日坊主で2ヶ月には冷めた。読み切ったとか関係なくふとした拍子で燃料が途切れる。
読書に代わりゲームにハマった。これもまた同じ様に熱を帯び、そして冷めた。そんな繰り返しでまたエントリ等でその対象へと移ろう。
元々飽きっぽい性格である事は自負していたけれど、どうも続ける意味や必然性を求めてしまい、一旦「これを続けても何もならないのでは?」と思ってしまうと繋がれていた興味関心という回路が切れてしまう。
自己分析をするとコミュニケーションに繋がってないと思ってしまう事が要因だった。つまりその行為が他者との繋がりに活かされていないと感じてしまうとその熱が冷める。
改めて振り返ってみると思い当たる節がある。昔は自分はゲームが好きな方だと思っていた。でも、それはあくまでコミュニケーションの手段、みんながやっていたから自分もやっていただけで実はそこまで好きじゃないかもと思った時期があった。今もやる時はやるけど声を大にして、趣味だと言えるほどはやらない。