はてなキーワード: ミュージックとは
ミュージックプレーヤーがMDからiPod になったのはiTunesが優れていたから。何千曲取り込んでもパソコンで一括管理できたのすごかったよ。ソニーはソフトウェアがしょぼかったんじゃ無い?
携帯電話がガラケーからiPhone に変わったのは、iOS が優れていたから。他の会社も真似したけど、google しかまともなソフトウェア作れなかったよ。しかもコピー同然だった。
クルマがトヨタからテスラに変わったのは、ソフトウェアが優れていたから。自動運転はテスラにしか出来なかったよ。← これが欧米の人達が信じたい世界では?
実際には、自動運転は人命関わるし、ケータイよりは航空機の制御システムに近いものでないと受け入れられないかも。それでもボーイングとエアバスしかないから、やっぱりソフトウェアが入ると実質寡占になる。トヨタの立ち位置はうまくいったらホンハイくらいになれるかな〜?でもホンハイも車の受託製造始めそうだから厳しいねー。
CD世代だし、小遣いもバイト代もかなりの割合でCDにつぎ込んできたんだけど、音楽をストリーミングで聞くようになってから全然自分にとって物理メディアを所有することが大事じゃなくなった。びっくりした。
高校生の頃までは、いや大学生の頃も、どんなCDをラックに並べているかがまだ大事だった。しかし音楽をpc に取り込むようになり、それをiPodで聴くようになり、その後iPhoneで聞くようになるにつれて、たしかに徐々に自分にとってのCDの価値はどんどん薄れていったけど、まだしばらくは価値があった。それが、Spotifyに完全移行完全にする様になってから、本当にいらないものになってしまった。こんなに早く価値観が変わってしまうとは予想してなかった。
今やCDとかカセットとかレコードとかでしか聞けない音楽には触れられなくなってしまって、Spotify、アマゾンミュージック、YouTubeにない音楽は少なくとも自分にとっては存在しないに等しいんだけど、それでも今までで一番気軽に新しいジャンルに触れられるし、物理的なメディアはなくても結構音楽に愛着を持っていられるしで、とても良い。マニアックな音楽ファンにはいろいろあるんだろうけど、自分みたいな普通の音楽好きには今の状況が最高であるね。
心よりお悔やみを申し上げます。
その悲しみにくれると共にTwitter見てたらイラッとしてしまったという文章。
本来ならこんな悲しい時にこんなことで怒りをつのらせたくなかった。
逝去と共にTwitterには「ザオリク」のワードがあふれた。
まだまだ元気でいて欲しかった、もう一度ドラクエミュージックを作って欲しかったと言うやるせない想いからのふっかつのじゅもんだと思う。
個人的にはこれを見た時に「茶化すな!」という気持ちが先行してしまったのであまり良い気はしなかった。
が、その人が茶化してるか本気で追悼してるのかなんて文章からは読み取れないし個人の感情でしかないので「氏を追悼する意味でのザオリク」については気にしないようにした。
過去に芸能人が逝去された時だって「生き返ってもう一度共演したい」というようなコメントが同業者から発表されることはあったと思うし、同様のコメントとして殊更問題視すべきではないと思うようにした。
ただしザオリクトレンド入りは受け付けなかった。正確に言うとトレンド入りに対する反応が受け付けなかった。
何が受け付けなかったかというと
「ザオリクw」
みたいな反応が一つ。
「草」とか「吹いた」とか言ってるやつ。追悼の意思ないじゃん。なんで面白がってんの?
「Twitterすご」とか言ってるやつ、何が凄いの?
「故人に対しての追悼への反応がザオリクという氏の関わったゲーム作品によるモノだったため、氏の偉業を実感したから」なのかな?だったらTwitterすごじゃなくて「すぎやまこういちすごい!」だよね?Twitterとか日本国民がすごいんじゃないよね?「みんなでザオリク言っちゃう一体感を感じるからすごい」のかな?ふーん。どっちにしろ訃報に関するワードではしゃいでほしくないですけど。
人の死はお前らの小さな内輪コミュニティに面白ネタを提供するためのものじゃないんだよ?
もう一点は
ユーモアどうこうとか言うやつは「人の死にユーモアを持ち込むことに忌避感を覚える人間がいる」ということを想定して動いた方がいいよ。もし現実社会でユーモア出したら取り返しがつかなくなる可能性あるよ。
エアプ認定勢、なんでそんなレッテル貼りした?気に食わないことあった時にレッテル貼りして正当性主張するのやめた方がいいよ。
お前らが楽しくザオリク祭りしてるところに一丁前に口出して悪かったね。個人の感想でしかないんで好きに「不謹慎厨が!」と叩いてくれ。
趣味でスペイン語の音楽をちょいちょい聴いてるんだけど、アップルミュージックで色々聴いてみる中でいちばん自分に合ってたのがアルゼンチン音楽だった
アルヘンティーナっていうんスよ、まず
響きがいいよね
首都ブエノスアイレスは、「いい風」「いい空気」みたいな意味合い
なんか、いいじゃないすか
アルゼンチンのスペイン語は、llとかyの音が、ジャとかヤとかじゃなく、シャになるんですよ
スペインらしいスペイン語だと、「私の名前は○○です」は、(ジョ・)メ・ジャモ・○○なんだが、これがアルゼンチン語だと(ショ・)メ・シャモになる
いいんだよなあ!
Llorar(泣く)って単語、けっこういろんな歌に出てくんだけどさ、ショラールって響きがいいよな
泣くなよ、ってときに、ノ・ジョレスなんつっても、心に響かねえの
ノ・ショレスはかなり良い 響きが優しいよ
トゥじゃなくて、ボスなんすよ
だからさ、「君と僕」なんかアルゼンチン語と正統スペイン語で比べるとほぼ全部違う
正統:tú y yo (トゥ・イ・ジョ)
これはもう、断然ボスイショでしょ
Esperando el armagedon, vos y yo(終末を待っている、君と僕で)ですよ
ブエノスアイレス、huracán(ハリケーン)が来るらしいんだよな
親しみが持てる
あとなんか、ラプラタ川の下流に吹く強い風sudestada(スデスターダ)っていう謎の概念があるらしい
絶対浴びたいよな
なんかこう、(おそらく)ブエノスアイレスを描いた歌のあらゆる描写が魅力的なんだよ
「川を行き交う船を見る」
そういうのがサラッと出てくる
いいんだよなあ
🇦🇷っていう国旗もいい
なんか、淡いんだよな
淡いんすわ
行ったことないから分かんないし、完全に偏見なんすけど、そういう淡さみたいなのを感じるんだよ、アルゼンチン
チリの方言なんかはさ、sが消えまくって、怖いわけ エッタノーチェ、のか言っちゃって、ヤンキーっていうか、ヤクザっていうか、なんか怖いんだよ
ケレ↑スとか、テネ↑スとか、いいよな
この感じをちょうどよくわかってくれる相手がほしいんだよな
ガチ勢だと、たぶん俺の夢を破壊するようなことを言ってきたりする
それ以外だと、そもそも話が通じない
たぶんアニメ見て日本に憧れてるようなもんか、それ以下なんだよ、俺のアルゼンチンへの解像度
でも、そのくらいがいいのかもしれん
Bajamos por el sótano y me mostrás ropa vieja de color que coleccionás (僕らは地下室に降りて、君は集めている鮮やかな古着を見せてくれる)とか、すっげえいいよな
地下室のことソタノって言うらしい
メチャクチャいい
いいんだよな
ディズニー映画に埋もれた名作などというものは存在せず、有名なやつは出来がよく、無名なやつは出来が悪い。
以下、備忘録をかねてウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ制作の長編アニメ映画史を概観したい。
『メイク・マイン・ミュージック』以外はディズニープラスで全部見れる。
おすすめの作品:『白雪姫』『ファンタジア』(ミッキーのやつだけ)『ダンボ』
ディズニー長編アニメの歴史はアニメ史に残る傑作『白雪姫』とともに幕を開ける。この作品はとにかく作画が凄まじく、戦後の日本人が衝撃を受けたという逸話も納得の出来である。著作権が切れているのでYoutube等でも見れるが、できるだけきれいな画質で見たほうがいい。7人の小人たちの非モテ自助コミュニティ描写もピカイチで、増田を見ているような人々は目を通しておいて損はないと思う。
ディズニー映画はこの頃から一貫して「教育的で」「社会的にただしいとされる」物語を描こうというはっきりとした意思を見て取ることができる。そのため、作品の背景には常に制作された時代の価値観が垣間見える。
例えば『白雪姫』の3年後に公開された『ピノキオ』では、主人公ピノキオを導く良心の象徴としてジミニー・クリケットという名前のコオロギが登場する。この「ジミニー・クリケット」という名前はジーザス・クライストの言い換え語らしく、つまりここでは創造主の似姿として作られた人形が様々な誘惑と戦いながらも最終的にはイエス・キリストに導かれ、ただしい人間性を獲得するという物語が展開されるわけだ。
『ピノキオ』自体は退屈な作品ではあるものの、歴史や時代背景を含めて見ていくと別の発見があり、それはそれで豊かな体験である。ちなみに当時のディズニー自身はむしろできるだけ宗教色を薄めたいと思っていたらしく、この辺は社会に要請されてやむなくという側面が強いのかもしれない。
ほか『ファンタジア』中の「魔法使いの弟子」と『ダンボ』は見ていて単純にたのしい良作。『ダンボ』のお母さんの健気さは泣ける。
『バンビ』のあと『シンデレラ』まで長編の物語映画はなく、とくにおもしろい作品はない。とはいえ日本人としては、バリバリに総力戦をやりながらアニメを量産していたアメリカの国力にむしろ驚くべきかもしれない。
この頃の作品群には「丁寧な植民地主義」とでも呼ぶべき傾向があり、具体的にはアメリカ開拓時代の美化とラテンアメリカへの観光的関心、キリスト教的な価値観が三位一体となった教育映画が制作されている。この辺はおそらく当時のアメリカの外交・安全保障戦略と密接に結びついており、いわばアメリカ流の国策映画だったのではないだろうか。
丁寧な植民地主義的な傾向はこの後も非常に根強く、形を変え品を変え、ディズニーらしさの1つの要素として受け継がれていくことになる。
『シンデレラ』は物語の大半を出来の悪いトムとジェリー風ドタバタ展開が占め、あまりおもしろくはないものの興行的には大成功を収め、低迷期の脱出に成功する。
『眠れる森の美女』は『白雪姫』以来の超絶作画であり、これ以降の作品と見比べてもダントツでクオリティが高い。一方で興行的には制作費の回収すらできず、総じて失敗作と見なされたようだ。ディズニー作品の作画技法は『眠れる森の美女』でひとつの頂点に達し、以降はべつの方法論を模索していくことになる。
ほか『ふしぎの国のアリス』のチェシャ猫や芋虫の悪夢的な描写は見たものに強いインパクトを与える。一方で登場人物にだれ1人としてまともに会話の通じるキャラがおらず、集中力の維持が非常にむずかしい作品でもある。
『ピーター・パン』では全能感と成熟の拒絶というYoutuberの原型のようなヒーロー像が描かれる。ピーター・パン症候群とはよく言ったもので、本家ピーター・パンも未成年淫行で炎上する未来を強く予感させるキャラクターだった。
『わんわん物語』では都市的自由を謳歌していた野良犬がペットとして不自由な幸福を手に入れて物語が終わる。ここで描かれるペットたちのむき出しの奴隷根性は、前述の植民地主義と無関係ではない。『ピーター・パン』『わんわん物語』ともにおもしろくはないが、それぞれ見どころのある作品となっている。
おすすめの作品:『101匹わんちゃん』『くまのプーさん 完全保存版』
『眠れる森の美女』のアーティスティックで洗練された描線から一転、『101匹わんちゃん』以降はえんぴつで描かれたかのようなラフな描線で作品が構成されていく。『眠れる森の美女』以上のものを作り出すことが現実的に不可能であり、見劣りを避けるという意図があるのか、あるいは端的に制作資金が枯渇しただけかもしれない。
技法的にはやはり『くまのプーさん 完全保存版』でひとつの完結を迎え、以降ディズニー映画は再び模索と低迷の季節を迎えることになる。
『おしゃれキャット』は金持ちのペットが使用人をブチのめす話で、一方『ロビン・フッド』は貧乏人が金持ちをブチ殺す話だ。この時期のディズニーは節操のなさがすごい。
この時期の作品群の特徴を一言で言い表すならば、「リアリティへの接近」ということばになるだろう。それは一方では作画技法への3DCGの導入というかたちで現れ、他方で物語上では善と悪の単純な二項対立の脱却が図られることになる。
前者は『コルドロン』の奥行きのある大胆なカメラワークや作画法、『オリビアちゃんの大冒険』『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』での部分的な3DCGの導入に見られる。後者は『きつねと猟犬』での人種対立のメタファーとして描かれた動物間の争いや、多人種が共生する複雑な現実を猫の姿を借りて描いた『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』に象徴的である。
『きつねと猟犬』はこれまでのディズニー作品に見られた家畜たちの奴隷根性を初めて批判的に描いた作品であり、『オリバー ニューヨーク子猫ものがたり』と合わせて「社会的にただしいとされる」物語像の変容を見て取ることができるだろう。ただしこの時期の作品群は総じて地味で魅力がない。どうやら創業者ウォルト・ディズニーの死や主要スタッフの大量離脱の影響があったようだ。『コルドロン』は興行的にも大コケし、ディズニーの低迷を象徴する作品となった。
シャーロック・ホームズの翻案である『オリビアちゃんの大冒険』がかろうじて見ていられるという程度で、単品の映画作品としておもしろいものは少ない。『オリビアちゃんの大冒険』では、冒頭からネズミ女児のパンチラという一体どこに需要があるのかわからない謎サービスカットがあり、視聴者の集中力が乱される。
おすすめの作品:『リトル・マーメイド』『美女と野獣』『アラジン』
この時期ディズニーは批評的評価・興行収入の両面で復活を遂げ、一般に「ディズニー・ルネサンス」と呼ばれているらしい。本稿でもその表現に従う。
たしかに作品のクオリティは過去10年とは比べものにならないほど高く、ルネサンスと呼ばれるのも納得の時期である。一方で技術革新や価値観の変容は停滞気味で、歴史の流れとしてはさほどおもしろくないというのが正直なところ。ルネサンスの言葉通り、ある種の保守回帰の時代に当たる。
おそらくこの時期、真に革新的だったのは、作品の表層に現れる技術やテーマ設定ではなく、安定して高品質な作品を量産する社内の体制や組織づくりの技術にあったのではないか。
個別の作品として語れる部分は非常に多く、『リトル・マーメイド』は作画がよく、『アラジン』は見ていてたのしい。
『美女と野獣』でははっきりと他者理解をテーマに打ち出し、また女性主人公が男性からの求婚を拒絶する主体性を獲得するなどプリンセスものとして出色の出来栄え。他者を尊重することを覚えた野獣が救われ、他者の存在を最後まで容認できなかった村のヤンキーは破滅する。主人公が読書好きでヤンキーと話が合わないインテリとして描かれる点も珍しい。ただしこの他者理解はプリンセス側に一方的な負担を強いるかたちとなっている側面が強くあり、なかなかむずかしい部分もある。
『ポカホンタス』は白人によるアメリカ侵略・植民地化を矮小化し美化するかなり最悪のお話で、案の定ネイティブアメリカンの民族系団体にかなり怒られたようだ。引き続き怒られてほしい。
『ターザン』もインディアンをゴリラに変えただけで『ポカホンタス』とほぼ同類型のお話ではあるが、最後に白人研究者たちがゴリラの部落に居残ることでギリギリのバランスを取っている。ここにはターザンとポカホンタスの男女差が絡んでおり、単純にターザンのほうがいいとも言いがたい。
『ノートルダムの鐘』は強引にハッピーエンド化されているという不満はあるものの、子供向けの大作映画で障害者の活躍を描いた点は積極的に評価されてよいだろう。そもそもディズニー作品には『ノートルダムの鐘』以外にも障害者がやたらとよく出てくる。アメリカ社会には障害者を積極的に受け入れる土壌があるからできるのだとは思うのだが、日本のコンテンツおよび社会全体でも頑張ってほしいポイントである。東京ディズニーランドでもべつに障害者見かけないし。
そのほか『ムーラン』『ターザン』ではそれぞれ3D技術の進歩を見て取ることができる。
みたび低迷期である。『ダイナソー』に代表されるように3D映画への本格的な移行が始まり、2D映画最後の全盛期に当たる。
作品としては『リロ・アンド・スティッチ』がずば抜けてすばらしい仕上がりで、商業的にも大成功を収めた。『リロ・アンド・スティッチ』は王子様に救われるというプリンセスものの物語類型とは異なる、弱者同士が助け合う疑似家族モデルを明確に示した重要な作品である。
自分の欲求をうまくコントロールできない少女リロと、破壊衝動を植え付けられ誕生した人工生命体スティッチが、貧困家庭のネグレクト問題とSFアクションを背景に成長していく姿が描かれる。キャラクターデザインはかわいらしく、作画から細かい小ネタに至るまで非常に丁寧に作られており、娯楽作品としてもすばらしい。リロの姉・ナニの恋人もいいヤツで好感が持てる。
残念ながらディズニー映画ではこのあと疑似家族的な想像力は発展せず、プリンセスものという旧来の枠組みのなかで無理やり「価値観のアップデート」を図ることになっていく。
『アトランティス 失われた帝国』はディズニー映画には珍しく人がバンバン死ぬ作品で、ふしぎの海のナディアや宮崎作品みたいなものをアメリカ人が真似して作るとこうなるのかといった印象。ガバガバ設定とご都合主義が目につき、リアル路線なのかファンタジー路線なのかどっちつかずの失敗作だった。ただし主人公にオタク青年が採用されている点は注目が必要で、これ以降ディズニー主人公はイケメン・マッチョではなく非モテ・オタクが主体となっていく。
『白雪姫』で人間扱いされていなかった非モテの小人たちが「社会的にただしいとされる」物語の主人公となる時代を迎え、しかもそれが日本のアニメの強い影響化で発生しているわけで、価値観の大きな変化を感じ取ることができる。ただし、『白雪姫』の王子様はあれはあれで人間味のかけらもない平板なキャラクターではあるので、モテ非モテという面ではそこまで単純明快な話ではない。
『ブラザー・ベア』は殺した相手の子を育てるというなかなか攻めたお話ではあるのだが、最終的にファンタジーに着地するせいでどうも軸がブレる。
続く
子はいないがそれ以外かなり似た状況で、俺は去年末に完全に病んで2ヶ月休職した。休職中に実家のある田舎に帰り、そのまま実家の近くにアパートを借りてテレワークしている。自分の場合は運のいいことに配偶者もテレワークができる仕事だったので(二人とも職場との交渉に時間を要したが)移住することができた。移住したくてしたわけじゃない。ただ鬱が辛すぎて10年も忘れていた田舎に逃げ帰ってきた。
田舎に来て、両親の車を借りて感染を恐れることなく外出=ドライブしたり、誰もいない沼のほとりでぼーっと釣りをしたりして、半年かけて鬱から回復した。後遺症で、東京のアパートでリモートワークしていたとき、鬱の発症しかけのときに部屋で流していた無印良品のBGMが聞けなくなった。好きでよくリラクゼーションミュージックとしてかけていたので悲しい。
人間は長期間、閉塞的な環境に閉じ込められて生きていける動物ではない。増田は強い理性があるから外出を自粛しようとしているが、その環境に精神が追いつかない奥さんのような状態も自然な人間の感覚だと思う。