はてなキーワード: サスペンドとは
あと数年でMTGもコンテンツとしての寿命が一旦終わりそうなので、どうでもいい覚えてることを書き残しておく。
同人版というか、ネットに上がってる1コマのやつはそれなりに追ってたんだけど、ヤンマガ版は読んだことなかった。なんか話題になってたので4巻まで。けっこう面白かった。
平野啓一郎によると、小説における述語は主語充填型とプロット前進型の2つがあると言う。主語充填型述語とは「○○は孤独を好んだ」のように人物を説明する。プロット前進型述語は「○○は海辺を歩いていた」のように具体的な行動を表し、プロット――つまり物語を前進させる。
『月曜日のたわわ』に限らずラブコメというジャンルが陥りやすい陥穽として、物語が進まない、という事が挙げられる。まず、ラブコメにおいて主人公とヒロインがくっつくには障害を乗り越える必要がある。『かぐや様は告らせたい』であれば「互いに好意は持っているのに相手に告白させようと小細工を弄してしまう(素直になれないの亜種)」が、『めぞん一刻』であれば「ヒロインが死別した夫のことを忘れられない」がそれぞれ障害となる。基本的に物語はその障害を解消する方向に進むが、決定的に解消してしまうと主人公とヒロインがくっつき話が終わってしまうので、それを出来るだけ引き延ばそうとする。すると今度はふたりの関係性がちっとも進展しないので状況に代わり映えがなく飽きが来てしまう。これがラブコメにおける陥穽である。平野の分類に従えば主語充填型述語だらけの小説、ということになろうか。この失敗をした有名作として『ニセコイ』が挙げられるだろう。
ヤンマガ版『月曜日のたわわ』はこの問題を巧みに回避する。『たわわ』における「障害」は主人公の規範意識だろう。大人として、先輩として、あるいは先生として、彼女に手をだすことは許されない。その規範意識が、ヒロインとくっつくことの障害として立ちふさがる。ヒロイン側も好意はあれど恋未満という事情もあるのだが、より決定的なのは主人公側の規範意識であり、結果としてアイちゃんや後輩ちゃんの物語はサスペンドされ続ける。この2人対し、プロットを前進させ続けるのが前髪ちゃんのエピソードである。
前髪ちゃんは初登場時から先生に強い恋愛感情を持っている。だけでなくそれを隠そうとしない。「(制服に包まれた自分の胸を見せつけながら)先生のはここにあるんだから ダメだよ よそ見しちゃ」とアピールまでする。前髪ちゃんは何故そこまで先生を好きになったのか。物語は時間軸をふたりが出会った過去に戻し、現在に向かって関係性の変化を丁寧に綴る。最初はただの担任だったのが親しい先生になり、好意を持つ男性へと変化し、「付き合ってあげてもいいですよ」とさりげなく好意をアピールし始める。前髪ちゃんは成績が良く大人びていて状況を見てうまく立ち回れる「賢い」キャラだが、そんな彼女が手を変え品を変えしても先生の規範意識は崩せず、ついには「好きって言って!」と普段の冷静さを失って迫ってしまう。このように、前髪ちゃんのエピソードは彼女の恋心が大きくなっていくことでプロットが常に前進しており、アイちゃんや後輩ちゃんのエピソードとは一線を画する。逆に言うと前髪ちゃんのエピソードがあるからアイちゃんと後輩ちゃんはサスペンドさせていられるんだし、逆もまた然りだろう。そもそもヒロインが複数人体制であることが互い互いを補って、『月曜日のたわわ』という物語を飽きさせないためのシステムだと言える。
ところで前髪ちゃんのエピソードでフックになっているのが、「高校生」という存在が持つ「時限性」への言及だと思う。前髪ちゃんは良く「今素直になればたっぷり2年半楽しめますよ?」とか「わたしがこの制服着てるのもあと数ヶ月だよ?」といったことを言う。これを見て思い出すのが安達哲の『キラキラ!』である。
好きな女のコに夢を見てのめりこんで
できない能力だよ
なぜ高校生活は輝いているのか。あるいは輝いている、というふうに描き得るのか。それは子どもでも大人でもないその期間がたった3年という時限的なものだからだろう。人によってはそれが「楽園」になるし、人によっては「呪い」となるかもしれない。しかしいずれにせよそれが時限的であることには変わりがない。
前髪ちゃんはしばしば「時限性」に言及する。それは前髪ちゃんの恋心が高校生である今だけのものかもしれないよ、という脅しとして機能する。前髪ちゃんはとても魅力的で、先生にもその想いに応えることができればどんなに良いだろうという気持ちがある。でも彼の規範意識がそれを許さない。といった何やかんやがあってあのラストシーンに至るのである。
前髪ちゃんのエピソードは他の2者に比べて胸に響くのだが、それはこういった掘り下げによるものだろうと思う。
というわけでけっこう面白かった。前髪ちゃんのエピソードが決着を見たことでプロット前進型ヒロインがいなくなりこっからどうすんのかなという感じはある。後輩ちゃんは同窓生のメガネさんのおかげでまあまあ掘り下げが進んでいてこっからに期待できるがアイちゃんはシリーズ全体のヒロインなのでお兄さんとの関係が進むのは最後だろう。そこまで読者を飽きさせずにサスペンドさせられるのか興味深い。
『文學界』2021年9月号に掲載された桜庭一樹「少女を埋める」を取り上げた、鴻巣友季子による朝日新聞の文芸時評に対して、桜庭が抗議の声をあげ、記事の訂正などを求めた(文中敬称略)。
この問題に関して筆者は「鴻巣友季子の時評は何が問題なのか」に始まる3本の文章を投稿した。その後、桜庭の求めに沿う形で、9月1日に朝日新聞デジタル版の時評で文面が修正され、9月7日付朝日新聞本紙および朝日新聞デジタルに、両者と時評担当者の見解が掲載された。
この記事では総括として、両者の見解を検討するとともに、時評担当者が「期待」しているという「文学についての前向きな議論」のために、この一件にまつわる諸論点を、桜庭と鴻巣が直接言及していない点も含めて挙げる。なお、はてな匿名ダイアリーの仕様でURLの掲載可能数に制限があるようなので、最小限に留めている。
両者の主張は、以下のように整理できるだろう。
桜庭:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるか否かによらず、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして書いてはならない。
鴻巣:文芸時評の評者の主観的な読みは、その読みが合理的であるならば、あらすじとして書いてもよい。
桜庭は主張の根拠として、そのようなあらすじの書き方が「これから小説を読む方の多様な読みを阻害」し、「〝読者の解釈の自由〟を奪」うことを挙げている。
一方で鴻巣は自身の主張を、「あらすじも批評の一部なので、作者が直接描写したものしか書かない等の不文律を作ってしまう事の影響は甚大」であり、「読み方の自由ひいては小説の可能性を制限しないか」という懸念により根拠づけている。
では鴻巣は「あらすじも批評の一部」であるという主張をどのように根拠づけているか。これが不明瞭なのである。
鴻巣は「あらすじと評者の解釈は分けて書いてほしいと要請があったが、これらを分けるのは簡単そうで難しい」と書くが、その後に続くのは、作品の創造的な余白を読者が埋めるという、読解についての文章である。文学の解釈にそのような性質があったとして、それがあらすじと解釈の分離の困難とどう関わるのか、説明されていない(まさかテクストに書いてあることと、書いていない部分から自分が想像したこととが融合してしまって分離できないというのだろうか。テクストは目の前にあるのに)。つまり鴻巣は、「書く」ことについて言及していないのである。解釈は批評の一部でしかない。当然ながら、読んだ=解釈しただけでは批評は成立せず、「書く」ことが必要不可欠である。だからこそ桜庭の主張は鴻巣の読みの否定ではなく、「分けて書いてほしい」というものだったのだ。分けて「書く」ことが「読み方の自由」を否定することにはなるまい。そして実際にデジタル版の時評の文面を「修正」できたのだから、分けて書くことはさほど難しくはないはずである。
鴻巣は「合理性」や「妥当性」にこだわりを見せるが、この見解の文章がそれらを備えているとは言い難い。また、鴻巣は見解を発表する段になっても、そもそも桜庭に何を問われているのか理解していないふりをしている、あるいは単に理解できていない。
繰り返しになるが、問題は「書く」ことなのだ。私小説もフィクションだからどのように読んでもいいとか、誤読される覚悟もなしに私小説など書くなとか、私は鴻巣評のように読んだとか、信用できない過去語りだとか、あるいは鴻巣が誤読しなければこんな事態にはならなかったとか、そんなことは関係ない。どう読んだっていい。批評家が誤読することもあるだろう。批評家が作者の意図しない優れた読解をすることもあるだろう。ただし、自分の読解が生み出しただけの出来事を、実際に作品にそう書かれていたかのようにあらすじとして断定で書くべきではない。
繰り返しになりますが、
「作品からの読み、想像であり、実際のテキストには書かれていないストーリーを、主観的な読みではなく実際にそう書かれていたように紹介する」
のは一線を超えていると思ったのです。
作者だからではなく、他の方の本でも同じように疑問を持ったと思います。
(この部分です) pic.twitter.com/vFmVBO6fhC— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
いえ、また繰り返しになりますが、どう評しても自由とは言っておらず、
「読まれ方は自由だが、実際の描写にはないストーリーを、読み、想像で考えたとき、それを主観的な解釈として書くのはよいが、実際にそう書かれていたように客観的事実として書くのは一線を超えている」
と考えています。(続)— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
ただそれだけのことを、桜庭は何度も何度も直接本人に訴えかけた。にもかかわらず、鴻巣がその声が受け止め、真摯に答えたとは思えない。
この文章を書いている最中に、『現代ビジネス』上に、飯田一史による記事「「少女を埋める」論争が文学史上「奇妙」と言える“3つのワケ”」が掲載された。そこで名古屋大学大学院教授の日比嘉高(モデル小説研究のフロントランナーと言ってよいだろう)は、「作家である桜庭さんの方がTwitter上で『私小説』『実在の人物をモデルに』と事実に立脚している点を強調している」と述べているが、桜庭は慎重に「テクストという事実」と「現実の事実」の問題を切り分けている。
この記事でご紹介いただいたのですが、わたしの原稿に〝介護中の虐/待〟は書かれておらず、またそのような事実もありません。わたしの書き方がわかりづらかったのかもしれず、その場合は申しわけありません。影響の大きな媒体であり、とても心配です。否定させてください。https://t.co/HdC6Cb8g7b— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 24, 2021
(強調は引用者)また今回は「自伝的随想」としてご紹介くださったこともあり、登場人物を離れ、実在の家族に言われなき誤解が降りかかることを危惧したため、わたしはこのように必死になって訂正をお願いすることになりました。それは確かに、評者の方には関わりのない事情ではありますが…(続) pic.twitter.com/8rixc3Ot4c— 桜庭一樹 (@sakurabakazuki) August 27, 2021
桜庭の実存にとって「現実の事実」がいかに重大なものであったとしても、桜庭はあくまでそれを「テクスト(に書いてあるか否か)という事実」と「あらすじの書き方」との問題の下位に位置付けている。主張の動機と主張の根拠を分けるべきである。飯田は、「作家が「トラブルを予防する」ために「事実の側に立つ」点でまず「少女を埋める」はきわめて珍しい事例なのだ」と書いているが、「トラブルを予防する」のは主張の根拠ではなく動機である。この一件を「論争」と表現するのであれば、作家の動機ではなく、作家の根拠にフォーカスするべきである。この記事のまとめ方に〝私は〟断固抗議する。
とはいえ、桜庭の見解にも問題点が指摘できる。それも踏まえて、以下、「文学についての前向きな議論」のための論点を、差し当たり三つ挙げる。
今回の一件に際して、文芸時評の不要説や批評の死が取り沙汰されもした。桜庭もツイートで「批評ではない未熟な文章」などの表現を使い、鴻巣も見解において「批評」という言葉を用いている。
だが、文芸時評は批評でしかないのだろうか? 文芸時評は英語ならliterary review(あるいはbook review)やliterary commentary、フランス語でならchronique littéraireなどと言うだろう。批評critiqueと時評は同一視してよいのか? 批評の要素を備えているとしても、時評には時評に固有のジャンル的特性があるのではないか?
文芸時評が新聞という巨大メディアに掲載されている点をどう捉えるか? 桜庭は見解において朝日新聞の「影響力は甚大」としている。また桜庭は「これから小説を読む方の多様な読み」について言及するが、「これから小説を読まない方」が時評だけを読む可能性も大いにありうるだろう。あるいは前項と関連づければ、文芸誌などの批評は全く読まないが時評は読むという新聞読者はいるだろう。つまり、文学の読者と時評の読者は必ずしも重ならない。
文学の読者であれば私小説で描かれたことが現実でもその通りに起きたと断定できないと承知しているが(あるいは、そのような認識の者を文学の読者と呼ぼう)、時評の読者がそのような前提を共有しているとは限らない。桜庭は新聞の影響力への言及の直後に「私は故郷の鳥取で一人暮らす実在の老いた母にいわれなき誤解、中/傷が及ぶことをも心配し」たと述べている(繰り返すが「をも」という表記に注意。その一点だけで抗議しているのではない)。今回の問題(ここでは主張の論理ではない、現実の現象のレベルである)はそもそも、「文学についての」「議論」だけに収まらないものをも含んでいるのではなかったか?
以上の論点を踏まえて、時評担当者の見解を検討することもできるだろう。
桜庭の見解は冒頭、「私の自伝的な小説『少女を埋める』には、主人公の母が病に伏せる父を献身的に看病し、夫婦が深く愛し合っていたことが描かれています」と書く。鴻巣評の印象を覆すためにあえて母の献身や夫婦の愛を強調したのだろうが、このまとめ方については異議もあった。文芸評論家の藤田直哉が端的に指摘しているのでツイートを引用しよう。
「夫婦が深く愛し合っていたかどうか」を確定する根拠は、虐/待があったかどうかを確定する根拠と同じぐらい、作品のテクストにはないのではないかな。母親がそう言っている、語り手がそう推測したようだ、というところまでは書いてあるが、しかしそれが「作中の事実」かどうかはサスペンドじゃないかな— 藤田直哉@新刊『シン・エヴァンゲリオン論』河出新書 (@naoya_fujita) September 7, 2021
つまり、あらすじに書いてよいのは、「作中の事実」であるべきではないか? 今回であれば、あくまで一人の人物の視点に立って、「私の自伝的な小説『少女を埋める』では、病に伏せる父と、献身的に看病した母とが深く愛し合っていたことを、主人公が見て取ります」くらいが妥当なのではないか。言うなれば、「夫婦が深く愛し合っていた」というのも、「愛しあっていたのだな」という文字列がテクストに書いてあるとはいえ作中人物の「主観的解釈」なのだから、〈そのような解釈が書いてある〉という形であらすじを書くべきではないか。
あるいは、そもそも「事実」と相容れない表現というものもある。極端な例を挙げれば、自分は幸せだと信じ込みながらオンラインサロンの主宰者に投資し続ける人物のことを「幸せな生活を送り」などと書くのは、たとえ作中に「幸せである」と書かれていたとしても、おかしいだろう。幸せは事実ではなく評価だからだ。書かれていないことを想像するとともに、読者は書かれていることについても想像し、評価する以上、書いてあれば何でもあらすじに含めてよいとは限らないのではないか?
最後に、「文学についての前向きな議論」に役立ちそうな文献を、備忘録も兼ねてリストアップしておく。
目がしばしば
昨日はスーパームーンだったらしいけど、
でスーパームーンの時のお月様は地球に一番近い距離にあるらしいんだけど、
何かの弾みで月が軌道から外れてどっかに飛んで行っちゃったり、
地球に落ちてこないのかな?って誰も心配してないと思うんだけど、
結果としてはパスタ美味かったで落ち着くんだけど、
お店で見るとなんだこんなもんかな?って、
家に帰ってコンロに置くとやたらデカいのよね
古き良き中華屋さんのお店の角の上の方に設置されたブラウン管のテレビが懐かしいわ。
あれで見る、
いつも結果まで終わりまで見終わらないうちに
そういえば、
テレビが置いてあってサスペンス物の再放送なんてやってないわよね。
今気付いたわ。
月が落ちてこないのもサスペンスだけど、
そうWindowsならね!
シソ好きなのよね。
ミカンたくさん買ってきたので、
乾燥時はとくに
水分補給はしっかりね。
すいすいすいようび~
今日も頑張りましょう!
駐在員等の期限のあるビザでは、ビザの有効期限またはi94の滞在許可期限までしか運転免許をくれない。
このため、ビザ更新後にExtension(更新ではなく、"Limited Term Extension"と呼ばれる)が必要である。
まず、DMVから手紙で「あと2ヶ月ぐらいで切れまっせ。書類を同封して送り返して」と来る。
この後の実際の期間を記録&今後の皆さんのために記す。ちなみに妻もほぼ同時期に行ったがほぼ同日程だった。混んでいる時期はもっと掛かるのかも知れないが。
ということで、DMVから手紙が届いたら、速攻で送り返すと良いでしょう。
免許の期限までに届かない場合は、DMVに行って仮免許をもらう必要があり。(もちろん大行列に並ぶ)
あと、申請後に出国したりして、i94が更新されたりしていると、申請はサスペンドされてしまうらしい。電話するかDMVへGo。
同居中の彼女がSwitchのゼルダにはまった。子供時代にスーファミのRPGをやって以来らしい。最初は私がプレイしているのを見ているだけだった。道を逸れてイノシシなどを狩っていると「早く話を進めろ」などと言う。寄り道が楽しいゲームなのに。少し喧嘩をした。その時は「一緒にアニメを見るのはいいけど、ゲームを見てるとイライラする」と言われた。
なのに翌日「やってみたい」と言い出す。セーブデータは1つしか無いのだが、本体メニューで複数のプレイヤーを登録できるようだった。彼女のアカウントを登録する。アイコンは赤ピクミン。ちなみに私のアイコンは風のタクト版ゼルダ姫である。普段は全くゲームをしない彼女が遊んでくれるのが嬉しくて、最初の1時間くらいは最大限のホスピタリティでおもてなしをした。だいぶ疲れて、またちょっと喧嘩をした。
さらに翌日、帰宅すると彼女がゼルダをしていた。Switchは片付けておいたのに、自分でケーブルを繋いだらしい。「寄り道確かに楽しい。私が悪かった」と言う。その楽しさを知ってしまったらもう落ちたも同然である。
家にいる時間の何割か、彼女はコントローラを握っているようになった。少し前までは帰宅するとすぐにハグを求めてきたものだが、最近はテレビの前から動かない。多少の寂しさはあるものの、構わなくていい気楽さと「こっちの世界」を知ってくれる嬉しさが勝る。私もゲーマーだった時期が長いので、ずっとハイラルにいたい気持ちは十分に理解できる。私自身も深夜などにちまちまと進めているが、家にいる時間は彼女の方が長いので、そろそろ追い抜かれそうだ。
今日も今日とて、帰宅を伝えるメッセに返信がない。「ゼルダ?」と聞いても既読すらつかない。帰宅すると、今日は馬をつかまえたいと抱負を語る。
日付が変わる頃から定期的に「もうやめる」と口走る装置になっていた。私が風呂に入って出てきたところ、魔物に殺されて「死んだ、やめる」と呟きながらコントローラを放さない状態だったので、タイミングを見計らって本体のサスペンドボタンを押した(リセットや電源を押さずに済む、良い時代である)。「止めない方が良かった?」と聞くと「いや、自分ではやめられなかった」と言う。19時からやっていたらしい。6時間。なかなかのものだ。
ダメ人間だなぁと思う。これまで家族的な存在が私よりゲーム時間が長いということはなかったので、初めて家庭内のゲーマーを客観視している。想像以上にダメな存在に見える。本人にそう伝えたら「ひどい」と言われたが、特に心は痛まない。ゲームをしていた人間は雑に扱われて当然の存在なのだ。これまで自分がその立場だったので大変に愉快な気持ちである。
この日記を書いてたら「眠れない...」と言いながら起きてきた。6時間もやれば神経も高ぶるだろう。本でも読んだらと提案すると「実はスマホでプレイ動画を見ていた。すごい人はすごいうまい。プレイ動画の面白さがわかった」と言う。そうかそうかと返す。