はてなキーワード: カーストとは
真面目な話、それは昔から言われてるんだよ
やりたくないのは管理する側の立場であって、メンバーを入れ替えないと組織の階層、カーストが固定されるのは社会人でも同じなんだよな
しかし、ケーキが切れない非行少年少女のようなIQが低い生徒は遵法意識も低い、流石に社会的に最低限これはマズいという価値観が根底からない
こういう生徒をブコメにあるように教師側が対応しろというのは無理があるだろう
実際のところ、こういった問題を諸外国でさえ上手く対応できているのか、すべては知らんが自分には疑問に思える
となるとスクールカウンセラーなどという甘い話ではなく、医療機関、少年院のような施設も一般的な教育施設と連携していく必要がある
でも、政治家も教育者も、デジタル教育がどうのという話はしたがるが、本質的に人をどう管理するか、育成するかということはやりたがらない
単に面倒なんだろうけど
皮肉じゃなくリベラルが「個人の自由」を尊重するが「誰もが結婚できる権利」のような物は扱わない思想だから。
武道やスポーツやっててなんとなく上手いこといってて、それで進学やカースト内の立ち振る舞いがうまくこなせてしまった女子にありがちなタイプだけど、とにかくレスポンスの速さが取り柄なんだよあいつら。
深く物事を考える有意性すら理解してないしする気もない。なんでも0か1で割り切れると思っていて、明言するのを避けたり答えを出せないことをじっくり考えたりすることを馬鹿にしてる。
だから今の振る舞いが間接的にどう影響を与えるかとか、どういった社会的意義を持つか、表面上には現れない人の気持ちなんかにかなり無頓着なんだよ。
間違ってることでも浅はかなことでも、とにかく相手に隙を与えずメッセージを発してコミュニケーションにおいて自分が主導権を持つ。これが彼らの処世術だ。
こういう人はマウントを取った時点で自分が絶対的正義だと証明されたのだと信じてやまない。強い語気や態度で圧倒しているだけなのに相手の論理に破綻があるから黙らざる得なかったのだと歪んだ解釈をする。彼らはのちのちまで「あなたあの時論破されちゃってるんですけど?」みたいな詭弁論者めいた態度を真顔でかましてくるから始末におえない。
そもそも論理的に話を整理したり妥当性があるものが優先されることを彼らは心底嫌っている。嫌ってるというか暗くて気持ち悪くて無駄で不要なものだと切り捨てたがる。とにかく速く相手に反応を示すために考慮することを放棄しているので、事象に対し主観的かつ情緒的な解釈が目立つ。「なんとなく嫌いだからこれは劣っている」「なんとなくかっこいいと思うからこれは優れている」「なんとなく退屈だからこれは要らないのだ」とどうしようもない基準で物事を判断していく。
そして目先の、体感のコストパフォーマンスを彼らは優劣のバロメータにしており。長期的な物の見方をしない。根は真面目だからあいつらなりに「将来あれになりたいからこの学校で専門教育受けます」とか「お金を貯めておきたいから財テクやってる」とか「子どもの可能性を伸ばしたいからそれ習わせてます」とかいろいろやるけど、全てが一元的でそれって決めたらそこしか見えてないのよ。中学高校の憧れで看護師になるって決めて看護の学校行って看護師として働くようなタイプ。腰を据えて一本筋を通す姿勢は立派だよ。でも彼らは憧れの次に、看護師の実態を調べたり、職業人が持つ行動指針となるべき抽象的な流儀に思いを馳せたりなんかはしない。そんなのすっ飛ばして「何になるか決めたからとっとと受験対策しよう」だ。そして職に就いたら、理想とのギャップを全て自分以外の何かのせいだと愚痴り、場当たり的に行動する。気分で仕事の出来にムラがあるので一定のクオリティを保たない。それでも持ち前の判断力の速さと明瞭な態度で体面は繕ってしまう。体面がいいため何も言われないでいることを、自分が有能な証だと履き違え自己研磨しようとしない。
体育会系でも武道は縦の関係が強いので、彼らは上の物に靡いて言うことをすぐに変える。流儀や信念みたいなものはないし今後に向け醸成させていく気もないので組織内の力学にすぐ染まる。その癖単刀直入ではきはきした態度故に「しっかり者」として扱われてきたためか本人にその自覚すらないのがタチが悪い。
増田があの時対抗できたとするならば、嫌な顔された時点で間髪入れず「あ、あなたの物ではありませんでした?」と言って、違う人に「これ落としませんでしたか?」と聞いていけばよかったかもしれない。
こういう輩のペースに巻き込まれてはいけないのだ。善意で拾った市民という増田自身の認識を歪め、あまつさえそれが如何にも妥当であるかのような態度。、そんな振る舞いを許すような謂れが増田には一切ない。
カースト上位の美少女「増田君って、私にとって空気みたいな存在なの、わかる?」
増田「えっ…それって……」
増田「えっ」
カースト上位の美少女「あーあ、誰かと交換とかできないのかしら」
増田「……」
カースト上位の美少女「って、私の話聞いてた!?空気読めよ…」
カースト上位の美少女「ったく、そういうところなのよ…だからあんたは……」
増田「えっ?なんか言った?」
カースト上位の美少女「なんでもないわよ!はぁ、仕方ないわね。他にどうせ組んでくれる人いないんでしょ?仕方ないわね、このまま私が――」
増田子ちゃん「美少女ちゃん、そんなに嫌なら私が増田くんと組むよ!」
増田子ちゃん「じゃあそういうことにするから、増田くん、行こっ!」
増田「うん」
そもそもあらゆる宗教において狂信的な態度は有害なんだよね。ただ、「それは別にイスラム教に限らないよね」という話で。
例えばキリスト教の狂信者が銃乱射事件を起こしたこともあるし、今でもキリスト教教義を理由に同性愛を迫害する人は少なくない。仏教(の大元であるヒンドゥー教)にしてもインドあたりじゃ今でも狂信者が支配的(カースト制とか)。日本の神道だって、今や有害でしかない教義を律儀に守っている側面もある。
それは一般的な話であって、○○教に特有の話ではないんだよね。
「尊重する」ことと「全肯定する」ことは違っていて、「尊重する以上は全肯定しなければならない」わけでもないし、「全肯定してはいけないのだから、尊重する必要はない」わけでもない。それは両立しなければいけない。もちろんそれは非常に難しいことなんだけどね。世界は難解だから仕方ない。
東京の中でもゴミ回収とか清掃とか、コンビニのレジ打ちとか、「普通」の生活はその普通の下のランクのカーストによって成り立っとるんや。
あんたの「普通」も会社の偉い人とか金持ちの「普通」を支えるための歯車でしかあらへん。
ただワシらは現状が変わるのを望まん理由はそこや。
せっかくカースト内で今の地位を保ってるのに、下から上がってきおるやつがおったら明日は自分が負けになりかねん。
今のルールでそこそこなんとか勝ってきた結果、今のポジションにおるんやからな。
今のワシらは下から吸い上げすぎやねん。でもワシらも余裕がない。それはさらに上が吸い取っとるねん。せやからどうしようもなくて、下の愚痴を聞いたるくらいしかあらへんねん。
キモイ・キモくないはその時のカースト上位が決めることであって、作品内容によるわけじゃないってことだな。
最近の若い人はカースト上位まで漫画・アニメが浸透してるから、アニメ作品に対する拒否感は低い。
逆に宮崎事件でアップデートが止まってる人はそれだけアニメ作品への抵抗が高い。
まぁそういうことだよね。
増田の言う花子の立場――つまり中学時代にカーストトップから転落した女、参上しました。
花子の立場からすると、自分は何も変わってないのに扱いが一瞬で変わったわけ。けっこう訳がわからんのよね。その原因を作った光子に怒りの矛先が向くのも理解できますーと思って読んだ。
増田たちは後半、花子に対して悪意も興味もなかったらしいけど、花子はカーストトップ時代に悪意を持ってハブってただけに、悪意がなかったなんて信じられないんだと思う!架空の悪意に怯えていたって言えば良いのかな!
この件に関しては花子が悪い!いじめってほどでもないと思う!でも花子の中でいじめられてたって思うくらいは許したってくれやと思います!!
トラバもブコメも「なんだ偉そうに」的な反応が目立つけど、増田はこういう職種の従事者を劣った人間だとは言っていない。
世間から軽んじられている人々を憐れみ、それに気疲れしてるということが増田からは読み取れる。
もし今後増田自身がそういった生活を余儀なくされても同じトーンで「模範的な”一般市民”からうっすら侮蔑を向けられているのがつらい」と愚痴るんだろう。
おそらく地位や名声、収入の格差、QOL、交友関係といった格差にまつわる事柄が、
生い立ちや個人の資質、今までかけてきた労力の差といったパーソナリティに集約されるのが、増田にとって不快なのだと思う。
僕は小売店でずるずるバイトを続けている身分だけど、誰と話しても「こんなとこでフリーターに甘んじてるような奴は思慮も複雑な感情もないただのでくの坊だろう」という前提で会話は進む。
大学院に通うバイト仲間もパートのおばちゃんも毎日午後8時に同じものを買って帰るリーマンも子連れの主婦も徘徊する老人も毎日へとへとな店長も近所に住むが疎遠になってしまった幼馴染も、
みんな自分の生活はだれにでも代替えできるものではないと思っている。
みんな「まああなたにはわからないでしょうけど」というものがアイデンティティに組み込まれている。
でも実質的には障碍者でもないなら人間社会なんていくらでも配置転換は可能だろう。
教育さえ施して周囲がそれ相応の扱いをするならば、
パートのおばちゃんが大学院で研究漬けになって若妻が企業戦士になりしなびたおっさんが子どもを連れた主夫になり俺がへとへとな店長で幼馴染が孤独に惨めにずっとフリーターってこともあり得るはずなんだ。
各々人間の間に蔑みが生まれるほどの能力差なんてあるのだろうか。
でも今の生活が崩れるはずがないという安心を得るため、自尊心を埋めるために、人はそれを人間としての程度の違いとして扱っているんじゃないのか。
公権として格差を規定して人を縛れば、それを個人のパーソナリティと紐付ける余地はなくなる。
魚屋の息子だから魚屋になるしかないような社会なら、あんたは馬鹿だから東大に進学できないのだというような発想はどこからも生まれない。
人として程度が低いからコンビニでバイトしてるしかないのかと打ちひしがれるか、コンビニでバイトするような身分じゃなければあれができたと空しく妄想してるか、
ツイッターで話題になってた同人女の感情最終話と、同じくツイッターでバズってた今朝の読売の記事を見て思ったこと。
「自分より上手いとは言えない」人が自分より評価されて辛いという気持ちはよくわかる。
それに対する回答は、「他人からの評価ではなく、自分自身を基準にして段階的に進んでいき自己肯定感を高める」という、腐るほど聞いた内容。
そうしていくうちに他人が求めていることが分かり、それを提供できる実力が身につき、真の評価につながるというものだ。
その究極が、同人女の感情に出てくる綾城さんみたいな存在だろう。
ただ、そう言われてしまうと、じゃああの「自分より上手いとは言えないのに評価されてる人」は、上記のプロセスを、少なくとも自分自身よりは先へ進んでいる人格者であり、だから評価されている、ということになる。
そして、自分はそんなアイツよりもガキであるという事実に、より惨めな気分になり絶望する。
本当にそうだろうか?
読売の投稿者のいう「自分より上手いとは言えない人」がどんな人物なのかは知らないが、私が思うに、単に界隈に上手く溶け込めているコミュ強なだけな気がする。
その人は、自分自身と同じ惨めな状態から、上に書いたプロセスを乗り越え、ついに今の地位についた……とは思えない。9割がたは、普通にしてたらそうなっただけだろう。
カースト上位の者は、あらゆる煩悩を克服した人格者集団というわけではなかろう。自然とそうなっただけのコミュ強。
上位集団の中でウケる話題(ある意味、内輪ネタ)を、下位の者が提供するのは難しい。
クオリティに優れていても、どうしてもズレが生じ、「へー、すごいね。で?」で終わる。
綾城さんレベルになればようやく、カースト上位の者を含め広く全体に評価されるようになる。(一部の捻くれ者を除いて。)
その綾城さんですら、本当に凄まじい努力の結果ああなったのかは、分からないけど。
似たような葛藤を経験してはいるんだろうけど、才能と人格が元々圧倒的に優れているのに違いはないだろうし。
界隈で幅を聞かせている、ギャーギャーうるさくて絵が割と描けて評価されてるムカつく奴は、単にある程度の絵の才能とコミュ力の才能があっただけで大した人格者ではない
界隈で重鎮ぶっている、絵が結構上手くて発言も支持され、たまに公式に苦言も呈しちゃうしオレも苦労してきたんだよみたいなこと言っちゃうムカつく奴は、単に結構な絵の才能と中庸な意見力の才能があっただけで壮絶な過去を克服して現在の地位を築き上げたわけではない
界隈で聖人ぶっている、絵が上手くてなるべく不快な発言をしないよう気を遣い、たまに自戒めいたことを言って実質的に周囲へのロジハラになってるムカつく奴は、単に絵の才能と元々穏やかな性格の才能があっただけで修行僧みたいな生活しているわけではない
そして、こいつらは大したことはない!と思えても、自分はこいつらより絵の才能もコミュ力も劣るし、自己肯定感形成プロセスでも周回遅れという事実は変わらないということが分かり、絶望するのだ。
諦めて絵の練習をしても、数年後、いいね数が少し増えた自分にしかならないだろう。記事でいうところの「真の評価」など得られるはずもなく、現在の惨めな状況を認め、ネガティブな感情を感じないようにするしかない。
で結局、そうなるにはどうすればいいのか?それを他人の意見に頼っている時点で永遠に自己肯定感は身に付かない。
歳を重ねれば少しずつ落ち着いていく……が、それだけでは完全に解決しない。
むしろ遅ければ遅いほど自己肯定感を身につけるハードルは高まっていく。
と、こんなことを言っている惨めな自分も含め、ほぼ全ての人には「相対的に下の者」が存在し、妬まれているかもしれない。
界隈の実力者ももっと上を見て妬んでいる。だからこの手のあるある話を見て「わかる〜」とか言う。クソが。
特に理由はないのだが、最近の通勤時間で「ラーマーヤナ」を読んでいる。特にインドに旅行する予定はないのだが、しいて言えば大学時代の友人二人がインド哲学科出身だったからかもしれない。そういえば、冒頭のムスカの台詞では長母音の場所が間違っている、みたいな話にもなった。
それはさておき、「ラーマーヤナ」である。英雄ラーマが囚われの妻シーターを仲間の助けで救いに行く話で、要するに古代インドのスーパーマリオなわけだが、そこで出てくる美人の形容が興味深い。たとえば「美しく黒ずんだ肌」という表現が出てくる。美白という美意識はやはり時代や地域によっては必ずしも自明ではないのだ。
また、ほっそりした腰つきや豊かな乳房の美しさを表現する箇所もある。
「二つの乳房はそれぞれの先端がむっちりと盛り上がって魅力的で、つやのあるヤシの実のように美しく、最上の宝石の装飾品をつけて輝いている」
この個所を読んで僕は首を傾げた。ここまで乳房の美しさを形容するってことは、シーターは上半身裸だったのか? 実際、インドや東南アジアの神々の像では女性たちは上半身裸だ。以下はエローラの石窟の姿である。
しかし、近現代のインドの叙事詩を描いた絵画では、上半身を普通に覆っている。
シーター姫を攫ったラーヴァナが助けに来たジャータユを返り討ちにする図
それを見て思い出すのは手塚治虫の「ブッダ」だ。正直なところ、みんなおっぱい丸出しで小学生の頃はエッチすぎて読めなった記憶しかないのだけれど、それはさておいて、あれは歴史的に見て正しいのだろうか? それとも、単なる手塚治虫の性的空想だったのだろうか?
そういうわけで僕は「ancient india topless」と検索した。すると、肯定的な証言をするサイトが数多く引っかかった]。特に、英語版ウィキペディアのtoplessの説明がわかりやすかった。
In many parts of northern India before the Muslim conquest of India, women were topless. ……(中略)……Toplessness was the norm for women among several indigenous peoples of South India until the 19th or early 20th century……(以下略)
ムスリム征服以前のインドの多くの地域では、女性は上半身裸であった。……(中略)……上半身裸は19世紀や20世紀初頭の南インドの先住民の女性の間では普通のことであった……(以下略)。
そういうわけで、古代インドの女性はおっぱい丸出しだった。手塚治虫は変態だったかもしれないが、古代のインドの服飾史については、嘘をついていなかった。
また、「古代インド おっぱい」と日本語で検索すると、次のようなツイートが見つかった。
https://twitter.com/tenjikukitan/status/1093099586778853378
古代インドに詳しい方が日本語で情報発信をしてくださると、大変助かる。
よく、東洋を舞台とした作品でブラトップ同然の格好をした女性が出てくることがあり、しばしば批判されるのだが、これは実際には上半身裸だったのを攻めておっぱいだけは隠しておこう、という配慮だったのかもしれない。
実際、いわゆる熱帯地域だけではなく、古代のクレタ島でも乳房は見せていたし、それこそ以前記述したように、日本の海女さんもかつては上半身裸が普通であった。
ところで、英語版のウィキペディアを読んでいたら、気になる記述を見つけた。
The Breast Tax (Mulakkaram or mula-karam in Malayalam) was a tax imposed on the lower caste (Shudra) and untouchable (Dalit) Hindu women by the Kingdom of Tranvancore (in present-day Kerala state of India) if they wanted to cover their breasts in public, until 1924. ……The tax was evaluated by the tax collectors depending on the size of their breasts.
乳房税(ムラカラム)とは、現在の(南インド)ケーララ州で低カースト(シュードラ)と不可触選民(ダリット)に属するヒンドゥー教徒の女性が、公共の場で乳房を覆いたければ支払わなければならなかった税である。……税金を集める役人が女性の乳房の大きさによって額を決めていた。
なんとも非人道的で、正直なところ読んでいてかなりのショックを受けた。身体の大きさを申告・検査しなければならない恥ずかしさ、支払えなかった女性の苦痛、いかほどのものであっただろうか。個人的には野外露出系のポルノは大好きだが、これが強制されたものだとなると不快だ。裸とは恥ずかしいものではなく、人間が生まれながらにして持つ、何物にも束縛されない自由を意味する気持ちのいいものであってほしい。それにこれはフィクションではない。歴史的事実だ。
これについて日本語の資料が見つからないかどうか探したが、幸いにしてナショナルジオグラフィック誌の記事があった。
古代ローマにトイレ税、世界5つのヘンな税 | ナショナルジオグラフィック日本版サイト
乳房税が廃止された経緯もまたショッキングである。ある女性が収税に来た役人に抗議するため、乳房を切り落として見せたことがそのきっかけだ。言葉もない。ローマの公衆便所から税を取り立てたケチで名高いウェスパシアヌス帝が単に合理的でまともに思える。
そのナショナルジオグラフィック誌だが、2018年に同誌は人種差別的であったことを公式に謝罪した。国内の有色人種を無視していたし、外国の文化も過去の姿をやや好奇の念をもって眺めていた。そして、異民族の過去の姿である上半身裸をピックアップしすぎた、と。
とても誠実な姿勢だと思う。確かに異文化への関心は、はじめのうちは興味本位や小ネタから始まるかもしれないが、それだけで終わってしまってはもったいないし、現在の姿を誤解したままでは失礼だ。それに、欧米や日本がオリエントの人間を過度にセクシャルに表現してきた歴史があり、それを是正することはまったく正しい。
それは欺瞞だ。伝統的に上半身を見せる文化を改変するのは子どもたちに嘘を教えることになる。乳房を恥としない相手の価値観や服飾文化の破壊ではないか、という意見もあり、それももっともだと思う。とはいえ、今のところ乳房は隠すものがデファクトなグローバルスタンダードになってしまっている。歴史的正確さと表現のふさわしさと、これもまた正解のない問いである。
シーター姫のおっぱいが気になった僕もこの罪とは無縁ではない。今を生きる人々の人格と彼らの先祖の文化や伝統、どうすれば両方に敬意を払えるかを考える日々である。できる限り正確性に努め、通説が誤っていれば訂正をするように心がけているが、それでも異文化への関心が性的な好奇心とは無縁ではないことを意識しないではいられない。
今回は古代インドではトップレスが普通であったことを示した。また、乳房の隠蔽はキリスト教だけではなく、イスラームの影響もあることも明らかになった。
今後は、世界の中で乳房がどのような文脈を持っていたかを調べたい。例えばシチリアの聖アガタも乳房を切断され、かつては形の似ているパンや鐘の職人の守護聖人であったが、いまでは乳がんの守護聖人ともなっている。また、戦時中の日本を含め、多くのプロパガンダでは、乳房は母性の記号として国土の豊かさを意味してきたし、しばしば女性を母としての役割に閉じ込める役割も担ってきた。逆に、女性自身が抗議の意味で露出することもある。私の身体は私のもので、勝手に意味を担わせないで欲しいという奪還の意図もあるのだろう。
加えて、世界各地ではどのような形の乳房が理想とされてきたのか、その変遷もいつかはたどりたい。
実際、「ラーマーヤナ」ではほっそりした体を(乳房の重みで)曲げて、と形容されるターラーという猿の夫人がいる。今も残るインドの彫刻から判断すると、古代インドには細い腰とそれに対する豊かな乳房への明確な好みがあったのではないかと推測される。また、この彫刻の特徴は東南アジアにも受け継がれている。その辺が知りたいのである。
このあたりは西洋の絵画史からたどるのがいいかもしれないが、芸術が個人の自己表現となった時代以降は、画家自身の好みも反映されて難しい。
また、逆にトップレスが世界の標準であった可能性についても検討したい。すなわち、ユダヤ教、キリスト教、イスラームの広がっていない地域の服飾史について検討し、トップレスでいることの自由がどのように失われていったかについても調査したい。
https://w.atwiki.jp/wikirace/pages/78.html
https://blog.tirakita.com/2019/01/north_east_india_permission.shtml