はてなキーワード: ウンザリとは
以来ずっと割とウンザリしてる。
久々にこっちで雑感。
ツイッターとかの明示されたアカウントで語るには取り扱いに困る、そんな話をしたかったのが理由。「お前は敵がつくりてぇの?」って聞かれたら、作りたくもないし、作る意義もないからね。とはいえ、やっぱり語りたくなる。今回の『青のフラッグ』の44話には、そういったパワーがある。
いやあ、ほんと。本作は漫画という媒体で、どこまで多元的な考え、人格を描写するつもりなんだっていう。面白いかっていわれると、愉快ではないんだけれども。安楽椅子状態での会話がメインって絵的には面白みが薄い。どうしてもセリフばっかりになるし、読者側にエネルギーを要する。しかも本作はスッキリしない。わかりやすく間違っている人間に対して、正しいことを言って溜飲を下げるだとか、そういった明瞭な快活さを与えてくれないのでストレスがたまる。それでも評価せざるを得ない話ってこと。
本作は各々が自分なりの考えを持っていて、そこに明確な是非を要求すべきじゃないってのを逐一訴える。今回の女子高生二人の言い分も間違ってはないんだよね。むしろ現代社会の通念上は、正しい寄りの考えと言ってもいい。じゃああの丸刈り君は偏狭な性差別者で、“普通じゃない、間違っている人間”なのかっていうと「ちょっと待った」ってなるわけ。私も同性に痴漢されたことはあるから分からなくもない。そういった経験から来る嫌悪感は普遍的な通念では拭い去れない。読者の中には今回の話を読んでなお、あの丸刈り君をただのクソ野朗で終わらせる人もいるだろうけれども、作中ではそれこそ狭量ではないかと指摘しているようだった。
安易な善悪二元論の懐疑。ああいった問題で、正しいだとか間違っているだとかの線引きで考えたり、分かりやすい悪者を作り出すことの危うさを作者は知っているんだと思う。作劇として見た場合、言語化しすぎてて読み味も良くないんだけれども、本作はそういうのを妥協したくないんだろうなあ。『鈴木先生』を思い出す。大衆が受け入れがたい、スッと入ってこないであろう考え方を大げさに、だけど真っ向から長々と語る。
「好きって感情はいいけど、嫌いって感情はダメ」みたいなセリフが劇中に出てきて、私は「うげえ、また“ツギハギ論”かよ」って思った。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」。『ツギハギ漂流作家』という漫画が打ち切り間際に描いたあのセリフ。あの漫画の顛末を踏まえた場合、逆ギレじみた言い分に近い。けれども、なんだかセリフだけ一人歩きしてしまって名言になった。なってしまった。だから私は“ツギハギ論”って呼んでいる。実際このセリフを安易に引用する人間の主張にはツギハギ感があるので、その点でも“ツギハギ論”って呼び方は適格だと個人的に思ってる。
で、ちょっとウンザリしたところで、「好きって感情は良い感情、嫌いって感情は悪い感情って考えは雑すぎる」といった指摘が入る。ああ、そこも言語化しちゃうんだっていう。もう完全に私はこの作品に踊らされている。「何が嫌いかより、何が好きかで自分を語れよ」の歪さを分かってる。あのセリフが憚って10年以上も経っているのに、まだあれを正論だと思っている人がたくさんいる。あれが大した理屈じゃないことは、好き嫌いについて向き合っているのなら自ずと分かるはず。けれども、好きなものを他人に嫌いだって言って欲しくないという自己保身のために、あのセリフを都合よく使う人は後を絶たない。
好きという感情を肯定する以上、嫌いという感情も肯定しなきゃ辻褄が合わない。まあ、肯定や否定は個人の感情によるところも大きいので、各々がどういうスタンスをとるかまでは是非を問えないけれども。そのせいで、意見の不一致による衝突は出てくるし、それを避けたいのも人間の本能だしね。だから私だって、こういう話は後腐れのないところで書く。とはいえ感想書きは、結局この“好き嫌い”を様々な言葉で紡ぐ表現手法の一つなわけで。好き嫌いそのものを、片方だけ是としたり、有耶無耶にしたりすると評論としてはむしろ信頼できない。
そんなわけで評価はしているけれども、本作はかったるい。言語化しすぎというか、野暮ったいセリフ選びも多い。セリフの少ない場面とかはすごくエモいだけに尚更そう感じる。エンタメという枠組みで見たとき、あれは愉快な描き方ではないし、上手い描き方でもない。「悪役が何かエグいことをやっている」だとか、そういう“エンタメ的には良い不愉快さ”みたいな意味ですらなく。飲み物なしでビスケット食っているみたいな感覚。
例えば、同サイトで読めるのだと、『さよならミニスカート』は分かりやすい。あれは良くも悪くも複雑じゃない。いや、人によってはあれでも余剰過ぎるくらい複雑かもしれないけれども、訴えていること自体はすごくシンプルなんだよ、あれは。基礎的なジェンダー規範を取り扱って、それをテーマにしている作品。様々なマンガで、以前から脈々と語られてきたジェンダー論をメインに、現代の人たちに刺さるようドラマティックにリブートしている。だから陳腐とまではいわないけれども、やや表層的ではあると思う。ああいったテーマを多側面的に考えたことのない、一般大衆向け。それ故に刺さりやすいし、読み味も良い。『青のフラッグ』もウケてはいるけれども、作者が想定しているであろう理解力の読者はそこまで多くないと思う。
その点で『さよならミニスカート』は多くの読者に色んな意味で優しい。まあ、テーマ的に何かすごいことをやってる~みたいに持てはやしだしたら危ないと思うけれども。『サウスパーク』とかで登場する、ソーシャル・アジェンダに踊らされた大人たちみたいになってしまう。「私たちはそういうのに理解があるよ」といったスタンスをゴリ押すことに一切疑問を持たない、実際のところ無理解な人間。「社会正義だから」、「一般の善良な考えだから」といった、誰かがあらかじめ作っておいた前提で理屈を紡ぎ出す。だから一見すると尤もらしいんだけれども、ちょっと小突かれただけで論理が破綻してしまう。
とはいえ、そういった指摘をフィクションの世界でわざわざ言語化しても、ほとんどの人はそこまで様々な視点から物事を考えないので伝わりにくい。一般社会の善良そうな考えで生きれば支障はまずないから、考える必要がない。むしろ考えすぎて自我が袋小路に入ってしまうこともあるから、ちょっと無思慮なくらいが丁度良いまである。色々考えていたとしても、個々人の規範と一般社会の規範をすり合わせる他ないから。『青のフラッグ』のセリフからとるなら「お前は敵がつくりてぇの?」となる。私は御免こうむるし、多くの人も「そんなつもりはない」と言うはず。自覚しているか、実際の行動と矛盾しているってパターンは多いけれども。敵味方っていう構図の作り方が、そもそも履き違えているのを大体の人は分かっている。前提を共有をしていなければ主張の押し付け合いにしかならないし、かといって論理ゲームは本質から遠ざかっている。
そんな感じで、私の中でもまとまっていないので、ここで雑感は終了。ここまで語っておいてなんだけど、こういう特定の作品を基に社会論をアレコレ語るのは、どこぞのサブカルくそ野朗みたいで我ながらアレだと思ってる。自分のツイッターじゃあ、絶対こんなこと呟けない。あれこれ考えてしまうから吐き出して解消したいだけで、漫画はもっと気楽に楽しみたい派。ぶっちゃけ私は『むとうさとう』レベルの軽いノリでジェンダー取り扱ってる漫画の方が好きだ。
ミックスしたり、外したりするのがオシャレ。
だから、色んなコーデを楽しみたい私にはとても
ありがたい時代。
数少ない服でも、組み合わせしだいでいくらでもコーデは
今日は数少ない服でどうやって色んなスタイルを生み出すかについて
書いてみたい。
1、自分に似合う服を知っている
これはもう言うまでもなく、大前提でしょ。
特に色と形は大事で、どのテイストの服を買う時も、この二つだけは
死守してる。
2、どんな服にでも合う定番を揃える
どんな奇抜なものを合わせても受け止めるだけの度量がある
気分転換や好みの服はその後に付け加える
どんなコーデにも合う靴やバックなんて、どのコーデも
台無しにする気がする。。
例えば、黒いトートバックを私も長年愛用していたけど、
ある日ふと垢抜けないのはこのバックでは?と思って、やめた。
試しに白や明るい色味のバックを持つと、抜け感が出るし
季節に合わせてPVCバックや冬に敢えてファーのついたカゴバックも
オシャレだと最近気がついた。
靴も同様。
これ一足あれば、なんてものはない。
最低でも、
・サンダル
は必要!
5、コーデを決めるときはその日の予定に合わせて
スムーズ。
合わせるようにしている。
その割合は人によって違うけど、覚えておくと困らない。
掛け合わせるのは服だったり、小物だったりするけど、
そんな感じで日々調整しながらやっとります。
見たまんまの女じゃねえぜ、というアンチテーゼも込めて。
ずっと見た目で「真面目」「優等生」と言われ続けて
高齢者の暴走が世間を騒がせてる。オレも今日、直進が黄色から赤になりかけ右折時間になりかかる瞬間に、直進で突っ込んできた対向の軽自動車を見たとき「危ねえな」と思った瞬間相手ドライバーを確認してた。婆さんだった。ウンザリする。高齢者が暴走してたから? 違う。「暴走してたから高齢者なんじゃないか」と自分が心の中で予断を持っていたことに対してだよ。相手の顔を見て「やっぱり」と一瞬思ってしまったことに対してだよ。
言うまでもなく、若いドライバーだって暴走する。中年ドライバーだって暴走する。デブのドライバーなんて運転中に心筋梗塞起こすかも知れねえ。運転に自信があるドライバーなんて最悪だ。周りが全員下手に見えて始終イライラ運転する。社会的地位の高い連中もたちが悪い。周囲が自分に譲って当然だと思ってるから、運転が尊大で危険な存在だ。昔ならセンチュリー、今ならプリウス。運転下手な車種の代名詞だ。廃版にしたほうがいい。スポーツカーなんて存在価値がない。ただただ暴走するための存在だ。購入者にはバカほど高い保険を義務付け、些細な違反にも罰を重くしようじゃないか。誰もかれもが、暴走予備軍だといえるだろう。
…でもな。実際に暴走して叩かれるのは、高齢者だけだ。若いドライバーが、中年が、デブが、運転に自信のあるドライバーが、地位の高いやつが、センチュリーやプリウス乗りが暴走しても、その属性自体が攻撃されたりはしない。属性持ち全体が批判に晒されたりはしない。どれをとってもの「高齢者という属性」と同じくらい有意に暴走との相関があるだろうに、誰も、「あいつらから免許を取り上げろ」とは言わない。おかしくねえか?
分かっている。高齢者が、判断力や反射神経が衰えた結果、事故の原因となりやすいということは。そこを否定したいわけではないんだ。ただ、昨今の報道が、事故の原因を「高齢者」という属性に起因させようとし過ぎているのがフェアじゃないと感じるって話なんだ。「高齢者は危険な存在」って話の持って行き方が、あまりにも誘導臭くて危険に感じるんだ。それが、自動運転車を普及させたい自動車会社と国の隠れた共同キャンペーンであり、実際そこにあるのがあくまで「善意」であると仮定しても…(そして自動運転社会が早く到来してほしいと思うオレにとって、大変都合の良い世論が形成されつつあるとしても)…それでも、そのように特定の属性について安易にその権利を制限する(免許を返納させろ!という空気を形成する)ことには、もっと慎重であるべきだと思う。そんな簡単に、人の権利を取り上げないでほしい。充分に慎重で善良でしかも生活に車が必要な高齢ドライバーに、やたらとプレッシャーを与え後ろめたい気持ちを感じさせないでほしい。
思慮の足りない若者が運転していいなら、反射神経が衰えた老人だって運転していいはずなのだ。こういうと、「お前は高齢者の暴走で家族を殺されても恨まないのか」とか言う奴がいる。馬鹿じゃね? そんなん恨むに決まってんだろ。相手をぶっ殺したいと思うだろーな。でも、それは相手が高齢者でも若者でもデブでもなんでも同じだ。そして、それはあくまで「ソイツ個人の問題」であって、その属性の問題とはしない、程度の理性は保っておきたいと思う。この社会は車の運転を一般人に許容しその利便性を享受する半面として、そこから生じる被害をリスクとしてすでに計上しているんだ。俺たちはすでにカードゲームを楽しんでいて、お互いにジョーカーを押し付けあって、自分だけは「アガリ」を引こうとしてる。だが、一定のリスクがある以上誰かが最後にジョーカーを引く。それはゲームの一部だ。ジョーカーを引いてから文句を言ってもしょうがない。最後に泣く奴が出るのをあくまで防ぎたければ、この車社会と言うゲーム自体を変えるしか無い。そしてそのための方法なら、オレたちはすでに手にしているのだ。
だから報道は、センセーショナルな高齢者バッシングよりも、素直に自動運転車の実証実験、早期推進キャンペーンやろうぜ。その方が確実に、社会を幸福にすると思うんだけどな。
ベビーカーと人間が座席のある中央部まで来ることは無いから、乗る前に確認と乗ったら中央の方に向かえば全然平気だよ。そもそも元増田が想定してる混雑具合なら移動しようと思えば全然行ける。
嫉妬を読みとったのは、過去の何周回分のもろもろを見てきたことと、元増田の長文の内容から。
たとえば冒頭「他人にあたりたくなると思う」。元増田は炎上を恐れるふりをしてその実、自分の意見が絶対的に正しいと考えて反対意見を「他人(元増田)へ当たり散らすもの」と設定している、一方で自分は反対派であると、まるで自分は客観的に俯瞰できていて冷静に反対しているのだとでも言いたげだ。
その、たった数行下に
また、これも炎上しそうなことではあるが、お母さんたちは日々の子育てや家事に加えて仕事に行かなければならない現状でいっぱいいっぱいなのだろうとは思う。
ただ、そのうえで更に、というのは酷なのだろうとは思うが自分の事情は他人には理解してもらうことは難しい、無理に理解させるのは悪手だとわかってほしい。
お母さんたちがいっぱいいっぱいであるように、子供をもっていないその他の人にもなんらかの事情があるということを分かって欲しいのである。
この3行に込められている意味は、自分の方が本当は大変なのだからベビーカーが遠慮するべきだ、ということだろう。なぜなら、これ全部、鏡に映したら全部元増田に帰ってくる話だからだ。昨今の少子化死すべしなご時世でいうのは気が引けるが、増田と「仕方なく通勤にベビーカーで乗り込んでくるダメな親」の必然と事情は頑張ったってイーブンでしかない。
なのにそれに気づいている様子がなく、自分は客観的に俯瞰できているし他人に理解させるのんは難しいと達観すらしている……と主張しているがすぐ下の文章ではその逆で客観性を失っているのだ。
何故か。この3行に隠れている、私の方が本当は大変だし抱えている事情も大きく子連れより優先的に扱われるべきだ、と思っているからだろう。
論理的に考えれば、満員電車に乗って周りに迷惑をかけるのが趣味でもなけりゃ、あんなでかくて当たると痛くて迷惑で中にいる子供も危ないし白眼視されるしでろくでもないものを、満員電車に好き好んで載せている人間はいないわけで、引き算による必然性の量を算出したら、多くの場合において親子の方が必然性が多いのではと思う。もちろん全てとは言わない。平日朝・下りの京葉線とかはノーマナー子連れがわんさか乗っててウンザリしたりすることがある。みなさん舞浜で下車。あとはベビーカーのせいで満員電車に乗れず親の死に目に会えなかった人などもいると思うし。
「『キュークール』も観ているんですか。キュアキュアを観ていたってことは、そういったジャンルはかなり長いんですねえ」
「何が悪いんですか。子供の頃に持った趣味を、今もなお続けている。良いことじゃありませんか。悪い理由がない」
「いきなり、どうしたんですか。別に悪いだなんて言ってないでしょう」
フォンさんの拗らせ方は、些か厄介といえた。
「やはり子供がいると自分の時間が徐々になくなって、以前のように趣味に没頭できなくなるでしょう」
「子供を言い訳に使う人は、所詮その程度だったんですよ。ワタシはキュアキュアを観ていました、子供と一緒に!」
「なぜ、そこまで“子供と一緒に”を強調する」
“現在の社会的生活を維持しつつ、趣味も維持する自分”というものに並々ならぬプライドがあるらしい。
“趣味を継続させる”って意識が、そもそもズレているような気もするが。
「この歳になっても最新の動向を追いつつ、長年続けていくのは趣味だとしても大変でしょう」
「別に大変だと思ったことはありません。仮に大変だったとして何も問題はない」
「ふむ、確かに。自分はこの年齢になってからアニメを熱心に観るようになりましたね。たまにちょっと疲れていて、観ている途中で寝てしまいますが、ハハハ」
「それは年寄りがゲートボールやり始めるようなもんでしょ。若い頃に始めた趣味を継続させられるかって話と、ワタシの話を同列で語らないでくれ」
しかも、酷く敏感になっている。
マスターの個人的なエピソードにすら、まるで自分が否定されているかのように噛みつく。
「あなたたちはワタシの趣味を軽んじている。年寄りの冷や水だと思っているんでしょう! ワタシが飲んだら腹を下すと思っている!」
言葉の解釈に差異こそあれど、“そう聞こえてしまうこと”に過敏なのは“思うところがあるから”だ。
他人の生き方が自分と違っていても、それはイコール否定にはなりえない。
自分は上手くいっているからだとか、自分のやり方がそうだからってのは大した理屈じゃない。
なのにそう言って憚らず、他人もそうあるべきだ、でなければ趣味人としては落第だと言うのは間違っている。
「ワタシはアニメに関する仕事をしているし、そういったものにも理解がある。ワタシは子供向けだからだとか、色眼鏡で見たりしない。ワタシは『キュークール』の大ファンだ!」
にも関わらずフォンさんは、他人の姿勢を否定して、己を大きく見せてまで自尊心を保とうとする。
ネガティブな思考で「自分はポジティブに趣味に励んでいる」と捲くし立てる。
「あの作品には自由、愛、平和の多様性が溢れているのに、あなたたちにはそれが分からないのか!」
そう語るフォンさんが、そのアニメから何も吸収できていないのは皮肉な話だ。
まあ、アニメの影響力なんて良くも悪くも所詮そんなもんってことなのだろう。
「ワタシは楽しんでいる! 有意義だ! 納得している! あなた達とは違うんです!」
マトモに笑うこともできないまま、いきり立って「自分は楽しんでますよ」といっても説得力はない。
「だめだ、だめだ。あの『キュークール』の素晴らしさと先見性が分からないなんて! アニメオタクに未だこんなのがいるから、この国は前時代的な表現がのさばり続けるんだ!」
フォンさんのおかしさを、恐らくセンセイたちも感じ取っている。
言語化して、指摘することもできるだろう。
だが、言わない、言えない。
なにせ本人が「楽しんでいる」、「有意義だ」と言い張っているから。
傍から見て、明らかに意固地になっていたとしても、本人が良いと言っているのだから。
非合法でもない限り、他人の趣味にとやかく言うべきじゃない、なんて言うまでもない。
だが、それでも、今のフォンさんにあえて投げかけるべきはそういった言葉だ。
もし、言える人間がいるとするならば……。
「お父様……ひょっとして」
ジョウ先輩が何かに気づいたようだ。
突如、ドレスを着込んでいるとは思えないほどのスピードで走り出す。
そしてフォンさんのいる、喫茶店の扉を勢いよく開けた。
一人が好きって言葉 スカしてんなと思ってたけど
大勢だと疲れる、誰かといるとだいたい疲れる
あとは一人でいいと思う
飯 外行くの?俺も今日弁当無しだから一緒に行こうと誘われて昼食一緒に行った
たまの1回ならこんな日もあっていいよな、と思った
悪い人じゃない、気遣ってくれてるのもわかる、でも自分は別に一人で飯食うのが寂しいとか微塵も思ってない
フェミニズムというのは本来男女平等の権利をあらゆるもので得られるようにという思想、活動であるはずなのに
女性権利主張がゆきすぎて優遇されてるものはそのままに、権利は男女等しく、またはそれ以上をと求める過激フェミニストにウンザリしている。君らは本当のフェミニズムにとってフェミニズムの障壁になっていると自覚しているのか?
政治思想も同じようなもので右翼左翼がネガティブなイメージを抱かれるようになったのは一部の過激な活動家によるものが大きく、本来右翼左翼ともにそんなに過激で許容しがたいものではなかったのだから。
過激活動でまずは社会の見目を集めなければならない時代はもう終わったでしょう?これからはどうやって現実に折り合いをつけていくか対話を重ねていく時代だと思うよ。
それなりに医者になりたいなぁと思って入学したのですが、今はあんまりなりたくなくてラボに通っています。
入学したばかりの頃には「医学部だからと言って医師にならないといけない訳じゃない。研究者もあるし、コンサルとかの企業にも勤められるし、医系技官って道もあるんだ」みたいな話を結構されたんですが、2回生になって以降は基礎の先生が研究を勧めることはあっても、他の職業について言及されることはほぼなくなりました。
そして基礎医学が終わってしまうと完全に医師ルート一辺倒で、周りにいる教員は皆「医者だとこれぐらいは知ってないとダメですね」「医者になってこれやったら訴えられますから覚えておきましょう」「そんなことで医者やれると思ってんのか」みたいな話ばかりでややウンザリしています。
同級生でも「やっぱ医者は共感力が必要なんやなってわかって医学部入って優しくなれたし、みんなももっと共感力持つべき」とか「もっと医師になる自覚をみんな持つべき」みたいなことを言い出す人も多くなってきて正直気味が悪いです。(今まで座学しかやってなかったのに何が分かるんだろうか)
教員も先輩、OBOGも医者(何なら親も医者)という環境に置かれて、無意識に徐々に医者業界の一部のような気にさせられてしまうんじゃないかな、と。医学生を医者の卵とか呼ぶあたりにその辺は現れてる気がします。
幸い、ラボで面倒見て頂いてる先生方には研究者に向いてると思うからぜひやった方がいい、と言って頂いてるので、卒後は初期研修だけ済ませておいて研究をやりたいなと思ってます。
ただ、先生方曰く、学生の間研究していた人でもポリクリと研修のうちにいつの間にか研究から完全に遠ざかってしまう人がかなり多いそうなので自分の気持ちは固く保っておかないといけないな、と常々思っています。
毎朝、NHKBSプレミアムで朝ドラ再放送を見るのが家族の日課になっている。
前月までは「べっぴんさん」で、母や祖母とコメントを言い合いながら割と楽しく拝見していた。
ところが、4月から「おしん」が始まり間もなく第1週が終わろうとしているが、早くも楽しい時間が苦痛の時間に変わってしまっている。
何が楽しくて朝っぱらから嫁姑の諍いや愚痴を聞かねばならんのだ。
1話目からウンザリしてしまった。この調子でストーリーが続くのか。
祖母の話によると、これからおしんは様々な苦労を重ねるらしい。
苦労を重ねない朝ドラヒロインは居ないと思うのだけど、最近のドラマに見られる苦労の重ね方(「なつぞら」のなっちゃんは
牛の世話大変そうだけど本人が望んで世話してるしアイス美味しくてよかったね!と思えるよ)と比べてやや陰湿な空気をまとった苦労話になりそうだ。
どんよりとした気持ちで「おしん」を見て、そのあとに始まる「なつぞら」で爽やかさを補充している。
嫌なら見なければいい、ができたらよいのだけど祖母は嬉しそうに見ている。
家族の団らんを崩すほどの出来事ではないから、このまま見続けることになるのだろう。
本当に毎朝が憂鬱で仕方ない。
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これは2010年の話で、本当に前なんだけれど。この頃ももう十分息苦しかったんだというのを思い出した。
このまとめられている人の見解に全く同意しなかったり、批判的だったりする事は普通だし、それ自体は何とも思わないんだけれど。個人の見解レベルの話で、特に乱暴な訳でも無く、何でも無いような発言だったのに。やれ、オタク差別だ、女性蔑視だとか、ルッキズムだとか道徳マウントやフェミマウントでぶん殴るコメにスターがいっぱい付いていて、本当にゲッソリした。やっている事は今のツィフェミと変わらんし、それより先輩みたいなもんだしね。
こうやって悪意に捉えて○○警察気取っているヤツらがでかい顔しているってのは、本当にぞっとするし、醜いと思う。別にこいつらがいたところで社会は良くなりはしないし、何を言う時もこいつらの暴言に怯えなきゃいけないんだから、本当にウンザリだ。