はてなキーワード: 登場人物とは
恥ずかしながら、結構最近まで村下孝蔵さんのことはちゃんと知りませんでした。代表曲である「初恋」はテレビの歌番組で聞いたことくらいはあったと思いますが、正直「昔の一発屋」くらいの認識でした。
とあるイラストレーターさんがツイッターで「今日も村下孝蔵さんの声が良い・・・」みたいなことを呟いていたのをきっかけに聞き始め、とりあえずitunesでベスト盤を買いました。
色々聞いてみて、「初恋」や「少女」、「春雨」等々、良曲はたくさんあるんですが、その中でも最高だと思ったのが「踊り子」でした。メロディは正直ちょっと古臭い(失礼)とは思ったのですが、むしろノスタルジックな雰囲気が最高です。もろに昭和後期の恋の歌、って感じですね。
それで、聴くほどに、読むほどに染みるのが歌詞なんですよね。別れ歌なのですが、「別れる」とか「離れる」、「振られる」といったいわゆる失恋ワードが一切出て来ないんです。すべてが比喩で語られるんですよ。直接説明されないからこそ頭の中で情景が浮かんで、きれいなメロディだけでは不可能な浸り方ができるんですね。本当に最高です。
冒頭の歌詞が
「答えを出さずにいつまでも暮らせない
ですよ。
このフレーズで、一緒に暮らしてきた恋人たちが限界を迎えているというシチュエーションを完璧に説明してるんです。はー、詩的だ。
サビでは、1番で「つまさきで立ったまま 君を愛してきた」
2番で「つまさきで立ったまま 僕を愛してきた」
最後の繰り返しで「つまさきで立ったまま 二人愛してきた」
と展開されます。
お互い無理してきたんでしょうね。それを「つまさき立ち」と表現し、さらにそれをバレエダンサーに喩えて「踊り子」というタイトルを付ける。えらいセンスだなあと思いました。
で、歌詞にこの文章を書こうと思ったきっかけになった部分がありまして、先の冒頭の歌詞の続きが
暖かい所なら 何処へでも行く」
なんですよ。
ここだけ妙に直接的というか、行き詰まった恋をなんとかしたいというのを「暖かいところに行きたい」と言っただけだと、比喩として(他の部分と比べて)弱いような気がしました。そこでぼーっと歌詞を眺めていたら、ふと林檎の産地って寒いところばかりだと気付いたわけです。調べると、日本国内の生産量の90%が青森、長野、岩手、山形、秋田で占められていました。つまり、日本に林檎の花が咲く暖かいところなんてあまりないわけです。
それを踏まえて歌詞を読むと、「林檎の花」と「暖かい所」は相反する要素であって、「何処へでも行く」というのは「(もしそんな所があるなら)何処へでも行く」であり、無い物ねだりだったんだと分かります。「もし破局を避けられるのなら何でもするよ。でもそんな道はないんだ」という切ない話なんですよね。ところが、この気付きを誰かの書いた文章で共感したいと思って検索したら、「暖かいところは幸せの象徴で」とか「林檎は日本の南の方でも栽培されているので」みたいな解説ばっかり出てくるわけですよ。いや違うだろと思って筆をとりました。
何が悪かったとか、何がきっかけだったとかではないんですよね。好きな相手に自分を良く見せようとして背伸びをした結果、お互いに相手に見せる自分と本当の自分がずれていってしまった。お互い好きになったのは相手の着飾った姿で、だんだん見えてくる本当の姿にストレスを覚えるようになり、やがて耐えられなくなる。お互い未練があるから取り繕ってきたけど、もう一緒には暮らしていけない。大人同士ならすり合わせてうまくやっていく道もあったのでしょうが、若い二人は良くも悪くもまっすぐで、それができない。
顔も見えない、名前も分からない登場人物の、愛情と悲哀だけが伝わってくる。こういうストーリーを「別れる」という言葉を一度も使わずに、どこか美しく表現するって、本当にすごいセンスだと思います。村下孝蔵さんの歌に出会えて、本当に良かったと思いました。
誰かが共感してくれると嬉しいです。
あと、村下孝蔵さんを知っている人には釈迦に説法かもしれませんが、生前に親交のあった沢田聖子さんが「親愛なる人へ」という追悼歌を作られています。
https://togetter.com/li/1737874
マジレスすると「他作品の特定のキャラクターを想起させるような登場人物を悪役として描いている」(by謝罪文)のは当該作品の作者の著作権=実在人の人権を損なう恐れがあるからね。お気持ちヤクザの言う「なんとなく差別っぽい」とかとは問題の程度が明らかに違うんで。
黒人を差別的に描くのは、実在人物の人権を侵害してなくても差別だ
部落民を差別的に描くのは、実在人物の人権を侵害してなくても差別だ
障碍者を差別的に描くのは、実在人物の人権を侵害してなくても差別だ
同じ理屈は
女性を差別的に描くのは、実在人物の人権を侵害してなくても差別だ
と展開可能だ
ここで展開されるべきは「差別との主張はこれこれこういう理屈で誤りである」であるべきなんだけど
作者側が表現の自由を行使した結果、版権等別の他者の法的権利を侵害することになったと出版社が判断したことで掲載が中止になったものであり
で、表現の自由を行使した結果、主催者なり施設なりが「判断」して撤去されるなら
お気持ちが表明されて、その声が大きくなり、「判断」されるのは健全なんじゃないの?
「"胸がデカくて不快"だのと言った申し立てのほとんどは権利ではないか権利としての重要性が大いに劣後するから表現の自由を優先すべき」
とか主張されて真っ赤になっちゃう
LGBTも「その程度」と言われてた訳なんだけどね
それぞれ80年代を代表するラブコメなのは間違いない名作なのだが、しかし終わらせ方に歴然とした差がある。
・いわゆる三角関係モノだが、圧倒的人気のヒロインまどかに傾倒させすぎ、第二ヒロインのひかるはただの当て馬となった
・原作はそのあたりぼかしたまま終了したが、外伝的OVAではひかるがひどい捨てられ方をしたため、今でもファンから胸糞が悪いと言われている
・原作は高校時代だったが、主人公とまどかは同じ大学に行き、いっぽうひかるの3年間の青春がそのままドブに捨てられた形になっていて、極めて自己中心的な終わり方になっている
・このように、メインキャラ3人全員が救われるような描き方ができなかったのは明らかにシナリオの力量不足である
・こちらも三角関係モノだが、ヒロインを奪えなかった相手も幸せな結婚をし、主人公を応援・バックアップするという終わり方になっている
・「響子さんを幸せにするんだぞ!」という昭和っぽい男らしさがある
・高橋留美子らしく、いっさいの胸糞わるい終わらせ方がなく、サブキャラもハッピーエンドになるよう伏線もすべて回収して終わらせている
・恋愛、結婚とはともすれば2人だけの自己中心的な世界に入りがちであるが、しかしめぞんの終わらせ方を見ると、必ずしもそういうことばかりではないとわかる
・たとえばかつての恋敵であっても幸せな結婚をし、それぞれが友人として付き合い続けることもできるはずである、ということを提示しているのがめぞんである
・ちなみにきまオレOVAのシナリオはファイナルファンタジー1~3や数々のアニメシナリオもてがけた名作家であるが、一部のファンにはアンチが多いようである
・SFもファンタジーもやれる多作の才能であるが、ラブコメ専門ではなかったという弊害といえるかもしれない
・きまオレも疑うことのない名作だが、留美子が作家としての格の違いを見せた格好ではないだろうか
・というか野球でいえばイチロー大谷クラスである留美子と他の作家を比較をするのがまちがいである
・このあたりでも批評されているので参考にされたし。
http://ifs.nog.cc/darkforth.hp.infoseek.co.jp/again.htm
https://www.youtube.com/watch?v=ltOrW5B22ZY
ホットエントリどうも。ちなみに、めぞんの恋敵・三鷹さんが響子を諦めざるをえなくなったきっかけは、いいなづけ(九条あすな)が妊娠してしまった!という誤解からはじまっている。
響子がふりむいてくれず、泥酔した三鷹が九条のマンションに寄ったさい、思わずキスをしてしまうのだが、三鷹にその後の記憶がないためであった。じっさいは両者の飼い犬同士が、たまたまその場でいたしてしまったからであった・笑。
九条も天然なので「あのようなことをされたからには・・・」という表現がまた誤解を生んでしまい、三鷹は責任をとって結婚する。
このようにアクシデント的なオチにすることで、ドロドロの結末でなく笑いをふくめてすべての登場人物を救ったというのは、やはり留美子の天才性というよりほかない。
なお九条さんの天然さはいまも一部のファンから根強い人気がある。三鷹も最後のシーンではしっかり手を握って愛妻家ぶりを見せている。皆さん、これがハッピーエンドというものですよ。
呪術廻戦のアニメが良く動いて好きだから見てるけど、人物の描写ってところではかなり疑問が出てくる。登場人物がみんな話の役割として描かれるというか、どういう人間であるのかのリアリティがいまいち無い感じ。とにかく強い師匠枠、天才的前作主人公枠、不遇から抜け出す先輩枠、みたいなキャラクター位置付けで完結していて、過去編があったとしてもその人格が形成されるという納得が無い感じ。人格よりも位置付けが先に来るから、この人は何考えてこういう行動してるんだ?というのが腑に落ちなくなる。
主人公もそうで、「正しい死を求める」というキャラクターテーマが提示されているけど、それは何か、どうすればそこに行き着くのか、今はそれをどう考えているのか、経過が見えないから何を求めてどこへ行くのかよく分からない。
これ、いつも不安。
40歳処女。外見や言動から処女がばれるのは、多少恥ずかしくても耐えられる。
だって読んでる最中に作品世界のことじゃなくて、外側の作者のことを思い出させてしまうんだろ?
登場人物二人の恋やら何やらにときめいて欲しい場面で、そっちにもっていかれるなんてかなり嫌だ。
「水は火に強い」だとか「風は土に強い」だとかだ。
登場人物がゲーム的に世界を解釈しているのは別に嫌いじゃないが、作品がゲーム的な設定を持っているのは好きになれねえ。
本当にゲームの中だというのなら別にいいが、そうではなくその世界はその世界で現実だというのなら違和感がヤバイすぎる。
木火土金水になぞらえていようが西洋の四属性思想になぞらえていようが世界の物理法則にそこまで深く関わるようなもんではないだろ。
まあ確かに陰陽師の世界において五芒星の相克関係によって霊的な力がどうこうしていたというのはあるが、あれも結局は何も起きてない状況にそれっぽい儀式をやってみせるための設定でしかないだろ。
実際に霊的な力が蔓延っているような世界になってしまったら、そんな上っ面の設定は吹き飛んで実践的なものだけが残るはずだ。
別にコレは「個別の状況に対しての有効打の存在」を否定しているわけじゃない。
カビにカビキラーを打ち込むと落としやすくなるのは、そこにゲーム的な相性設定があるのではなく、ある対象に対して効きやすい道具を開発した結果だ。
だがそこに「ゲーム的な倍率」みたいなのが入ってくると完全に無理になってしまう。
騎兵に対して槍兵は5倍のダメージを与えるとか言われても何のリアリティもない。
ゲームにおいて5倍の特攻効果があるものとして計算されているものが、現実にはどのような過程で起きているのかを演出するのが漫画作品や映像作品の役割だろう。
「判定でクリティカルが出たからダメージが倍になった」とゲームで計算されるのは、現実の戦闘においても「当たりどころが悪くて大きなダメージを受けた」「装甲の隙間に完璧に入ってしまった」といった事が起きているのを簡略化したものだ。
ゲームは多くの場合が現実の簡略化によってシステムを設計しており、「火属性が草属性に2倍ダメージ」というのは、草木に対して炎で焼き払うのが有効であるのをゲーム的に簡略化した結果であり、それぞれのゲーム世界における実際の戦闘においても2倍ダメージが先にあってそれに相応しい演出として草が燃えているのではないはずだ。
そこを理解しているのか怪しい作品が増えてきているように思う。
世界の解釈にゲーミフィケーションを持ち込むのは良いことだし、登場人物がそういった価値観を持つのは現代なキャラクター造形として正しいと思う。
だが、世界を形作る根本原理がゲームそのままであるのが許されるのは、その世界が造物主によってそのように作られた場合のみだ。
セックス産業従事者として覚悟とプライドが決まってるとかそういう話か?
専業漫画家・小説家でも無いのに顔晒してエロ本売れる感覚、理解がし難い
しかも、登場人物のセクシャルを変えたエロ妄想だぞ?正気かよ・・・
いちおう恥ずかしいは思っているようで、ネットは実名ではなくHNだけど、
同人即売会で顔を晒すことはできるみたいな不思議なプライバシーポリシー、常人には理解できないよ?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/anond.hatelabo.jp/20230403211559
こういうデスゲーム系の作品って主人公が謎のトラウマとか過去とかコンプレックスとかを抱えていて、デスゲームを通してそれを克服するみたいな無駄にジメジメしたサブストーリーがあるものだけど別にそんなものはない。主人公は普通のおっさん。毎回思うんだが、読んでる奴らにそんなトラウマとか基本ないから別に感情移入する要素にならんだろ。
こういうデスゲーム系の作品って主人公が若い子なことも多いので読んでると「いや、そうはならんやろ」という行動を主人公たちが取って非常にイライラさせられることが多いんだけどこの作品では主人公は元大手証券会社勤務の40歳くらいのおっさんなので基本的に理知的な行動をとってくれるので非常に助かる。
敵が敵になる動機が単純。
こういうデスゲーム系の作品ってなぜか敵側に生まれつきのサイコパスや殺人マシーンや快楽殺人鬼がいたりしてそいつが敵役になるというなんのこっちゃという展開があるが、この作品では運営より配布される食糧に凶暴性、食欲が増進される薬が入っているから、という非常に単純な仕組みになっており飲み込みやすい。
運営が用意した「サバイバル用品」「護身具」「食糧」「情報」から主人公は「情報」を選びこのゲームの全貌を知ることで優位に立つわけだが、代償としてデスゲームで生き残るための文化的なツールを手にすることができない。しかし手に入れた「情報」を利用して原始的な石を割った槍や幼虫を焼いたもの利用し生き残りを図る。このあたりのバランス感覚に優れている。
登場人物が少ない。
デスゲーム系の作品にしては登場人物はゲーム参加者の9人だけで運営側は一切顔を見せないので覚えやすい。死ぬ奴はすぐ死ぬし。
作者が信用できる。
外さない男貴志祐介の作品ってだけで信用できる。貴志祐介は日本ホラー小説大賞を「ISORA(後に映画化)」で佳作、「黒い家(後に映画化)」で大賞を受賞。他に映像化作品として「青い炎」「鍵のかかった部屋」「新世界より」「悪の教典」など、とにかく一発打てばはずれがない。
あと顔がめちゃくちゃ門野卓造に似てるところも信頼感がある。
個人的にネットフリックスか韓国あたりがそのうちドラマ化すんじゃねーかなと思ってるんだけど、もう24年前の作品だからさすがにねーか。
ドラマとか見ない自分ではあったが、推理小説が好きなのもあって推理サスペンスドラマは見てた
その中の一つ「ケイゾク」。風呂に入らずに髪はボサボサ、でもめちゃくちゃ頭が良くて「私、わかっちゃったんですけど」というのがカッコよかった
その主役が中谷美紀演じる柴田純。OPも中谷美紀が歌う「クロニックラブ」、この時は何となく好き程度だった
その中の一つ「エウレカセブン」数年前に劇場アニメ化されて、劇場に行くほどじゃないけど配信は心待ちにして見てた
2作目の「アネモネ」、とあるシーンの劇伴が「どっかで聞いたことあるなあ……」ってモヤモヤしながら数日たった
ふと気づいた!「クロニックラブ」だよ「ケイゾク」のOPだよ!
と思って調べたらクロニックラブの作曲は坂本龍一で、もともとは「バレエ・メカニック」という曲をアレンジしたものらしい
もうわかったと思うけど、エウレカセブン48話のタイトルは「バレエ・メカニック」
そのアネモネを主役にした劇場版がアネモネで、劇伴に48話タイトルの元になった「バレエ・メカニック」を使ったって事らしいんだわ
そりゃ坂本龍一のバレエ・メカニックを知ってた人なら当時からわかってたと思うけど、自分自身はここでケイゾクとエウレカセブンがまさかの坂本龍一で繋がったんだ
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/wezz-y.com/archives/95482
これ、リトル・マーメイドのアリエルを実写版で黒人に改変した事に対して「子供は気にしない」というコメントが多いけれど
例外はあるにせよ一般的に言えば、アニメは子供向け、実写は大人向けなのでは?
わざわざアニメじゃなくて実写にする以上は
かつてアニメ映画の方を見た大人の観客も期待していると考えるのが自然だと思うんだが…
なのに、子供は気にしてないから問題ない!大人の意見なんて聞く必要がない!って理屈はおかしくない?
本当に黒人の子供向けならばビジュアルを全部一新して、リトル・マーメイドブラックとかいって、
総評としては、よく知らない作品のマニアが手掛けた二次創作って感じで俺には楽しめなかった。
そも、こうなることは初めから分かっていたのだが、流石に大作映画の部類なのだからもう少し親切設計であることを期待してしまっていた。俺が悪かった。
作中のそこかしこに「ここです!ここがマニア垂涎のオマージュ/パロディです!」みたいなスポットが散りばめられているのを、仮面ライダーをほとんど知らない俺でも観ていて理解できる作りになっていて、
俺がマニアだったら楽しめたんかなって思いつつひたすら感情が冷えていった。
なんかね、そういうディテールが先行している脚本になっててさ、登場人物達に感情移入できる作りじゃないんだよね。滔々と人物設定とか世界観設定が語られていくだけというか、脚本というより前段階のプロットをひたすら朗読されている感じだった。
CGもさ、コウモリ・オーグのシーンとか異常にチープでさ、これもなんかのオマージュなのかなぁとは思ったけど、仮面ライダーをよく知らない俺からすると単に雑なCGにしか感じられなくて失笑してしまった。昔の特撮のオマージュだったりするのかしら。
戦闘シーンも画面が暗くて状況がよくわからないシーンもあったし、基本的に接写してカット切り替えまくるから殺陣的な楽しみもあまりなく、そして相変わらずCGはチープだった。
初代仮面ライダーが風の力で変身するのは知ってたからそこはおっ!って思えたけど、もっと仮面ライダーの知識を蓄えてから見るべきだったのかな。
あと、浜辺美波のキャラクターだけど、初っ端からずっと生い立ちからは想像できない程に人間的な情緒に富んでいたので、ハチ・オーグが泣かせたいとか言ってたけど割と月に2,3回は泣かせられそうなキャラに見えた。
追記を書いた後も、たくさんブコメもらってて、気づいたらTwitterでもけっこう言及してくれてる人がたくさんいて。
この記事をたくさんの人に見てもらったこと自体で、また更になんか意識が変わったところもあり、全てに返信したいけどできないもどかしさもあり。
もう少しだけ書き加えたいことがあったのでまたやってきてしまった。しつこいかもしれないけど興味がある人だけ読んでくれれば。
あまりに生活が変わりすぎて自分自身が戸惑っていたようなところがあるのだけど、好きなものを好きと胸を張っていていいんだと背中を押してもらった感じがしている。
これは本当に有難かった。田舎でひとり推し活(という言葉を使うのもまだ気恥ずかしい)していたら、どこかこれでいいのかという不安がずっとついて回ったと思う。
不安を吐き出すような投稿だったけど、書いてよかった。コメントくれた人、ありがとう。
声や表現力に惹かれたのは間違いないのだけど、YouTubeを何回も見ているし、人柄も含めとても美しく可愛らしい女性だと思ったのもまた確かなのでビジュアルを観ていないわけではない。
ちょっと自分語りすると、過去に少し舞台や音楽に関わる活動をしていたことがある。自分自身はクリエイティブなことは全くできないのだけど、だからこそコンテンツを生み出す、表現するということ自体にけっこうリスペクトを持っているところがある。
アニメを見ているときは、その作品を作り上げたチーム全体に対してリスペクトしているし、そのチームの最前線で表現をしている声に、YouTubeなどで見ている天さんの姿がちらついて、彼女がこの作品に命を吹き込んでくれているんだ、という感動とともに見ている感じ。
それは音楽も同じかな。自分自身が音楽好きなこともあって、歌の表現力のみならず自身で作詞作曲までやってるという時点でもう完全に眩しいリスペクト対象になってしまっている。
自分など比べるにもおこがましいけど、少しでもその光を浴びて前向きに居たい、という気持ちが強い。
意外と賛否両論なのを知らなかった。たぶん、アニメの絶対的な摂取量が足りないのもあるんだろうけど、個人的にはどんな作品も割と楽しめてしまう。
上で書いたような感情で観ているので、あれだけの登場人物の描き分けとか、独特な世界設定とか、すごいなあ、と思った。
(ものすごく贔屓目が入っているだろうけど)特徴的な女性キャラが多い中でも埋もれない、リーダー役のリリィにふさわしくとてもキラキラしたキャラクター表現が天さんらしくていいなあと思っている。
あ、あと3話だったかな、リリィのセリフで「大罪も七つ」というところがあったはず。まだ全然追いつかずに観られていないのだけど、「七つの大罪」が天さんの代表作のひとつということは知ってる。
これは七人の少女たち(八人だったけど)にひっかけた、脚本の遊び心じゃないのかな。こういうのが見えると、うれしくなってしまう。作品を楽しめる閾値が低いのは得な性格をしているのかもしれない。
リサイタルへぜひ、良い席だといいね、40代なら歌謡曲が刺さるのでは的なコメントについて。
ファンクラブとかないのかな、と思っていたらTrysailとして会員制度があったんだ。気づいていなかったけど教えてもらって登録しました。
だけど、今回のはちょっと仕事的にスケジュールが合わなそう。せっかく生活を好転させてもらったので、仕事や私生活をきちんと守れる範囲で、いつか体制を整えて臨みたいと思います。
歌謡曲についてはもうほんとその通り。世代的にど真ん中じゃないけど、歌謡曲はもともと大好きだった。Flyday Chinatownのカバーは本当に本当に良いです。いつか生で聞けたら泣いてしまうかもしれない。
そんなチャンスが来るように頑張りたい。
そのほか、コメントでオススメしてもらった作品はすべてメモにまとめた。
順番に楽しんでいこうと思います。こんな世界を見せてくれた天さんと、こんなおっさんの駄文を読んでくれた多くの人のおかげで楽しいです。ありがとう。