はてなキーワード: 某氏とは
でも、本人が9年連続出演といっても、いくら媚をうっても、一番に尊重されるのは他のグループ。
同じグループのメンバーも何度も出演しているのに一人だけ引き抜かれ出演。(発表当時)
仕事があることはいいことだけど、結果として楽しさ以外の感情が湧き上がることの方が多かった。
演目の中でも一人芝居で舞台を任されたり、座長の右腕として一目置かれる位置にいた。
そしてその紹介をしていたのは一番長く支えてきた彼だった。
仕事がある以上は幸せな事と思い、劇場に足を運んだが、結果、9年も支えてきたのはなんだったのかと悲しくなった。惨い。
新しいグループになってからというもの、それだけでデリケートになっているというのに、
社長がつけた名前ではないわ(知名度・発信力がある人がこういう発言をすることは本当にやめてほしい)、グループ単位での仕事はないわ、一人だけ引き抜かれての舞台出演だわ、一体この先本当にグループとしてやっていけるのかと不安に思っていた。
他のグループが雑誌の発言等で炎上のようになる度に、彼らの方が実力があるのに、と思い過敏になり疲弊していた。
ラジオに出演した際、今後は俳優を中心に進んで行きたい、と話していた。
少なからずグループに関することを話すと思っていただけに驚いたし血の気がひいた。
グループのことはどうでもいいのだろうか…と周囲が落胆している様子もかなり辛かった。
いつもファンが知りたいことを100点満点で発信することが多いだけに、過剰に期待してしまった所はあったが、
今のこの時期にあんなことを言われると自分の事だけしか考えていなかったのだろうか、と疑心暗鬼してしまうのも無理はないなと思った。
そもそも、お前は芝居で行けなんて尊敬している人に言われたら否が応でもその道に進むに決まっている。
過去にお前は二枚目は無理だから三枚目で行けと言い、現在壁にぶち当たっている某氏を見ている為、非常に心配しかない。
(そして笑いのセンスが昭和なせいか、私はみていて全く面白く感じない)
(舞台の中でも、私は2幕が面白く感じずに辛かった為、今後は笑いを取り入れるなら時代にあった物をお願いしたい)
それでも座長を尊敬し、ひたむきに努力し、その成果を舞台で十二分に発揮している姿を見ると、ファンの勝手なしがらみで歩みを止めたくないと辛くなる。
私が過敏になっているだけであってほしい。
森友学園問題について、色んなところで散々と議論されてるので細かいことは書きませんが、
自民党の皆さま、そろそろ覚悟を決めて対処しないと、自民党自体の信頼度がもはや地の底に落ちてしまうと思うのです。
ていうか、もはや個人としてはすでに自民党終わったなと思わざるを得ないとこまできてるというか。
実際には安倍政権の評価なんでしょうけど、一般人からしたら、それは自民党の評価と一緒に思えるわけでして。
事実はどうあれ、とにかくこの森友学園問題については、与党の対応は胡散臭い、と思われてるのは確実だと思うのです。
普通に考えたらおかしいということを、無理やりこう解釈したら問題がないとか、国民をバカにしてるのかと思うことが多すぎです。
(そりゃ、何かを為すためには必要な政治もあるともわかりますけども)
いま必要なのは、真摯に問題について向き合い、隠し事をせずに問題の本質を明らかにすることじゃないのでしょうか。
安定した政治のためには隠し事も必要かもしれませんが、この問題については悪手を打ち過ぎ、手遅れではないでしょうか。
このままうやむやにして終われるとでも本当に本当に思われてるのでしょうか?
物事を終息させるためには、残念ながら安倍総理に辞めていただき、色んな人が辞任することになろうが、事実を明らかにするしかないと思います。
もしそれが自民党の手で実行できるなら、自民党だけではなく、政治そのものが信頼度を取り戻せるのではないでしょうか。
安倍総理については、関与があることが違法かどうかとかはもはや無関係に、ご自身が、「私や妻が関係していたら辞める」とか言ってしまったのが全てだと思います。
あれがなければ、関係してはいたけど、内容としては問題ないと言えたのに…
あのFAXの内容自体が問題か問題でないかはもはやさておき、奥様が関係してること自体はもはや否定できないのではないでしょうか。
個人的には安倍総理は極端なとこはあれど嫌いではなかったので、残念です。
こんなとこに書いたからって、政治家の皆さまに届くかどうかなんてわからないですが、普段こんなことを書かないような私でも書かないといけないんじゃないかと思えるほどに、今回の与党の対応には納得いってません。
国民は怒れよ、と某氏もよく書かれていますが、今回は普段は怒らない層も怒っていることをよくご認識いただけるよう、切に願います。
ちなみに私は自民党信者でもなければ野党のどこかの信者でもない無党派層です。
それでも今回の問題については、自民党の皆さまが動き、早期解決をはかってもらえるよう、応援し、期待しています。
以上、だれかに届くことを期待して。
街歩く人にいちいちなんてこいつらは馬鹿なんだって嘆いていた。
高学歴に視点からすれば、大概の世の中の人間は馬鹿に見えるだろう。そんなのは仕方ないことだ。
学力が完全平等な世の中じゃあるまいし、少なくとも学歴だとかそういうもので頭の良さの差が存在してるのがこの世の現実だ。
中間層視点ですら底辺が世の中にポツポツいるものだと言うし、底辺目線だろうがそういうことはある。
高学歴の人間が、いちいち馬鹿に怒ってるを見ると、自分のような底辺としてはなんだかムカついてくる。
世の中には、超高学歴の基準では馬鹿に分類される人間が多いという事実を受け止め、あまり怒らないように生きるべきではないのか。
高学歴で、思考が上等な方だから、「現実主義」なんて、現実以上を想像できない底辺の戯言だと思ってるのかもしれない。
確かに自分の考えは、自分が理想を思いつけるような頭を持ち合わせていない馬鹿だからそう考えるんだろう、というのが多々ある。
しかし、世の中の大多数は「馬鹿」である。それを踏まえることも必要となりうるのが実際社会ではないか。
すごく上の立場から、いちいち人の欠点を論ってる方々は、たまにはこういう底辺の声も聞いて欲しい。
ブログを投稿した際、仲間内でスターをつけまくりホッテントリに載せるという悪の組織である(と認識されている)
例えばTwitterでは「相互フォローします!」みたいなのがあると思いますが、あれも互助会のようなものです
つまり、「フォロワー数多い→凄い」とか、「スター多い→ホッテントリ」のように、互助会的な動きをすることで何らかのメリットが生じる際にこのようなことが起きます。
彼らは、時にはビジネスとして、時には承認欲求を満たすため、時には流されるままに互助会の一角を担います。
例えばサークルの中に「友達が多ければ多いほど人気者で素晴らしい」という層がある程度入れば、彼らは固まり、新人を仲間グループに引き入れようとします。
また、会社間で相互に仕事を回し、社会におけるお互いの価値を高めるような行為も互助会と言えるでしょう。
インターネットというものは相手が見えないため、「見えないところで何か悪いことをしているのではないか」という疑心暗鬼にとらわれることが多いですが
Twitterを見ても分かるように、暗黙の了解としてコミュニティを形成するパターンも多くあります
たとえば、フォロワー数が多い人ほど発言力が増すとか、お気に入り数のランキングを作るとか、注目されている記事を目立たせるような仕組みを導入するサービスがあります
これらは数多のコンテンツからより良いものをユーザーに見せるための仕組みです。
しかし互助会があると彼らばかりが目立つようになり、露出するコンテンツの質の向上が望めません。
また、他のコンテンツ提供者が不満を抱き出ていくかもしれません。
するとサービスからユーザーが離れるので、マイナスとなります。
例えば何の力もない新参が入った場合でも、互助会を利用するとコンテンツを露出させることができます。
そうなると新参は喜んで更にコンテンツを作成し、結果定着する可能性が高まるでしょう。
また、互助会は規模が大きいほどメリットがあるので、外から新規ユーザーを引き入れる可能性もあります(インフルエンサーと化す)
上記のように、互助会ははじめユーザー定着させるのに一定の効果があると考えられますが
サービスが成長し、コンテンツ提供者が十分に居る状況では厄介な存在となります
サーキュレーターは、自分が目立てば目立つほど注目され儲かるという状態になります
オリンピックのロゴデザインをしていた某氏もそうですが、お金が絡んでいくとやり方が巧妙になっていきます。
いくつかあります
・「いいね」のように評価ハードルを下げ、互助会の影響力を下げる
互助会の効果を薄めた場合、互助会がより互助会をしやすいサービスへと移るリスクが有るでしょう
また、互助会の世話焼きメリットもなくなるので、新規参入者の定着も考えなければなりません
より公正なランキングが形成された場合、コンテンツ提供者はコンテンツのクオリティアップをより心がけるようになるでしょう
また「どうせ頑張っても互助会に負ける」という考え方もなくなるでしょう
「HowToネタが伸びる」という雰囲気を作ることがあると思います。
13.幻の互助会
毎回同じ人がランクインしていて、これは互助会だ!と勘違いするケースがいくつかあります
・フォローシステムによって立ち上がりが早く、早々にランクインしてしまうため
・単純にその人のクオリティが高いだけ
まとめ
田舎で育ったガキだった。
小学校に入ると、「頭いい」・「勉強ができる」ということは恥であると思うようになった。
田舎では学歴がある人がそこそこ稼げていても、中卒の地主や土建屋がそれ以上に稼いでいた。
学ぶという事はイケてる人間になれなかった者が仕方なしにする事だと思うようになった。
リーダー格が犯罪行為をしても、それをチクる事は法を犯す以上に悪い事だと思っていた。
法律や知識なんてのは、力のない者が現実逃避をして自己弁護するためのポーズだとすら思っていた。
彼は小さい頃からお経を覚えさせられ、科学に対し否定的な考えを持っていた。
スピリッチュアルな単語が様々な現象の原因を説明できるとのことだった。
彼の周りには同じ事柄を信じた人が集まり、その信仰を深めていった。
信心深い彼は小学校の頃から三十になる今までずっと同じ姿勢である。
今更彼は、別の角度から物事をみることができないだろう。英才教育が今の彼を作り上げたのだ。
私は高校時代、たまたま知り合った人に勉強の重要性を教えてもらう事ができた。
高3まで頭になかった受験勉強に専心し、上位3%くらいの大学に入る事もできた。
学歴を生かして、いろんな人と交流する事で、自分の無知を自覚できるようになった。
だが、もしその知り合いに出会っていなかったら、その知り合いが自分にとって説得力のない人間だったら、ルックスがかっこ悪かったら、
多分今の自分は別の人間であり、もっともっとバカで愚かな人間であっただろう。
だからこそ、バカを見下すのではなく、自分の運に感謝し、もっと謙虚にならなくてはいけないと思う。
おそらく「correctness:コレクトネス」?の意味で「コレクト」という言葉を繰り返し使っているかと思うのでそれを前提に反論しますね。
「political correctness」は直訳すれば「政治的正当性」であり、「コレクト:correct」というものを直訳したときの「正解・正則」といったものと概念が少々異なります。
「ポリティカル・コレクトネス」を「コレクト」を前提にして理解しているのであれば、世の中の政治はすべて倫理的に認められる正義が前提になっていなければいけないというふうに推測されます。
その点でなんとなく長谷川某氏を思い浮かべてしまうのですが、どうも世の中に対して「こうあるべき」「これこそがあるべき姿」という規範を持っている人ほど、政治的正当性(=political correctness)を理解しづらい位置にいるのではないかと思ってしまいます。
何度も繰り返して申し訳ありませんが「正義」という概念そのものが歴史的に全く不安定なものであり、なにをもって正義と呼ぶかはほんの数十年の間にも大きく変化をしている全く普遍性のないものです。
ですので現在世界中のマイノリティーが訴えているのは「コレクト=正解」ではなくあくまでも「ポリティカル・コレクトネス=political correctness(政治的正当性)」でしかありません。
前提として「政治的」がつくのは、時の政権や民主主義による世間的多数決がその正当性を決めるからです。
その点がますます長谷川某氏と気が合うのではと思わせる要因なのですが、どうもあなたは世間というものに対してウブすぎではないでしょうか?
ここ数日、レールから降りた人々に対する注目が集まっている。
(この日記ではレールに乗る=大卒で企業に入社し社会人生活をスタートすること、と定義する。)
関連する日記のブコメを眺めると、彼らの考え方への批判やレールを外れることの愚かさを指摘する内容が多い。
一方で、レールに乗った人生とはどのようなものか、その良さについて指摘する内容がほとんど記載されていないように見受けられる。
大卒会社員の私生活を綴ったブログと言えば某氏のブログが真っ先に思い浮かぶが、あのようなきっつーな内容を読まされて
エンターテイメントのネタとしては、きっつーな自虐話を綴ったほうが受けがいいことは理解している。
しかしながら、レールを外れた人々を声高に批判するのであれば、会社員諸君は自らの人生がいかに良いものであるかをもっと声高に発信すべきだと思うのだ。
なお、本題とはずれるが、筆者はレールを外れるか外れないかは手段の話であると考えており、目的を決めた上で最適な手段を選ぶべきという意見である。
自分という人間が、世の中にどのような価値を提供できるのか、後世に何を残したいかを考えて欲しい。
金持ちになることを目的としても良いと思うが、金はあくまでも提供する価値の対価であることを忘れないで欲しい。
前置きが長くなったが、レールに乗った人生の一例として筆者の思うところを紹介したい。
筆者は大企業務め、入社10年目、既婚、子無し、共働きで世帯年収1300万である。
年俸制のため、期初に上司へコミットした成果さえ出せば後は好きなことをしていても問題はない。
筆者はおおよそ9時から10時の間に出社し、19時から22時の間に退社する。
体感で業務時間の2割くらいを年度の成果に関係のない勉強などに使っている。
書類や雑用は多いが、割り切ってささっと終わらせるようにしている。
大企業は衰退する日本の象徴として語られることが多いが、いいところも沢山ある。
まず仕事の規模感が大きい。子供の頃に憧れた巨大イベントや、国に関わる仕事に携わることも可能である。
一方で当然デメリットも沢山ある。
メリットとして述べたことと反転するが、規模の小さい仕事は認められずらい。
そのため、挑戦的なプロジェクトをなかなか始めにくい。
世の中の仕組みを変えるような可能性を秘めている凄いプロジェクトであっても初期は小さく始めるものであるが、そのロジックが理解されにくい。
また、安定感がある反面、給与が頭打ちになる。筆者自身もそろそろ給与テーブルの上限が見えてきている。
大企業にいるからと安心せずに、常に転職ができるようなメンタリティとそれを裏付けるスキルを磨いておくべきと考えている。
最初にも書いたが、若い方々には目的をしっかりと考えてほしいと思う。
その目的を達成するための手段として、企業務めという選択肢は必ずしも悪いことばかりではないよということを伝えたかった。
(が、筆者の人生の目標を記載していないこともあり、何を言いたいのかよくわからない文になってしまった。)
以上。
東京出身の某氏が炎上しているが、果たして『東京目線』だけが悪いのだろうか。
擁護したいわけではないが、彼女があのように言い切るにあたって京都人に非は無かったのか?というと
もしかするとあったんじゃないかな? いや多分あったんだろうな、と思う。
もちろん彼女のように口に出すことはあまりないかもしれないが、ふか~~~~いところで日本人全体を馬鹿にしているのが奴らだ。
奴らにとって京都以外のモノは取るに足らない、辺境から来た、未開なサムシングであり、隙あらばマウントを取ろうとする。
ほとんどの『日本人』が心の何処かで憧れている帝都東京であろうがその対象に含まれているのは言うまでもない。
地方出身、あるいは地方在住の方があの記事の『東京目線』に怒り、京都は『こちら側目線』の代表であると認識しているなら、
それは大きな勘違いと言わざるを得ない。
彼らの目線は『東京目線』と大して変わりない、どころかもっと酷いものであると記しておく必要がある。
そもそも純粋京都人は京都のことを『地方都市』などとは1ミクロンも考えていない(この事実に気付くのに私は7年掛かりました)。
東京の権威はどこでも通じる(京都を除けば概ね正しいが)と信じ『地方都市』へやってきたのに、奴らはそれを評価しないどころか
逆にただの一地方のお上りさん扱いで上から目線が透けて見える。こちらにもプライドがあるのにそれを鼻で笑いやがって。
私のバックボーンにはこれだけのものがあるというのに。我が東京と較べて大してメディアも人も集まらないくせに。
というようなことがあってもおかしくないのが京都であり、仮に彼女があの傲慢さにあてられていたとしたら、私は同情を禁じ得ない。
ああいった、後ろ足で砂をかけるような言葉が出てくるのも心情としては理解できる。
とは言え、もしそのような状況であったとしても言葉は選ぶべきであろう。
もう何年も前のことだし、忘れようとしてきたことだけどこれを呼んで思い出してしまった。
私(当時20代・女性)は以前勤務していた会社で、上司(当時40代後半・男性・既婚)に告白をされて同じような気持ちを味わった経験がある。
私はいろいろあって苦労してその仕事に就いたということもあり、できることならずっと仕事を続けていたいと思っていた。
求職時にも産休やや育休やらの前例があり福利厚生もきちんとしているところなだと思ったのでその会社に決めたという経緯がある。
私は中途採用で入ったが、その業種では経験値が重視されるということもありほぼ素人同然で業界に飛び込んだ私は直属の上司である某氏に頼ることになった。
就業最初から色々親切にしてくれ、経験不足の私を教えフォローしてくれたということもありとても尊敬していた。
時々ちょっとスキンシップが過剰かな?くらいの印象はあったけど、私は彼氏がいるということを割りとはやい段階で言っていたし、向こうも既婚者だということで特別気にしないようにしていた。
なのにある日突然に「好きだ、抱きたい」というようなド直球な告白を受けた。
飲み会のあとの送りの場面だったので冗談かなといろいろかわすようなことを言ったけど、こちらのはぐらかしをものともしない言い方だったのでほぼほぼ間違いなく本気でそう言っていたんだと思う。
だけども当時彼氏とも結婚の話がほんのちょっとだけど出ていたし、何より上司の性格的に微妙に完全に信頼しきれない部分を感じていたのでその時はかなり強引な理屈をつけて逃げた。
ようよう自宅に帰ってから、何となく自分の体が汚れたような気がして念入りにシャワーを浴びているというところで上司からLINEがきていて
「悪かった。今後も普通に仕事をしてほしい」みたいなことがあったのでとりあえず安心してしまったせいか
「気にしないでください。私も上司さんのことは人間として尊敬しています」みたいな返答をしてしまった。
それが今思えばよくなかったのかもしれない。
休日があけて出社したあと、上司は一応少しは少し距離をとるようにはしてくれていたけど
1週間くらいしたあたりから何かと体に触れるようなことをするようになってきた。
私の感覚だと、一回振られた相手なら気持ち的に遠慮して一緒になる機会を避けるんじゃないかって勝手に思っていたんだけど
元上司はそうではなかったらしく、その後も私の仕事にいちいち「大丈夫?」みたいなことを言ってきたり、私が他の同性の同僚と飲みに行く約束をしているときに「俺も行こうかな?」みたいなことを平気で言っていた。
私としてはこちらが望まない告白を受けたんだし、はっきり付き合えないという意思表示もしたんだから向こうが一定の距離をおいてくれて当然と思っていたのに全くそうではなかった。
ちなみにその元上司は社内では愛妻家で通っており、デスクの上に家族写真をいくつも並べているということから家族愛が強いキャラとして認識されていた。
言い訳にならないかもしれないが、私もそうした普段の様子を見て深夜まで二人きりになるというようなシチュエーションに危険を感じなかったという落ち度はある。
私は婚約は一応してるものの具体的に結婚が決まっているというわけでもない微妙な彼氏がいるのに、そこにやたらと親しげに肩や頭に触れてくるという上司がいるのは気分がよくはなかった。
そうしたスキンシップも、私がなんとなく黙認しているから向こうがつけあがって継続してくるんじゃないかという自責もあった。
だけど前に告白を受けた時に建前とはいえ「人として尊敬しています」というようなことを言ってしまっているのに、肩や頭にふれられるのを突然拒否するということも出来ない気がした。
そのあたりも元上司のずるいところだけど、胸やお尻といったセクハラに該当しそうな部分は巧妙に避けていた。
結局、私はその会社を辞めた。
それまで結婚時期を決めかねていた彼氏に強引に迫ってスケジュールを前倒ししてもらい、それを期に退職したいというように会社に申し入れた。
事情を知らない会社の人事は私を引き止めてはくれたが、私が元上司のことについてそこで訴えても「自意識過剰」「もう向こうはそんなつもりはない」といったように言い訳されるのがはっきりわかっていたのでやめた。
結婚後別の職に就いたがやっぱり今でもあの仕事を続けたかったという後悔も今も感じている。
もちろん元上司に対する恨みも、何か日常でストレスがあるとふつふつと湧いてくる。
何が言いたいかというと、記事にあるZ君は私が感じていたような不合理な圧迫感を周囲に訴えることで解消したかったんじゃないかと思う。
ある意味同性異性の違いはあれ周囲に訴えて打開ができる状況にあったことはうらやましいとすら思える。
私が周囲に「この上司は不倫をしたがってますよー。近寄ると危険ですよー」と訴えることができたなら同じことをしていたかもしれない。
だけども私の場合、私よりも上司の立場が圧倒的に上であったためにそうした報復的な行為ができなかった。
私だけではない。もしかしたら不倫関係で悩む女性には同じような悩みがあるのかもしれない。
そうした経験をもう何年も前に受けた私が今この記事を見て思うことは、ようやく望まない告白を受ける恐怖を男性側も表に出せるようになったのかということだ。
望まない告白を受けてそれまでの仕事や立場を失うということはおそらく私のように多くの女性が経験してきたことと思う。
世間では「痴漢冤罪」やら男性に非がないのに女性が無理やり犯罪を作り上げているかのような言い方もあるが、それは全体からの割合で見ればごくごくごくごくこごく小さいものであり、現実は女性が被害を受けていることがほとんどだ。
もう何年も前のことだし、忘れようとしてきたことだけどこれを呼んで思い出してしまった。
私(当時20代・女性)は以前勤務していた会社で、上司(当時40代後半・男性・既婚)に告白をされて同じような気持ちを味わった経験がある。
私はいろいろあって苦労してその仕事に就いたということもあり、できることならずっと仕事を続けていたいと思っていた。
求職時にも産休やや育休やらの前例があり福利厚生もきちんとしているところなだと思ったのでその会社に決めたという経緯がある。
私は中途採用で入ったが、その業種では経験値が重視されるということもありほぼ素人同然で業界に飛び込んだ私は直属の上司である某氏に頼ることになった。
就業最初から色々親切にしてくれ、経験不足の私を教えフォローしてくれたということもありとても尊敬していた。
時々ちょっとスキンシップが過剰かな?くらいの印象はあったけど、私は彼氏がいるということを割りとはやい段階で言っていたし、向こうも既婚者だということで特別気にしないようにしていた。
なのにある日突然に「好きだ、抱きたい」というようなド直球な告白を受けた。
飲み会のあとの送りの場面だったので冗談かなといろいろかわすようなことを言ったけど、こちらのはぐらかしをものともしない言い方だったのでほぼほぼ間違いなく本気でそう言っていたんだと思う。
だけども当時彼氏とも結婚の話がほんのちょっとだけど出ていたし、何より上司の性格的に微妙に完全に信頼しきれない部分を感じていたのでその時はかなり強引な理屈をつけて逃げた。
ようよう自宅に帰ってから、何となく自分の体が汚れたような気がして念入りにシャワーを浴びているというところで上司からLINEがきていて
「悪かった。今後も普通に仕事をしてほしい」みたいなことがあったのでとりあえず安心してしまったせいか
「気にしないでください。私も上司さんのことは人間として尊敬しています」みたいな返答をしてしまった。
それが今思えばよくなかったのかもしれない。
休日があけて出社したあと、上司は一応少しは少し距離をとるようにはしてくれていたけど
1週間くらいしたあたりから何かと体に触れるようなことをするようになってきた。
私の感覚だと、一回振られた相手なら気持ち的に遠慮して一緒になる機会を避けるんじゃないかって勝手に思っていたんだけど
元上司はそうではなかったらしく、その後も私の仕事にいちいち「大丈夫?」みたいなことを言ってきたり、私が他の同性の同僚と飲みに行く約束をしているときに「俺も行こうかな?」みたいなことを平気で言っていた。
私としてはこちらが望まない告白を受けたんだし、はっきり付き合えないという意思表示もしたんだから向こうが一定の距離をおいてくれて当然と思っていたのに全くそうではなかった。
ちなみにその元上司は社内では愛妻家で通っており、デスクの上に家族写真をいくつも並べているということから家族愛が強いキャラとして認識されていた。
言い訳にならないかもしれないが、私もそうした普段の様子を見て深夜まで二人きりになるというようなシチュエーションに危険を感じなかったという落ち度はある。
私は婚約は一応してるものの具体的に結婚が決まっているというわけでもない微妙な彼氏がいるのに、そこにやたらと親しげに肩や頭に触れてくるという上司がいるのは気分がよくはなかった。
そうしたスキンシップも、私がなんとなく黙認しているから向こうがつけあがって継続してくるんじゃないかという自責もあった。
だけど前に告白を受けた時に建前とはいえ「人として尊敬しています」というようなことを言ってしまっているのに、肩や頭にふれられるのを突然拒否するということも出来ない気がした。
そのあたりも元上司のずるいところだけど、胸やお尻といったセクハラに該当しそうな部分は巧妙に避けていた。
結局、私はその会社を辞めた。
それまで結婚時期を決めかねていた彼氏に強引に迫ってスケジュールを前倒ししてもらい、それを期に退職したいというように会社に申し入れた。
事情を知らない会社の人事は私を引き止めてはくれたが、私が元上司のことについてそこで訴えても「自意識過剰」「もう向こうはそんなつもりはない」といったように言い訳されるのがはっきりわかっていたのでやめた。
結婚後別の職に就いたがやっぱり今でもあの仕事を続けたかったという後悔も今も感じている。
もちろん元上司に対する恨みも、何か日常でストレスがあるとふつふつと湧いてくる。
何が言いたいかというと、記事にあるZ君は私が感じていたような不合理な圧迫感を周囲に訴えることで解消したかったんじゃないかと思う。
ある意味同性異性の違いはあれ周囲に訴えて打開ができる状況にあったことはうらやましいとすら思える。
私が周囲に「この上司は不倫をしたがってますよー。近寄ると危険ですよー」と訴えることができたなら同じことをしていたかもしれない。
だけども私の場合、私よりも上司の立場が圧倒的に上であったためにそうした報復的な行為ができなかった。
私だけではない。もしかしたら不倫関係で悩む女性には同じような悩みがあるのかもしれない。
そうした経験をもう何年も前に受けた私が今この記事を見て思うことは、ようやく望まない告白を受ける恐怖を男性側も表に出せるようになったのかということだ。
望まない告白を受けてそれまでの仕事や立場を失うということはおそらく私のように多くの女性が経験してきたことと思う。
世間では「痴漢冤罪」やら男性に非がないのに女性が無理やり犯罪を作り上げているかのような言い方もあるが、それは全体からの割合で見ればごくごくごくごくこごく小さいものであり、現実は女性が被害を受けていることがほとんどだ。
与那覇潤さんの本に「江戸時代の農村の次男以下の男は本当に非モテだった(もう江戸に行くしかチャンスがない)」みたいなことが書かれているのに、
一方で別の本では「江戸時代は夜這いの風習があって誰でも自由に性体験することができた」みたいなことが書かれている。
どっちが正しいんだろう。
赤松某氏の本によれば、夜這いには女性側の拒否権があったらしいので、
たぶん江戸時代の非モテもやっぱりそんなに簡単に性体験はできなかったのでは。
夜這いっていうと何か奇妙な風習な感じもするけど、現代とDQN層がやっていることと似たレベルではなかったのでは。
そもそも、夜這いが一番盛んだったのは鎌倉以後戦国以前までで、
その時代は世界的な小氷河期とも相まって人口激減していた時代だから、それこそフリーセックスしまくって人口維持する必要性があっただけかも。
増田がAMPに対応したせいで、はてブアプリから増田を開くと必ずモバイル版が表示されるようになってしまいました。
確かにページの表示速度は早くなりましたが、ひと昔前のようなデザインでトラックバックの内容も満足に確認できないページを見せることになんの意味があるのでしょうか。
増田に興味ない人は本文だけしか読まないとでもいうのでしょうか。
増田はその日記だけではなく、トラバまで含めてひとつのコンテンツです。これが面白いのです。
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では、なぜこのような対応がされたのでしょうか。
今流行のAMP対応をしたという対外的なアピールに見えるかもしれませんが、それは違います。
これには大喜利を得意とする某有名ブクマカとの裏取引が行われているのです。
大喜利にはスピード感が最も重要です。ホッテントリで大喜利会場を見つけたらいち早くコメントすることが求められます。
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