はてなキーワード: 新人類とは
男35歳の春、重い腰をあげてはじめて婚活サイトの無料相談を申し込んだ。
事前に相手に求める条件を聞かれたのだが、まずアラサー女性の年収相場がわからない。
自分が30前後の頃は年収500〜600万円くらいだったから女性も同じくらいかな…とググってみると350万円とでる。なんだこの額は。
つぎに年齢のレンジを28〜35歳にしたのだが、28歳って1995年生まれ、平成7年だ。
昭和62年生まれの人間からすると平成ってだけで新人類って感じがするのに平成7年だ。
最後に備考欄に書いた「子供ほしい人」。ここでアンケートに回答している自分がとことん気持ち悪く感じた。
男性が「子供ほしい」というのは簡単だが、女性にとって最低でも1年はキャリアにブランクを開けてしまう人生の一大イベントだ。最悪、命の危険すらある。こんな重大なことを「子供ほしい」とだけ書くなんて、なんて無責任で自己中心的なんだ……そう思うと一気に自分が嫌になった。
カルトも迷惑Youtberも皆コミュニケーションへの依存に端を発ししている。
過激なテロ活動も最初は身内で小さなヒーローになりたいという気持ちからだったはずだ。
全々全部がコミュニケーションのせいだと言っていい。
コミュニケーション依存を断ち切るためにもコミュニケーションにてよって快感を得る脳内物質を抑制する薬物を水道水に流そう。
ミネラルウォーターを含めあらゆる飲料にも投入を義務付けよう。
食品にも添付するべきだ。
街中にも空気散布しよう。
コミュニケーションを取ることに対して苦痛を感じ、承認欲求が満たされても何も気持ちよくならない、人に必要とされることを無意味に感じ、友情や愛情を幻想だと感じるそういった新人類に生まれ変わろう。
依存の悪循環はこれで断ち切れる。
あらゆる依存がだ。
香川県のうどん依存だって、うどんという誇り高い文化を持つ素晴らしい俺たちというコミュニケーション由来の幻想から来ているものだから簡単に断ち切れるだろう。
唐突だった。会から離れていても、人生に大きな影響を及ぼした人が亡くなったという事実は、衝撃がそこそこあった。
と同時に、これからは多分、自分と幸福の科学についての話は、本当に「過去の話」になる気がした。
語れなくなる前に、幸福の科学が影響する自分の人生を整理しておこうと思う。
- 幸福の科学が運営する塾や学校に通っていて、学生時代はそこそこ熱心な信者だったが、社会人になってからはゆるゆると遠ざかり、今は特に活動や勉強などしていない。「わざわざ脱会までしなくていいかなー」と思って特に脱会はしていない。
- でも幸福の科学ではないスピリチュアルなものに関係がある様子で、その辺りは昔も今も聞きたくないから適当にあしらっている。
- 家に幸福の科学の本がたくさん置いてあったので、なんだかたまに読んでいた記憶。置いてあったら単純に興味が出る
- 神棚(幸福の科学では「ご本尊」と言う)も家に飾ってあって、たまにお祈りしてた
たまーに母親の活動についていって、街頭演説とか、パンフレットの配布を手伝っていた記憶
「外で伝道活動するの偉い!積極的にやっていこう!」って教えられる。特に子どもが活動していると、会の中では「超優秀な素晴らしい子!」として扱われる
大きめの講演会もちょくちょく行ってた。
- 今調べて初めて知ったんだけど、サイトあるんだね
- https://success-no1.happy-science.jp/
- そもそも親と一緒に何かするのが恥ずかしい、みたいなとこもあったな。
- みなさんも「親と一緒に家でお祈りするの恥ずかしい!」って思ったことありませんか?
- 自分の家庭や前述した塾では幸福の科学の教えを前提にした会話が繰り広げられる。
- 「守護霊が〜」「過去世が〜」「 最近の教えで総裁先生(信者の間では大川隆法のことを「総裁先生」と言うことが多かった)はこんなことを言っていて〜」とかとか。
- ただ、そうやって普通に会話することが周りの子には通じないし、そんなこと言ったら変な目で見られてしまいそうなので、「幸福の科学用語」が表に出ないように気をつけて生活していた
- サイトはこれ
- https://happy-science.ac.jp/
- その辺りの役回りをこなすと、自然と大勢の前で「幸福の科学の教えを広げるために、自分達に何ができるか?」「信仰心は大事だ!(バーン)」といったように、他の生徒を鼓舞して、信仰心が高まるような演説をする機会が非常に多かった。
- 当時はそれが素晴らしいことだと思ってたんだ。
- 母親だけが熱心な信者で、父親の反対を振り切って入学しました!って子、自分は行きたくなかったけど両親に強引に入学させられちゃった・・・って子とか、色々いた
- 幸福の科学に対する対する考えは人それぞれ。大人になった今でも熱心に信者やってるは、3割くらいじゃないかな・・・?って感じ。
- ただそういった会との関係を抜きにして、自分にとっては「青春を過ごした同級生」なわけで、たまに会ったり、飲んだりする人が結構いる。
- 部活や夜ご飯の時間が終わったら大講堂に集まって夜の祈り。これがちゃんとするやつで、たまにフォーマットは変わっていたのだけど、御法話聴くタイム10分+お祈り20分、みたいな感じだった
- 寝ちゃう人たくさんいて、生徒会などでは結構問題になって有志で色々話し合ったり対策を考えていた記憶・・・。
- ド田舎の寮で最寄のコンビニまでも30分かかるくらいだったので、生徒の間ではこの環境のことを「那須プリズン」と呼んでましたw
- たまに、「実は名前だけ会員になってただけで、幸福の科学の本とか全然読んでなんだよね〜w」って先生もいたな
- 自分は映画アンチで、「つまらないストーリーが全てを台無しにしている」「最後はどうせ信仰心で何もかもうまくいくだけの薄い映画」などなど、猛烈に批判していたが、「映画が面白くないのは信仰心たりないから」って感じであしらられていた記憶。
- しかも同じ人が何回も見に行ってるからな。まじで何やってんだ本当に。今でもそうだよな。作品のクオリティに真面目に向き合っていあたら、10年やってれば普通に面白い映画作れる可能性あったんじゃないのかな。
- 映画に限らず、会の流れにそぐわない意見は良くないものとする雰囲気がただよっていた。これは幸福の科学全体に言えることで、熱心な信者ほどそんな意見を持っている人が多かった。
- 自分は映画がクソすぎたのが、幸福の科学の考えに違和感を持つ原点だったのかな。今思うと。
- ただ、「総裁先生のために」と言ってとりあえず頑張っていれば結果関係なく褒められる、みたいな空気があったのもわりと嫌だったな。
大学生活は普通にやったし、バイトもしていた。その面は普通。ただそれ以外の時間で幸福の科学の活動を頑張ってた感じ。忙しい大学生だった。
- ただ卒業生の半分くらいは、大学に行った時点でゆるゆると会から離れていき、学生部にも顔を出さなくなってた
- 自分は学生部にわりと頻繁に行ってて、学生部長とかもやったし、合宿も割と行ってた。運営もちょっとした。
- 知り合いのうち何人かを、総裁先生(大川隆法)の講演会に誘って一緒に行ったりした。
- 1人くらいは会員にもなった。その人はもしかしたら、今でも熱心に活動してるかもしれない。
- その人の人生にめちゃくちゃ大きな影響を及ぼしちゃったと考えると、なんとも言えない気持ちになります・・・。
- 口には出さなかったが、偉い人の話を聞きながら冷静に「いや、そうはならんやろ。」ってツッコミを心の中で言ってたこともある
- 理想と信仰だけを語り、現実を見ない会員の姿を見れば見るほど、なんだか嫌になっていたんだ。
- だから、大学3年生くらいの時から、自分がおかしいと思うことは断固活動を拒否していた。そうなってくると学生部長をやるのが苦しかったので、割と早めにその役を降りた。
- その地区を担当していた職員さんから、「本当に後悔しないんだね?」と何度も聞かれたが、「後悔しません!」と何度も答えてやっと役を降りれた記憶。
- その人も悪気はなさそうで、単純に純粋な"信仰心"で何度も引き止めてくれていたと思う。
- 通っても本を読んだり、瞑想したりするくらいだった。社会人になってからは「研修(総裁先生の説法をもとに作られた、教えについて深く学んで悟りを追求するためのプログラムみたいなやつ)」も受けてないし、合宿にも行ってないかな。
- 一瞬、若者が集まる青年部に顔を出したりしたけど、2,3回参加して肌にあわず行かなくなった。
- なんかやはり、一般社会との考えとか違いすぎて・・・。あんまり頭良くなくても、とりあえず信仰心高い行動している人の声が大きなり、現実と向き合わないような雰囲気があったね・・・。
- でも映画はやっぱり、いつまでたってもクソなので数年前から全く見に行ってない。
- クソな映画なのに、「動員数ランキングに入るために頑張りましょう!」と言って同じ人が何回も観に行ってるのも嫌い
- 「ランキングに入るために頑張りましょう!」と言って映画評価サイトに星5つけまくる活動も嫌い
- 2023年の法シリーズは、地獄の法!Amazonでも買えるぞ!興味があったら買ってみてくれよな👊
- https://www.irhpress.co.jp/products/detail.php?product_id=2888
- ワクチンに対するスタンスが、ネットの陰謀論レベルになっちゃってるんだよね
- ワクチン打つとDNAが書き変わる!とか、ワクチンで病気になりやすくなる!とか・・・。
- 自分がちょっと調べた感じ、総裁先生は「信仰の力があれば大丈夫」とか、「新しく開発されたワクチンなので長い目で見た効果が心配ですね」くらいのことしか言ってなかったと思うのだが、それが会員の思考レベルになるとなぜかワクチン陰謀論になってしまっていて。
- 幸福実現党(幸福の科学が立ち上げた政党)も、なんか陰謀論っぽいこと言ってたりして。
- 幸福の科学の職員が、ワクチン陰謀論に関して本書いてる人と対談するイベントもあったりした記憶。
- 「こりゃあ、おしまいだあ🙌」と思った。もうなんか、熱心な会員さんほど普通に社会を生きるレベルの常識を麻痺させなくちゃいけないんだなーと。「大川隆法から離れたい」というより、「幸福の科学という組織から離れたい」と思ったんだ。
自分と同じような2世会員はそんな葛藤を持って生きている人が多そうなのだけど、自分はわりと、自分の人生と幸福の科学/大川隆法に関する整理が冷静にできており、うまく生きてるなーって思うのでそのことを書こうと思ったのだけれど・・・。
「今、幸福の科学に対してどう思っているのか」とか、
「大川隆法(総裁先生)が亡くなって感じていること」を書きたかったのに時間がなくなってしまった・・・。
長文乱文失礼🙏
男が奢るべきと考えている男と、女は奢られるべきと考えている女は旧来の性的役割を重視するタイプ。
男はこうあるべき、女はこうあるべきという価値観が根底にある。
男だから奢ろう、女だから奢られようという価値観の人同士で付き合っとけ
性的役割のメリットを享受するということは、同時にデメリットを受け入れる必要性があるということで、そこのデメリットに疑問を感じている人が多い。
旧人類と新人類では「嫌なこと」の受け取り方があまりにも違う。
価値観の相違。
旧人類にとって、ジェンダーロールのデメリットは、メリットを考えると大した問題ではないのだ。
私は新人類寄りの考え方なので、大袈裟に言うと飯を奢られる女=水商売、見た目や身体や若さを売りにしている女性という認識。
つまりセクハラやワンチャンあるかもという目線で見られるデメリットを当たり前のものとして受け入れている女性。
このデメリットを私は受け入れられず、ほとんど100%侮辱であると捉えてしまうので奢ろうとしてくる旧人類男性めちゃくちゃ気持ち悪い。
という当たり前の話
おじさんやけどその昔は新人類とか言われてたなぁ
よく言われる「昔は、いまでいう発達障害者にも居場所や仕事があった」っていう変な擁護論をみて、現状に即してないと思うけどさ
もしそうなんだとしたらじゃあいつから差別されるようになったの?
単純にいって、40~50年前までは「発達障害者」も中卒とかで職人やったりオフィスのお茶汲みやったり映画の寅さんみたいな生活してたり、それで生計立てられて結婚も平気で出来てたとしましょう。
その時は「言われたことしか出来ない」「空気をあまり読めない」「粗暴なところがある」「ぼんやりしている」けど、それがそいつの素朴な性格であって、キモいとかヤバいとかウザいとかそういう感情に直結しなかったと。
もっと生活に密着していうと、「もしも娘が発達障害者と付き合ってたらどうしよう」「もしも職場に入ってきた新人がアスペだったら嫌だなあ」「私は夫のせいでカサンドラ!ギャーギャー」みたいな概念がそもそも無い訳だ。
今でも、自分の娘や息子や親戚や親友が「知的障害者と付き合ってます。ほら、手帳もあるんだよ」といったら?例え交際の自由がちゃんと憲法に書いてあっても、自分が健常者だと思ってる連中はどこまで差別心と余計なおせっかい心を持たないでいられるか?
発達障害やアスペはその知的障害者と似た様な枠に、それも21世紀になってから急に放り込まれたわけだ。
そしてほとんどの当事者は、社会生活上の尺度から見て、例えばCPの人達みたいに「決定的な困難さ」を持っているわけでも無いから、単純な哀れみも受けられない。当事者運動も社会への同化がなぜか前提となってるから「青い芝の会」みたいな運動も全然起きない。
気が付いたら、用語だけ勝手に広まって、「発達障害者を職場に入れないようにするには!」「私の夫がアスペだった!ギャー」「社会の脅威、ケーキを三等分できない境界知能!」みたいな使い方しかされてない訳だ。
「医者に発達障害と診断されたから普通の人生を送るのが困難になったのではなく、社会において普通の人生を送るのが困難だから障害と診断されるようになった」と逆転させたことを言う人もいるけど、
じゃあ社会は、癌や糖尿病や、あるいは身近なインフルエンザに対する理解と同じ様に、医療に沿った「正しい発達障害理解」ってのをしてるのか?してないだろ?
日本における発達障害受容の歴史は、エイズの認知と大体時期が同じ(この30~40年)だが、AIDS/HIV患者を排除したり差別する人間はほとんどいなくなったけど、発達障害の排除はどんどん酷くなってるだろ。
会社は発達障害排除の性格テストをつかうようになったし、勝手に周囲が変なリスト見て答え合わせして友達はいなくなるし、ネット上ではアスペルガーをキモく扱う話がウケる。
言葉やイメージが先行するだけして当事者は置いてけぼり。本人の困りを社会やネットがむしろ加速させるようになった。
何が起きたんだよ。進歩じゃなくて逆行だよな。じゃあ一体何なんだ、お前等の考える発達障害って?アスペって?境界知能って?
俺はいっそ、発達障害者やアスペはどんどん職場に入って迷惑を掛けまくって、どんどん「キモい」恋愛もしまくって、新しい社会を、新しい文化を、発達障害者版「青い芝の会」みたいなものを作っていくべきだと思ってるけどな。
ここに宮台真司(1995)『終わりなき日常を生きろ――オウム完全克服マニュアル』がある。社会学的観点からオウムがなぜのさばり、オウム的なものに立ち向かうにはどうすればよいかを記した本で、少なくとも10年ほど前は哲学・批評・(現代)社会学近辺では必読文献だった気がする。
そんなわけで本棚にたまたまぶっ刺さっていたので「終わりなき日常を生きなきゃならないんだよなあ」ぐらいしか覚えてない状態で再読した。以下では、この本の要約ではなく、気になったポイントを断片的に取り上げていく。ちなみに私自身は特に宮台のファンではなく、ほかに宮台の本は『権力の予期理論』『サブカルチャー神話解体』しか読んでないと思う。宮台が今回何を言ってるのかもほとんど把握していない。
まず読み始めて思ったのは、知識人の対応がどうやらオウムと今回ではだいぶ異なるのだなあということだ。冒頭で宮台は、オウム事件がそれまでの歴史における過去から理解する、言ってしまえばそれまでの歴史の延長線上におけるものとして理解することを激しく拒絶することにまるまる一章を割いている。オウム事件を(それまでの文学等々より悪しき・劣った)オタク文化の影響とか、連合赤軍の二の舞であるとか、そのように理解する知識人を批判する。
この辺りは論壇における立ち位置を示すパフォーマンスが結構含まれている気もするが、そもそもオウムについて語りたいわけではないので内容には深入りしない。ここで問題にしたいのは歴史と出来事の間の関係である。
今回の事件について、いまのところ過去の歴史と連続的に語る言説は私の見る限り絶無といってよいのではないかと思う。右派にせよ左派にせよ、「これまでの日本では起きたことがないたぐいの出来事」として捕らえているようにみえる。流れた川の水が戻ることはないので、むろんそれはある程度正しい。しかし完全に歴史から切り離された出来事が可能なものか、という点に関しては議論があるだろうし、宮台自身かれの歴史の中で取り組んできたことだろうから、とにかく歴史との連続性を強調する言説がないこと、それがオウムのときとは逆であるらしいことだけを指摘しておく。
宮台は「普通の若者が普通にオウムに入ってサリンを蒔いた」という見立てを行う。そのため、「マインドコントロール」(宮台は使っていないようだが「洗脳」もここでは同義語としていいと思う)について、何か特殊な技術であったり、明確な必要十分条件を定義できるものではないことを強調する(自分の講義だってある種のマインドコントロールだと言いながら)。これは社会学・社会心理学近辺ではわりと常識的な考え方であると思う。なので被害弁護団が「洗脳」をかぎかっこ抜きで自明な用語として使っているのには、少なくとも私は少し抵抗を覚えないでもない(「洗脳」と言いたくなるような事実があることを否定しているのではなく、あくまで用語法の問題)。
本全体の骨子となる主張として、宮台はオウムに関わった若者が抱える問題は「『終わらない日常』に耐えかねて『輝かしきハルマゲドン』を夢想し、キツさに耐えかねて『夢想を現実化』しようと」した点にあると主張する。その処方箋として「終わらない日常を生きる知恵」が必要とされるが、その知恵を持っているのがブルセラ女子高生なのだそうだ。なぜならブルセラ女子高生は決してオウムに入ってサリンを蒔いたりしないから、とのこと。まあ妥当性については何も言うまい。
すでに見たようにこの本は世代論の本でもある。宮台は江藤淳やその後の加藤典洋、あるいは宮台と同世代の大塚英志も含め、年長世代が新しい世代を「何かが欠けた存在」とみなすことを強く批判する。「あんたがただって年長世代におんなじこと言われてただろう」というわけであるばかりか、そうした言説は不要なきらきらしさを持った「幻想」を下の世代に押しつける有害なものである、というのが宮台の主張だ。そして大塚に対して「われわれ新人類世代はまだ何かを諦めたが、ブルセラ=ポスト団塊ジュニア世代はようやく諦めるべきものを最初から持たず、そのため何も諦めていない。なのにまた旧世代の幻想に彼女たちを縛り付ける気か」的な批判を行っている。どうでもいいが大塚英志が軽く30年以上同じスタンスを取り続けているのを見ると本当に安心する(20冊かそこらは読んでる程度にはファン)。大塚のツイッター(ていつから本人がつぶやくようになったの? 俺の知ってる大塚はタイピングができなかった気がするが)を見ると、メディアなり知識人なりが統一教会と自民党―安倍との関係を追求しないことにブチ切れてて、やはり信用できるなと思った。政教分離の観点から国葬にも激しく反対していて、こっちは大塚が立憲主義の観点からそう言うのは分かるが、私が政教分離についてよく分かっていないので(天と地の分離ってけっこうキリスト教特有の考えだったりしない?というレベル)、問題意識は共有できていない。こういう場合は経験上5~10年くらい経ってから共感できるようになることが多いが、今回はどうだろうか。
話が逸れた。宮台は可能かもしれない処方箋として(異性を念頭に置いた)コミュニケーションを検討する。「全面的包括欲求」に対して応えることが可能なのは宗教と恋愛だけだからだそうだ。そして恋愛は社会の再生産を行う家族システムへの動機でもあるため、社会は宗教より恋愛をプッシュする。にもかかわらず恋愛からはじき出されて宗教に飲み込まれる若者が多いのだから、恋愛は処方箋ではあるが「やれるなら最初からやってる」程度のものでしかないと宮台は言う。
だから現実的な処方箋としては、旧世代が押しつけてくる「輝かしさ」など忘れて「まったり終わりなき日常を生きろ」ということになる。
「処方箋」の妥当性はさておくとしても、少なくとも統一教会は「若者問題」ではない(原理研については詳しく知らないが)という一点においてすでにそのまま転用はできないなあというのが第一の感想であるし、さておいた妥当性をほじくりたくなるなあというのが第二の感想である。
もう少し有意義なことを言うのであれば、この「まったりしたコミュニケーション」こそが統一教会の本質なのではないか、という気が脱会者や現信者のブログやツイッターなどを見てるとするのだ。10年代に流行った「居場所」の問題はいまだ解決していない。
バブル世代は1965年からなので日本においての少子化というのは給料の問題で始まった訳ではないようだ(現代の少子化は給料の問題は絡んでいる)
であれば、生涯未婚率に注目した方がいいだろうと調べた
生涯未婚率と少子化の動きは始まりが連動していることが分かった
1960年に女性の生涯未婚率が上昇し始めている(生涯未婚率の定義で1960年段階で50歳時に未婚かどうかの指標だ)
派遣法が改悪された90年あたりから再び女性の生涯未婚率が悪化していく
男が結婚できなくなってきたのはバブル崩壊とのタイミングと一致しており、給料の問題とリンクしていると考えられる
したがって
・時期的には1940年生まれの大人たちが子どもをそんなに産まなくなった(この世代の生涯未婚率は悪化していない平和な世代)
・バブル崩壊や派遣法の改悪で給料の問題が起きるようになってから、生涯未婚率も少子化も急激に悪化している
・現代の日本の少子化は、収入が低い人が増え結婚できる人が減り、結婚してもそこから子どもを持てる人はさらに減ったという悪循環がもたらしている
モビルスーツが好きなわけではなく、あの概念が好きだから見てたんだけど…
サイコっぽかったり、ひねこびてるくせにガキっぽいガキだったり、女の妄執(御大の妄想)だったり
そこに、あの集合的無意識みたいな概念をぶっこんでくるっていう荒業
ニュータイプは正に「新人類」なわけだけど「早く生まれすぎて辛酸を嘗めまくる人」というイメージしか無くて、その生き辛さがイイ!
(おまけに、ファーストの主人公のライバルはニュータイプに憧れるオールドタイプっていう惨めさが堪らない!あんなに中年になるまで引っ張る惨めさ!!)
なのに、「ニュータイプ」途中でほぼ無視されてるから見なくなったんだよなあ
(主人公がただの「勘のいいガキ」くらいになっちゃってたり。ニュータイプはエスパーじゃない)
まあ、あの概念ありきの作品てわけではないとのことなんで仕方ないけど
残念だわ