はてなキーワード: 休みとは
数年前に経営していた会社でクーデターが起こり私は会社を辞めざる得ない状態になった。
私が会社を追い出された理由は、税理士の指示に従って仕事場兼自宅であった物件を会社の経費で5割ほど支払っていたことと株主配当を受け取っていたということだった。
取引先との会食やタクシー利用などで必要だった経費が一般社員からすると贅沢に映ったこともあっただろう。
当時の私は資本金を100%出資しており、それ相応のリスクを背負って会社を成長させて社員を雇用していたつもりだったが、社員として雇用していた人たちにとっては役員である私の家賃の一部が会社から支払われていることや配当を受け取っていることが不平等に感じたようだ。会社としての歴史もまだ浅かったので会社のキャッシュを増やし経営を安定化させるために節税対策として行っていたのだが、それが使途不明金の横領扱いとして取り上げられ全社員の前で弾劾裁判をされるような状態になってしまった。
当然私のそれらの経費が横領などにあたるはずもなく合法かつ常識的な範囲であることや、出資者や役員と正社員雇用されている人達とは立場や条件が違うということも説明したのだが、私以外に役員や出資者はおらず、株式会社の仕組みや税についての知識をほとんど持ち合わせていない人達が徒党を組んでクーデターを起こしたこともあって、取り付く島もないまま会社は運営不可能な状態となってしまった。
給与は世間の同規模の会社と同じか少し上くらい、休みは年間120日くらいだろうか。その上で会社の売上規模や雇用数、社歴のバランスを見て設計していたつもりだが、それでも不満が噴出し、現在の給与に対しても自分たちはもっと貰うべきだという主張や、平均以上貰っている人間から「まだ実績と社歴が浅い人間も期待値を込めて実力以上に上げるべきだ」と一部上場企業の給料水準のグラフを見せられながら語られることもあった。高い給料を払うことが大事だということも社員の幸福度を上げることの重要さも重々に知っているが、私の運営していた会社は小さな町の零細企業だ。可能な限りの背伸びはできても理想論だけで無責任に数年後にリスクを孕む経営を計画することはできない。
その後、弁護士や会計士に間に入ってもらいながら会社法や株式の仕組み、業績と比較して社員から搾取を行っているわけではないということを数字と共に説明したが、社員たちが持つ感情的な「会社を私物化した裏切り者の社長」という印象は固定化されており状況が改善することはなかった。そんな状態が長引き始めた頃、クーデターを起こした本人が会社の売上を支えてくれている営業のキーマン数名を連れて退社して独立し競合会社を作るという話になった。その時になって初めて私は社員全体の給与改善のための動きではなくその人が会社を乗っ取ろうとしていたことに気づいた。
零細企業の経営者の情けない話になってしまうが、営業のキーマンが抜ければ会社としての売上の安定性は失われ、バックオフィス業務などを担当してくれていた社員たちだけでは売上はあげれず露頭に迷ってしまうことになる。なんとかしなければと思ったが残念ながらそのバックオフィスの人達も問題が勃発したときの感情論に飲まれたまま私を大悪人のような目で見てくる者ばかりだった。
このような人間トラブルに対して上手く捌けなかったのは私の経営者としての実力不足であることは否めない。
だが、理論的な考えに対して数が集まった感情論というのは何の対抗手段にもならないことを知った。正義というのは法ではなく人が作り出す空気だ。会社を経営するための知識と一般社員が感じる感情というものには大きな差があった。知識を共有してどういったルールで世の中が回っているのかを伝えることの大切さ。誤解が起こらないように丁寧に説明する大切さ。皆が自分と同じ常識を持っていると勘違いし大事になる前に行動に移せなかった自分。そのあたりを読みきれなかったのも敗因だったと思う。
しかし私も人間だ。それ以来完全に心が壊れてしまって今まで一緒に働いていた仲間の目を見れなくなってしまった。皆が私のことを自分たちの信用を裏切った者だと思っている。
毎日死ぬことばかり考えた。自分には会社も仲間も何もかもなくなったと思った。地方なのですぐに噂がまわったのか私のまわりから離れていく人間が増えた。
死ぬ前に何を精算するかを考えた。
彼らの生活を守るには私だけが会社を去り、他の人間はそのまま会社に残って新しい社長を立てて今まで通り継続して仕事を続けていってもらうことが残された選択肢だと思った。
多くの社員に嫌われていたとしても雇用主としての責任は果たす、といえば格好をつけているように聞こえるかもしれないが、せめて今まで付き合ってくれた人達の生活を守るために自分ができることはそれくらいしかなかった。
キーマン以外の残った社員達を捨てようとしたのはクーデター発起人なのに、その人は私を追い出した後にヒーローになるだろう。
自分がなぜそこまで背負わなければいけないのかという気持ちも正直あった。この偽善のような行動をとったところで私がいない世界で私は新しい政権を運営するために悪人として語り継がれているのだろう。
恨みを募らせクーデターの発起人に本気で復讐を考えたこともあった。ただその人にも家族はいる。それで不幸に巻き込まれ涙を流すのは無関係なパートナーやその子供だ。そんなことをすれば私は本当の悪人に堕ちてしまう。
その後私は会社の譲渡手続きをし、持っていた全ての株を最低限の値段まで下げて新しい経営陣に譲った。その際に何故タダで株や権利を置いていかないのかという言葉を社員から吐きかけられた。もう何も言い返す気力は残っていなかった。何かを理論的に説明したとしても感情論と数には勝てないことを私は知ってしまった。社内にわずかにいた私の理解者たちも新体制となる中で長いものに巻かれることを選びすぐに疎遠となった。心が張り裂けそうだったが私のような敗者に寄り添ったとてその人達の未来を保証してあげることはできない。これが現実だ。その人達にも人生はあるし誰も責めることはできない。
そして私は今もこの世界のどこかで自分のことを恨み嫌っている人がいると思いながら日々無理やり生きている。
なぜ生きているのかはわからないが、いつか自分がとった最後の行動が誰か一人にでも理解され報われる日が来るのをどこかで期待してるのかもしれない。気を抜くと希死念慮に飲まれるので毎日必死だ。頑張る。
語り手が逆になれば物語も大きく違った印象を持つだろうことはわかっている。
都合の良い解釈をして悲劇のヒロインを演じている馬鹿だと思われるかもしれないことも重々に承知している。
浅すぎて草。
単に「いい加減休みたい」「とにかく現状から逃げ出したい」に対しての答が八方塞がりとなり解決策が「生命活動の断絶」しか存在しなくなるってだけの話に対して「自意識の消滅」みたいなこと語ってるの無理解にもほどがあるな。
ナマポの申請が100%永遠に通り続けて、パソコンやテレビゲームぐらいなら持ってもオッケーになったら、世の中の自殺者の8割ぐらいはそれで妥協するよ。
残りは病気や老衰を苦にしてるパターンと、脳が病気になって判断力が低下してるパターンばかりだから医療が究極まで発展しあらゆる病気が完全に無痛で治り、かつ完全なる不老も実現したら従来通りの自殺者の数は3%ぐらいになるよ。
代わりに300年ぐらい生きて「いい加減飽きたわ」で死ぬようになる奴が出てくるだろうから言葉遊び的には「むしろ死因全体で見た自殺の割合は急増した」になりそうだけどね。
社不を自称していて週7でツイッチで毎日16時間くらいでゲーム配信していて実家住み。
私も似たような環境だったので配信はほぼ見てコメントもして、Twitterは相互フォローだった。
ある日、配信者は配信時間が減るかもと言い出し、そして実際に配信時間はどんどん減っていった。
嘘でしょ。
無理そうだったら辞めると思うと言っていたけど、そのまま半年たち。
昨日で1年経った。
週末は休みだからいっぱい配信するわ!という。そして4時間くらいしか配信してくれない。
今でも私は引きこもりながらいろんな配信をザッピングしてただ時間を浪費している。
なぁ、私を置いていくなよ。
私はまだここにいるんだぞ。
うちの妻は家事が苦手だ。
水仕事も掃除も料理もあまり好きではないらしいので、基本的に自分が全部するようにしている。
自分は子供の頃から家事をするのが好きだったので全然苦ではない。妻には家事をするくらいならソファでYouTubeを見てリラックスしていてほしい。
夜も早く帰って食べたいものを作る。
うちの妻は働くのが苦手だ。
妻が生活に不自由しないように頑張って働いて、年収も年齢の平均の3倍は稼げるようになった。
妻には平日は友達とカフェで雑談したり、ショッピングでも楽しんでほしい。もちろん家でダラダラしてくれてもいいし、趣味の絵を描いててくれててもいい。
休みの日は車でどこでも連れて行く。
うちの妻は朝が弱い。
俺が仕事に行く時はほぼ確実に寝てる。
まあそんな感じで自分としてはなるべく妻に楽で不自由なく日々を過ごしてくれるように奮闘してるわけだけど、それを周りに話すと「旦那かわいそう」とか「鬼嫁」とか「嘘乙」とか言われるのよな〜。
今日はお仕事終わりに一人で十年ぶりぐらいにプロ野球の試合を見に行きました。
珍しく残業がなさそうだったので昼休みになんとなくチケットを取ったのです。
昔応援してたけど今はもうほとんど知らない選手達になってるチームと本当によく知らないチームの試合なのでどっちが勝ってもいいのです。
隣に座ってた女性二人組がチャンスの場面でもずっとパパ活の話をしてたのが面白かったです。
そういう無関心さで、いやそういう熱心さで人生に取り組めたら自分ももっと楽しく生きられるだろうなと思いました。
代打で出てきた選手がチャンスで三振してベンチに戻っていくのを見ると、(この後めちゃめちゃ怒られるんだろうなあ)と思ってしまいます。
実際はそのようなことはないのでしょうけど。
全てがくだらない。
サービス内容がくだらない。
雑談の内容がくだらない。
階級社会の作り方がくだらない。
最終的に砂消しや差し替えで誤魔化し放題なのがくだらない。
身内ルールが回覧板一つで増える癖にそれが保存されていないのがくだらない。
技術を身につけられる機会の少なさがくだらない。
謎マナーばかり大事にするくせに敬語グチャグチャなのがくだらない。
自分が手を抜くことばかり考えてずっと仕事を押し付けあってるのがくだらない。
休日出勤当たり前みたいな態度を取っておいてワークライフバランスのポスター貼りまくるのがくだらない。
パワハラしかコミュニケーションの取り方を知らないおじおばだらけでくだらない。
若手同士が普段と1オクターブ低い声で悪口言い合ってるのがしょっちゅう聞こえてくだらない。
俺の若い頃はでプレッシャーかけつつ「でもそんなの求めないけど」で逃げようとする指導方針がくだらない。
やっぱ駄目だな。
「俺は高卒だけど~~」が口癖の学歴コンプみたいのまでいるから吐き気がしてくる。
高専卒でも高卒でもいいけど、その学年の中でちゃんとした学歴になってないと話にならんな。
反「知性」主義というか、昔のドラマみたいな「俺はバカだけどよ。ガリベンと違って心はエリートなんだよ」みたいな感覚で本当に暮らしてる。
その心のエリート様がするのが、教養のなさからくるハラスメントオンリーコミュニケーションなんだからもう聞くのも辛いよ。
本当に駄目だな。
ちゃんと就活はするべきだし、そのためにはちゃんと勉強をするべきだ。
人間性がくだらない人間に囲まれていると人生が全部くだらないものになってしまう。
休日はくだらない理由で奪われ、くだらない理由で飲み会は断りにくく、くだらない忖度をどうこなすかを休みの間まで考える羽目になる。
皆は間違っても「くだらない」仕事につくなよ。
具体的な例が欲しい?
とりあえず俺調べだと
・清掃業
・ヤクザ
・水商売
・フリーター(従業員の大部分がフリーターな中での正社員含む)
・ライター
辺りかな。
ひとまずこの辺は避けた方がいいぞ。
上司「取引先の田中さんから連絡あってさ。この間うちが納品したやつ、△△のデータがちょっと違うんじゃないかって言ってたよ。」
僕「はい、わかりました。作業担当者に確認して田中さんに連絡しておきますね。」
上司「うん、よろしく。なんかねー、田中さんの下の山田さんが今日休みで、自分で△△見たら昔見た△△とは違うんじゃないかって思ったらしいよ。だから改めて確認してほしいんだって。」
僕「はい、わかりました。作業担当者に確認して田中さんに連絡しておきますね。」
上司「でも田中さんが△△のデータ扱ってたのってけっこう前だからさぁ、さすがにその時とは変わってるよねきっと。まあ田中さんもけっこう細かい方だからさ、確認して連絡してあげてよ。」
僕「はい、わかりました。作業担当者に確認して田中さんに連絡しておきますね。」
上司「この間も別の案件で吉田さんがやってたやつさ。めっちゃ細かいところで古い数字使ってて、田中さんから修正してって言われたらしいよ。だから今回のもさ一応確認してみて。」
僕「はい、わかりました。作業担当者に確認して田中さんに連絡しておきますね。」
みたいな会話が1日1回はある。
全然構わないなとは思うんだけど、
正直皺寄せがかなり他にきてる。
毎日日付変わる頃に家帰るようになって辛い。
子持ちが「困ったときはお互い様」っていうけどお互い様…って…は?と思ってしまう。
お前が休みを取りまくるからこちらは体調が悪くても出勤しないとだが???と思ってしまう。
思いたくない
最近調子が悪く、「自分に向き合う」ということをせざるを得なくなった。私はずっと自分を直視することから逃げてきた。
幼い頃に両親が離婚し、私は母親と母方の祖母に育てられた。母は父親から慰謝料を受け取ることを拒否し、公務員として働きながら私を大学に進学させてくれた。家は過疎地帯の小さな町にあり、まともな進学が叶う高校へは片道1時間かけて通う必要があった。祖母は60歳で余命半年を宣告されるレベルの胃がんを患った。寛解はしたが、体力的には勿論大きなダメージがあっただろう。しかし祖母は毎日5時に起き、私を起こして朝食を食べさせてくれた。
私は物質的には何不自由なく育てられた。勉強ができることを常に歓迎されたのも、私が女であることや時代や地域性を考えればとんでもない僥倖だ。母も祖母も(田舎の人間としてはかなり)知的好奇心や教養を重んじる気持ちが大きく、そういう家で育てられたことも幸運だった。ただ、嫌なことも山ほどある家だった。
祖母は80歳を過ぎるまで苛烈な自意識を悪気なく振りまき続けた。とにかく華やかなものや高級感のあるものに目がなく、目立つことが好きで驚くほどの見栄っ張り。そして私からすると異常に闘争心が強かった。祖母にとって他人は「常に勝つべきであり決して負けてはならないもの」「自分を当然に認めて賛美するもの」「自分のお眼鏡にかなうのはほんの一握りしかいないもの」と認識されていた。そして厄介なことにこのような性質を全く客観視できず、自分の考え方に沿わない人間は「馬鹿」もしくは「おかしい」とジャッジした。孫の私でさえもだ。
物心ついた瞬間から私は常に周囲の子たちと比較され、劣っている点を突きつけられた。ゆきこちゃんのように可愛らしくない。さきちゃんみたいに上手な字を書けない。ようこちゃんと違って美人じゃない。ともかちゃんのように性格が良くない。めぐちゃんみたいに明るく如才なく人と接することができない。みゆきちゃんみたいな勝ち気さがない。かなちゃんみたいに女の子らしくない。話はいつも「おばあちゃんは、ああいう子がよかった」と締め括られた。祖母の考えでは、私が奮起して「よし、頑張ってあの子を超えてやる!」とがむしゃらな努力をするはずだったのだと思う。でも私は祖母じゃない。他人と争うのが何より嫌いな、内向的な人間だ。生まれたのは燃えるような向上心などではなく、凍えるような自己否定感と身を焦がすような憎しみだった。憎しみは祖母に向かい、名前を挙げられた女の子たちに向かい、祖母を止めない母親に向かい、自分にも向かった。
私はいつも祖母の虚栄心を満たす在り様を求められた。勉強ができるという点は合格、他は総じて不合格。容姿も趣味も人間性も。私が太っていて内気で運動が苦手で片付けができなくて愛想が良くなくて放っておくと黙っている子供であることが「恥ずかしい」と祖母はいつも言っていた。大学時代に一時的な過食傾向に陥ったことがある。7キロくらい太って帰省した私に、恥ずかしいから日が高いうちは近所を歩くなと祖母は言った。心配はされず、「どうしたの」「何かあったの」と訊ねられすらしなかった。私は常に祖母の虚栄心を損なう悪者だった。
肝心の学業成績も褒められたことは皆無だった。1位じゃない、満点じゃない、進学先がトップ校じゃない。それを論拠に「私の血縁者だけあって頭が悪くはないが、取り立てて優秀でもない子供」と判断された。何かができるようになると、次の瞬間には「それじゃあ次は」と言われ続けた。ゴールがない。苦しかった。
私の母は、その祖母の娘である。私が1歳に満たない頃に私の父親と別居を始め、実家に出戻った。
土地が二束三文で買える田舎町にある実家は敷地が広く、母屋と離れがあった。離れは母屋より小さいが、リビングとベッドルームと和室がひとつ、風呂も台所もあった。母はそこに住んだ。私を母屋に残して。役所勤めから帰ってきて、母は毎晩ひとりでレコードを聴いたり古い映画を観たり純文学を読み耽ったり、妻のいる男の人と長電話をしたりして過ごした。平日に私が母と会話できるのは、彼女が許した1、2時間だけだった。それが限界だったのだろう。
母が娘に求めたのは豊かな感受性、繊細さ、抑制が効いていながら豊かな感情表現、心の優しさと清らかさ、従順さ。母の心情に関心を寄せ、いつも注意深く観察し斟酌し、そこに寄り添い肯定すること。母はそれを「素直」というタームで表現した。私は小さい頃から「素直じゃない」と詰られた。自分を偽ってもいないのに素直じゃないと言われるのは心底不可解だった。4歳か5歳の誕生日、私は母からメッセージカードを貰った。「○○ちゃん、たんじょうびおめでとう。○さいのテーマは、すなおになることです」。そう書かれていた。そこから先は「素直とはどういうことか」が説かれていたが内容は忘れた。心臓が止まるかと思うほど嬉しくなかった。
母は癇癪持ちで、定期的に不機嫌の発作を起こした。自分の不手際が契機となり、怒鳴られ人格を否定され「縁を切る」「家から出ていけ」と言われ、数日間まともに話してくれない。そういうことが日常的にあった。ヒステリーを起こすきっかけなど何でもよかったんだと気づいたのは実家を離れて何年も経った後だった。天災のように気まぐれに降りかかる不機嫌の発作を、子供だった私は心を殺して耐えることしかできなかった。
小学校5年からは学校でいじめの標的になった。担任の女性教師から私はすこぶる嫌われていて、ほとんど彼女の主導のもとに王道のいじめを受け続けた。中学は町に一つしかなく、選択の余地がなかった。その女性教師の夫が進路指導主任を務める公立中学に進学した。いじめの続きは入学初日から始まった。合計で5年間、私は一日も欠かさず死にたい死にたいと思いながら生きた。
家族に言っても碌なことにならないと子供心に判断していたが、耐えきれずに吐露したことが2回だけある。最初は祖母に。「そんなのやり返せばいいだろう」と私の弱さを叱責されて終わり。予想どおりだった。絶望はしたがショックではなかった。母に話したのはしばらく後。おそらく苦しくて仕方なかったのだろう、母がいる離れの呼び鈴を夜中に鳴らした。泣きながら「もう何年も学校でいじめられている」と話した記憶がある。母は私を離れの中に入れなかった。玄関先で立ち話をした。片親であることを攻撃されていると話した。「それが何だ」と母は言った。わたしなんか学生運動がいちばん盛んな頃に短大に進学して、父親が警官だって言ったら「お前、『犬』の娘か」って嗤われたんだから。どんなに嫌だったかお前に解るか。腕組みしてまくしたてる母を冷えきった気持ちで見ていた。
それから長い年月が過ぎた。
祖母は80過ぎで二度目の癌を患った。退院した頃から加速度的に穏やかになり、最終的には少し気弱で優しく品のいい老婆として94年の人生を終えた。亡くなる数ヶ月前に実家で倒れて寝たきりになり、帰省した私が「おばあちゃん、私のことわかる?」と問いかけると「わかるに決まってるだろう、たった一人の孫だもの」と必死に笑みを浮かべて私に答えた。帰り際には「そんなに肌が綺麗だったっけ」と言われた。私の見た目を褒めるなんて、おばあちゃん目が悪くなったんじゃないの?と笑って憎まれ口を叩き、来月も来るからねと告げて東京に帰った。それが最後の会話だった。
母は合わない職務で鬱病を患い、50歳を前に役所を辞めた。その数年後には妻子持ちの男とも別れた。相変わらず自意識過剰で感情的で面倒な人だ。でも面白い。知的好奇心を保っているのも心強いし、化粧っ気は全くなくなってしまったが今でも綺麗だ。私は母の顔と字が無類に好きだし、無類に好きなところは他にもたくさんある。今はそう思う。
この度よくよく自分の内心を見てみたら、あまりに汚く混乱していて自分でも驚いた。段階的に補強してきた自己肯定感は思っていたよりもまだまだ脆い。自分を憐れみ庇う気持ちはあるが、これを自分への愛と呼べるだろうか。するべき(と思われる)ことは容易に把握できるのに「したい」ことは分からず、なのに無欲ではない。綺麗になりたい。痩せたい。頭が良くなりたい。お金がほしい。休みがほしい。美味しいものを食べたい。俗な欲求は人並み以上だ。それを捨てることも開き直ることもできない。
脳内には14歳の私が世界の万物に向かって「私に謝れ」と怒鳴る声が反響している。それを恥じて隠蔽しようとしている成人の私がいる。隠蔽しようとする私を「卑小でつまらない人間だ」と蔑視する私もいる。世界観のベースに「私は素敵な誰かの下位互換であり欠陥品だ」という根深い諦念がある。刷り込まれた規範は私の血肉となっていて、私はそれを憎悪しながら切除できない。「本当の自分」とは何か、皆目見当がつかない。
ならば、その正体不明の混乱しきった人間を許してやろうかな、と考え始めた。そしてあわよくば愛してやりたいと。
私は凡庸だ。狭量だ。いろいろと不出来だ。根気がなく三日坊主だ。いい歳して自意識過剰だ。かっこわるい。けれど、別にそれでもいい。誰に馬鹿にされても見下されても、私は「なんでよ、別にいいじゃん」とケラケラ笑いながら私自身を全力で抱きしめる。
でも、仮に受け身ちゃん(くん)だったら付き合ったり結婚したりした後も「休みはどこ行きたい?」「何したい?」と自分で決めず増田が全部決めないといけなくなってめんどくさいやろうから切った方がええな
30代後半地方実家住み初期研修医。たまにぽっかりできた休日にやることがない。
友人や同級生、前職の同期→仲良い奴らはほぼ家庭有り子持ちで休みも合わない
という感じでやることがない。昨年は退院サマリーダラダラやったり、先輩の診察や回診に同席したり、レジ室でカルテ見たり、病院でレポートやプレゼンの準備をしながら過ごしてそのまま出勤とかしてたが、あまりよろしくないとのことで釘を刺され、以降そういう過ごし方は出来なくなった。
結局家で昼まで寝て母親の昼飯食って、夕方に車で県庁所在地に行って風俗行って居酒屋でノンアルビール飲んで夜に自己嫌悪に陥る。医療従事者に働き方改革なんていらない。家にいても何もすることないからずっと病院にいさせてくれ。