はてなキーワード: イコールとは
体重も身長に見合ったくらいある。いやごめんそれ以上にある。自分に甘いから。
両親共に比較的高身長の家庭に生まれ、自分に甘いから小中高と毎日スヤスヤ眠って過ごし、好きだから毎日牛乳を1 L飲んでいたらこうなった。私が食用の牛や豚だったとしたらだいぶ良い値段がつくだろうと思う。
ただ私は人間なので全然良い値段はつかない、電車の中で幅を取るだけの大きい女だ。毎日肩身が狭い。でかいけど。ごめんなさいね。
これだけ背が高いと初めて会う人にはほとんど決まったことを聞かれる。「何センチ?」とか「何かスポーツやってたの?」とか「子供の背も高くなりそうだね!」とか。
この話をしてくる人、悪気が無いのはよくわかる。天気の話題みたいな感じで振ってるだけだろうし、「小さいことに言及するのは良くないが大きいのは良いことだろう」みたいな感じなのだろう。
初対面の人の身長ってあんまり聞くべきではないと思う。体重や年齢を聞かれるのと同じくらい私は嫌だ。モデルやアスリートならば自信を持って答えてくれるだろうけど、卑屈な一般人にはそんな自信は無い。でも初対面の人に嫌な顔をするわけにもいかないし、180くらいです~とか最近測ってないのでわかりません~とか言うしかない。182 cmです。
そしてそれに対して「いいな~」って言ってくる人。やめろ。嘘じゃん。全然良くないわ。
特に身長160 cm台の女性に言われるのが一番心にくる。お世辞が透けすぎてて辛い。服のバリエーションが無限にあって、フリーサイズの服を難なく着れて、靴はネットで買わなくても店頭にあるものを履ける人、本当に182 cmの女になりたいですか。
(そして本当に背が小さいことで悩んでいる人に言われるのもまた辛いんだよね。対応に困ってしまうので)(でも内心では大きいよりは小さい方がマシとか思ってるんだろとも思ってしまう、卑屈だから)
あとスポーツに関する質問。これ一番聞かれる。ごめんなさいやってません。体育の授業でしかやったことないです。運動神経が悪いのと運動が嫌いなので。もったいないね~って言われるけどこっちも本当にもったいないと思ってる。お互いため息しか出ない話題です。残念。同時にいくら身長があるとはいえこの体型の人によくそういう質問出来るよなとも思う。格闘技やってましたとか言えばいいのかな? どすこい
子供の身長に関してはまぁ私もそう思う。彼氏出来たことないけど。
そう、身長のせいじゃないのかもしれないが、マジで彼氏出来ない。顔とか性格とか背以外の体型とか行動力とかその他全て努力が足りないのはわかるけど、マジで彼氏出来ない。身長だけのせいにしたい。させてくれ。
好きだった人はいても、立ち並んだ時に相手より自分が大きいと、勝手に「嫌な気分にさせてないかな」とか思ってしまうし、それをカバー出来るだけの魅力も自信も無いので全然駄目である。
彼氏がいないイコール子供も出来ないなので、子供の話をされてもどこか遠い星の話をされてるように感じる。1人で産めるならまだしも。
小柄な人には小柄な人の苦労があるだろうと思う。そういう話を聞く度に自分の無神経な発言や行動が人を傷付けていなければ良いと自戒している。
私はわざと人にぶつかられたこともないし、痴漢をされたこともない。(こういう加害者は本当に自分より弱そうな相手を狙うんだろうなと思うと腹立たしい)
こんな私にも駅で声をかけてくる猛者はいたけど、そういう被害も人に比べたらずっと少ないと思う。
背が高いことで悩みはあるけれど、まぁ悩んでも縮みはしないのでとっくに受け入れているし、自分では気付かない恩恵もあるのだろう。
ただ無邪気な質問がボディブローのように効いてくることはあるので、背が高い=良いこと とは限らないということが書きたかった。
あと、余談だがaikoが嫌いだ。
クレジットカードを使うときに、現金よりも大金を使いがちという話を聞く度に違和感を覚える。
自分は現金でもクレジットカードでもお金を使うときは怖いしちょっとストレスだ。
自分は本当にこの金額に見合ったものを受け取れるんだろうか、といつも不安になる。
勘違いしてないか、不要なものを買おうとしてないか、見落としはないか、騙されてないか、と。
クレジットカードなら金の支払いは先だから気が楽という人の気持ちが少しもわからない。
目の前ですぐに現金を支払おうが、あとから請求されて銀行から引き落としになろうが、時期が違うだけでとにかく支払いは発生していると感じてしまう。
クレジット払いイコール支払いの先延ばしという考え方が自分にとっては複雑で感覚としてわからないのかもしれない。
一度くらい、気楽に消費する高揚感を味わってみたい。
何故か分からないが「在日韓国人や在日朝鮮人の人たちが統一教会(世界平和統一家庭連合)について、どう思っているのか知りたい」という増田を私が書いたら、リベラル系はてなidたちが途端にダンマリを決め込み始めた。
何故、在日韓国人や在日朝鮮人の人たちは「統一教会(世界平和統一家庭連合)は大いに問題の有る組織である。お布施の名目で、日本人から多額の金を巻き上げたことや、日本人女性を洗脳して、無理やり韓国人のもとに嫁がせたことは許せない行為である」と明言して「我々(在日韓国人・在日朝鮮人)も日本人と協力して、撲滅に取り組みたい」と言えないのだろうか?
なんかいつの間にか主語が「リベラル系はてなid」から「在日韓国人や在日朝鮮人」に変わってて、この2つがイコールって前提で話が進んでで怖いわ
「お客様は神様です」について
https://www.minamiharuo.jp/profile/index2.html
「三波春夫」といえば、『お客様は神様です』というフレーズがすぐに思い浮かぶ方が少なくないようです。印象強くご記憶いただいていることを有難く存じます。
ですが、このフレーズが真意とは違う意味に捉えられたり使われたりしていることが多くございますので、ここにちょっとお伝えさせて頂きます。
三波本人が生前にインタビューなどでこのフレーズの意味を尋ねられたとき、こう答えておりました。
『歌う時に私は、あたかも神前で祈るときのように、雑念を払ってまっさらな、澄み切った心にならなければ完璧な藝をお見せすることはできないと思っております。ですから、お客様を神様とみて、歌を唄うのです。また、演者にとってお客様を歓ばせるということは絶対条件です。ですからお客様は絶対者、神様なのです』
歌手として歌を歌う、「セリフ入り歌謡曲」や「長編歌謡浪曲」で歴史上の人物や物語を歌い語る、その折の三波春夫の心構えを表現した言葉であり、お客様に歓んでいただくことを歌手人生の第一義として追及して生きた、三波春夫らしい心情を表したものでした。
また、三波春夫の舞台をお客様が楽しみにお越しになり、三波も一所懸命に舞台をつとめるといった、楽しさや高揚感がいっぱいの、歓び合う場での思いを表したものでした。
そしてその始めは、「お客様は神様です」という型にはまった言い方ではありませんでした。いきさつについての本人の著述を最後にご紹介いたしますが、“お客様を神様とみる”という心構えであることを舞台の上で話したことが始まりで、それは芸能生活としては22年目、歌手デビューから数えると4年目の1961(昭和36)年のことでした。
その後、漫才トリオのレツゴー三匹さんが「三波春夫でございます。お客様は神様です」という表現を流行させて、「お客様は神様です」という言い方が世の中に定着したというのが経緯です。
三波にとっての「お客様」とは、聴衆・オーディエンスのことです。また、「お客様は神だから徹底的に大事にして媚びなさい。何をされようが我慢して尽くしなさい」などと発想、発言したことはまったくありません。
しかし、このフレーズが真意と離れて使われる時には、「お客様」は商店、飲食店、乗り物のお客さん、営業先のクライアントなどになり、「お客様イコール神」となります。
例えば買い物客が「お金を払う客なんだからもっと丁寧にしなさいよ。お客様は神様でしょ?」という風になり、クレームをつけるときなどには恰好の言い分となってしまっているようです。店員さん側は「お客様は神様です、って言うからって、お客は何をしたって良いっていうんですか?」と嘆かれています。
また、クレーマーやカスタマーハラスメント問題を取り上げている番組などでは「“お客様は神様です”というのがありますからね」と、真意を紹介することなく引き合いに出されることもあります。
このようなフレーズへの誤解は三波春夫の生前から有りましたが、言葉や文章などでの短い説明ではこと足りないと思うのは、生前の三波春夫も、現在の私もです。説明となるものを挙げるとしましたら、三波春夫のライブをご覧いただいて心意気を感じ取っていただくことだったのかもしれません。
“雑念を払って澄み切った心で歌う”というような心構えに至ったのには、三波春夫のそれまでの人生経験が土台としてありました。
16歳で初舞台を踏んだ浪曲の世界は、芸がまずければ「下手くそ! 聴いてられないぞ!」と、お客様が舞台に上がって来てサッサと幕を引いてしまわれるような、目や耳の肥えたお客様ばかりでした。幸いに途中で「やめろ!」と言われたことはなかったそうですが、舞台に立つ時は常にお客様との真剣勝負でした。
20歳では応召して陸軍に入隊することとなり、戦場を駆け巡り、終戦後はシベリアで捕虜となり、4年間の抑留生活を送りました。
抑留中、絶望の中にある仲間を励ますために、また自分自身が希望を持って生きるためにも、時間を見つけては一所懸命に浪曲を語って聞かせ、皆で演劇も創りました。藝で、いかに人に喜んでいただけるかを徹底的に追及し始めたのは、このときからでした。
戦後は浪曲の世界に戻り、33歳で歌謡界に転向して歌手となったのですが、プロとして藝を向上させるには自分自身の心を磨き、鍛えてゆかなければならないと思い、“求道者”と言われるほど真面目に生きました。男性歌手初の和服の歌手であり、歌手が座長の芝居と歌謡ショーの大劇場の1ヶ月公演の一番手であったことを始め、前例が無いなどということは恐れずに、「常に新しい藝を、新しい作品を」をモットーにしておりました。
永六輔さんは三波春夫のことを「歌う学者」と呼んでくださいましたが、酒タバコは嗜まず、空き時間は本を読み、作詞やエッセイ、歴史本を書くために原稿用紙に向かっている人でした。
笑顔がトレードマークのようでしたが、いつも人に笑顔を向けられる自分であるようにと、心がけていました。日常、腹の立つこともありますし、不愉快な思いもしますが、そのまま仕事に入ってしまっては良い舞台はつとめられません。ですから、心の持ち方のスイッチをいつでも切り替えて笑顔が出来るように、と努力していました。
これらは、若い時に先輩から「普段の暮らし方が舞台に出るんだよ」と教えられたことを心におき、より良い舞台をつとめられるように、お客様に歓んでいただける歌手であるために、の切磋琢磨でした。
三波春夫が藝一筋に生きた姿勢は、DVDなどでお目にかける舞台などに表れているかと存じます。ご興味がおありになりましたら、どうぞご高覧くださいませ。
最後に、三波春夫自身が「お客様は神様です」について著述している文章をご紹介させていただきます。
三波春夫著『歌藝の天地』
(1984年初刊 2001年文庫化 いずれもPHP研究所)より
「お客様は神様です」の発端
お客様は神様です」という言葉が流行ったのには、びっくりした。よく、この言葉の真意はどこにあるのかと聞かれるが、私も、その答えに困ることがある。テレビなどで、短い時間で喋るには、うまく説明が付かない。
皆さんのほうでは、面白がって、「お客様は仏様」だの「うちのカミサンは神様です」とか、「選挙民は神様じゃ」などといった言葉になって広まっていった。いやはやどうにも賑やかなこと。
そのあげくに、「こんなふうに言われるのは、どう思います?」とくる。
しかし、振り返って思うのは、人間尊重の心が薄れたこと、そうした背景があったからこそ、この言葉が流行ったのではないだろうか?
私が舞台に立つとき、敬虔な心で神に手を合わせたときと同様に、心を昇華しなければ真実の藝は出来ない―――と私は思っている。つまり、私がただ単に歌を唄うだけの歌手だったらならば、きっとこんな言葉は生まれなかったと思うのです。浪花節という語り物の世界を経てきたからではないだろうか。
つまり、浪花節の台詞の部分は「瞬時のうちに一人で何人もの登場人物を的確に表現」しなくてはならない。そうしなければ、決してドラマは語れないのである。
われわれはいかに大衆の心を掴む努力をしなければいけないか、そしてお客様をいかに喜ばせなければいけないかを考えていなくてはなりません。お金を払い、楽しみを求めて、ご入場なさるお客様に、その代償を持ち帰っていただかなければならない。
お客様は、その意味で、絶対者の集まりなのです。天と地との間に、絶対者と呼べるもの、それは「神」であると私は教えられている。
あれはたしか、昭和三十六年の春ころ、ある地方都市の学校の体育館だった。
司会の宮尾たかし君と対談の際にこんなやりとりがあった。
「!?」
「こんないいところへ、何故もっと早く来なかったんたろう、と」
ここで、お客様はどっと笑ってくれる。ここまでは、昨日通りの対談内容。
すると、宮尾君はたたみかけて、
ウワーッと客席が歓声の津波!私ははっとしたが、宮尾君もびっくり。客席と私の顔を見比べて、
「カミサマですか」
「そうです」
「なるほど、そう言われれば、お米を作る神様もいらっしゃる。ナスやキュウリを作る神様も、織物を作る織姫様も、あそこには子供を抱いてる慈母観音様、なかにゃうるさい山の神・・・・・・」
客席はいっそうの笑いの渦。その翌日から、毎日このパターンが続いて、どこもかしこも受けまくった。宮尾君は、お父さんが落語家であり、本人も研究熱心だから、司会者としても一流。漫談もうまい。
こうして、このやりとりを続けて全国を廻るうちに、レッツゴー三匹が舞台を見て、おおいに流行らせたのである。
追記:
“翌日から、毎日このパターンが続いて…”とありますが、三波と宮尾さんが自発的にしたのではなかったのです。山陰地方を廻るツアー中のこの出来事でしたが、”三波春夫が、お客様を神様だと言う面白い場面があるよ”という評判がすぐに広まり、各地の主催者さんから「あの場面、必ずやって下さいね。お客様も待っていらっしゃいますから」と言われ、連日この2人のトークの場面をやらなければならなくなった、というのが真相です。
投資懐疑派です
株も為替も10年以上やってるけど、投資はギャンブルだと思ってる
ゼロサムだと思っているので、リスク回避の意味で減らさない手ではあるが、安定して増やす手ではないと思う
投資いいよ派に聞きたいことがいくつかある
・リーマンショックレベルの下げは織り込んでいますか?(S&P500は大体60%下げた)
・日本のバブル崩壊や失われた30年のような長期低迷を織り込んでいますか?
・今の60歳以上の一般層に、投資で安定して暮らしてる人が居ないことについてどう思いますか
・年利4%だと、30年で3.2倍ですけど、そうなると思いますか?
「下げても手放してはいけません、むしろ下で買い増しましょう」っていうの
市況スレ的に言うと「塩漬けアホールドして押し目ナンピン買いしましょう」なんですよね
結局利確タイミング次第じゃないですか
お金が必要になる、65歳〜80歳の利食いポイントでたまたま都合のいい値なら勝てますけど、そうなる保証はあると思いますか?
引退したあとで、数千万の老後資金が徐々に減っていくことに耐えられると思いますか?
前は仮想通貨だった
ーーーーー
投資を始めるか悩んでる人に向けて
ゼロサム、プラスサム、マイナスサムの話すると荒れるので横に置いとくとして(いろんな意見があるからググってみて)
繰り返すけど、たくさん貯金を持ってる人がリスクヘッジのために資産運用するのは否定しない、やった方が良い
そうではない大多数が、資産を増やそうとするのは例えプラスサムゲームだとしても減るリスクがあるので自己責任でやってほしい
単純に、プラス5%を狙うならマイナス5%のリスクを考えて欲しい
聖杯(絶対勝てる方法)はないし、「〇〇したら勝てたよ」って言ってる人は「ビットコイン買ってたから儲かった」と同じ話をしているとわかって欲しい
米指標は上がり続けてると言う人が居たら、日本の株が100年以上上がり続けた後、20年下がったことを思い出してほしい
アメリカに賭けるのも地球に賭けるのも別に良いけど減る可能性は残るからね?
あと投資がうまく行ってしまった時、自分がさらに欲張ってしまわないかも考えてほしい
それらを全部飲み込めるならやると良い、私もリスク取ってやってるわけだし
ちなみにもしあなたが失敗したら、周りはこう言うと思う、「勉強が足りなかったからだ」と
あともし皆やってて焦るみたいな人が居たら教えたいんだけど
NISA利用率は20代で6%程度、30代で12%程度だから安心してほしい
https://www.fsa.go.jp/policy/nisa/20200630/01.pdf
ビットコイン購入経験者率が5%くらいらしいから、それよりは多いかなと言うくらい
こういう情報ググるとクソみたいな記事がたくさん出てくるから困る
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>・今の60歳以上の一般層に、投資で安定して暮らしてる人が居ないことについてどう思いますか
ノーリスクで4%以上上がる、それに合わせて上がるから物価も上がるってなったらリスクヘッジのために普通預金での貯金は必須だったわけだよね
夜行バスの思い出を気紛れに綴っていたら、連想ゲームのようにN君のことを思い出した。これも何かの機会だと思い、ここで書き残すことにした。予め断っておくと、ほとんど夜行バス要素は無いし、N君という呼び名も、星新一式のニュートラルな呼称であり、実名のイニシャルではない。
N君は、高校の同級生で同じクラスだったが、特に俺と親しかったわけではない。俺の記憶の中のN君は、優等生でも不良でもなく、運動部所属でも文化部所属でもない、あまり目立たない帰宅部の生徒だった。
ここでド田舎の高校あるある話を解説しておくが、当時の暗黙の了解として、生徒は部活動に所属すること、しかも、運動部が最も望ましいとされていた。文化部は、運動部より一段低く見られ、帰宅部となると、教師や保護者から胡散臭く見られるという始末だった。俺はといえば、オタクのくせに無理をして運動部に所属し、体育会系集団と校内オタク集団の間を、コウモリのようにフラフラしていた。
そんな風にド田舎の同調圧力に屈していた俺から見ると、校内のどのようなコミュニティにも属していないように見えるN君は、孤高というか不思議な存在だった。
N君は、俺を含めた同級生との休み時間や放課後の会話に、自ら積極的に加わったりすることは無かったものの、会話をする機会が有れば、分け隔てなくフランクに接して明るく話す程度には社交的だった。俺も他の同級生も、N君を特別に好きだったかどうかはともかく、特別に嫌ったりはしていなかった。帰宅部にも関わらず、運動部に所属する生徒たちから見下されたりするということがN君はなかった。優等生でもなかったとは書いたが、話し方や物腰を思い浮かべるとN君の頭が悪いとも決して思えず、むしろ頭は良さそうに俺には見えた。
特に親しかったわけでもない俺の、N君に関する記憶や印象は、おおむね以上のようなものだった。
在校中の特筆すべき思い出を残すことも無く、高校を卒業して実家を出た俺は、田舎の度合いが出身地と五十歩百歩ぐらいの、他県にある大学へと進学した。
大学の夏休み、実家へ帰省してゴロゴロして怠惰に過ごしていた俺に、親は「在校中にお世話になった顧問の先生に、挨拶ぐらいしに行け」と言った。仕方なく俺は、運動部OBとして母校に顔を出し、OBらしく後輩たちにアイスクリームの差し入れを振る舞ったりした。母校での野暮用を済ませ、帰宅するために母校から最寄りの駅へと向かった俺は、その途中で、偶然にもN君に再会した。市外から汽車(ディーゼル列車を田舎ではこう呼ぶ)で片道一時間強かけて通学していた俺と異なり、N君の家は母校と同じ市内だった。
特に親しかったわけでもないが「久しぶり」ということで、俺たちは喫茶店でアイスコーヒーでも飲もうということになった。高校生時代は校則で入店が禁止されていた喫茶店に、今では堂々と入店できるということに、俺は開放感を覚えたが、その時のN君はどうだったのだろうか。
「今どうしてる?」という話になり、大学生としての暮らしについて、俺は適当に話した。昔も今もコミュニケーション能力に乏しい俺は、大学生になっても彼女もいなかったどころか、友人もろくにいなかった。だから、決して薔薇色の生活というわけでもなかったし、そんなに明るい話のネタも持ってはいなかった。しかし、そんな俺のつまらない話でも、N君は「良いなあ」と相槌を打ちながら聞いていた。ひとしきり俺のことは話したので、今度は俺が、N君のことについて訊いてみることにした。しかし、聞けば、大学や専門学校などに進学するでもなし、働くでもなし、N君は何もしていないと言った。
少し言い淀んだ後、N君は俺に「悩んでいることがある」と切り出した。今でも、この時の話題をN君が特に親しくもなかった俺に切り出した、本当の理由はよく分からない。喫茶店に自由に入れるようになった開放感からだったのだろうか。あるいは、田舎を捨てて他県の大学へと進学した俺のことを、進歩的で偏見が少ない人間だとN君は見たのだろうか。単に、親しくもなかった赤の他人だからこそ、却って話せたというだけかもしれない。
N君の悩みというのは、彼の恋の対象が、女性ではなく男性であるというものだった。
N君の話を聞いて、俺は驚いた。
N君が同性愛者であったことに驚いたのではない。俺が驚いたのは、N君が彼自身以外に「男性に恋愛感情を抱く男性」の存在を知らなかったからである。ストレートの俺ですら存在を知っていた、雑誌『さぶ』や『薔薇族』などの存在も知らなかったと言われたが、その時の俺は、俄にはN君の言葉を信じ難いと思った。
しかし、後になって思い返した俺は、それほど有り得ない話でもないのではないかと思うようになった。同性愛者であることを子供からカミングアウトされた親の中には、同性愛を治療可能な病と考えて、何とか"治そう"と試みる人間が少なくないという。だから、もしかしたらN君の親も、そんなふうに"治そう"とか"悪化を防ごう"とかするために、N君が彼以外の同性愛者や性的マイノリティに関する情報へとアクセスする機会を、奪っていたのではないだろうか。スマホもインターネットも無かった時代のド田舎で、子供を経済的に支配している親の立場ならば、情報の遮断もある程度は可能だったと思う。N君がどうだったかは覚えていないが、俺の同級生の中には、テレビのお笑い番組を観ることを、親から禁じられている人間が何人もいた。お笑い番組などでは笑いのタネに同性愛者が持ち出されることは珍しくなかったが、そういった俗悪番組などを観ることを禁じられていたとしたら、自分以外の同性愛者の存在を知らなかったということも有り得るかもしれない。
「えっ、そんな雑誌があるの?!」
「そうだよ、男の人を恋愛として好きになる男の人は、なにも世の中でN君だけじゃないよ」
逆にN君の方こそ、俺の言うことが信じられない、自分の他に男性に恋愛感情を抱く男性が存在するなんて信じられない、という表情だった。
別に俺は、高邁な思想の持ち主などではなかったし、世の中の差別を無くすために戦う人間でもなかった。過去形で表現したが、現在形で表現しても俺は「そのような人間ではない」。しかし、そんな俺でも、N君が理不尽に苦しんだり悩んだりする必要は何も無いとは思った。とはいえ、若くて馬鹿な大学生だった俺に、まともなアドバイスや励ましをN君に与えることが出来るはずも無かった。『さぶ』とか『薔薇族』の存在の他に、何か俺がN君に教えられることが有るかと、無い知恵を絞って出てきたのは、俺が夜行バスで東京に行った時に、新宿駅の雑踏で見た、今風の言葉で言えばオネエと言われる人たちの集団のことだった。俺は馬鹿である。
「新宿二丁目には、そういう人たちが集まるお店が、沢山有るんだよ。俺、東京に行った時に新宿駅で、そういう人たちの集団を見たよ」
実際に新宿二丁目に行ったことも無いくせに半可通の知識から発した、今から思えば我ながら馬鹿な発言だ。それでも、その時の俺は、馬鹿なりに「N君は『独りぼっち』ではない」と言って励ましたかったのだ。とはいえ、当時のN君との会話の中で、俺は「オカマ」や「オカマバー」という言葉を頻繁に使ったと記憶している。励ましたいと思いながら差別的表現を使っていたのだから、今でも俺は恥ずかしくなる。その上、明るくひょうきんなオネエたちと、同性愛者とを安直にイコールで結びつけるという思考は、粗雑で乱暴なものだったと言うほかない。
兎に角そういった話を聞いたN君は『さぶ』や『薔薇族』の存在以上に、俺が新宿駅で見たという人たちの存在、実在に驚いたようだった。その人たちの様子を訊かれたので、俺は、思い出せる範囲で、彼女たちの服装とかメイクとか、かしましく面白おかしい会話の様子とか、堂々とした態度とかをN君に話した。特に、彼女たちが明るく堂々とした様子だったところ、自由に見えたところに、N君は深い感銘を受けたように俺の目には見えた。
そろそろ俺の帰宅するのに乗る汽車の発車時刻が近いという理由で、喫茶店でのお喋りを切り上げると、別れ際にN君は俺に「ありがとう、色々と教えてくれて」と言った。大袈裟なぐらいに何度も、N君は「ありがとう」と言った。駅へと向かう俺を、N君は喫茶店の前で見送ってくれていた。
その後、N君と会ったり連絡を取ったりというドラマチックな出来事は特に無い。だから、その後のN君がどうしたのか、どうなったのか、故郷に残ったのか、それとも出て行ったのか、俺は何も知らない。
俺の勝手な空想の中では、その後のN君は、故郷を出て、何処かの都市部のリベラルな場所で、仲間と出会うことが出来て、孤独ではなくなったという筋書きになっている。その俺の空想の中で、故郷を出て都市へと向かうN君は、夜行バスに乗っている。俺がN君のことを、勝手に俺自身と重ねているからだ。
たかが夜行バスに乗って、何回か東京その他の場所に出掛けたからといって、田舎っぺで馬鹿な俺が、顕著な人間的成長を遂げたりするはずもない。また、故郷を出て東京その他の場所に移り住んだからといって、必ずしも薔薇色の人生が待ち受けているとは限らないことも、今では俺も理解している。
それでも。
それでも、夜行バスの旅は、若くて井の中の蛙の俺に、新鮮な風景を見せ、田舎では触れることのできなかった、新鮮な空気や文化的産物に触れる機会を与えてくれた。たかが新宿駅でオネエの人たちを見ただけにすぎないという体験ですらも、若くて田舎者だった俺にとっては、貴重な体験機会の一つだった。俺にとって夜行バスは、そういう思い出と結びついている。