はてなキーワード: 社会生活とは
精神医療についての話題が増田で盛んだ(時期を若干逃した感はあるが)。自分の場合は医者と薬のおかげでサラリーマン生活を続けることができている人間なので、こんなケースもある(ごく普通にある)と知ってほしいと思い、ここに書いておく。
発症は1年半ほど前。メンタルに突如異常が出る。時期によって異なるが、症状は次の3つ。
一晩に3~4回程度目が覚めてしまう。起きて時計を確認すると午前2時や3時だったりしてめちゃくちゃがっかりする。寝不足がひどい。
常にイラついているわけではないのだだが、出社から夕方頃までの間は魔の時間で、ちょっとしたきっかけで怒りが爆発する。会社で同僚に挨拶されただけで突然感情のメーターが振り切れて暴言を吐きそうになる。社会生命がやばい。
これはこの発症当初ではなく半年ほど過ぎた頃から発生。気分がとにかく落ち込む、自分が劣った人間であるという根拠を脳が勝手にひねり出し始める、意味がないと知りつつ止められない、性欲の減退、性的なコンテンツへの嫌悪感、これまで好きだったものへの無関心、等々。人生がまずい。
このままでは社会生活が送れなくなるという危機感が背中を押し(抵抗なく医者に駆け込めたのはTwitterやはてなで「困ったら医者に頼るのは当たり前だ」という判断基準が刷り込まれていた部分も大きい。この場を借りて感謝しておきたい)、これはまずいと認識した数日後には勤務先から徒歩圏内にある心療内科へ予約の電話をかけた。もう1年以上前のことなのに、電話を切った後の「一仕事終えた」という若干の開放感、そしてこれから未知の何かが始まるのだという不安感はまだよく覚えている。
初診は待たされることが多いと聞くが、昼休みに融通が利く職場環境ということもあり、1週間程度で予約が取れたのは幸いだった。医者では簡単な問診が行われた。
Q: これまでもこんなことが?
A: ない。
Q: 原因に心当たりは?
A: ない。ここ数ヶ月で生活がいきなり変わったわけでもない。イライラとは逆に毎年春になるとメンタルが低調になることはあった。
その結果医師が下した判断は「軽度の双極性障害の可能性があります。薬を処方します。睡眠導入剤も一緒に出しておきます」とのこと。人生初の薬物生活へ突入。
薬を症状によって変えつつ、今は双極性障害の薬、抗鬱剤+精神安定剤、睡眠導入剤、便秘薬(抗鬱剤の副作用に便秘があり、それに対抗するため)を1日トータル11錠服用している。
中途覚醒はほぼ姿を消した。イライラも落ち着いた。眠りの質はあまり良くないものの、ほぼ毎日朝まで眠れるようになった。ここのところは1週間のうちダメな気分になるのは0日から3日程度。1回あたり数十分から数時間続くのでその間はつとめて何もしないようにしている(これも仕事にある程度の裁量があるから可能なことではあるが)。
寝る前に服用する薬が多いので、以前は時折楽しんでいた寝酒は諦めた。副作用の眠気にはかなり苦しんでいる。頭の働きが明らかに鈍くなったという実感があり、「自分はそこそこ頭の回る人間だ」という自負を捨てるために苦労している。これは加齢のせいかもしれないのだがそれはそれでつらい。
医者に行っていなければ極度の寝不足によって遅刻太郎・無能太郎のみならず暴言太郎と化していたことは間違いないので、「医者にかからない」という選択肢は最初からなかったと思う。症状は寛解したり(1週間まったく自覚症状が出ない時期もあった)悪化したりと波があるものの、世間の健常者よりも1歩遅れ程度の生活は送れている。
医者行け。
引き返しが効かなくなるまでに気がついてよかったじゃん
でもストックを持たないものは、フローを稼ぐために割にあわない仕事をやり続けないといけないのは社会の理
そもそもA社に飼われるように就活頑張っていたら、こんなことに思いを馳せることもなかったのにね
おしゃれなカフェを経営するより、B社やその下請けのC社に飼われる方が生きていくのはちょろいはず
スキル積んでD社を創業して自分が人買いになるのが一番儲かるぞ
目先の効いたおっさんどもはみんなそうしてるだろ
あとこれからはフリーランスは相当スキル高くないとおすすめしない
現場にいればわかると思うけど、ちょっと大きな案件だとコンプライアンスだったりNDAだったりでフリーランスは排除される方向になってる
ただマジスキルが高ければ例外として扱われるけど、そういう人材なら現時点で誰かの駒として働いていないし、高待遇で手放さない
症状は、
・青汁を飲んだ直後のような苦味を口に常に感じる
・体温調節が下手になり突然滝のような汗が出たり寒さでガタガタ震えたりする
自分は嘔吐がないのとダイエット中のOLよりちょっと少ないぐらいの量なら食べることが出来るので、症状は中程度だと思う。
掃除洗濯食事、さらに自分の看病など家事の130パーセントを現在夫がしてくれているのでそれには本当に本当に感謝しかない。大好きなW杯観戦中でも寝室で自分が唸り声をあげれば、「大丈夫?何か飲む??」とお見舞いに来てくれる。自分が弱音を吐くと励ますのでもなく面倒くさがるのでもなく「そうだね…つらいね…可哀想に…すごく頑張ってると思うよ」と闘病中に聞きたい100点満点の回答をしてくれる最高すぎる夫。
そう、これは闘病。
いくら医学的に病気と認定されていなくても、つわりの症状は『病』と言わずしてなんと言うか。
現在、マタニティモードにトランスフォーマーしたボディは新たな生命を生成することを第一目標としている為、それ以外のものは二の次三の次にされているのだと粛々と感じる。痛みを伴う改革というやつなのかな。わたしのライフはもうゼロよ。
お腹に宿る我が子を感じることは、ほぼ、ない。
妊娠初期なので見た目も変わらず、胎動なんてもちろんないし、体重は減っていくばかりだ。
ただ唯一存在を認識するのは2週間に1回のエコー検査。画面に映るボヤボヤした映像の中からかろうじて「我が子?」と認識出来た1分間だけは幸せを感じることが出来る。そんなぽやぽやタイムも家に帰宅する頃には終わる。
まだ最初の頃は良かった。
つらいながらもこれからの為に頑張ろうという気概があった。しかし、2週間…3週間…と続くうちに頭がおかしくなってきた。
不調が回復しない辛さ。いつまで続くのかという不安。職場に迷惑をかけている罪悪感。自身も忙しいであろう夫に負担をかけ続けている不甲斐なさ。
ベランダを見つめて、この柵を、ひょいと跨がれば、もう苦しみが終わるのかなと考えたり……
考えてみれば体の不調が回復しないまま10日以上続くというのは、人生初の体験なのかもしれない。原因がなんであれ体調不良が続くと人間おかしくなってくる。
楽しいことを考えよう。つわりがもし落ち着いたら現在絶賛賛否両論中のマタ旅に行く妄想しよう。無理だ。何かを楽しむ余裕はない。行くなら養生施設的なところで体をなんとかしたい。
妊婦は生命力の塊のようだと思っていた。もう一つのいのちを育むプラスのエネルギーの集合体であると。自分もそうならねばと。
しかし、実体は程遠かった。寝たきりで動けず、社会生活とも離れ、体は弱っていった。
生命力の塊と言いつつも常に「死」も意識していた(前回の妊娠は流産だった)。
要は自分が思っていた妊娠像とのギャップに苦しんでいたっていうありがちなやつだったのかな。
それからは、妊娠状態の体はプラスなのではなく、マイナスの状態なのであると思うようにすると正直気持ちが楽になった。我が子をマイナスの権化のようにしてしまう気がして申し訳無かったが、子は子、妊娠中の体の不良症状とは別だと考えるようにした。
つわり自体はまだ解決してないけど、妊娠が終了すれば嫌でも終わる。優しすぎる夫と、そしてその夫の子供がいてくれる。これから先まだ色々あると思うけどもうちょい頑張ろう。
not明らか。
先ほども言ったが、「本人の問題」が先天的な障害等でもない限り、
本人にまともなコミュニケーション能力があるのならば一度や二度そういう目に遭ってもネットで暴走する前に立ち直れるでしょう
周囲にまともなコミュニケーション能力があるのならば一度もそんな目には合わないし、ネットで暴走もしない。
価値観のアップデートって言葉を近頃たまに目にする。おもにはてなで、もっというとはてブで。
価値観のアップデート、結構なことだと思う。自分もそうありたい。でもなんだろう、若干の違和感が拭い去れない。
数年前にはセクハラと騒がれなかった行為は今はセクハラと糾弾されるようになった。上司と部下のコミュニケーションはパワハラと紙一重になった。働き方は変わった。タバコ部屋は姿を消した。
でもそれらが問題にならなかった、正しかったとされていた価値観もあったよな。所謂古い価値観というやつ、それを実装してきた人達もいたわけだ。
勘違いしないでほしい、私はセクハラもパワハラも許されざるものだと思っているし残業もタバコも嫌いだ。自分のことはリベラルだと思っている。それなりには品行方正に社会生活をしていると思っている。今の社会には嫌な点もあるけど、概ね私の好みの世界に向かっていると思う。
でもそれって私がまだ30代で私の価値観のバージョンが新しいからじゃないのか。私だってそれなりに生きてきたから価値観のアップデートをきっとかけている、でもどうせ数回程度だし、そのアプデが正しかったかどうかなんてわからない。
なあ、各人にとって物事の価値に重い軽いあるいは好きや嫌いはあるだろう。でもそれに正しい正しくないがあるのか?
価値観のアップデートって言葉は、さもそれが絶対正しいことかのように使われる。本当だろうか?そうやってアップデートしていった価値観は、あなたたちの価値観は、どれほど立派なものなのだろう?でもまあたしかに、それは立派なものかもしれないな。あなたたちの言うようなアップデートが出来なかった人たちを見下していいと思えるくらいには。
たまに、この社会で女のほうが楽だとか言う男を見かけるけど、その頭の悪さに目眩がする。
政治家に男ばかり、経営者にも男ばかり、女に権利が与えられていないにも関わらず、家事や育児をやりつつ仕事もしろ、職場で無能な男の面倒もみろと、責任ばかり押し付けられる。
男前提の正社員、女前提の非正社員という性差別に基づいた身分格差があり賃金格差があり、大多数の女性が非正社員の立場で低賃金で搾取されている。
それゆえ、職場で、無能な男、だけど正社員で高待遇という存在を目にし、正社員と同じような勤務日数で同じような業務をしている有能な非正社員の女性、非正社員だから低賃金、という矛盾を日々目にする。
男というだけで正社員へのハードルが低く、経済的に自立しやすい、その特権に無自覚で、誰にも咎められないからといって無能でやる気のない自分を隠そうとしない、文句をつける人間がいないからといって好き勝手振る舞う、クソ男ども。
女のほうが生きやすいとか言う男共も、そういう無茶を言ったところで文句をつける人間がいないから、男にとって都合の良いことは男社会では支持されるから、堂々とそんな無茶をひけらかせるんだよな、男尊女卑社会だからそういう発言をできてるのに、女のほうが楽だとか、滑稽。
日常で生活をしてて、見かける人間の非対称さ、好き勝手に振る舞う男共と、萎縮したり緊張したり卑屈になったりする女の非対称さに、ストレスが溜まる。
男だからという理由だけで、偉そうに振る舞う人間の多さ、女だからという理由だけで卑屈になったりする人間の多さ、社会生活をしてたら、その非対称さが目に入って、女尊男卑だなんて発想にならないだろうけど、そんなことを言ってるのは引きこもっていて社会と接点がない男だろうから、仕方ないのかな…
現実を見ろよ、と言いたい。現実を見れず、自分の能力のなさで弱者男性になっているのにそれを女のせいにしてる、救いようのないやつら。
この社会で女として生きる大変さの続き。
男尊女卑社会で、認知の歪みを抱えた男共の相手をするストレス。
自分たち男は家事育児をしなくていいという甘えた夫の相手、身の回りのことだけでは飽き足らず職場で俺の機嫌取りをしろというクソ男の相手(色々な職場を経験してるけどクソ男がいない職場ってない。男が1人だけでもその1人がクソだったり、複数人いたら誰かはクソだったり、男は全体的なレベルが低すぎる)、自分で自分の機嫌を取れないから女子供に八つ当たりしてくる(痴漢や暴力)人間の相手、ネットで声が大きい女を逆恨みしてる男共の相手…
家庭も職場も電車もネットも、どこにいっても、加害してくる男共がうようよいて、気が休まらない。
女に甘えて、大人になりたがらず、いつまでも子供のままで、僕の面倒をみてと甘えてくる男共。
恋人や夫、職場の同僚、電車の痴漢やすれ違いざまの暴力男、ネット痴漢ども…
これほどまでクソ男に溢れてる社会で、クソ男に囲まれて生きざるを得ない女性の方が楽だとか、よく言えるな、ほんと。
こっちは男なんて必要ない、関わってくるなと思って生きてるのに、ネット痴漢をしているような男共は、女が嫌いと言いながら、わざわざ女に絡みにくるし。
嫌いなら関わらなければいいのに、絡んできて、気持ち悪い。
あとはまぁ、よく言われること、
・男の性欲が肯定されすぎてポルノに溢れている、なのに性教育はおざなりだから乱暴なセックスをする男が多い
・女だけ見た目を評価される男尊女卑文化のせいで、キモい見た目の男が多く、そんな男共に見た目を評価されるおぞましさ
この社会で女として生きることがいかに大変か、挙げるとキリがない。
個人的に、賃金格差とクソ男に囲まれて生きることが、一番耐え難い。
すれ違いざまに暴力を振るってくる、ぶつかり男や痴漢も女に甘えてるし、女の方が楽だ!俺たちは大変なんだ!と男社会と戦わずに女叩きをしてるようなネットに多い非モテ男も女に甘えてるし、職場にいて目にする、無能でやる気もなく下の立場の人間にだけ偉そうな典型的なクソ男も女に甘えてるし(そいつは妻を専業主婦にしてる、自分のことを自分でできない典型的な日本のクソ男)どいつもこいつも、女に甘えすぎ。
社会生活ってご近所の目を気にしたりするアレ?
公共の福祉の内容として,「社会全体の利益」とか「社会生活を営む成員多数の実質的利益」とかいわれるが,社会の多数者に抗してでも自己を主張することを可能にさせるところに基本的人権の存在理由があるから,単純に「成員多数の実質的利益」が公共の福祉であるということはできない。しかし他方,社会が存続するために,社会の構成員間の利害の衝突を調整,解決する原理が必要ではある。そこで現在では,公共の福祉とはそれによって人権を制約されるその個人の利益にも還元される全体の利益と認識されている。
公共の福祉それ自体が基本的人権制約の正当化事由となるわけではなく、全体の利益が個人の権利・利益を凌駕することを意味するわけではない。
薬を飲むことで社会生活を送れているのであれば、別に良いのでは、と個人的には思う。
通院の時間と費用の分、他の人よりもハンデを背負っているともいえるが、その程度のハンデしか背負っていないとも言えるのだから。
これが他の(どうでもいい)友達には言わなくて彼女には言う、ということならば、いくつかヤバい性質を含んだ「癖」だと思いますね。友達だろうが目上だろうが構わず「ハッキリ言ってその音楽の趣味クソですよねwww」って言い切れる人なら、むしろ「あらすてき」と思うひとも一人くらいならいるかもしれないし、悪くとも単なる「性格悪い人だなあ」で済む。でもそうでないとしたら、いくつか理由があると思うんだよね。
相手の趣味を見下し「正しい音楽の捉え方とは何か」を口に出そうとする行為は、あなたの内心で「教育の一環」として正当化されている可能性があります。つまり、つきあっている彼女の趣味を矯正し正しい知識を身に付けさせるのは彼氏である俺様の役目、という風に。彼女は自分のアクセサリーであり所有物でありメンテナンスする対象物である、というような。こうやって言語化すると分かりますが、いったい何様のつもりなのか、相当ヤバい思考ですね。それがヤバい思考だということには薄々気付いているから自ら言語化は避けてるってだけで、かなりヤバい奴です。
とにかく人間関係を「媚びへつらう/敵対・支配する」の二極に振り切って、「勝ち/負け」でしか考えられない思考の人というのがいて、一般的な社会生活ではさすがに手控えるものの、ある程度濃い人間関係の中ではそれを露出させてしまうタイプの人っています。あまり恋愛パートナーには向かないタイプの人ですね。SMの世界とかに間違って紛れ込んでいる場合もありますが、大体嫌われます。相手を一人の人間として認めることができないで、徹底的にへつらうか、逆にとことん見下すかしかできない。中にはタチの悪い人がいて、相手が「そういう人」を許容するタイプか見極めるために「少しずつ小出しに無茶や意地悪を仕掛ける」人がいます。真面目で誠実な人がこういう人にあたると、相手の意図が見えなくて病んでしまったりしますが、そういう病んで弱った人にまた喜んでマウンティングかますのがこういう人です。しまいに相手にキレられたりすると、めちゃくちゃみっともなくうろたえるのもこういう人ですが、その「うろたえて相手の機嫌を取っている」のも単なるポーズで、「強い相手にはご機嫌とる/弱い相手にはマウンティング」というロールを演じているだけです。彼らの反省が心からのものになることはないので、反省や謝罪を真に受けてはいけません。
若い、人間関係未熟な人にありがちな、「彼女」に「自分を安らがせてくれる女性」としての「母親」のロールモデルを求める人がいます。まあ、ある程度いい年でもそういうのはありがちではあるんですが、若いときはそれをどんどんエスカレートさせてしまったりします。男の子が母親に対して「○○ちゃんすごいねえ」「どうだボクすごいでしょ」とやるやつを彼女に対してやってしまうというわけです。母親へのこういう行動は、年長の保護者に対しての承認欲求だけでなく、母親の背後に父親という存在がありそれへの対抗意識が働くものと考えられます。
というわけで、(1)(2)は彼女への劣等感、(3)は彼女の背後に見ている何かへの劣等感、が関わっているとは思うけど、大体想定される上のような指摘について自ら思い当たるところがないか、少し反省してみるといいんじゃないかな。
自伝や伝記を読むと、自分もそのような立派な人になれるのかというと、もうひと捻りの工夫が必要である。
すべては一杯のコーヒーからの著者とは、本人が三和銀行の赤坂支店から池袋西口支店に転勤して来て退職するまで同僚として働いたが、支店での出来事、退職の経緯、タリーズコーヒー立ち上げまでの出来事、すべてが本人に都合の良い部分だけ取り上げ、いくつかは全く事実でないことも書かれている。あまりに事実と乖離しており、読んでいて気分が悪くなったので、すぐ売却してしまった。しかし、Amazonレビューを見る限り、多くの人に感動を与えているようだ。都合の悪いことは、本人の名誉もあるので私も語りはしない。当時の仲間と大勢で集まることがあっても、その人の話題が出ることもない。
これは大きな学びである。少なくとも上り詰めた人は好き勝手に持論を述べることができる。説得力もある。しかし、鵜呑みはいけない。本書で書いてあるように、その持論を実践したから権力を握ったのではなくて、権力を握ったからこそ、綺麗ごとも含めた心温まるリーダー論を語ることができるのだぐらいに思うぐらいで丁度よい。そうしないと、実社会生活においては大火傷の危険性を孕む。
私には課題があって、正しいことを入念に実行しようとしても、周囲に用意周到にひっくり返されることを何度か経験しており、物事を成し遂げるためには、汚い手を巧妙に仕掛けてくる相手の戦術を理解して、それにうまく処する必要がある。清濁併せのむつもりは毛頭ないが、濁った相手が組織の中にいれば、その人の一歩上手である必要がある。そうしなければ、結果責任を全うできない。
According to Saint Francesco
近年、同調圧力に屈しない事が正しいこととして扱われる傾向があるように思います。
飲み会への参加を断るだとか、学校での同調を迫る雰囲気に辟易して学校へ行くことをやめるなど様々な場面で同調圧力への抵抗が現れています。
話を進めるに先立ちまず前提として言っておきたいのは、わたし個人としては同調圧力が悪しきものだと考えているという事です。
同調圧力に抵抗する事には大抵、抵抗した者を排除する作用が伴います。そして日本においては集団からの排除を受けると、実社会生活が満足いくような形で立ち行かなくなる可能性が高いと言えるでしょう。
そのような意味で圧力に抵抗するということは、個人の意思決定の自由を実質的に奪ってしまうと言えるといえます。
そして人間は皆、自由な内心に従った意思決定をし、その意思決定に基づく行動は社会的法規範および他人の人権を侵害しない限りにおいて、許されてしかるべきだというのが私自身の根本的な思想なので、上記のように同調圧力自体は悪しきものと考えています。
話を戻しましょう。
では同調圧力に抵抗する事は正しいのでしょうか。
もちろん、同調圧力により強い精神的苦痛を受けて死を選ぼうとする人は同調圧力から逃げる事を選ぶべきでそれが正しい手段でしょう。
宗教的な議論はあるにせよ、死んでしまえばそこで何もかも終わりになってしまうのですから、命を終わらせる前にまず同調圧力から逃げてみるべきだからです。
しかし、そのような段階に至る前において同調圧力に屈しない事が正しいと言えるでしょうか?
最近は「飲み会なんて行く必要はない」「学校なんて行きたくなければ行く必要はない」と言った発言がよくされており、このような発言には肯定的な意見がよく寄せられています。
結論から言うと私はこのような考えは「現状では」間違っていると思います。
何度も述べているように、同調圧力は悪しきものです。しかし、実社会に目を向けて見ると、飲み会に参加する人の方が職場での居心地が良くなる傾向があるでしょうし、学校にしっかり行っていた人の方が将来的な選択肢が広がる(すなわち自らが望む進路に進む事ができる可能性が高くなり、その中で報酬としての金銭を得る事ができる)傾向があると言え、同調圧力に抵抗しないほうが良好な生活環境を維持しやすいでしょう。
私たちは社会の中で生きる存在ですから、このような社会傾向から目を背けることはできません。生活にはお金が必要であり、お金を稼ぐには働く必要があります。そして異論はあるにせよ、一般的には良好な生活環境には良好な人間関係を築く必要があると言えるでしょう。
社会的に大多数の人にとっては良好な生活環境を維持する事が重要でそのための選択が「正しい」選択と言うべきでしょう。(自分の信念を貫く事が重要であるという人もいますが、そこまで強い人はなかなかいないものです。)
「現状において」この両者を実現するためには基本的に同調圧力に従うほかないのです。
なぜなら「みんないやいやながらも同調圧力に従っているから」です。
これには他人が辛いからといって自分までその辛さを受忍する必要はないというという批判があるでしょう。しかしこれは綺麗事にすぎません。このような発言は基本的に他人と同じ辛さを受忍させられる側から出るものと言えるでしょうが、人間は聖人でもない限り自分が辛い時に辛くない他人を恨めしく思ってしまうものです。
すなわち、「現状では」同調圧力に抵抗しない事が自身の生活の質を上げるという意味において正しいのです。付け加えるなら、同調圧力に抵抗しつつ良好な生活環境を維持したいと「他力本願的に」望むことはむしろ自分勝手で無責任が過ぎると言うべきではないでしょうか。
では同調圧力に抵抗する事が正しい事だと言えるためにはどうすれば良いのでしょうか。
そんな事できないよ、という声があるかもしれませんそしてその通りかもしれません。
しかし、同調圧力に抵抗し、かつ良好な生活環境を手にしたいのならば、少なくとも社会傾向を変えるなんらかのアクションを起こすべきです。わたし自身はどのようなアクションを起こすべきかについての明確な答えを持ち合わせていませんし、もしかしたら同調圧力に抵抗する事自体がその答えなのかもしれません。それ故、ここまでのわたしの主張もまた無責任なものかもしれません。
しかし、現在の、同調圧力には従わなくても差し支えないだろうという風潮が社会的に広く認容される可能性もありますが、これ以上広がらない可能性もあります。とすれば、仮に後者のようになってしまった場合、結局同調圧力に抵抗した人は良好な生活環境を維持する事ができなくなってしまうことになる可能性が高いでしょう。このように考えるならば「現状において」同調圧力は屈しない事が正しいとは言えないのではないでしょうか?
この問題はわたし自身の「同調圧力は悪しきものだ」という考えと、「しかし同調圧力に従う事が現状正しいのだ」という相反する考えが衝突する場面でもあります。
後者は現在の社会的風潮とは異なるものかもしれませんが、同調圧力に反対する者として、「同調圧力に従わないことが正しいのだ」という「同調圧力的風潮」に抵抗する事が、現在の社会的傾向を変えるための私なりの答えです。
プライベートではまず会わないし合わない層。
この人たちの何が問題って普通の人のふりして社会生活に溶け込んでいることだ。
パッと見、気のいい人たちで話も面白い、ノリもいい。しかし急によく分からないポイントで怒り出す。
大体怒るポイントは共通していて、「そんな対応するなんてこちらを見下しているのか」というもの。
しかも怒り方がすごい。瞬間湯沸かし器のように怒鳴ってくる。え、さっきまで普通だったのに。なんか超怒鳴ってくる。
いやいや、見下してる云々は貴方が勝手に勘違いしただけで対応は仕事上やむなく、です。
とは言えず、ああ至らずすみません、ご指摘ありがとうございます、という魔法の言葉で切り抜ける。
すると向こうは満足気に「これからは気を付けてくれ」とか言って電話を切る。
向こうはスッキリしたかもしれないが私は無駄にフラストレーションが溜まる。向こうは私に怒鳴ったことはすっかり忘れてまた普通に接してくる。イライラする。完全にいじめっ子といじめられっ子の構図である。高校生か。
何が言いたいかというと、こういう人達は一目でヤバいと分かる目印を身に付けて欲しい。
パッと見てヤバそうな奴なら、こちらも心の準備ができる。特に気をつけて接しよう、と。
だが元マイルドヤンキーで自頭の良い奴は、一般企業に潜り込んでしまっている。製造業に多く、第一印象は面白くて気のいい人達、である。
いい人っぽく見えるけどいい人じゃないのだ。
いい人が持つ心の余裕が全くない。
彼らは自頭が良いが故にヤンキーよりはちゃんとした会社に入れる。しかしほとんどが高卒またはそれに準ずる大学卒なのでそこそこの役職に留まりがちである。
自分の方が明らかに能力もあって要領もいいのにぼーっとした使えない奴らがどんどん出世していく。何であんな奴らが。くすぶる想いはあるものの、会社を辞めるという選択肢はない。だって学生時代につるんでいた奴らよりは良い場所にいるのだから。
その心の余裕のなさが、「見下されている」と勝手に勘違いする理由なんだろう。
と、ここまで書いて気付いた。やっぱり私、彼らのこと見下しているわ。
本命バンドのライブがつまらなくなった。でもそんな事は長いことバンギャルをしていたら起きる事で、バンドに文句を言うつもりはさらさらなくて、単に私がそのバンドのターゲットから外れたのです。
楽しい時に楽しい事をして、つまらなくなったらやめる。心穏やかに生きていくために必要な事。
長いことありがとう!楽しかった!ここ数年は謎の義務感だけで通っていたけれど。
その頃の私は中々のメンヘラで、当然に手首はザクザクだし、自殺未遂を繰り返しては閉鎖病棟送りになっていた。
はじめて本命バンドの音楽に触れて、ライブに行って「死ねない」と思った。こんなに楽しくて素晴らしい事がこの世にあるなんて!と。
それからはメンタルがV字回復。こんなに暗い曲を世に出しているバンドなのに!生きてもっとこの音楽に触れたいと思った。
おかげで今とても元気です。
拗らせて死にそうになっていた私に生きる事を教えてくれてありがとう。