はてなキーワード: 性愛とは
子供が結婚もせんとプラプラしていて、とうとう結婚適齢期を過ぎ、もはや孫ができることが絶望的になった
同世代には続々孫ができ、楽しそうに過ごしている
自分たちにだけ孫がいない
子供で末代だ
惨めだ
こういう内容の投稿をみると、マジで気分爽快すぎて、本当に声が出てしまいますねえ!
めちゃくちゃ気味がいい
孫がいないことで惨めになるような思考回路をもつ生殖人間が、自分自身の生殖には成功した生粋の生殖人間が、自分ではどうしようもない理由で、巨大な挫折を味わっている
せっかく"遺伝子を遺した"(ホンマにわろてまう)のに、その貴重な、尊い、かけがえのない遺伝子が、そのまんま滅んでいくのを、じっくりと見守っている!!!
美しすぎるんだよなあ
どうして子供を作るの?
「自分が生きたって証をこの世に残したいから、かな(キリッ)」
おやおや?でも、お前の"生きた証"、どうやら1代で終わりっぽいのですが…w
石板にウンチって刻んでその辺に埋めた方がよっぽど後世まで残りそう〜w
マジで最高
俺は同性愛者が大好きで、なぜ好きかというと、彼らは基本的に生殖をしないからです
とにかく、生殖人間が同性愛者とか無性愛者の子供をもって、どこにも文句をつけられない形で断種されていくときの顔を見たい 見たくてたまらない
本当にお願いしますよ
これを書いている人間はLGBTの中でも、無性愛という、あまり他人に恋愛感情が抱けない人間です。
今日Twitterで話題になってる、偉い人たちの「道徳的にLGBTは認められない」「人間は生物学上、種の保存をしなければならず、LGBTはそれに背くもの」発言。
素直に「うわ、死のうかな。」と思った。憤りとか呆れとかでもなく。
LGBTの人間が全員そうなのかか分からないんだけど、少なからずとも自分の中でこれって普通じゃないな、おかしいなって思ってきたはずだし、一度は普通になろうとしてなれなかった人間だと思う。「生物としておかしいよ」って言われたら、何も返せない。親に孫を期待しているって話された、あの瞬間が一番きつかったりする。ふとした瞬間や他愛もない話で、追い詰められることがある。でも言わせてほしいんだけど、いつでも飛び降りれる崖に立っている私たちを、なぜこれ以上追い詰めるんだろう。これは道徳的に、認められているのか?
別にLGBT関係の法案が通ったとて、少子化は進むのだろうか。もし、明日同性婚が可決されたとして、今日まで異性が好きだった人間が同性を好きになるわけでもない。異性が好きな人はそのままで、同性が好きな人は大切な人と一緒にいられるようになる。それは、道徳的にダメなのか?LGBTについて声を上げてる人は、我儘でやってると思ってるのだろうか?国民の義務として、「教育」「納税」「勤労」に加えて「子の出産」とされているのか?
何故こんなことを酒を飲みながら半泣きで書いているんだろう。私だって両親に孫の顔を見せてあげたい、お世話になった人の笑顔が見れたらいい。信頼出来る人間と最期を共に出来たらどれだけ幸せだろう。でもそれが出来ない、その信頼できる人間は友人の枠を超えることはないから、子を生すことはない。
認められていないのは分かっている。おかしいのも、ちゃんと知っている。LGBTが認められたって、周りから奇異の目で見られるのは変わらないのだろう。ただ、少し楽に生きるために、少しだけ背中を押してもらいたいだけは、許されないのだろうか。
俺自身一介の弱者男性として最近の弱者男性議論を度々心痛めつつも興味深く追ってきたわけだが、以前として誰もタイトルの問題について言及していない様に思われたので俺が書くことにした。
まず前提としてここでいう弱者男性とは、
少なくともこの二点を兼ね備えた男性のことを想定している。つまり俺のことだな。
加えて言えば経済能力は恋愛能力に、恋愛能力は経済能力にそれぞれ程度の差こそあれ相互作用していると思われるので、この二点は弱者男性の弱者性の不可分な要素だと思っている。
で、こういう俺みたいな弱者男性が恋愛不能者から恋愛可能者にクラスアップするシチュエーションにおいては幾つかのイベントが想定されるわけだ。
例えば一部のブクマカが字面を見ただけで怒り狂うあてがえ論というハードなイベントから官製非モテ合コンみたいなソフトなイベントまで幅があるわけだが、ここで重要視したいのはあてがえ論にせよ官製非モテ合コンにせよ、
という事実なんだよね。
これってつまり自由恋愛市場で不人気だった為に売れ残った弱者男性の買い手(便宜的な表現)になる人間(主に女性)が想定されるわけだよね。
それって正直俺たちの買い手になる人間にとってはあまりメリットが見えない話じゃないか?というよりデメリットの方なら幾らでも発見できる。
弱者男性は経済能力が弱いから経済的甲斐性は期待できないし、性的魅力にも欠けるから日常のコミュニケーションから性的接触に至るまで幅広いレベルで癒し効果も期待できない。限りなく透明に近いデメリットだよ。
弱者男性が恋愛可能になるってことはつまりこういうデメリットを引き受ける甲斐性を発揮しなきゃいけない人たちが出てくるってことだと思うんだよね。
こういうことを書くと「自由恋愛市場で戦えるように弱者男性をチューンナップすればいいじゃないか」と指摘する人もいると思うが、SSTや”クロワッサンを参考にした丁寧な暮らし”を通じて弱者男性が恋愛可能になる様な甘い想定は現実の弱者男性にはまず適用できないと思うんだよね。
低年収で選択肢の少ない生活の只中にあって、意中のジェンダーからまるで見向きもされずひたすら自尊心が摩耗していく日常を送る弱者男性にそんな選択肢は適用できない。喉が渇きに渇いて今にも倒れそうな人に「数十キロ先にあるオアシス」を指し示したとしても彼らはそこまで辿り着くことはできないんだよ。
それに男女の非対称性も思い出してほしい。
男性は未婚、独身だと既婚男性に比べて著しく幸福度が下がる一方で、女性は未婚、独身でも既婚女性と幸福度はほとんど変わらないか、むしろ高まる傾向もある。
そして女性には男性に存在しない器官である子宮が存在することも忘れてはならない。
弱者男性がわが子を希求するケースではパートナーとなる女性の存在が不可欠となる一方で、女性においては精子バンクを用いた人口受精というオプションが存在するわけだ。
以上を勘案するだけでも、弱者男性に比して女性は「自由恋愛のあぶれ者同士で結婚するメリット」が極めて希薄であると言わざるを得ない。
そしてここまで書き連ねてきた内容を総合すると、
と言わざるを得ないのではないか、と俺は思うわけだ。
ただここまで書いてきておいてなんだが、俺の意見というのは詰まるところ「自由恋愛の敗北者に救いを与えるのは如何なものか」という、弱者男性の表明する意見としては余りにもマゾヒスティックなものであるわけで、正直キーボードを打鍵するそばからメンタルがどんどん悪化していくのを感じている。
正直俺だって恋愛してぇよ。25歳素人童貞でも恋愛してぇよ。でも、同時に25歳素人童貞と恋愛する相手が俺にはどうしても俺の恋愛願望による犠牲者に思えてならないんだよ。
だったら俺は滅びゆくべきなんじゃねぇかってセルフネグレクトしてしまう俺がいるんだよ。どうしたらこの自由恋愛市場で俺たち弱者男性が他者を幸福にしつつ自身もまた幸福になる恋愛ができるんだよ。
誰かお願いだから俺たちを救ってくれ。
自分は結婚エンド自体少年漫画テンプレそこままの終わり方でつまんねえな、まあルキアよりはマシかな(恋愛なしのバディに急に性愛混じるのキモいし)……と思ってたファンだけど、作中読んでて「織姫のことを特別に思っていた」っていうのは一度も感じたことなかったわ
高校時代はあくまで仲間全員横並び、強いて言えば若干ルキアと関わりが深いか(恋愛的な意味は一切なしで)程度で、あれって全部終わったあとに関係性作って結婚までいったんじゃないの?
作中で描写がないからこそ、バディ解散した後は一護もルキアもそれぞれの「性愛の相手という設定で作られたキャラ」ととりあえずくっつけて終わらせました、っていう
そういう設定だったから
まあこれ書いた人は一護と織姫が好きだからそう見たいんだろうけど、なんか全然そんなとこないとこまで根拠と思い込んでるんじゃね
まあルキアとくっつくよりは「設定通り」だからよかったんじゃない?「高校時代のバディ」として作られたルキアとくっついてしまうと「設定違い」になってしまうし
前の増田(anond:20210510205605)と読み比べていて、どうも女性は男性のように恋愛を主体化しないんだよね。
ところが女性にとって主観的な女性は自分だけで、感情移入すべき主体性が相手にあるんだよ。
だから主体である「貴男(あなた)」がそいつと向き合ってる彼女といたしてるのは我慢ならないと。
要するに古い言い方でひと穴主義というか。
補足できてないところとして、数は少ないだろうが腐女子かつ一妻多夫制的な性癖を持つ女の場合、男は使い捨てにならないのか? という疑問や、男同士が恋愛をしていることに嫉妬がわかない理由が不明など。
一妻多夫は置いておくとしても、これらと前増田と照らすと異性性愛から倒錯させて逃げてるようにしか見えないわけで。
いわば、「男性同士なら見守ってあげたらいいんじゃない」、という覗き込みたい助平心が、「そもそも私は女性だし」、というずるさに立脚しているように思えるわけ。
そしたら前増田がいったような空気だけで決めつけてゆくコミュニティとか、身勝手な同族がなぜ産まれるのかという外堀も推測ができてくるというか。
更に推論で踏み込むと、そもそも自分の中で関係性を変形させて、別のものにするの能力が適応力として備わってんのかなと思う。
これは本来与えるべき相手がいないところに仮想的な第三者を発行してそれに慰めてもらうという行為。
つまり女子特有の心理負荷軽減の代替機構なんじゃないかと思ってる。
主に少年漫画系を想定する話として、漫画やアニメのキャラが当然のようにヘテロセクシャルであるということを前提とするのはヘテロセクシズムであり、そのキャラがもしかしたら同性愛者かもしれないじゃないか、というのはわかる。
ただ現実的には性的指向が明かされるキャラなんてそうそういるわけでもない。彼氏彼女がいる、性欲があるキャラの描き方がされることもあるけど、そうでないことの方が多いくらいなんじゃないか。テクストだけを見るならば、むしろ多くのキャラが無性愛者だと考えたっていいくらいではある。
恋愛描写のないキャラに対して半ば強引に二次創作のヘテロものやBLや百合あるいは夢小説にするというのはセクシャリティの改変であり、厳に慎まなければならないことなのではないか。
先日、アセクシャルを矯正する薬を飲ませて恋愛をさせるという漫画がTwitterで炎上していた。これは別におかしなことではない。その人物、そのキャラクターのセクシャリティを尊重せず、無理矢理恋愛あるいは性行為をさせることなど以ての外だからだ。そのことは多くの人が批判点として共有していた。
しかし、そうであるならば二次創作として描かれる恋愛ものも同じなのではないか? そこに刃は向けられないのか。
別に例はなんでもいいが、カヲルくんとシンジくんでも、煉獄さんと炭治郎でも、五条悟と虎杖悠仁でも、その他無限のカップリングについても、そのキャラはゲイまたはレズビアンではないのではないか、場合によってはヘテロセクシャルですらないのではないか、という疑問は残る。メインキャラはともかくサブキャラになればなるほど恋愛描写なんてなくなるわけで、ヘテロセクシャルなのかどうかすら描写が皆無なんてのは珍しくもない。
もちろん、仮に性的指向であるからといって、相互の関係性を必要以上に縮ませる(はっきり言うと性行為をさせるエロ同人など)こともまたそれでいいのかどうかという問題もある。
ミスジェンダリングという言葉があって、トランスジェンダーやノンバイナリーに対して当人の自認するあり方とは違う性別で呼ぶことを批判する用語なのだけれど、それはゲイやレズビアンをヘテロセクシャルとして扱うことにも適用されるものではあると捉えている。このことは二次創作には適用されないのだろうか。
所謂ポリティカル・コレクトネスについて、私は重視しているのだが、そうであるが故に、それを推し進めていくと今まであった二次創作もまたどんどんキツくなっていく。インターネットにおいて二次創作・ファンアートは聖域に近く、その存在を認めない発言は極めて少数だ。二次創作が存在していいものとしてあることが明らかな既得権になっている。ポリティカル・コレクトネスを重視する人はしばしば批判対象の既得権(特権)を指摘するのだけれど、そういう人が、個別的なエロ同人などはともかく、二次創作そのものにまで批判を向けることは、意外に少ないようにも思う。フェミニストでありオタクでもある、というのは非常によくあることでもある。そのこと自体は別に問題ない、けれど、自分の持つ刃をどこまで適用するか、という問いはいつでも突き刺さったまま残るのではなかろうか。
今まで自明であったものがそれは抑圧だという批判に晒されるということはよくある。例えば所謂腐女子(この名称にも問題は多数あるわけだが割愛)の中での「ホモ」呼びもこの10年で漸減してきたとは感じるけれど、それと同じように、そもそもの前提としての性的指向の改変自体が好ましくないものなのではないか、という問いの声は、もう少し出てきてもいいとは思っている。
既得権者からは「二次創作は文化である」という反論が来るのだろうけれど、そんなのはセクハラは文化だと言っているに等しい、とさえ言うことができるのではなかろうか。既得権者はいつだってそれを自覚せず傲慢なままだ、というのはポリティカル・コレクトネスを重視する側ではよく聞く話でもある。
すぐに変わるとは思っていない。変化には長い年月がかかるだろう。ただ、自分の楽しんできたものは正しかったのかを問い直す作業は、どの分野でもあって欲しいとも思う。
金がないなら貧困は解決されるべきだ。福祉を頼れ→違う!非モテ問題を解決しろ!これだからリベラルは!フェミは!
モテる為にああしろこうしろ→そうできない弱者男性の気持ちを考えろ!クソバイス!
女を無理矢理あてがえってか?→そんな主張してるのは一部だ!弱者男性にレッテル貼るな差別だ!
モテないおばさんだっている→女は恋愛強者だ!男を選んでるんだ!一緒にするな!
これだもんな。
友松直之とかすももとか、一部の弱者男性論者は性被害より非モテ問題が重大事だとほざくし。
同性愛者が引き合いに出されるけど、同性愛者の非モテだっているからな。声を上げないだけで。
性愛の社会的な権利を認めろという話と、相手をくれって話は違うんだよ。
大体、金がない辛さとか腹が減る辛さは万人共通だがモテない辛さは違う。
モテなくてもそれを苦痛に思わない人は沢山いる。だから気の持ちようという話になりやすい。
女には理解不能なんだよ。女を憎み女叩きしながら女を求め、異性を得られないという「(自分達女が)個人的なことだと当たり前にみなしてきたこと」を重大な社会問題だと叫ぶ弱者男性の気持ちは。
性被害に苦しんだり、当たり前のように化粧や身だしなみを要求される女に対して、身だしなみも整えずに(要求したら差別だといわれる)女が欲しい女はクソだ苦しいと騒いでる一部弱者男性はなんて贅沢なんだろうと思うんだよ。
※近年まれに見る気持ち悪い内容です。読後の苦情は不可、まあ匿名だから全然いいけど
さて、BLEACHの話をしようと思う。
と言ったけれど、多分その言い方はあまり適切ではない。これはある意味わたしの一世一代の大失恋の話なのである。そう、タイトル通りです。もう2度とあんな恋はできないと思うなあ、ほんとに。
彼(BLEACHのことですが)との出会いは中学時代だった。当時仲良しだった先輩に貸してもらったことがきっかけで読むようになり、なんだこれ面白い、とめちゃくちゃはまった。
多分本誌はまだ尸魂界編の途中だったかな。とにかく藍染はまだ柔和な笑みを浮かべてるような頃だったと思う。や、死んでたくらいかな。あいつの演技はほんとアカデミー賞もらえるレベルだったよ。
それこそ中学生なので、周りの友達はその頃誰が好きだとか、あの2人は付き合ってるとか、そんな話でもちきりだった。
今みたいに大々的にオタクが人権を持つ時代ではなかったので、わたしはオタクであることをひた隠しにして生きる他なく、恋愛の話題にもちゃんと乗っかり、それらしく擬態してはいたけれど、本当はクラスのAさんBくんの甘酸っぱい恋愛なんかより、わたしはずっと一護とルキアのことを考えていたかったのだ。てか考えてたけど。
驚きの気持ち悪さだと自覚はあるけれど、事実なので仕方がない。あの頃のわたしは、なにより一護とルキアの行く末を思って胸をときめかせ、涙を流していた。
それこそ自分の恋で泣いたことより、2人のことを思って泣いたことの方が多いくらいだ。人生トータルしてもそうかも。だって当時の日記には、一護とルキアの未来を憂う病みポエムまであった。まじでやべえな、我ながら。
作品も、現世編、尸魂界編、ここまではもう最高に大好きだった。今でも一護が白哉を倒し、そこから怒涛のように藍染が天に立つところまでの流れは凄すぎると思っている。
尸魂界編の最後、ルキアが現世には一緒に帰らないと言った時だって悲しくはなかった。一護、いい表情してたから。はいはい、強がっちゃってねとは思ってましたけど。
そしてその後始まった破面編。いやそれだって最初は良かったのだ。あまりに強い敵に心を折られる一護。そこではい登場!俺の光。最高でしたね。
だけど、少しずつ雲行きが怪しくなっていった。
そして忘れもしない、第237話『goodbye,halcyon days.』
もう無理かもしれないぞ?と思った。なんぞこれ?ってなった。でも、まわりの男友達は複数名あのシーン好き!って言ってたから男からしたらいいのかもしんない。5回生まれ変わっても好きになられたいのかもしんない。まじかよ。わたしはどうせなら毎回違う男と結婚したいですけど。
ちなみにその男友達たちにはどうせおっぱいだろ!って理不尽にキレといた。情緒不安定かよ。こんなキチガイと友達でいてくれてありがとう。
ちなみにもはや言い訳になるけど、織姫のことだって最初から嫌いなわけじゃなかった。初期の彼女はすきだったよ、ほんとだよ。
いやわかってる、単純に一護のことがめちゃくちゃ好きなんだってことはわかってる。いい子……なんだとも思う……思いますよ……だけどもう鳴き声みたいに黒崎くん黒崎くんといいだしてからは、どうしてもこれは無理だ……!ってなった。
でもまあ、その後もしばらく読んだんだよね。一応最終章に入るまでは追っかけてた。でもやっぱりどうしても段々と作品自体を愛せなくなり、勝手な批判ばかりが頭に浮かぶようになった。その時もうわたしはこのコンテンツのお客さんではなくなったのだと感じた。
嫌なら見るな、まさにその言葉通りだ。だから読むのをやめた。それでも大好きだった気持ちは忘れられなくて、漫画を捨てることはまだその時はできなかった。好きだったところまで嫌いになる必要はないと思ったし、そんな簡単じゃなかったから。
そのままずっと、みないままでいた。封印してた。
だけど、何事もそうであるように、BLEACHにもやはり終わりはやってきて。いよいよ来週最終回だという噂を耳にした。さすがにどうなったんだろうと思って、ネットを検索した。あれは確か会社からの帰り道、多分木曜か金曜か。そこでわたしはいわゆるネタバレサイトが何かを元にしたんだろうネットニュースをみてしまった。
そこには一護と織姫が結婚して、恋次とルキアが結婚した、と書かれてた。信じない、信じないぞと思いながらも、多分震えてしまってたと思う。
そして来る月曜日。いやーぜーんぶ本当に本当でした。そうして想い出は、粉々に砕け散った訳だ。
ほらね?これは一世一代の失恋と言っていいのでは??自分の失恋なんてもはやほとんど覚えちゃいないのにね。
その後、捨てられないでいた既刊は全てBOOKOFFさんに売りに行きました。わたしはもういよいよ作品の読者として相応しくない存在となりましたので。元々なってたけど!
いやーーーでもさあなんでああなったかなあ?真咲と織姫が太陽として描写されていたから、こうなるのでは?っていう考察ブログもあったんだけどさ(いやそのブログはまじで凄いんだけど)
結局黒崎一護はお母さんを護りたかったあの日からなにも変わらなかったということでしょうか。井上織姫は母の代わりの太陽ですか?男の子は母親に似たひとを好きになる理論強すぎか??そりゃマザコン男による離婚騒動が永遠になくならないわけだよ。しかもなんだかんだ同じ世界に生きるもの同士でくっついちゃうんですか?お互いに背中を支える月のような彼女ではだめだったんですか?
うん、だめだったんだね。少なくとも、男女として生きる相手にはならなかったんだ。いやしかし、男女の辿り着くゴールが必ずしも性愛であるというのも逆に古いのか?もしかしてわたしの方が固定概念に囚われているのか?
でも最後に負け惜しみを言わせていただくと、わたしはやですけどね!!自分を護ってくれるけれど。そのために何度でも立ち上がってくれるけど!女として愛してくれるけど、家族になったけれど、それでも彼の後ろにはあの小さな背中が一生ちらつくなんて。
ふんだ。
あ、でもね!ただひとつ言っておくけれどBLEACHという作品は今でもすごいなあと思っている。めっちゃ面白い。
わたしはわたし特有のめちゃくちゃ気持ち悪い理由で読めなくなってしまったけれど、あのポエムといい、キャラデザといい、唯一無二にも程がある。
世界の多くの人よ、もしもまだ読んだことなかったら、そして暇だったなら、この何もできないGWにはぜひともBLEACHを読むといいと思う。
あの〜ところで白猫コラボやったら、唯一織姫だけがガチャで出たんですが?これは何かの嫌がらせでしょうか?しかも意外と使い勝手いいじゃねーか、育てちゃったよくそっ
まずは次の話を読んでもらいたい。
= = = = = =
若い頃に大学の図書館で、昭和の頃(ハッキリと記憶していないが、昭和40年代以前だと思う)に書かれた古い法医学文献を漁っていた時のことである。その文献が書かれた当時「変態性欲」と呼ばれていた、現在で言うところの「性的マイノリティ」に関する記述に突き当たったことがある。法医学文献の中で、ストレートの男女性愛行動に関しては特段の記述が無いのにも関わらず、わざわざ性的マイノリティについての記述を設けること自体、その著者が「性的マイノリティ=犯罪者予備軍」という偏見の持ち主であったことを示唆するものであるが、ひとまずそれは横に置く。その箇所では「同性愛」について、概ね次のような内容の説明がなされていた。
曰く「同性愛行為は、異性との性的関係を結ぶのが困難な環境(例:服役中の刑務所の中など)において『代償行為』として観察される」と。つまり、この著者は「人間が同性愛に走るのは、単に異性にモテない/なかったから」と考えていたと推察される。
= = = = = =
さて、上の話を読まれた貴方は、何と思っただろうか?「なるほど、同性愛行為は後天的なものなのだな」と納得しただろうか?
アメコミ原作の映画『X-MEN』の中では、登場人物の一人が「自分はミュータントである」と両親に告白する場面が有る。その場面で、両親は「でも、それ(=ミュータント)って治るんでしょ?」と言う。同作品の監督ブライアン・シンガーや、マグニートー役のイアン・マッケランなどは、現実に同性愛者である。同性愛者の人たちは「親兄弟にカミングアウトしたら『それ(=同性愛)は治せるんだろう?』と言われた」という実体験を持つ場合が少なくない。上記の場面描写は、そのような同性愛者のカミングアウト体験を反映していると言われている。
これまでに同性愛者を苦しめてきた、あるいは現在進行形で苦しめ続けている考え方の一つが「人間の性愛行動は『後天的』に決定される。したがって、仮に同性愛行為に走る人間でも『治療』することができる」というものである。アラン・チューリングが『治療』された話を知っている人もいることだろう。その結果は余りにも残酷であった。
貴方は「酷い考え方だ」と思っただろうか?私は「酷い」と思う。現在の日本社会で暮らしている人間で、且つ余程の馬鹿でない限りは、同性愛者に対して「同性愛を『治療』してストレートになれば、苦しまなくても済むのに」などという言葉を投げ掛ける人間や場面に出くわしたならば、十中八九「酷い考え方」だと思うことだろう。
では何故、仮にそれが「冗談」や「皮肉」だとしても「ハッテンのすすめ」「モテない男同士で性行為を行えばよい」などと言うことを座視するのだろうか?「ストレートに対しては『後天的に同性愛者になればいいのに』と言っても、それは暴言にならない」とでも言うのだろうか?たとえ「冗談」や「皮肉」であろうとも、このような事を言う/書く人間は、心の中に「同性愛なんて『後天的』なものだから、簡単に『治る』」という愚かな差別思想を抱いていることの裏返しであろうと私は推察している。
恥を知れと言いたい。
こういうことを書いたんだけど、どこが事実でどこが感情か分かりづらいだろうから解説するね。
まず、「こういう結論にしかならない」のは単なる事実。私がどんなに優しい言葉をかけたとしても、論理的帰結としては「現状の議論のまま進むなら、対人性愛はいずれ淘汰される」のは必然であって、私や非対人性愛者の感情が入り込むまでもなく、そうならざるを得ないだろう。
ただ、一般論として、「何のフォローもなく事実を指摘する」ことそれ自体には間違いなく政治性がある。その意味では、この議論において私の感情によるところも少なからずある。だからそこを少しでもフラットにするために、「対人性愛のセクシュアリティについて議論する方針も有り得るのではないか?」と提案している。これは一方的な善意であって、揶揄を目的としている訳でも何でもない。
荻野さんのツイートの趣旨はここまでだが、私はそこに「でもそういう優しさにすら反応無いじゃん」という恨み節を込めているので、そこは100%私の下らない感情。
対人性愛当事者の方々、非対人性愛当事者よりも遥かに大勢いらっしゃるのだから、「対人性愛そのものが内包する罪に目を向けつつも、対人性愛の自由と権利を守るためには、どうすればよいか?」という議題でたくさん議論すれば良いアイデアはいくらでも見つかると思うんだけど。
いつまで経ってもそれを始めないのは「それをしたくない」、つまり「我々はマジョリティなのだから、下手にマイノリティと議論を交わすよりも、今まで通りの特権を維持した方が都合がいい」と高を括っているんでしょ?
https://twitter.com/ogi_fuji_npo/status/1387758116045918208
「実害を差し引いても、対人性愛というセクシュアリティもまた守られなければならない領域がある」という議題を掲げるのであれば議論の余地はもちろんあるんだけど、対人性愛の特権性を自明視して、「我々は守られて当然」とばかりに他のセクシュアリティを断罪する議論ばかりが先行する限り、こういう結論にしかならんわな。
しかし我々非対人性愛者も鬼ではないので、以下のような提案も度々してきているのだが、
https://twitter.com/ogi_fuji_npo/status/1387780921621811202
こっちについての反応すらないのだから、まあ「そういうこと」なんじゃないですかね。