はてなキーワード: 性愛とは
先日Twitterで話題になっていた(と思う)、アセクシャル・アロマンティック(以下、Aセク・Aロマ)をテーマにした漫画を読んだ。現在は作者がアカウントに鍵をかけたため、見れないようだ。別にかの漫画を否定したい文章ではないので、これ以上の言及は避けるが。
先に言うが、私は当事者だ。漫画の登場人物と同じように、他者に性欲や恋愛感情を抱いたことは無い。恐らく、これからもないだろう。
作者は「Aセク・Aロマを知ってもらうため」とツイートしていた、気がする。なにせ、私は作者のフォロワーじゃないので確認ができない。
確かに「知ってもらう」ことは大事だ。実際、かの漫画を読んだことでAセク・Aロマというセクシャルマイノリティを知った人もいるのではないだろうか。
ここで私が言いたいことがある。「恋愛感情」が無いことは、異常なのだろうか。
異性愛者であろうが同性愛者であろうが、「性愛」があることが前提で、当たり前とされている。しかし世の中には、私のように「性愛」が分からない人がいる。それは、異常なのだろうか。
「それはモテない己を肯定するためでは?」「本当に好きな人に会ったことがないだけだよ」「恋はするものじゃなくて、落ちるものだ」「恋愛感情が無いなんて、冷たい人」
これは私が言われたことがある言葉だ。どれもこれも一理ある、のかもしれない。私にはよく分からないが。
恋愛感情や性愛がないと、「無感情」で「冷たい」人なのだろうか。私だって、無感情では無いので面白い話で笑うし、人情話で泣くのだが。それでも冷たいのだろうか。冷たい人、とはなんだろう。
実際、Aセクでも結婚した人や結婚願望がある人はいる。Aロマでも恋愛願望がある人もいる。おそらく、Aセク・Aロマだったが無事に恋愛感情を抱けた人もいるだろう。逆に、性愛がなくなる人もいるかもしれない。
なぜなら、セクシュアリティは線引きされるものではなく、グラデーションのように、移り代われるものだからだ。恐らく。少なくとも、私はそう考えている。
ここまで読んでくれた方は薄々感じていると思うが、結局私自身、セクシュアリティを完全に分かってはいない。もしかしたら本当に、「そういう人」に会ったことがないだけかもしれない。
しかし、Aセク・Aロマのような人がいることを知って、理解してくれる人がいても良いのではないだろうか。恋愛をしなければ死ぬなら話は別かもしれないが、実際私は恋愛をしなくても生きている。それでいいのではないだろうか。それでも、異常だと思われるのだろうか。
かの漫画に衝撃と悲しさを覚えた私は、両親にAセク・Aロマであることを相談した。「そういう人に会ったことがないだけだよ」と言われた。
そうなのかもしれない。が、胸のモヤモヤは晴れない。なので私はこうして、キーボードにモヤモヤを叩きつけている。考えが纏まったわけでもないのに。
そもそもセクシュアリティに悩んでいない人間は、己の性について疑問に思わないのかもしれない。こうしてグダグダ悩んでいる時点で私はセクシャルマイノリティであるのかもしれない。
弱者男性論が多少は盛り上がってきたけど、「これは女をくれという意味ではなくて」というのを何重にも重ねないといけなくなってんの、ダメでしょ。
弱者男性側に肩入れするブクマカも、HN出してコメントする奴は大体「女をあてがえなんて思ってるやつはほとんどいないだろ、だから弱者男性論はあてがえ論だと黙らせるのは不当」みたいな言い方ばかりになってるの、ちょっと待てい、って感じよ。
何がダメかわかる?
女と愛し合いたい、イチャつきたい、生活を共にしたい、そうじゃないと辛くて仕方ないという飢えを抱え、それが満たされないことで病んでいく男が存在しないことにされるからだよ。
そりゃあ、そういうやつらはいない事にした方が多少は意見の見栄えがよくなって議論で有利になるだろうけど、長期的にやばいっすよ。
フェミニストが議論に勝つために「立派なフェミニストとしての生き方考え方」ばかりを強調してきたら、実際の女たちの多くがついていけなくなって、しゃーないからバッドフェミニストでもアリと言い出したけど効果が微妙という、あれの二の舞になるのが目に見えてる。
恋愛と性愛と生活のパートナーがぶっちゃけ精神の安定に不可欠だというのが本音の、立派でない弱者男性の存在をないことにするな! 叩いて黙らせるな! それは弱者を言論上でも抹殺することだ。
このような話をすると、そもそも男は女がいないと幸福感を得られないと言うのが思い込みで、社会的な恋愛至上主義の刷り込みでしかない、なんて言いたくなる人間は多いだろう。
そして、ロマンチックラブイデオロギーという近代になって成立したにすぎない感覚から脱出すれば楽になるのだ、と。
でも、それってホントなのかな。
現代基準で、恋愛や結婚なしの人が多くて、健康で幸福で持続可能な人生が実現できてる社会って、すくなくない?
昔は簡単に人が死んでたから、ロマンチック不足による孤独な死が沢山あっててもあんまり目立たなかっただけだったりしないか。
「昔の人は粗食で普通だった」とか言うけど実際は平均寿命クソ短くて、現代基準の「健康で文化的な最低限度の生活」のためには粗食じゃなく十分な食事じゃなきゃダメでした、みたいなのと近かったりとかさ。
まあ、これはただの思いつき。
「恋愛性愛パートナー抜きでは、現代社会で男は心が満たされないのだ!」と主張する科学的根拠は、俺にはない。
だが「パートナー抜きでも幸福!」と主張する科学的根拠もない。個別でそういう人間の例はあるが、大多数の男に当てはまるかは別の話だ。
だからとりあえず、「女と仲良くしたい!苦しい!」という感覚を、女の人権を侵害するからと言って即黙らせるようなことはせず、堂々と表現させて、それを専門家なり学者なりが丁寧に聞き取り分析し議論をして、その感覚の理由と、飢えの満たし方を開発すべきだろ、ってこと。
現時点では、「お前らの飢えと不幸は、女でなくても満たされます」と言い放たれる意見は、俺の知る限り、現代社会と人間心理の分析が不十分で、自己啓発精神論みたいなものにしかなってない。
「要は性欲と会話欲と承認欲と金だろ」なんてクッソ雑な切り分け方しかしないから、風俗と友人と仕事と福祉で満足でしょ、とかの乱暴で役に立たない結論になるんだ。
https://anond.hatelabo.jp/20210407023455
↑の増田みたいにな。
「そんなに異性を必要とするのが理解できない」と思うんだったら、理解できないからこそ丁寧に紐解くべきだ。
何か未知の理由により本当に必要不可欠なのかもしれないし、なんらかの代替物でカバー可能なのかもしれない。
丁寧に研究された上でなら、どっちが判明しても世の中の幸福に繋がるだろう。
だが今みたいに雑に「風俗と友人と仕事と金ねハイハイ!」と片づけてるんじゃ、誰も救われない。
現に存在する人間心理を、雑に解釈してズレた解決策を提示するな。社会運動全般に言える事だ。
こんな文章ですら、匿名でなきゃ怖くて書けない程度には、「なんだかんだ言って女と愛し合えなきゃ辛い」という欲望は悪とされて抹殺されかけている。
「俺個人は、女でしか満たされないとは感じないし、女はいらない」って話すならいいけど、「女でしか満たされないと感じる奴はいない、いたとしてもそいつらは自分の欲求を勘違いしてるに違いない」という話にはするな。
道徳的に揉めそうな欲望だからって、抹殺して世の中に存在しないことにはするな。
(悪いとは言わないが)エグい欲望の存在を認め、それを告白することもできる世の中でなければ、対処や救済の方法を考えることができない。
実は俺自身も、かつて弱者男性論の記事を書いた時に、「あてがえ論だなどと批判がくるだろうがそれはズレてる」みたいな主張をしたのだが、今では反省している。
その時の記事は確かに、女と恋愛させてくれという主旨でなかったかもしれないが、女とイチャつきたいという欲求は悪であり僕の記事はそういう悪しき欲求と別物だから読む価値ありますよ、みたいな浅ましい意図があったのは事実だ。
社会問題の多くは人権と人権の衝突であり、議論によって双方の人権をどの程度侵害しあうかという落としどころを見つけることが必要だ。
大体の社会政策は、広くとらえれば○○の権利を削って××にあてがえって内容だと解釈できるし、それでよいのだ。
だから、弱者男性論だって、貧困対策だって、介護だって、広義のあてがえ論になることを恐れてはいけないし、聞く側はそれを非難すべきではない。
広義のあてがえ論だからと内容を熟考せず否定するようでは、税金は財産権の侵害であり、再分配は金をあてがえ論だから廃止しろ、という風になってしまうからな。
要介護者なんだといわれたらそうなのかもしれないけどそうするとヘルパー的な女性が訪問しておしゃべりする介護とかを想定するのか?
介護ってのは実際は賃金以上のサービスを要求されてる面もあると思うけど、建前としては身の回りの介助をするだけで、感情労働を求められているわけではない(だから人権侵害ではない)と思う。
でも、「女性とコミュニケーションしたい、優しくされて寂しさを満たされたい、満たされない恋愛の欲望に代わる擬似恋愛を得たい」ってのはどストレートに性別を限定した感情労働で、さすがにそれを公助として、金銭を対価に誰かの感情を要求するのはなんかさすがに超えてはいけない一線じゃないかって気がする。
とはいえ、老人ホームに中学生をボランティアとして派遣して交流させるとか、児童保護施設で親のように愛情を注ぐとかの感情労働は許容されてる気もするので、やっぱり恋愛とか男女の性愛の自由意志みたいなものだけに関してはお上が強要することに抵抗があるのかもしれん。なぜならば求められているものが女性であることという性別に関わるもので性差別に容易に結びつくからかな。
これが、「老若男女とわず誰かに優しくされたいので派遣してください」ならわりと通りそうな気がするが、「好ましく自分が求めるような女性でよろしく」とすると一気にアウトな気がする
他者を外部から「インセル」と認定することはナンセンスであると考える、と最初に書いておく(そもそも誰かの独身性がvoluntaryなのかinvoluntaryなのか、当事者以外には判断できるまい)。
これはインセルフォーラムに入り浸ったある一定の期間から得た知見の共有である。
インセルフォーラムでは、一般的な欧米社会での名前とそれにまつわるイメージからいわゆる「強者(白人)男性」はChadやTyroneと呼ばれ、一方女性はほぼ純粋に見た目によって分けられ、最も上位がStacy、いわゆる平均以上〜平均がBeckyと呼ばれることが多いようだ。人種による表記揺れなどは数多くあるが今回は割愛する。
フォーラム利用者の多くは「すべての女性は、彼女自信の見た目に関わらず、現実的な恋愛相手を見つけるよりもほんの一握りしかいないChadやTyroneと寝たがっており、また女性の性的解放やインターネット・デーティングの発達がそれを可能にしている。仮に今ChadやTyroneではない男性と付き合っている女性がいてもそれは金目当て(betabuxなどと呼称される)等の理由であり、彼女らもまたチャンスがあれば迷わずChadらと寝ることを選ぶ。現代社会において自分たちには結局チャンスはないのだ」と信じ、主張している。
彼らがこう語る時、彼らはChadを憎まない。IncelからChadへ注がれる視線はむしろ尊敬や連帯に近い。嫉妬ですらないことも多々ある。女性がChadと寝たがるのは、Chadが悪いわけじゃない。Chadが多数の女性と寝るのも、Chadが悪いわけじゃない。全ては身の程を弁えず、Chadらと寝たがる女が、そしてそれを許すべく変化してきた社会が悪いのだ。
彼らはlooksmatchという言葉も用いる。訳せば「自分と同程度の容姿レベルの異性」といったところで、一昔前であれば自分たち(インセル)にも同程度の見た目の異性=looksmatchが最終的にはあてがわれ、結婚し家庭を築けていた、「普通に幸せ」になれていたはずだ、しかし自由恋愛・社会の変化・フェミニズム等々がこれを崩した、というわけだ。
これは非常に面白いポイントで、彼らの多くは「自分は女とは違い、なにも絶対にStacyと付き合いたいわけじゃない、誰でもいいから誰かに愛されたいだけだ」と主張する。一方で、彼らの語る恋愛はカップル成立で終わることが非常に多い。「めでたしめでたし」的な、「そして二人は末長く幸せに暮らしました」調のイメージを彼らの多くが抱いていることが観測できるのである。月並みな言葉で言えば「恋に恋する」と言ったところなのだが、この非常にセンチメンタルながら切実な「愛されたい」という願いと、その内容物として見て取れる「異性として肯定されたい、性的に欲求されたい」という直球の願いを彼らが裏表として(意識的にせよ無意識的にせよ)使い分けていること、これがとても興味深いのだ。
彼らの「性的に欲求されたい」の奥にあるのは、「性的に欲求されている自分を見て欲しい」なのではないだろうか。だから誰でもいいのだ。恋愛における「相手は誰でもいい」は現実的には美徳でもなんでもないのだが、彼らにとっては真にどうでもいい。惚れた相手に愛されたいわけではなく、誰かに愛される自分を見ている誰か(理想を言えばやはりChadだろう)による尊敬・承認の獲得によって自分を愛せるようになりたい、というのが「誰かに愛されたいだけ」という主張の正体だからだ。だから彼らは、自分は異性に愛されないと苦悶しながらも、女性はすべからく浅く表面的で、そんなものをパートナーとして獲得することに意義を見いだせない、とも毒づくのである。この二つは彼らの中で矛盾しない。
インセルは自分を愛したいのではないか。もちろん、自分を愛したくない人などいるのか?という話にはなるが、彼らの多くは性愛を介さない形のセルフケア、及び自己愛に非常に懐疑的・嘲笑的である。彼らにとって自己愛とは異性からの性的関心の獲得によってのみ得られるものであり、自己愛とは人間に必須のものなのだから、「女をあてがえ」、となっているのではないか。
だから彼らが正しいとか、だから彼らに女をあてがうべきだというのではない。インセルフォーラムの主張の多くは誇張され、歪み、仲間内でのノリが膨れ上がった醜悪なものであり、あなたがもし覗いてみようと思っているならお勧めはしない。ヘドが出るからである。
男児も含めて用語としては「児童性愛」だっけ? そうした考えを持つことそれ自体が悪だと見なす人がいる。
実際、Twitterでそうした主張の人と少しだけ意見交換して、「いくらなんでも内心は自由でしょ?」と言ったところで全く聞き入れてもらえなかった。
確か、幼女ドールで炎上していた頃だったかと思うけど、幼女ドールは児童性愛趣味自体を認めてしまうことに繋がるからダメなんだってさ。
でも無茶言うな、だとしか思えなかった。
私は特になんの変哲もないような大人の男性で、ロリ趣味はなく、どう説明すればいいのかわからないが、一般的なAV的なところを好む程度の性的指向があるだけだった。
だから、例えばまだまだ未熟な小中学生を見たところで、特になんとも思わない人間だ。……と割とずっと思っていた。
この冬、田舎に帰ったんだ。
この田舎には、地元では有名な温水プールがあり、冬でも楽しめる。
あんまり行かなかったんだけど、そこは大浴場もあり、ちょっとしたサウナもあって、それも目当てで半日くらいゆっくり過ごそうかとプールにも入ったわけよ。
その中に一人、ど偉い美少女がいたわけよ。
個人的には、かの国民的美少女コンテストの全国大会最終選考レベルだと思った。
歳の頃はどうやら小学六年生のようだった。その子が友達となんかそんな話をしていたのが聞こえたからわかった。
そこそこ広めの温水・室内プールに十数名程度しかいないんだから、どうしたってその少女に視線がいってしまう。
私は、田舎に来ていた親戚の子供を連れてプールに来ていたんだけど、親戚の子供なんか半ばほったらかし。
で、その少女が割と目の前のプールサイドに来て、ワンピースの水着の肩紐?を、その手でちょっと直すような感じで触れた時に、一瞬だけど胸が見えてしまったわけ。
勃起するな、なんて無理だった。
プールサイドの椅子に座っていた私は、慌てて近くの子供用プールの中に逃げ込んで、下半身を隠すようにして座るしかなかった。
その直後だったかと思うけど、ほんの一瞬だけその美少女と視線が合った。
彼女が私のえっちな視線に気づいたのかどうかは知らないが、それ以降は遠くの方へ離れていってしまったし、勃起してしまった私は恥ずかし過ぎて、もはやその美少女を見ることは出来なかった。
田舎から帰ってもしばらくはあの一瞬がどうしても記憶から呼び起こされてしまい、勃起こそ我慢できたものの、股間に熱いものを感じざるを得ない日々が数日続いた。
それくらい衝撃的だったんだと思う。
しかもそれ以来、街中で可愛めの小学生高学年くらいの女子を見かけてしまうと、どうしても意識がそっちにいってしまうようになった。
エロい想像まではしないように、別のことを考えるように努力はしているけど、一度そうなってしまうとこれがなかなか・・・。
「LGBT差別を辞めてもスカトロ趣味は差別するんだから、LGBTもスカトロも平等に差別すればいい」と言うのは、シスヘテロモノガミーのようなセクシュアルマジョリティの特権性を自明視し過ぎていて何の皮肉にもなっていないのだけど、頭の悪い人が皮肉を言おうとするとこうなってしまうのだろうな。
「萌えオタ差別を辞めてもBL趣味は差別するんだから、萌えもBLも平等に差別すればいい」と言うのは、対人性愛のようなセクシュアルマジョリティの特権性を自明視し過ぎていて何の皮肉にもなっていないのだけど、頭の悪い人が皮肉を言おうとするとこうなってしまうのだろうな。
「シスヘテロもLGBTと同じくらい差別しようぜ」とか、「結婚や恋愛やセックスも二次エロと同じくらい規制しようぜ」とかなら皮肉にもなると思うんだけどね。