はてなキーワード: 因果とは
散々に語られ尽くしていたように思ってたけど、まだまだ似たような議論が絶えない雰囲気なので、論点整理をしてみたいと思って失敗しました。
ちなみに私は左翼とか右翼とかよくわかんないので特に意見はないです。自由研究みたいなものと思ってください。
まず、今回の意見を分割するとそれぞれの極がきれいに分割できる。
もちろん両方とも極端な例であるし、時には「そもそもテロに該当するものではない」とか「救済されるべき被害は存在しない」とかいった意見もあり得るので、あくまで捨象された極であることは見ての通り。
ここでAとBの意見において、一般に(あくまで自分の私的な視界の範疇ですが)前文については一般に肯定されており、後文においては一般に否定されている。これはおそらく、世間の道徳的直観と一致しているように思う。しかし、その因果(?)関係からは、お互いの前文を肯定することは、相手の前文を否定せざるを得ない側面がある。
(ツイッターやはてブもそうだが、短文でのコミュニケーションでは得てして後文に触れず正しい前文だけで意見を発表できるので、どこまでも正しいままそれ以上の踏み込みをする必要がないのは、脱構築的な気がする。デリダエアプだけど)
特にA→Bの観点からは、被害者救済という観点を取り上げることは、加害者の要求を満たしたという点で、テロリズムを許容することと見なされるものとして反駁されている。
今回このあたりがすごい揉めているように見えたので、一回この論点を詰めてみたい。
まず、テロリズムの要求を肯定することが、テロリズムを有効な手段として世間に認知させることとなる、という点については特段の疑義のないところと考えるので、問題は「テロリズムという不正な手段で、被害者救済という公正な対応を求める」というところにあるように思う(厳密には暗殺事件が被害者救済を求めていたのかとかそういうのは置いておく。世間での認識によって議論を継続する)。
こういうときは、一旦他の例から問題を比較して考えてみたいが、公正な手段で公正な対応を求めるとか、不正な手段で不正な対応を求めるなんてのはもう特に言及する意味もないので、今回は「公正な手段で不正な対応を用いる」ケースというのが何があるかを考えてみたい。
今回は自分の趣味の範囲から引っ張り出すことになるので、不適切な側面があることは否めないが、端的に言えば「ナチス法」の問題が散々に語り尽くされた例として挙げやすい。戦後において「法とは何か」を法実証主義に散々に突きつけ続けた大問題であり、これでもかと議論され続けたから。
例えば、「悪法もまた法なり」としてナチス法に従い、敗戦後には当然罰されることとなったが、裁判例(密告者事件判決とか)からは結構特殊な意見が出た。
例えばラートブルフが「制定法による不法」を克服するために「制定法を超えた法」なんてものを提示することになったり、フラーが法には8つの道徳的原理を含める必要があるといったりといった具合に。
そもそも公正な手段というものは単に物理的法律によって規定されるラインを上回る、なんて言い方をすると、おそらく過言であって適切な読解に基づくものではないと思うが、そういう考え方もあるだろう。テロリズムを許容する、という片方の極の意見には、そうしたものもあるかもしれない。というか革命ってそういうのじゃないの?
もちろん、(新)自然法的な考え方が現行において主要な説ではないことなどもあるが、まあいいや。これ以上進みそうにないから別の話をしよう。
一般に、不正な手段によって被害が生じた者を救済するというのは国家の責務の一つと言って良いと思う(少なくとも被害を防ぐ必要があるということについてくらいは、リバタリアニズムのレベルでも肯定されるように思う)。
その一種の根幹的利益とも呼ぶべき法益の侵害について、それがテロリズムによって判明した場合、その法益侵害に対して触れるべきではない、ということは、なぜ必要となるのか?
まぁ、それは単純で今回のような「不正な手段」によって与えられた課題が「不正な対応」ではなく、「公正な対応(と一般に受け取られているように見える)」であったからだろう。でも、これは実は順序が少しだけおかしい。テロリズムという「不正な手段」で与えられる課題というのは、因果としては常に「不正な対応」になるのではないか? 今までの議論は大概がそこをスルーできてきた(もちろんきちんと対処述べてきたものもあり、その上で議論を重ねている者もいるように見える)、今回の議論はそこが他の価値とバッティングしてしまって、バグが起きているせいで余計にこんがらがっている。
逆に、敢えて今までの議論を全てごちゃまぜにしてしまうなら、おそらく世間一般の意見というのは、先程のA、Bにおける前者を肯定しながらも、双方の後者を否定するというロジックになる。無論、それは矛盾を必然的に孕んでいるが、おそらくそれが一番良く見る意見だった。
まず単純に、道徳的直観から。目的として、双方前文が正しいという直観から、双方を推進すべきであるという素朴な意見。当然ながら前文を進めれば後文を毀損する。それを、時には毀損したままであれ、進めるべきであるということ。所詮理屈なんてものは道徳的直観による結論を推し進めるための道具なんだからと。開き直りと言ってもいい。とはいえこれは、単に世間が「正しい」と「わかってる」ことをを推し進めたいという素朴な意見の衝突による勢いだけの(あるいはリベラルな恣意的妥協による)ものであって、問題解決につながるかは知らない。つまるところ、結論が先にあって、理由があとにあるんだから(クリーレの視線の往復的な、あるいはダンカンケネディの「基準」による法執行的な?)。
まあいいや。
全く関係ない個人的な意見なんだけど、何で他人の意見を否定する時に人格否定をすべきでないってみんな言ってるのにみんな人格否定してるの? やっぱ何か効果があるの?
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20230415/k10014039411000.html
まぁ、そうなるな
自民党の悪政と岸田の不徳が招いた事件かね。歴史は「悪政・銃声・乱世」と韻を踏む(児玉誉士夫)。悪政がある限り、暴力を批判しても無意味。両者はセットだから。
暴力否定する人らは明治維新とそこから始まる近代日本も否定しろよ?武力で政権倒して、さらに150年経っても薩長とくに長州山口県(安倍、岸など)の奴らが国を牛耳ってるんだぞ?結局暴力だけが世界を変えられるんだよ
やるね
むしろこれが普通。今まで首相が安穏としていれるのがおかしかっただけ。政治家なのであれば命を狙われるぐらいで当然だとしか思わない。もちろん暴力は許容しない。当たり前なので特別山上のせいにする必要性はない
盛り上がってまいりました
チッ
殺されたくなければまともに政治すればいいだけの話
いや国賊安倍が死んだことで統一教会含めこれだけの悪事が表に出たことは確実だから俺は撤回しないね。お前ら如きがウダウダ言おうが影響あったことは明らかじゃん。ジャニの件だってそう。今回はまた別の話だ。
「官僚は無能」などと吐いて憚らない、非常に勇敢で勇気のある人物は、Twitterでも見た気がする。
彼らの姿勢には、感嘆せざるを得ない。
国家公務員I種の採用者数約500名は、半数が東京大学と京都大学で占められている。
学歴という観点で、彼らよりも優れている人物は、ごく限られる(本稿においては学士修士博士の基準は置いておく。)。
学歴即ち優秀さ、とは思わない。
しかし、仕事の巧拙と学歴競争の勝敗に、直観的な相関を見いだすことは、そこまで特異な見方でもないだろう。
頑健な因果ではないだろう。相関から離れている者もいるだろう。500人の採用となればなおのこと、含まれている可能性も僅少ではない。
それでも、大数の法則により収束する彼らの平均的能力は、他の凡百の組織よりもはるかに高いはずだ。
不思議だ。
しかし、一般的な確率論からして、彼らのほうが優れている要素や可能性を見いだすほうが、珍しいパターンだろう。
官僚はかなりの高学歴集団だ。そんな彼ら「でさえ」できないのだ。
彼らより優れた意見や成果を出せると思える人たち、その自信や勇気は、確かな源泉があるのだろうか。
ない可能性が、圧倒的に高いわけだが。
普段みなさま、因果関係と相関関係は違うとか、賢しらに仰られてるけど気になったので。
一斉休校して、マスク励行している我が国の指数増大率が低いのはデータに現れた事実。しかし日本全体で見てこの1月近く指数増大中であることもデータに現れた事実。つまりマスク励行、子供達の休校だけで爆発的感染(ねずみ算式、幾何級数的増大=指数増大を指して使用してます)を避けられていない。
ただ、恐らく生物は相関=因果とみなして繁栄してきた。科学的分析を行い、得られた結果を元に論理的に行動をとる余裕が無い場合、相関=因果とみなして行動するのは良いことと思う。なのでマスク励行、子供達の休校は続けるべき。
とはいえAと言う行動をとった結果Bという自称(マックバカなのでincidentが変換できない)が生じたからといってAが証明された、なんてそれだけで口が裂けても言って欲しくない。
そして、マスクしてよかった、からと言って本格的に病が蔓延してきたあとでもただマスクするだけでいい、という安心感が怖い。もちろん「悲惨」な国だって罹患率みれば大したことないかも知れないが、一定以上の罹患率になったらマスクなんてウイルス凝集体みたいなもの、それをほいほい手で触ったり、退屈した子供達を家に呼び合ったりしたら今度は今までの「成功策」転じて感染増大を手助けする道具になっちまう。今から気をつけてほしい。(実はみんなとっくに気をつけて、ついつい変な使い方するの私だけなら取り越し苦労)
普段みなさま、因果関係と相関関係は違うとか、賢しらに仰られてるけど気になったので。
一斉休校して、マスク励行している我が国の指数増大率が低いのはデータに現れた事実。しかし日本全体で見てこの1月近く指数増大中であることもデータに現れた事実。つまりマスク励行、子供達の休校だけで爆発的感染(ねずみ算式、幾何級数的増大=指数増大を指して使用してます)を避けられていない。
ただ、恐らく生物は相関=因果とみなして繁栄してきた。科学的分析を行い、得られた結果を元に論理的に行動をとる余裕が無い場合、相関=因果とみなして行動するのは良いことと思う。なのでマスク励行、子供達の休校は続けるべき。
とはいえAと言う行動をとった結果Bという自称(マックバカなのでincidentが変換できない)が生じたからといってAが証明された、なんてそれだけで口が裂けても言って欲しくない。
そして、マスクしてよかった、からと言って本格的に病が蔓延してきたあとでもただマスクするだけでいい、という安心感が怖い。もちろん「悲惨」な国だって罹患率みれば大したことないかも知れないが、一定以上の罹患率になったらマスクなんてウイルス凝集体みたいなもの、それをほいほい手で触ったり、退屈した子供達を家に呼び合ったりしたら今度は今までの「成功策」転じて感染増大を手助けする道具になっちまう。今から気をつけてほしい。(実はみんなとっくに気をつけて、ついつい変な使い方するの私だけなら取り越し苦労)
普段みなさま、因果関係と相関関係は違うとか、賢しらに仰られてるけど気になったので。
一斉休校して、マスク励行している我が国の指数増大率が低いのはデータに現れた事実。しかし日本全体で見てこの1月近く指数増大中であることもデータに現れた事実。つまりマスク励行、子供達の休校だけで爆発的感染(ねずみ算式、幾何級数的増大=指数増大を指して使用してます)を避けられていない。
ただ、恐らく生物は相関=因果とみなして繁栄してきた。科学的分析を行い、得られた結果を元に論理的に行動をとる余裕が無い場合、相関=因果とみなして行動するのは良いことと思う。なのでマスク励行、子供達の休校は続けるべき。
とはいえAと言う行動をとった結果Bという自称(マックバカなのでincidentが変換できない)が生じたからといってAが証明された、なんてそれだけで口が裂けても言って欲しくない。
そして、マスクしてよかった、からと言って本格的に病が蔓延してきたあとでもただマスクするだけでいい、という安心感が怖い。もちろん「悲惨」な国だって罹患率みれば大したことないかも知れないが、一定以上の罹患率になったらマスクなんてウイルス凝集体みたいなもの、それをほいほい手で触ったり、退屈した子供達を家に呼び合ったりしたら今度は今までの「成功策」転じて感染増大を手助けする道具になっちまう。今から気をつけてほしい。(実はみんなとっくに気をつけて、ついつい変な使い方するの私だけなら取り越し苦労)
普段みなさま、因果関係と相関関係は違うとか、賢しらに仰られてるけど気になったので。
一斉休校して、マスク励行している我が国の指数増大率が低いのはデータに現れた事実。しかし日本全体で見てこの1月近く指数増大中であることもデータに現れた事実。つまりマスク励行、子供達の休校だけで爆発的感染(ねずみ算式、幾何級数的増大=指数増大を指して使用してます)を避けられていない。
ただ、恐らく生物は相関=因果とみなして繁栄してきた。科学的分析を行い、得られた結果を元に論理的に行動をとる余裕が無い場合、相関=因果とみなして行動するのは良いことと思う。なのでマスク励行、子供達の休校は続けるべき。
とはいえAと言う行動をとった結果Bという自称(マックバカなのでincidentが変換できない)が生じたからといってAが証明された、なんてそれだけで口が裂けても言って欲しくない。
そして、マスクしてよかった、からと言って本格的に病が蔓延してきたあとでもただマスクするだけでいい、という安心感が怖い。もちろん「悲惨」な国だって罹患率みれば大したことないかも知れないが、一定以上の罹患率になったらマスクなんてウイルス凝集体みたいなもの、それをほいほい手で触ったり、退屈した子供達を家に呼び合ったりしたら今度は今までの「成功策」転じて感染増大を手助けする道具になっちまう。今から気をつけてほしい。(実はみんなとっくに気をつけて、ついつい変な使い方するの私だけなら取り越し苦労)
https://anond.hatelabo.jp/20230407210512 これの追記。
書いたつもりがスポッと抜けていた「財産分与」について。あと「関係を良好にできない親の場合は…」についても少々。
ブコメにあった『財産が無い人ほど相続大戦争が勃発する』というのは、よく言われてる話なんだけど、因果をちょっと勘違いしていて、半分ぐらいしか合っていない。
自宅ぐらいしか財産が無い家で揉めたら、生きてる家族の人生にそこそこ大きな影響があるような相続大戦争になることもあるが、財産がたいしてなかろうが、家族仲・兄弟仲がいい、または家族がそれなりに常識的で合理的なご家庭の場合は揉めることはない。
揉める根本原因は「大した財産がないから」ではなく、家族兄弟間の仲が良くなかったり、家族兄弟の誰かがそれぞれの家庭に何らかの問題があって合理的判断ができなくなっているという点だ。
増田なので言葉を選ばずに言うが、お金があってもなくても、人間関係が悪いか、もしくは頭が悪いかの場合は、たいてい揉める。ただし、その先はリアリズムで、家族間で揉めてもお金があれば最終的には日常生活におけるクリティカルな悪影響は受けにくい。しかしお金がないとそうじゃない…(財産分与で揉めて調停になって時間とカネがかかって結果もらえた財産は雀の涙、みたいな)。
ただまぁお金持ちだって金銭・日常生活面での影響が相対的に小さいだけであって、「家族の仲が悪い」とか「相続で揉めて親兄弟と断絶」とかはお金で換算できないタイプの影響はあるよね。
話は戻るが、平成以降の貧富拡大社会では「親に金がある=子もある程度は余裕がある」そして「親に金がない=子供も結構カツカツ」だから、「貧乏人ほど相続で揉める」みたいな一見論理が通っていそうな俗説をつい言いたくなる。だがそれは論理が少し飛躍していている。カツカツの生活をしていると心の余裕がなくなりがちで、親子兄弟含め人間関係が薄く悪化しがちで、親が死んだタイミングで色んな物が噴き出しがち、なのだ。
本来の因果関係は、「親子ともに金がない」→「家族全員がカツカツ」→「それぞれの家庭に若干問題が(住宅ローン返済が大変とか諸々)」→「あわよくば」という悪い心→「醜い争い」という順番である。
兄「親父が死んだ後の自宅を売ろう」
妹「何言ってんのお母さんが住む家がなくなるでしょう」
兄「おふくろは一人になるんだからお前が引き取って面倒見ればいいだろう。母さんもそれが安心だよな?」
母「そうね…でも…」
妹「何言ってんの夫がいい顔するわけない。そもそもお兄ちゃん何でそんなお金が必要なの」
母(…無言)
兄「ローンとか教育費とか大変なんだよ…」
とか?こういう想像上の橋田寿賀子ドラマのような戦争はめったにない。まぁごくたまには見かけるけど…その場合は相続関係なく「もともと家族の仲が相当悪く&全員が相当金に困ってる」場合だと思う。多くの場合はどちらかの条件が満たされないので、例えば、家族仲が悪いけど、比較的羽振りの良い兄弟が面倒にかかわたくないからと引くんだよね…。
要するに、何が言いたいかと言えば、つまり、お金があまりない自覚があるなら、何よりもまず親兄弟との関係を良好にしておくことが大事。
そして、人間色々あるからね、仲良くするのは難しい場合でも、「親の財産と生活」に関することをできるだけ透明化する努力はしてもいい(本当に険悪な場合は放っておいても全然いいとも思う。後述)
実はこの「親の財産と生活の透明化」が、要するにエンディングノートの一番大きな役割。
またしてもリアリズムな話だが、親が死ぬ前に自分たちにいくらぐらい金が残りそうなのかを透明化できていれば、お金がない家なら邪な期待を持つこともなくなるし、お金がそれなりにある家ならそれなりの予定や計画が立てやすくなる。
そして、大事なポイントなのに前の増田にうっかり書き忘れたが、エンディングノートは必ず、利害関係者(配偶者や兄弟)に全員が見られるようにしとくこと。
「利害関係者の誰か1人だけが事前に情報を持っている」という状態は、下手すると比較的悪くもない人間関係を悪化させる危険もあるので、「エンディングノート書いてもらおうよ→そうだね→手伝ってね→出来たら読んでね」的なプロセスは必ず、必ず必要。親が勝手にやり始めてる場合でも、子供たちから「見せておくれよー」は言うようにしよう。
「透明化」について、テーマとは直接かかわりはないがもう一つ大事な所としては「介護の金と労力」について。
人間は老いてくると段々ゆっくりと自分のことを自分でできなくなる。介護段階に入った時に配偶者や子が(介護サービスを利用しつつ)老いた人の責任を負っていくことになるが、このお金と労力で、子供が負担をする場合は、ある程度は金銭的、労働力的な出納を透明化するのをお勧めする。完全平等分担なんてできないのでだいたいで良いのだが、透明化しておくことで負担配分が合理化されやすくなるし、トラブルや人間関係の悪化を事前に防ぎやすくなる。親の状態がおかしくなったら介護認定が付かないにしろ早めにケアワーカーに相談しておく方がおススメなのは、介護ケアは早い方が予後が良いとか悪化した時の介護認定がスムースだということが一番だが、家族の問題に第三者が入ることで透明性が高まるから、という効果も期待できるよ。ケアワーカーの選別ももちろん、利害関係者(兄弟)と相談して決めるの大事。報連相まじだいし。
お金については単純に使用した分を記し精算(理想は介護用さいふを共有してそこから拠出)、労力についても共同の分担スケジュールを作っておくといいよ、見える化することで手伝えない人にうっすらとした罪悪感を持ってもらえるし。
ちなみにだが、「亡くなった人の介護負担が大きかった家族へ、相続財産の配分をより大きくすることは可能か」について。
正解は「その介護により相続人の財産が大きく減った場合以外は、財産分与の比率にはほとんど影響しない」。ケアワーカーさんや施設の手配や色々なやり取り、送迎や見舞い、日々の生活のサポートやら、諸々けっこう日常を削られる「労働」だが、財産分与にはほぼ反映されない。一応「寄与分」という考えはあるんだけど、雀の涙なんだよね。この扱いはとても理不尽だと増田も思う(多分法律を考えた人が親の介護を自分でするなんて考えてないんだろうと思う)。極端な例で考えると理不尽さが増すので極端な例を出すが、「義母に尽くして看取った嫁に財産分与が可能か」の答えはNoである。法定相続は、「配偶者に半分」「残りの半分は子が等分」なので、子の妻には財産相続の権利がそもそもない。
なのでまぁ財産を多く貰おうと下心で面倒を見てもほとんど効果ないので、現代においては「透明化」によって親の老いに対する労力の等分化を目指そう。
まずは前提条件:親の残した財産をどう分けるかは、法律を守らなくても別に全然いい。
こう言うと語弊があるが、民法にある法定相続分はあくまでも民事訴訟が起きた時の基本的な解決線なので、別に民法に従って分けなくても、家族兄弟(相続人とか言いますね法律だと)が仲良く話し合って皆が納得すればその納得した方法で分ければいい。ちなみに、亡くなった人の銀行口座が凍結された場合はこれらの「相続人」たちの連名で書類を提出しないと口座解凍ができないのだが、要するに揉めてない証拠を出してくれという銀行の都合の書類ですね。だまして口座解約して逃げちゃう悪い兄弟がいるとも限らんし。
で、例えば財産を全部無職の弟に渡したって全然良いし、上に書いた「義母に尽くして看取ったけど財産をもらえなかった可哀想な嫁」も、その状態が透明化され家族間で共有されてて、そして家族仲が良ければ財産分与においては報われ得る。「お義姉さんがずっと面倒見ててくれたんだから、死亡保険金はお兄ちゃんが受け取って。それでお義姉さんに少しでも慰労になるといいけど」「そうだよな、本当にありがたかったなぁ…」というほのぼのストーリーにすることも可能。というか割と多くの「大きな問題がないご家庭」はこういう風にやっている。
次に自宅の相続:利用状況に準じるのが大原則。利用しないならすぐ換金
例えば父親が死んで母親がいる場合は当たり前だが母親がもらう。両親と兄弟の誰かが同居している場合でも生き残った方の親がもらうケースが一番順当(配偶者が取得する方が税金上の得が大きいので。ただし金持ちの場合はその限りにあらず。金持ちは金を払って税理士に過激な節税方法でも聞けばいい)。まぁ当たり前すぎる話。
親が死んで利用する人がいない自宅は、個人的なお勧めは「すぐに売っちゃえ、売って金で分けろ」である。それが一番穏当だと思う。住む人がいなくなった家は本当に笑うほどすぐ傷む。家の整理に数か月かけるもよし(思い出がいっぱい出てきて楽しいよ)、業者を入れれば2、3日(ある程度思い出を掘り出せたら人の手を借りちゃうとよい)。業者にごみの処分を頼んだってせいぜい数十万~百万ぐらい。売れば1千万ぐらいにはなったりするわけで。お金は良いよ、きっちり等分もできるし、好きなように傾斜も付けられる。
厄介なケースは下記。
不動産という財産の厄介さは「不動」なことと「財産としてデカい」ことで、あまり蓄財していない親御さんだった場合、「同居してた兄弟がそのまま自宅を相続する(そうじゃないと住むところがなくなっちゃうからね)と、財産分与がかなり不公平になってしまう」という問題が起こる。もちろん、等分じゃなくて全然いいよー!と他の兄弟が言うのであれば何の問題もない。兄は同居、妹はF1ドライバーと結婚して億万長者、とかなら言いそうな気もする。
だが庶民はやっぱり、自分も貰えるはずのものが貰えないとなると、内心穏やかではなくなることがほとんどだと思うので、その場合はまぁ、頑張って話し合いをしよう笑。
エンディングノートの効用はここにもあるが、こういう同居してる結果不均衡になりそうなご家庭の場合は、例えば、同居してない子に不公平感が出ないように、親の支払いで「非同居子」を受取人にした死亡保険に入っておくとかできます。これもエンディングノートを関係者全員で共有出来てれば可能。家族兄弟で話し合って決めるのが大事。
この「同居してた兄弟系の争い」で見たことある一番のバッドエンドはこんな感じ…。トホホ…。
ちなみに上の2を言い出したのは私の兄弟。配偶者の親が住みたいというかもしれないからと言われ、なんでそれで何千万の家がもらえると思うとんねん!とすごいデカい兄弟喧嘩をしたぜ…。親が片方死んだあとは残った家族は仲良くなりがちで、もう一人の親が死んだあとは兄弟の仲が悪くなりがちっていう俗説はガチだったんだなとしみじみした。
「家族」ってまぁ人一人の人生で複数持つことになるんだよね。愛人がいるとかではなく、結婚やらで所属する「家族クラスタ」が増えていく。結婚すれば別の家族ができる。自分の親による家族、自分と配偶者による家族、配偶者の親による家族。独身のままでも、家族ではないにせよ世帯が別になるからまぁ似たような感じだと思う。
戸籍が分かれても世帯が分かれても、生まれた時の「家族の枠」がなくなるわけでもなくて、親の介護やら相続やらで「産まれたり育ったりした家族の枠」のなかで行動したり考えたりする必要が出てくる。でも、その時に他の家族(自分の家族や配偶者の実家家族など)のこともつい考えてしまったりして、思ってたより多いしがらみの中で非合理的なことを言い出すこともある。それで何かね、親が一人もいなくなっちゃうと兄弟がむき出しの喧嘩になっちゃいやすいんだね。いやぁ、生まれてからほぼ初めてかつ最大の兄弟喧嘩だったよ…。ちゃんと仲直りはできましたが。
地主とか運用してる不動産があるとかの場合は、素直に税理士に聞いて言う通りにするのが吉。
田んぼや畑=地目が「農地」になっている場合は、耕作放棄地だろうが市民農園に貸してる畑だろうが、簡単に売れないので、地元の農協に相談だ!農地を持ってるということは100%親御さんは農協の組合員のはず。農地は地域の農業員会の許可がないと相続も売却も自由にできないらしいので、生きてる時からその辺は親御さんに聞いとくといいよ。
山を持ってるとか森を持ってる、みたいな人もたまにいると思うが、これも同様。エンディングノート作成に当たっては、自宅以外の土地を持ってると判明した場合、地目が「宅地」以外のもの(法務局で確認可能)があったら要注意。しかるべきところ(農協とか役所とか)に色々聞いとくといいと思う。
ただし、地目が「宅地」じゃない土地は、都市部ではまずあんまり見かけない。家庭菜園をやってるけど地目は「宅地」なんてことも普通にあり得るので、親に確認だー。
速やかに家財を引き上げないと、ずっと家賃を支払い続ける羽目になるので、業者を入れてでも引き上げしましょう。結構馬鹿にならんと思います。
色んな事情があるから、そういうことも普通にあると思う。関係が良くなければ、良くないままで、心を鬼にして「放置」が良いと思う。あとは物理的にどうにも無理だ!というときも「放置」するしかないよね…。
自分が何もしないままで親が死んだら相続はどうしたらいいのか。割と全然何とかなる。
誰も存在を知らない金融機関の口座は一定期間が過ぎればその金融機関の持ち物になるので心配しなくていい。株式なども同様。勝手に発行者が何とかしてくれるから大丈夫。
家については、一番簡単な方法は業者に頼んで売っちゃう。片付けとかもドライに割り切ってすべて金で解決。処分費用を相殺した残金があればラッキー、無くても(多少の持ち出しがあったとて)手間代だと思えば腹が立たないと思う。そこまで実家と関係が悪いなら。
親御さんが金持ちの場合は、誰かしら財産管理を手伝ってる人(銀行とか税理士とか)から必ず連絡があると思うので、その指示に淡々と従えばいい。
やらない方がいいかな、と思うのは以下
要するに、酷い言い方になるが、親子兄弟との関係が良くできない(あちらの理由もあろうし、こちらにも理由があろう)なら、何かを望まない、というのが大原則。そうすれば別に今以上悪くなるということはない。まぁ、そういうこともあるよね。
これもまぁ、そこまで関係が悪い家族関係なら、出来るだけ縁薄く接するのがいいと思う。お金で解決、第三者に委託(介護事業者)、同様に、感情も時間も手間も労力も金もかけない、その代わり何も文句も口出しもしない、というのがベストだと思う。
ちょっと前の増田に、親の介護のために仕事を捨てて田舎に戻るか、というのがあったが、あれブコメに多数指摘があった通りで、戻ったら最後、増田の人生が割と酷くなるだけなんだよね。介護する子がいる要介護者は施設入所の順番が後送りになり実質的には多分入所が不可能になる。仕事もなくなる収入も減る、介護はよりより厳しくなるだけなので戻らないのがリアリズムの正解なんだよね…。
リアリズム面を書き始めたら長くなりすぎたし、楽しい話が全然できなくなった。しょうがないよな…。家族も自分も老いも、逃げても逃げられない「生の頚」のようなものだな、と思うときもある。
当たり前だろ!
なぜそうなのか分かるか? おれには分かる。
何故かと言えば物語にポリコレ要素を入れるという事は、「つまらなさを減らす」「面白さを阻害しているものを減らす」ことであって、「物語を面白くする」ことではないからだ。
順を追って説明しよう。
説明する必要あるか? 単体のポリコレは面白くない。つまらないのではなく面白くない。無味無臭だ。
ポリコレしかない映像を想像してみろ。男女人種均等、パワハラもセクハラもない映像だ。"面白くない"だろ。
(もちろんここでポリコレ的平等下でもヒューマンドラマで面白さは出せる、と言う人がいるかもしれない。でもそれはヒューマンドラマが面白いのであってポリコレが面白いわけではないよね? という話をしている。あと面白いからパワハラやセクハラを入れろという話でもないし、パワハラやセクハラは面白いという話でもない)
爆発しかない映像を想像しろ。恋愛しかない想像でもアクションしかない映像でもいい。"面白い"だろう。まあ一瞬で飽きると思うが、ポリコレはその一瞬の面白さすら提供しない。
ポリコレの役目は爆発や恋愛やアクションの面白さを受け入れるにあたり、視聴者や読者の脳から「でもこの話「(反ポリコレ要素)」だから引っかかるな……」という不快さを取り除くことだ。
では、「ポリコレは物語を面白くする」と「ポリコレは物語から不快さを取り除いて面白さを受け入れやすくする」は何が違うのか?
全然違う。この二つを一緒にしないで欲しい。
だってさっき書いた通り、"ポリコレは物語を面白くしない"のだ。物語を面白くしないのに物語を面白くするから入れろ、って受け入れられるわけがない。
例えば「この果物には甘みが足りない、塩をかけよう」って言われたら、知らない奴からは意味が分からないだろう。料甘くするなら砂糖が先だ。塩をかけろと指示するなら「塩をかければ果物自体の甘みが引き立つから」と先に提示するべきである。もちろんこれは喩え話だ。言いたいことは分かるだろう。
ただポリコレ支持者側が「塩を入れれば料理の甘みが逆に引き立つ」という因果をあまり理解しておらず、塩が甘い≒ポリコレは面白いという理解をしていそうなので、甘みを引き立たせる≒不快を取り除いて面白さを受け入れやすくする、という説明自体が出来ないのかもしれない……。
俺は、『ポリコレ支持者のうち多くが「ポリコレ面白物語と非ポリコレ面白物語を見て後者を受け入れられなかったとき、その理由についてあまり考えず「ポリコレが物語を面白くした」と考える』と思っている。人間全体が"そう"なんだからポリコレ支持者だって"そう"に決まっている。人間全体が物語について深く考えないし、浅く考えて簡単な結論に飛びつく。だからポリコレ支持者も"そう"だ。
では、全ての物語はポリコレを話に組み込むべきなのか? という話に移る。
これに関しては答えが出ない。難しい。俺が何かしらの物語を描くとき、無理のない範囲で組み込みたいなとは思っている。
しかしなんか色々すったもんだあった末、今では「ポリコレが物語に組み込まれている」「作者がポリコレを意識している」こと自体に不快感を覚える人間がいる始末だ。
難しい。
今から全然関係ない話をするのだが、ポリコレって物語の面白さを担保する要素ではなく不快を取り除く要素であるのだけど、テーマに使われる場合もある。
なんか前同性愛者のスーパーマンが話題になっていたが、連載前からポリコレ要素が大々的に喧伝されていた。
あれってどうなの? 俺はああいうポリコレがテーマの作品で「ポリコレがテーマです!」って宣伝されるとめちゃくちゃむしゃくしゃする。おれの中には「自作のテーマについて語る作者」という不快のスイッチがあってそこを踏む。今回のテーマは愛です、みたいに語る監督に感じるやつだ。いや勿論スーパーマンのときは作者が語ってたわけでもなかった記憶はあるが。
あと普通の話は男女差別きつくて読めないけど××はポリコレ遵守してるから読める、みたいな感想をたまに見るのだが、あれ普通に滅茶苦茶攻撃的な文章だからやめた方がいいと思う。
「最近の映画はポリコレきつくて見れないけど昔の映画は男らしさにあふれてるから見れる」みたいな枕で昔の映画推奨してるやついたらムカつくでしょ。
「今時"男らしさ"~!?」みたいな怒りより前にさ、"ポリコレきつくて見れない"の時点で怒りがきてその怒りが「今時"男らしさ"~!?」の方で爆発して男らしさをdisる形になるイメージ。
物語の面白さを引き立てたり、受け入れやすくする要素はあるかも知れないが、物語の面白さの絶対量を増やすことはない。
"物語の面白さを引き立てたり、受け入れやすくする要素"を入れることを、物語を面白くすると呼ぶ人間は多分多くないし、インターネットやツイッターでクソみたいな論争してる時にそこまで頭が回る人間はいない。(何しろ園士温みたいな実在の被害者が出てる"気軽に言及できない"案件と違ってみんな"気軽に言及してる"はずなので。)
物語を面白くする、が主目的であるとき、非ポリコレ要素、反ポリコレ要素で物語をより面白くするものがあれば止めづらい。
ポリコレテーマを喧伝すると興味ある人間からはポジティブな興味を得るが、テーマに興味がない人間(これはテーマが嫌いな人間だけではなくテーマに強い関心がない人間も含む)からは「テーマを語る人」という文脈でネガティブな興味を得てしまう。
難しい。
因果が逆でそんくらい余裕で稼げる人じゃないと脱落する