はてなキーワード: 高畑勲とは
だが『ジブリの教科書19 かぐや姫の物語』によれば、『君たちはどう生きるか』の中には、高畑勲と思しきキャラクターが登場すると記されている。
宮崎駿最新作『君たちはどう生きるか』で高畑勲が描かれる?…その「驚きの理由」(現代ビジネス) - Yahoo!ニュースより引用
「そういう部分もある」では駄目。
これはほぼ100%がそうであるタイプであり、それ以外の部分は繋ぎでしかないと思っていい。
作中に説明不足に見える用語が沢山あるけど、それらは作品の外から持ってくる必要がある。
たとえば戦争映画でわざわざ「日本とアメリカが戦争をしています。日本は最後に負けます」と解説しないのと同じで、作品外から情報を補わせることで作品のテンポを良くしたり仄めかすことでより感情を揺さぶろうとしてる。
まずは作品のラストから遡っていき重要な用語を現実に当てはめて整理していく。
13個目の積み木→宮崎駿の長編監督作品(ルパン2作とコナン1作を含む)13作目が君たちはどう生きるか
血を継ぐものへの継承→宮崎吾朗(アーヤと魔女を見れば分かる通り、継承は失敗している)
インコの王→米林宏昌(それっぽい真似っ子は出来るが……を越えられず、ついには独立してメアリと魔女の花を作っている)
インコ→ジブリのアニメーター(塔(ジブリ)の庇護下にあるときは強いのだが、外に羽ばたいて見せると途端に魔法が解けて拾ってきたときのか弱い生き物に戻ってしまう。インコは結局真似っ子しか出来ねえかんね)
下の世界の死人→アニメーター以外のスタッフ(自分たちでは何も生み出せず、いざ作品が形になると群がってくる)
ワラワラ→未来の太客(面白い作品を見せて育てることで将来的に太い客になってくれる)
ペリカン→客を食い物にしようとするアニメ関係者(せっかく育てた客を食っていく。傷ついた客がアニメに愛想を尽かすすことも)
これがマジで難しい。
アニメーターとしての宮崎駿だと考えることも出来るし、宮崎吾朗の成長物語だったのかも知れないし、鑑賞者の分身だったのかも知れない。
そういった全てが重なり合った存在であったと解釈するのが自然ではあるのだが……。
たとえば自傷行為で心配されているのは宮崎駿が引退するする詐欺で周りを振り回したときの様子にそっくり。
ことあるごとに鈴木敏夫に振り回されているのは宮崎駿もそうだけど鑑賞者側も同じなわけで。
主人公は最初、本当の母親との再開を求めて塔に向かうが、途中から新しい母親を連れ戻すための冒険も同時に進行していく。
塔の中では幼少期の本当の母親と再開し、最後に別れを告げることになる。
また、新しい母親のことを最初は他人行儀に読んでいたのが、夏子母さんと母であることを認めることで取り戻すことに成功する。
結果として、どちらもが本当の母であると言わんばかりの終わり方となる。
これは宮崎アニメにおいて「ヒロインをどのようなキャラクターとして造形するか」についての葛藤を描いているのではないか。
ハッキリ言えば、「ロリコン趣味を疑われながらも少女を主人公とするべきか、そうではないヒロインを描くべきか、それらは物語や世間が求めるヒロイン像により時には重なり合い時には反発する」という話をしたかったのだと思う。
歪な時間軸の中で幼少期の母に出会いヒロインとして共に冒険しながら、もう1人の大人のヒロインを救出に行くという混沌とした物語構成が、常にその葛藤に晒されてきた宮崎駿の複雑な心情を描いているのである。
こうして纏めてみると結構スッキリした話なんじゃね?(むしろドロドロって気もするけどな(笑))
宮崎駿の目から見たジブリの物語を描いてますよって感じなのでは。
「君たちはどう生きるか」というタイトルはこの状況に対しての語りかけで、どこに向けてそれを言ってるのかで意味は変わるんだと思う。
ジブリと関係が深い人に対しては「俺が引退した後好き放題するんだろうけど、何をする気?」みたいな感じだろうし、インコに対しては「真似る相手がいなくなったらお前らもう本当に何も無くなるんじゃね?」とかなんかな。
でもインコの話について観客に対しても「お前らもインコになってねえか?」って圧かけてきててもおかしくないんだよなーこのお爺ちゃん職人気質とかいてパワハラって読むような所あるからさー正論で人を追い詰めるマチズモなんだよなー。
しょーじきここまでメタファーまみれだと「風斬りの7番」とかも分かる人には分かる要素なのかもね(鈴木敏夫の弱点って聞くと咄嗟にとある女性が思い浮かんだりしちゃうが、アオサギ=鈴木敏夫じゃなくて高畑勲って解釈もできるし焦っちゃ駄目ね。高畑勲の場合は柳川堀割物語かな。まあ人間なんかしら人生に汚点はあるからこじつけようと思えばいくらでも出来ちゃうね)。
アオサギを適当な人物に当てはめて「宮崎駿が「お前とは色々あったけど本当に友達だったと思ってるぞ」と言ってるんだ―尊いー(T_T)」って適当に感動しときゃええんちゃう。
作画スゲーだけで終わらせるのも吉。
ジブリは滅びますぞ―のセンチメンタルそのものについて鑑賞者まで深く考えんくていいと思う。
マザコンなのかロリコンなのかハッキリしろって突っ込むとか、宮 崎 吾 朗 wwwwwみたいにヤジを飛ばすとかは見終わってからまでわざわざせんでええのかもなと。
やっぱ全体としてストーリーラインが雑というか、もののけ姫とかに比べて不自然さは凄いし、ストーリーだけを楽しもうとするのは厳しいね。
マクガフィンが母親であることのパワーを過信しすぎて「え?そこまでする?」になってるのがあまりよろしくないのよねー。
メタファー込みで考えると上手い具合に物語に落とし込んだなって感心はするけど、そんなの見せられても困るんですよお爺ちゃんって感じよ。
君の名は。や天気の子と同様ではないにしろ、同クラスのエンタメを期待して見に行ったら説教された気分。
友達と久しぶりに飲みに行ったらアムウェイの勧誘されたみたいな気持ち
すずめの戸締まりは説教部分が多すぎて、キャラや背景の掘り下げがあまりに雑。
出てくる奴ら全員テンション高すぎ。もう少し親交を深める描写有っていいでしょ。
なんであの流れで全国旅行から大恋愛?(君の名は。や天気の子くらいまで描写しろや)
それもこれも災害をメインに置きながら多方面に配慮して中途半端になったせいでしょ。
月ノ美兎と剣持刀也、どっちも配信未経験だし、あのわけわかんねー時期にわけわかんねー会社に応募してきた、倍率も甘かっただろうところから通過してきた素人なのに、なんであんなに配信者として優秀なんだ?
あんな適当な選び方で面白い奴が選べるなら、会社の知名度もVtuberの知名度も上がった今、世の中に眠ってた面白い素人が大量に集まり、倍率百倍くらいで厳選して、超面白くて素行も良いやつを採用できるはずじゃないのか?
なんでそういうやつらが出てきづらいのかね。
kusunoki7100 これは戦後にアニメ制作なんて訳のわからん実績もない仕事に応募してきた人材の中に、宮崎駿、高畑勲、富野由悠季、出崎統がいたと言う現象と同じだと思っている。
たとえばミッキーマウスは、あの外見で葉巻をふかしたりと「大人」として振る舞ったりするんだけども、
じゃあそういう「大人」みたいな振る舞いをしたからミッキーマウスの外見が中年の大人に見えるのかというとそんなことはなく、
あの「頭が大きく」「目が大きく」「甲高い声」によって
「なんとなく若いんじゃないかな」「人間みたいに年は取らないんじゃないか」という受け止め方される
で、じゃあなぜ、あんなふうに頭が大きく目が大きいかというと、
そういうデフォルメをしたほうが、体や目線を使ったジェスチャーが明快になるから
日本のアニメキャラの原形って、基本的にディズニーなどの欧米で培われてきたデフォルメによる表現技法を取り入れて出来てるんで、
アニメキャラが「頭が大きく」「目が大きく」「声が甲高い」のは
で、アニメの女の幼さというのは、
「アニメーション表現として伝わりやすい」「アニメとして動かして面白い」造形に合わせやすいのが「幼い言動をする女児」だから、となる
宮崎駿は明確に「もっともアニメで映える」基準でロリコンキャラを動かしてる
「手でスカートを抑えてどうする! 手はオーバーアクションに使え! スカートは動きの演出のためにパンツ丸見えになるぐらいめくれろ! それこそが動きが最も映えるのだ!」と
アニメーションの絵が書き込み量が増えて「リアルな描写」が当たり前のように作られるようになったから上記が忘れられてるけど、
高畑勲あたりが追及するリアル描写が成立するためには、映像としてちゃんと「映える」ための飛び道具が必要で、