はてなキーワード: 零戦とは
なんて思う時点でひよっこじゃん
熊本城になんの思い入れもない人だったら、熊本城のおかれた環境と、零戦のおかれた環境は違います。くらいの逃げを打ててしまう程度の話。
しかし実際には、冒頭にあげたような、激烈な反応が返ってきた。
低能丸出し
なんで反応が激烈だったら駄目なんだ?w
思い入れなどとは全く何の関係も無い次元で、熊本城と零戦がおかれた環境(竹下が言うところの背景)は異なっている
それが論者の態度で変化すると思ってんのか?
頭悪すぎだろ
読んだ。
https://togetter.com/li/1117700
ひとつ気になったのだが、「熊本城」という例を出したO氏は、T記者からこのような反応がくることを、先に予想していたのだろうか?
まだまだ復興は遅れていて、壊れたままの家で梅雨や台風を迎える不安な母の心の支えになっているのが熊本城です。熊本城に観光客が集まり、復旧のための寄付が集まり、元の姿に戻る日を心待ちにしている。同じ思いの人たちは多いと思う。それを「戦争のために作られたものだし復旧しなくていい?」
侮辱するのもいい加減にして欲しい。
こういう反応を引き出したのは、まとめサイトから判断するかぎりたった一つのツィートで
議論において、相手を矛盾に追い込む。そういうときには、「相手」にとって矛盾だと作用するものでなくてはならない。
「相手」にとっての矛盾、とはどういうことだろうか。よい実例が、このツイートの前のやりとり、JSF氏の指摘で展開されている:
…AERAって朝日新聞系ですよね?実はこの零戦を飛ばしたレッドブルエアレースの後援を、朝日新聞がしているのです。つまり朝日新聞は「戦争を反省しつつ零戦かっこいい」という精神状態を肯定していると思うのですが如何でしょうか?レシプロ戦闘機は現代の戦争にはもう役に立たない存在なのです。
零戦レシプロを批判すれば、朝日新聞のグループ社員として、エアレース後援をしている組織の方針と食い違ってしまう。
零戦レシプロを黙認したら、自分がAERA記者としてツィートした内容を取り消さなくてはならなくなる。
相手がAERAの記者でなければ、このような矛盾は「矛盾」にはならない。「朝日の方針がおかしいんです」の一言で切り捨てられる。
しかしT記者はAERAのライターだ。AERAは朝日の出版物だ。朝日の出版物なら、朝日新聞の方針に従うに違いない。
・・だと思っていたら、「組織の考え」と「私の立場」は違う、という形で、矛盾の間をすり抜けられてしまった。
げげ。それは知りませんでした。組織の考えは分かりませんが、私の立場は変わりませんよ。現代の戦闘に役に立たないものをなぜ復活させる必要があるのか、石塚氏が過去に出演したチャンネル桜の2回の放送をご覧になったらいかがでしょう。
ここは、身軽に構えたT記者のほうが一枚上手だった。
しかし、次のO氏の指摘は、表面上は「相手」にとっての矛盾に追い込む形にはなっていない。
この時点で、T記者と熊本城とのつながりは、いっさい明らかにされていない。
だからその分、相手を追い込む形にはなっておらず、威力は低い。
熊本城になんの思い入れもない人だったら、熊本城のおかれた環境と、零戦のおかれた環境は違います。くらいの逃げを打ててしまう程度の話。
しかし実際には、冒頭にあげたような、激烈な反応が返ってきた。
最初っからAERA的なものが嫌いなネトウヨ勢だけではなく、中間層にいる人たちにも「そ、その侮辱ってのはあなたがエアレースを楽しんだ人にしたことじゃない?」とドン引きさせる効果があった。
零戦レシプロを黙認するなら、元の議論を取り消さなくてはならない。
零戦レシプロを批判するなら、同じように「戦争のために」作られた熊本城の復建にも反対しなくてはならない。
こういう矛盾が、熊本出身で、熊本城の復建に寄付までしている、ほかならぬ「T記者」にはとても有効に作用するだろう・・とO氏は他の情報ソースから知っていたのだろうか?
https://twitter.com/i_tkst/status/871363247345090563
戦争への反省と「零戦カッコイイ〜」が両立する精神状態というのがマジで分からん。私にご意見をくださる皆さんが「加害」の視点がまるっと抜け落ちて悲劇の主人公気分なのも興味深いし、普段は中国や北朝鮮の脅威を煽っている人がこんなときだけ「平和な日本の空、ほっこり」とは?
子々孫々まで加害の罪の意識を絶えず持ち続けて頭を下げ続けているのが正しいと思っているから、現在進行形の中国や北朝鮮の脅威を手加減して報道するし、それに文句を言うヤツに腹を立てるし、加害意識の無さを嘆いたりするんだなぁ…と。
もう良い悪いじゃなくて、全てが違うんだろう。
ついさっき起きた。夢を見た。大きな会議室で椅子に座って偉いジジイの退屈な話を聞いていた。テーブルの上にはちょっとした茶菓子があり、俺の席には個包装の小さなチョコマドレーヌがあった。腹が減っているのに雰囲気的に食べてよいものか分からず手が出せないでいた。ああ、チョコマドレーヌ。ジジイの話早く終われ!隣にはブラマヨの吉田がいた。「はよ終わらんかなあ」「それ俺にくれへん?」会議中なのに時折小声でちょっかいを出してくる。眠くて吉田の方にもたれそうになると、ちょっと嫌がられた。会議ではそのあと何かの映像を見せられた。零戦が飛んでいた。戦争映画のワンシーンのようだった。どうでもいい。早く終われ。マドレーヌ食いたい。帰って艦これしたい。
CMを見て能年玲奈の演技がお世辞にも上手いとは思えないし、本人の顔が思い浮かんでしまってちょっとなぁと思ってた。でもキネマ旬報ってやつで1位になってるし、まぁ面白くなかったら寝てもいいかってぐらいで1人で見に行った。めちゃめちゃよかった。
自分と同じように思ってる人は騙されたと思って見に行って欲しい。
以下ネタバレ含む。
素晴らしい所は山程あるし、色んな所で語られてるから、今更自分があれこれ言ってもとは思うけど、語りたいという欲求には逆らえない。振り返ってみると、この作品の設定のユニークさに改めて感心したので、その事を書いていく。
一般に、映画や小説、ひいては音楽というのは非日常を描くものだと思っていた。例えば、君の名は。は体が入れ替わる。この作品も、戦争と言う非日常を描いている事に変わりはないが、日常と非日常のバランスが異なるように思う。初めこそ童話的なエピソードから始まるが、すずが北条家にお嫁にいってからは、炊事などの日常が主に描かれる。そこから戦争という非日常が始まる。場合によっては、日常を描く事は、非日常を際立たせる演出上のテクニックのようにも感じられてしまうこともある。しかし、この作品では、日常を描く事自体が1つのテーマとなっていると思う。つまり日常を際立たせるために非日常を描いている、とも言えるのだ。それほど力強く生き生きと日常が描かれている。
能年玲奈がクローズアップ現代+のインタビューで「ご飯を作るのって楽しいんだとか、洗濯をすることがとても誇らしいと思えるようになった。」と言っていたことがこの事を上手く表していると思う。
映画や小説では非日常が語られる故に、主人公は、人並み以上の能力持っていたり、特別な立場であることが多い。例えば、風立ちぬでは、零戦の設計者だった。一方で、この作品では、絵が上手くて、すこしとぼけている、どこにでもいると思わせるような女性である。第二次世界大戦という歴史的な出来事を、どこにでもある視点から、描くという点が非常に新鮮だった。戦争は、主人公が全くあずかり知らぬ所で起こり、理不尽にやってきて、そして唐突に去っていく。状況も殆ど理解できないし、ただただその状況に身を任せ、やれるだけの努力をするのみである。そのどこにでもある視点は、すなわち自分が、もしその時代に生きたらという視点であった。
3.物語への没入感
物語や演出の素晴らしさに加えて、上記の2点の設定上の妙により、物語へ没入してしまった。物語への没入感は、本当に面白いと思える作品の条件だと思うが、日常をどこにでもある視点で描く、ということはこの条件を成立しやすくしている。戦争といった非日常的なものは、非日常的に語られる事が多い故に、他人事だと思ってしまいがちである。例えば、歴史の授業で心を傷める人は稀だ。この作品では、日常をどこにでもある視点で描き物語へ没入した状態で、非日常が起こる。その当事者意識や衝撃度は凄まじい。
日常をどこにでもある視点で描き、そこに起こる非日常を追体験させる。こういう手法って今まであったのかな?自分では思いつかなかったので、映画でも小説でもあれば見てみたいので、教えて頂けると嬉しい。シンゴジラが、現実の中に虚構(ゴジラ)を描いたっていう点は非常に面白かったし、ちょっと似ていると思う。でもそれは虚構を際立たせるための現実であったし、視点も特別なものである。
最後に、映画を見終わってからテレビで、能年玲奈のセリフを聞いたけど、やっぱり違和感があった笑
でも映画を見てる時は、全く気にならなかったし、寧ろハマっていたのは間違いない。それ程物語に没入していたということであると思う。
追記読んだけど俺の意見は変わらないよ。
犯罪の“素養”が何を指してるのか知らないけど、それよりもメディア自体よりも、周囲の意見による影響の方が大きい。
トラバを全部読んでくれたかどうか知らないけど、先の戦争で新聞を読んでいた人はみんな殺人やそれに積極的に加担する素養があったのかい?
……違うだろう? 当時、仮にたった一人だけが新聞を読んでいた状況を考えてみればすぐわかる。影響なんてあるとは思えないだろう? 発行部数1なんてケツ拭く紙でしかないんでね。
実際に何かを作って動いている人間は、批評している暇なんかないんだ。良い影響も悪い影響も当たり前のように人は与え合っていて、それを知っているから反省や宣伝はするだろうけどね。
http://k-tai.watch.impress.co.jp/docs/news/1014668.html
可能性があるのではないか? なら、あるかもしれないと言っておく。
一人で発行部数1の新聞を読んで興奮し、玉砕を叫んで零戦で単騎特攻の末に戦争の原因を作る事だってできなくはないだろう。
でも、俺が言いたいのは周囲でそれを囃し立てる方が影響は大きいって事なんだよ。
仮に君が全面的に正しいとして、見るだけで悪影響を与えて人を犯罪に走らせる作品があり、それが広く頒布されていたとして、だったらなんだって言うんだ?
君は規制をしろというのではないと言う。星島とやらが100%ゲームの影響で犯罪をしたと仮定して、それでも規制は必要ないと?
確かにwebは偏りがちだ。アニメやゲームが好きな人間は多く、それが原因だとなれば認めたがらない人間の意見の方が多く目につくだろう。ただ、でも、それは君も同じなんじゃないのか?
大多数は間違ってる、僕はエロゲで犯罪をした凶悪犯を知ってる、あれは影響があったに違いない。
君の言ってるのはそれだけだ。
そして悪影響を喧伝し、何を望んでいるのかが全く書かれていない。
他のトラックバックにも耳を貸さない。影響があるという意見にも触れない。追記でも自分の意見の補足をするだけだ。
つまり君の中では、君の悪影響があるという意見、が主流なんだろう?
どうしてそう考え、そして何故それを匿名で発言し、それからどうしたいのかがまるで分らないんだ。
ごめんね? 見つけるか分かんないけど、否定したりとか、消せとかって言いたいんじゃなかった。
否定的な反応ってつらいでしょ? っていうのと、批判したあとにどうすればよくなるかをみんなで考えていければいいなぁ、って思った。
これからはLBGTの人や女性教祖が中心となって、政治に影響を与えるような政党が出てくるのかな。
時代の曲がり角にいることは、なんとなく分かる。
明治から昭和初期までは、それまでの江戸幕府中心から、薩長が天皇陛下の名前の元で中央集権国家を目指した。
(平民というのか、下流にいる人間が、労働を美徳する流れは、基本的に江戸幕府の時代から変わらないのではないか。)
バブル崩壊までは、トヨタやソニーに代表される企業にしても、製品を作れば売れるような時代だった。
零戦や戦艦大和の開発の頃と、大きな流れとしては変わっていないのではないか。
欧米に追いつけ、追い越せが主流だったと思う。
(学問の世界も、何人かのノーベル賞受賞者やフィールズ賞受賞者の超・超一流人はスゴいと思うけど、基本はドメスティックな感じがする。)
コンピューター、ITの分野では自動車産業(やカメラなどの光学機器)のような活躍は見いだせないのではないか。
日本だけであっても、独自の文化であると言われても、ストーカー問題とか怒るのだから。
今から71年前の1945年1月25日、彼はフィリピン沖で護衛空母に特別攻撃を実施し、戦死した。
陸軍の飛行場が近くにあったこの地域では、東大に入るのと同じくらい難関のパイロットという道が、
彼もまたそんな軍国少年の一人で、軍人になることを決意し、陸軍少年飛行兵となった。
彼が乗ったのは「戦闘機」ではなくて、「爆撃機」だったそうだ。
99式双発軽爆撃機、通称「99双軽」と呼ばれたその機体は、かの有名な零戦と同じく、
序盤はその軽快な運動性で戦果を挙げていたが、後継が続かずに旧式化していった歴史を持つ。
ただ一度、その99双軽で帰ってきたことがあったそうだ。
彼の乗った99双軽は実家のあった大字上空で旋回、上昇、降下といった曲芸飛行を見せた後、
小学校の校庭に彼のしたためた遺書を投下して、飛行場へと消えた。
弟の方がこの一部始終を見ていて、曲芸飛行の様子を教えてくれたが、その飛行の意味は分かっていないようであった。
飛行機、特に大戦中のレシプロ機はとてもデリケートな乗り物で、華やかなイメージとは裏腹に、
常に危険と隣り合わせの代物であった。
急降下爆撃を念頭に置かれて開発された99双軽も、降下速度を見誤れば引き起こしの際に粉々に吹き飛ぶし、
戦闘機に比べて機体が重い爆撃機は旋回や上昇での失速も激しい。
恐らく何時間にも及ぶ訓練の中で、彼は自分と機体を極限まで追い詰め、その操縦スキルを手に入れたのだろう。
恐らく、故郷上空で見せた急降下で敵の車両や拠点に爆撃を加えたのだろう。
記録は残っていないが、さんざんっぱら旧式化した双発の爆撃機である。
戦果は無かったろう。
享年19歳。
今日は録画した「特攻~なぜ拡大したのか」を見て、怒りすぎて震えながら泣いた。
以下感想文です。長いよ。
熟練兵が零戦で出撃した最初のうちは大きな戦果を挙げたけど、戦闘機が出尽くして
特攻機や訓練機を持ち出し、新兵を搭乗させるようになってからはほぼ全く命中しなくなっていた。
そのような状況は国の上層部の会議で報告されることなく、盛りに盛った戦果が語られ、
「ならば総力を尽くした特攻作戦で沖縄戦を戦おう」で沖縄もあんなことになったのに
「総力を尽くした特攻作戦で本土決戦を」って準備が進んでいたところで、原爆とかソ連参戦とかあって終戦。
もうちょっとで私たちみんな死に絶えるところだったんだよ… 会社で言ったら粉飾決算のおかげで。
いくら粉飾しても会社なら倒産するだけだけど、戦争だと国民死ぬから。
軍の偉い人は、御前会議で「特攻作戦はもう続けられない」って言えなかった理由について、
戦後「あんなに大勢の人がいるところで肚のうちを明かせるわけがない」とか言ってた
(↑「っざけんな!」と叫んで震えて泣いたのはここ)
アメリカと日本のおかしな関係についても、なんだかわかったような気がする。
戦争中に日本人を山ほど殺したのはアメリカだけど、日本人が死ぬのを承知で戦争をやめなかった、
当時の人はみんなそれがわかってたんだろう…
戦争の最中に国民から奪えるだけ奪って戦後何も返さなかった日本政府の代わりに、
ごはんを食べさせてくれたのもアメリカ。だから昨日までの敵国にやすやすと懐柔された。
これを見て特攻賛美を続けられる人を見てみたい。
特攻隊員は最後まで立派だった、日本を、愛する人たちを守るために戦った、それはわかってる。
でもそれをさせた連中は嘘つきだし現実から目を反らしつづけた弱虫だし、
連中のおかげで数千人もの特攻隊員が国の犠牲となって無駄死にしている。
命を捨てても、戦勝のために貢献することはできなかった。
「国のために戦ってくれた人たちがいるから、私たちは平和に暮らせている」という考え方も思考停止だ。
故郷を家族を守るために出征した多くの兵士が、志に反して無謀な作戦に駆り出されて無駄に命を落とし、
残された家族も無事だったとは言えない。
平和になったのはそれらの悲劇が終わってからの出来事であって、英霊たちの尊い犠牲が直接平和を
もたらしたわけではない。
私は反戦主義者だけど、世界中から戦争がなくなればいいなんてこどもみたいな夢を見ているわけじゃない。
意志決定のゆるさや現状認識の甘さという日本の組織の悪いとこが直らない限り、
「死んでも契約取ってこい!」とぶち上げて仕事した気になってる営業部長がいなくならない限り、
>「進撃1942」が韓国でリリース後9日で100万ダウンロード達成! 株式会社gumi
https://gu3.co.jp/news/archives/2386
これだ。
http://www.youtube.com/watch?v=kDWD0YlKd24
ぜひ見てほしい。
見たか?
見たな?
『日の丸を付けた航空機』が雑魚キャラよろしくパカスカと撃ち落とされ、
よくよく見れば航空機も零戦、一式陸攻、連山などなど、かなりの種類の日本軍機が登場している。ヤラレメカとして。
でさー。
韓国でこれが売れるの分かるんだよ。
でもさー。
日本企業がこれを作るってどーなのよ。
国内向けなら、それこそ、P38ライトニングを使って日本軍をボコボコにする「1942」ってゲームをカプコンが、
ファミコンより前に出してたけどさ?
だったらさー。
これ国内向けにも出したらどうなのよ?gumiさん。
進撃1942は国内展開しないのはなんで??
こういう売国行為するgumiとかいう企業と、国光宏尚 とかいう社長。
どういう顔だったっけ?と思って検索したら
http://2011.myojowaraku.net/2011/10/hironaokunimitsu/
ああ・・・そういう系だったのかな?さすがだわ。
まずはじめに断っておくがこれは何も虚構新聞みたいなくだらないネタではない。
俺はあの手の誰も徳をしない、内輪ネタのマスターベーションが大嫌いな人間だという事をご理解願う。
そしてあなたが今日、ここを見ているという事は少なからず大日本帝国が掲げた戦略から見ても無視は出来ないはずだ。
大日本帝国は同じ島国の大英帝国が全世界の三分の一を植民地化したケーススタディをお手本に海南の支配という戦略を企てた。
しかし、その戦略はシーレーンに対する見識の甘さ、ロジスティクスをおろそかにした見識の甘さによって失敗した。
海戦当時、兵器ではドイツのジェット機、Uボート、日本の大鑑、零戦、空母などどれをとっても、兵器の近代化という点では枢軸国が有利だった。
ロンメル、三川 軍一など優れた作戦を遂行する指揮官も枢軸国には存在した。
マッカーサー、パットンなど連合国側の指揮官は決して優秀ではなかった。
これ以上、大東亜戦争の話しをすると長くなるし軍オタから色々と細かい意見を述べられるので割愛させて戴く。
今日、俺がいいたい事はたった1つ!
どこの誰がいったのかよく分からんが小見出しの言葉は俺の祖父の事をよく表している。
祖父はきっとインパール作戦の最中、今が最悪の状態だ。と心の中で思っただろう。
弾薬は底をつき、食料はなくなり、体力の弱った兵士を伝染病が襲う。
機関銃と火炎放射器で攻めてくるイギリス軍に雨で錆びた銃剣ひとつで勇敢に向かっていく兵隊。
この頃、日本はインド、シンガポールにおける制空権を完全に失っているので容赦ない空爆もうける。
平和ボケしている今のあなたがたには想像すら出来ない地獄絵図を、生前に祖父が語っていた。
その地獄絵図の話しを祖父は何故か、私にしかしなかった。父も兄もそんな話し聞いた事が無いという。
おそらく日の丸を背負って戦った兵隊の誇りがあるから祖父は他言しなかったのだろう。
大本営から退却命令が出てインパールから帰ってきたという事実は、けっして誇れるものではなかったのだと思う。
ではなぜ、祖父は私にインパール作戦の話しをしたのか?それは私が3才の時に戦争の話しを根掘り葉掘り聞いたからだ。
「かわいそうなぞう」という絵本を読んだ3才の私は戦争に対する好奇心が止められなかったのだ。
当時の私の好奇心といったら夜9時からはじまるドラマ「毎度おさわがせします」と「戦争」この2つしかなった。
兄が寝てる横の部屋で母と一緒にテレビの音量を下げて「毎度おさわがせします」を楽しく見ていたもんだ。
祖父は祖父で俺がまだ3才だからと油断してインパール作戦の事をぺらぺら喋ったのだと思う。
インパール作戦の地獄から生きて帰ってきた祖父の命を奪ったのは餅だった。サ●ウの切り餅
祖父はきっとインパール作戦当時、今が最悪の状態だと思ったに違いない。
しかし本当に最悪の状態というのは餅を喉に詰まらせて脳に酸素が供給されなくなり意識が朦朧としてきた時だった。
毎年、この時期になると祖父の事を思い出す。
今ソーシャルゲームの艦隊これくしょんがとても流行っている。実際面白いし、女の子は可愛いし、声優陣は豪華だし、まあそれはいいんだが、正直な話このゲームはすぐに潰れると思っていた。テーマがテーマだからだ。
昨今だと「風立ちぬ」が零戦を扱った作品ということで、特定アジアの過激な人々に叩かれまくって散々な感じである。「進撃の巨人」に至ってはキャラクターデザインが戦時中の将校という理由で作者ブログが炎上したりしていた。それを踏まえると、いずれ艦これが叩かれまくって炎上するのは目に見えている。というか、なんでまだ炎上してないんだ?これ。特定アジアの過激な人々は、必ずしも自国と日本間の戦時中の歴史ネタのみならず、所謂『戦時ネタ』全般に非常に敏感なのはこの零戦の一件でも明らかだ。仮に艦これが「この娘たちは艦船の名を冠してるだけだから!全く関係ないから!」のギリギリ一点張りで付き通すならまだセウトにせよ、このゲームは日本海軍艦船の名を冠した少女たちがやれ『ミッドウェー会戦』がどうとかとか、実際の戦時ネタを口にするのだ。
それでもまあゲームとしてはよくできているし、女の子も可愛いし、こうした戦時ネタ同人は今に始まったことではないからそれ自体を非難したいわけでは全くないんだけど、それにつけてもこのゲームは、自分の眼には歩く火種に見える。
大体、仕掛け人がDMM.comと角川という超大御所という時点で心臓に悪い。あと更に、ゲーム内課金ではなくメディアミックス関係で収益を得ようとしているビジネススタイルが胃に痛い。そんなに安全に流行るジャンルではない気がするのだが。センシティブすぎる。先行大逃げで稼ぐだけ稼いで逃げ切るつもりなのだろうか。それにつけても声優は大御所ぞろいだし元は取れるんだろうか。法務がよっぽど強かったりするのだろうか。でもイメージダウンはある程度避けられないよね(それとも「そんなの関係ねえ!」なストロングポジションなの?)
そんなわけで、自分の眼には艦これは泥船に思える。課金ゲーには無理なく課金するのが自分の美学だが、艦これはいつ大事になるかわからないのでなんとなく手が遠のく。今はすごく流行っているけれど、もってあと一年なのではないかという杞憂がたえない。
戦争に向かう描写などは左から右への流れ(ユンカース社の爆撃機。二郎と黒川が見学した空母の向き、空母から去るときの二郎の見つめる先。そしてラストで爆撃機や戦闘機が向かう方向。)
対照的に、劇中で前向きな気持ち、希望が見えるシーンなどは基本的に右から左。
またこれは二郎やカプローニの夢のなかでも同様である。(ただし、カプローニの引退飛行では一部逆の部分があった)
二郎の美、夢の対象であるものはほとんど右から左へ流れる。まだ形のみえぬ飛行機のシーンなどがそれ。
七試艦戦や九式単座戦闘機も同様に右から左、そして下から上へと流れる構図が取られる。
しかし、唯一九式によるテスト飛行のシーンでは二郎の目の前を左から右へと飛び去る。
これは直前のシーンで菜穂子と九式が共に美しいものとして重ねられるシーンがあるため、このカットにおける九式は菜穂子であり、
また、二郎の追い求めた美はどちらも負の方面へと向かうこととなることを示している(菜穂子の死、零戦の戦争への参加、そして国の滅び)
だが、ラストのカプローにとのやり取りにおいてゼロ(零戦)は右から左へと美しく飛び去ってゆく。