はてなキーワード: 自己肯定感とは
大事なのは自分の尺度で評価するってこと。基準は自分の中にしかない、つまり昨日より、それをする前より良くなったかどうかを自分で決めること。良くなったらさらに良くする、あまり良くなければどうすればいいかを考えてやってみる。
自分が本当にやりたいことをしてるひとってこれを普通にできてる。自己肯定感が低いことを気にしてる人は自分でやりたいことが見つかってない。じゃあどうするってことなんだけど、自分で決めて行動できることならなんでもいい。
歯磨きをいつもより丁寧にするとか、駅までの道をスタイリッシュに歩くとか、そんな小さなことでいい。できれば意志の力を使わずにできる、習慣になっていることのほうがいい。意志の力が必要になるとそのせいで失敗することもある。
例えば、今日はちゃんとした夕食を作るとか朝考えても、疲れて帰ってきてできなかったりすると、評価は悪くなってしまう。
最初のうちは失敗すると嫌になってしまう可能性もあるので、失敗しない程度に調整したほうがいいかも。
あと、評価を他人にはさせないこと。元より良くなったか自分にしか決めることができない。他人があなたを評価するときはその人の基準を元に判断するし、その人の感情が絡んだりもする。好きな人なら甘めに、嫌いなら厳しくなるし、妬みなんかものっかりやすい。
相手目線で評価してくれる人なら参考にできるが、あなたの基準をはっきり分かるわけではないのでやはり、自分の基準で判断するのが大事。
家族からも疎まれてるらしく可愛そうだったので引き取ってやった
まずは自己肯定感を高める為に、何をしても褒めてあげてたらそれが嬉しいらしくテキパキと動く
男は旦那に限らず子供みたいなもんだから、可愛がってあげると犬や猫のように甘えてくる
これをご褒美とすることで、多少大変なことでもそれをちらつかせれば頑張って取り組むようになる
ポヨってたので一緒にジム通いもするようになるとあっと言う間にたくましくなった
若干話題が古いけど、こういう対談がある。
「アナと雪の女王」のクリストフはなぜ業者扱いなのか? 夏野剛×黒瀬陽平×東浩紀の3氏が男性視点で新解釈 https://www.huffingtonpost.jp/2014/08/07/anayuki-genron_n_5660493.html
ざっくり要約すると「アナ雪は女性だけで解決してしまい、クリストフはただの業者扱い。男としては疎外感を覚える」というような内容。
>「わざわざ男いらないって強いメッセージを出している。なんでそこまで王子モデルを攻撃しないといけないのかと」
クリストフは王子様じゃないけれど、誠実で素朴ないいやつだ。孤独な変人だけど、仕事と家族を大切にしている。
そこらの王子様モデルよりよほど親しみが持てるし、ありのまま、人間らしく描かれていると思う。
ただ役回りが脇役で、「なんでも解決できるヒーロー」ではないだけだ。
そのクリストフを「業者」と呼んで、アナ雪を男の「排除」「攻撃」と感じる男性の心理っていったい何なんだろう???
◆
個人的に、「アナ雪」は「男いらない」とは言っていないと思う。ただ「ヒーローの男はいらない」と言っているだけだ。アナもエルサも自分たちの問題は自分たちで解決したいし、しなきゃいけない。
ヒーローの男がいると、女は人形みたいなプリンセスとか、救われる村娘Aとか、後列で回復呪文を唱える係とか、とにかく救済されたり、弱者だったり、よくてサポートの役回りを演じさせられる。物語のラストには弱い自分を救ってくれたヒーローと恋に落ちて、結婚するまでが一連の流れだ。まるで舞台装置か優勝トロフィーみたいに。
そういう王道ストーリーを完全に否定するわけじゃないけど、もう古いよねっていうのが今の時代の流れだ。
古い性役割を「抑圧」と呼んで壊そうとするのが昨今のウーマンリブであり、ディズニー作品はそういう社会を反映している。
自分の問題は自分で解決できるのだという確信、主体性を持つこと。
期待される「プリンセス像」を捨て、「ありのままに」なることが抑圧からの解放だと描くこと。
それらが今の時代に生きる多くの女性の支持と共感を集めたんだと思う。
(私個人としてはアナ雪はそんなに好きじゃなかったけど、こういう社会問題をいち早く取り扱って幼児向けのエンタメにできるディズニーってやっぱすげえなと思う)
◆
そんな感じで「脱プリンセス・ありのままのわたし」運動は着々と進むのに対して、「脱ヒーロー・ありのままのおれ」運動は全然進まないように見える。
こっちの此岸では「美しく従順でなんでも受け入れるプリンセス像」を火にくべ始めたのに、
あっちの彼岸では「強くて賢くてなんでも解決できるヒーロー像」を街の中心に据えて崇拝し続けているように見える。「美しく従順でなんでも受け入れるプリンセス像」も現役アイドルだ。
だからそのヒーロー像、プリンセス像を正面から否定してみせた「アナ雪」に、対談の男性たちは反感を覚えたのかもしれない。
男性社会の最高神である「ヒーロー像」を否定することが、まるで「男という性別」への攻撃のように感じられたのかもしれない。
ただ思うのは、脇役のクリストフこそ、「ありのままのおれ像」なのではないかということだ。
確かに、そういう強いヒーロー像を崇拝する男性社会はこれまで人類史で栄華を誇ってきて、結果も出してきた。歴史があるし今も続いている。
だけど、すべての男性がヒーローになれるわけではない。弱い人、賢くない人、色んな事情を持った色んな人がいる。そこを配慮せず弱者を切り捨て、マッチョイズムだけをよしとする社会は公平さに欠け賢くない。
ヒーローの強さだって言っちゃえば暴力だし、そんなのこの21世紀にアナログすぎる。
だから多様性の時代になってるわけだし、弱いものに底上げが必要なんだと思う。アファーマティブアクションってやつ。女性もそうだけど、いわゆる「弱者男性」だってそうだ。誰もが自尊心を持って生きる権利がある。
多くの男女の自尊心を削る「ヒーロー像」「プリンセス像」は一度打ち壊して、火にくべるときが来た。父権社会の解体が、今世界的なムーブメントになっている。
◆
男性はどうも「モテ」に固執してしまうふしがあるようで、女を「モノ」にすれば「男になった」と認められるような悪習がある。
まるで男が自尊心を得るには、女の人権をかすめ取らなきゃいけないみたいな言い方だ。
より多くの美しい女を取得することを自己価値のバロメータとして、他者と比べあい、自分をいじめるみたいな悪癖がある。
女性もそういうことは普通にするけど、男性のそれは比じゃないというか、ちょっと理解の範疇を超えてくる。
そこには生物的な性欲の違いや繁殖欲だけでは説明しきれない、人間的なドロドロとしたもの、文化形成された支配欲や加害欲と入り混じった、「女」への憎悪・悲哀・妄執を感じる。
そういう恋愛観のまま接するからお互いうまくいかなくなる。女からすればそういう男は背後に暴力性がちらついて見えるわけで、嫌悪感や恐怖感が出てくる。性行為と性暴力って全然別のものだと思うのに、相手はしばしば混同しているように見える。
そもそも自尊心や自己肯定感というのは、自分の中で育てるものだ。社会的地位や容姿、「モテ」「非モテ」と関係なく、無根拠に持っていていいものだ。自己価値は異性にアウトソーシングして調達するものではない。
やはり男性も、「ありのままのおれ」になるときだ。「男らしさ」から解放されるときなのだ。
◆
「Metoo」や「女性専用車両」や「女性だけの街」、性犯罪やジェンダーの話題はとにかくネットで炎上しやすい。
そのときの会話の噛み合わなさに、いつも此岸と彼岸の隔たりのことを思う。見えているものが違いすぎると思ってしまう。「女性専用」という言葉や、性犯罪者の告発に怒り狂う男性たちはあまりに不可解で、言葉が通じない恐怖がある。
「すべての男性が性犯罪者ではない。俺を犯罪者扱いするな」というのがよく言われる意見だ(ノットオールメン)。しかしそんなことは自明なわけで、誰も「男全てが性犯罪者だ」なんて言っていない。
なのになぜ自分を「男性」という共通項のみで性犯罪者側に寄せ、「俺への攻撃だ」と思い込んで怒るのだろう? 同じ「善良な市民」という共通項で、被害者女性側に寄せ、性犯罪者に対して怒ることはできないんだろうか?
もちろんそういうことが自然にできている男性もいるが、現状では少数派に思えるのだ。
そういった怒りの背景には内面化された強固なホモソーシャルの価値観や、ミソジニーや、「ヒーロー像」へのコンプレックスがあると思うのだが、ここらへんを掘り下げた男性自身の話はあまり聞かない。
男社会で男であるということは、特権であると同時にプレッシャーでもある。うまくやれればまだいいが、うまくやれない人はやはり苦しい。
男社会ゆえの苦しさを、男社会ゆえの特権でもって、女に加害したり、女に癒されようとしているように見える。そうやって留飲を下げる男性たちは歪んでいるし、やはり何かに呪われているように見える。
脱線したけど、そういったヒーローになれない男性が救われるかどうかは、男性の意識の問題なのだと思う。
「ヒーロー像」を手放すこと。「プリンセス像」を押し付けないこと。
クリストフみたいなキャラクターを否定せず、「ありのままのおれ」を受け入れること。自分と同じように、他者も尊重すること。
旧来の「男らしさ」にとらわれて、自分を大きく見せようとしたり、誰かを貶めないこと。ささやかな自分自身の中に自尊心を見出すこと。
そのへんが大事なんだと思う。
ツイッターの観測範囲だと、そういう呪いを手放して楽になった男の人も散見するようになった。今は過渡期なのかも。
男だ女だって主語デカイ話書いたけどみんな楽になればいいのにな。いや理想論だけど理想のないリベラルって存在価値あんのか? 民主主義だって奴隷の解放だって女性の社会進出だってかつては理想論だったやん??って思う(このへんルトガー・ブレグマン著『隷属なき道』にくわしい)
マイケル・キンメルatTEDWomen 2015
誰にも言えない話なので、ここで吐き出そうと思う。
ちなみに経験人数20人の中に、風俗または金銭の絡んだ関係は含んでいない。
今僕は24歳。埼玉に暮らすしがないサラリーマンである。仕事も2年目がそろそろ終わるころで、同じ年齢の男であれば、人によっては彼女との結婚も考えるような時期だ。ただ、僕には将来を考えられるような彼女はいない。それどころか、24年の人生でただの一度も彼女ができたことがないのだ。
しかし、経験人数だけは20人を超えている。せっせと様々な女性とセックスをしてきたが、本当に好きな人と肌を合わせたことはない。
恋愛をしたくないわけではない、ただ彼女がほしいとも強く思わない。おそらくこれは自信のなさから来ているのだと思う。
身長は180cmあり、顔もかっこいいと言っていただけることが多い。学歴も一般的にはかなり高いと言われる水準にある。営業職でそれなりに成果も出しており、人とのコミュニケーションに難があるわけでもない。彼女がいないことに驚かれたり、ゲイなんじゃないかと本気で疑われたりする。確かに持っている要素だけ掛け合わせたら、どう頑張っても彼女ができないというスペックではないのだろうなと思う。
でもとにかく自信がないのだ。
誰かの信頼できるパートナーになれるイメージが全く湧かない。それなら一人のままで良いのかもしれないと思ってしまう。
そんな僕の前にタチの悪いおもちゃが現れたのが、つい3年ほど前。出会い系サイトだ。
興味本位で使ってみたところ、あれよあれよと言う間に30代の女性と会うことになり、童貞を卒業した。
別に深い関係を築かなくてもセックスはできる。夕方から夜に会えば、自信のない外見をまじまじと見られることもない。
完全に味をしめてしまった。
その後もたまに出会い系サイトを開いては、好きでもない女性と会ってセックスすることを繰り返してきた。
会って飲みに行ってセックスするだけ。こう書くと簡単そうに見えるが、事前に連絡を続けて心を開かせたり、セックスに持ち込むために会話の内容、店の場所を考えたりするなど、頭はフル回転させていた。失敗することもあったが、会うまで行った時の成功率は8割〜9割だと思う。
ちなみに大体はワンナイト。何人かはセフレの様になったが、3、4回会って自然消滅といったところだ。
そうやって一時の快楽を得るために時間を使って、本当の恋愛をすることから逃げ続けてきた結果、
24歳、これまで彼女なし、経験人数20人超、というロクでもない男が誕生した。身体はヤリチンでも、心は童貞のまま。
心を開いていないが故に、コンドームの上にもう一枚バリアを張ってセックスしているような感覚にも、もう慣れてしまった。
彼女ができたことがないという引け目を、経験の多さで埋め合わせようとしてきたわけだ。
周りが恋愛トークしている時にも、これまで出会い系で出会った女性から得た情報を駆使してわかったふりをする。これまでの彼女の話を聞かせて、と言われれば、もっともらしく中身スカスカの話をしてその場をごまかす。
「なんでその時の彼女と別れたの?」「お互い忙しくて中々会えなくて...(まあ多分、世の中のカップルの別れる理由ってこんな感じだろ)」
「いつから彼女いないの?」「うーん、半年くらいかな...(母親のお腹にいる時から今この時までいないけどね)」
「何人と付き合ったの?」「4人かな...(中学で一人、高校で一人、大学で一人、社会人になってから一人ってことにしとくか)」
彼女 or 彼氏とマンネリなの、実は気になっている人がいて...みたいな相談をされることもあるけれど、何と答えて良いのか全くわからない。恋人とのあれこれなんて、一切経験したことがないのだから。女性とデートした経験なんて、真面目系なマッチングアプリで会った人と浅草に寄席を観に行ったことくらいだ(ちなみに途中で完全に話題がなくなり、無言のまま別れてその後即LINEブロック)。
"拗らせている”自分を言い訳に、恋愛から逃げ続けている最中だが、そろそろ自分自身ときちんと向き合わなければとも思っている。
ただ、つい先日も出会い系で会った女性とワンナイトしたばかり。見た目もタイプで性格も良いなと思ったので、その時は食事だけで、今後しっかり関係を作っていきたいと考えていたのにだ。途中で「あ、イケそうだな」と思って、自然にホテルに連れ込んでしまった。「ヤレるか、ヤれないか」という視点で女性を見てしまっているのが、完全にヤリチンのそれで自分に辟易する。もはや軽い病気である。
好きな人と過ごす時間ってどれほど幸せなのだろうか...そんなことをぼんやりと考えながら、僕は今日も出会い系の掲示板を眺めている。
大学留年しました。まあ去年の夏ぐらいから薄々わかってたから特に驚きもしてないんだけど。どうせならネタにしてやろうと思ってこの記事を書いてます。
なんで留年したのかっていうと単純に単位が足りなかったからですよね。僕の場合一年の時から大学に対してやる気がなかったので、結果こうなりました。まあ自業自得ってやつよ。
僕は大学に入って一週間で図書館に引きこもるようになったんだよね。一応第一志望のとこだったんだけど、なんか思ってたのと違うぞ、この授業受けて意味あるのか、友達ってどうやって作るんだっけ?って色々混乱した結果ぼっちになり図書館に引きこもりました。これが一年の時。
この時は救いを求めるように本ばかり読んでました。もちろん学術系の本なんて一冊も読んでない。この頃の僕に必要だったのは現実逃避と立ち直り方だったから、小説とかビジネス書ばっかり読んでた。
まあそんな僕でも二、三年は部活やってたから、それなりに充実してたかもしれないね。この頃には友達とか知り合いも増えてた。女遊びもそこそこにって感じ。
そんで四年になってまた引きこもるようになります。あれ、とりあえず四年になったけど俺ってなんのために大学通ってるんだっけ?状態に陥り今度はさらに深刻で大学のカウンセリングに通ってました。
その頃スポーツジムにも通いだしていたので、ジムと保健室を往復する日々。おい、大学はどうした。
この頃から自己肯定感が崩壊し自己嫌悪のスパイラルに陥りました。なんかわからんけど人の視線が怖い。大学行く意味わからない。夜眠れないから精神薬を飲む日々。SNSで愚痴ることしかできない。
唯一の楽しみは筋トレだった。ジムに行けばバーベルが待ってる。今日も追い込める。なぜかそれだけで安心したんだよね。
周りは文句言いながらもスーツ着て就活している。なんでみんなサラリーマンになりたくないと言いながらなるための努力をしてるんだ。結局みんな同調圧力に流されてるだけじゃないのか。
そんなどうでもいいことを毎日考えてました。ちなみにちょっとは就活してたけど、ここは今回は割愛。
そんなこんなで時間が過ぎて、今の正直な心境綴ると、大学無駄だったなあ4年間何してたんだろうなって感じですかね。
それについて後悔してるかと聞かれれば、まあ全く後悔してないわけじゃない。けど、これがもし普通に卒業できてて就職できてれば満足してたかって言われると、そうでもない気がするんですよね。
まあ、こんなこと書くと強がりみたいであれですけど。僕がやりたいこと見つけられたのはほんとに最近なので、もっと早く出会いたかったなってのはあるかな。
ザックリまとめるとこんな感じ。今の僕がどうしてるかはまた別の記事でいつか書きます。過去を悔やんでも仕方ないからね。
とりあえず酒でも飲んでくるよ。またね。
元記事
http://blackmagician.heavy.jp/topbuzz/2018/03/07/たった今大学を留年したから心境を綴るぞ/
どうして赤の他人のエントリでここまで多幸感に溢れることが出来るんだ。
そして同時に私の心は完全に死んだ。
私も自己肯定感が低すぎて身動きがとれなくなっていたから。そして私はそれを解決するために適当な男とセックスする道を選んでしまったから。
腐っても女、体に穴があれば男の人は相手してくれるんだね。
ネットで会った男の人はみんな私にかわいいかわいいって言ってくれて、まるで私はお姫様みたいな気分になれたよ。
クソみたいな方法だったけど最低限の自己肯定感も手に入れて、なんとか外で前を向けるようにもなって、でも結局途中で虚しさが勝ってやめちゃった。
最近似たようなこと考えてて、身の回りでの傾向で何となく分かってきたのが、自己肯定感が低い人って、自分の責任でものを考えず他人とか他の何かのせいにしてるケースが多い。
多分単純にいまできることが多いとか少ないとか、優秀だ劣ってるって話じゃなくて、これまでただ落ち込むだけじゃなく自分を省みてきちんと前に進めてきたか、成長してこれたかってことに対する実感がないから、自分を肯定できてない気がする。
ワイドショーのコメンテイターじゃあるまいし無理に原因を求めないほうがいいよ
自己肯定感低いけど誰のせいとも思わん
強いて言えば自分のせい
親がどうしようが変わらずこういう人間に育ったと思う
趣旨とずれるけど、自己肯定感が低い人って、自己分析で何が原因だと思う?
やっぱ、幼少期に親に相手にされてなかったとかってあるのかな?
認められたい、という欲求。
誰でも持っているというが、自分の場合は強すぎるのではないかという悩み(?)がある。
ものの記事などでは、幼少期に両親から十分な愛情(承認)をもらえなかった人は自己肯定感が低く承認欲求が強くなりやすいとあった。
しかし冷静に周りを見渡すと、自分のことを認めてくれている(と私が感じる)人はたくさんいた&今もいる。
小中高大の友人知人、職場の上司や同僚、そして両親や兄弟姉妹などの家族。
よしんば認められている感はあったとしても、満足できていない。
自己肯定感もとても低い。
いつも「自分のような無能で無価値な男は存在意義などないし、そもそも私のような男が生きていること自体恥ずかしい」と思っている。
なぜならば、一番認めてもらいたい人に認めてもらえていない(認められたとの実感を得られない)からだ。
既に認めてくれている人たちには大変失礼なのだが、一番認めてもらいたい人に認めてもらえさえすれば他のすべての人が敵であっても構わないし、どれだけたくさんの人が認めてくれようとも、一番認めてもらいたい人に認めてもらえなければ自分にとってはまったくの無意味なのである。
認めてもらえないのは努力が足りないのだろうか?
一体何をどれだけどうすれば、自分が満たされる日が来るのだろうか。
時間は待ってはくれない、自分自身も嫌でも老いる=価値がさらに低下する。
いくら先が見えなくとも、とにかく努力し続けなければ、手に入るものも手に入らない。
追いかけても追いつけないが、休んでいれば確実に遠ざかっていくのだ。
毎日が味気なく、辛く、苦しい。
大東亜帝国なんて受験界では呼ばれてる大学の1つに通う大学3年生。
便宜上タイトルではFランって言ったけど正直Fランとは思っていない。まぁ早稲田生とかから見れば思いっきりFランなんだろうけど。
就職活動をしなければならない。
どうしたらいいんだろう。
なりたいものなんてない。
金融は嫌だ(多分向いてない)、アパレルは嫌だ、バイトでもできる仕事(店舗勤務)は嫌だ、家賃補助が欲しいもしくは社宅に住みたい、東京で働きたい、給料が割といいところで働きたい、完全週休二日制が良い、残業はあまりないほうがいい、やりがいのある仕事がいい、職場の人間関係が良好なところに勤めたい
本音はコレ。
ただそんなの贅沢なのは知ってる。
もっと言うと
大企業に勤めてみたい、自己肯定感が低いからそういう分かりやすいステータスみたいなのを得れば少しは自己肯定感を得られるのでは?でも大企業に勤めたところで自分はきっと役に立つ人材じゃないから自己肯定感なんて得られず寧ろ劣等感を感じるかもしれない。あ゛ー、社会人になったら出会いないっていうし、大学時代の彼氏とそのまま結婚もしくは新卒で入った会社の同期と付き合って結婚とかじゃないともう遅いって聞くし、大企業に入って出会いを求めるのもアリなのでは?てかそもそもこの学歴で大企業なんて無理だから考えるだけ無駄じゃね?ワロタwwww
とかそんな感じのことばっか考えてる
自分が目指したいところ、ゴールが見つからないから、ゴールから逆算して就職活動のために何をするかっていう計画を全くたてることができない。
ゴールがないまま就職活動なんかしても多分無理だ。でもゴールが見つからない。やりたことって何だろう?得意なことってなんだろう?
好きなことはインターネットだ。
ツイッターで人の人生とか考え方、リアルでは聞かない部分を垣間見るのが好きだ。同じような理由でブログ巡りも人のインタビュー記事を読むのもツイキャスを聞くのもアイドルも好き。あとは化粧品が好き。
う〜〜ん
よくあるのが自分の親が毒親で自己肯定感が低くて辛い、なんとかしなきゃって言ってる(書いてる)人。
うーん。アラサーだったら親から離れて独立して5年~10年は経ってるわけだし、その間に自己肯定感って育てられないのかな?って思う。
そういう問題ではないの?
私は母親が毒親っぽかったけど私も弟も友達や外のコミュニティ(学校とか会社)の人たちに頼ってなんとかまともに育ったけどな。
弟なんていち早く母親の毒に気付いてて「俺の家庭は異常」と見なして、友達から人生のサンプル(こうあるのがいいよ、普通だよみたいな家庭像とか人生)やら愛情やらを受けていたらしい。
私は鈍くて社会に出てから「なんかうちの親おかしいかも」と気づいたけど、親と接する回数を減らして、仕事頑張って、自分を肯定してなんとか来年にはまともな人(大好きだし尊敬してます)と結婚できそう。
今でもたまに会うと母親から汚い言葉で否定されたりするけど、「この人社会に出てないからこんな言い方しかできないんだな。可哀そうな人」、「コンプレックスやばいなーこの人」というかんじで簡単にスルーできる。
なんでいい大人が未だに「親が」「親のせいで」って言ってるんだろう。
で、そういう人たちの共通点はとにかく視野が狭いのと友達がいないこと。
人との接し方がへたくそなままだから好かれないまま友達もできず、最悪いじめられたりしてまた自己嫌悪、人嫌いになっている。
親から影響を受けた自己肯定感の低さなんて、他人とうまくやっていこうと頑張って仕事したり遊んだりしてれば解消できると思うんだがな。
体がついていけなくて休みをもらいました。
(増田には書き込みできてんじゃねーかという話はご容赦いただけると嬉しいです)
【辞めたい理由】
・業務内容についていけない。数学が大の苦手なのに金融なんて、選択を間違えた
・プライベートで美術・デザイン方面で評価をもらってて、やりたいことがある
・ただ最近は、ストレスからか「興味」「生きる楽しみ」「生きる意味」みたいなのが感じられなくなり、
・このままだと精神の健康を失うことが目に見えている。完全に壊れる前に辞めたい
・いい上司や先輩に恵まれたと感じたことがない。私以外の人間関係はできあがっており、孤立している
・体調崩した後、労働条件を変えられた(呑めないなら辞めろとも言われた)
①社宅あり→なし
・↑が全員平等な条件ならともかく、うつ病後でも社宅あり首都圏総合職なんてザラにいることを知った
・体調に配慮して業務量を調整してはもらっている(医師の診断書が出ている)。しかし
①「調整」といいつつ普通の業務量(残業代なし)。総合職並み(研修や当番は免除)
②「調整」している(会社としては普通の業務量を任せていない認識)ため、人事評価は普通以下とする旨の通達
③体調配慮の件がヒラには周知されていないため、「何であの子だけ特別扱い?」と反感を買い孤立が加速
【思い留まる理由】
・生活のため。幸い実家は健在だが、想像を絶するド田舎で、働き口はない
・東証一部上場企業の新卒正社員というブランドにしがみついてしまう
・社会全体から見ると恵まれているほうだと思う(4年目事務職資格なしで年収330万、休暇も取りやすい)
会社を辞めてどうするかなんて展望はないけど、とにかく現状から逃れたい。
休職は結局会社に戻らないといけないため、心が休まらなかった。
精神壊したら元も子もないという焦りだけが頭にこびりついてる。
20代前半を完全にどぶに捨てた気がする。
付き合っている人(社内)はいるけど、結婚の話は一向に出ないし、辞めたら自然消滅だろうな。
(こういう悩みは一切話してない。ネガティブなことを話して嫌われたくない)
手帳を取って障碍者枠、も考えたけど、親に泣いて止められた。親を泣かせてまで取りたい手段でもない。
会社は友達作りの場でも、楽しいだけの場でもないことは理解しています。
でも、苦痛のみを味わい楽しみが一切ない苦行の場である必要もないと思ってしまいます。
「生活のためと割り切って、いるだけで給料がもらえると思えば…」→いることで精神が削られる場合はどうしたらいいんですか?
ちょうど1年前に退職を申し出たときは、引止めにあったけど、結局1年間決心は変わらなかった。
甘いですか。もう少ししがみつくべきですか。
追記:4大卒(1浪)、新卒入社4年目、もうすぐ5年目の女、27歳です。反応ありがとうございます。
追記2:【再度辞めようと思い立った理由】先日、若手の間に受けるべき資格試験を全部受け終わった。
「ここまで頑張ったんだし、昇格まで居座るか!」という考えが浮かんでくるかと思いきや、
「逃げずに頑張ったと言う自己肯定感が出来た。悔いはないから辞めてもいいや」って考えになった。やっぱり深層意識で
辞めたがってるんだと感じた。
日本ユニセフ協会がやっているマンスリーサポートという、銀行口座やクレジットカード経由で定額の支援ができるプログラムがある。おれもこれに参加していて、しばらくたったのだが、こないだ解約した。これは別に何千円が惜しい、というわけではない。いや、カネないけど。まあ、それはおいといて、解約した理由としては「自己満足感が薄い」という点が挙げられる。支援の目的としては貧困国の人たちの生活がちょっとでも良くなれば、という気持ちもあるのだが、それと同じくらい「良いことしたなー」という自己満足感/自己肯定感を得たい、という部分ある。けど、月々の定額の引き落としだと、なんとなく「寄付したなー」感がめちゃくちゃ薄くなるんだよな。たまに口座の明細をみて思い出す程度。それなら多少手間であっても、銀行に行って現金で振り込み依頼をしたりしたほうが満足感を得られるな、と思ったのだ。もちろん、マンスリーサポートという仕組みはそういう手間を嫌ったり、なんとなく支援しようかなあ、と思っている人には良い仕組みだと思います。
ミスするともう一生許されないような気がする。
迷惑をかけた相手に謝って、やるべきことをきちんとやったとしても、もうその人とは絶縁するしかないと思うし、今後どう関わっていいかわからないから関わりたくない。
だから絶対ミスしないように気を付けるんだけどミスをしてしまって、ミスした理由もちょっと心当たりがあることが多くて、どうしてあの時あとほんの少し立ち止まって確認しなかったんだろうってずっと自分を責めて苦しい。
ミスをしてもあっけらかんとしてる人はどうやってるんだ?
ミスをした時、素直に謝ればいいのにそれもできなかったりする。
その場しのぎの嘘をつきたくないのに口が勝手に嘘をついてしまう。
気まずい空気になるのが耐えられなくて、そうなる前に勝手に嘘を言ってしまってもう取り消せなくて後悔する。
でも100%嘘じゃなくて、それもほんの少し要因だけど主因は自分のうっかり、みたいな時に主因はうっかりじゃないっていう嘘をついてしまって、それで取り繕おうとして、相手がどう思っているのか、嘘だと気付いて怒っているのか気付かずただミスしたことに怒っているのか、怒っていないのか、わからなくて怖い。
素直に謝る練習をしたい。
でも謝ったら謝ったで今後どうふるまったらいいかわからなくて絶縁するしかないと思いつめてしまう。
自己肯定感が高ければ、謝って水に流すっていう心の持ちようになれるんだろうか。