はてなキーワード: 公共性とは
「オリンピックみたいな公共性の高いイベントをやるのに小山田は相応しくない」ってみんな言うけど
そんなだから小山田もウマが合ってYMOのサポートメンバーとかやってるのかもしれんけど。
『遅刻やすっぽかしもしょっちゅうでしたし、運転手が気に入らないとすぐに殴ったり蹴ったり。
今思えばとんでもないことですし、私の理不尽な暴行に耐え切れず辞めていった運転手の人たちには申し訳ないと思っています。』
https://anond.hatelabo.jp/20200629225527
坂本龍一『新宿高校は新宿南口。東口は紀伊国屋書店で 万引して捕まった』
坂本『ええ、ピアノの楽譜を。楽譜一冊一日でマスターしてしまうので 全然お金がたりなくて万引きしていました』
https://twitter.com/retttwit_2110/status/249040701143273472
『テレビ番組「おしゃれカンケイ」において愛人(ニューヨークで行動を共にしているマネージャー)とその女性との間にいる子供(次男)の存在を認め、長男と坂本美雨に「お父さんにはお母さん(矢野顕子)以外に好きな人がいる」と告げたというエピソードも披露している。「子供は4人」と語り、矢野顕子との結婚前に学生結婚していた女性との間にも子供(長女)がいることも明かしている』
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E9%BE%8D%E4%B8%80
坂本龍一って絶対に逃げ切っちゃダメな大御所アーティストだよな
https://anond.hatelabo.jp/20210603134218
『こんな出来事がありました。新宿でライブをした後、翌朝まで飲み明かし、甲州街道のあたりを酔っ払って歩いていたら、喫茶店のガラスケースがふと目に入った。その中にあるスパゲティやパフェなどの食品サンプルがホコリだらけで汚れていたので、僕にはどうしても許せず、いきなりガラスを蹴りつけて壊してしまった。『よし、これで世の中から醜いものを消し去ったぞ』なんて意気揚々と歩いていたら、器物損壊で警官に捕まったんです。不起訴になったので前科はついていませんが……。』
■娘を虐待
『今とは違って、かつては親の体罰も普通にあったように思います。私の父親(ミュージシャンの坂本龍一さん)も昔はとても激しい人で、時には怒りに任せて手が出ることもありました。私が悪いことをしたから叱っていたのか、父自身のイライラをぶつけていたのかわからない時もあり、そういう時はただ父の威圧感に怯えていたような気がします。その時に感じた怖さは今でも心に残っていて、娘を叱る際に「今の私、あの時のお父さんみたい」とハッとすることも。』
それと同じことを宇崎ちゃんの事例でもやらかしてます。彼女は「胸が大きい=卑猥だと女性からも言われてしまったら」とか書いてますけど、そもそも宇崎ちゃんポスターの批判していたフェミニストで「胸が大きい=卑猥」などという単純な主張をしていた人はほぼいません(少なくとも私は見ていない)。
...
批判の主論は"不必要に胸部を強調している”造形や衣装・ポーズなどのデザイン(乳袋論争とかありましたね)が献血という公共性の強い施策の促進策で用いられたことに対するものです。彼女はここでもそれを理解できずに「胸が大きい=卑猥」という性規範の話に矮小化してしまっているんですよね。
"不必要に胸部を強調している”造形が、公共性の強い施策の促進策で用いられるのが好ましくない理由は、それが 卑猥 だからではないのですか。
「胸が大きい=卑猥」と言ってしまうと、もろに巨乳女性へのヘイトになってしまうから、きれいな言葉で言い換えているだけにしか思えないのですが。
主演が男の子4人のホモソーシャルで女の子役にはそもそも活躍の機会そのものが与えられていない。内容も徹底して『冒険に憧れた少年時代』への懐かしさを煽る男性視点の映画。しかも全員が白人。
このような映画が持て囃されることで、『白いハリウッド』ひいては『男性中心のエンタメ業界』が拡大再生産されていくのだと思うと悲しくて涙が止まらなかった。
別に俳優の演技や演出や音楽に文句があるわけではない。レンタルビデオや配信で個人が自分の意思で見ることまで止めさせようとは思わない。
でも、人種差別や女性差別に対する視点を持ち合わせていないこのような映画を、地上波で放送するのは止めて欲しい。地上波のテレビというのは、『なんとなくテレビをつけて偶々やっていた番組を見る』人も相当な数がいると想定される公共性の高いものなのだから、地上波で放送する映画やドラマは、もっと女性や少数民族や性的マイノリティをエンパワーメントする作品にして欲しい。
これはフィクションです。
愚痴です。長文です。
もう半年以上前のことなのに、自分のことが嫌いな私はたまに思い出しては自分を傷つけてしまう。
だから、気持ちを言語化して人目に晒すことで過去の出来事なんだと実感させて、あわよくばすっきりしたいという目的です。
もう数年の付き合いになるはず。
私はAさんの創作物が好きだった。
Aさん自体も良い人で、他人の悪口や相手が好きなものを下げるようなことは言わない人だった。
私たちはジャンルが同じでも好みが全く違うことが多かったが不思議と話が弾んだ。
Aさんは活動を止めてしまったけど、ジャンルが変わったらお互いに布教したりして付き合いが続いていた。
Aさんは公式だけでは満足できなくなり、pixivを探し尽くし、ついに他人の感想を求めてTwitterでパブサをするようになった。
そして玉を引ける確率はとても低い。
どうしようもない石に多く触れて、しかも自分ではキャラクターの話をしなくなったAさんは、私の目からは少しずつ変わってしまったように思えた。
私が好きなキャラクター(Bとする)について、「B好きの人がTwitterで見当違いの感想を言っていた。これだからBのファンは頭が悪い。パブサする人のために配慮して発言するべき」と言ったり。
ただ内容はどうあれリプライでもない純粋な「感想」のつぶやきに対して、こういう人もいるのかとか、腹立つ!ブロック!とか自己処理できないのならそもそもパブサしない方がいい)
Aさんが好きなキャラクター(Cとする)の話とBの話が、 公式から同時期に動きがあった時に「Bの話どうだった?私はCの話で胸がいっぱいだったから読んでないけど」と言ったり。
(後半は言わなくても良かった)
「Bは何考えてるのかよく分からない」と言うので、私はこう考えてると思うなぁと説明しようとすると「そんなことないよ!だってBは相手のこと全然考えてなくて~」ともはや悪口のような発言をしたり。
(それは苦手ではなくてかなり嫌いの域では)
一番堪えたのは「2.5のこと私はコスプレだと思ってるから」だ。
私の「この前の2.5のBがすごく良くて!」という感想を受けての返答だ。
ある意味では正しい。
コスプレとは、「漫画・アニメ・ゲームなどのキャラクターに扮装すること」だから。
だが2.5が好きな人への発言としては、あまりポジティブな意味合いはないように思える。
そもそもコスプレをしている方にも、2.5の方にも失礼な言葉だ。
そっか、としか返事が出来なかった。
もしかしたら。
見当違いのことを言うB好きがいると他のB好きに迷惑かかるよね、という気遣いだったのかもしれない。
公式からのBの供給に対する私の感想を単純に聞きたかったのかもしれない。
キャラクターへのマイナスの感想って他人には言いづらいから、誰でもいいから吐き出したかったのかもしれない。
2.5じゃなくて原作の話してくれ、という気持ちが爆発したのかもしれない。
なんて前向きにこねくり回してはみたもののやっぱりそうは思えない。
人間関係は必ずどちらかが我慢している、というのを以前見かけたが全くその通りだと私は思っている。
そんなことないと思っている人は、相手が我慢してくれているか、小さな鬱憤を処理するのがお互い上手なのだと思う。
別の個体である以上、摩擦を生まずに付き合うのは到底不可能な話だ。
そして別の人間だからこそ、自分の好きなものが相手の嫌いなものということも多々ある。
逆もまた然りだ。
それ自体はどうしようもないことだし、理解を示すよう心掛けている。
だけど「あなたの好きなものが私は嫌いです」と直接伝える時、求めているのは理解ではなく許容なのではないかと思う。
私は許容できなかった。
今回の出来事は複数の要因があったと思うが、大きく分けると二つの問題があった。
一つは、私が自分が傷付いたことについてAさんにその場で言わなかったこと。
そして、AさんがTwitterの透明な悪意に恐らく傷付いて発言の勢いが激しくなってしまったことだ。
前者は私の問題だ。
冒頭にも書いた通り私は私が嫌いなので、私が傷付いていることにひどく鈍感だ。
なのでその場では愛想笑いで流すものの数日間くらい相手の発言を反芻してもやもやし、数週間後にもしかして自分は傷ついていたのかと思いつく。
その場で怒りを発生させることができない。
随分前のできごとなので、これはもう私が飲み込むしかない。
後者は、私ももう大人なので相手を変えることはできないと知っている。
根本は好きなキャラクターの供給不足から発生している問題なので、
Twitterの感想以上の何かを私がAさんに与えることはできないし、する義理もない。
パブサを止めたらどうか、と言うことは簡単だが実現させるのは難しいと思う。
石は不味いかもしれないが空腹は凌げる。
まあ結局は、積もり積もった鬱憤が爆発するきっかけだったにすぎない。
Aさんは良い人だったけど摩擦を生まない人間関係はないので、私もAさんを傷付けてきたしAさんも私を傷付けてきたのだと思う。
知らない内に小さな傷が無数についていて、たまたま今回の出来事が最後の一撃になってしまっただけ。
ただ一つ、私の好きなものを嫌いだという言葉で、私を傷つけていないとAさんが思っているのなら悲しい。
相手に配慮のできていたかつてのAさんとはこれからも仲良くできたら嬉しかった。
これは愚痴であり、清算のための振り返りなのでどうすれば良かったかなんてことは、あったかもしれないけど既にない。
もう二度と会うことはないだろう。
フォーマルな場ではさすがに使う人はほぼいないけど、公共性のあるメディアの記事タイトルとかでは多用されてるよ。
https://www.google.com/search?q=%E3%82%AD%E3%83%A2%E3%81%84%E7%94%B7%E6%80%A7
https://www.google.com/search?q=%E3%82%AD%E3%83%A2%E3%81%84%E5%A5%B3%E6%80%A7
検索キーワードにもかかわらず女性から男性への用法ばかり出てくる。あとはわずかにCanCam.jpなどで女性から女性への用法があるくらい。
ゲスい記事の煽りタイトルだとしても、企業が自社名で発信する媒体で「キモい」が使われる女→男のケースと男→女のケースの非対称性は明白でしょ。
【追加】
「弱者男性論壇によって「キモい」がヘイトワード認定されるまでの経緯」
ttps://anond.hatelabo.jp/20210511201133
しかし、フェミニストはこの事件を強く問題視視した。その一つの要因は、この事件が男性-女性、年長者-年少者という関係性で起きていることだろう。「女性や年少者は目下のものとして言葉遣いをわきまえるべき」という旧来の社会規範への反発はフェミニズムの中で広く共有されていた。
コンビニ前で声をかけてきた男に対して女子高生が「キモい」と言ったら逆上して暴行された事件に対して、フェミニズムの文脈で「キモい」発言を『わきまえない発言;社会規範への反発』と肯定的にとらえている。つまりフェミニストたちが「キモい」を肯定する発言をしていた、という事実。
公共性を軸にした批判って根本的に成立してないと思うんだよね。
宇崎ちゃんポスターとかあの手のものは審査を経て、公開しても問題ないという判断のもとに公開されてる。
にもかかわらず公共性に反するって批判が出るってことは、発表者の「公共性」と批判者の言う「公共性」で定義が違うということになって
「『公共性』を軸にした女性表現への批判」は、多くが問題設定の面で極めて不誠実だ。
なぜなら、公共性を問う前に来るべき「その表現がどう問題か」という問いをスルーし、予め「その表現は問題である(多くは「性差別的である」などとする)」との見解を前提としてしまうからだ。
最大の論点は「その表現がどう問題であるか」、特に「差別に該当するかどうか=誰かの人権を侵害していないかどうか」以外にない。
https://anond.hatelabo.jp/20210328105319
大まかに言うと彼らの根底にあるのは「フェミニズム(フェミニスト)による抑圧への反発」である。
7年ほど前にメイドさんの姿をした女性型アンドロイドが描かれた人工知能学会の会誌表紙へフェミニズム的観点から批判が起ったことがあった。女性の姿をした存在に家事をやらせるジェンダーバイアスにまみれた絵は学会誌という公共的なものに載せるべきではない、そんな批判だった。
当時のTwitterでもそんな批判に対してかなり批判的な論調が巻き起こっていたけれども、あの辺りから公共性を軸にした女性表現への批判とそれに対する批判という対立がTwitter上で盛んになり、後者が所謂「アンチフェミ」と言われるようになったというのが大まかな流れ。
ここでキーポイントになるのが「公共性」。私達人間社会は「公共性」とコンフリクトするモノを排除することで成り立ってきた。「公共性」自体はそれを構成する価値観が社会や時代の変遷によって変化することによって変わる物でもある。そしてフェミニズム自体女性に対する価値観の変容を求める運動でもある。
つまるところ「公共性」を軸にした女性表現への批判というのはフェミニズム的価値観による新しい「公共性」を社会の軸にするための運動であり、どういう価値観を基に行われようとも排除とはそれをされる側にしてみれば抑圧そのものでもあるわけで抑圧のための運動として「アンチフェミ」には認識されているのだ。
もっと言ってしまえば10年以上前にあった所謂都条例改正問題であった保守的な価値観による公共性を軸にした抑圧の動きと同一視されているのだ。
あのツイートは、二次創作の問題・エロコンテンツが表示される問題・望まない検索結果が出てくる問題、それぞれ切り分けて考えるべき話を一緒くたにして、ピンポイントで荒れやすい層を狙い打ちにしようという悪意を感じたが……。
まあそれはともかく、個々の問題に関して言えば、一番どーでも良い二次創作云々の問題は権利関係や二次創作者の自衛の話だから第三者のツイ主がどうこう言うことじゃない。
で、リアルの『高専』が検索しにくくなる所謂『検索汚染』の問題だけど、これは一切配慮の必要はないと断言して良い。
言葉というのは万人に開かれているべきモノだし、これに配慮を求め出したらあらゆる言葉が様々な形で使用不可能になる。
一般名称をあらゆる創作、あるいは他にも商品名なんかで使えなくするというのは現実的ではない。
そもそも検索エンジン自体、私企業が利用者の需要と供給に基づいて求められる結果が出るようにロジックを組んでできているモノなんだから、検索で自分の望んだ結果が出ないならそれは需要が小さいと判断されただけのことで、それにグチグチ文句たれるのは何様だって話になる。
そして、一番の問題はエロコンテンツが表示されるという問題だけど、これはまあ難しい問題で、多少の配慮はあっても良いかなと思うけど、やっぱりプラットフォーム側がどうこうするべきことかなと個人的には思う。
後から来た人が公共性なんて言葉を振りかざしてもネットという空間がエログロ含め自由な表現ができる世界であるという事実は変わらないし、それをどうやってどの程度規制するかはプラットフォーム側が決定することだと思う。
この問題も結局はTwitterが(あるいは他の検索システムのあるサイトが)私企業である以上、そこでどういうルール作りをするかはTwitter社次第っていうのが落とし所じゃかいかな?
少なくとも、一ユーザーに過ぎないツイ主が他のユーザーになにか自主規制を迫るというのが正しいとは思えない。
もし現状に問題があると思うなら、そう思った人が運営に要望を出して、運営の手によってルールの制定でもbanでも検索避け機能の拡充でも何らかの対処が行われるというのが適切な手順だろう。
現状、Twitter社が一定の規約を出しつつ、同時に様々な(二次エロに限らず)ポルノコンテンツをなあなあで容認していることを思えば、Twitter社のお怒りに触れない程度のエロは自由であるべきだと思うよ。
明確に「この行為は業務妨害に当たらない」と断言しているけど事実なの?
https://twitter.com/joytamachan/status/1373998667829366786
今回の件についての日文研への抗議電話は業務妨害には当たらない。実際、今日私が電話をかけたところ、担当の方からも「呉座氏の処分は検討中。呉座氏に関する意見は電話でもメールでも随時受け付けてます」と好意的に言われたし、抗議の声を拾い上げることは既に日文研の業務範囲内になったと言える
https://twitter.com/joytamachan/status/1374000599713206273
こちらのツイート、ミソジニストたちが「電凸」という揶揄的な言葉をあえて用いることで所属機関を思いやっていることに対する批判なわけですが、これを「電凸は思いやり」などと誤読する馬鹿のまあ多いこと。お疲れ様です。
https://twitter.com/joytamachan/status/1374035242357383171
「電話は相手に負担をかけるからメールを使え」的なツイートが散見されるが、確かに抗議をただ届けるだけの目的ならその通りだろうが、例えば「組織としてどう対応するのか?」といった応答を要するやり取りについてはメールより電話の方が相手の負担は遥かに少ないだろ。電話の方が優しいこともある。
https://twitter.com/joytamachan/status/1374369563500896265
電話による抗議を全て「悪」ということにしたい人がいるようだが、単発・短時間・敬語の電話は正当な抗議言論。特に今回のような公共性の高い法人(大学等)に属する社会的地位の高い者が女性ヘイトをばら撒く行為は、社会的影響も大きく、法人に直接批判意見を届けることはむしろ必要なことです。
https://twitter.com/joytamachan/status/1374519571416162313
「抗議に対応する人件費を払え」というコメントがあるが公共性の高い法人(教育機関等)に所属する者が不祥事(ヘイトやハラスメント)を起こしたら本人のみならず組織に対しても批判の声が届くのは当たり前。法人の看板掲げてやってるならその程度の対応コストは法人側が当然に見込んでおくべきもの。
https://anond.hatelabo.jp/20210316232303
この増田の反応見て思ったんだけど、ポリコレって信教の自由に負けるんだな
だとしたら表現の自由にも負けるんじゃね?信教の自由と表現の自由のどっちが強いかって憲法上定義されてるのかな?されてなさそー
じゃあ信教の自由と同じ条件と考えればポリコレより優先されるじゃん。おお
しかも「憲法は政府を縛る為にある」って謎の理屈も、政府ではなく国民がキリスト教の教義をポリコレ文脈で批判する際に信教の自由を忖度してるって事は嘘だったって事だよな
おおー。だとすると憲法上定義されている表現の自由もまた政府ではなく国民がポリコレ的批判をする際に勘案するべき人権と言う事に成るな
表現の自由とポリコレがコンフリクトし得る事が確認できた以上、ポリコレ文脈の批判はそれが表現の自由を侵害しないか、している場合は侵害するに足る理由を備えているか検討を避けられない(しかも信教の自由を侵害する際と同じ強度で)
更に信教の自由はポリコレ的規範から自由であるなら、表現の自由も同様だと言えそうだな、ふーん、ポリコレ雑魚じゃん
→当事者以外による表現に対するポリコレ文脈の批判も同様と言えそうだな、これは大きい
→空飛ぶスパゲッティモンスター教の様な新しい宗教を作って表現を教義化すれば同じ恩恵に預かれそうだな
あと教義で定義されてると言うのは本当なのかな?例えば聖書にそう書いてあるならカトリックだけじゃなくてプロテスタントでも同じく祝福不可になるはずでは?なってるのかな?
なってないなら解釈次第で同性婚の祝福も可能だという事に成らない?だとすれば可能な解釈変更を行っていない教皇は同性婚に十分に譲歩しているとは言えないんじゃない?少なくとも「変更は不可能」では無いよね?可能だけどやろうとしていないだけ
・気に食わないなら改宗すれば良い、改宗の自由は確保されてる等
→表現の自由版に直すと「嫌なら見るな」だな、これがアリなら殆ど全ての表現へのポリコレ的批判は無意味になりそうだな
一応「公共の場では事情は違う」という反論も有り得そうだけど、今回のキリスト教の教義というものが「公共」に入らないかと言えば非常に微妙だよな?
ポリコレ的には時には公共機関ではない日本赤十字社や私企業のコンビニさえ「公共」に入るらしいが、特にキリスト教の強い国での教会の公共性はこれらを上回るのでは?
だとすれば「公共の場」である教会において改宗の自由と言う「嫌なら見るな」でポリコレが無効化されるなら、表現についても同じことが言えそうだね
・実害は無い
→実害の定義次第かなぁ、少なくとも信者の同性愛者にとっては祝福を授けられない事は非常に大きな精神的苦痛を伴うのでは?
実害の中に精神的苦痛を入れないなら、表現による精神的苦痛も実害には入らないという事に成る
更に表現への攻撃によく使われる強力効果論や限定効果論等のメディア効果論(表現に影響を受けた人が暴力的になったり性的な影響や差別的になるという考え)についても、
今回の教皇庁の発表が信者の差別を助長するという二次被害の懸念をも信教の自由でキャンセルできるなら、メディア効果論が仮に正しかったとしても表現の自由でキャンセルできるだろう
(まぁメディア効果論はそれ以前に、科学的なエビデンスが無い事が問題で、「仮に正しかったとしても」と言う仮定がそもそも疑わしいのだが)
→何故出来ないのだろう?出来ない理由に非常に興味がある、もし他の表現が同じ条件に該当するなら、表現の修正を迫るポリコレは同じ理由で拒否できるという事だから
聖書を修正すると信者が暴れるから?なら修正するとオタクが暴れる表現は修正できない事に成るが・・・・流石にこの理由は無いか
聖書の修正が信教の自由を侵害するから?いや、それも微妙だな、修正が信教の自由を侵害するというロジックが無い
本当に一体どういう理由なんだろうね?よく考えて見ると正しそうな理由が見当たらないや
・批判を諦めているだけ
→あまり好ましくない結論だが、オタク側も説得を諦められるようなパワープレイをずっと続ければその内諦めてくれる、という結論に成りそうだな・・・・