はてなキーワード: キレイとは
と言ってみたけど彼女はまだ12歳だし統合失調発症してるわけでもない。毎日しょーもないことで「ママのせいで…」と恨まれるのがキツイ。くらいの意味だ。
昨晩寝る前に娘が泣きながら抱きついてきた。
めずらしいことだ。
「ママと仲良しできなくて悲しい」
とシクシク泣かれた。
とりあえず
と言ってぎゅっと抱きしめた。
ほんのりとうんちの臭いがして
「ああ、シャワー浴びて欲しいな…」
と思ったけど、夜もとっぷり更けてたので舌かんで耐えた。
「アレした?これは何?」
と責め口調になりがちで
子供を生む前は
息子だったら
鬱陶しいと邪険にしそうで
怖かった。
「男は嫌いだ」
が、
20歳を過ぎて一人暮らしを始めたら、人恋しい気持ちに流されて、なりにイイ人だけど結婚相手とは思えない相手ばかりと恋愛ごっこをしながら30代になった。
「このままではアカンやろ」と婚活して頭のイイ経済力のある誠実な相手を見つけて半年でデキちゃった婚に漕ぎつけた。
ギリギリセーフで子宝にも恵まれた私はとてもラッキーだ。神様に感謝せなアカンな。と思っている。
宗教は嫌いだけど。
娘が生まれた時は
「何かとムツカシそうな男児じゃなくてよかったー。」
と思った。
が、
娘は眠らなかった。いわゆるかんの虫が強い赤ん坊だった。
常に抱っこしてないとダメ。
昼寝も2歳位にはしなくなった。
寝付きが悪く、夜中に泣き叫んで起きる。
午前1時、3時、5時のいずれかに起こされる日々が8歳くらいまで続いたお陰様で、夜驚がない平和な夜でも私は2時間おきに目が醒める体になった。
けど、夜中に目が醒める睡眠障害な体が健全なリズムを回復したのはホントに極最近の話だ。
「いつ怒号が響き渡るのか」
と身構えてた。
と我ながら感心するが、脳が破壊されたのをひしと実感する。
自殺願望や絶望はしてないがイライラするしネットびたりで現実逃避してる自分ははっきり言ってうつだと思う。
娘と喧嘩するようになったのは、彼女が4歳になって息子が生まれた頃からだ。
男児は弱い
育てるのが大変
という先入観があった。
娘は予定日よりも2週間近く遅くデカくて難産だったが息子は1週間前にちっちゃく生まれてお産がラクだった。
娘の時には産後2−3週間は立つだけで息が切れる程消耗したが、息子の時は
え?ホントに?
ってくらいラクで、3日めには家の掃除ができるくらいには回復してた。
「もしかして…
娘はめちゃくちゃ難しい子供だったのかも」
と思うようになった。
娘に比べると息子は一人で放っておいても平気な赤ちゃんだった。
「常に抱っこしなきゃ」
という焦りがないことがこんなにラクだとは。。。
と衝撃だった。
となると
一時が万事きーきー泣く娘に
何でそんなことで。。。
先月娘は12歳になったが今でも時々パンツにウンスジをつける。
拭き忘れた
というレベルではない。
べったりとうんちで汚れたパンツを洗うのは私だ。
幼い頃は
と促すと
と彼女は怒った。
「臭いな。。。」
と私が気づく前にパンツを変えるようにはなったが。。。
丸めて洗濯かごに突っ込むので、うんちに気づかずそのまま洗濯機に放り込んで干す時にパンツにうんちがついたままで洗濯し直しということが何回かあった。
「できたら自分で手洗いして欲しいけど、無理ならせめてバケツに入れておいてくれないと洗濯機だけではうんちはキレイに落ちない」
と頼んだら、1回だけ自分で洗ってくれたが、その後は汚れたパンツがバケツに放り込まれるようになった。
自分も不安が強くIBS(男性は下痢、女性は便秘と症状に性差がある)な旦那は彼女の気持ちがよく分かるらしい。
羞恥心が強い余り自分に否があることを指摘されることに怒りを感じる
うんちを指摘されるなんてもってのほか
だそうだ。
確かに引っ込み思案で恥ずかしがり屋な子供だったかもしれない。
が、ステージでダンスをしたり学校の初日もやる気満々で臨んでいた。
そこまで人見知りで困ることもなかった。
が、一度
「ダメだ」
「できない」
と言えず、嫌なことを無理にやらされて拒絶反応になるらしい。
泳ぎだけは早く覚えて欲しかったので嫌がられるのは困った。
注射が大嫌いで定期検診も全力で嫌がる。
「今やっとかないと大人になってから受けても効果が薄いですよ。」
と医者に説得されて受けさせることを承諾した。すごく痛かったらしい。3−4日痛い痛いと文句を言われた。この調子では旦那がアイスクリームか有料アプリで釣って連れて行くことになるのだろう。私はやらなければならないことを甘いもので釣ってやらせるのが嫌いなのでいつもバトルになる。
彼女のために
と思ってやらせることを「ものすごくイヤだ」オーラ全開で拒絶されると私もムカついて
と怒鳴ってしまう。
息子は何でもオッケーなイージーモードで
「言いなさい。」と教えてもないのに
「御願い」
「礼儀正しく」と躾けるのは趣味に合わなかったので娘の時には何も言わなかったら、彼女は「ありがとう」も「御願い」も言わない娘になった。「何で私の〇〇がないの?」「誰も私の〇〇を持ってきてくれない」等と彼女の前で誰がそんな話し方をしてるわけでもないのに常に非難がましいのもムカつく所以だ。給食のおばちゃんにも意地悪をされたらしい。「ありがとうございます」とちゃんと言えないからではないだろうか。。。と思い、それを聞いてからは事ある毎に
「『ありがとう』は?」
と促すようにした。
彼女が事更に
とか
とか言っても
「口先だけじゃなかろうか。。。」
と常に疑ってしまう。
娘には注意欠陥や学習障害の傾向もあるのだろう。
診断されるほど顕著ではないが
他人の話を聞いてない
理解してない
ということが多い。
息子は
宿題も、
「え?!もう、終わったの?!」
となる日も珠にあるというのに、ダラダラ終わらない日の地獄が壮絶を極める。
「これ分からない」
と質問するくせに教えると
「そんなこと習ってない」
と怒る。地団駄を踏んで泣き叫ぶ。
なのは分かっていたが、私には毎日同じ時間にご飯を食べさせて寝かせることが難しかった。
家族に予定を事前に一々言葉で伝えることも億劫だった。努力して改善を目指したが今でもキツイ。
娘の友達が遊びに来た時
と無邪気に聞かれて衝撃を受けた。
娘は
「そんなこと聞いてない」
「今日の予定は何?」
と聞くことは全くなかった。
旅行の時にはトラブルが予測されたので細心の注意を払い、予定を紙に書いて伝えた。が、無駄だった。
移動の度に
「そんなこと聞いてない」
と怒られる2週間は地獄だった。
子供たちの中では今となっては良い思い出となっているのか
「また行きたいね」
と言われるが
と誓った私の心のもやもやは中々晴れない。
夜寝るのも嫌がった。
風呂に入るのも嫌がった。
外出するものバトルだった。
一々
「服を着て」
「靴下履いて」
「かばんはどこ?」
「靴はいて」
と指示しないと何もしない。
息子が3歳になる頃には、私が娘と外出前のバトルに興じている間に彼は一人で服を着て靴を履いて玄関で待機していた。
彼にはできる
「次は何をする」
という「予測」が娘には何故できないのかとイラ立ちが募るようになった。
頭では分かるのだ。
痴呆老人が、
「全てを忘れてしまった」
ことにおののき攻撃的な言動に出るように、娘も自分の注意欠陥傾向にうすうす感づいている。
と他責するのも、私に甘えられるからだ。と頭では分かっていても、怒鳴られるのはキツイ。
怒鳴り返す衝動を抑えようと頑張っても邪険な反応をしてしまう。
最初は耐えてても最終的には怒鳴り合いに進展することも頻繁だ。
昨晩シクシク泣いてたのは
と聞いたら、娘は2−3年前の喧嘩を思い出して罪悪感を感じたから
みたいなことを言った。
いつものようにくだらないことでものすごい喧嘩をしたことは何となく覚えているが詳細は忘れてしまったその事件は
娘が楽しみにしていたケーキを食べようとしていたら私の手があたってケーキが床に落ちてしまったみたいなことで始まった。
多分最初は泣きわめく娘に
「ごめんね。もう一つ買ってこよう。」みたいなことを言って場をおさめようとしたのだと思う。が、いつまでも泣き叫ぶ彼女に最終的には私がぶちキレる修羅場となり娘は
みたいなことを言ったらしい。
「本当はそんなこと思ってなかったのに。。。」
…
「失敗」だったのではないか
と今でも思う。
息子は4歳になるまで
保育所に入れなかった。
自覚は薄かったが、今から思うと、娘の時には、とにかく彼女から離れないとやってられない。くらい切羽詰まってた。
息子が生まれてからもキツイことはキツかった。彼には八つ当たりもした。
娘に手を出したら只でさえ手のつけられない癇癪が修羅場に発展すると思うと絶対に手を出せなかった。が、息子は立ち直りの早い「簡単な」やつだ。という甘えからべしべし頭を叩いた。息子には何回も
「ママはヒドイことをした。すまない。」
と謝っているが
「ママは昔僕の頭を叩いたね。本気でべしっとやったよね。スゴく痛かった」
と息子からは事ある毎に言われる。
息子が生まれてから気持ち的にはどんどん余裕がなくなって暴力的な衝動を抑えられなくなってはいったが、娘の時に感じた
「とにかく赤子と離れなければおちおちトイレにも行けやしない。」
という追い詰められた感はなかった。
物怖じせず社交的な息子なら2歳児保育でも全くオッケーだったと思う。
が、娘は毎朝泣いた。
お弁当直後にお迎えに行くとなりに楽しそうに遊んではいたが、居残りさせるとしばしばうんちのついたおむつでお昼寝させられていた。
最初はちゃんとトイレに行かせてくれてたけどそのうち寝たくないが為トイレで長居するのだと見破られたようだ。そんな託児所に預けるのは気が引けたが徒歩で行けるのはそこだけだった。
カーシートで泣き叫ぶ娘を車に乗せることが苦痛だった。
彼女が分離不安の強い赤ん坊だということは分かっていた。寝付きの悪い娘はおっぱいがないと眠らなかった。寝たかと思って離れると泣き叫んだ。赤子ながら彼女に「ワシのおっぱいはどこや?口の中にあったはずなのに、どこへやってくれたんや?ごるらあ。」と怒られてる気分だった。
常に抱っこしていないと怒られるストレスから逃れる為に私は彼女を納得できない託児所に置き去りにした。
何かを恐れる心はその恐怖を現実のモノにする。とどこかで読んだ。
怒られるのがコワイ娘が、他者をイラ立たせ理不尽に怒られる不遇に遭わないためにも
仲良くしなきゃダメだ。と思った。
うんち我慢しないで欲しい(切実)。シャワーも毎日浴びて欲しい。1年くらい後にはきっと朝晩2回シャワー浴びるようになって、お願いだからそんなにお水使わないで。。。となるのだろうが。。。
スチームで海外のゲームをやっているとちょいちょいアイテムとしてヒマワリが手に入るんだけど、わりと高い確率で説明文に「太陽の方を向いて咲くというのはウソ」って書いてある。
ひまわりは実のところ"ひまわらず"らしい。つまり、フツーの花ってことだ。
なんせ🌻と☀️だ。似てる。いや、実物の太陽は☀️なんて感じじゃなく眩しすぎて見えない真っ白な塊だし、ひまわりも🌻ってほどキレイに咲いてなくて暑さに萎れてたりするんだけど、気持ちとしてはたしかに🌻と☀️だ。
夏に咲くっていうのも素敵だよな、ひまわり。太陽に似た花が太陽の季節に咲くんだからそりゃあ太陽の方を向くくらいのことはあるだろうと思ったって仕方がない。
と思うと、なんだか愛おしいデマだと思う。
本を水平にして、本が開く側の角に近い位置を持つ。
手首で強くスピンをかけて、手裏剣のごとく、水平方向に回転させながら投げるのだ。
野球ボールのように手首を縦に振ってスピンをつけるのは、手首の構造上、わりと楽だが、本の場合は横に振ることになるので難しい。
そのためには持ち方が重要で、手を添えるように持つのではなく、指先だけで摘まんで持つのだとよく指導された。
なるべく本の角に近い位置を持てと言われたのも、今考えれば、手首からの距離を稼いでモーメントを大きくするためだったんだろう。
本の角を摘まむなんて行動は日常に無く、そのたびに指が吊りそうになるわけだが、練習すると痛みにも慣れてきた。
やがてスピンは良くかかるようになり、本の飛距離も伸びて嬉しかった。
あと、物体は上側45度方向に投げた場合が一番飛ぶと言われているが、本の場合、それだとバサッと空中で開いて落ちてしまう。
そのため、本を投げる場合は、水切りの石のように、水平に投げる方が良く飛ぶとも言われた。
徒然でなく、目的意識を持って水切りしたのは、後にも先にもあの頃だけだ。
指を吊ってまで本を投げるのに比べたら、それは授業で眠りにつくくらい、無意識に簡単だった。
それゆえ、河幅はそこまで狭くなかったが、石はたびたび対岸まで跳ねてしまう。
対岸に人が居ると練習ができず、シュッシュッと口に出しながら、手首を何回も「素振り」して練習に勤しんだ。
当然、薄くて大判な本ほど、空気抵抗が弱く、回転力が増すため飛びやすい。
すると、遊びの目的はいかに厚手で小さい本を飛ばすかに移ってくる。
小さいのでいかに手早くスピンをかけるかが勝負なのだが、それにもまして、厚手になるその重量に手首が負けてしまう。
スピンでの痛みは捻るような感じなので、捻れが戻るようにそのうち消えてしまうのだが、重量による痛みはグキッと来る致命的な痛みだった。
さすがにまずいと思って重量にこだわるのはすぐ辞めたが、一度だけ、広辞苑を学校の体育館の向こうの壁まで飛ばしたときはとても嬉しかった。
今なら、鳥人間コンテストで対岸まで届いた人を見た気分とでも言うのだろうか。。
まあ、利き手(利き手首?)は1週間くらい使い物にならなくなって、ノートを左手で書いたり散々だったが。
もしくは飛距離を競うこともある。
こちちは手首への負担という点では、それほど問題ないのだが、費用的な問題が壁となる。
長く飛ばしたいとなると、体育館や倉庫でも借りない限り、飛ばす場所は野外になる。
(ちなみに、学校の廊下は長さ的に十分だったが、他の生徒にぶつかる、蛍光灯を割るなどのイベントを経て当然禁止されていた。)
すると、本は飛ばすたびに土や泥で汚れてしまう。
ある程度の汚れだと、本のページとページがくっつくので、逆に飛距離が伸びることもある。
それを「本が締まる」と呼んだりしたわけだが、それでも表紙面に付着する泥が多くなると、真っ直ぐ飛ばなくなる。
それゆえ、本には定期的な買い替え需要が発生する。
いや、野外で飛ばす人でなくても、少しでも飛ばしやすい本を求めて本を買い漁ったりする地域性なのだ。
当然、古本屋もそういう需要を見越していて、価値はわからないが、とにかく薄くて大判な本を多めに扱っていた。
それは、ブックオフで100円なのにいつまでも積まれている価値の薄い本とでも言えばわかってもらえるだろうか。
そういえば、古本屋でいつまで経っても同じ本が積まれているというのも、大学入学で家を出るまで知らない現象だった。
そういうわけで、飛ばして遊ぶだけの内容がわからない本が、家にはいっぱい置いてあった。
だから、子供の頃は、どんな家でも2種類の本棚があると思っていた。
読む用と飛ばす用と。
後者は家の外に置いておくのが普通だったが、大人になってからは、そんな習慣は世の中に無いのだと聞いて、
逆に、汚れた本まで家に持ち込むの?家の中がドロドロになるのに気にしないの?と勘違いに勘違いを重ねたこともあった。
あと、地元以外の家だと、壁に本をぶつけた傷が無いことも新鮮だったな。
あれ、窓を割らないように投げるもんだから、窓と反対側の壁によく付けちゃうんだよ。
花瓶や壁掛けの絵画なんかも、実物は大人になってから初めて見た。本を投げて壊すかもしれないから、実家には無かった。
そして図書館は、飛ばすための「道具」が揃う夢の場所だったが、当然そのような行為は禁止されていた。
「本を飛ばして遊ばないでください」なんて掲示が貼られていたのは、うちの地域ぐらいのものだろう。
図書館においてだけ、本は本来の存在意義を保つことができたのだ。
それでも、貸出を受ければ誰も見ていない。
図書館には必ずと言っていいほど、変なページで曲がり、ホコリや泥の付いた本があった。
図書館の本がこんなにキレイに管理されてる!と知ったのは、やはり実家を出てからのこと。
そういえば、実家近くの狭い公園にも同じ掲示が貼ってあったな。
野球のボールじゃなくて、本で近所の家のガラス割るっていう経験も、子供にはよくある経験だと思っていた。
そうそう、良い子は真似しないでね。
表題のとおり。
まあコンシューマーゲームの意識がまだ抜けてないんだろうけど、俺はちょっと気持ち悪いんだなあ。これ。
お前(当該キャラ)いまストーリー上めっちゃ敵対してるやん、とか。
お前まだ出てきてないやん、っていう。
PTから外すなり、じゃあ自分で勝手に縛れや、って言われると、「いやあ、でも強いしかっけぇし使いたいじゃん」とかモゴモゴ言うだけなんだけど。
極端な場合だと、ストーリー上の敵キャラとガチャで引いた同じキャラが戦闘してたりして、どういう状態?になる。
こんなん昔のゲームだったら起きなかった事態じゃない。知らんけど。
ストーリーの進行に合わせて解禁していく、もしくはいま戦ってるキャラクターは別の次元の存在云々、的なトンチを利かせる。
プレイヤーが自分でこれはもうそういうもんなんだって脳に迷彩かけない限り、なんかそういう工夫が必要になるんだと思うんだけど、公式にうまいこと処理してるゲームとかあんのかな、と思った。
…
追記。
やっぱ代表的、かつキレイに処理してるのはFGOなのかな?(疑問形なのは俺がFateの世界観をよく知らないから)。
オルタ? っていう同一人物の別属性だったり、別の時間軸から同じ人物を引っ張ったりしてこれるってのは、確かに帳尻合わせやすいよね。
というか、こういう世界観でもないと、基本ツジツマは合わなくなるんだろう。ソシャゲってそういう重箱の隅をつついていくようなもんか? ってのは別として。
たぶん大抵は、どんなめちゃくちゃな編成でクリアしようと、ストーリー上は既出の味方キャラクターが活躍しました、って展開で話が進んでくよね。このとき戦闘で運用された各キャラクターは、キャラクターっていうよりエネルギー?みたいな感じにとらえたらいいだろうか…とか、そんなことを考えてしまうので、俺は古風なんだろうかな。
https://anond.hatelabo.jp/20200724163613
あなたの言う「オスとして魅力のある男」が少ないせいで、恋愛結婚が主流の今、女達はその少ない男を取り合っている状態。
この状態が少しでも改善されるように、この世にたった一人でもモテる男性が増えてくれるよう願っている女です。
私は、ありがたいことにモテる側にいて、周りの友達も可愛い子が多いです。
良ければ参考にしてください。
とりあえず、先にあなたの案についても効果があるかこたえていくよ。
あり、というかこれはやめちゃだめ。
②モテる男の真似をしてみる
コミュニケーションは経験だから、陽キャにアドバイス貰ったぐらいで、あなたが陽キャになれるわけじゃない。
効果があるとしたら、コリドーとか通ってるコンサル系男子と一緒に飲み歩けるような仲になること。
それができるなら確実にモテ度は上がる。
全く意味ない。そんなんでモテるようになるなら、風俗通いしてる男性全員モテてる!
②ができるならやってみてもいいと思う。
それで、本題。
まず、恋愛の基本前提として「人は、自分より価値があると思える人を好きになる」ということがある。
仮にあなたがあなたの言う通りの人だとするなら、たとえば100kg超えの女性にアプローチしてみて。
自分より明らかに価値の低い女性となら、余裕で付き合えると思う。
むしろ、あなたが少しでも好意を見せたら相手から好き好きって言ってくるはず。
でも恐らくそれは無理なんだよね?
それなら、やっぱりあなたは「オスとしての魅力」をつけるしかない。
結局のところ「オスとしての魅力」=「自信」だと思う
あなたは恋愛経験がないことそのものがオスとしての魅力がないという結論だけどそうじゃない。
自信がある男って女からすると頼れるし、魅力的に見えるし、自分より価値があるように思える。
たぶん、あなたが自分に自信が持てないのは恋愛経験が少ないことだけじゃないよね?
がんばって!
ミスコンてのはアホな人達がよく批判をしたがるんですよ。ルッキズムだのジェンダーの問題だの言ってね。「こういう人が美しい」という価値観を押し付けてるだの何だの言ってみたり、女性が抑圧されているだのなんだの言ってみたりな。整った顔でスラッとスタイルの良い人が美を競い合うことの何がいけないんだろうね。ブサイクに生まれた僻みか?美人とされる人達の気持ち考えたことあんのかな。美人は美人で悩みがあるぞ。美しさしか取り柄の無い女だっているんだ。そういう人にとっちゃ芸能とかミスコンとかモデルとか外面の美しさが評価されるのは救いなんですよ。もちろん外見の美しさ以外にも内面も素晴らしい・頭も良い、みたいな神もいるだろうけど、そんな人ばっかじゃないんだよ。キレイなモデルさん使わないのがトレンドとかもアホだと思うね。なんでブスが下着着てる広告見せられなきゃなんないんだよ。多様な美はあって良いと思うよ。でも美しかったものをタブーにしちゃって美しくないものまで美しいみたいな感じにしちゃうの間違えてないか。問題なのは美しくない人達を差別することだろ。美しくないからあなたは採用しませんとかって外見の良さ関係ない職業で差別したりしたらそれはそれは無くすべき差別だろうさ。みんなでブスをいじめたりそういうことしちゃダメってのがルッキズムに対する批判であって、ミスコンがダメとかアホとしか思えないんだよね。頭の良さは否定されないよね。頭の良さを競争するのは良いのか?「これが頭が良い」という尺度を押し付けているから全ての大学は試験を廃止すべきか?頭悪い人まで頭良い扱いした方が良いのか?良い大学出た人を排除した方が良いのか?狂ってるよお前らの価値観
女の子が顔を隠してエロい自撮りを上げるアカウントがあるじゃないですか
出さなかったりするのってなんなんだろうと思う
・会いません
・顔は出せません
これらはわかる。ワンチャン狙う不逞の輩はいくらでもいるだろうし
・写真写りをよくしようとしない(画面が暗いとかピント合ってないとか)
これがわからない。
プロじゃダメだ素人臭さがいいって人もいるけど、それはそれで他にたくさん裏垢があるわけじゃないですか。
ブラウスから見える谷間だけ見ても「はあ、そうですか」としかならないわけですよ。
スマホのカメラでもほんのちょっと気をつければキレイに映るわけですよ。
顔のことになると加工アプリまで使って四苦八苦するのに、顔が映らないエロ自撮りは光源すら気にしないのかと。
見たい人がいるかどうかより先に「見せたくない」とか思わないのかなと。
無残に垂れ下がったおっぱいを見ると「うひょーおっぱいだ!やったぜ!」よりも
「ええ…?」という困惑が先に来る。
(感覚としては、明らかに途中で失敗したイラストを手直しせずに得意げにアップするような感覚。
ここまで書いておいてそれだけ裏垢に詳しいってことはなんだかんだ見てんでしょ?と
突っ込まれるかもしれないけど、探しに行ってるわけじゃなくてTLに出てくるんだよ…
オタク系アカウントなので二次エロはともかく三次エロもたまにTLに流れてきて、
ブッサイクな男のキメ顔自撮りがTLに流れてきたらイヤだろ?
写りをよくする努力もしてないんだぜ?
裏垢なんてやめたほうがいい。
世間一般で女体は貴重だし、自己顕示欲を満たすにはいいだろうけど、
ここまで書いてエロ垢についてこんなに語って
おそらくキモいとか言われるんだろうなと思ってるけど、
言いたいこととしては
「自己顕示欲のために自分を切り売りするような真似をしてるんだから、
暇つぶしだろうが最低限やる気を出すか、できないならやらなきゃいいのに」
ということです。
存在があまり知られていないのだが、各教科書には教科書準拠のガイド本(俗に言う「虎の巻」)というものがある。
別に特別な書籍というわけではなく、教科書を販売する書店であれば必ず置いてあり、手に入れるのはさほど困難ではない。
私は、この「虎の巻」で大きく成績を伸ばすことができたので、そのメリットを紹介したい。メリットは4つある。
(教師も是非薦めるべきだと思うのだが、授業の重要性が相対的に薄れるからなのか、特定会社への利益誘導になるからなのか、薦める人は非常に少ない。
それでも、高校で数学の教師がその存在を教えてくれた。1年生の時点から「虎の巻」の効果を十分に感じることができ、成績も大きく伸びた。その教師には本当に感謝している。)
1つ目は、「教科書ガイド」たる本来の意味でのメリットではあるが、教科書を良く理解できるようになることだ。
それも「虎の巻」はオールインワンに構成されているので、理解にかかる手間も少なくて済む。例えば、英語や古典なら新出単語の説明も記載されているので、辞書を引く手間が省ける。
何より、「教科書準拠」という属性は、問題集として最強である。なぜなら、他の問題集を購入しても、「授業」という生解説は付いてこないのだから。
それに、教科書の理解は成績に直結するので、勉強する側のモチベーションも格段に上がる。これが、問題集の中でも「虎の巻」だけが、途中で挫折することの少ない理由である。
部活や風邪など、授業を1回休んだだけで、その内容に付いていけなくなる科目は多いが、そのリスクが緩和できる。誰かにノートを取ってもらう必要も無い。
「虎の巻」には、教科書の流れ、演習問題の解答、解く際のポイントが全て書いてある。授業を休んだとしても、「虎の巻」を読めば、授業で行う内容は概ね理解できるだろう。
もちろん、「虎の巻」だけで勉強できると思ってはいない。しかし、解答を保有することは非常に強い。
解答があれば、自分がわからない部分は、この解答の「どこ」なのかが具体化できる。具体化できたなら、その部分を指し示しながら、学校なり塾なりで質問することができるわけだ。
テスト前にノートをキレイにまとめ直すのは無駄だとよく言われるが、ノートは「車輪の再生産」であり、作成すること自体がそもそもの無駄である。
「虎の巻」には、問題の解答や授業の流れが書いてあるのだ。ノートは真っ白な冊子に書くのではなく、「虎の巻」にマーキングし、差分に当たる分だけ書き込めばいい。
数学の理解につまずくのは、その多くがノートを取るのに手一杯で、教師の話す強調ポイントを聞き取ることができないからだという。
白紙からノートを構成するのに比べたら、そんなリスクは格段に減るだろう。それに、ノートを全て取りきれなかったということも無くなるだろう。
(逆に言うと、このあたりが一部の教師から、「虎の巻」が邪道だと言われる理由である。教師が教えた内容を、素直に一からノートに起こす学生が真面目に見えるようなのである。)
そして、個人的には一番重要だと思う4つ目のメリットは、予習主体の学習ができるということである。
「虎の巻」には、解答やポイントが書いてあるのだ。授業に先行してそのポイントを読み、実際に問題を解くことで、先に書いた通り、自分のわからない部分を具体化できる。
すると、極端な話、授業はそこだけ聞けば良いことになる。よって、予習することによって授業中に暇が生まれてくる。
そして、その暇を更に予習に充てるのだ。英語なら先の単元の和訳をしたり、数学なら先の単元の問題を解いたり。授業の進度に十分先着したら、学校から配布されたワークブックを解くのだ。
すると、テスト勉強期間には一通りワークブックまで解き終わっており、テスト勉強は、ワークブックの間違いとまとめの問題を再度解くだけ。
その余裕は、綿密にノートをまとめ直す復習ではなく、「虎の巻」によって手軽となった予習によって生まれるのである。
予習によって授業中に暇が生まれ、その時間をさらに予習に充てることで、モタモタした授業をテスト勉強へと繋げる正のスパイラル。そうすれば、予習において自分で問題を解く機会も増え、受験対策にも直結する。
以上のように、授業を休みがちの学生にも、授業をまともに聞かずさっさと先行したい学生にも、「虎の巻」はうってつけなのである。