はてなキーワード: カルチャーショックとは
階によって、フロアによって、さらに北か南かに寄ってまったくやり方が異なっている。
いつも1区域しか担当してないと、たまたま別の病棟に行った時に毎回「カルチャーショック」を受けるハメになる。
たとえば、あらかじめお茶だけ先に配膳していたり、
ラウンジで食事することを許可していて、助手が来るまで配膳しちゃいけなかったり、それを知らないで進もうとしたら
「待って下さい!!!!!!!!」と看護師に怒鳴られたり(たまたま面会謝絶の人がいたからかもしれないけど)
(そして理由の説明がイミフ。
カート戻して欲しいのか、助手くるまで待てばいいのかって、あちらの要求が全然把握できなかった挙句、
なんだかんだ聞いて結局いつものとおりで良かったり(じゃあなんで止めたんだと)でクソ頭の悪い看護師さんだったと思う。今思い返してもイラッと来る。)
自分の担当してるトコはお茶も配膳補助もみんな自分でやるけどあまり他のフロアみたいな、「独自文化」めいたのがないので、ある程度楽なんだけどね。(医療関係者ではないので病室には入れないのだ)
もうちょっと詳しく説明しますと「栃木県立学悠館高等学校」という学校の女子学生が
今日(8/23)の11時~12時半頃まで学校での授業(夏休みなので補講かな?)風景をツイキャスを使って実況配信していました。
実況していた子(主、生主っていうみたいですね)は上記学校の1年生でここには書きませんが実名も出しています。
ツイキャスというのはスマホやPCを使って手軽に配信ができるツイッター連動型ネットサービスです。
↓が実況していたページ
http://twitcasting.tv/ponchiovv
自分の時代は技術的な意味でこんなことはできなかったですから。
今の中高生の文化になんてもちろん精通していませんので、分からないこと驚くことだらけなのは当たり前なのですが
でもよくよく見ると自分の属してるはてなや2chなんかの文化圏だけじゃなくて他にも色々な文化圏がある。
特にニコ生やツイキャスなんかの実況配信文化圏は、もう完全に独自進化していってるので普段見ない自分にとっては完全に異世界です。
上記の実況配信は一応マスクはしていますが顔出しでしたし、一緒に写ってるお友達なんて丸々ばっちり写っちゃてます。
まず実名顔出しというのが信じられないんですよね、そこから既に軽くビックリ。
それに加えて授業を実況配信するなんて……
配信内容自体は明るい女の子達が送られてくるコメントを読み上げながら、席でお喋りしていて
教壇の先生が授業を進めているのですが、その光景がある意味シュール過ぎて冷静に客観視してみると少し笑えてもきます。
上記の学校は昼夜間開講の単位制フレックスハイスクールで偏差値も32(全国偏差値ランキング3661位/3663校)とお世辞にも頭のいい学校とは言えないので、
一般的な感覚とはだいぶ違うのでしょうが、それでも先生が教科書の説明をしているのを横目にツイッターのフォロワーが増えたことや
沢山の人が実況配信を見てくれていることを喜ぶ彼女達を見ていると、誰でも情報発信者(クリエイター)になれる時代ってこういうことだったのか……となんともいえない感慨が。
ただし付け加えておきますと、配信している女の子たちは普通のよくいる明るいギャルといった感じで
DQNとか学級崩壊とかそんな感じの配信ではまったくありませんでした。
先生(女性)も「わーやめてー」とカメラを手で遮るようなノリで、至って平和な風景でした。逆にそれがシュールでもありましたが。
2chのニュース速報(嫌儲)というまあまあメインストリートなアフィブログ嫌いの板があるのですが
そこに先日から様々な流れを経てツイキャスをウォッチングするスレッドができたわけですね。
まあおそらく20~40代のおっさんや平日昼間は学生、無職ニートで構成されるそんな世界にツイキャスという異世界が見つかってしまったわけですよ。
そんな異文化異世界の接合点というか特異点で上記の配信が発見されてしまったので、自分も個別に立ったスレッドを見て知ったというわけです。
配信自体は暇なお友達達に発見されたせいか、おかげか3500人程が視聴することになり、ツイキャス全体で1位か2位程まで盛り上がったようです。
「うちら」の世界 — http://lkhjkljkljdkljl.hatenablog.com/entry/2013/08/06/155425
私のいる世界 — http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
「低学歴」って言うな。— http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20130810/1376143977
SNS炎上と"低学歴の世界"の構造を分析。 — http://togetter.com/li/545991
ここ最近、「低学歴の世界」というワードを目にする機会が増えました。発端となったブログの内容と、自分の周りで議論されている内容、そして自分が考えていることは方向性が違うのですが、その「低学歴の世界」のあり方や「高学歴の世界」との関係、溝、そしてネーミングそのものが議論の対象になっているので、自分も思うところを書いてみようと思います。
・教養の低さ
・ローカル性
という特徴を持っているとされています。前提として、このような特徴を持ったコミュニティ、世界が現実にあるのだということは、このノートを読んでくださる人々に認識していただきたいと思っています。程度の差はありますが、上記5つの記事に書かれている内容でおおむね合っています。
ネーミングについて
僕自身もその「低学歴の世界」に、身を置いていたとは言わないまでも、通りを挟んで向かい側くらいまで近付いたことがあります。そこで感じたのは、そういう世界に身を置くかどうかは、(親をはじめとする周囲の)学歴という要素はとても大きい、ということです。分かりやすいレッテルを貼っているだけだ、とか、学歴で切り分けるな、とか、上から目線だ、という批判もありますが、現実にそういった世界をのぞき込んでみると、決して外れてはいないな、というのが思うところです。(また、全く次元の違う話ですが、これが例えば「下層の世界」というネーミングだったら、ここまで話題にならなかっただろうと思います。この話題をここまでバズらせてくれたという意味でも、この名前には功績がある、と思うのです。)
「低学歴」という呼び名では、単に「学歴が低い人々の集まり」くらいにしか聞こえないので、本質をとらえきれていない、という批判があります。上記の記事や自分なりの体験をもとに、この「低学歴の世界」の特徴を考えてみたいと思います。
究極のローカル性
この「低学歴の世界」の最大の特徴は、小中学時代に形成された地縁社会がほぼ一生続く、という究極のローカル性です。
低学歴の世界って何と無くわかるんだよ、高卒とか地元の専門、地元のFラン卒業して、中学の時の奴らとつるみ続けて、世界を知らない、それでも彼らは幸せなんですよ。
法律や経済に無関心、それで生きていけるから、ITにも無関心それで生きていけるから、大切なものは地元の友達だけ、地元最高みたいな人が。
本来ならば"低学歴の世界"の人々は親や先生との対立によって自らを止揚させて行き、大人になるが親や先生の能力が低いと止揚ではなく社会からの逃避によって解決を図る。
お互いに逃避した友人と遊び、逃避した同士自らをさらけ出し、自らの文化(culture)を養成していき、自らの常識を育んで行きます。
テレビの世界は全く違う世界の出来事を映す、代官山のお洒落なカフェ、原宿のお洒落な洋服屋さん、六本木の華やかなクラブ、それは"低学歴の世界"から見たら全くの虚像なのです。
彼らが持っている世界は小学校のころから使っていたコンビニ、最近出来たバイクで20分のトウキョウのシミュラークルとしてのイオンモール、それと国道沿いのチェーン店と出身中学・高校くらいなものです。
なぜなら決して地元から離れる事が出来ないから(考えすらしない)、"低学歴の世界"の交遊関係は幼少のころから続いており新しい環境に行くことが出来ない、疎外されるからです。
この記述は、その特徴を痛々しいほど正確に切り出していると思います。"彼ら"はとても世界が狭い。このような世界で、子供達は学区制に従って地元の小中に通い、テストの点数に従って近場の高校に通い、多くはそこで卒業して就職し、一部は地元の専門学校か大学に通い、一部が進学や就職でコミュニティを離れ「外の世界」に出て行く。これらの区分けのうち3つ目と2つ目の一部だけが「低学歴の世界」を(一時的に)脱出し、多数派の1つ目、2つ目の一部が「低学歴の世界」を構成する次世代となります。
ネーミングにも表れている「低学歴(※字義通り)」という特徴は、確かに当たっている、と言えます。彼らは多くが高卒、または地元の専門学校卒で、大卒者は少ない(大卒者は大学に依ったコミュニティを作ってしまうので、関わりが薄い)。それはローカル性と一体のものです。大学入学にはもちろん学力の問題もありますが、そもそも「低学歴の世界」の人は大学に進学することを考慮していない人が多いのです(理由は後述)。地元を出て高い金を払って進学しようと思わない、かといって就職のために県外に出るのも、という人が、地元で職を見つけて大人になっても地元に留まります。必然的に、構成メンバーが「低学歴」寄りになるのです。
しかし注意しなければならないのは、その「低学歴(※)」というのはどちらかといえば「低学歴の世界」が作り出した結果に近いものであって、その世界を成り立たせている要因ではない、ということです。「低学歴の世界」が「高学歴の世界」と断絶してしまっている最大の要因は、その世界の子供が、親世代から「低学歴の世界」を脱出できるような教育を受けられず、「低学歴の世界」が再生産されていく力が強い、ということです。
つまり僕が「低学歴の世界」の大きな要素として挙げたいのは、先程のローカル性に起因することですが、「自分の慣れ親しんだ世界の外に出て行く、子供を送り出す」という意識が、「低学歴の世界」に欠けていることです。だからこそ、自分が通ったことがない「大学」に子供を通わせようとも思わないし、海外に旅行する必要も、就職のために大都会に送り出す必要も感じない。インターネットをはじめとするツールは「世界」の仲間と交流するためだけに使えばいいから、きちんと学ぶ必要はない。
そこから生じる一つの帰結として、「子供を教育し教養をつけさせる」という意識が子育てをする家庭や地域に欠落していることも、この世界が持続する要因となります。自分がかつてそうだったのと同じように、また周囲と同じように、小中学校での教育に関心を払わない(払えない)、大学進学の必要を感じない。この意識の欠落によって、次世代が低学歴(※)を受け継ぐばかりか、「低学歴の世界」そのものが次世代にも再生産されていきます。
自分が暮らしている世界で事足りるのだから、子供もそれで十分だろうと思う、その意識が「低学歴の世界」という閉じたコミュニティを再生産していきます。
ここまできてやっと、学歴そのものは本質的な要因でないことが分かります。たとえば、中/高卒の芸能人なんか山ほどいますが、彼らの多くが「高学歴の世界」の住人である...とは言えないまでも、上記にあるような「低学歴の世界」の住人ではなさそうだ、ということは、感じられるでしょう(彼らの中には「低学歴の世界」出身の人も多いはずですが、容姿や芸能のセンスを武器にその世界を出たのだ、と言えます)。これを読んでいる「高学歴の世界」の皆さんは、将来自分の子供ができたとき、勉強が不得意で、東大や医学部どころか大学進学もおぼつかないくらいだとしたら、どうしますか。それでも必死に教育するでしょうし、学歴は身につけられなくても教養は教え込もうとするのではないでしょうか。「教育を受け(させ)教養をつけ(させ)る」「自分の慣れ親しんだローカルな世界の外に出(させ)る」という態度の有無が本質なのです。
こうした「子供を教育する」「子供を外の世界へ送り出す」意識は、もちろん親の学歴や経済力で生まれる面もあるし、土地や人間関係にも左右されるが、親世代の「『低学歴の世界』の外を見た体験」の有無、これが決定的な差を生みます。たとえ親世代に学歴や教養がなく、「低学歴の世界」に身を置いていても、外の世界を知って子供を送り出そうと思えば、経済大国であり、不十分ながらも支援システムがある日本でなら、可能だからです。「子供を外の世界に送り出す」というプロセスに成功すれば、その家庭はそこで「低学歴の世界」から離脱することになります。
しかし、ここに最大の隔たりがあります。「『低学歴の世界』の外を見た体験」というのは、基本的には学生時代を終えてからは体験することができず(もともと「低学歴の世界」にいる人間は、そのままでは大人になっても「低学歴の世界」に身を置いてしまいます)、非常にチャンスが少ないものです。さらに、「低学歴の世界」に身を置く人間が何らかの要因で「高学歴の世界」との接触しても、次世代ではその世界から脱出してしまいますから、そのコミュニティ全体に影響を与えることはありません。「低学歴の世界」にはその世界しか見えない人だけが残っていきます。こうして、「低学歴の世界」というものが強固な形で生き残っていくのだと考えています。
再度、ネーミングについて
そのような「低学歴の世界」は、上記の「私のいる世界」にあるように、学歴以前の段階であるはずの中学・高校ですでに生まれています。「低学歴(※)」が「低学歴の世界」を作るのではなく、「低学歴の世界」が「低学歴(※)」を作るのですから、本当の意味で適切な命名ではありません。「超ローカルの世界」とでも言い表した方が本質を捉えていると思いますが、これでは意味が容易にわからないので、まだ「低学歴の世界」の方が分かりやすい、ということでしょう。
何が問題なのか
で、問題点ですが、そんなものは存在せず、彼らは自分たちの世界で満足してやっていきます。自分たちの世界に閉じこもっていれば快適、というのは学歴や社会に関係なく、どこにでもあることです。そもそも、こういった「超ローカルの世界」はそれこそ士農工商の時代から存在したわけで、むしろ人間は地縁に従って一生を終えるのがスタンダードな時代もあったわけですから、問題などもとから存在しないのです。
では、なぜ今このように話題になっているかというと、社会全体の形が変化したために、「低学歴の世界」を脱して「中/高学歴の世界」に移り、そこで「カルチャーショック」を受ける人がいる、ということが要因として挙げられるでしょう。もちろんこんな現象は100年前からあったはずですが、そういった「低学歴の世界から脱出した人の体験談」みたいなものがインターネットにどっと表出してきて、話題になっているという側面があるのでしょう。ネットでは「同窓会コピペ」なんてものが流行ったりしていますが、地方で育って高学歴を得た人の視点から見る「同窓会」というのは、まさに「低学歴の世界の再発見」と呼んでいいだろう、と思うのです。
もうひとつの原因は、やはりインターネット技術によって、そういった世界を外から垣間見ることのできる人が増えてきた、ということです。彼らが冷蔵庫に入ったり、商品の肉を咥えたりするなんて現象は、たぶん昔からあったはずです。彼ら「低学歴の世界」の文化ではそういうことは普通であって、問題ないわけですが、それが「外の世界」の常識に合致しないものですから、何て連中だ、と言われて「炎上」する。ただ、上の記事にもありますが、彼らは外の世界に対して無関心ですから、「ちょっとふざけたらバレて怒られた」としか思いません。実際、地元に帰れば「この前○○が商品の肉をかっぱらって食ってたらバレてクビになったらしい」くらいの話は地元の同級生から聞くことができると思います。このように、本来は閉ざされた存在であった「低学歴の世界」が、主に情報通信技術の存在で外に姿を現すようになって驚かれている、というのが昨今の現状ではないか、と思うのです。
どうやって解決(?)するか
先に書いたように、この「世界」はそれ自体問題なく機能しているのですから、果たして何らかの手段をとる必要があるのか、ということから考えなければなりません。こちらから見ておかしいからといって、自分たちが正しいと思う世界観を押しつけるのはただの傲慢でしょう。しかし、そういった「低学歴の世界」もとい「超ローカルの世界」が巨大な世界として存在することが、社会全体にとって不利益であり、その世界を縮小していくことが当人達にとっても全体にとっても有益だと感じられるならば、ゆるやかに解決を目指す必要がありまます。しかし、これは新しい問題ではなく昔から連綿と続いてきた社会形態のひとつに過ぎないので、「低学歴の世界」がなくなる、なんてことはまずありえないでしょう。
どうやって対処するか、ということを考え出すと、まだまだ長くなってしまいそうなので、この辺で終わりにしたいと思います。お疲れさまでした。
まとめ
・「低学歴の世界」は、小中高時代の共同体で一生を過ごす人の集まり、「超ローカルな世界」である
・その世界の住人には、「外の世界に出て行こうという意識」と「教育に対する関心」が不足している
ここで"差別"してる人たちは、
自分の出身を見下して、そこから"成り上がった"自分すげー、として、
元から金持ちで高学歴な連中すらも見下す、という優越感に浸りたいだけなんだから、
カルチャーショックとかも、そんだけ違うとこに自分の力で来た自分すげー、って言いたいだけなんだよ。
実際ショックも何もなくても、"カルチャーショックを受けるほど違う所"として大きく見せたいだけ。
http://anond.hatelabo.jp/20130809115823
これを見て思い出したこと。
こんなことを書くとここでは炎上しそうだけど、自分の場合は、大学に入ってから、全く逆のカルチャーショックを受けた。
周りと自分との違い、もっといえば自分含め東京出身者とその他の人たちの違いが、歴然とあったわけ。
一応地方旧帝大だったわけだし、はてぶ的には「高学歴の社会」だったわけだけど。
それでも教養の差は歴然としていた。
「田舎と都会の差」というか「田舎と東京の差」ってやっぱりあると思うよ。
自分の通った中学高校は私立だったんだけれど、ちょっと特殊な学校でね。
宗教は関係ないんだけど、親の参加を極端に嫌う学校だった。ちなみに今はそれほどでもない。
でもルーツを知るとなるほどなっていう感じなんだよ。
かつては地元の底辺高校に落ちたDQNが滑り止めにしてた学校でね。
つまりは学校として安定した学校運営(教育面含め)をするには、DQN親を排除し徹底的にATMとして利用することが是とされたんだな。そしてそういう扱いを受け入れる家庭の子供しか受け入れてこなかったわけだね。
それがいっぱしの貴族学校(あくまで地元での評価ね)に変化を遂げたのは、制服が変わったからとも先生が変わったからとも言われるけど、その実、中学ができて通ってくる生徒の家庭のレベルが上がったからっていうのが一番じゃないかと思う。
自分の同級生にも、親が医者とか東大教授とか、普通にいた。自分の両親も国立大学出で東京でサラリーマンだったし、そういうのが普通だと思ってたんだよね。
だけど地方の大学って、国立は特にいろんな人がいるわけじゃん。
ただ、旧帝大に受かったっていうプライドだけはすごいから、こういう違和感っていうのはなかなか言い出せることでもなくて。
横浜のほうの私立中高出身の子は唯一同じ世界を共有できる人でさ。かなり愚痴ってた。
本家とか分家とか健在な土地柄で、うちは本家なわけ。東京(厳密には東京じゃないが彼らにとっては)に出ちゃってても本家なんだよね。
自分は跡を継いだわけじゃないからある程度客観的に見てると思うけど、山口の事件的な社会背景はすごく感じるし、「このおじさん、若い頃(かつては東京で働いてた)はこんな人じゃなかったんだろうなー」って思うこともある。
そこの出身である自分の母親は、これまた「変な人」でね。ちょっとメンヘラっぽいところもある人だけど。
ことあるごとに「ありがとうの言葉がない」とかやたら言われたんだよね。まあ、言わない自分もどうなんだってところなんだけど、この↑文章を見て納得がいった。「低学歴の世界」を抜け出した彼女にとって、それは「高学歴の世界」の象徴だったのだろうなあと。
残念なのは、彼女には「お礼の言葉がない=お礼されるようなことではない」という認識がないということだね。大抵は迷惑なことをしでかしたときなんだけど。「高学歴の世界」の人間は、言わないことで波風を立てずに態度を示す。そこに気づかず、彼女は「やってあげた」という意識があるから「ありがとうがない」となる。兄嫁とうまくいかないのもそこなんだろうなあ。兄嫁も「高学歴の世界」の人間だから。母親はやたら兄嫁を目の敵にしているが、自分は兄嫁に非があったとはあまり考えていない。
「いろんな支援に対して当たり前だと思っている」は確かにその通りかも。反省している。
現段階では、いろんな企業の社長さんがその類の人ではないかと自分は思う。企業にもいろいろあるし、自営業みたいなのもあるけど、自分が出会ってきた社長さんたちは、両方の世界とうまくやっていく能力のある人が多いと思う。これは東京でも地方でも、大企業でも自営業でも。そうでなきゃ社長なんてのは務まらないんだろうね。
だから、日本の社会では、政治家よりも官僚が強い。官僚より経団連のほうが強い。
なんか、いろんなことに合点がいったよ。
http://luvlife.hatenablog.com/entry/2013/08/07/221155
読んで色々考えさせられた。
せっかくなので、身の上話を増田に吐き出そうと思う。
すごい田舎の底辺中学を卒業してるけど、地元同級生たちや親戚達の常識感っていうのは独特だなぁとずっと思ってた。
上京してからは特にそう思ってて、同じ日本なのに本当に違う世界が共存しているんだなと思ってそれがもう日本だと思ってた。
この記事を読んで、そうかそれは「低学歴の世界」と「高学歴の世界」の溝だったんだと納得した。
地元は田舎だからか両親ともに兄弟が多くて、いとことか30人くらいいるんだけど、その中で大学に行かせてもらったのは俺くらい。
俺の両親は、他のいとこが次々と中卒・高卒で働き始めたりしているのを横目に、頑張って俺を大学まで行かせてくれた。
両親が大学まで俺を行かせたかった理由としては学歴コンプレックスもあったのだと思うけど、それ以上に今後生きて行く上で大切な友達や結婚相手の階層のレベルをあげてやりたいってことがあったのだと思う。
実家に帰ると、親戚の誰それが結婚した、でも結婚相手はどうしようもないバカでパチンコばかりで家族そろって金を無心にくる、という似たような話がゴロゴロ。
不倫・バツ1・再婚・生活保護・パチンコ・ギャンブル・騙した・騙された・蒸発、、、あげれば切りがないけどそんな話がゴロゴロゴロゴロ。
俺の両親は2人とも低学歴だが、そういう世界に本当に嫌気がさしていたんだろう。
今思うと、きっと両親はそういう「低学歴の世界」が常識な親戚から俺を遠ざけたんじゃないかと思う。
いつの頃からか、他の親戚連中とは距離を置くようになっていて、気付いたら俺もいとこ達とはあまり会わないようになってた。
大学にもやれないような、子供の将来よりお金の無心しかしない人を騙すしか能のない親の元で育つ子供はバカになるし、バカとしか結婚できないんだ、そして親と同じことを繰り返すんだと両親は良く嘆いてた。
そんな地元環境だったので、大学に行ってからはカルチャーショックがたくさんあった。
そのうち、進学で上京したのは俺を含めて2,3人だったと思う。
大学へ行ってまず俺が驚いたことは、友人達の家庭環境と文化レベルの高さ。
などなど。
もう大学卒業して結構経ってしまったからその当時の衝撃を少し忘れてしまっているけど、「高学歴の世界」の人からみたら、ごく当たり前のこんな感じのことで当時の俺は衝撃だった。
今思うとここが「高学歴の世界」への入り口だったんだなと思う。
俺は学部で卒業したけど、大学院進学も見据えて大学入学してきた奴らなんて、本当「高学歴の世界」すぎた。
俺なんて、大学入るまで大学院なんていう存在すら知らなかった。
親と一緒に驚いた。大学の上に更に進学するところがあるんだって!って。
大学では本当に勉強・研究を頑張った。大変だったけど初めて勉強が楽しいと思った。
大学でできた友人達とは今でもとても仲が良いし、めでたいことにその時の友達ひとりと結婚もした。
今の俺の状況としては、東京の某大企業に就職し無事に溝を超えて「高学歴の世界」にお邪魔した感じだろうか。
そして、会社に入ってから更に大学よりも純度の高い「高学歴の世界」の人たちがたくさんいることにビックリした。
仕事していて困った奴もたくさんいるけど、地元にいた「低学歴の世界」の人たちのような耳を疑うような非常識さは全くない。
ここでずっと仕事していると、こういう世界が日本の普通と錯覚してしまう。
そして彼らの大半は、家族も両親もずっと「高学歴の世界」で生きてきた人なので、「低学歴の世界」を垣間みたことがない。
大学進学するのが当たり前だと思ってるし、周りも大卒ばかりなので、実は日本には大卒ってそんなにいないことを実感していない。
パソコンとインターネットの違いが分かるのは当然だし、スマホもタブレットも使いこなす。
飛行機や新幹線のチケットはネットで買うのが当たり前だし、分からないことは全て自力で調べられる。
年に一度は海外旅行が当たり前だし、英語は苦手といいつつも日常会話はそこそこできる。
両親兄弟がちゃんとした常識人で、困ったときには何かしらのアドバイスをくれる。
両親の家に普通にパソコンがあって、孫の様子をスカイプでテレビ電話する。
孫のために両親がお金を湯水のように注いでくれて、当たり前のように援助してくれる。
それがどれだけ凄いことか分かってない。
なので、たまにそんな「高学歴の世界」の奴らにいらっとしてしまうのだ。
この溝は超えたことがあるものにしか実感できないんだろうなと思うし、実感しても人生にいいことはあまりない。
だから大半の人は溝に気付かないか、見ない振りをしてごまかすんだと思う。
大学進学が溝を飛び越えるのには一番理にかなっていると思う。
けど、その障害となっている一番の原因がその親だ。
頭のいい子がいて大学進学を進めても親にその気がなければ、もうそこでその子の人生は地元止まりだと。
なんとかしてやりたいけど、全員を救えるわけではないしどうしようもない、と。
唯一、政治家だけはこの溝について何かしら対処すべきだと思うけど、政治家自身も「高学歴の世界」にいる人たちばかりなので実感として「低学歴の世界」を理解できないんだろうな。 年々この溝が深くなっているような気がする。
本当に根深い問題だと思う。
30年前に地元を出た人の話ならわかるが、そうでないなら都会の人が想像で語った釣りでしょう。あるいは、30人中大学進学が1人とか超特殊な一族過ぎる。自説を開チンする時に経験談に仕立てるアレな類い。
っていうブクマがあったけど、俺30歳ですよ。
特殊な一族なのかなぁ。違うと思うけどなぁ。どうなんだろう。
ひとつひとつにコメントしたいところだけど、気になったものに対してだけコメント返信させてもらいますね。
底辺エリアであってると思います。ヤンキーやDQNがなぜか沢山集まった学区にあった公立中学校なのかな。
校内にバイクは侵入してくるし、ガラスは割れまくるし、授業中に水は飛ぶはご飯つぶが降ってくるわ、先生は泣いているわ、それはもう楽しいところでしたよ。
今思うとあんなに玉石混合な人種が共存していた世界もそうなかったと思います。
両親公務員家庭で自分も大学行ったけど、親戚はほぼ大学出てないとある地方の家庭で育ちましたが、こんなに周りの文化レベル低くないです。やっぱ日本にもやばい場所とそうでない場所がある。
公務員が一族にいるだけで、凄いですよ。
そんな安定した職業の方は親戚にいませんよ。
この話をぼくの周りに話しても誰も無関心&他人事で、最近は言うのを止めた。どちらの世界も中途ハンパに知ったまま底辺に落ちてくとストレスだよね。
すごく分かります。
俺も会社では地元の話はあまり出しません。逆に地元では会社の話はあまりしません。
どちらにも愛すべき人たちはいるし、どちらの世界にも彼らなりの「普通」に幸せに暮らしている人もいるので、そんな人たちに今更こういう現実が横たわっているっていう話をしても何も生み出さないなぁと最近感じています。
釣りだと思う方は、そう思ってた方がいいと思うし多分そういう方はもうひとつの世界を知らなくてもいい人なんだと思います。
「高学歴」で陰湿な凄まじいイジメをするやつ、「低学歴」でこの人について行きたい!と思える徳の高いやつ、いたよ。高学歴=人間としても素晴らしく育ちが良い的な論調には賛成しかねる。率は高いにしても。
高学歴を賛美するつもりはなかったので、誤解させてしまったならごめんなさい。
俺の周りにも「「高学歴」で陰湿な凄まじいイジメをするやつ、「低学歴」でこの人について行きたい!と思える徳の高いやつ」はいます。
なので100%学歴の話ではないけど、それでも悲しいことに学歴が所得と階層に相関関係あるのは確実だなと肌感覚で思うのです。
俺が田舎出身だったので田舎という表現を使ったけど、きっと東京の郊外でも似た話はあるんじゃないですかね。
話せば分かるとか、努力すればなんとかなる、とか。
それ以前の問題があることに想像が及んでないんだなぁと思います。
でも「高学歴の世界」の人たちも、彼らなりの努力や葛藤があって人生歩んでいるので「低学歴の世界」とはまた違った大変さがあると思います。
なんか色んな反応があって面白かった。
こういう話をちゃんと外に吐き出すのって初めてだったのでなんだかスッキリした。
なるほど。
俺そういうのほとんど受けないで育ってきた(そもそも母方の祖父母は元々いなくて、父方の爺さんも中2の頃に亡くなった)から、みんなそんなもんだろうと何となく思ってきたけど、考えてみりゃそんなわけねーんだよな。
無意識にそういうのは世界が違うボンボンの人たちだけのもんだと思ってたな。はーカルチャーショックだ…。
まーでも、庶民でも世代間で所得再分配して、年収400万台とかでも普通に子育てしてそこそこ豊かに暮らせるってのは健全だよな。
俺は社会に対してリアル北斗の拳みたいな殺伐としたイメージを持ってるけど、それは俺と嫁だけで全てやらないといけない(しかも親の援助まで)からなのかもな。
なんにせよ、世間の皆さんが羨ましすぎるな…。
日本国内で数年遠方に滞在して、そこからさらに数年海外で過ごした。
この1月から実家近辺の勤務になり、ようやく帰ってこれたとほっとしたのもつかの間。
「あんたが留守の間に引っ越しが決まってね。部屋のいらないもの捨てといたから」
ここ5年くらいは上に書いたように部屋を空けていたから、実質20年。
その間にため込んだあれこれは、ほぼ何も残ってなかった。
幼稚園の時に気に入っていた本も、小学校の時の教科書で1冊だけ大切に取っていたものも。
中学校の時に書いた自作の小説…友達に読ませたりして固定ファンもいた作品たち…も。
高校からつい最近まで、ちょっとづつ集めていたとあるミュージシャンのCD50枚も。
荷づくりの関係で、部屋には空き箱や空の袋が大量にあったし、
大きな家具はまだそのままだった
だから、事態の全容に気づくのが遅れた。
最初は、気づいた順に、あれがない、これはどうした、といって母親に尋ねた。
その都度、ごめんねと謝られて、問い詰めると引っ越しのために仕方なかったんだと逆切れされて。
釈然としない思いのままとりあえず怒りを収めていた。
でも、とうとう、気づいてしまった。
ネットで見た、鉄道模型を捨てたら精神的に壊れてしまった旦那の話を思い出した。
同じだ。
日本に帰ってきたばかりで逆カルチャーショック真っ最中なのに、さらにこの仕打ちは堪える。
1月11日追記:
トラバくれた人ありがとう。大体予想していた内容(酷いorむしろ感謝すべき)だけど、それでも誰かの反応を貰えるだけで有難かったし、落ち着けた。
物の量では、要らない物>>>>大切な物だし、引越の際には結局捨てないといけなかっただろうから、自分の代わりに捨ててくれたと言うのは正しい。
ブクマでは事前連絡が無かった事が問題って書かれてたけど、海外ですぐ帰省できる距離じゃなかったし、言われてもどうしようもなかったと思う。
実は、上の日記を書いた後、母親にどうしてありとあらゆるものを捨てたのか、尋ねてみたんだ。
やり取りの詳細は書かないけれど、最終的な母親の言い分は
「本当はこの思い出の場所から離れたくない。でも、事情があって引っ越さないといけない。
自分だって引越のためにたくさん思い出の物を捨てた、自分だって辛いんだ」
だった。
まとめてしまうと味気ないし、理由になっていないのも一目瞭然だけども、
目の前で時折涙を見せながら切々と語られて、とにかくその気持ちだけは理解できた。
「ただ、いくら自分が辛い思いをして捨てたからって、独立した子供の所持品を巻き込まないで欲しい。
なにより、捨てるときに自分で取捨選択できるのと、ある時突然無差別に無くなるのとは全然違う。」
気持ちは分かるけどもと前置きしつつ、この二点だけははっきり説明して、納得させた。
ついでに、逆カルチャーショックについても説明したけど、こっちは信じてもらえなかった。
その後もまた別の部屋の荷造りなどをしたのだけども、そこでのやり取りから、
この人は、子供が自分とは異なる価値観を持って、違った人生を歩むということが頭では分かっても、
感覚として受け入れられないのかもなあ、と思った。
http://anond.hatelabo.jp/20121230131023
元増田の内容とはまったく関係ない、アラサー30歳のおじさんの昔話で申し訳ないけど、最後の写真を見て、これが今時の高校生かーと思ってしまった。
1.携帯
授業中に鳴らしたらその場で没収、後で職員室に呼び出し。
と一人ムカついていたのはいい思い出。
2.デジカメ
「せっかくパソコン買ったのならデジカメで写真を残しておきたいね。」
「2万9千円で131万画素のデジカメがあるよ。131万画素ならそこそこ良い画質だし、3万円切ってるし、買おうよ」
などと家族で会話した10年前。
当時300万画素のデジカメ(携帯のカメラじゃないぞ。デジカメだぞ。通話もメールもできない、カメラ専用機だぞ)って言ったら6万はする上位機種の画素数。
それが今や携帯の一機能として備わって、しかもそれを高校生が持っているという。
とまあ、こんな感じでカルチャーショックを受けつつも、その一方でああやはり10年たっても高校生は数学でベクトルをやってるんだなあという安心感も。
10年後の高校生はどんなモノを持ってるのかな?
今のデジタルビデオカメラ並みの画質の映像がほいほい撮れる携帯を持ってるのかな?
俺は本気だし、君の言ってることの方が矛盾に満ちてるとしか思えない。
そういった俺の感覚による意味合いでは、やはり普通の小学生は「授業に集中し、周りの空気に配慮した発言をする」のが当たり前である、ということ(しかも「空気を読む」と感じないくらい無意識にそれができるのが当然ということ)を君は主張しているし、それが「カルチャーショックすぎる」ということを始めから俺は言ってるんだよ。
教室で離席さえしなかったら何してても「授業に集中している」とみなすってこと???
「周りの人が困惑するようなことを言わない」と「周りの空気を読んで配慮した発言をする」の意味の違いが全く理解できない。
空気を読まなくても「周りの人が困惑するようなことを言わない」ことができるもんなの??その方が遥かにカルチャーショックだ。
小6の娘から「お母さん、仕事辞めて」 働く母親のジレンマ〈AERA〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20121112-00000006-sasahi-soci
これに対しid:kobeni_08がブクマ。
そもそも「成績で決まる塾の席順」がかなりカルチャーショックなんですけど… あと、受験勉強って母親が監修できるもんなのか?そんなことできる人のリソースが、もんすごい勢いで一家庭に投下されてるってのも…
いわゆるNバッグを背負っていた小学生として思うところがあるのでキーボードを打ち込むことにする。
毎週土曜日にカリキュラムテストという出題範囲の決まったテストが実施され、
総合得点の上位20人と算数、国語、理科、社会の各科目は上位5人はその結果が廊下に掲示される。
で、算数の授業では算数の、国語の授業では国語の成績に応じて、席順が教室の前のドアの横に貼り出される。
自分の教室では2人用の机が3列あり、黒板に一番近い真ん中の机の左から1位から順番に座る。
つまり黒板に近い生徒は成績がよく、教室の後ろにいる生徒は成績が悪いことが一目でわかるわけだ。
個人の成績表と全国ランキングもテストのたびに配られ、競争心を煽るあらゆる手段が取られていたと思う。
ただ自分たちはあんまりこの席順には執着していなかった。むしろ何ヶ月かに一度実施される公開模試、
この公開模試の結果によって席順ではなくクラス替えが行われるのだ。
自分の教室では成績がいい順に栄冠組、3組、2組、1組の四クラスあって、栄冠組とそれ以外では授業時間、内容と宿題がかなり違う。
親としては同じ学費を払っているのだからよりよい授業を受けさせたいから気合が入る、
自分としてはクラスが変わると友人や好きだった子と一緒にいられなくなるから気合が入っていたと記憶している。
学校での人間関係や親との関係が決して順調ではなかった自分にとって、塾でできた友人たちと休み時間や行き帰りに一緒にいられないのは想像するだけで恐ろしかった。
2,3週間くらい前からカリキュラムテストの勉強と同時進行で過去の公開模試や問題集をひたすら解いていた。
そのおかげもあってか自分は小学4年の時から小学6年を通じて栄冠から落ちることはなかった。
そういえば今でも好きだった子は年に一度くらいは夢に出る。
まあ初恋だったんだろう。元気にしているだろうか。
山のような宿題が課されるんです。ほんとに山のような。
中学受験が終わった時に今まで解いた問題集とプリントを縦に並べたら当時の自分の身長ぐらいあった。こんな量を小学生に管理させるのは無理。
そうなると母親が監督になるしかない。母親が監督になるしかないのだが、母親が中学受験の経験がないと、上位校にいくのは厳しいのではないか。
実際母親の”受験ママ友”の学歴とその子供の受験結果を思い出すと相関はあると感じる。
ノウハウの蓄積の差や、子供に指導するときの説得力の差は大きい。
母親が今までの人生でやったことがないことををやれ、というよりも自分もできたことだからお前もやれ、という方がまだ納得しやすい。
それとママ友は共働きより専業主婦の人が多かったはずだ。共働きだと遊びたい盛りの小学生を週4、一回3時間近くの塾通いをさせ、宿題とプリントを管理し、
最も集中して勉強する金、土、日につきっきりで教えるのは難しい。この上家事もやるわけで…
この娘はそんなに勉強して将来どうするの。
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収入と家庭の安定はそれなりに相関する
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家庭の安定は家庭の幸福にそれなりに相関する
と自身は思っている。
中学受験はあくまで通過点だと言うことはわかっている。上の相関だって絶対ではない。ただ何もしないよりかはマシではあると思う。
2月1日まであと3ヶ月を切っている。がんばれ受験生。