はてなキーワード: 忠臣蔵とは
『機動戦士ガンダム』……『新世紀エヴァンゲリオン』……
単に『売れる』ではなく『刺さる』コンテンツにはある共通点がある。
まず『暇があって可処分所得が増加モードに入った感じやすい年代』つまり学生が対象であること。
次に、彼らの暇とお金と旺盛な知的好奇心を吸い上げられるだけの『多層的な設定』がなされていること。
少年少女が否応なしに戦いに巻きこまれていくパターンであり、それを狙って失敗した作品もたくさんあるだろうが当たれば大きい。
そしてここからが本題だが……私は【学徒出陣もの】への抜き差しならない支持が、この国の活力を削いでいると考える。
『学徒出陣』自体が先の敗戦とひとくくりに捉えていいような悲しい出来事なのだ。
悲壮を尊ぶ精神風土はこの国の弱点、いわば【敗戦気質】だろう。
どんなに悲痛なトーンで描かれていても、それらが快美な娯楽として消費される限り【マイルド悲壮】にすぎない。
手の込んだ倒錯であり、ゆがみだ。
【悲壮ポル…】という言い方はどぎついので、しないけれど。
この【悲壮がり】こそがこの国の足を最低150年は引っぱり続けてきた。
特に白虎隊の悲劇は端的に痛ましい事件で、そこに美を感じるのは間違っている。
時代は違うし主人公はおっちゃんたちだが……『忠臣蔵』も【悲壮がり】な話だ。
あの時代になんJがあったら『くっさ』の一言で済まされかねない。
では、どうあるべきか?
コブラを乗せるべきだ。
『おっさんやん!』というのなら、じゃりん子のチエちゃんをもうちょい成長させて乗せるべきだ。
なのにこの国で刺さるコンテンツは【悲壮がり】だらけ。しかもそれで勝ったり生き延びたり、挙げ句ただようハッピーエンド感。
「実現させてはならない」となろう。
どこかであったのだが、
現実的じゃないでしょう?
はっきりいうと、なんでこの程度のことで鉄華団が
負けてるの?という話ですやんか。
鉄華団が馬鹿だからマクギリスがバカだからとか、言い訳になるわけがない。
それ荒木飛呂彦あたりも言ってるが作劇として最悪なの。
粒子ビームじゃない
加えてバエルにサイコミュ積む。機体ジャックしてダインスレイブ隊を
乱す。
ガエリオ?あんなの本来マクギリスの敵ですらなかったはずですがな。
阿頼耶識タイプEのシステムで精神汚染起こらないわけないだろうから
そして三日月はマクギリスとの殺し合い
ギャラルホルン崩壊するも鉄華団の名誉回復とヒューマンデブリの
救済などにクーデリアが尽力し続けるかんじでいいんではないですかね。
つか、ここんとこAGE二期のフリットはうまくやってたと思うんだがね。
作り直すべきだよ。イチから。それが誠意だと思う。
で、『仮面ライダー』のショッカーも、『宇宙戦艦ヤマト』のガミラス帝国も、『機動戦士ガンダム』のジオン公国もナチス(ファシズム)のイメージだった。
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21世紀の現代、Twitter見てりゃ「アニメや漫画の好きなウヨ」は目立つけど、いかにもウヨが好みそうな
って作品ってある?
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まあ『スターウォーズ』みたいな「話の発端では弱小勢力の主人公が、強大な帝国に立ち向かう」ってな図式は娯楽の作劇として常道だろうけど、それはそれとしても、ウヨの理想に合致するエンタメってほとんど見あたらない気がする
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たとえば『ONE PEACE』は海賊だから、主人公は国家権力には反抗する立場、巨人族や魚人などの異種族に差別的な奴は悪役と決まってる。
つか、『デビルマン』から『亜人』まで、エンタメ作品じゃ人外の怪物(差別されるマイノリティ)の側の視点に立った作品の方が多い気がする。
ヒラコーの『ドリフターズ』も力による征服や支配を肯定する男性原理全開なのに、エルフとかドワーフとかの人外被差別種族には優しい。
『攻殻機動隊』も『PSYCHO-PASS』も主人公は警察官ながら国家権力に忠実かと言えば、国家権力の方が悪者みたいな描き方だった。
主君への忠義を描いた『忠臣蔵』だって幕府権力には逆らってるから切腹させられてるし、逆にそのせいで江戸の庶民には人気があった
『ルパンレンジャーVSパトレンジャー』でも警察権力より泥棒のが格好いい。
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職業軍人が外敵と戦う『進撃の巨人』はウヨに受けが良さそうだけど、主人公が属する軍隊組織の中枢はずっと腐敗してて、憲兵隊は正義ではなく、敵の巨人は異民族異人種ではなく同じ人間というオチだった。
まあ現在は右派の方こそ「自分ら=少数弱者/サヨク&外国=巨大な権力悪」ってイメージなんだろうけど、それって完全に左翼の世界観じゃね?
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じゃ、ウヨに人気ありそうなミリタリ系はどうか。『艦これ』の深海棲艦は連合国か人間ではない異種族なのかといえば、じつは死んだ艦娘らしいと暗示され、のちには連合国艦艇が味方キャラで出てきた。
ガルパンでは、帝国陸軍らしい知波単はアホの子扱いで、米英とかの連合国をイメージした他校も悪役っぽくない。日本のウヨ的には、知波単が最高に格好いいヒーロー役で、プラウダとか卑劣な最低のクソ学校じゃないといけないんじゃね?
臆面なく日本の軍隊バンザイを全面に出してる作品て、『ゲート』ぐらいしか思いつかん
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追記:戦前の亜細亜主義みたいな多民族連帯型右翼や、三島由紀夫や戦前の皇道派みたいな反体制的な尊皇思想の存在は知っとるけど、現代ではマイナーな潮流なのであえて省いた。
ここでは話を簡単にするため、ウヨ的とされる要素を、現代のアニメアイコン保守論客のなかでの多数派の特徴っぽい「国家権力(つか自民党政権)バンザイ」「排外主義」に絞った次第。
言わずと知れたこの件。
https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.mnWjGlvXk#.ibkRwGQev
今回の論点は、
である。パワーを使ってセクハラをする、あるいは、パワハラの手段の一つとしてセクハラを使う、というものを告発しているのである。
パワハラとセクハラが絡み合い、その根元はパワハラであるというものについての告発である。
これに対して過去の童貞いじり発言には、パワハラがほぼ存在しない。(中にはちょっとした名のある人の全体に向けた発言に勝手にパワーを感じ取ってしまう人たちもいるため、「ほぼ」とした。)
「筋が悪い。」
この筋の悪い批判は、論点と関係ない部分をあげつらって攻撃しているだけであり、過去に実際に童貞いじりがあろうとそれがセクハラであろうと論点に関係がない。
論点に関係ないのに、論点に絡めた文脈での「童貞いじりセクハラ批判」は、完全に別件であり、誹謗中傷となり、下手すると「ただの人格否定」まで落ちてしまう。
童貞いじりがセクハラかどうかは、「セクハラを伴う”パワハラの告発”」が落ち着いた後にカウンターとして別で行うべきなのである。
こういった批判は、時間が経てば自然といつもの「はあちゅうさんが嫌いだから、ことあるごとにdisっている人たち」にまとめ上げられて過疎化するはずだったのだ。
過疎化していくにつれ、まじめに#metooについてやセクハラを伴うパワハラについての議論が活発になったはずだった。
また、きちんと考えてから投稿する人間の中には、平日暇ではない人も多い。
土日にいろいろ考えを投稿しようと考えていた人たちが見る見るうちに話が変わっていって「あーあ。」となってしまったケースも多いだろう。
じっとしていればよかった。
ということだけだったのだ。
それができずに、はあちゅうさんからヨッピーさんまで釣れてしまったために、論点の中心から離されてしまった#metooもBuzzFeedもいい迷惑である。
そもそも、今回の件、まず勘違いしている人も多いし、もしかしたら本人も思い込んでいるのかもしれないが、
はあちゅうさんのやりたかったことは、本当は#metooを後押しするであるとか、社会的意義を感じて立ち上がるなんてものでは全然なかったはずだ。
彼女を突き動かしたのは、
「あの岸ってクズやろーに一発かましてやらなきゃ、もう、ほんとどうにも気が済まねぇ!」
という一言に尽きるのだろうと思っている。
言ってみればいじめられっ子が、8年越しでいじめっ子に強烈な一撃でぶちかましてやっただけなのだ。
学生時代は自分はやられるタイプではないと思っていたのに自分はいじめられたんだというやるせない気持ち、
少し離れればただのクズ行為をするおっさんだという事実、そんなもんに当時傷つけられた自分の若さ、バカさ、
今の自分ならあんなおっさんやり返してやれる力を持ったのにという自信、
そんなやつに当時ただ従って人を差し出したんだという強い後悔、申し訳なさ、
こんな気持ちが普段見えない奥底に渦巻いていて、ふとした時に、やっぱり自分は傷つけられたんだという事実が心に影を落としてふと苦しくなっていたのだと思う。
同時に、まあ、別に今はもういいんだけど。とも。
しかしこういった気持ちは、消え去るものではなく何かの弾みで顔を出し、膨らんだりしぼんだりするものである。それは、その人の名前を見たり聞いたりしたときフラッシュバックする。
そんななか、岸さんは4月についに電通から出資を受け自分の会社を立ち上げ、あげく本も出して世間に注目されてと、自分の無視できない場所にどんどんと顔を出してきた。
あんな奴がいまだにチヤホヤされて評価されている理不尽さ、ますますの調子に乗りっぷり、…もう、耐えられるわけがない。
証拠は残っている。自らの発信力はある。世間に広めるのに筋のいい媒体も協力してくれる。
つまり、はあちゅうさんの中で、仕返しをするのにメリット・デメリットを天秤にかけた結果、ついに圧倒的にメリットの方が上回ったから実行したというだけの話なのだ。
岸さんとは近い業界にいるとはいえ、仕事の方向性は全く違うから手を回されたとしても大きな影響はない。むしろ自分はこういったネット上の流れに乗って自分の道を切り開いてきた自負も実績もある。
対して、岸さんはもともと電通のクリエイティブで個人の名前を売っていたとはいえ、所詮狭い業界内で巨大企業の庇護の恩恵を受けて活動していた中、
ついに独立して本当の意味で個人の名前で勝負しなければならない非常に大事な時なのである。
その流れで本も出している。
また、一部上場企業である電通の出資も受け、社会的信用が死活問題となった時でもある。結果からもわかるとおり、こういったスキャンダルは致命傷となる。
通常、こういった仕返しを一発やってやった場合、正面から暴力を使った場合は、心情的には同情され社会的には許されつつ制度上の違反については(酌量される部分もありつつ)淡々と処罰が下り淡々と受け入れたりする。
他の手段をとる場合は、誰がやったかわからない方法を取るなどやや陰湿的な方法になるため、世の中にあいつが勝ったんだということを見せつけることが難しくなる。
代表例は、なんだろう、まとめサイトの「スカッと」タグあたりでも漁ってみてください。
どちらにしても「完全勝利」はつかみにくい。
そんな中、今回は、目的も支持されるものである上に手段も正当であり、めったにない完全勝利が見込めるチャンスがやってきたのである。
やらない手はない。
その仕返しの中心的役割を担う媒体として#metooとBuzzFeedを利用しただけである。
これはこれで全く問題ないし、むしろ#metooはこれを社会的にサポートする機能となるだろう。いじめをした人は正直どっかでやり返されるべきなのだ。
BuzzFeedにはそれを周知する媒体になれるという社会的意義もあった。
なお、追随している人で相手の名前を出さない人もいるが、#metooは相手の名前を出して実行した時に、よりあなたを守る効果が発揮されるということは頭の片隅に置いておいて欲しい。
最初、はあちゅうさんがこの件に関してはもう取材は受けないという宣言をされた時、「すごい!やり遂げるんだな!」とカタルシスに似たものを感じたものだった。
しかしその後の、余計なことから何から何まで発言しまくりの現状を見ると、たぶん上記のことは肌で感じてスタートを切っただけで、やった後の自分の動き方の想定まではあんまりしていなかったんだなーと残念に思った。
やはりどこまでいっても、本質は自分がかわいい女子大生ちゃん止まりなのだなと。
https://lineblog.me/ha_chu/archives/67293039.html
それに対して岸さんという人は、さすがメディアの頂点の会社で第一線でやってきただけあって、撤退の仕方が完璧である。徹底的に完全撤退。その後完全沈黙。兵法!
1.まず、勝ち目のない内容と認識するや、発表前に個別に謝罪。
https://www.buzzfeed.com/jp/takumiharimaya/hachu-metoo?utm_term=.mnWjGlvXk#.ibkRwGQev
2.つぎに、発表されるとともに即謝罪。
それも改ざんの恐れがなく、最後まで通しで自分の主張を読んでもらえる自コンテンツのみで謝罪。
岸さん側の感覚に立ってあえて改ざんといっているが、謝罪メールを取材相手のBuzzFeedに送るとしたらどうなるか。
行間にたっぷりはあちゅうさんやBuzzFeedの見解を差し挟まれながら発表され、読者が読みながら大きく印象の誘導をされる恐れがあるのだ。
エビデンスのある部分、のちのちバレそうな部分は完全に謝罪し、ファジーでエビデンスが出なそうなところは否定してしっかり楔を打っている。(登壇をやめさせるように相談した経緯については、ついバレないだろうという希望的観測が出てしまったのだろうか。もう電通の庇護にないことを忘れてしまっていたのかもしれない。)
https://note.mu/kishiyuki/n/n363633a5776e
3.それでも沈静化の目がないと感じるや、代表取締役を即辞任。
(2017/12/29現在:今見たら会社ページが「2017年12月18日 代表取締役の異動(辞任)に関するお知らせ」だけになってる!まじか!まっさらに完全撤退。最初はまだ通常のいろんな会社情報が載ったままだったんだよ。)
いじめられっこの復讐の鉄則は「不意をついてピンポイントで大将に大ダメージを与え、ヒット・アンド・アウェー」である。
社会人としての戦い方で、せっかく大きな勝利を収めたのに、自らの自意識から、小さいながらもまたしても1つ負けがついてしまったのだ。
今回は力を持っているはずの自分が、自らの下手クソさで起こした敗戦である。
せっかく、消えはしないまでも大きな傷はスカッと仕返しして返せたのに、完全勝利で終われるはずだったのに。
はあちゅうさんの心の中に小さいシミとしてまたしても残ってしまわないだろうか。
最悪なのはヨッピーさんである。私怨の復讐を成し遂げた直後の「友達」が語る擁護の言葉には百害あって一利なしだ。
まず、内容云々ではなく、いくらもっともらしいことを言っていても「友達の発言」以上には聞いてもらえない。
それが正しいものだとしても(実際、筋として間違った話はしていないしちゃんとしたこと言ってるんじゃないかな)客観的に見ている人であればあるほど「友達の発言」をそのままでは聞かないし、聞くと泥仕合に引き込まれる怖さがある。今回はPCデポのケースとは違うのである。
鈴木一が石原に一発入れたあとに、スンシンがのこのこ出てきて「俺があいつ(石原)は間違ったことをしたからやったほうがいいって言ってやったんだ。トレーニング付けたんだ。」って出てきたら、
「お前、、出てくんなや。。」
って残念な気持ちになるはずだ。
一通り落ち着いてから、「近くで見ていた人として…」と語りだすくらいがヨッピーさんにできる援護だったはずだ。
インターネットの時間の速さの中で生きてきた人たちにとって、数週間黙るという行為はこちらが思っている以上に難しい、というか想像の範囲外の行為なのかなという感想を持った。
なお、ここから先は(いや、ずっとそうなんだけど)個人的な意見だから今後も好きなように続けていただければいいのだが、ヨッピーさんには基本的にオモシロ下品(今はどちらかというとオモシロ無礼かな)の世界で生きていてもらいたいのだ。もともと俺パンからのゴブ僕つながりでオモコロへと続いて読んでいった自分にとって、オモコロに書き始めた頃からヨッピーさんの記事は面白くて好きなのだが、自サイト等で長文で主義主張をするバージョンのヨッピーさんは全然面白くないと思っている。これ以上はやりすぎであると思っていることや、やる必要がないと思っていること、あいつがおかしいだろうということなど、書いている内容のバランスも悪くないし、よく考えられているし、そうだよね。同意するよ。と。
「でも、そんなことは知ってるんです。」
ヨッピーさんがそんなこと考えているのは知っているのだ。ヨッピーさんの記事を読めば、いつも、伝わっているか、誇張していないか、面白く作れているか、でもやりすぎていないか、人を傷つける笑いでないかというギリギリのところを自らに問い続けかつ読者にも問い、問いに回答があればそれを受け止めて、その視点を組み込んだり自分に問い直して組み込まなかったりしながらオモシロ下品(/無礼)な記事を作っていることは明らかだからだ。
長文で主張していることを考えていることなど、記事を読めばわかるのだ。だから完全に蛇足だと思うのだ。ヨッピーさんがTwitterでセクハラ発言をする相手だって、セクハラ発言に期待して絡みに来ている人たちなのは明らかなのだ。
フミコフミオさんはTwitterになると途端につまらなくなるから読まないのと同じように、ヨッピーさんがブログに長文を書いても読まないようにするだけだから構わない。
これはこっちの問題であって、本人に顔出しで文章で考えを書いて公開して、それによっていろいろなフィードバックを受けるメリットを捨てさせることまではしてくれとは言えない。どちらかというと本人のためには続けた方がいいことだろうとは思うので続けていただければと思う。
いちいちスタンスを説明されるのはこちらとしては面白くないが、やはりそこには、メディアの世界で一人の人間として顔を出して立ったことがない者にはわからないレベルのストレスとプレッシャーがかかり、説明する必要が出てくるものなのだなと感じている。
本来、今回のはあちゅうさんの告発は、スタート時点では非常に意義深く、社会に絶大なインパクトを与えうるはずのものだった。
なぜなら、
ということが言えるからだ。
高橋まつりさんがあのようなことになってしまった原因は、本当は「セクハラ(及び長時間労働)を伴う”パワハラ”」が原因だったはずだ。
原因を長時間労働に一本化され、1年かけて社会に対して働き方についての風向きを変えてきたが、それが大きくグルっと回って形を変えて返ってくるはずだったのだ。
実は人ひとり亡くなっていたのである。
#metooは今とは比べ物にならない大きなムーブメントとなっていたはずだったのだ。
もしかしたら周りで見ているだけしかできなかった人たちによる#hertooなども始まったかもしれない。(やり方については非常にセンシティブではあるが。。)
また、マスコミ業界・広告業界、その中でも特に当事者の電通は、傷の癒えないうちに二度目の爆弾を中心(今回は傍流ではないのだ!)に食らい、もしかしたら回復困難な処分が下される危険性すらあった。
二度目のダメージというものはでかい。墓所も傷の癒えないうちにガンシップの弾を食らった際には大きなダメージを受けていたことはご存じだろう。
これが、はあちゅうさんが悪手に悪手を重ねたことによって問題が歪曲、矮小化され、あさっての方角で炎上し、その間に本丸の火がすっかり鎮火してしまい、おそらくあちらの防御態勢もすっかり整ってしまったことだろう。
核弾頭で人を殴り、手が滑って足に落としているのを見せられた気分だ。
前述のように、はあちゅうさんは「あの岸ってクズやろーに一発かましてやらなきゃ、もう、ほんとどうにも気が済まねぇ!」という気持ちだけで動いているので、そこまでこちらの期待を負わされる謂われはないのだが、
自分のために#metooとBuzzFeedを利用したのだから、そのくらい#metooとBuzzFeedに見返りを与えてあげてもよかっただろうとは思う。つくづく惜しい。
ちなみに、童貞いじりについて、セクハラかといえば、まあセクハラだろう。(個人的にはどうでもいいと思っているが。)
これについては「あなたはパワハラにセクハラを混ぜられて辛い思いをしたかもしれませんが、仮にセクハラ単体でもいやでしょう?童貞いじりもセクハラですよね?」
という突っ込みをしてやれば、少なからず彼女にダメージを与えつつ、一部認めさせることもできたのではないだろうか。
いま彼女の中では「いつもの、話の通じない、頭のおかしい人たち、無視すべき存在、また人気があるから変なのに絡まれた」として十把一絡げにぽいっとされてしまっているのだ。
ここは良く考えずに脊髄反射してしまったあなたたちのミスですね。
なお、職場でパワハラをしたことがある人間には、「次はお前の番だよ。」という言葉を送っておくので震えて眠ったらいいと思う。
判官びいきというのは、江戸時代からある(から忠臣蔵が人気歌舞伎にもなった)わけで、確かに日本人は昔から「勧善懲悪」劇よりも、むしろ「善人が弱者で玉砕」する話が好きだ。
だが、これは「絶対的な神」をもたない民族において大衆が、勧善懲悪と社会の安定を同時に保つために一番有効な「好み」だったと考えるのが適切だ。
つまり、体制的上位者における「悪」が露見したときに、「絶対的かつ超越的な存在」さえあれば現行の王が打倒されても価値観の転倒が発生することを危惧しなくていいわけだが(むしろ、新しい王は古い王と違って、より正しく神の御心を地上で実現してくれるだろうが)、日本では残念ながらそれが期待できない。ゆえに大衆は、自己を仮託するために「弱い・だが正しい」存在を希求するものの、それが下剋上することには本能的に不安を覚えるので、結果かれらが敗北する(そしてその敗北は悲劇的な、すなわち玉砕であるほどよい。なぜならそのほうが、その敗北が大衆自身の望んだ結末なのだということをよりよく隠蔽してくれるから)という結末のドラマを求めることになる。
という仮説を1分で考えたのだが、どうだろう?
12月が迫ってきた。クリスマスは話題になるのだが、それ以前に違和感を感じるイベントがある。
12月14日が迫ってくると、テレビ東京で毎年毎年12時間もドラマ忠臣蔵を放送する。毎年新作だ。なんか違うのか、と疑問だ。それよりなにより、この赤穂浪士の心理であったり、かたき討ちであったり、メンツだったりする前提条件がもう圧倒的大多数の視聴者に共有やら同意されてないんじゃないだろうか。言ってしまえばいじめの仕返しなのではあるが、自刃した君主の霊を慰めるため、汚名を雪ぐために一年半も準備して敵を殺す。
このメンタリティに同意できるか? さっぱり理解できないし、同意もできない。ましてや毎年見たいものでは決してない。しかし毎年毎年新作が作られるのだから、これまた理解できない。新資料が発見されたために新解釈が入ったわけでもなく、47士の誰かをフィーチャーしてあたらしい物語を提案するわけでもない。おなじみの物語をなぞっているだけにしか見えないのだが。しかも特に話題になってるわけでもない。
つまりは、惰性なんだろう。誰も見なくなっても、惰性で新作が作られていく。