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2024-02-03

F1大阪グランプリってそんなに駄目なアイデアでもないような気はする

とてつのなく予算が(80億円とか?)かかるみたいだから現実性が極めて低いという話は別にして。

都市部グランプリを開催することの利点はアクセスが極めて簡便になることだ。

比較的、交通の便が良いとされている鈴鹿サーキットですら大阪都市部で開催されるグランプリには絶対に叶わないだろう。

東京から新幹線新大阪まで行けば、おそらく御堂筋線一本でたどり着けるような場所で開催するのだろうから日帰りが容易になる。

この訴求力は凄まじい。

この一点だけでも十分な魅力と言える。

あと、どういうサーキットを作れるのか?というのにも興味がある。

鈴鹿はいわずとしれた伝説的なサーキットドライバーから深く愛されているし世界中ファン評価している。

ただいかんせんオールサーキット特有の狭さというもの現代F1開催地としてはやや不適格なもとなりつつもある。

F1はその安全上の理由から、ひたすら車両が拡大化されている。

その大きな車両と、オールサーキットの道幅がミスマッチものとなりつつあるのは本当のことだ。

大阪グランプリのために新しく構想されるサーキット現代F1マッチしたオーバーテイクが随所で見られるようなものであったりしたら、それもひとつの魅力でもある。

まあ何にしても鈴鹿での複数年開催契約が決まったみたいだから直近実現することはない計画だけど、そのあとを狙うくらいの気の長さと、どこかに財源があるというのなら実現は決して不可能でもないし悪いアイデアではないと思う。

[] 2024-02-03

昨月の電気代がエアコンの消費により膨れ上がり、贅沢は排し、こたつの温もりに身を寄せる中で、寒風に抱かれる孤独感が深遠な情緒となって心に滲んでいた。

冬の訪れと共に、私の日常は厳しい節約の中に変容していった。エアコン暖房に身を委ねる余裕もなく、ただひたすら本に耽ることが、たった一つの慰めとなっている。

温かな空間に身を包み込まれることは幸福であるかもしれないが、時折、静寂に包まれた中で孤独な思いが私を襲う。この静寂の中で、自分と向き合う時間を手に入れることができる。

しかし、その孤独感にも独自の美しさが潜んでいる。熱いコーヒーを啜りながら、心の奥深くに沈む感情に触れることができる。

人は孤独な瞬間に、自己と向き合い、新たな気づきを得ることができるのかもしれない。寒さのなかにある孤独も、時には私にとっての貴重な経験となっているかもしれない。

話は変わり、仕事の進捗は素晴らしいが、給与は低調だ。フルリモートであることが唯一の救いではあるが、生産性向上が報われる給料の増加には至っていない。

からこそ、私は支払われる仕事必死に取り組み、効果的な利他主義実践している。経済的利益を最大限に引き出し、それを適切な慈善機関寄付することで、社会貢献果たしているつもりだ。

葛藤もある。つまり給与が低くても快適な現状に飽き足らず、より高給な場所転職するかどうかの選択肢が浮かび上がっている。

しかしここに悩みが横たわる。今の仕事が快適すぎて、その楽な状況を選び続けているのかもしれない。両親は「転職はしない方がいい」と言うが、私の日々は物価の高騰による節約との葛藤の中で揺れ動いている。

 

追記

私の日記インターネットトロールコメントしているらしいが、大歓迎だ。寂しさが紛れるというものだ。

anond:20240203172609

原作改変で問題になるのは、ふたつのケースがあると思うんだ。

ひとつは、原作者が怒った場合

もうひとつは、ファンが怒った場合

漫画版エヴァ原作改変が問題視されてるかどうか知らないけど、もしされてるならば、それは前者か後者どっちなの?という。

今回のセクシー田中さん問題は話にならんのだけれども、

原作改変は条件次第であっても俺は思うんだけど、その条件はなに?というと、

原作者が事前にそれを認めてるかどうか?だと思うんだよね。

ようするに最初から話し合い、コミュニケーションの上でそれを原作から変えてもいいよ、というコンセンサスが取れてるかどうか。

セクシー田中さんはこの辺りが決定的に足りてなかったし、むしろ騙し討ちに近いやり方だと思われるんで、

日本テレビ小学館もその辺りをキッチリ検証して発表する必要があると思うんだけども、

それはともかく漫画版エヴァの方はそういう問題があったのかな?という気がするというか、

問題になってなくて、ファンの一部が「原作アニメ)と違いすぎるじゃねーか!」っていうのは、

まぁファン個人的感想なので、ちょっと話が違うかな?というか。

もちろんその「違うじゃねーか!ふざけんな!」って声が物凄く沢山あったら、それはヤベーなとは思うんだけども。

下書き保存ねえのな

イエーイみんなー!クソ接客されてるかーい?

マクドナルドメニューからスマイル0円が消えて久しいな!

スーパー従業員も座ってレジ打ちしていつでも水を飲めるようになった!

いやあ良いことですね!

もう接客なんてものは雑で良い時代なんですよ!

そういう時代になりました!なぜかって?

みんなのために1から説明しますね!

長い話になるので興味のない方は猫の動画でも見ててください!

まず少子化って言うじゃないですか!

増田でもよくオタクたちが少子化対策について話してますよね!

オタクたちは少子化対策しなきゃ!みたいな雰囲気作ってるけど実は日本国民もそれを望んでいません!

オタクたちが少子化問題にするとき、大抵は充てがえ論であったり、婚活自分市場価値が上がるようなポジショントークであることが多いです!これらは無視で良いですねえー!

少子化人口抑制メリットは限りある地球資源の獲得競争を軟化させ、サステナブル国際社会を創れることにあります

富国強兵時代はとっくに過ぎたんですよおじいちゃん

というわけで人口抑制最高!世界平和最高!ってな感じではあるんですが当然デメリット存在します。

それは労働力不足!

日本をはじめとして多く先進国においては労働人口が不足しており、サービスを維持するのが難しくなってしまます

どんな田舎でもコンビニ24時間やってたり、すぐに病院に行けたり、役所土曜日に開けてもらったり……。

官民問わずそういう便利なサービスを維持するためには労働力必要不可欠です。

では人口抑制しながらどうやって労働力を獲得するか?それにはおおまかに次の3つの方法があります

移民

人口の多い発展途上国から出稼ぎに来てもらう方法あなたの最寄りのコンビニでも外国人が働いてるのではないでしょうか。

DX

情報処理機械化によって効率化を図る方法

日本国民から労働力獲得

日本からもっと労働力提供してもらおうというアイデアです。

いま行われているいくつかの政策はこれをねらったものになっていますので、ここまでのお話を知っておくと政策への理解も深まるかと。


ここまで書いてアキタ

下書き保存

人生に失敗したので長生きしたいとまったく思ってなかったけど、あと40年後にはどのくらい科学技術進歩しているのかは気になる。

あと40年以内に、この世界の4つの力(電磁気力・強い核力・弱い核力・重力)のうち、ひとつだけ正体がわかっていない重力について解明されたらすごいなーと思う。

シンギュラリティに近いことが起きたりレベル5自動運転現実になったりしたらと思うとウキウキする。

でもたったの40年でそこまで進歩しないか…。

anond:20240203114055

筒井康隆の『夢の木坂分岐点』だったっけ、「一回折りのメニュー立て」って実用新案?を持ってるのがただ一つの自慢みたいな主人公が出てくる話

20年経ってガンダムSEEDという作品を供養することができた

ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。

特に宣伝というわけではない。

ガンダムSeedとの出会い高校生の頃だった。

子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。

設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。

1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。

しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚様相だった。

ガンダムSeed Destiny出会った時、自分大学生になっていた。

今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。

設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。

続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌インタビュー声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。

ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファン絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。

その後ゲームコミカライズノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。

前作で生み出された多数のファンアンチDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。

ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。

近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品Seedには共通点がある。監督脚本家が同じなのだ

福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)

極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。

これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。

この両澤千晶という人物自分にとっては敵だったのだ。

今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。

近年の監督SNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。

それから20年の間、親しい友人とSeedネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。

この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。

Seed関連での大きな変化といえば脚本家両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまたことに大きな喪失感を覚えた。

当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実申し訳なさや後悔のような感情もあった。

どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。

この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。

ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。

そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚しこりのようなものがあった。

昨年のことだった。唐突劇場版の公開が発表された。

私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さら困惑していた。

なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?

多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。

Seedシリーズ主題歌担当し、自身声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。

そんな西川ニキは劇場版発表後、自身Twitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。

業。そう。業だ。さすが当事者だ。解像度が高い。

自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。

やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見家族もキレていた。

しかリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないかアスランハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。

それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、

直前になってもどういう気持ちで向かえばいいのかわからない。

20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。

この映画告別式なのか、送別会なのか、同窓会なのか

何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?

結論から述べると、全裸正座が正解だった。

ネクタイ西川ニキリスペクトオレンジベター

斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊成仏し、20熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。

あのシンが活躍し、ヒーローになった。

キラ人間に戻り、ラクス人間になり、アスランネタになり、ヒーローになった。

特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。

映画終盤、唐突クロスアンジュが始まり西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。

Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。

気づけば劇場で涙を流していた。

監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品ファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。

劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。

みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。

今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。

監督気持ちの整理に時間必要だったのかもしれない。この映画監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。

いや、許さんが。

20年経っても変わらずseedの話ができる友人たち、私の業に付き合ってくれた家族ありがとう

ありがとう監督。奥様によろしく伝えて欲しい。

20年経ってガンダムSEEDという作品を供養することができた

ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。

特に宣伝というわけではない。

ガンダムSeedとの出会い高校生の頃だった。

子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。

設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。

1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。

しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚様相だった。

ガンダムSeed Destiny出会った時、自分大学生になっていた。

今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。

設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。

続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌インタビュー声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。

ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファン絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。

その後ゲームコミカライズノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。

前作で生み出された多数のファンアンチDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。

ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。

近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品Seedには共通点がある。監督脚本家が同じなのだ

福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)

極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。

これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。

この両澤千晶という人物自分にとっては敵だったのだ。

今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。

近年の監督SNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。

それから20年の間、親しい友人とSeedネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。

この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。

Seed関連での大きな変化といえば脚本家両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまたことに大きな喪失感を覚えた。

当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実申し訳なさや後悔のような感情もあった。

どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。

この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。

ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。

そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚しこりのようなものがあった。

昨年のことだった。唐突劇場版の公開が発表された。

私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さら困惑していた。

なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?

多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。

Seedシリーズ主題歌担当し、自身声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。

そんな西川ニキは劇場版発表後、自身Twitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。

業。そう。業だ。さすが当事者だ。解像度が高い。

自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。

やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見家族もキレていた。

しかリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないかアスランハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。

それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、

直前になってもどういう気持ちで向かえばいいのかわからない。

20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。

この映画告別式なのか、送別会なのか、同窓会なのか

何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?

結論から述べると、全裸正座が正解だった。

ネクタイ西川ニキリスペクトオレンジベター

斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊成仏し、20熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。

あのシンが活躍し、ヒーローになった。

キラ人間に戻り、ラクス人間になり、アスランネタになり、ヒーローになった。

特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。

映画終盤、唐突クロスアンジュが始まり西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。

Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。

気づけば劇場で涙を流していた。

監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品ファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。

劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。

みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。

今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。

監督気持ちの整理に時間必要だったのかもしれない。この映画監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。

いや、許さんが。

20年経っても変わらずseedの話ができる友人たち、私の業に付き合ってくれた家族ありがとう

ありがとう監督。奥様によろしく伝えて欲しい。

20年経ってガンダムSEEDという作品を供養することができた

ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。

特に宣伝というわけではない。

ガンダムSeedとの出会い高校生の頃だった。

子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。

設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。

1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。

しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚様相だった。

ガンダムSeed Destiny出会った時、自分大学生になっていた。

今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。

設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。

続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌インタビュー声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。

ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファン絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。

その後ゲームコミカライズノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。

前作で生み出された多数のファンアンチDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。

ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。

近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品Seedには共通点がある。監督脚本家が同じなのだ

福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)

極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。

これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。

この両澤千晶という人物自分にとっては敵だったのだ。

今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。

近年の監督SNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。

それから20年の間、親しい友人とSeedネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。

この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。

Seed関連での大きな変化といえば脚本家両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまたことに大きな喪失感を覚えた。

当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実申し訳なさや後悔のような感情もあった。

どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。

この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。

ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。

そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚しこりのようなものがあった。

昨年のことだった。唐突劇場版の公開が発表された。

私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さら困惑していた。

なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?

多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。

Seedシリーズ主題歌担当し、自身声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。

そんな西川ニキは劇場版発表後、自身Twitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。

業。そう。業だ。さすが当事者だ。解像度が高い。

自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。

やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見家族もキレていた。

しかリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないかアスランハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。

それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、

直前になってもどういう気持ちで向かえばいいのかわからない。

20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。

この映画告別式なのか、送別会なのか、同窓会なのか

何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?

結論から述べると、全裸正座が正解だった。

ネクタイ西川ニキリスペクトオレンジベター

斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊成仏し、20熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。

あのシンが活躍し、ヒーローになった。

キラ人間に戻り、ラクス人間になり、アスランネタになり、ヒーローになった。

特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。

映画終盤、唐突クロスアンジュが始まり西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。

Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。

気づけば劇場で涙を流していた。

監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品ファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。

劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。

みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。

今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。

監督気持ちの整理に時間必要だったのかもしれない。この映画監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。

いや、許さんが。

20年経っても変わらずseedの話ができる友人たち、私の業に付き合ってくれた家族ありがとう

ありがとう監督。奥様によろしく伝えて欲しい。

20年経ってガンダムSEEDという作品を供養することができた

ガンダムSeedシリーズおそよ20年ぶりの新作となる劇場版SEED Freedomを鑑賞し、自分の中でガンダムSeedという作品を供養できたので記念に置いておこうと思う。

特に宣伝というわけではない。

ガンダムSeedとの出会い高校生の頃だった。

子供の頃からガンダムが好きだった自分はワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると酷い出来に落胆した。

設定やMS、一部キャラの溢れる魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと世の中に対する解像度の低さが目立った。

1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。

しかし従来のガンダムとは異なる客層を呼び込むことに成功し、爆発的な人気となったが、その内容に伴い多くのファンアンチを生み出した。当時のネットはまさに阿鼻叫喚様相だった。

ガンダムSeed Destiny出会った時、自分大学生になっていた。

今度こそは失敗を取り返してくれるはずだ。ワクワクしながら開始を待っていたが、蓋を開けてみると輪をかけて酷い出来に大きく落胆した。

設定やMS、一部キャラの魅力と、それでも補いきれない程酷いシナリオと 世の中に対する解像度の低さ が目立った。 1クール目は面白いが2クール目以降は見るのが辛かった。あの頃自分と共に視聴していた顔も知らない2ch実況スレのみんなにはこの場を借りてお礼を言いたい。彼らがいなければ完走は不可能だった。

続編であるDestinyの酷さはここでは語り尽くすことはできない。大勢の方が語っているはずなので割愛するが、アニメ雑誌インタビュー声優が出演作品をボロクソ言ったりしていたアニメはあまりないだろう。

ともかくこの魅力的な要素を持ちながらそれを活かしきれなかったSeedシリーズは、多くのファン絶望や怒り、憎しみ、無念、悔恨などを与え、感情が渦巻き、ネット上でまともに語ることは不可能であった。

その後ゲームコミカライズノベライズなど様々な媒体で、救済が図られ、ファンは喜んだり記憶を呼び起こされて怒ったりしていた。

前作で生み出された多数のファンアンチDestinyという作品を消化することができず、行き場を失った悪霊となって20年感彷徨うことになった。

ところで私は幼少期に放送していた新世紀GPXサイバーフォーミュラというレースアニメが大好きだった。

近所のレンタルビデオ屋に通い詰め、続編のOVAも完走していた。このサイバーフォーミュラという作品Seedには共通点がある。監督脚本家が同じなのだ

福田監督とその妻である両澤千晶である。(星山氏や電童については脱線するため割愛する)

極めて似通っていて欲しくない共通点もある。上手くいかないことを周囲に当たり散らしていた主人公悟りを開き、良いものとして描かれていく。展開もどうにもスッキリしない。はっきり言ってしまえば失速していく。

これは両澤千晶が本格的に脚本に関わりだしてから起こっていると当時から感じていた。

この両澤千晶という人物自分にとっては敵だったのだ。

今にして思えばそんな1人の介入で質が下がったのなら監督責任なのだが当時はとにかく嫁が悪いのではと考えていた。

近年の監督SNSでの振る舞いなどを見てやはりこいつのせいだったかと思い直したりしていた。

それから20年の間、親しい友人とSeedネタにし続けることで楽しんでいた。いや、都度思い出してマジギレしていたかもしれない。その間映画の話も出たり消えたりしており自分の中では無かったことになっていた。

この20年の間に私生活は大きく変わっていた。就職し、転職し、家庭も持っていた。今さらそんなことを言われても困るぞ。

Seed関連での大きな変化といえば脚本家両澤千晶が亡くなっていたことだった。私にとってアークエネミーだった人物が亡くなってしまたことに大きな喪失感を覚えた。

当時プライベートな場でとはいえ汚い言葉罵倒し怒りをぶつけていた人間が亡くなってしまった事実申し訳なさや後悔のような感情もあった。

どこ目線だと思われるだろうが、責任のようなものを感じていたかもしれない。

この間ガンダムシリーズは作り続けられており、全て視聴していた。

ユニコーンを楽しんだり00やAGEに怒ったりしていたが、Destinyときほど熱くなることはなかった。何を見せられてもあらゆる意味であれほど酷い作品には出会えなかった。悪い意味で忘れられない作品になっていた。

そんな中両澤氏の訃報を聞き、Seedという作品永遠に消化できないものとして残ってしまったという感覚しこりのようなものがあった。

昨年のことだった。唐突劇場版の公開が発表された。

私は困惑し、20年来の怒りを思い出し、また困惑し、さら困惑していた。

なぜ今?本当にやるのか?そんなことがありえるのか?どうして墓から掘り起こすのだ?えぇ……?

多分観ちゃうんだろうなという予感はありつつもとても向き合えないと感じていた。

Seedシリーズ主題歌担当し、自身声優として出演していたTMRevolutionの西川貴教氏は20年間劇場版を待っていることを公言し続けていた。

そんな西川ニキは劇場版発表後、自身Twitterでこれは我々の「業」です。と発言していた。

業。そう。業だ。さすが当事者だ。解像度が高い。

自分も業と向き合うべきだ。そう考えた私は20年ぶりに無印からDestinyまでを通して100話見てみることにした。

やはりクソだった。20年ぶりに怒りが湧いてきた。巻き込んだ初見家族もキレていた。

しかリマスターは業が足りない。絵が綺麗になっているじゃないかアスランハゲてないしクルクル回りながらビームもあまり撃たない。ストフリが汚れているじゃないか。そんな歴史改変は許してはいけない。

それはさておき20年来の友人と自然な流れで観に行くことになったが、

直前になってもどういう気持ちで向かえばいいのかわからない。

20年間溜まり続けていたおこりのようなもの、あるいは悪霊、地縛霊のようなものが覆い被さっているような気分だった。

この映画告別式なのか、送別会なのか、同窓会なのか

何を着ていけばいいのか?喪服なのか?タキシードなのか?私服でいいのか?ネクタイは何色?

結論から述べると、全裸正座が正解だった。

ネクタイ西川ニキリスペクトオレンジベター

斯くして、Freedomを鑑賞した私はすっかり浄化された。憑いていた悪霊成仏し、20熟成させたヴィンテージワインを開け、みんなと笑いあうことができた。面白かった。いや、楽しかった。みんなで見た走馬灯のような映画だった。

あのシンが活躍し、ヒーローになった。

キラ人間に戻り、ラクス人間になり、アスランネタになり、ヒーローになった。

特にシン・アスカというキャラクターが躍動することで私は救われた気持ちになった。20年間の無念がようやく報われた、そんな気がしたのだ。

映画終盤、唐突クロスアンジュが始まり西川ニキのMeteorをバックにフリーダムが神になった瞬間、私はもうこれで良い、と強く思った。

Destiny終了後すぐにこれをやられていたらキレていたかもしれない。でもこれは20年という時間が与えてくれた最高の贈り物だった。

気づけば劇場で涙を流していた。

監督夫妻が生み出し、2人に壊されたと思っていたSeedという作品ファンに、俺たちに、みんなに返してくれた。

劇場を出るファンたちはみんな笑顔で楽しそうに映画を振り返っていた。いや、アスランの話をしていた。明日はシンの話をしているだろう。

みんなが笑ってSeedの話ができるまで20年も必要だったのだ。

今まではお前はSeedが好きなんだろうと言われたら即座に強く否定していた。でも今なら本当は好きだったのかもしれないと思えるようになった。

監督気持ちの整理に時間必要だったのかもしれない。この映画監督から奥方への追悼であり、想いを綴った恋文だったのかもしれない。

いや、許さんが。

20年経っても変わらずseedの話ができる友人たち、私の業に付き合ってくれた家族ありがとう

ありがとう監督。奥様によろしく伝えて欲しい。

引っ越しから家のトイレウォシュレットがついていて、毎日使用するようになったので、いつの間にかウォシュレットなしでは生活できない繊細なお尻になってしまっていた。

1週間海外出張して、会社が手配してくれたか治安の良いところにあるそこそこ悪くないホテルだったけれども、当然だけどアメリカホテルトイレにそんな高度な機能付いてるわけなくって、フワッとしたトイレットペーパーだったのに毎日お尻拭いてたらヒリヒリしてきてしまって、あーもうウォシュレットトイレのない国では生活できないかもしれんって思い知った。

次の海外出張の時は、赤ちゃん用の流せるお尻拭き持っていくしかいかと思ってるんだけど、もしかしたら数年以内に海外転勤あるかもしれん。

そのときは、大量に日本から赤ちゃん用流せるお尻ふき取り寄せるしかないの? 

同じような経験したことある人いない?何か対策ってある?ワガママになってしまったお尻にたまには厳しくして、鍛えるしかない?

私は原作者とは会いたくない。私が対峙するのは原作であって原作者の方はあまり関係ない

文脈がわからないので、どういった意味なのかは正しく理解できない。

でも、それを無視してこの言葉だけを見れば、間違った考えとは言えない。

私がリスペクトするのは原作であって原作者ではない。

という意味だろ?この言葉は。

つの意見としてとんでもない考えというわけではない。

この考えを感情的になって否定する人は少し頭を冷やした方がいい。

かに自殺者が出てしまたことはショッキングだ。

そのことで感情が刺激されるのはどうしようもないことだ。

しかし、あなた当事者ではないんだからもう少し離れて物事見ることだって出来るはずだ。

それとこれは事実だが、自殺は本人の選択だ。

他者コントロールできることではない。

このことを忘れていはいけない。

伊東純也氏と松本人志氏のスキャンダル記事を読み比べてみて

伊藤氏の記事新潮によるもの

松本氏の記事は文春による。

両者を読み比べてみて信憑性を感じるのは新潮伊藤氏の記事のほうだ。

一方、文春の松本氏の記事に関しては捏造性を強く印象付けられる。

この違いは何によるのだろうか考えてみた。

新潮記事の方は極めて具体性のある話しか出てこない。

何年何月何日何時頃、場所はここ、そこにいた人物

すべてに曖昧な点がない。

そして10年も20年も前の話ではなくて、

昨年の出来事であり、

問題出来事について双方弁護士を立てて話し合いを進めた結果、

物別れとなり、

女性側は被害届を出し、

大阪府警天満署が受理した、とこれも詳細で具体的であり

その事実自体報道するべき出来事としての根拠ともなっている。

一方で、文春の記事ほとんどのもの曖昧でぼやけている。

そして、年月が異常に古い。

2008年の出来事を、まるで昨日のことのようにして書いているものである

かに16年も前のことを思い出し、思い出ししてそれを無理やり文章化すれば

具体性のないぼやけきった話となるのも、

さもありなん、とも思えるのだが。

そして文春の記事の特徴として、過剰なまでの「煽り」が記事の隅々まで浸透していることだ。

松本は「○○○○○」と言い放った。

「○○○○○〇〇」

「▢▢▢▢▢▢▢」

すべてがすべて何ら証拠もないのに松本氏が発言した、と事実として書き並べられている。

新潮記事においても伊東氏飲み会の席で話した内容などが書かれている。

しかし、過剰な煽り発言演出されることもなく

そして、その煽り言葉記事の大見出しとして使ってもいない。

(その発言自体記事を読ませるための「釣り」として使用しているわけではない。)

あくま取材した事実淡々と書き並べている印象を与える。

新潮記事は、読み終えたあと、何が書いているか理解できる。

あくま女性側の主張を中心とした記事であること。

新潮はその主張に賛同していること。

具体的に、いつ、どこで、だれが、なにをおこなったのか

すべてがクリアであること。

無理な印象付けを行うことはせず、

あくま事実を書くことでもって十分なニュースバリュー、

報道すべき正当性があることに自信があることを伺わせる。

一方文春の記事を読むと、わけのわからなさしか残らない。

書かれていることの内容のほとんどは

松本

「○○○○○〇〇」

と言った。

というような確認しようもない不明確なことを文章主体としている。

また、よくわからない造語を作って、いわゆる「釣り記事」のような煽りを多用していること。

出来事殆どは古く、また具体性に乏しいこと。

報道すべき主体がないのに、無理に記事にしている印象を受ける。

「今の時代」の波に乗せてしまえば、

あとは雪だるま式に「ネットの声」が事件化してくれるだろうとの見込みで発射されたものであるとの結論づけしか出来ない。

つの間にか、文春の記事の低レベルさに文句をつける文章になってしまっている。

私自身が望むのは、文春はもう少し具体性のあることを書いてくれないだろうか?ということだ。

実際に性被害を訴えている人がいるのだからもっとそこに焦点を当てて具体的で、煽りのない記事を書いて欲しい。

今のように、単なる芸人の女遊びを大げさに書きたてておけば、

あとは世間がなにやら大事として取り上げてくれるだろう、

などという態度でいるのは実際の被害を訴えている人たちに対しても誠実ではない。

結局は、そういう人たちを食い物にしている、という意味で文春はパッシングしている松本氏と立場が同じになってしまうのではないだろうか。

本質付いた批判には答えず「一部の誹謗中傷に傷付いています」とかで逃げるいつのパターン

加害者ほど被害者ぶる

anond:20240202223651

自分原作書いてないけど人気な脚本家映画監督ごまんといるし、その仕事矜持を持つのは当たり前やん

日本シナリオ作家協会月刊誌告発された野沢尚の件について

坂の上の雲脚本家だ。

誰か知らない人もいるだろうけどコナンのベイカー街の亡霊の脚本家といえば良いだろうか。

あれもまぁまぁ原作と違う部分があって結構な叩かれ方したんだが、でも作品自体評価があった。

脚色もオリジナルドラマも手がけたヒットメーカーだった。

彼は自死している。

なぜ自死したのかは分からない。

ただ彼の脚本家人生はずっと順風満帆だったわけではない。

ここで詳しくは本人のWikipedia誘導するのが適切だと思うのだが、シナリオ作家協会で出す月刊誌告発がなされたことがある。

>重政隆文による人物

以下を読んで貰えればと思う。

>「自分の描きたいことを描いた脚本他人によってズタズタにされた例と、まったく関与していない人物脚本に名を連ねる例。その二つの例をともに経験した脚本家野沢尚だ」

詳細がページに記載されている。

原作者」としての脚本家立場について昔から何も変わっていないことがわかるだろう。彼がどれだけ戦い続けたかも大体だが想像できる。

それに今の若い人は2000年代以前に活躍した人がネット誹謗中傷に悩んだことを想像できていないのかもしれないが、この頃から起きているのに依然苦しみは繰り返されていることも分かる。

今回、芦原妃名子氏の場合は自らの説明があったからこそ世間に騒がれるものになったが、映像業界はどれだけの創造者の心を蝕んでいるのか。

業界も変わらなければいけないし、映像を見るファンもまた変わらなければいけないのだろう。

黒沢に集中砲火の流れだけどあれ全員が2割くらいおかしい事言ってる

黒沢も8割くらいはマトモな事を言ってるし、なんなら途中から口数増えた人(名前忘れた)がアタオカ率一番高い。

黒沢は1人だけ女声で目立つのと、司会とパーソナリティ兼任してる都合で他の人がマトモな事を言ってるタイミングでアタオカな横槍を入れる形になって悪目立ちしてる。

全体の論旨としては、普通製作会議で決まった方針に従って脚本を書くしそのとき翻案の許容度は作家作品ごとに違う、今回は改変一切不可という約束があるという特殊事例だ、という、まぁ正当な話がベースになっていて、これが6割くらいのマトモさ。

出演者全員共通のアタオポイントとして、最初の1〜2話だけならまだしもリライト食らいまくった後も翻案度を落とさなかった当該脚本家の異常性を無視していることがある。

ここから三者三様派生タオカが出てるので、トータルでは4割くらいのトピックでアタオ発言が出てしまってる。

で、声と立ち位置で目立つ黒沢が、自分のアタオカ2割だけでなく他の出演者も含めた4割アタオカの印象を集めてしまった感じ。

貧困対策

しかし、足りないんです

じゃねーよ

それなりの生活をしている人というのは、貧困文句いってるやつの100倍努力してるのわかないのか?

2024-02-02

anond:20240202210349

かに少子化は諦めて婚姻自体を減らすというのはジェンダーギャップ改善する上で一つの手かもしれませんね

本邦の“女流ジャーナリスト草分けと言えるであろう上坂冬子は、かつて著書の中で原発について

我が国の優秀な専門家の方々がしっかりやってくれているのだから素人文句をつけるべきでない」という旨の主張をした。

まあ、よくある素朴な反・反体制言論である

ところで氏は東日本大震災の少し前に世を去っている。ほんの少しだけ長生きしていただきたかたこである

野次馬の声を押さえつけることなどできないしするべきではないが、それにしても野次馬の声のボリュームが(テクノロジーによって)大きくなりすぎている。

野次馬と一緒にリアルタイムでワーワー相談しながら進められることなどない。当局者は萎縮して右顧左眄し、一貫性を手放し、アリバイ的な形式主義に陥る。弊害しかない。

まあ、ツイッターのX化が一つの曲がり角かな。

中立的社会インフラになりかけてたのが、一気に2ちゃんねる的なモノに戻っていった。

野次馬はそういうサンドボックス内で好きなだけ騒いでなさい、実務は密室で進めておくからという体制が固まりつつある。

いま「権力は信用ならない、文春砲民衆武器だ」と、スキャンダルによる私刑に期待と支持が集まっている。

それはしか俯瞰的に見れば「うまく砂場誘導されている図」であると思う。

世界的な「法秩序より正義を」の動き、デマの物量戦、情報蝗害、インプレゾンビ

とりあえずメモまで

拡散力の高い情報に惑わされず生きる術を模索してる

ここ5年くらいずっとそうだけど、もうネットの論争に付き合いきれない。

何か話題性のある事件が起きる度に意見を出して派閥に別れて争って叩いて潰して消耗して。

一昔前までは何か有益な面もあるかもと思って自分なりの正義を求めて付き合ってたけど、もう無理だと思う。

世界はこんなにも色々なことが日常的に起きているのに、一つの(それも自分に大して関連のない)出来事ピックアップして討論するなんて馬鹿げている。

それに、情報それ自体も年々刺さり易く尖ってきているように思う。

人々が無視できない情報をより効率的拡散する術が浸透して、俺たちはすっかり身動きが取れなくなっている。

から最近は、争いのタネになりそうな話題を徹底してミュートしている。

政治も、ジェンダーも、芸能スキャンダルも、揉め事に繋がる話題は全て見えないようにして、それでも漏れ聞こえてくる情報だけをすくい取って生きていきたい。

anond:20240202154533

ほろよいなら食後に3時間ぐらいかけてちびちび飲めばなんとか飲み切れるけど、

ほろよいって知らなかったけど、ALC.3%なんだね。

例えばこいつのレモンを少し甘いジュースで割る、2倍か3倍位に割れもっともっと飲みやすくなると思うんだけどな。

そういったもので体を慣らしてくれよという話なんだが。

ゆくゆくはそれをがーっと飲めるようになるとおもんだよ。


やけ酒に求めてるのはこう、パーッとした解放感というか、

酒飲んでも解放感は... 無いと思うんだけどな。


飲むぞー!っていう勢いというかそういうのかな

走るぞーっと意気込んで20km(ハーフマラソン位)走ったら、気持ちよくばててヘロヘロになったならいいけど、

飲むぞーっと意気込んでたらふく飲んで、酔っぱらってただただヘロヘロになっても、気持ち良くはならんぞ。

人によっては脳が麻痺して記憶が飛ぶってのは有るけど、俺もそうだけど、大体はその前に気持ち悪くなって... だぞ。


気持ち良く酔える程度に酒が飲めるようになるならいいと思うんだけどな。

俺も昔は酒が旨いとは思わなかったけど、今では毎日晩酌してる。そんなもん。

俺もやけ酒はやったことが無い、知らずのうちにやけ酒になってる可能性は否めないが。

原作者は仲間ではない(一般的に)

当たり前です。

例えば映像制作場合クオリティ責任を持つの監督プロデューサー(以下P)です。

純粋製作から見るのが監督制作的な観点で見るのがPです。

監督脚本の大筋に従って舞台を作って絵を撮ります

Pは参集している役者マネージャーやその他ステークホルダーから〇〇はNGとか、AよりBの露出があってはいけない等の調整をします。

この両者(もしくは代理人)は当然現場にいて、撮ったそばからこれはOK、これはリテイクと判断を下していきます

撮影が終わって編集になっても基本そうですし、広告を作る段になっても広報とPでその場でOK出しをします。

最終的に成果物が出来上がって納入です。以上終わり。

もし原作者が仲間であろうとするなら、まずこのスキームに組み込まれ必要があります

実際企業としてのライセンサー著作権代理人はこの現場エージェント派遣し、都度OK出しをします。

(余談だけどワンピースルフィーが言ってないセリフ田中真弓に喋らせてしまった事件もありましたね)

全部出来上がってから「ここはダメですね~~」とかやる人はいませんし、このご時世一発で予算ショートして打ち切りまであります

から大抵の個人著作権者の契約では「全委任」か「契約を結ばない」の二択を選択することになります

本当に原作準拠した二次創作制作したいのであれば、原作者もしくは代理人制作スキームに組み込む必要があります

そうした座組を作った上で初めて仲間、チームの一員と認識されます

同じクリエイティブに携わる、同じクオリティを追求するチームの一員です。

上の方でどうなってるかは脚本監督ですら把握する術がなかったりするので、現場にいなけりゃ仲間じゃない扱いは当然です。

そこの現場の人には怒らないであげてください。

anond:20240202155359

いくらなんでも5つの村で処刑って逆にすごい

スレ立ってそう

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