はてなキーワード: 袋小路とは
IE9はIEセントリックからスタンダードセントリックへのブリッジリリース。新しい(Windows)APIを積極的に利用するようコアは一新された。JSエンジンを分離して新規開発した初のバージョンでもある。
(代わりに後方互換性を失った)
IE8はIE神話最後の鬼子。地獄の袋小路。互換表示でも使われないまさに袋小路。
IE7はIE6の成功を拡張しようとした外面優先アップデートリリース。内部的には順当な更新。
IE6はIE5のラインを引き継いでコアとなるTridentエンジンが当時(12年前!)としてはモダンは32bit APIだけで動く決定版。
IE11でとうとうQuirksモードを捨てて、デフォルトでEdgeモードでレンダリングするようになったため、
ヘンなDOCTYPE指定でいままでQuirksモードでレンダリングされてたたくさんのいいかげんなサイトに細かい不具合がでてる。
どこ相手にしてるかで違うけれど、モバイル向けで怖いのはiOS4.x(まだいる!)とAndroid 2.x。WindowsPhone7.5の方がまだ楽。
通常サイトで一番怖くて面倒なのはIE5.2 for Mac。今年になっても利用者の存在を確認して愕然とした。Safari 3も怖いけど。
「偉い人」とは誰のことを指すのか、単なるネット紋切型で〆たかっただけなのか分からないけれど
今と何も変えずに、何も捨てずに、すべてのものを得ようと思ってるから、
「偉い人=他人の誰か」のせいで子供が作れない、という袋小路に入り込んじゃってるんじゃないのか
どちらかが少し「仕事人生」を降りて方向修正をすれば、子供作るのはそれほど難しいことではなくなるし
夫婦ともに「仕事人間」から降りたくないのか、降りられないのか、
降りられないなら何故なのか、その辺りの折り合いを付けとかないと
プロジェクトマネジメントというのは、とっても卑怯でクソだ。それを今から説明する。
はてなブックマークで怒涛のヒットしたこれ。
プロジェクトマネジメントにおいて、とても普遍的な内容なので説明するのに利用させて貰う。
記事の作者を批判するわけではない。顔文字うざいとかはこちらではやらない。
さて、この中で似たような内容が繰返し出てくる。
●ポリシー
5)リーダーとメンバーがフラットでオープンな関係を築けなかったプロジェクトは、中長期的には失敗する。
4)全ての情報を全てのメンバーにオープンに。基本的にはメール・メッセージは常に全てのメンバー宛に。
2)スケジュールとWBSは似て異なるもの。スケジュールは見易さ扱い易さが命。メンバーが手元にスケジュールを持っていないプロジェクトは失敗する。
●リスク
フラットでオープンにすることで、プロジェクトが抱える、全ての課題やリスクを可視化するために必要とされる。
詳しくは、元記事を読め。
だが、このフラット&オープンとは正反対のことも書かれている。
●プライド
4)ほめる時はみんなの前で、注意する時は一対一で。
1)チーム全体で話す。数人で話す。一対一で話す。それを上手に使い分けること。
2)状況によって話がぶれないようにすること。相手によって話を変えてはいけない。
3)常にメンバー全員の気持ちを知っておくことは大切。定期的に一対一で話すなど。
A)全てのメンバーと1:1で話をして問題や要望を挙げてもらう。リーダー、サブリーダーからは出てこない様々な話が出てくるはず。
「1:1」「人によって」
この矛盾した指標がさも当たり前のように書かれる。これがプロジェクトマネージメントいうものである。
ヘイト化について書かれている。
彼らのほとんどは悪意がない。
世界をよりよくしようという思いが、錯綜し、
ネガティブな懸念ばかり蓄積され、解決策が提案されない状況。
プロジェクトマネジメントとは、それを理解しないといけない。
解決策として、矛盾した指標が導入される。
中には、この卑怯を許せない人が、たまに変なルールを導入する。
最初のフラット&オープンの話から言えば、これは逆にプロジェクトを閉鎖的にするだけである。
でも、彼はプロジェクトを貶めたいわけじゃない。
プロジェクトマネジメントとは、いかに 卑怯 で都合よく、群衆を扱うかという技なのである。
それは群衆が集まったところで、叡智など存在しないからである。
そりゃ、純粋ロリコンじゃ自暴自棄になって、地球に隕石落としたくなるわ。
逆シャアを見て思った。
車の免許を取って、バイトで稼いだお金で20万円のオンボロ中古車を買った。
彼女を助手席に乗せることができれば、かっこがつくところだが、隣に座ったのは、うだつのあがらない同じ学部の友達だった。
授業をサボってのドライブ。
開放感に満ちていた。
先輩の話だと、この国道の先のはずれにアメリカの議事堂を模したラブホテルが廃墟の状態で取り残されているらしい。
全開にした窓から夏の太陽の光と海の風がドバドバと車内に入り続けていた。
国道を外れると海の青さはより深くなり、浜茶屋の看板もなくなり、補修頻度が減った道路が自然にかえりかけているようだった。
案内の看板も白地に赤い矢印と黒い文字で書かれた今では見ることのないタイプのものが残っていた。
好奇心。ただそれだけだった。
おばけが出るとうわさの廃墟だが、夏の太陽がサンサンと照りそんなそぶりはまったくなかった。
廃墟となった白い建物は、放置された朽ち果て感と不良にいたずらされた無残さが際立っていた。
厳重な柵と立て看板の警告を見たぼくらは、探検する意欲をなくし、ぶよが飛び回る廃墟をあとにした。
道路はこの廃墟の向こうにも続いていた。地図で確認するとなぜか袋小路になっていてどこにもつながっていない。
何もない道の先はどうなっているのか。地図上の空白地帯は一体なにがあるのか。
僕らの探検心はグングンと大きな盛り上がりを見せたのだった。
少し走ったところであっけなく探検は幕切れをむかえた。
道路はなくなり、入り江に囲まれた静かな砂浜がそこにはあった。
誰もいないであろう無人と思しき砂浜をぼくらは探検の成果としてカメラにおさめた。
圧倒的な天然感をグイグイと僕らに強いてくる大自然は、総天然色のポジフィルムに焼き付けるには格好の対象であり、夢中でシャッターを切った。
水着の彼女がその中にいればどんなにすばらしい写真になるとわかっていても、誰もいない自然が被写体だった。
真夏の午後2時の日差しは容赦なく僕らの皮膚に対して紫外線を照射し続けた。
一通り探検を終えて車に戻ったとき、この人気のない海岸の山手に唯一人の気配がある建物がひっそりとあることに気が付いた。
探検の続きとして、好奇心だけでそこへ行ってみると、小さな事務所が建っていた。
事務所前には、車が一台停まっていた。人がいるようだ。
看板には、土地の所有を主張する説明も書いてありほとんどは、電力会社が買収していた。
静かな青い海も白い雲が浮かぶ青い空も緑に染まる山も電力会社のものだ。
急によそよそしい気持ちがフツフツとわいてきた。
うだつのあがらないコンビは、顔を見合わせて、この場所が何なのか急に思い出した。
事務所の近くには、最後の地主が売り渡さなかった土地が柵で囲まれていた。
柵の中には、所有を主張する看板が立っていた。
誰のものなのかは覚えていない。
地元に巨額のお金を落とすプラントは、建設されることはなく、ずっと塩漬けになっていた。
皮肉にも人類の英知を集めた巨大プラントが建設される予定地が、もっとも自然が色濃く残る日本有数の自然遺産となっていたのだ。
あの海も空もあの日のままなのだろうか。
気が向いたら、足向けてみたいと思う。
事態の改善を望むような素振りをしていながら、ただひたすら文句をいうだけで自分にできることを考えないorしない人っている。
不平不満を垂れ流すだけなのは簡単だ。感情のままに口を動かすだけ。
簡単手軽な上に、ただ文句を言っているだけでは大抵事態は改善しないのでいつまでもかわいそうな被害者のままでいることができる。いつまでも被害者の立場に胡座をかき続けることができる。
自分にできる行動を起こしさえすれば解決するというのが全ての場合ではないとは思う。解決しない場合も多いと思う。
ただ、その一貫性がなく、自分が守られるべき立場であると主張したいだけである魂胆が透けて見える言動に誰が賛同するのか。誰が同情してくれるのか。誰が哀れんでくれるのか。
“狂気、それは同じことを何度も何度も繰り返し行い、 違う結果を予測することである。”
そういう人と付き合いたくないし関わりたくないと心の底では思っている。
でも世の中全てのことを冷静に理路整然とした思考に落とし込める人ばかりが存在するでわけではない。支離滅裂でエゴにまみれた思考を恒常的にしがちな人と関わらざるを得ない場合もたくさんある。
どうしたらいいのか。
私だって心にそんなに余裕が有るわけではない。そういった人と関わることで生じる精神汚染をどうにかしたいのだが、どうしたらいいのかわからない。
根本的な問題解決を真剣に考えているようには見えないのに、ただひたすら自分の立場の悪さや苦しみや愚痴をひたすら私にぶつけてくる彼らにどう対応したらいいのかわからない。
うん、うん、と聞いていても彼らの愚痴は尽きない。無限地獄だ。
何かアドバイスを与えてみても実行してみることはない。冷たく突き放したいところだが、関わり続けなければならない相手の場合、簡単には縁を切るわけにいかない。
そして私が疲労していることに彼らが気づいてくれる可能性にはほとんど期待できない。彼らはかわいそうな自分のことしか考えていない。
彼らの意識改革をすることも諦めた。
やっとまともな夕食にありつけた
GWの合間に罵倒の投稿間隔が段々短くなってきた人を眺めながら心配しつつ
昔って見ず知らずの人とのやりとりは手紙が多かったわけで
手紙→電話→携帯→Eメール→SNSと発展していってやりとりの速度も加速していったわけだけど
やりとりの速度が加速すればするほど相手に対する思いやりとか敬意が損なわれていってないかい?
直筆の手紙だったら送る前に色々考えて手直しするけど、SNSは相手に直接バコーンと自分の感情を
ぶつける人が多いんじゃないの? しかも家族でも気心知れた知り合いでもない人に
そりゃトラブルわ 「幾ら狭いクラスタ内で正当化しようがどっちもどっちだよ~ん」で終わっちゃう
案外そこら辺の機微が分からなくてSNSの袋小路というか地獄に嵌っちゃっている人いるんでないのかな
と思ったGWでした
http://anond.hatelabo.jp/20130112143201を書いた者ですが。
hokusyu
Apeman
原則として増田は相手にしないんだけど、「はてサ」って言いたがるやつが実のところはてサの主張なんて全然フォローしてないことを如実に示す資料として。内田樹を「深イイ話」? バカか? 2013/01/13
他にも「内田樹は左翼じゃない」「むしろ右翼」みたいな反応が多くて正直驚きましたね。
護憲、労働者保護、反グローバリズム、脱原発、教育基本法改正反対、米軍基地反対、死刑制度反対、反自民・維新、生活保護強化、等々、彼の主張ってほぼすべて左翼的じゃないですか。
これってすごくないですか?
何かニュアンスの違いや言い回しの違いで「あんなの左翼じゃないから」とか「うちらとは違う」とか。
それで本気で社会を変える気があるの?
30過ぎたころは、三十路ってヤバいよね、とはいいつつも、そのこと自体自分の中では結構ギャグ扱い。金も地位もそこそこあって、周りも未婚で、彼もいたし男友達もたくさんいて朝まで遊んでも全然平気。
33で彼にフラれて、心機一転で髪を短くしたらなんか急にオバさん臭くなってちょっと焦ったけどまだまだ友達と遊ぶ機会も多かったし一緒に飲む男友達多かった。
先日、35の誕生日を一人で迎えた。仕事も、以前は遅くなっても、その後飲みに行くとかちょくちょくあったからそうでもなかったけど、最近はなんか終電近くまで年増ババアが働いていること自体が痛々しいしバカらしくて辞めたくてしかたがない。プライベートでも家で一人で料理とか作っても全然つまらないし、インテリア変えても、風呂の中でアロマ焚いても全然ピンとこない。
これから結婚する相手でもできればまた違う道が開けるのかもしれないけど、さずがに35過ぎのBBAから告られたら、相手だって引くだろうからこっちからは絶対に告ることはないだろうし、いい男がいても大抵結婚してるか年下だからそういう感情は抱かないようにしてる。
ということで、全くの袋小路。突破口が見いだせない。この先どうやって生きていくか全く見えないんだけど、他の35過ぎ独り女って心のバランスどうやってとってるんだろ。先輩たちに教えてもらいたい。
先に断っておくが、このエントリでは当事件の事実関係や市や学校の対応、ネット上の意見などに一切関与せず、「いじめ」と「自殺」について個人的な意見を述べるものである。
滋賀県大津市で起きた男子中学生の自殺を巡って世間に様々な声が上がっている。
Twitterを眺めていても、数は少ないながらも多種多様な人たちが共存する僕のTL上ではこの件を巡って、「いじめ」あるいは「いじめと自殺」を巡って活発な意見交換が行われており、日々感服するばかりである。インターネット上において「いじめ事件」が大々的に取り上げられるのは何も昨今に限った話ではない。何年も前から日本の各地で痛ましい「いじめ」についての事件が起こるたびにインターネットではそれについて激しいレスポンスが生まれてきた。それらは基本的に「いじめ」について批判的な意見なのだが、時にそれらは過剰すぎるといっていい反応に発展し、自称「正義の味方」たちが暴走したりすることはあるいみネット界隈においては日常茶飯事であった。僕自身は事件の経緯や事実関係などとはまったく別に、それらの激しい反応が巻き起こるたびに辟易したことを覚えているが、ここ数年でその状況は大きく、とは言わずともかなり変化したと考える。一昔前なら、こういった痛ましい事件が起きた場合、インターネット上での反応はほぼほぼ一種類だった。すなわち、「いじめた奴をぶっ殺せ」である。もちろん、言葉や表現、論調や論点の違えど、その大体は「いじめた奴をぶっ殺せ」だった。もちろん、感情論で言えば、そうだ。だが、はっきり言ってしまうが、今回のような「自殺」というキーワードが俎上に上がるほど苛烈で、悲惨な「いじめ」の事例に関して言えば、そんな短絡的な方法では問題の根は解決しない。
それはなぜか?
答えは単純である。
たとえ「その子」をいじめた連中が全員死のうが、少年院送りになろうが、ネットで晒し者になろうが、
いじめられた「その子」はもう大概「普通の人生を普通に生きる権利」を奪われているからだ。
何年か前に話題になった「いじめられているキミへ」の寄稿文らしいのだが、思うところあるので引用させていただく。
死なないで、逃げて逃げて
あなたが今、いじめられているのなら、今日、学校に行かなくていいのです。
あなたに、まず、してほしいのは、学校から逃げることです。逃げて、逃げて、とことん逃げ続けることです。学校に行かない自分をせめる必要はありません。大人だって、会社がいやになったら、会社から逃げているのです。
次にあなたにしてほしいのは、絶対に死なないことです。
そのために、自分がどんなにひどくいじめられているか、周りにアピールしましょう。思い切って、「遺書」を書き、台所のテーブルにおいて、外出しましょう。学校に行かず、1日ブラブラして、大人に心配をかけましょう。そして、死にきれなかったと家にもどるのです。 それでも、あなたの親があなたを無視するのなら、学校あてに送りましょう。あなたをいじめている人の名前と、あなたの名前を書いて送るのです。
はずかしがることはありません。その学校から、ちゃんと逃げるために、「遺書」を送るのです。
死んでも、安らぎはありません。死んでも、いじめたやつらは、絶対に反省しません。
だいじょうぶ。この世の中は、あなたが思うより、ずっと広いのです。
あなたが安心して生活できる場所が、ぜったいにあります。それは、小さな村か南の島かもしれませんが、きっとあります。
僕は、南の島でなんとか生きのびた小学生を何人も見てきました。
どうか、勇気を持って逃げてください。
「いじめられる方に問題がある」
最早時代錯誤過ぎて目が泳いでしまうようなおサムい台詞だが、これはわりと最近まで(ここ重要)いじめられっ子に対する教師や親の言葉として一定の説得力を持っていたことは悲しいことながら事実である。
んなワケねーだろボケ!!
「いじめられる方に問題がある」
→まず、これは最も頭が悪い意見だ。が、実際のところ「なぜいじめが起きるのか?」という答えに対して、ほとんどの人間がこの馬鹿みたいな空虚な言葉を目を伏しがちに言うのである。いいか、それは断じて違う。なぜかといえば、この論理は、「いじめられる」と「問題がある」というふたつの出来事が、あたかも因果関係があるかのように触れられているという点だ。「あの子には問題がある」→「だからいじめられる」という理屈だ。だが、こんな馬鹿な理屈があってたまるだろうか。確かに、人間だれしも社会的な人間関係を営むに際して「問題」を抱えているものだ。「空気が読めない」とか「性格が悪い」だとか「ええかっこしぃ」だの、はっきり言って枚挙に暇なんかない。そして、その「問題」を抱えていない人間も、この世界には一人もいない。誰だってできる限息がしやすい場所、陽の光があたりやすい場所にいたいと思うし、少なからず利己的になることだってある。もしくは、そもそも人間関係を営むことについて不得手だったり、嫌いな人間だっている。それは「社会的な(笑)」観点から言えば問題なのかもしれない。気に入らない人間だっているかもしれない。はっきり言えばムカつくかもしれない。だが、それだって仕方のないことだ。どうやっても自分には受け入れられない性格の人間というのは存在するし、そういう人間とどうしてか同じ空間で過ごさなくてはいけない場合だってある。そういう場合はもう、仕方のないことだから、適度な距離をとって「うまくやる」しかない。それはもう、どうしようもないことだ。だが。だが、である。
「(自分にとって)その人に何らかの問題があったから」といって、その人をいじめていい理屈なんかこの世界のどこにもないんだよ。
仮に、ものすごく性格がよろしくなくて、みんなに鼻つまみ者にされている人がいたしても、それははっきり言ってしまえばその人の「問題」だ。
社会的な営みをする以上、共同体において「邪魔」な存在というのはどうしても出てくる。それも仕方のないことだ。
もっと具体的に言えば、共同体において「ぼっち」の存在が生まれてしまうのはごく自然なことであり、それ自体は何の問題もない。
何のことはない、単にその人がその共同体に「合わなかった」だけの話だ。その「問題」ということについてだって、現実世界側のインターフェースが引き起こしたバグのようなものだと考えればたいしたことはない。コミュ障? キモメン? んなことは別に「問題」じゃない。もしそれで自分にコンプレックスやルサンチマンを抱えている人たちがいるのならば、もう素直に意識を別に向けるべきだ。今はインターネットという素晴らしい道具があり、その他にも数えきれないほどの環境や世界がある。はっきりいって現実世界なんかあまたある世界の表層のひとつにすぎず、僕達が保持している肉体はたんなるいちインターフェースに過ぎないわけである。だから、「あ、ここ自分には合わないな」と思ったらさっさと身を引いて別のコミュニティなり世界なりを探すことが自分にとっても相手にとっても健全だ。
だから、もし「いじめ」られている子がいるのであれば、その場から黙って去ることが最善の索なわけである。
僕は、「いじめられる方に問題がある」とも、「いじめる方に問題がある」とも思っていないので、「いじめ」が起こりそうな状況になったらデウス・エクス・マキナよろしく「席替えたーいむっ!」とする方がいいと思っている。
ならばこそ、すべての「いじめ」は上記の引用文のように「逃げて逃げて生きる」ことをすればある意味解決するのではないかと思われる方もいるだろう。
だが、そうは問屋が卸さない。というか、そんなにこの問題が単純であればこんなに酒によった勢いでエントリを書いていないわけで、ここからが本題である。
問題は、「逃げて逃げて生きた」として、その子が「普通の人生を普通に生きる権利」は依然として不当に奪われたままであるという点にある。
確かに、いじめられて、その結果自ら命を絶ってしまう事例があったとしたら、そんな悲しい話はない。
だが、それにもまして「逃げて逃げて生き抜いた」としても、そんなものは「死ぬ」のちょっと手前くらいの選択肢であり、最後の手段なわけである。
一口に「逃げる」と言っても実に様々な手段がある。
不登校になる、引きこもる、グレる、転校する、引っ越す、留学する……いろいろだ。
だが、どれにも共通しているのは「確実に人生が狂った」という厳然たる事実だ。
もし「いじめ」なんかがなければ、「その子」の人生が外的要因によって狂うことはほとんど無かったはずだ。
自分の命に対する自衛手段として、上記のどの手段をとったとしても、その子の人生はその時点を以てルナティック・モードにとつぜんモードチェンジする。
不登校にしろ引きこもりにしろ、その延長線上にあるのは学校の中退であり、すなわち人生の落伍である。「学校を辞めたくらいで『人生\(^o^)/オワタ』だなんてとんでもない!」とおっしゃるかたもいるだろう。じゃあ逆に言ってやる。あなたも、今の仕事なり学校なりを今すぐ辞めてみろ。転職のあても、転校のあてもなく、たったひとり殺伐とした世界に取り残されたとして、「よーし! 人生これからだぜ!」と思えるというのか。ただでさえどん詰まりの袋小路に迷い込んだこの現代日本で、大卒の就職率が5割だとか6割だとか言われている時代に、無職の高校(中学)中退者が「普通の人生を普通に生きる」ことができるというのか? 立場を変えて発言しよう。僕が中小企業の採用担当だったのなら、昼食無職職歴なしの人間なんか、なにがどうあっても採用したくない。感情論なんかじゃない、ごく合理的な数理的な判断だ。
転校だって引越しだって、かなりハードルの高い「逃走手段」である。というのも、なによりもまず、家族の協力が必要不可欠だから。
親御さんだって、もしかしたら仕事を辞めざるを得ないかもしれないし、お金の問題だってある。少なくとも「普通の人生を普通に生きていたら」かかる必要のなかった負担を負わなくてはならない。要するに、この時点で「いじめ」というのは「いじめっ子」と「いじめられっ子」の問題ではなくなるのである。ちょっとした「ムカつき」や「面白半分」が、一人、ないし数人、いや、ともすればもっと大規模な人間の「普通の人生」を狂わせるのだ。これが「いじめ」が「普通の犯罪」なんかよりも数段質の悪い点だ。「窃盗」であれば、早い話盗まれたお金が戻ってきて、犯人が警察に検挙されればひとまずは解決する。「器物損壊」だって、家裁か何かで妥当な損害賠償が請求されればそれ以上の発展はない。被害者にとってはたまったものではないが、少なくともそれ以降は「普通の人生」を送ることは可能だ。だが、「いじめ」に関しては――はっきり言ってしまうが――いかなる手段をもってしても、すでに起こってしまった「いじめ」を、それが発生するより前の状態に復元するのは不可能だ。いや、これについては語弊がある。「いかなる外部からの干渉をもってしても」いじめの根本的な問題は解決などしないのである。教師がいじめっ子に謝罪をさせたり、クラス替えをしたり、退学や停学処分をしたとしても、「いじめっ子」が「いじめ」たという事実は消えやしないし、「いじめられた子」が「いじめられた」という事実だけは覆しのしようがないし、取り返しも、補填も、まったくできやしないのだ。
「いじめた側が、本気で反省して、その後の人生のすべてをかけていじめた子が『普通の人生を普通に生きられる』ように全力で奉仕する」
より陰湿化が進む現代のいじめにおいてこんな奇跡みたいなことが果たして起こるのかどうか、僕は知らん。多分、99%の確率で起こらないだろう。
世の中の90%のいじめは、「なんとなく」「特に理由なく」「おざなりに」して、審判のホイッスルなくして「終わったっぽい」感じで終わる。
理由は分からない。とりあえず、台風が温帯低気圧になって北海道の上の方に消えて行くように、いつの間にかなくなってたりする。
残りの9%は「いじめられた子」の自殺なり「逃走」によって終わる。なんとも救いのない話である。
もしあなたがいじめられていることに対して何か負い目を感じているのであれば、とりあえずそれは忘れてください。
自分がいじめられることに対して、「仕方ない」だとか決して思わないでください。
あなたも生きている人間ですから、人間関係について至らない点、至らなかった点だっていくつかあるでしょう。
ですが、はっきり言いますが、そんなことで、地球上の誰一人だってあなたをいじめていい理由なんかにはならない。
あなたが、あなたの人格や過去の行動、家庭環境や趣味嗜好、思想信条によって、いじめれていい理由など、これっぽっちも、ありません。
そして何より、あなたは、「普通の人生を普通に生きる」権利を持っています。
そりゃあ、誰もがオリンピックに出たり、アイドルになったり、東大に入ったりはできないのも事実です。
ですが、本当はそんなことはどうだっていいんですよ。
あなたは、学校帰りに友達とマックに行ってダベっていいし、家に集まってモンハンをみんなでやっていい。
絵を描いて褒められていいし、ご飯が美味しいと感じていい。かわいい女の子を、かっこいい男の子を好きになっていいし、告白して振られて泣いたっていい。
好きなアニメを見て、好きな本を読んで、好きな場所へ行って、眠くなったら寝て、眠くなくなったら起きて、生きて、生きていいんです。
普通に勉強して、普通に進学して、普通に就職して、普通に恋愛して、普通に結婚して、普通に子供ができて、普通に生きて、普通に生きて、普通に死んでいいんです。
もし普通が嫌なら、人一倍頑張って、自分が特別だと思える人生を手にいいれればいい。
ですが、それ以前に、あなたは、およそこの国の人間が「普通だ」と感じているあらゆることを手にする権利を持っています。
だから、あなたは自分を責める必要などまったくない。あなたは何も悪くない。もっと言えば、あなたをいじめた人間すら、悪くないのかもしれない。
僕には起こってしまった「いじめ」を解決する魔法のような手段はしらないし、これから起こるであろう「いじめ」を未然に防ぐ奇跡のような手段も知らない。
だけど、あなたが、「いじめられて損なわれた」からといってあなたが「普通に幸せと感じられるような人生」を生きる権利を失ってしまったわけではありません。
だから、自分勝手なことを言えば、本当はあなたは「逃げて、逃げる」必要なんてないんだ。表面上は「戦略的撤退」をする必要があるかもしれないとしても、
あなたの人生が「嵐のような不運」によって損なわれ、汚され、失われる必要などない。
それどころか、あなたは、その「普通の人生を普通に生きる権利」を人一倍、もっともっと今まで以上に傲慢に、尊大に主張していいんですよ。
「いじめられた」ことを理由に、あなたが自ら自分の可能性を閉じてしまう必要なありません。
もっと自分勝手に、生きればいい。でも、引きこもってもいいことは「何も」ないので、何かしらのキッカケで外にでるといいと思うよ。
そんでいまいじめてるお前。
まー今のお前なんかには分からないだろうけど、お前のやってることはおよそ人間がなす行動のうち、もっとも悪辣で、非道で、無意味なことだからな。しかし人間ってのは残酷だよな。自分の利益にならないことでも、何かのキッカケさえあれば、人を嬉々として苦しめることができるんだからな。俺はお前のことなんか知らないし、お前の生い立ちや人生観なんか知らない。お前が何かお前の中で正当な理由をもって「それ(とあえて言う)」をやってるとしても、それも知らん。だが、結果としてお前はお前と同じ、一人の人間の「普通の人生を普通に生きる権利」を「奪いかけて」いるということを考えろ。今日お前が美味しいと感じた夕食、今日お前が面白いと感じたテレビ番組、今日お前が楽しいと感じた帰り道。その子のそれら全部を、他ならぬお前が奪おうとしているっていうことを考えてみろ。俺はお前なんかに同情しない。お前の中にどんな理由があるにせよ、それはお前が「それ」をやる理由にはなりえない。なんの妥当性もないし、なんの解決手段にもならない。だからといって、お前が考えてること、感じていることがまったくの間違いであるとも言えない。だが、「それ」と「これ」とは別問題だ。お前の中でいかなる繋がりを持っていたとしても、それは、本質的なところで無関係だ。だから、やめとけ。お前がそいつのことを嫌いならそれはそれでいい。だったら関わるな。何もするな。意識を別のところに集中させろ。暇だったら黙ってオナニーでもして寝ろ。そんで、もしお前がかつていじめられっ子だったのなら、なおさら、やめろ。お前にも色々な事情があるのか知らないが、それはもう忘れろ。許さなくて良い。ただ、忘れろ。それ以外は何もするな。そんで、自分の好きなことだけ考えてろ。好きな本だけ読め。好きな音楽だけ聞け。好きな場所にだけ行け。好きなやつとだけ絡め。だから、決して「それ」を生きるモチベーションなんかにするな。そんな人生、悲しすぎる。
どうか気負わないでください。それを自分のせいだと思わないでください。
自分を無力だと嘆かないでください。自分を卑怯者だと罵らないでください。
何か特別なことをする必要なんかないんです。ただ、黙って、普通に、普通に接してあげてください。
いじめられている子が何より苛まれているのが、「ひとりぼっち」という孤独感です。
どんな暴力や陵辱よりも、「ひとりぼっち」というのは辛いです。
誰も味方がいない、誰も自分のことを助けてくれない、そういう状況こそ、危険です。
過剰なことなど何も必要ありません。ただ、声をかけてあげてください。
人の目が気になるのであれば、メールでも、なんでもいいです。
とにかく、その子を孤独にさせないでください。その子が、そこにいていいことを、示してあげてください。
しかし、ゼロ年代のMMO界隈の阿鼻叫喚を知っている人間からすると実に微妙というか、またボトラー廃人増やすだけじゃね?と思ってしまう。
基本的にMMOは、オフゲ並にサクサク遊べるゲームバランスなど、全く期待できない。
そんなコンテンツはあっという間に遊び尽くされ、すぐに過疎って終了だろう。
逐次コンテンツを追加投入するにしても、プレイヤーがサクサク遊ぶ以上のハイペースで実装するなど、絶対に不可能だ。
だから少ないコンテンツでできるだけ長い間遊んでもらうため、経験値や資金繰りやmobの強さを渋くしまくり、オフゲしか知らないプレイヤーからしたら、ほとんど苦行と言っていいプレイを強いられるわけだ。
MMOではほぼ必ず起きる廃人無双やRMTやチートやBOTは、そういうMMOの根本的問題が引き起こしたトラブルと言っていい。
そしてこの問題は、ゼロ年代の半ば頃には明らかになっていた話で、要するにMMOはその時点から1mmたりとも進化していない。
まさしくMMOは、進化の袋小路に陥って久しいジャンルなのだ。
そしてスクエニは、そんなの百も承知でFF11を運営してきた筈なのに、懲りずにまた同じことを繰り返すつもりなのだろうか。
もしかしてFF11で集客も利益もバッチリだったから2匹目のドジョウ狙い?
あとこれ運営のサポートどうするつもりなんだろね?
基本的にサポートで人を増やせばその分人件費がコストに跳ね返るので、大抵どこのMMOでもプレイヤーから「カス運営」と罵られつつ、最低限の人数で無理やり回すというかやり過ごしている感じなんだけど、DQ10もそうなるのだろうか。
何かね、店に電話して来た時点で身長ブラのサイズ年齢まできっちり聞いてきて、
そういうことで話合わせといてねって店長に言われまして。
「えっ、初めてなの?初めて?」ってやたら大袈裟に聞いてくるんですよ。
一応ここ来る前に接客して来ましたよ(だから手順はわかってますよ)って言ったら
みるみる顔色が変わり、
「ここ来る前にお客さんについたの?」「前からこういう仕事してたの?」「この店はよく出てるの?」
ってその部分にだけ異様に執着して追及してくるわけ。
こっちも引っ込みつかなくなったから、もう最初言ったとおり初接客じゃないってことで話を通すしかない。
客は隅に行って店と電話し始めて文句たらたら。
「話が違うじゃないか、今日初出勤で完全未経験って言ってたのに、初接客じゃないって言ってるぞ」
「もう二度と頼まないからな、こんないい加減な店には」とかかんかんに怒ってた。
結局キャンセルになって事もなく帰りました。
ええ、当然店には叱られましたよ、店の信用を損ねた、って。
風俗歴10年突入目前にして遂に噂の未確認生物との遭遇を果たした。あれが処女厨というやつか。
私に対して「初めてなんだよね?そう聞いたよ?」って言わず、
「えっ初めてなの?」「この店にはよく出勤してるの?」「前からこういう仕事してたの?」「ほかのお客さんの後に来たの?」
とかまをかけるあたり、処女厨のやり口なんだろうな。
譬えるならば
真っ白純白で塵一つ落ちていない雪原に黒く足跡をつけて歪んだ征服感や優越感を獲得したいというような心理なのだろうか。
あるいは近世に西欧の探検家たちが未知の新大陸に進出して自国の領土を拡張していったときの野心にも似た心理なのだろうか。
もっと単純に他の男の精液が付着したイメージを催す女を抱くのは屈辱だということなのだろうか。
しかし、まだ一度も接客していないにせよ、すでに100人の客と寝ているにせよ、
こういう商売に手を染めている時点で純潔性などあるわけがなかろうに、
まだ一人の客とも寝ていない初心者嬢であったとしても、プライベートでは他の風俗嬢以上に多くの男とやりまくっている可能性すらあるのに、
風俗嬢に処女性や純潔性を求める(妄想する)客って、自己矛盾起こしていること自分でわかってないのだろうか?
そんなに純潔性に固執するなら自分にしか体を許さない貞淑な女性と付き合えばいいだけの話なのに。
お金と引き換えに誰に対しても無差別に性を提供することをこの男は要求しているからこそ風俗を利用しようとしているはずなのに、
自分以外の男にも無差別に性を提供するのが許せない、自分だけを特別視してほしい、って、
自分自身が依存しているシステム(性の無差別性)を根本から崩す要因(貞淑さ)を欲している時点で袋小路に迷い込んでいるよなあ。