はてなキーワード: スランプとは
さてさて
何を書こうか。
風呂場では色々頭の中でごちゃごちゃあったんだけど、こう、いざ文章を書くとなると手が止まってしまう。
そもそもアスペルガー症候群と銘打ったのならそれにちなんだことを書けばいいのでは?とか
そう思うかもしれない。
だけども、ADHDに限りなく近い・・・というかちゃんと精神科医の診断を受けたわけじゃないので、なんとも言えない。
であるから、話がポンポン飛ぶかもしれないが、ご了承くださいな。
まぁ、だけれども某シロクマさんも仰ってたが
「確かに障害はお持ちだが、今までその障害を抱えて社会に溶け込めたではないか」
という言葉には救われた。
ここでさらに自分自身が何らかの病気を抱えていると自覚することはないのではないか?
飽きてきた。
いや、まだ書こう。
ここで全然話を変えてみる。
丁度、そのtogetterを知人の総合~を持っている人物に見せて
「ホントにこんな感じなん?どうなん?」
って聞きそうになってふと止めたのが、この増田を書くきっかけだ。
(別に総合失調症って俺は分かってるし、単なる好奇心で聞いてもいいじゃないか)
まぁ、そういうのを良いか悪いかは、アスペルガーないしADHD持ちの自分からは言えない。
だけども、そういった行為に対して不快を感じる人が多いという事は理解した。
また飽きてきた。
そうだな。
文字を書くというのは、前後の話につじつまを持たせたり、話し手の一貫性がないと読みにくい。
だから、頭で思い浮かべた言葉よりも、文章で書いた方が俄然表現が遅くなる。
またポンと話が飛ぶが、『なろう小説』がもてはやされているというのを知って、自分でも書いてみようかと思い、書いてみた。
しかし、綿密な舞台を作り上げ、壮大なストーリーを描いたのだが、いかんせん人の心の動きが分からないという決定的なアレがあり。
舞台を構成するモブキャラどころか主人公たちが物語の中で全く動こうとしない。
がんばって1章2万文字書いてみた。
それからはもうある事件を起こして主人公に動かせようとしたところ
って事が多々起こるようになった。
もうそれで書くのをあきらめた。
人間の心は理解はできないけど、一応色んな人と話したり物語を読んだりして、把握はした。
けど、
ああ、
違うな。
今理解したわ。
物を作り上げるというのは本当に難しい。
それも最近飽きてきた。
ただただ飽きたのだ。
同じことの繰り返しに。
ああ
まぁ、いいか。
ここは2chみたいなもんだし。
誰が見ているわけでもないし。
新刊を見た
もうあの頃の感情が篭った絵は戻ってこないんだろうな… そう思うと少し悲しい
今でも他の絵師とは一線を画しているクオリティがある、本当に圧倒的だ
ただ、昔の絵と比べると、明らかに目が死んでる
それでも俺は彼を尊敬している
今でも俗に言う信者だろう
誰が為に作ること、需要に応えること、目的を果たすこと、そして、それでお金を稼ぐこと、それがプロのデザイナーだ
いつか金銭的にも時間的にも余裕ができたなら、昔のように1枚に1週間も時間をかけて自身のために絵を書いて欲しい
ただ、昔のような感情の篭った絵になることを願う
その絵は、彼にしか描けないんだ
当たり前で誰でもそうなんだけど、クリエイターって才能(アーティスト性?)が枯渇すると技術で補うと思う
でも、技術だけはどんどん上がっていくもんだから、いつしか「才能8:技術2」だったのが「才能2:技術8」とかの比率になっちゃう
そういう状態を俺はスランプだと思っていて、ここで如何に自分らしさ・才能を再発見して、それを伸ばしていけるかが大切なんじゃないかと思う
これに気づけない人が多くて、皆同じような技術で作る作品になりアーティスト性を確立できないでいる
高まった技術を自分の才能だと勘違いしてしまうのだ(逆にデザイナーは「才能0:技術10」でもOK)
かなり主観的な考えだけど、大槍葦人は技術の作品でも超クオリティを出せる凄い人だ。「才能2:技術100」みたいな感じで他の人とは総量が違う(というか、昔を引きずって考えないほうが良いのかなあ…、今は「技術100」が「才能」になっている節があるし…)
例えば、うすた京介は、新作のやつは完全に技術で描いているんじゃないかなー(彼は凄く悩んでいるとは聞くけど)
浦沢直樹は極端なんだけど、絵(彼にとっての技術)はどうでもよくて、ストーリー(彼にとっての才能、彼らしさ)が重要みたいなこと言ってた
僕も彼の漫画はストーリーが面白いから見るし、そしてそれは彼にしか書けないとも思う
人によって、ここでいう才能・自分らしさや技術は異なるんだけど、技術に溺れないように自分を見つめなおして欲しい
なんて、偉そうなことをつらつら書いてしまった!
めんご!
自分の事かと思って読みました。
自分の場合、何を食べたいかと友人に聞かれても「これが食べたい」というのすらなくて絶望的に落ち込んでいたよ。
最近になって将来への考えが変わってきたので増田に意見を書こうと思う。
教育に携わっている知人らいわく、「どうして?」と子供に問いながら答えを自分で考えるように育てると子供は自発的に考え、スランプに陥っても解決策を模索できる人間になれるらしい。
しかしだ。そう育って親の事を嫌いになってしまった友人もいるし、どうして?と言われなくてもそう考えるようになった人だっている。
答えは「いろんな人がいる」から自分はおかしくないよってこと。
こうやって向き合ってちゃんと自分がどんな人かってわかってるじゃん。
だから寛容な人間なんだって思ったらいいんじゃないかな。何を食べたいか決められなかったら前回とは違うもの(たとえば前回パンなら米で行こう!)とか。
将来的な部分はみーんな一緒だよ。子供のころになりたかったものにそのままなれる人って少ないでしょう?
人によってはただ”有名だから”この会社を受けようと思って受けて働いてる人。まったく興味が無くても”お給料がいいから”という理由でその会社を選んだ人だってたくさん居るんだよ。
ひとつ言うと、流行はだれかが作ってる。それを広告関係の人が広めてみんな飛びついて着たり食べたりして楽しんでるんだ。
みんな自分で見つけたんじゃないよ。大多数の人は人がしてるのを見てあたかも自分色ですって言ってやってるんだからさ。
ここは日本、右ならえでいいんだよ。オリジナリティが見つけられなくてもある意味とっても生きやすい国だと思う。
平凡に考えてみて。親の敷いたレールなんて言うけどそこまで育ててくれてありがとうでいいじゃない?過去を蒸し返してもきっと何も変わらないしさ。
落合博満のプロ通算500本安打・1000本安打・1500本安打・2000本安打という節目の安打が全てホームランであることは有名であるが、落合曰くそれは偶然ではないという。
つまり狙ってホームランを打ったわけだが、節目の打席以外でも毎打席ホームラン狙いが基本前提だったために、節目の打席でホームランを狙って打つことが造作なかったと語っている。
イチローはホームランを狙えば打てる能力があることを他の選手やファンから評価されており、節目の打席ではホームランを狙うことが多いとされる。
通算本塁打の割に先頭打者本塁打や1試合複数本塁打が多いことに加えて、年間200本目のヒットがホームランの年があることや、プロ通算1000本安打がホームランだったことなどから狙えばホームランを打てる能力があることと、何らかの節目の時にはホームランを狙うことが多いことが指摘できる。
(確か1994年の200本目の安打や日本通算500安打目の打球ももう少しでホームランという打球だったから狙っていたかもしれない)
しかし、同時にそのような節目を迎えた時にはスランプが少ない選手の代表であるイチローが不振に陥ることが多いが、ホームランを狙っていた影響があると思われる。プロ通算1000安打の直前も不振で、久々のヒットとなるプロ通算1000安打目がホームランだった。
だが、落合はそのような節目を迎えた時に特別な不振には陥ってはいなかったように思うし、本人もそう語っていた気がする。
(2000本安打の前に6打席ノーヒットというのがあったが、6打席くらいは大したものではないだろう)
それも毎打席ホームランを狙うのが基本前提だったからなのだろう。
ところで、サッカーにおいて日本人FWはゴールを狙える場面で変にもたつくことが多いとよく指摘される。
シュートを打てる場面でパスしてしまったり、キープしてる内にタイミングを逃してしまう、お馴染みの動作である。
その特有のもたつきが無かった日本人の一人がキングカズこと三浦知良と言われる。彼と並んでゴンこと中山雅史もその一人だろう。
日本代表の代名詞が決定力不足となったのも、思えばカズやゴンが日本代表から遠ざかってからのことのように思う。
2000年代以降各種メディアで日本代表の決定力不足が当然の如く囁かれるようになっていたが、その時にJリーグの歴代選手の1試合あたりの平均シュート数を比較した記事があった。
それによると確か上位は殆どが南米系の外国人選手で、日本人で上位に食い込んでいたのはカズとゴンだけだった。
シュート数におけるゴールの決定率でいえば日本人FWはむしろ高い方なのにシュート数が少ないためにゴールが生まれにくいことを指摘する記事で、シュートを多く打てるカズとゴンは凄いというようなことを書いていたと思う。
カズは実際、「FWはシュートを99回外しても、平然と100回目を蹴る精神構造でないとやっていけない」と言っていたが、
カズやゴンや南米のFWはシュートが狙える時はとにもかくにも狙ってシュートを打つことが基本前提としてあるためにシュートを打つことへの変な躊躇や恐怖がない。だからシュートチャンスで変なもたつきを出さずにシュートを打てるのだろう。
ブログはスランプで、なおかつ精神状態は不安定で眠れないから久々にアニメでも…と思ったら開始7分、一貫して胸くそ悪いタイプのアニメ。いや、これ大半胸くそ悪いか/「コードギアス 亡国のアキト」
胸くそ悪いヤツが性格でも特定の個人でもなく逆恨みとかたかりとか救いのない方向(で自分達だけがまとも)というタイプの構図がギアスシリーズのあんま好きじゃない所
ギアスシリーズは言い過ぎでも「亡国のアキト」に関してはほんとそれが酷い。どんなバイアス(ご都合主義)通せば、こうまで認知が歪むのか…という感じ。近未来SFみたいな装備やメカで中世やられてもなぁ…なんかちぐはぐなんだよなぁ〜
しかも、公式でエロ同人みたいなセリフと展開っすか?深夜に、1ヶ月ぶりに見たアニメがここまでナンセンスだと腹が立ってくる。
いや、期待もしてなかったし、暇つぶし程度に面白ければいいかな〜と思ったけど、睡眠薬の効きが悪くなりそうな酷いアニメだ。悪い意味で、時間潰されてる感
ダメだ。センスが合わない。面白いとかつまんないとかそういうのはものさしの上に乗らないと議論にならない。ものさしの上に乗るだけの最低限度の共感というか、クリエイターが何をしたくてこれを作ったのかみたいな意図がまるで見えない。要するに方向性がひどく間違ってるか、俺が作品の対象外の層か
自分のコンテクストを上げていくと、ある程度テンポの遅い作品が許せなくなってく。いや、遅さ自体に意図があったり、その過程自体が美しければいいんだ。
つまり、話やエッチが長いことが問題なのではなく、その男がブサイクだったり、つまんないことが女を怒らせる…そういうことだ。
コッテコテコッビコビの女性向けはほんと受け付けない。媚びてくんなよ、見出す楽しみ奪うなよ!楽しく腐るタイミング探させろよ(このアカウントの中の人は男ですが、身近な人にこじらせたBLを叩きこまれたため、腐った空気を嗅ぎ分けます)
ダメな時の出崎アニメみたいな演出まで入り始めた。糞アニメとはなんたるかをことごとくやってくれてるなぁ…これ
いい加減細身のやつがゴリラ体型のやつを軽く蹴り飛ばせるアニメを「きゃーかっこいい」とか言うのやめようよ…。なんかもう一周回ってチープだよ
すげー、媚び媚びなBL営業、絡みどころか、攻め受けまで媚び媚び。こんな、掛け算作成キットみたいなヤオイ作品になびくほど、俺の腐り方は甘くないぞ(俺は何を言ってるんだ?)
寝るか…
昔のブログでギアス褒めまくってたのだが、青二才は腐女子を意識して硬派を気取るという変な行動パターンを手に入れたせいで、腐女子に媚びてるってキーワードが出てきた瞬間に思考停止してしまうクセが付いてしまったようだ。
下から上に読むのだ
スランプだ。今日は何も書かずに、フリゲして寝よう。なんか、お昼にデザイン変えたり、新しいページ作ったり、キュレーションしたりしてるうちにつかれた
訓練された青二才フォロワーはメンヘラにもツイ廃にも決して物怖じしない
あんだけ、こじらせメンヘラみたいなツイートを乱射してもフォロワーが減らなく鳴った…。やっと、フォロワーさんが訓練されて「青二才さんは週2回ぐらいはツイッターでくねくねしてる」と理解してくれたようだ。
僕から言いたいことはこれだけです。どうかお納めください togetter.com/li/944858 / “「八木仁平のブログカレッジ」メンバー募集開始!ブログ初心者の成長をサポートします! - やぎろぐ” htn.to/TcLV57
「基本「男に生まれた時点で、バカだし、かっこ良くないし、種馬以外シネばいい」論者ですが、何か?」をトゥギャりました。 togetter.com/li/944858
くどいけど、もう一回だけ。
基本「男に生まれた時点で、バカだし、かっこ良くないし、種馬以外シネばいいし、死ぬ権利を認めないことこそ最大の狂気だ」論者だから、かっこ良くなろうとしない男なんて、なんの価値もないです。
ある時期までのはてなダイアリーもそうだし、その後サードブロガー世代になってからのはてなブログ初期もそうだよ。
リズムと言葉とリスペクトを取り戻して、「(リアルはともかく)ネットでぐらいかっこいい男やろう。やれる人が前に出る機運」があっただけに…ホントショックさ。
何が?全てが!
いや、本当に本当に本当に言わせろ!
野心に燃えたり、リスペクトしあってる人間同士が自分のリズムと言葉でぶつかり合ってる時だけ男はかっこいいの!
それがなんだ?今のブロガーは、リズムと言葉も閉まってれば、リスペクトも内向き
悲しいよ
文体もなく、デザインも似たようなブロガーがサロンによって量産されていく現代のはてなブログについてさ。
その空間が異常なんだよ。たまに見た俺が文才があるわけじゃないし、フォーマットが違うだけで大学生から駄文呼ばわりされる覚えもないんだ
古き良きかっこいいブロガーって、Hagexとか琥珀色の人とかあの辺の人しか残ってなくて、「文体」とか「くねくね」とか、「モヒカン」とかブロガーが、書物をやる人が持ってる文化すら俺の後には死んでる。なんか、リズムとかソウルに匹敵するものが死んでる。乗っけるものもなく自分があるだけ
今のブログ界隈ほんとダサいんだもん。俺に文才があるとか言われてるけど、08年以前のはてななら僕なんか簡単に殺されてます。伊藤計劃的な人らに赤子の手をひねるぐらいの軽さで殺されるぐらい才能無いですよ。僕のブログ読んで文才なんか言われちゃうってのはレベル低いんですよ。
基本「男に生まれた時点で、バカだし、かっこ良くないし、種馬以外シネばいいし、死ぬ権利を認めないことこそ最大の狂気だ」論者の僕だけど、久々にかっこいいものをみて「あー男でも生きてていいんだ」って気持ちになってる。
ヤギの教え子と聞いて見に行ったがずいぶんひどいことさせてるなぁ…なんだこのブログ。 / “うつ病だけど女子力上げよう” htn.to/aYESKV
ちなみに、「床上手の処女」以外には特定の元ネタが存在します。つまり、こんなクソみたいなないものねだりをする電通マンもバカ女も、マッチョイズム振りかざすイクメン経営者も実在するのです。
この世は地獄です
床上手な処女
これらにニーズがあるようです。
なるほど、死ねばいいのに
使い捨て前提の戦略とるところが多すぎるのよね…だからネット文化って浮き沈みしちゃうし、浮いた時に定着しないものが多い
お行儀のいいこと、都合のいいことだけやって面白いことができると思ってる人間がコンテンツ産業と表現規制に関わるから面白くない時代になっちゃったことに気づきましょうね♪
「そんなの(やった上でレビューできないとボツにしたの)まで書籍化するの」ってゲームがちらっとあったこと、あとは自分自身がネットの人気にあやかってなんかしてもらいたい的な人・案件を見て関わってるからこそ言うけど…ホント、選べよ!出版不況の結構な割合は自滅であり、時代のせいじゃないよ
いや〜この手の本で書籍化したからといって売れぬ(すごーく話題になった評判を聞かない)のは、固定票にあやかろうとした出版社があんま力入れないからだと思うんだよね。いや、ネット全般に言える問題だけど / “書籍化されたフリーゲームま…”
魔女宅がどういう話なのか分かってない奴が多すぎるのでまとめとくことにする.
魔女宅は徹底的にギブアンドテイクが貫かれている.
おそのさんのパン屋への居候も店番をするっていうのが条件.(かなり甘いけど)
近いから歩いて行けるので運賃は要らない,とキキが言ってもダメだとしっかり諭す.
子供のうちは無償の善意を受けることができるが,社会に出たらそうはいかないということを序盤からしっかりたたき込んでくる.
この頃のこの手のアニメだと序盤でそういう扱いを受けても割と優しい人から無償の善意を受けて話を進めるんだけど,
宮崎駿はそれをしなかった.おそのさんはとてもいい人だけど昼飯と夜飯は自分で用意しろ,ってことだしね.
まぁ,そういう背景があるのでラストシーンがより際立ってたりする.
キキの母親は魔法で薬を作るのを生業にしてるけれど,私の代で終わり,と言っている.
これはキキが覚えようとしなかったっていうのもあるんだろうけれど,恐らく薬学が進んで魔女の薬が必要無くなったんだと思われる.
薬を貰っているおばあちゃんが「私にはあなたの薬が良く効く」という台詞を喋るのもそういう背景があるんだろう.
魔女にしか作れない,作用機序も分からない薬よりも,薬学で作られた薬をみんなが使う.
もしかしたら効き目も負けているかもしれない.もう魔女の薬は要らないんだろう.そんな悲しい想像ができてしまう.
そして,キキが空を飛べるというのももはや特別なことでは無い.
飛行機や飛行船で人は誰でも空を飛べるようになり,トンボのような少年でも飛行機を作っている.
この世界ではそのうち小型のヘリコプターぐらいは作られるかもしれない.そうすれば空を飛ぶことは魔女の特権ではなくなる.
そんな悲しい背景があるが,もちろんキキがそんなことを考えてもどうしようもない.
キキに出来ることは空を飛べることで,その特技を活かして宅急便を行うことを生業にするしかない.
そんな気持ちを抱えているからこそ,突然のスランプに陥ったキキの焦り様や,
トンボを助けなければいけないという必死さが生み出した,デッキブラシという現代のテクノロジーが生み出した箒にまたがって空を飛ぶという,なんともいえないラストシーンが産まれたんだと思う.
この2つを踏まえつつ魔女宅を見れば,人間が成長して社会に進出すると共にどのように社会と関わり,
社会貢献していくべきかを表した映画と捉えることができると思う.
ラストシーンではキキが街に馴染んで逞しく生活している様子が見て取れる.
あれだけのことをやったんだから,宅急便なんてやめてレスキュー隊っぽい活動で公的なお金を貰うという考えもあっただろう.
街の小さい子供がコスプレするぐらいに人気が出ているわけだし.
しかし彼女は宅急便を続けていることが,現代に生きる私たちにもある種の生きる希望を持たせていると思えなく無い.
もちろんこの他にも,ギブアンドテイクから外れている金持ちのボンボンども(トンボもそのうちの1人だと思われるが)だとか,
とにかくそういうのが嫌で山に籠もって対人関係を断ち切って生きていく画家だったりだとか,考えさせられることが多い作品だと思う.
幼いころから、絵を描くのが「得意」だった。
美術に携わる家系に育ったという経緯が一番影響したのだと思う。夏休みの宿題で出す絵は大体入賞したし、それが当たり前だと思っていた。「私は画家の子。絵がうまい子」という優越感は必ずどこかにあった。
でも、どこか親の仕事への反抗的な気持ちもあって、小中学校のころはスポーツに励んでいた。親はそれについて何も言わず、ただひたすら私を見守ってくれた。
転機は高校1年生の冬。私は、中学生の時に無理がたたって膝を壊した。スポーツはもうできない。だから、だらだら帰宅部をしていたんだけど、美術の先生がおもしろい人で、私はその人に惹かれて、誘われるままにふらふらと美術部へ入った。
私の学校は進学校だったんだけど、なぜか美術部が強かった。みんな、美術に対して真摯で、一生懸命で、今思えば私は本当に良い環境の中で美術を始めることがあった。元々の素養もあったし、あっという間にメンバーよりうまくなるのだと固く信じていた。
2年生の秋、私の優越は打ち砕かれた。初めてコンクールに出した私の絵は優秀賞ではあったけれど、全国大会にも、ブロック大会にもだしてはもらえなかった。学校の中で二人までしか上位大会に行けない、という縛りがあったからだ。
全国大会には私が心の中で密かに馬鹿にしていた、A子の堅実で真面目な絵が選ばれた。ブロック大会には、B子の彫刻が、珍しいからという理由で選ばれた。
作品の評価の際に、審査員野先生に「君の絵は、金縁にかざっても堂々として栄える作品だけれど、どこか鼻につく」と、言われたのをよく覚えている。きっと、私の心の中の優越感が、絵ににじみ出てしまっていたんだと思う。
こうして、私のデビュー戦は屈辱の中で終わった。親にその話はしなかったし、絵も見せなかった。親も、その話をとりたてて聞こうとしなかった。
その後、B子は美術塾のある地区の学校へ転校した。私は、A子と競うようにたくさんの絵を描いた。A子は努力家で、本当にどんどんうまくなっていった。その隣にいるのも誇らしかった。
本当に楽しい時期だった。自分の、才能のある分野で、才能のある友人と競い合うことに、私は心から充足を感じた。
最後のコンクールで、私は花を持つ女の人の絵を描いた。本当に渾身のできで、私は思わず父に感想を求めた。
父は「去年の絵を実は密かに見たが、あっちがよかった。今年は、審査員受けする絵を描いている感じがする。お前の絵じゃないな」とぽつりと言った。
その言葉で、私の絵は「万人受けする絵になりつつある」ことにようやく気付いた。そして、私に影響を多大に及ぼしていた画家によく似た作品であることにも、気がついた。
その作品は、もはや「私の作品」ではなく、「褒めてもらうためのそれっぽい美術」だった。承認欲を満たすためのプロセスだった。それは、私の技術の拙さからくる甘えでもあった。
そして、私の家族の人たちが命がけでやっている「美術」とは明らかに違った。
どこかにあるものでは、美術は成り立たない。自分の明確な美を表現しなければ、美術ではない。それを、一番良く知っているのは親の背中を見てきた自分だった。
私は結局、その一言でスランプに陥った。そして、美大の進学を取りやめ、逃げるように総合大学へ進学した。美術に関わらず、ギタ-を弾き、ツテを訪ねて海外をいろいろまわった。自暴自棄に近い学生生活を送った。
私の人生は派手だ。いつも楽しい。賑やかで何でもできる人だと言われる。でも、美術ほど、のめり込めるものに、出会ってははいない。
そして今、私は社会人で、やっと筆をとっている。美術の大会に出すとか、そんな大仰なものじゃなくて、会社のイメージキャラクターをデザインしたり、友達の結婚式の案内状を制作したり、塾の先生をやっている友達の教材に挿絵を描いたりしている。もちろん、対価はもらっていない。あったとしてもせいぜいお菓子類だ。
絵を描くたびに、確かにほろ苦い気持ちになる。
結局、私は求められないと絵を描かない。褒めてもらうためにしか、絵が描けない。
だけど、色を重ねるたびに喜びが溢れる。逃げずに、もっと向き合っていればよかったな、と思わずにはいられない。あの時、なにくそ、と思って、描き続ければ、また違う未来が待っていたのかもしれない。
ごく一握りの人間しか体験できない心情というものは非常に興味をそそられる。
移籍一つでも色んな答えがある。
村田は巨人に移籍した際は、勝ちたいという自分の気持ちに嘘はつけない、と自分の気持ちを率直に吐露し、
逆に落合は清原の加入により玉突きになった際、清原に負けるとは思わないがどちらを使うかで悩む監督の顔は見たくないと微妙な発言をしている。
新井さんは、まあ、いいや。
とにかく、かつての夢や現状への不満、今までのチームへの恩や移籍先からの歓迎の声と言った多くの感情が渦巻く中での発言は
最近では武藤がハットトリックを達成したにも関わらずチームが引き分けた試合後、
自分が4点取って勝ち点を3取れればもっと素晴らしい一日になった、と若者らしい非常に野心的な台詞が聞かれた。
知的で非常に礼儀正しい彼だが、超一流のストライカーになるためには常に貪欲でなくてはならないと、
自分に言い聞かせている部分もあるのではないだろうか?
今シーズン輝きを見せる香川は、昨シーズン中に過去の自分と現在を比較された際、
過去は過去、と言って自らを取り巻く幻想を振り払う覚悟を見せた。
発言通り香川は全盛期と言われたかつてとは違った、よりゲームメーカーらしいプレイでチームを牽引している。
各メディアの壮絶なプレッシャー、バッシングに晒される中で自分のプレイスタイルを変える決断は簡単ではなかっただろうが、
その決断ができた彼だからこそ、再び輝きを見せることができているのだろう。
もし自分に移籍のオファーが来たらどんな決断をしどんな言葉をファンに伝えるか、
自分がスランプに陥った際はなんとメディアに伝えどうやって自分を奮起させるのか、
そして優勝インタビューや引退会見でどんなシーンを思い出し、涙を飲みながらどんな言葉を言うのかいつも夢想する。
「問十二、夜空の青を微分せよ。街の明りは無視してもよい」という短歌がある。
どうやら天文学的には夜空を微分することは常識で星が強調され、見えない星も見えるようになるらしい。
それを知ってから、僕はこの歌が好きになった。
天文学に興味があるに違いない。
そして、問題文形式であることから、この歌は誰かから誰かに投げかけられたものである。
では誰に?
それは、友達以上恋人未満な男女では無かろうか。
受験勉強でスランプに陥る男、志望する天文学の判定が良くなかったのだろう。
志望する学部が揺るぎ始める。
そして、それを心配する女。
どうにか立ち直って欲しい。でも直接言うのは照れくさいし恥ずかしい。
そこである種フォーマット化した問題文の形式でメールを送ることで
照れ隠しをしたのでは、無かろうか。
(毎日、受験勉強お疲れ様です。たまには、息抜きに夜空でも見上げてみませんか?
模試の結果や周りの意見(街の明りのようなノイズ)が気になるかもしれませんが
自分の夢について、深く考え見つめて欲しいです。)
この歌には、そういった青春がこめられている気がする。
ところで「夜空、青い」といえば
「夜なのに 僕が見るのは あおいそら」を思い出す。