はてなキーワード: ストレートとは
最初に、元々婚姻制度っていうのは家庭で子孫を生み育てて社会を維持するのを補助するための仕組みだ、という立場です。この前提が異なる方はそれを踏まえて読んでいただくか、ここで読むのをやめてください。分かり合うことはないでしょう。
基本的には性自認とか性的指向とかは人の自由だと思うし、好きにすればいいと思います。けれども社会的な権利や義務に関しては同じように扱うべきではない場合がある、と考えています。
先に結論を書くと、出産、養育、その他のプリミティブな社会の義務や役割から逃れつつ、婚姻制度の権利だけ主張するのはありえないよね、っていう主張です。
どうやってもLGTあたりの人が子供を産むことはないわけで、この命題を解決しないで、権利だけ同じにしようというのは無理だと思うのです。これはノーマル(ストレート?)の子無しカップルにも言えるとは思います。
男女の婚姻制度とか、もっというと男らしさとか女らしさっていうのは、家庭を築いて次世代を生み育てて社会を維持するために人類があちこちの文明で作り出した叡智なわけです。男が頑張って家庭を維持するだけの糧を稼いで、女は子を産み育てる、まぁ逆でもいいし、例外もたくさんあると思うけど、マジョリティはこうあることで社会が存続してきたと考えています。
だからLGBTQだけじゃなくて「男らしさ女らしさからの解放」とかも同じで、次世代を産み育てるための仕組みを否定しているんだよね。
それを否定するなら代わる仕組みを提案しろよ、と。自分たちがマジョリティになっても持続する社会形態をね。たまたま自分たちがマイノリティだからそれを許容してもらえればいい、っていうのは甘ったれすぎていて話にならない。一人くらいプールでおしっこしても平気でしょと変わらない。
体外受精、人工子宮、あと教育の外部化くらい?なんか工場でベイビーを生産してロボットとかで教育する未来が見えるような気がするが、そのくらいやればそもそも家庭が不要になるし、LGBTQとノーマルのカップルの権利を区別する必要はなくなると思う。自分にはあまり望ましい姿には見えないけれど。
LGBTQも産まないカップルも男らしさとか女らしさとか否定する人たちも、じゃぁどうやって社会を維持していくのか、きちんと考えて提案して欲しい。今やっているのは既存の仕組みを壊しているだけに見える。マジョリティが必死に支えている義務から逃れて、権利だけ主張する人たちにしか見えないよ。
ディスクレーマー的に付け加えると、LGBTQの方にも生まないカップルの方にも事情が色々とあるのは想像できます。望んでそうなったわけじゃないという方もいると思います。そういうのは素直に同情するし、必要に応じた支援があったっていいと思うんだけど、それは同様の婚姻制度を一律に適用する、とかいう話とは別だと言いたい。もちろんどっちが偉いとかでもなくて、ただ、違うものとして扱うべきだと。
あと蛇足だけど娯楽としての同性愛っていうのは楽しくていいですよね。織田信長とか徳川家光とかみたいな話。それこそ特権階級(マイノリティ)の娯楽だけど。
20歳女子大生オタク。お洒落には興味あるが知識なし。服屋でなんとなく気に入ったものを買って合わせるものに困る、と言うことを繰り返してきた。メイクも好きだったがやり方がわからず、何を選んでいいかわからなかった。
そんな時に、Twitterで「イメコン」と言う概念に触れ、私は飛びついた。イメコンとは、いわゆるパーソナルカラー、骨格診断、顔タイプ診断等「あなたに似合うものを理論づけて教えます!」というシロモノである。
「自分に似合うものがわかるなんて最高じゃん!これの通りにやればお洒落になるんでしょ?」と思った私は、近場でたまたますぐに予約ができたのでプロの方に診断してもらった。
結果は、PC1st夏、2nd冬。骨格ストレート、顔タイプエレガント。まあなんか青味のある鮮やかな服着てメイクしてタイト目に大人っぽくまとめて華やかさがあればいい、となかなかまとまった結果であった。
しかし言われてみるとそれは好みの系統ではなかった。恥ずかしながら、「これが似合います!」と言われて初めて自分にも服の好みがあることを自覚した。
その後インスタ等を駆使して見つけた私の好みは、
くすみカラーといいオーバーサイズといい診断結果からは恐ろしく正反対である。
でもそれを無理やり似合わせようとする試みはとても楽しかった。
服やメイクの色合いはPCよりナチュラル感、季節感重視、エレガントを子供に寄せるためのメイクに尽力、(求心顔→遠心顔、眉毛の描き方等)
骨格ストレートがオーバーサイズを着てもすっきり見えるように可愛いまとめ髪ヘアアレンジを覚え、着膨れの被害を抑えるためのダイエットもした。あと猫背、反り腰を治した。インスタで服装可愛い!と思った人の投稿と自分を比較し、元の人の雰囲気を保ちつつ私に落とし込む方法を考える。
そうしたら自分でだんだん納得が行くようになってきた。彼氏や友人からも褒められるようになった。最近はもう自分の感覚で好き勝手にやっている。(そうは言っても根底にあるのは自スペのカバーであるが)
イメコンを受けようかどうか迷ってる人は是非受けたほうがいい。診断結果を参考にしつつ無視して自分の好きな格好をするのはとても楽しい。イメコンはいいぞ。
俺に言わせれば結婚は子供を作って育てるためのペアになる申請なんだからホモの方は結婚制度とは別の制度を考えるべきなんよね
言いたいことは沢山あるのに、大切な人を目の前にすると、伝え方が分からないんだよね。だから人間は詩を書いて歌を歌って絵を描いてダンスを踊ってきたんだなーと思うくらいには、伝えるって難しい。赤子も泣くだけで全てが伝わると思わないでほしいわね…!
長男長女夫婦なこともあって、言いたいことはお互い一旦飲み込んで咀嚼してから忘れた頃にプッと出すタイプかもしれない。伝え方はソフトになるけど、タイミング見誤りがちなのは確か。
たまには火の球ド直球ストレートも投げてるつもりなんだけど、タイミング間違うとグローブごと吹っ飛んで場外退場になる旦那だもんで、加減は見誤らないように気を付けます。あと、言いたいことは簡潔に伝えられるように意識します。
ちょっと大げさかもしれないし、あくまでうちら夫婦に限った話かもしれないけど、割と目からウロコな話だったので聞いてくれ。
結論を先に書くと、「してもいい?」という言葉を「したい」に変えたということ。
同じと思うかもしれないけど、結婚して10年、前者はいつも使っていたけど、後者を使うことは多分一度もなかった。
その歪みが積もり積もって夫婦の関係を冷ややかなものにしてしまっていた。
なぜ「してもいい?」という言葉を使っていたのかと言われれば、夫婦とは二人いて初めて意味のあるもので、何かしらの決定は常にお互いの承諾が必要だと考えていたからだ。
おそらく、その考え自体は間違ってないと思う。
しかし、その承諾を得る方法として、自分が選んだのは「してもいい?」という問いかけだった。
この言葉は、一見自分の要望を丁寧に伝えているだけの言葉とも取れる。少なくとも自分はそのつもりで使い続けていた。
ところが、この言葉にはうっかり見落としてしまうような落とし穴があった。
それは、自分の要望に対する責任を相手に依存してしまっているという点だ。
例えば、「今日の帰りに飲み会に行ってもいい?」と聞くとする。
少し難しい話をすると、これに対して「いいよ」と答えれば、それは”承諾”だけではなく”許可”が行われたことになる。
同じと感じるかもしれないが、大きな違いとして承諾ではなく許可をした以上は、飲み会に行っことに不満を持つわけにはいかないし、後になって飲み会に行ったことを咎められれば、聞いた側も「許可を得たのにどうして?」となってしまう違いがある。
さらに言えば、許可を求められた側は断ることに対してほんの少しの罪悪感を消費する。(もちろん相手が思いやりのある人だという前提で。)
このほんの少しの罪悪感が、10年も経てば積もり積もって離婚の原因となるほどの大きな歪みに十分なり得るのだ。
それならば、これが「今日の帰り飲み会に行きたい」という投げかけになればどうだろう。
そこには返答に対する責任は存在せず、行きたければいけ、その代わりどうなっても自分で責任を持てよということになる。
ここに一方的な依存はなく、たとえ嫌な反応を示そうとも、それは素直な感情の表現でしかなく、罪悪感の歪みが生じることもない。
それどころか、受け入れれば相手に対してもポジティブな貸しをつくることもできるのだ。(もちろん自分が身勝手ではないとした上で。)
つまり、「してもいい?」の問いかけは受け入れて当然、断れば罪悪感が残り、「したい」という問いかけは、断ろうが勝手、受け入れれば相手への貸しを一つ作ることができるという大きな違いがあるのだ。
同じ承諾をするにしても、片やリスク、片やメリットがあるという大きな隔たりがそこにはあった。
これは承諾を得る側にも言える。
「してもいい?」という問いかけは比較的リスクが低く断られてもダメージが少ない一方で、「したい」という問いかけは一方的な要望を押し付けることになるので、承諾を得られたときに相応の報酬を与えなければならない。
つまり、ある意味では相手の良心の呵責に問いかけるようなずるい言い回しとも言えるのだ。
しかし、夫婦間での歪みはすでに危険なレベルにまで達していたのは事実だ。
こうしたやり取りを繰り返していくうちに、妻は断る自分ばかりが罪悪感を感じていることに馬鹿らしさを感じるようになった。
その結果、妻はこちらからの提案に対して、冷たくそっけなく返事をするようになる。
それに対して自分の受け取り方はこうだ。
こちらは相手の顔色を伺って平身低頭お願いをしているのに、それを聞こうともせず冷たくあしらうとはどういうことだ。
事実、こうしたいらだちがお互いに溜まりに溜まって、結婚10年目にしてはじめて食卓がひっくり返るような喧嘩をした。
その後一週間、子供の前以外では全く口を聞くことすらなかった。
昨日今日始まったことではない問題の根深さは理解していたので、もしかするとこのまま決別ということもあり得るかもしれないと、割と本気で考えるほどだった。
気軽に言っているわけではない。今までさんざんお土産を買ったり、喜ぶようなことをしたり、事あるごとにありがとうと言葉を返したり、できる先回りして家事をやっつけたりと手を変え品を変え関係改善に努めてきたつもりだったのに、その結果がこうなのだからもう改善の余地はないのではないかという絶望すら感じていた。
しかし、今回こうして感情的にお互いの気持をぶつけてみて、現状に対する認識に対してズレがあると感じたのも事実だ。
ならばそのズレの原因、認知の歪みはどうして発生してしまったのだろうか。
そんなことを口を利かない一週間の間にずっと考えてみた。
実を言うと、先日話題になった依存症の漫画を読んだことが一番のきっかけだったのだけど、そこで改めて”Iメッセージ”とは何かを考えたときに、自分の使っていた「してもいい?」は、実は”Iメッセージ”ではなかったのではないかという疑問に行き着いた結果、言い回しを変えてみたらどうだろうということになった。
発信は確かに”I”にあるのだが、決済責任が”I”にはない、あっても希薄だということに気づいたのだ。
それならば、ストレートに要望を伝える言葉を選んでみたらどうだろう。
最初は、これすらも冷たくあしらわれたらどうしようと不安だったけど、いざ「~したい」と、自分の要望を言い切りで伝えてみたところ、妻は一瞬はっとしたような顔をしてからむしろとても嬉しそうに快諾してくれた。
なんだ。こんな簡単なことだったのか。
そう思うと、ほっとしたのと同時に、久しぶりの妻の笑顔が見られたことが嬉しくて涙が止まらなくなってしまった。
まともに喋れる状況ではなかったけど、そこではじめて妻に謝ることが出来た。
「今までごめん。多分、僕の要望の伝え方はずるかったよね。窮屈な思いをさせてごめんね。」
多分、そんなようなことを言葉になるかならないかギリギリのところで話をしたと思う。
恐る恐る妻の顔を見ると、微笑みつつも瞳から大粒の涙をこぼしながら突然強く抱きしめてきた。
実は、妻からもそうしたストレートな要望を聞いたことがなかった。
それも妻の遠慮がちな性格がそうさせていたのだと思うと、妻にもつらい思いをさせていたのだろうと悔やんだ。
これからはお互いを信用して、自分の要望に対して素直に相手に伝えあえるようになろう。
そんな提案をすると、妻はとてもうれしそうに、恥ずかしそうにうなずいた。
ここからは確証がもてないのだけど、おそらく、どちらかに偏ってしまったことに問題があったのだと思う。
自分の素直な要望は素直に伝えるべきだし、もしかして相手を傷つけてしまうかもしれないようなことは「~してもいい?」と相手の考えを口にできるきっかけを作り出すことが必要なのだと思う。
あんまり上手に説明できてないかもしれないけど、もしどちらかに偏ることで大切にしたい人との距離感がギクシャクしてしまっている人がいるなら、何かの足しになればと思い文字を起こしてみました。
>酒6本飲んでも素面
恐らく「酔う」ということが何なのか元増田にはわかってない。
酔うっていうのは意図的に脳の一部を麻痺させる行為なんだけど、真っ先にどこを麻痺させるかっていうと、前頭葉です。感情を抑制する能力っていうのを真っ先に麻痺させる。みんなそのために酔っている。
感情抑制能力が麻痺すると、例えばちょっとでも楽しい気分になったときに、そのままストレートに楽しくなる。大して面白くもないはずの友達のトークでめちゃ笑える。
つまり人間を楽しくするのは、酒それ自体ではなく、あくまで周囲だ。
酒を6本飲んだけど、映画を見るでもない友達と話すでもない、ただただ座って黙ってると、あたかも自分が素面のように思えるはずだ。氷が解けて水面になっても、風が吹かなければ波は起きない。
理系大学院生にとって実験というのは食べて寝て呼吸をするのと同じくらい当たり前にするものである。
人間ってどうして呼吸するの?なんて日々考えてる人がいないように、毎日研究室に行って論文を読み先生と先輩の研究の雑務をし自分の研究も進めて後輩の面倒をみるのに疑問なんか持ってなかった。
でも自粛期間を経て一回立ち止まってみたら、当たり前にしていた研究室生活ができなくなっていた。自主自粛期間が6ヶ月を超えて修了出来るかも怪しくなってきたM2の、心と生活の変化を記録してみる。
コロナ前は月-土で8時には家を出て研究室に行き、9時過ぎに帰って、日曜日は一日中バイトしてたから、毎日疲れてて自分のことも必要最低限しかできていなかった。夜でも日曜でも先生からメールは来るし、後輩からも添削お願いしますメールがくる。結局は自由時間も研究室業務をしていたから、本当にメールを確認せず過ごせるのはなんとか時間を作って高校の友達とご飯を食べに行く時だけだった(同じ大学の友達はみんな同じ境遇だから、一緒に何かしてても研究室関連の連絡が来たら即対応してた)。でも、連絡にはすぐ対応しないと先生から色々言われるし、特に先輩は嫌な感じでストレスだったから、すぐ対応できるよう携帯が手元にないと不安だったし、友達がトイレ行ってる間とかに新着をいつも確認してた。とにかく時間がないから付き合える人間が限られてくるし彼氏ができてもわたしは週7で労働してるようなものだから続くわけもない。
3月末、大学は研究自粛となり、バイト先も休業し就活も終わっていたから、大学生になってから初めてなんの予定もない1週間ができた。うちは実験室に行って手を動かさないと基本何もできないタイプの研究室だから、本当にやることがない。(この時はデータも大学から持ち出せなかった)。みんなすることないから誰からもメールがこない。携帯が手元になくても、不安にならない。思い切って1日電源を切ってみたけど、次の日つけてもメールが一通もなかった。幸せを感じた。
久しぶりに2時間とかかけて料理してみたり、道具と材料揃えていろいろなお菓子作ってみたり、夜になったらYouTubeみながら毎日45分運動してみた。どうぶつの森を買って一日何時間もSwitchと向き合ったり、録画して観る時間がなかったドラマをみたり(やっと逃げ恥みれた)、Netflixに入ってずっとみたいと思ってた作品を一気に観た。1時間くらい散歩したり、zoomで高校の友人と久しぶりに話した。夜も時間あるからパックしたりストレッチしてみた。メイクも、集めてても結局考えたくなくて同じものばっかり使ってたけど、毎日いろいろな組み合わせを試した。髪も巻く時間たっぷりあるし、実験しないから好きな洋服を毎日着れる。食べる量とかは変わってないけど、生活習慣が格段に良くなったおかげでニキビとかも無くなったし、体重も減った。何より毎日肩が軽くて快適だった。
そんな日々が1週間を超え3ヶ月が過ぎ研究が解禁された頃、研究ができない体になってた。研究室に行ってた時も、全く自分の時間がなかったわけじゃないけど、気力が起きなくてせっかく1時間あってもずっと横になりながら意味なくSNSを眺めてて終わってた。もうそんな日々に戻れなかった。
研究室に行かないと人生がこんなに楽しいのに、なんで年間50万円の学費を払ってあんなことしなきゃいけないんだろう。っていうかなんで50万円払って先生の研究の手伝いと後輩の指導してたんだろう時給マイナスじゃん。マイナスなのにストレスまで多くてなにこれ。あーもう無理無理。明日こそ行こうって毎日思って寝るけど全然家から出れない。買い物とかには行けるのに、研究室に行こうと思うと家から出れなくなる。
今思えば、ブラック企業みたいなものだった。もしこれが会社だったらみんな辞めて転職しろって言ってくるやつでしょ。会社はいいね、やめて次踏み出せるから。てか辛くても長時間でもお金もらえるからいいな。研究室ってね、入ったら合わなくてもストレートで卒業したかったら耐えるしかない。やめたら就職に不利だし、他大学に移動できるタイミングも限られてるし、仮面浪人なんて莫大なお金かかるし。学科のパワハラ相談室とかあるけど、有名な教授よりどうせ卒業する生徒を切り捨てるから何の役にも立たないし。
本当なら7月から大学行けてたけど行かないでもう9月も終わって自主自粛期間6ヶ月になっちゃった。
3ヶ月の空白分を実験するのも大変なのに6ヶ月ってやばいよね。だって今から実感してデータまとめて考察して修論書くの?無理無理。
何より今更先輩と先生と顔合わせたらなに言われるか分からなくて無理。同期からは気にかけてるよって連絡くるけど、2人きりになったらわからないじゃん。
でもせっかく就職先決まったし、今週内定式もあるのに就職できないのは嫌だな。推薦じゃないから迷惑はかけないかどもう就活したくないし…。
GoToトラベルだったり、満席で演劇が上演できるようになるだったり、社会が徐々に明るい方向に向かっているというのに。自分は、映画館もスタバも劇場も何もない田舎から出られないでいる。
産まれてから18年間、同じような生活環境の田舎で住んでいたのだから平気だろうと思っていたけれど、一度都会の娯楽に溢れた生活を知ってしまったら、もうこの「何もない」田舎の生活が苦しくて仕方がない。
大学進学を期にいわゆる都会という生活に触れた時も感じたけれど、田舎は圧倒的に選択が少なすぎる。または、選択を広げるためにかかる時間とお金の負担が大きい。当たり前だけれど。
だって、スタバの抹茶フラペチーノにチョコチップいれたやつを飲みたいと思ったら、電車で30分揺られなきゃいけない。タリーズのヨーグルト&アサイーを飲みたいと思ったら1時間近く電車に乗る必要がある。500円の飲み物を飲むために、その三倍以上の交通費を支払う必要がある。
映画を観たくても電車で1時間かかるし、そもそも一番近い映画館は県をまたがなきゃない。朝日が昇るまでバーで飲むなんてこともできず、日付をまたぐ前にどこの飲み屋も大概閉店してしまう。刀剣展示を見た次にミュシャの展覧会に行ったり、プッチーニのオペラを観た帰り道に箱で頭振るなんて芸当もできない。
きっとこの話を北海道に住んだことのある友人に聞かれたら「こっちはセブンまで〇〇時間かかる」とか言われそうだけど、今はそんな話をしているんじゃない。私が、私の経験してきた人生と照らし合わせて、今の生活がつらいっていう話をしたいんだ。私が今どうしても苦しいっていう話を聞いてほしいんだ。
こんなコロナがはやる前は「また田舎に住むことになったけど、大阪にも名古屋にもすぐ行けるし余裕っしょ。むしろ岡山(長船)にも高知にも福岡にも近くなってラッキー!」ぐらいのノリでしかなかった。ほんと馬鹿。
今じゃ大阪・名古屋はおろか、プライベートでは自転車で動ける範囲での生活に縛られているんだぞ。あの頃の能天気な自分を助走つけて殴ってやりたい。もっと足元を見ろ。
その自転車で行ける範囲にある娯楽はカラオケしかないし、大好きだった大判焼きを売っていたお店は、結局コロナ休業が明けることなく閉店してしまった。
そのくせ、駅前の通りにはデカデカと看板を掲げたキャバクラが立ち並んでいる。これで若者の移住やUターン就職を政策で掲げているのが、むしろギャグとしか思えない。(だからと言ってじゃあスタバを作ればいいのか、という話ではないから難しいけれど)
社会情勢を見るに、まだしばらくはこの田舎から出られない生活が続く。そう考えるとぞっとする、というような感情は薄らぎつつある。今は諦め、の方が感情に占める割合が大きいきがする。それと怒り。
諦めは、この人生を選択したのは自分だから、というもの。都会の生活が良ければ、就職の時に都会の会社を選べば良かった。それをしなかったのは自分の判断なのだから、今この状況に置かれているのは自分の責任だろう、ということ。
この田舎でコロナ初感染者が出た時、その家の窓ガラスが割られた。そんな話、ネット上の創作でしょ、と高をくくっていたけれど本当だった。風の噂によれば、その家族は引っ越したとも自殺したとも聞いている。どっちが本当かは分からないし、知りたくもない。
自分が、自分の家族が次の感染者になるかもしれないのに、よくそんなことができるなぁ。
おそらく、これは自分の想像でしかないけれど、「こっちは我慢しているのに都会に遊びに行った挙句コロナにかかって」といった憂さ晴らしでそうした行動に移ってしまったのだろうと思う。
実際、パートのおばさまたちの「〇〇さんこの前大阪に行ったんだって……」という陰口を叩いている場面に出くわしているので、当たらずとも遠からず、といったところだと思う。
自分は、その憂さ晴らしを、自分の中にある嫌だなと思う気持ちを、こうして文章にして出力することができるからまだ救われている。他人の家のガラスを割るよりは、よっぽど健全な毒の吐き方だと思う。
ただ、万人がこの毒の吐き方ができるわけではないことも分かっている。自分だって本当は、美味しい酒を飲みながら、誰かに自分のつらさを聞いてもらって同情してもらいたい。
それが叶わないからこうして、家で冷凍庫から出したウォッカを、瓶のまま飲みながらこの文字を打ち込んでいる。
Twitterが見れなくなった。舞台や美術館の上演・展示情報を見ると、そこに行けない事実を突きつけられるから。「行く!」と言っているフォロワーに後ろ暗い感情を持ちたくないから。
今の私の手には入らない美味しそうなお料理、綺麗な品々、素敵な物語。「どうせ自分はいけない……」と、いちいち悲しむことに疲れてしまった。
先日、上司(この田舎に住んで十年以上)に息抜きの会話の中で「(大学生活を送った土地)に帰りたいんですよね~」と話したら、「万一コロナに罹った時村八分になるからやめた方がいいよ、ガチで」と改めて念を押されてしまった。
その会話の数日後に、仕事終わりの終電に飛び乗ってその地に行こうと画策していたけれど、その計画もぽっきり折れてしまった。
久しぶりにワクワクした。全部終電を乗り継げば、日付は越えるけどその地に辿り着ける。出勤前に駅のコインロッカーに旅行カバンを預けようとか、馴染みのバーのマスターにはあのお土産を買っていこうとか、あっちに帰ったらあのレストランのご飯を食べようとか、旅行用の歯磨きセットが無いから買わなきゃとか、いろいろ、考えてたんだけれど。
結局そのお休みは、昼過ぎまで寝てYouTubeで酷道走行動画を見たりしていたっけ。
どんどん預金残高が増えるけれど、これっぽっちも嬉しくない。いくら円盤を買っても生の演劇・映画・演奏とは別物。いくら高い酒を買ってもバーで飲む味には到底及ばない。
何で自分は働いているんだろ。
生きてるって言えるのかな、これ。
コメ返信
https://anond.hatelabo.jp/20200919145352
そんなささやかな希望すら叶えられない田舎クソだな〜〜〜ってほんと思う。京都の確か四条通りのカフェのカヌレとかも食べたい。あと博多のShinShin。
https://anond.hatelabo.jp/20200919145353
映画自体じゃなくて映画館に行くまでの道のりが電車しかない(車持っていない)なので詰んでるんですよね。別に映画館とか行くの自体は大丈夫でしょって思ってる。
https://anond.hatelabo.jp/20200919145626
明日トラックに轢かれて死ぬかもしれない刹那主義で生きてるから相容れなくてすまんな……あっでも10万給付で貯金額増えた時は嬉しかった。
https://anond.hatelabo.jp/20200919150005
近゛く゛に゛美゛味゛し゛い゛お゛酒゛飲゛め゛る゛バ゛ー゛が゛な゛く゛て゛困゛っ゛て゛ん゛だ゛よ゛!!!!!!!高い酒ストレートで飲む分にはいいけれど……さ……あとバーの雰囲気が好き人間だからよ……
https://anond.hatelabo.jp/20200919150734
分かりみすぎて笑ってしまった。わかる予言するわ多分「都会の生活は時間が早すぎる、こんな溢れた情報の中で振り回されるような人生は送りたくない」とか書いてそう。生きるの根本的に向いてないな???
「少年の心がわかる」女性は少ないから、週刊少年ジャンプの編集部に配属されない。
不合理な理由で女性の配属を阻んでいるなら、まさに「特定の属性を理由とした除外行為や拒否行為で不利益が生じ」ていることになる。少年誌の区分けが差別を生んでいる。
大学での企業説明会で「少年の心がわかることが大切」という発言があったことを認めた。ただし、女性でも「週刊少年ジャンプ」の編集者になれるかどうかについては明確な回答はなかった。全文は以下の通り。
―――――――――――――
弊社ではいくつかの大学で企業説明会に参加しており、その中でジャンプの女性編集者について下記のように回答しております。
「過去に前例がないわけではありません。“少年ジャンプ+”に女性が配属されていますし、ヤングジャンプなどで女性の編集者が配属されたこともあります。女性ファッション誌の編集部であれば、性別関係なく女性のおしゃれ心を理解できることが必要ですし、少年マンガであれば少年の心がわかることが大切でしょう」。
https://www.huffingtonpost.jp/entry/jump_jp_5dc155b3e4b0bedb2d52abe2
奇妙な回答だ。
文系disはまあ、文系は理系と違って適正なくても大学に進めるのでそう言いたくなるんだろうなと心情は理解する。
けど、それを文系の人に面と向かって言えるのは理系とか文系とかいう前に人としてやばくないか?と思う。
あと理詰めの俺アピールがすごすぎるのでちょっとでも矛盾したことが出てくるとずーっと追求してくるのもやばい。
確かに指摘の通りだな、ごめんねありがとう、と言うともう駄目で、永遠にバカにする対象にしてくるし、端的に言って性格が悪すぎる
モラハラ気質は理系の基本仕草なのか??ってくらいのヒット率で辛い。
10人くらい知り合いがいたら10人そのコミュニケーションで向かってくるんだけど金太郎飴か?
たまにあるよねそういうの