はてなキーワード: 過去の栄光とは
社会は馬鹿ばかりで虚しいし、不幸はこの世からなくなりません。
みんなその場限りのことしか考えていないので、いつまで経っても全体の幸福度は上がらないから、くだらない娯楽で馬鹿を支配するシステムが発達して、オーウェルの小説のようなディストピアまでまっしぐらでしょうね。それがある意味で本当に平等な世界なので。
『水が上から下に落ちるのが当たり前』という表現がありましたが、その通りでこの世界はエントロピーに支配されています。
壊すのは簡単ですが作るのは大変ですし、継続するのはめちゃくちゃ困難でも諦めてだらけるのは秒でできます。
何かを始めるにはエネルギーが必要ですが、そのエネルギーも積み重ねによる貯金や、将来への希望という不確定な報酬を担保にしているので、負の連鎖に陥ればもう手に入りません。
やってもどうせ意味ねえし、どうせ報酬だってたかが知れてるし、昔同じものを手に入れた時は確かに嬉しかったけど、終わってみたら大したことねえなと思えるし、そんなもののためにまた頑張るのなんてアホくせえし…
ちなみにエントロピーは割れたグラスを元に戻すことはしませんが、時折好循環が起きて何もないところからエネルギーを起こすということもあるらしいですよ。まあ負の循環の方が大きいのですぐに掻き消えてしまいますが。
この世って頑張ることを前提としてるくせに、頑張って手に入るものたかが知れてて、しかも頑張んなくても存在することはできるとかいうよくわかんねえバランスなんすよ。
でもそんなの当たり前じゃないですか?
そんな当然のことに虚無を感じてるんですか?
私があなたの文章を読んで思ったのは、フェアな視点が圧倒的に欠けているということです。
建設的な議論を歓迎したいのなら、まず自分の思想の反対意見を全肯定してみてください。
その上で両者の思想を比較検討し、デメリット、メリットを把握した上で最終判断を下してみたらいかがでしょう。それが知性ある人間の行為だと私は思います。
社会は虚しい
→テレビやツイッターの議論を見て、世間のくだらなさを実感しているのなら、そのくだらなさを大前提とした上で、それでも人間はゴミなのか?できることや考えられることはないのか?と思考している人たちにも目を向けるべきです。
一歩引いて世間を見ることができるのなら、世間と自分という構図からも一歩引いてメタ化することもできるはずです。
そういった思考をしている人々は、漫画、絵画、プログラマー、音楽、科学や数学など様々な分野にいますが、一番わかりやすいのは文学だと思います。
あなたは人間をシステマチックに見ているくせに、小さい命にも、弱い立場の人間にも情を寄せていますね。
全ての人間が救われるべきだとか、
命は平等に扱われるべきだとか考えているのでしょうか?
でも周りを見れば人間は愚かで救いようがないし、現実的に真の平等を目指すと全人類思考せずにバーチャル世界で家畜化するしかないのではとか考えて、虚無になっているのでしょうか?
それ単純に考え方がクソ真面目なだけじゃないですか?
もし人間の平等を考えるのだとしたら、人間の不真面目な欲望も尊重するべきです。
戦争は楽しいし、いじめや差別は気持ちがいい。浮気はダメだと分かっているけど魔がさしてやってしまうし、結婚したら幸せが保証されるかもと思いながら三人に一人は離婚している。
でも全部欲望でそういうのも人間に必要です。背反理論であり、片方を全て取っ払うとか無理な話で、それも含めて人間として扱うべきでは?
それでも自分の理想を追うのだとしたら、それは理屈ではなく感情的な判断です。あなたの理屈を否定しきれないように、反対の理屈も否定しきれないので結局は感情に頼るしかありません。感情的な判断を下しているという意味では、あなたから見える世間の人たちと同レベルですね。
私もあなたも結局感情のレベルでしか判断できない豚で糞虫です。
脱線しますが、20世紀にウィリアム・フォークナーというアメリカの作家がいました。
彼は南部アメリカの架空の土地を舞台に、将来に絶望するしかない生まれも育ちも最悪な人間や、恵まれた人間も贔屓目なしに平等に描いてます。
いいことも悪いこともフェアに、淡々と現実を綴った彼は、ノーベル文学賞受賞講演でこう語ったと言います。
「人間は単に生き永らえるのではなく、勝利すると信じます。人間が不滅なのは、人間が生きとし生けるものの中で唯一疲れを知らぬ声を持っているからではなく、人間には魂が、憐れみを感じ、犠牲的精神を発揮し、忍耐することのできる精神があるからなのです。詩人に、作家に課せられた義務は、こうしたことについて書くことなのです。人の心を高めることによって、人間の過去の栄光であった勇気と名誉と希望と誇りと思いやりと憐れみと犠牲的精神を人に思い出させることによって、人が耐えることの手伝いをすることが、作家に与えられた特権なのです。詩人の声は、単に人間を記録したものである必要はありません。それは人間が耐え、勝利を得るための支えの一つ、柱の一つになることができるのです。」
こんな偉大な人物が人間を信じているのですから、大して考えてない行動していない我々が諦めてしまうのは早すぎると思いませんか?
掃除のために早めに出社しているのに、30分は社長のどうでもいいプライベートの話を聞く時間に取られます。
小さい子どもやお年寄りも来ていただくお店なので、コロナ対策で必死に毎朝消毒を行っているのに社長はマスクを外して盛大に唾を飛ばしながら喋る。
コロナが出たら店畳む覚悟でやってるんですよ!とマスク無しでお客さんに話しかける。
お客さんに渡すパンフレットも指を舐めてめくる。鼻もほじってるし唇の周りについた唾を手のひらで拭ってる。
奥さんも同じ会社で働いていますが、社長は自分の奥さんの一挙一動が気に入らないらしく、意地悪な言い方をしたり、あからさまにイライラしたり、私に愚痴を聞かせてきます。愚痴のときは何故か私が怒鳴られます。
ニコチン切れになるとお客さんだろうとイライラをばらまき始めます。
「わかんねーだろうけど」「しらねーだろうけど」と前置きして喋ります。
まあ正確に言うとガチャというものがゲーム界をぐちゃぐちゃにしたって感じだけど。
そんな事を言うと、おまけ付きの菓子とかだって同じだろって言う奴が居るが全然違う。
菓子なら食えるだろ、おまけは手元に残んだろ。それだけでも全然違う。
詫び石を配るという習慣を付けたバカな企業は論外でクズだし、それに媚びて乞食行為をする奴らはクズのまた更に下のクズにしかならんし。
「やらなきゃいい」じゃなく、やってしまうようなものを作るなっての。
だからバカみたいに金を使う奴らが増えたり、無課金サイコーだから詫び石出せよって言いまくってる阿呆が生まれる。
それにソシャゲのせいでコンシューマーが廃れるんだよ。PCに移植しているゲームだって廃れてきている。
ソシャゲみたいに土台がすでに出来上がってて、グラとちょっとシステムを弄った程度で金を搾取できるようなものばかり作ってるから
メーカーはまともにコンシューマ用のゲームが考えられないクリエイターばかりになって駄作ばかり生む。
実際どうよ。
昨今のコンシューマーなんか駄作ばっかりじゃねーか。ろくにテストもしてないくせにとりあえず出ましたってばりにクソゲーになってるものばかりだ。
ゲーム業界ネタをキャラゲーにしたら売れたなんて思い込んで量産しているだけのメーカーやら、
過去の栄光にすがってRemakeで開発してディスクたんねーよ3部作くらいにするわってRPGだしたらただの紙芝居ゲーだったり
人間いい歳になるとやる事無くなってきて、子供がいないと過去の栄光を追いかけるしかなくなる。
何というか自分だけの為に生きるのが辛くなってくるんだよね。
周りはみんな子育てしてちゃんとした大人になってるのに、子育てしてない自分はなんて未熟なんだとかそういう認識になる。
自分はSNSでシャレオツなパンケーキ載せてる時に周りは自分の子供や家族の話題って正直マジできついと思う。
子供がいる友達とは話が合わなくなるし、いい歳して子供がいないと世間の目もツライ。
そんな毎日に嫌になるんだよね。
DINKSだなんだと多様性が認められてるっぽい感じを世の中は出すけど、いい歳して子供いないとまだまだ人生も世間も厳しいんだよ。
みんなこの事実に早く気がついて欲しい。
め組は面白かった。惜しまれつつ終了して、バレエ話になったり、F1話になったりまあ一応読んでいた
面白いのは面白いんだけどバレエ話なんかは途中でぐだぐだになって中断
バレエ話は続編が出て、それなりに完結したように見えた。
ここまでは長期連載だし、アニメとかにもなったし順調そうに見えた
その次になぜかファンタジーを始めて、途中で移籍するような形になって、デジタル移行して終わった。
昔ほどの勢いがないなあと思っていたので、やむなしなのかなと思っていた
次の美女のラップ話は打ち切りになった。本人が打ちきりと言っているので真面目に打ち切り。内容もブチ切れ
それなりに面白かったけど、ラップってテーマが難しかったんだろう
思えばその前のファンタジーもテーマが難しかったんじゃなかろうか
そして先日め組の大吾が帰ってきた。どうみても続編。
あーって思った。
やっぱり最後の明確な打ち切りがショックだったんだろうか。最後の美少女漫画は最短6巻で見事に打ち切られてしまったし
一人の漫画家がだんだん前ほど売れなくなっていって、最終的に過去のヒット作の続編に手を伸ばすパターン
正直余り見たくなかった
よくある話なんだけど、初期から読んでいる読者としては、あの曽田さんが、過去のヒット作に頼らないといけなくなったのかーって思うと切なくなる
そういう人は多いし、たしかにこれだと生き残れる。
ハーメルンの人なんて、すでに続編を自分のサイトで会員制で提供していて、商業で描いてもない
みんなヒット作の後に別の連載を始めるが、結局ぱっとしなくて最終的には打ち切られたりなんかして、それを続けていく打ちに、禁断の麻薬、「ヒット作の続編」を出すのだ
コレが出たら、個人的にはとてもがっかりすると同時に悲しくなる
ここ数年脂肪肝ということもあり、コロナでの自宅勤務を契機に1日2食にして、朝食はヨーグルトだけ、昼食抜き、夕食は栄養士がデザインした宅配食にしていた
おかげで体重は10kg減。脂肪肝も徐々に改善中だ。ただこれのいけないところは体の抵抗力が弱ることと、クソがあまりでなくなることだ。本当にちょっとしか出なくなる。なんだろう完全に消化されているといえば聞こえはいいが普段どうみても栄養とは思えないクソのような要素も体の中に取り込まれているかと思うといい気分でもない。
ここ2日ほどちょっと気分を変えてカレーを食べた。普段の食事では出ないものだ。量は特に大盛でもないが、ひさびさに人並みのものを食べて少しいい気分だった。そして今日は仕事で少しいい結果を出すことができたので、ご褒美としてラーメンを食べた。
そして帰宅。自宅に帰ったことでリラックスしたのか便意を催してきた。おなかが痛いわけでもなく自然な便意。そして感動の時間が始まった。
最初は強く抵抗するクソの感覚だ。普段よりも太いクソが無理やり肛門を広げる感覚。そして直腸越しに感じる確かな重量感。直感で分かったこれはすげえのが来る!思いっきりキバる。年を取ってからキバると脳卒中になる可能性があるらしいが。ともあれ脱糞に集中する。溜まりにたまって別格のようになったクソがじわじわと体外に排出される。肛門と直腸からわきあがるさざ波のような快感。そして1本目が排出され・・・クソが切れない!すでに意識の制御を離れつつある肛門をねじ伏せるように収縮させて千切るようにひり出す。
・・・ヤバい奴が出た・・・。体に広がる問答無用の充実感。便器をのぞき込むと完璧な一本グソだ。密度が高く、ガチガチに固まってもなく柔らかくもなく完璧な硬度。大蛇のようにふてぶてしく便鉢のなかに横たわる極太のフォルム。こんなクソは1年に1回出せるかどうか。素晴らしいプロダクトを生成した自分の体に感激した。
しかし感動はまだ続く。1本目で出来らなかったやつが直腸をじわじわと降下する感覚。そうだこれだ。早く出したいとわななく肛門。出せるものなら出してみろお前のチンケな力でな、と嗜虐的な気持ち。必死にひり出す直腸と肛門。そして2本目排出。快感で体がブルブル震える。1本目と同じペースと品質で、そして1本目とは比較にならないほど短い2本目。強烈な快感。ああ・・・出た・・・。猛烈な達成感。脳からセロトニンがジョバジョバ放出される感覚がわかる。本当にいい脱糞をすると問答無用でわかる。快楽にまかせて「あひぃ~」と言ってみたりダブルピースするのもいいかもと一瞬思ったが、自分の感覚をマンガ的に茶化していて自分に誠実ではないような気もしてやる気になれなかった。外から見たら単に無言のままブルブル震えている中年だ。
もう直腸にはクソはほとんど残っていない。しかしあの快楽を味わっていたいのか自意識とは無関係に肛門が必死に脱糞するような動作を行う。ククク・・・ワガママボデーめ。気持ちのいいことというのは欲しい時には得られないものなんだよ間欠的不規則報酬を理解できていないらしいな。しかしあの快楽に未練がある体は必死に残りわずかなクソをひり出そうと蠢動する。まあそういう過去の栄光に必死にすがり付く姿も俗っぽくて嫌いではない。
いいクソの時は脱糞そのものの気持ちよさもそうだが事後の余韻もまた格別だ。大きな達成感と体の中から何かが引きずり出されてしまった喪失感が混ざったような感覚。フロー状態にも似ているようにも思う。体内に意識を向けるとなんとなく脱糞後小腸大腸などが再配置しているような蠢動を感じる気もする。しばし時間を忘れて身をゆだねる。
そろそろ体もあきらめたころにウォシュレットだ。む、ちょっと肛門が切れちゃったみたい少し痛い。まあでもいいやと思える。丁寧に洗って事後処理。
しかし改めてクソを見るとその存在感よ。堂々としている。かつて電気グルーヴが「我々は!太く!末永くいきたい!」と言っていたな。40を超えていまだこのようなクソが出せる自分が誇らしい。流すには惜しい。しかし残しておいても特に何のメリットもない。次このレベルのクソにいつ会えるだろうか。自分を高めていきたいと思いつつ流す。さらばマイベストオブクソ!
最初から環境に恵まれすぎてて、「反響がくる=いい作品を書けている」みたいな認知のゆがみない?
正直感想送るかどうかなんてそのときそのときのコンディションとかノリとか今めんどくさいとかいろいろあるし、
今までもらえてた感想ぜんぶがぜんぶ作家の実力の証明!なわけじゃないよと思うんだけど…
それが「感想来ない=いい作品を書けなくなった」みたいなのって、すんごい歪んでる…自覚ないのかなぁ…
恨み言言わなきゃ死にきれなかったのかな…みたいな印象もある 今まで読んでくれてた読者のことさいごにめちゃくちゃ傷つけてない?
いや過去の栄光には読んでくれてありがとねみたいなこと言ってるけどさ、ほとんど呪いじゃん…好きな人ほどつらいと思うなぁあれ 悲しい…
きっと作品公開した記事で「良かったら感想ください」とかもプライドが邪魔して言えなかったタイプじゃない?とか思っちゃうんだけど(よく知らないけど)
作品だけをアップすれば必ずコメントがつくことに慣れてしまってたんだろうなぁ ある意味うらやましい
ちょっとした広報の工夫で感想くれる率あがることなんて山ほどあるのに、今回追い詰められるまでそういう努力をする必要もなかったんだろうな…
とりあえず感想送るかどうかなんて読者に責任ないし作家にだってそれに関して全責任があるわけでもない、すべてはタイミングと運とノリだよ
創作者、つよく生きような
クラシック畑育ちの私がハロプロの存在を意識するようになったのは、一昨年の夏だった。Twitterでロッキンのモーニング女。のステージが話題になった時。炎天下の中、汗で前髪がしめりきっても、激しく歌い踊り続ける彼女達に圧倒されたのである。
それから、YouTubeで違法アップロードされているLive動画やオーディションの様子等を見るようになった。(いけない事だし、彼女達の為にならないから今はしてません。ごめんなさい。)
何より驚いたのは、彼女達の歌唱力の高さである。好きな歌手でも、Mステや紅白などLiveだと音程が安定しないのが嫌であまり聴くことがないのだが、ハロプロのみんなは音程を外す事が殆ど無い。その上でパワフルに歌い、更にはダンスまで見事にこなすのである。
彼女達は、全員がもともと歌が上手だった訳では無い。(もちろん圧倒的歌唱力をもって加入したメンバーもいるが)オーディションではあまり歌が上手かったメンバーが、卒業する頃には歌割が増えたり、卒業コンサートで1人で堂々と歌う姿には励まされる。しかし残念な事に、私がハマった人の殆どが卒業してるのである。
随分前に芸能界を引退された、あややこと松浦亜弥さんや、TVをあまり見ない私でも知っていたももちさん、そしてももちさんが所属していたBuono。どれも過去の栄光であり、今は活動されてないので応援しても彼女達にあまり貢献できない。
話は変わる。世間で今1番話題となってるアイドルは虹プロだろう。1万人のオーディションから選ばれた女の子達が、合宿等を通し更に磨きをかけ、その合宿のメンバーから更に絞りデビューするらしい(あってるかな?)
まさに今からの時代を駆け抜けるアイドルなのだ。今ハマれば彼女達に貢ぐ事ができる。厳しいオーディションから勝ち抜いた女の子達、自分が好きになる要素しかない。
周りの子はみんな虹プロにハマっている。私も手を出さばいいのに。リアルタイムで楽しめる喜びは今しかないのに。とっても惜しい事をしているのはわかっている。しかし私は「今は」虹プロに手を出すことはできないのだ。
この煽りの元ネタはとある絵師が描いたイラストで、内容はメガネをかけた青年が「すいません、三色チーズ牛丼の特盛に温玉付きをお願いします。」って口にしてるだけのもの
これが元イラスト
↓
https://i.imgur.com/y4hIO4q.png
・このイラストの青年の見た目が地味で冴えないという意味で「陰キャ」の特徴を見事に捉えていること
・注文台詞を早口でボソボソ喋ってそうなこと(後述の流行の経緯から見るとこれは副次的なもの)
こうした理由から主に匿名掲示板で煽りや自虐目的で使われる様になり、そこからまとめサイトを経由してTwitterでも使用される様になり、現在では日本のインターネットのそこかしこでこの画像やこの画像から発展した「チー牛」というジャーゴンが煽り目的で使われる様になっている
前述した様に元々は「陰キャ」の優れた表象として評価された「チー牛」だったが、今ではその立場が完全に逆転してこれまで「陰キャ」が使われていた場面でも「チー牛」が使われることの方が多くなってきた
もはや「チー牛」がインターネット界を席巻しており「陰キャ」はすでに過去の栄光になりつつある
そして俺はこの「チー牛」煽りが苦手だ
説明口調の長文を書く人や対抗言論を述べる人に対してこの「チー牛」煽りは使用される傾向にあるのだが、これって単純に気に入らない奴に「ブサイク」って言ってるのと変わらないんだよ
思い出してほしいんだけど、チー牛が流行ったのは陰キャ→ブサイク→チー牛イラスト→ブサイク→陰キャっていう循環的な連想があったからなんだよ
流行の初期は陰キャを自称する人が「俺マジでこんな顔だわ」って自虐を込めて貼り付けたり、「お前らどうせこんな顔してるんだろ?」と陰キャを揶揄する目的の人が貼り付けたりしてたのが「チー牛」イラストなんだよ
いやだったらそもそも大元の「陰キャ」からしてブサイクを揶揄する意味が込められてんじゃん?って指摘は当然起こると思う
それはその通りなんだよ
でも「陰キャ」にはブサイクだけではなく「根暗」とか「インドア」とか「内向的」っていう意味も含まれてて、そうした「陰キャ」の多義性が「陰キャ」煽りの精神的逃げ口でもあったんだよ
「陰キャ」煽りっていうのはそういう意味で致命的なものではなかった
だけど「陰キャ」から派生した「チー牛」は上述した通り完全に「(早口)ブサイク野郎」って言ってるのと同義なんだよ
これ本当に酷い致命的な悪口なんだよ
逃げ場がないんだよ
「(早口)ブサイク野郎」として世間から肯定的な承認を集める「チー牛」の英雄とかいないんだよ
なのに「チー牛」っていう可笑し味のある語感のせいでインターネットの至るところでこんな危険物が気軽に投げつけられる現在の惨状を招いてるわけ
本当にこれは酷いインターネットだよ
オタクはダメになった、オタクは死んだとかなんとか言われてる。
だけどこれは「サブカル好き」なら、だれもが知ってるフレーズなんだよね。
プロレス、ロック、小説、ラーメン、アイドル、いろいろあるけれど、大体「死んだー。死んだー」と、始終誰かが連呼してる。
ロックンロールは死んだ。
しかしロックンロールは別に死んでない。要するに自分の時代は終わったということだ。
そして「そんなに早く殺すなよ、おっさん」と、ツッコミを入れる人もたくさんいた。
終わっただの、死んだだのは「自分の居場所がなくなりつつある老害が言う」のである。
オールドな60歳ぐらいの、いまでも新日を見に行くプロレスファンに「プロレスって何回終わった?」と聞いてみたらいいと思う。
にやり、と笑って「数え切れねえなあ」と、いちいち聞きたくもない蘊蓄を教えてくれるはずだ。
さて、オタク業界についても「いまのオタクはダメだ。死んだ。終わった」と連呼している残念な人がいるが、その人たちの中で、果たして「第一線で活躍している新進気鋭のプロクリエイター」はいるだろうか? いないよね。だいたいトウが立ったうるさ型のダメになった人たちばっかりである。
せいぜい過去の栄光で飯を食ってる大御所はまだいいほうで、残念ながら一発屋ですらないかすりもしなかった人たちばかりなのだよね。
そして俺も「最近アニメが楽しくねえなあ」と思い始めた。どうしたらいいのだろうか?
教えてそこの偉い人。
へるぷみー。
絶対売れない。
こんなアニメがあったら胃に穴が開く