はてなキーワード: 社会とは
スーファミの試作機がネットオークションに出されて話題になっているが、一部では任天堂がその気になれば所有権に基づき試作機を取り戻せるのではないか、と指摘されている。
当方は法曹でもなければ法学部卒でもないが、民法の教科書を読む限りは、任天堂は遅くとも2015年11月23日にはスーファミ試作機の所有権を失い、試作機占有者が正式に所有者になっているのではないかと推測する。以下、条文の当てはめを示す。
占有者の所有の意思(自主占有)はいつ発生するか。この発生時期が取得時効の起算点になるため重要である。
時効により試作機返還債権が消滅し、代理占有関係が消滅しても、任天堂は試作機をなおも代理占有し続ける(204条第2項)。他方で学説は、占有代理人に「自己のためにする意思」も存在するときは、占有代理人において他主占有に加えて自主占有も併存しうるという(潮見佳男 民法(全)(第2版)(pp.245-246))。これに合わせて、所有の意思の有無は、占有取得の原因となった客観的事実(占有権原の性質)から外形的に判断される(最判昭45.6.18)という判例理論を考慮すると、試作機返還債権の消滅という占有権原の性質の変化から、占有代理人には他主占有に加えて自主占有も併存し、この債権消滅日を取得時効の起算点と自分は結論した。
(追記)
ブックマークコメントの指摘の通り、所有の意思が占有取得の原因となった客観的事実(占有権原の性質)から外形的に判断されるならば、試作機返還債権が時効消滅しても占有取得の原因となった客観的事実は変わらないのだから、引き続き占有代理人には所有の意思なしと考えるべきかもしれない。
しかしその場合、占有権原(使用貸借契約)に起因する債権(試作機返還債権)が全て消滅時効にかかってもなお任天堂が永遠に代理占有し続けうるということを意味し、法的な不安定性を社会にもたらしうると思う。別の解釈として、試作機返還債権を本人(任天堂)が行使せずに時効により消滅させたことを、黙示に代理人に占有をさせる意思を放棄(204条第1項第1号)したと位置付け、任天堂の代理占有が消滅し占有代理人から他主占有が消滅した、こういった具合に法律構成することができるかもしれない。但し、ざっと調べた限りこれを支持する判例や学説は見つけられなかった。
もっとも、オークション売主の言動を見る限り、ゲーム開発会社に勤めていた父親が退職の記念に持ち帰った試作機を相続により承継した子息が売りに出した、こういった経緯が目に浮かぶ。この場合、退職により父親が持ち帰った日にゲーム開発会社(占有代理人)は占有物の所持を失うことになり、任天堂の代理占有は消滅する(204条第1項第3号)ので、退職日が取得時効の起算点になるだろう。また、ゲーム開発会社が解散して試作機が外部に流出した場合は、同様の理由でその流出日が取得時効の起算点になるだろう。いずれにしても、取得時効の起算点は1995年11月22日よりさらに遡る可能性が高い。
(使用貸借)
第593条 使用貸借は、当事者の一方がある物を引き渡すことを約し、相手方がその受け取った物について無償で使用及び収益をして契約が終了したときに返還をすることを約することによって、その効力を生ずる。
第185条 権原の性質上占有者に所有の意思がないものとされる場合には、その占有者が、自己に占有をさせた者に対して所有の意思があることを表示し、又は新たな権原により更に所有の意思をもって占有を始めるのでなければ、占有の性質は、変わらない。
(期間満了等による使用貸借の終了)
第597条 当事者が使用貸借の期間を定めたときは、使用貸借は、その期間が満了することによって終了する。
2 当事者が使用貸借の期間を定めなかった場合において、使用及び収益の目的を定めたときは、使用貸借は、借主がその目的に従い使用及び収益を終えることによって終了する。
第166条 債権は、次に掲げる場合には、時効によって消滅する。
一 債権者が権利を行使することができることを知った時から五年間行使しないとき。
第186条 占有者は、所有の意思をもって、善意で、平穏に、かつ、公然と占有をするものと推定する。
2 前後の両時点において占有をした証拠があるときは、占有は、その間継続したものと推定する。
第204条 代理人によって占有をする場合には、占有権は、次に掲げる事由によって消滅する。
二 代理人が本人に対して以後自己又は第三者のために占有物を所持する意思を表示したこと。
1人出産と育児で戦力外になっても、残りの人間に仕事分散すれば別に人を増やさずに済むじゃん?
格下の女と格上の男との結婚が一番うまくいく
昔は女は社会的にも弱い立場だったけど今は社会進出してお金も稼ぐし社会的地位もあるからこういう図式にならず結婚そのものが大きく減少してしまってる
私はいつものごとくアルバイト先へ、夕刻の道を歩いていた。どう考えても尋常でない悪寒を伴いながら。
いざ出勤せんという時間になってそれはやってきたのだ。勤務開始の30分前に欠勤連絡などしようものならスタッフ及び社員に掛かる手間の量は半端ではない。職業柄、アルバイトでも当日欠勤は顧客に対する信用問題にさえなりかねない。
大丈夫、たった3時間のシフトだ。言い聞かせつつ、私はいつも通りの平静を保ったまま勤務を終えることができた。ただし、退勤する頃には割れんばかりの頭痛に襲われ、立っているのもやっとの状態であった。
徒歩20分の帰路をふらふらと辿りながら、「風邪」の2文字が脳に浮かぶ。いやこれどう考えても風邪ひいた。最近就活がストレスなのか眠れていないし、気温差もえぐかったしな〜毎年この時期はひきやすいんだよなあ。家に帰って属性鎮痛剤を飲み、体温計を持ち出す。38.5℃。知ってた。翌日もシフトが入っていたが、一先ず休みを頂く旨だけ連絡を入れ、その夜はそのまま泥のように気絶した。
問題はここからだ。普通の風邪なら2日も療養しておけば完治するのだが、どうも3日目あたりから様子がおかしかった。朝目覚めた瞬間から胃の不快感が止まらない。カラカラの喉に水分を求めてコップを手に取ればその場でえづく。顔の肌荒れがやたらと悪化する。首から上だけが妙に熱って眠れない。薄い布に包んだ保冷剤を顔中に押し当てながらそのまま数晩を明かした。何よりも体温が37℃台から一向に下がらない。そんな状態がズルズルと一週間は続いた。
やっと体温が平熱に近づいた頃、一通のメールがスマホを鳴らした。選考結果のお知らせ。二週間ほど前、それなりの好印象で終えたある企業の二次面接と、その後の適性検査の結果が通知されたのだ。その時点で就活持ち駒全滅を喫していた(思えばこれが一番大きな原因だった)私はなるべく期待を抑え、心を凪に保ちつつメールを開いた。
「残念ながら、貴意に添えかねる結果となりました」。
些細なようだが、メールの中のこの一行が、わたしの中にたった一つ残っていた蜘蛛の糸をぷつりと断ち切ったのだ。
話は一転するが、私は就活というものを始める前からひどく忌み嫌っていた。何が楽しくて人事担当に思ってもいない御託を並べて媚び諂い値踏みをされなければならないのか。何が面接対策だ。用意されたテンプレ通りの質問に用意されたテンプレ通りの答えを返して一体互いの何がわかるというのか。学生と企業がお互いの自然体を見てマッチングするというのが就職市場の本来あるべき姿のはずであろう。私の就活嫌悪は本格化と同時にどんどん深まっていった。エントリーシートを一つ、履歴書を一枚、志望動機を一つ書き上げるだけで心が死んでいく。書類選考やGDを通過しても、自然体で臨んだ個人面接ではいとも容易く落とされる。それなりに努力して第一志望の大学に受かり、それなりの資格を取り、留学までした結果がこれか。社会の中に私の居場所はない。ここまで出資をしてくれた親に合わせる顔がない。私の就活への憎悪は、だんだん自己嫌悪と希死念慮へ姿を変えていっていた。
そんな中、正体不明の体調不良でボコボコにされた末の最後の御祈りメールが、私に止めを刺した。
あ。もういいや。死のう。
もう何もかもどうでもいい。毎日毎日不安に怯えながら無理矢理眠るのも、社会に適応するふりをするのも疲れてしまった。すべての責任を放棄して無に帰りたい。
その時の私はいやに冷静で、具体的な時期を吟味し始めた。直近2ヶ月間は大事な人たちとの楽しい予定が詰まっている。その予定をすべてクリアしたら、そこで終わりにしよう。
終わりが決まっていれば、あとはそこまで耐えるだけだ。
全てを放り出すことへの後ろめたさはありつつ、私の心はどこか晴れやかであった。
4月初日とかGW明けに利用急増してるらしい退職代行だけど、賛否両論あるよね。
XのTL見てて思うのは、なんでみんなサービス自体に「あり」か「なし」かっていう視点で論じてるんだろうね。
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昔自分が使ったことがあるのは、大学時代の飲食店のバイトでした。
飲食店らしく普通にブラックで、週5日/24~30時間勤務が当たり前。シフトを減らそうとしても半強制的に出勤させられ、シフト提出してない時間に入れられることも。
その時は自分から「辞めたい」って2年半働く中で2回伝えたことがあるけど、なんやかんや言いくるめられて辞めさせてもらえなかった。
就活が迫って、選考対策とかしないといけないのにシフトに拘束される毎日。
精神科に行くと躁鬱の傾向が見られるって脳の検査で診断を受けました。
あんなに自分を縛っていたバイトから解放された時は、正直実感がなかったです。
それ以降、人生が好転して就活もでき、今は第一志望の企業で働いています。仕事は充実していてとても楽しいです。
働いていた時から友人に「ブラックだよね」、辞めたと伝えたら「本当に辞められて良かったね」と言われたバ先からなんとか逃げ出せたのも、退職代行のおかげ。
自分は退職代行サービスに救ってもらった身なので、このサービスに存在価値は本当にあると思います。
一方で、新卒が初日から使ったり5月病を理由に使うのは、あまりよくないとは思うんです。
当たり前だけど辞めることは正当な権利で、それ自体は何も悪く無いと思います。
けれど、特に新卒の場合、多分会社に「辞めます」の相談もしてないんじゃ無いかな?
本当にそこが自分に合わない会社なのかどうか、判断する能力がないうちから辞めても、その後どこなら合うのかわからなくないですか?
「石の上にも3年」は古いかもしれないけど、ある程度は耐える能力も必要だと思うんです。
ってここまで書いた内容は散々議論されたであろう話。
残念ながら世の中にはまだまだブラック企業が存在してる以上、退職代行サービスはあって然るべきだけど、使い方は考えないといけないよね。って言えば済む話じゃないですか?
タチが悪いのは、YouTuberとかは「退職は当たり前の時代!」みたいな感じで退職代行使う人を応援してること。
時代の流れ的に「最低でも3年働け」っていうと炎上しそうだし、リスクマネジメントは完璧だと思う。
けど、言っちゃ悪いけど入社してすぐ退職代行使うような弱い人はそれを真に受けちゃうと思うんです。
そして、当たり前だけど退職代行を推奨するYouTuberは私たちの人生の責任をとってくれません。
入社初日で退職代行使っていいのなんて、給与条件が入社前に聞いていたのと違ったり、社宅って言われてボロアパートに共同生活させられたり、事務職の募集なのに工場で勤務させられたりとか、それくらい酷い会社じゃないと良くないと思います。そんな会社存在するわけないんですけどね。
自分の人生を自分で責任取るためにも、ある程度耐える力を養いつつ、マジでやばいところからは逃げ出すための手段として、退職代行とはうまく付き合えればいいと思うし、そのためにもこのサービスを0か100かで論じてるのが本当にナンセンスだなと思います。
最後に2つ。
辞めるっていう決断をしたんだったら、ちゃんとしたところに頼まないと後で大変なことになると思います。
ちょっと高くても弁護士か労働組合が運営してる所のやつ使って、確実に辞めましょう。
俺もバイト辞める時は「こんなちゃんとしたところで辞められるくらいお前らはブラッククソ店だよ!」とバ先に中指立てる気持ちで辞めました。
次に、新卒のみんなへ。
俺も新卒です。正直社会の厳しさを知らないので、上の文章はまだまだ楽観的かもしれないです。
けど、ちょっと辛くても頑張って成果出せれば、それもいい思い出に変わると思うんです。
やりがい搾取って思うかもしれないけど、全く努力なしに成功なんてあり得ないと思ってます。
1ヶ月経ってそろそろ週5で働くしんどさを感じ始めてるけど、一緒に頑張ろう。
すまん、私そもそも元増田が主張する「たわわはポルノではない」っていう主張の根拠が、わからなかったので、もう少しわかりやすい形で意見して欲しかったの。
私の認識としては「たわわ」はポルノとまでは行かなくても男性向け性的商品、ソフトポルノに近いという認識をされていて、その事が諸々の批判を浴びたという理解なので「たわわはポルノではない」という意見が正なら批判は自動的に負になる。この辺りの意見をまず確認したいなあと思った。私の意見を批判する具体的な根拠を示してほしい。他のブクマでは引用不足でも根拠を述べて批判してる。これだと私もどこが間違いで反省できるし。
「要約すると悔しかったら活動家になってみろ(笑)で合ってます?
活動家になったところで女さんの男に対して何を言ってもいいみたいな口と性根の悪い連中はなんも変わりませんよ」
この意見に関しては私としては「活動家のように具体的な行動はした方がいいよ」と答えます。他の投稿でも書いたけど女性は昔は、性暴力受けたら被害者にも関わらず「傷物」って結婚しにくいなど社会的にも重篤なハンデ背負ってたけど、そうゆう性暴力にNOいう女性団体のおかけで、実名顔出しで性犯罪告発できる現代にはなってる。主張することで利は得てるんよね。世の中ネットにいる人ばかりでなく、色んな企業や団体や人がいて、そういうネット以外の人に自分の意見知らしめるためにもある程度のコストは払ったほうがいいと思う人なのよ。
「現実の誹謗中傷を禁止する法律やネットのマナーとして既に定着してこういうのやめましょうねっていうの一番ガン無視してる属性が女でありフェミニストなんだよ」
本当に実際こうゆう人無くしたいなら、相手を法律に則って訴えるしか減らす手段ないのよ。効果見えなくてもネットのマナー訴え続けるしかないと思うのよ。無礼なこと言った相手は変わらなくても、他の社会の人には理解されて性暴力反対訴えた女性団体みたいに、世の中自分の属性の有利に変えれる可能性は0ではない。
俳句が"情念"や"私"を盛る器たり得るか? というのは、増田の言う通りあるあるネタだと思うが、正直情念マシマシの俳人もいるので、情念一本槍で説明するのはちょっと難しいんじゃないかと思う。というわけで、自分の好きな情念系の俳人、三橋鷹女の句を紹介したい。
あまりにも有名なこの句。なんというか、余りにもぎょっとする一句だ。作者は秋の夕方に燃え上がるような紅葉の樹をただ見ているだけだ。しかし、その樹の美しさが作者の心中と出会って化学反応が起きる。「この美しい秋の夕暮れの紅の陽の中で、こんな燃え上がるように輝く紅葉の樹に登ったら、私の中の何かが身を焦がし、たちまち目はつり上がり口元は避け頭には角が生え私は鬼になってしまうのではないかしら……」と考えるという、そんな俳句だ。想像できるだろうか?
たとえば妖艶な女性が秋の夕暮れ、紅葉を見ながらほんのり微笑んでるわけだ。(できれば舞台は京都とかその辺の古都であってもらいたい。)やあ、紅葉がきれいですねえ、なんてうかつに声をかけると彼女はにっこり笑って、「そうですね、きれい……あんまりきれいで…」と何か言いたげに言葉を濁す。ここでついうっかり、え、紅葉好きなんですか、なんて下心を出して聞いたが最後、「いえね、あんまり燃え上がるようにきれいだから、この樹に登ったら全身火に包まれてしまいそう、そうして大声で叫ぶ私は、まるで鬼になったように見えるかしらなんて思うと面白くて……」などとやべー妄想を全開でぶちかまされるからだ。考えてみてほしい、鬼になるかどうか、とか以前に、美しい紅葉を見て「その樹を登ったら…」なんて想像をする時点で(まともな大人でそんな奴、いるか?)もうこの人尋常じゃないヤバい系の人なのだ。紅葉を見たら、駆け上る想像をせずにいられないくらいの、この人の身を焦がす情念っていったい何だろう? 恋か。恋だとしたら、どんな恋なのか想像するだにオソロしい。一方でこの「燃え上がる樹に包まれて鬼女になる」というその妄想自体は、余りにも凄絶で美しくてカッコいい。自然・風景と一体化しながらも、この人の情念はまったく矮小化も定型化も減量もされず、読む人の心を打つ。
これにビビっと感じてくれたかもしれない人のために、もう一句だけ鷹女の名句を紹介しておく。
ただそれだけ。まあ、露ははかない人の命の比喩でとか、白露はことに露が美しい秋の季語だとか、そこから作者の人生も秋にさしかかっている立場で詠んだ句であろうとか、まあそういう教科書的な講釈はいい。いいと言いながら一応一通り言ったけど、それより、スッとこの句を眺めてほしい。そこに立つ、一人の女性の姿が鮮やかに立ち上ってこないだろうか。
和服の着付けというのはなかなかの苦労だが、帯を締めるというのはその仕上げの工程に当たる。この句で「帯を締める」というのは、普段から服の手入れもぬかりなくし、朝からきちんと身支度をし、化粧もふさわしくして、そして最後にキュッと帯をしめるまでの一連の工程の総称だと考えられる。これまでも、これからも、そしていつか死んでゆく日にも、私はこうして帯を締めて(そうして死んでゆく)、という( )内の聞こえない言葉が、「帯締めて」という言い差しによってかえって響いてくる。女性としての自身、当時の社会との軋轢、様々なものを一身に引き受けながらすっくと立つ一人の人間としての強い思いが伝わってくるようだ。
「死ぬにはいい日だ」なんて言葉もあるけど、常在戦場の心構えというのはそういう何気ない言い回しの中にあるものなのかもしれないと思う。それになぞられるというわけではないのだけれど、この「帯締める」行為も何だか戦いに備えて自分自身を隙無く装っているような、そんな雰囲気が漂っている。こういう「私はオンナよ」みたいな、固定化されたジェンダーの内面化って昨今あまり流行らないんだけど─まあ軽やかに変化し続ける自己というのもそれはそれでもちろんよいのだけれど─人が成熟の深みとでも言うべきものに到達するには、ここまで強く深く「私は○○○だ」という意識を自身に刻み込み、時を重ねる必要があるのだろう。そんなこの人の「覚悟」みたいなものを、「死」の一字がぐっと引き締める。誰にも文句は言わせませんよ(ニッコリ)、という体で、これまた見事な情念の世界だと思う。
どうだろう、こういった情念・個性の強さ深さというのは、なかなか短歌のそれに劣ったものではないのではないだろうか。
そうしてみると、結局増田の言う”情念”も、それぞれの作家性に拠る部分がかなりあるということも理解していただけるのではないだろうか。鷹女の句は、俳句の王道を決して踏み外してはいないけれど、輝くばかりの個性と情念に満ちあふれている。もちろん、増田の言う、短歌と俳句の出発点となる発想・捉え方の違い(ほとんど真逆)、それに基づく「短歌やりすぎると俳句作れない」という主張もそれなりにもっともだと思う。ただ、だから俳句には情念が盛れないと言われると、いやいやそんなことはないんだけどなあ……と思ってしまうんだよね。
フェミニストは結婚したり子供もいたりするし自分で働いて稼ぐ強者側が多いだろ
よく他人に向けて「死んでも謝れない病気か?」なんて言って煽ってるやつじゃん
当然だよ
みんなが罪人、みんなが過ちを犯しているんだから、謝ることは恥でもなんでもない
むしろ、過ちを認めて反省することが素晴らしいんだという意識だ
中には、自分は何も過ちを犯してないという人もいるだろう
おめでとう
けど、残念でした
みんな罪人です
しかし、車は必ず人を殺す
ながい!
例の如くサンキューGemini
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## 独身で子供に慕われる「おもしろおじさん・おばさん」になるための難しさ
子供の頃の私は親の知り合いや親族の中にいる「独身の、おもしろい、話が通じる、頭の柔らかな大人」がとても好きだった。かなり懐いていたように思うし、その人物たちはほかの子供たちにも大人気だった覚えがある。
私は結婚する予定が現在なく、自分がそのルートに乗っかっていく可能性も一応検討しておいた方が、後々のためにも幸福かもしれないと思い、最近つらつらと考えているのだが、意外とハードルが高いのかもしれないと気づきつつあり、怯えている。
まず、子供のそばに置いてもよいという判断を親からもらえるレベルの社会性や身分の保証が必要である。
次に、友人や親族が続々と結婚や妊娠・出産のラッシュを迎えていても同調圧力や社会規範に屈することなく、あくまで朗らかに緩やかかつしっかりとした関係性を築く。
そして、子供たちの流行やその世代におけるなんとなくの暗黙の了解、社会的なルールやタブーをアップデートし続けることで、頭の固い親とは違った唯一無二のポジションを獲得する。
意外とステップも多い。その上、実は二つ目の、社会規範に流されない、卑屈にならずにちゃんと接しやすく親しみやすい己を整えておくことで好かれるように努力する、という手順。実はこれこそが曲者で、みんな自分ならできるだろうと軽んじているのに、最も難しく、乗り越えがたいハードルなのかもしれない、と薄ら理解し始めてしまった、という話である。
人手不足の時代である。一つ目の、定量化できる身分の保証が一応の定職があるということを指すならば、そこまで実現は難しくない。ちゃんと食い扶持さえ稼いでいて、そこそこやっているように見せられればある程度はよさそうだ。
三つ目の子供たちの暗黙の了解の獲得はとりあえず、ちゃんと相手の話を聞くことと独身ゆえの身軽さを利用して、インターネットなど社会に広く開かれた窓口を往復しておくことが重要だろう。また、自分が若い頃の文化について体系的に話せたら、おそらくそれなりにはおもしろがってもらえるのではないだろうか。よほど話が下手で聞いていられないほどではない限り、親というものは権威があるので、子供と同じ目線に降りて自分の若い頃の情熱や失態を話せないから、親と同世代の自分がきっと楽にかっさらっていけるのだ。
じゃあ、自分のケアをして愉快な接しやすい人格を保っていられるか。ここがどうやら思っていた以上の難関なのだ。
というのも、現在アラサーの私の友人や知り合いの動き方を眺めるにつけ、人間というのはかくも一貫性を保つのが難しいのかと実感するからである。
彼氏を作った友だちに呪詛を吐き、結婚式を唾棄していた女性がいつのまにか結婚する。ポップな女嫌いをつぶやきまくっていた男が唐突に結婚相談所に登録する。恋愛がわからない、自分はひとを好きになれないと悩んでいた友人が、その悩みがどこにいったか、なぜ解決したのかの経緯を説明することなく嬉しそうに同棲中の部屋の写真を見せてくる。こういった流れに対して、なぜか私と同じ身分の者たちがどんどん卑屈になっていき、他者との関わりを絶ってしまうのだ。
私は先述の通り、愉快なおもしろおじさん・おばさんポジションが欲しい。まぁ、実際に得られるかはわからないが可能性はとりあえず残しておきたい。なので、上述した人々はまさに格好の獲物である。「あなたのお母さん、昔は彼氏持ちのひとを心底羨んでてね……」「お父さん、若い頃は結構おもしろい荒れ方してたんだよ!」「好きになることわからないとか言ってたけど幸せそうでなによりと思ってるわ〜」など、密やかな秘密の話としてポップに子供に吹き込む、毒にも薬にもならない存在を目指すのに楽だからだ。当人たちは自分の子供にそのような話は決してしないだろうし。「お父さん/お母さんには内緒ね!」と告げたときの相手のきらきらとした目が見たい。
でも、仲間がどんどん消えていってしまう。なんなら消えている期間に自分もパートナーを見つけて、何事もなかったように戻ってきて、私の次の獲物に変貌するひともいる。それはそれで構わないのだが、帰ってこなかった「おもしろおじさん・おばさん」候補はどこへ消えてしまったのだ。というか、なぜ消えたのか。これではどんどん私がマイノリティになっていってしまうではないか。
と、ここまで至ってなるほど、自分自身のケアをして揺るがない自我を築いていくという作業は思っているよりも難しいのだ、という結論を得た。周囲の「結婚ラッシュ」に焦る気持ち、自分は出来損ないなのではないかという劣等感、現実が見えなくなり狭窄になっていく感覚、なんとなく慢性的に存在する不安感。こういったものに抗うのは、意識的でなければ、人間は全員ちっぽけなので、不可能に近いのだった。
いまの私は、まぁたぶん、まだこのビッグウェーブに呑まれていない。そう信じたい。なので、一応おもしろおじさん・おばさんポジションの候補にはなれていることだろう。未来のことはわからないので、もしかしたら文字通り「闇落ち」を迎え、候補者リストから外れるかもしれないが。それは考えても仕方のないことだ。
最近は休日にひとりでドライブをしたり、写経をやっている。また、ジムにも通い出した。そして、編み物にも手を出している。映画も観るし、若いアイドルたちにもおそらくほかの友人よりは詳しい。こんなことを続けながら、自分自身の心のケアをしておくくらいしか、おもしろおじさん・おばさんルートは開かれないのだとしたら、それはまるでライトな修行僧のようではないか。実際に結婚や妊娠・出産とも縁遠かった結果として開かれるルートではある気がするので思っているよりか近い存在なのかもしれない。
幼少期に懐いていた「独身の、おもしろい、話が通じる、頭の柔らかな大人」にもこんな苦悩があったのかもしれないと思うとなかなかの感慨である。そして、だからこそ、わりと寛容な人格者だけが残り、子供からちやほやされていたのだなぁ、と思う。結果だけを見たらお気楽そうにも見えるが、努力をしたからこそ得られたボーナスポイントで若い世代からの支持を得られるのだろう。
好きなもの否定が嫌な気持ちはすごくよく分かるけど嫌いなものを勝手に好き扱いされるのもめちゃくちゃ嫌だって叫びたい。
好きな漫画の話題でスラダン挙げると「映画よかったよね〜」って未だに言われるんだが、スラダン映画はどうしても無理で勝手に好き扱いすんなと思ってしまう。原作者が脚本・監督だからって原作好き皆が受け入れると思い込まないで欲しい。自分は原作改変箇所が悉く嫌いで、あれは原作とは別世界のお話だと思うことにしてる。スラダン以外で原作好き=原作改変もりもりメディアミックスも好きって決めつけられたことなくてスラダン映画好きに身構えるようになった。
実際話振られたら「OPめっちゃかっこよかった(これは本心)」って返してる。あと「観てない(嘘)」って言うとメチャクチャおすすめされる。社会性マックスにして話合わせちゃうとスラダン映画への熱い想い(主に宮城かっこいい)を語られたりするが早く終わらんかなと思いながら笑顔で相槌打ってる。その熱い想い以上に熱い想いで悪態つけるが我慢してるので褒めて欲しい。
余談だけど昔からのスラダン好きの中で声優変更への愚痴は受け入れられてて、エピソード改変が無理って意見は少数派なの釈然としない。本当に原作好きでいらっしゃる?