はてなキーワード: ジャストとは
夏前までダイエットしてたのに暑くなって諦めてしまってまた体重増えたので明日からダイエットする。
暇だったら増田に報告しようかと思う。
来年の3月にベトナムのリゾート地に行く約束をしたので、それまではダイエットを頑張ろうと思う。
体重計、Apple Watch、ニンテンドースイッチ(リングフィットアドベンチャー、フィットボクシング2、ジャストダンス2022サブスク加入済み)、ウォーキングマシン、フィットネスバイク、あすけん(サブスク加入済み)、プロテイン。
・毎月3〜4%、計12〜15%の体重減少。(一応書くと15%痩せたとしても健康体重の範囲内。つまり現在当然太り過ぎ。)
・Apple Watchのムーブ(基礎代謝の4割)、エクササイズ(60分)、スタンド(12時間)のリングを毎日達成する。
・タンパク質を多めに摂る
・毎日湯船に15分以上浸かる
・夜寝て朝起きる
ダイエットがんばるぞ〜。
なんだっけ。忘れないうちにメモ。
最近、ゴッホの絵画など芸術作品にトマトスープをかけたり、ウォーホルのアートカーに小麦粉をかけたりする気候変動対策を訴えながら過激な抗議活動が耳目を集めている。
ブクマもよくされているが、ほとんどが環境テロ、という認識で眉をひそめたコメントにあふれている。
もちろん許されない犯罪として国内外で報道されているわけだが、しかし、海外のメディアでは、テロという表現(ラベリング)は少なく、抗議団体が自称するCivil resistance(市民的抵抗)という表現を紹介していることが多い。正直、この種の活動で昔から有名なグリーンピースもそうだが、テロ呼ばわりされてもおかしくない運動ではあることは確かだが、報道はニュートラルに構えているのだろう。
そんなおり、斎藤幸平が、「ゴッホ名画にスープ投げ」を理解しないのは、日本人の想像力の欠如だ、と述べてブコメから総すかんを食らっていたのをみかけた。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/toyokeizai.net/articles/-/631285
しかしそもそも、テロという認識が日本では強いのはわかるけれど、実は欧米での反応というのはそれほど強くなく、むしろ彼らが自称するCivil resistanceへの一定の理解の上に立った報道も多く見受けられるように思える。
https://time.com/6234840/art-climate-protests-margaret-klein-salamon/
そして、よく考えると、そもそもテロまがいのデモというのは、現代の人権の歴史を振り返ると、一定程度、社会変革の不可避な副産物として、憲法などのシステムにビルトインしてきた経緯がある。典型的かつ最初の事例は、20世紀初頭の資本主義社会における労働環境を前提とした社会権。
https://artnewsjapan.com/news_criticism/article/508によると、世界的な環境活動家グループ「Extinction Rebellion」の共同創設者であり、ジャスト・ストップ・オイルの活動に加わっているサイモン・ブラムウェルは、アートニュースのインタビューで、若い活動家がこの抗議行動のスタイルを選択した理由を次のように説明する。
「これはアートの美しさを否定するのではなく、今の私たちの優先順位が絶対的におかしいということを言いたいのです。アートに美を見出し、ギャラリーを訪れる人たちがいる。にもかかわらず、消えつつある太古の森の美しさや、日々絶滅していく何百もの生物たちには目を向けないのです」
アートの美しさを否定しないといいつつ、美の概念の相対化というか、再構築といった意味では、形而上学的な禅問答である。
この説明を聞いて、素直に納得できる人の割合が多いか少ないか、という視点でみると、ヨーロッパに比べると恐らく日本人は少ないだろう。
アリストテレスの時代から愛だの美だの徳だのといったことをテーマに発展した形而上学から学問が枝分かれしてきた欧米と、近代以降のすでにたこつぼ化した個々のジャンルとして完成形をみた成果を受け取ってそれを解読して発展してきた日本では、こういう抽象的なテーマの抗議の趣旨を理解できるのは圧倒的に少ないだろうと想像できる。
これは、作品の美の価値が分かればわかるほど、スープをかける行動の意図もわかる、という構図でもあり、実際、被害を受けた美術館が環境問題の意義に言及するなどしている。作品に接したこともなく、それこそ「ウォーホル」だ、「ゴッホ」だと資産的な記号程度にしか理解していない人ほど抗議行動の意図自体を測りかね、なんじゃこの奇行は?という反応になっているようにみえる。
そういう意味では、当然、環境急進派の行動は、そもそも抗議の意図が分からない地域では成功しない(日本ではテロ以外の認識は生まれないだろうし、絶望的に無理だろう)。
しかし、欧米では、意外と功を奏しているのかもしれないと思える。感心はしないが、ああ、なるほどね、くらいの素養のある人は日本よりは多いだろう。
おおざっぱにいうと、日本人は経験から教訓を得て社会設計をしていくのが得意。いわば帰納法的な解決が染みついている。一方、欧米、ひろくラテン系言語圏含めて、日本人とは比べ物にならないほど、なにかにつけ演繹的な入り方をする。言葉の定義から始まり、指導原理を引き、タスクを明示する、という物事の進め方へのこだわりが強い(日本人の自分からみると)。
一方、構造化された概念、ルール化された行動原理(法)にのっとって行動する、という相互の信頼がないと不安なのが欧米社会。そこに、デモや過激な運動の機会に、自分たちが共有していない別の概念がオルタナティブとして提示されたときにみせる反応というのは、おのずと異なる。
そのもうひとつの理由が、市民的不服従という考え方や人々の認識の違い。
欧米では、恐らく日本人が想像している以上に、Civil resistanceというアプローチ自体の価値を社会変革のダイナミズムとして認めている。
それが今回の場合、限度を超えたものであり、法的に違法である、というときに、運動の趣旨は理解はするが違法である、という具合に飲み込みながら。
この違法性というのは、実は重要な視点。それを理解するには、市民社会を根本から支える憲法など、法について考えないとわからない。
近代から現代へ20世紀に法の考え方が近代法が大きくバージョンアップした際に、社会権が組み込まれたのは、中学生で習う話。
日本の学校では昔から、社会権を生活保護など、上から目線な形で教えてきた傾向があった。
しかし、社会権のうち、争議権を思い出してみればわかるように、実際はボトムアップな契機をはらんでいる。
他者危害禁止の近代法の原則をはみ出した形で、ストやピケなど市民的な抵抗の暴力性を認める市民権が存在する。
考えてみれば、他者に損害を与え暴力的な行動をとっていい、というのが「労働」に関してのみ例外的に憲法に組み込まれている、というのは、よくよくなぜなのか歴史を知っておく必要がある。一歩間違えれば、革命のトリガーになりかねないボトムアップの暴力。これをあえて憲法に明記するのは、明記することでコントロールしたいという、上と下のせめぎ合いのようなものも感じる。しかし、なんだったらいつでも政府がおかしければ転覆して革命をおこせるんだぜ、と市民に思わせておく、オーナーシップ感覚を絶妙なバランスで持たせる機能を果たしているともいえる。
マルクスの時代、そしてワイマール憲法の時代、社会権を育んできた思想運動や社会の歴史のなかで、当時「労働」が最重要課題で、社会権の大きな柱として考えられたのは自然な流れだっただろう。抵抗の暴力は、労働問題を争うツールであるというのが20世紀だった。しかし、抵抗の暴力は資本主義社会のなかで、たまたま労働がキーワードになっただけであって市民社会としては、労働である必然性はない。20世紀には「環境」といったテーマはシステムにビルトインされなかったわけだけど、80年代後半にブルントラント委員会が「我ら共有の未来」といって今日のSDGの原型となるコンセプトを立ち上げたときに、労使間に代わる、世代間の闘争といったことがテーマになりうることはうすうす予測がついていたように思う。
なので、抵抗の暴力が労働問題ではなく、環境をめぐる世代問題だとしても、その新たなムーブメントの市民社会における意義が注目されるのも自然な流れだ。
ここで、はい違法です、はいテロです、といってしまうのは簡単だが、思考は停止する。
一方日本では。
「労働」というキーワードで戦後、日本ははじめて市民的不服従の権利を手にした。市民社会における抵抗という考え方に「労働」というコンセプトが、時代の要請でむすびついていた、というのは押さえておくべき文脈。
しかし、その権利の過激な行使は、1950年代から60年代、大衆の心を猛烈にイラつかせた。
日本の高度経済成長を支えた大手企業は、大規模な争議に悩まされた。
民間では、1960年の三井三池炭鉱紛争など半年を超える争議も珍しくなかった。しかし、ほぼ100%ユニオンショップで、従業員全員が労働組合員という会社組織風土のなかでは、会社は家族みたいなものであり、労使一体みたいなのが当たり前であり、60年をピークに民間の争議はピークアウトする。そのなかにあって、国鉄だけは年中行事のように、順法闘争やストライキを繰り返して市民生活に甚大な影響を及ぼし、会社のみならず社会的に損害を与えた。さらにベトナム戦争反対や成田闘争など、新左翼の政治闘争が加わっていくなかで、日本人のいら立ちは頂点に達していく。
国鉄やら共産党やら新左翼にひどい目にあわされた、という日本社会のこの経験というのは、争議だなんだといっても社会に迷惑をかけてはいけない、という教訓を強く残し、憲法に組み込まれた暴力的な契機をできるだけ抑制的にするべきだ、という認識が支配的になるきっかけだったんだろう。1973年の最高裁は、それまでリベラルと保守の裁判官の間で揺れ動いていた官公労組の争議権の是非について、完全に保守化の方向に舵をきり、封殺する結論に至る。公労協のスト権奪還スト(1975年)を時代の潮目に、公社の民営化路線が進められていく。争議権だかなんだが知らないが、憲法に書いてあったとしても、市民としては正直、うんざりしてしまったというところだろう。戦後、長い間、政治闘争の旗手として大きな存在だった総評、そしてその大半を国労が占めていた時代は終わる。
ということで「労働」をキーワードにせっかく手に入れた不服従の暴力は、迷惑をかけんじゃねーという市民社会常識を繰り返し強化する経験を重ねることにより、空洞化した。
その後の日本社会では、エスタブリッシュメントと化して長い間、社会運動の先頭に走っていた労組が今度は勢いを失うと、どういうことになるか。
例えば、正規雇用、非正規雇用のギャップみたいに新たな問題が浮上してきたとしても、ユニオンショップに非正規も入れてあげたほうがいいんじゃない?、という手続き的な、上から目線的な議論の仕方に収れんしてしまう。日本社会があまりにも保守化してしまって、そもそも争議という暴力的な手法は何のために憲法というシステムに組み込まれたのか、根本的な思想がわからなくなってしまっているようにも思える。言い換えると、憲法をさらにメタな視点からとらえる思想的な背景がさらに弱くなっている。
歴史を振り返ると、20世紀初頭、メタな視点があったからこそ、資本主義社会の現状と課題に即して、社会権という新しい権利が組み込まれたのだが、現行憲法を頂点とし、人権の普遍性や憲法の最高規範性を強調してしまうと、憲法の思想の根拠はと問われたときにフリーズしてしまう。日本では制憲者の意思の議論は起こらず、代わりに基本書読め、といってなぜか憲法学者に振られるのが定番。(制憲者があいまいなのも諸悪の根源かもしれないし、ステートに対するネイションのオーナーシップの違いとも思える。)
欧米の環境運動というのは、あるいはLGBTも同様だけど、恐らくそうじゃないんだと思う。
既存の規範に書いてないものであっても、新たなムーブメントの意味を真剣に見極めようとする思想文化があるんじゃないと思える。
そのムーブメントの暴力性を違法と認識しつつも、時代のダイナミズムとしてとらえようとする、というか。
繰り返すと、
・美の概念など、概念の構想力、概念について深く考えたがる文化の違い。
・憲法など国の根本的なシステムのアップデートするのに必要な社会のダイナミズムへの関心の低さ。
この二つをひとまとめにして、斎藤幸平氏のように想像力の欠如といってしまえるのかもしれないが、因数分解すると、社会設計をするのに基本的に重要な2つの能力、この二つには欧米社会と大きく差があるように思える。
ネット通販で服(ジャケット)を買うのに、サイズのおすすめを確認した
Mサイズは普段購入しているサイズから1サイズ・ものによっては2サイズも小さい
不安になりつつもレビューをチェックすると、自分と似たサイズ感の人がLを購入し、やや大きめと評価していた
自分より大きな体型の人がLで大きいと評価しているものもあった
うん、ピッタリで着れる
肩幅もジャストでウェストシェイプもこれくらいが綺麗に着れるのだろう
しかし、何かしっくり来なかった
普段からオーバーサイズを好んで着ているため、ジャストサイズが妙に窮屈に感じる
それと頭・顔がデカイので、肩幅がたとえジャストでも小さく・みすぼらしく見えてしまう
ここ数ヶ月気合が足らない
もっと殺してもっとビビらせろ、国民はダレきってる、慣れって怖い
どこいってもがら空き最強。
俺は2020年の夏にはただの風邪と見切っていたので休みの日は普通に子供と出歩いてた。
車は持ってないので電車を使う。どれ乗ってもがら空き。
京都鉄道博物館、館内に4,50人
帰りの電車もがら空き、疲れ切ってるが遠慮なくシート独占して横寝。
なんなの地球www息子のために回してくれてんの?w
それがなんだ、今年の春先から増え始めた。
電車は混んで座れない、鉄博は数千人、万博広場数千人、滑り台は行列
後遺症?なにそれ?
保育園から幼稚園への端境期で休み20日間があり、ジャストタイミングここで食らった。
入園式にはギリ間に合った。
なんなんだこの最高のタイミングw
6,7月に幼稚園がパンデミックになったけど我が家は影響ゼロ。既感染最強
仕事は在宅勤務でこれも良かった、
平常時だったら年の半分は海外出張なので妻の負担も大きかっただろう。
発育に大きな影響があったと思う。コロナあざっす
出生は低体重で未熟児ギリだった子が運動会で圧勝するシーンを見ると嬉しくなる。
2歳まで発熱やらで毎週病院行ってた子が体力ついて風邪もひかなくなった。
知能、情操面でも問題無く育ってる。
コロナのお陰
お願いします。
最近よく見るのは、某地上波後追いサイトでの中華屋(サービスで餃子が出てくる)
めっちゃ小食なんよ
定食屋系ではご飯少な目(体調とか的に自信ないときは飯抜き)で乗り切ってる
自慢だけど、実家は太い
でもばあちゃんが戦争体験者だったので、基本腐らない、火を通したら食える、飯を与えたらみんな喜ぶ(味とか鮮度関係なしに)
網目ない(瓜)のも含めてだけど、毎週誰かがメロンもってきてずっと仏壇にメロンが備えられてるって環境(もちろんメロンは嫌いになった。今は美味しく食べられる)
そういう環境とばあちゃんのあれで、食わず嫌いというか食って不味くもないのに食えないものが増えた。
長くなったが何が言いたいかというと、飽食にトラウマあるから、あんなもんがサービスとは到底思えない
王将はハーフ(ジャストサイズ)メニュー充実させてくれたんで、ギリ3品頼めるようになったから本当にありがたい。
2時ジャストに駅前集合だから!、ハルヒの服装、首回りがだだっ広い(オフショルダー?)のに加えてへそ出し。なんとまた派手な格好を。
市民プール。古泉の既視感は流れるように過ぎる。BGMが変わらなかったな。
朝比奈さんのHOTティーを飲んで「クハァーッ!!」って叫ぶキョン、なんかキショい
何やら退屈そうにしている長門の様子は、キョンの「なんだ…この感覚…」に吸収されて微妙に端折られてしまった。
ショッピングセンターの浴衣待ち、キョン、じべたに座るなよ。
虫取り合戦、長門の捕まえた珍しい?昆虫の名前が分からなかった。(キョンが口上しなかったため)
朝比奈さんの泣き電話に出る時のキョン適当過ぎて草。この辺りからキョンのアドリブが増え始める。
それに対し古泉のアドリブは少ないんですが、ずっと声がうわずった感じ、なんか楽しそうというか、若干ヤケになってね?みたいな、開き直っている疑惑がある。
だからなのか「今回が15527回目に該当する」の部分は今回がいちばん緊迫感に欠けていたような気が。
そして迎えた8月30日~、の色味が完全に秋。喫茶店内、暗すぎ。ツインテールの朝比奈さんかわいすぎ。
精神科単科病院で「精神科疾患を持っている上でコロナに罹患してる人」を看てる看護師だよ。
(フェイクも含んでるよ、エヘヘ)
ほとんどの方は認知症だけど、重度行動障害をお持ちの知的障害の方もいるよ。知的障害施設でのクラスターとかはなかなか大変。
マスクはつけられなくて、なかなかこちらの指示が分からない方も多いし、タイベックを着てても握ったりして破こうとしてしまう人もいるんだよー。
感染症に関連した勧告入院と精神保健福祉法の医療保護入院の枠組みでの入院なんだよー。
保健所や行政の調整部署からの入院依頼も直接病棟で受けるんだー。保護者になる人と連絡が取れなくて苦労もしちゃうんだぞー。
あと、ウチの病棟とは関係なく、他の病棟ではスタッフやその家族が感染したり、濃厚接触扱いになって、いつも人が少ないのにさらに少なくなって、阿鼻叫喚!地獄絵図!ご飯や休憩なんてナシが当たり前!
本来行うべきプログラムや面談も次々と延期や中止になり、ケアの質がどんどん下がっています。看護学生の実習などももちろん中止。
実習が中止になるとますます就職後のリアリティショックが強くがなるから、早期離職も増えるし、マジ大変!
ちなみに、25日からはコロナのベッドを増やすよー。ご本人はもちろん、地域のため、ご家族のため!一般コロナ病棟で受けられない人もバンバン受けるよ!わたし頑張る。踏ん張ってみせるよ。
いろいろな人のいろいろな意見はあるだろうけど、私は私のできる範囲で、目の前の人の看護をします。
みんなも、しのごうね。