はてなキーワード: もっと強くとは
流行ってるからという理由だけではとても手を出せなかったが、少し気になっている子と一緒に映画館へ行けるかもしれないという不純な理由によって俺は鬼滅に手を出した。
2週間くらいかけてTV放映版をアマプラでてきとーに見て、ふーんと思った。面白いけど魂持ってかれるくらいの情熱は感じなかったし、もういい年した大人になってしまったので子供がひたすら可哀想な目に遭いつづけるというのはちょっとしんどかったのだ。それはそれとして炭治郎少年は近年稀に見る立派な主人公ではないか。色々あって気になる子と一緒に行く計画は潰えたが俺はそれでも一人で鬼滅の映画を見に行くことにした。
結果、魂持ってかれた。泣きすぎて俺はエンドロールで歯を食いしばり拳を全力で握りしめなくてはならなかった。でも映画館にいたみんなが恐らくそういう顔をしていたのではないだろうか。暗闇に隠れてみんなが泣いて心を奪われていた。恐ろしい光景じゃないだろうか。日本全国で、いや世界のどこかしらで、この映画が公開されてからかなりの量の人間が…しかも結構いい大人が号泣してきたのだ。怖。
とにかく俺は…。俺は…。言わずもがなだと思うが煉獄さんのあまりの志の崇高さに胸を打たれて泣いていたのである。
まずこの人は登場シーンからすごい。お弁当をうまい!うまい!と言いながら食べる。普通あんなに食べたらうまいと口にするほどの新鮮な感動なんかなくなってしまうはずだ。それでも毎回一口食べるごとにうまい!とのたまい、とんでもない量の食事をきれいに食べきってしまう圧倒的な健全さに俺はまず驚いた。すごい人だ!弁当を作った人がいたら泣くと思う。俺は昔親含め家族全員の弁当を用意していたことがあったが、ここまで喜んでもらったことは当然ない。別に煉獄さんは弁当を作った人のためにうまい!と言ってるわけではないだろう。それでも毎回感じた感動をアウトプットしてくれる人が一体どれだけいるんだろうか。弁当作りについてもそうだが、仕事でも学校でもそうだった。
もちろん煉獄さんは非実在の人物だ。ただの絵と文字でできている。本物の人間がこの人のようになるには恐ろしい努力と恐ろしい無理を重ねなければならない。
そんなことはわかっているのだが、煉獄さんはそういう建前を全部ぶっこわしてしまうくらいもっともっと素晴らしかった。
終盤に突然上弦の鬼とかいうのが襲来する。映画館で俺は震え上がった。ずっと仄かに感じてきた煉獄さんの死の匂いがここで耐え切れないほど強くなったからだ。
こんなに素晴らしい人が長生きするわけないじゃないかよぉ〜!!と発狂しそうになった。
心を燃やせとかいう煉獄さんの名台詞は俺もなんとなく聞いたことがある。燃やしたものは灰になる。強く燃えれば燃えるほど早く尽きるだろう。煉獄さんの炎は力強く消えることがないように思えるが、そもそもこんな役に立ちそうな人が最後まで残っていたら絶対展開が難しくなる気がする。俺が作者なら早めに感動的に退場してもらい、後々主人公の成長に影響を与える存在になってもらうだろう。
みたいなメタなことを考えながら震え上がっていると煉獄さんは鬼の誘いを断った。
お前も鬼になれ。鬼になればもっと強くなれる、怪我も治るし老化もしないし長生きするし更に強くなれる見込みありありだぞ。という感じの話を何回されてもきっぱり断った。
「断る!」
「君と俺では価値観が違う!」
みたいなことをひたすら言い続けた。
俺はその後に来るであろうお決まりの台詞がないことに違和感を覚えたが、
結局そのお決まりの台詞を煉獄さんは退場するまで一度たりとも発さなかったのだ。
何かというと、卑劣な誘いに対して「そんなことをするくらいなら死んだほうがマシだ」みたいなあれだ。バトルものなら絶対誰かが一回くらいは言うあれ。これを口にすることにより、敵の誘いに対する絶対的な拒否、拒否のレベルの高さ、正義のために自分の命すら捨てることを厭わない高潔さ、また死を選ぶほどの勇気など色々なことが表現できるので、主人公とかがよく口にする。侍の時代から潔く死ぬことは美しいことだ。その価値観は今の今までなんとなく続いているが、煉獄さんという誇り高い剣士は今こそそれを口にするべきタイミングで愚直とも言えるほど真っ直ぐなお断りをするだけなのだ。時代的にもまったくおかしくない上、たぶんジャンプ誌上ではあらゆるタイミングで「死んだ方がマシ」と死を恐れぬ猛者どもが口にしてきたはずなのに。
煉獄さんは命を大切にする人なのだ。というか、命を無駄にしない決意を持った人なのだろう。俺がそう決定的に思ったのは煉獄さん自身の吠えるような強い台詞によってだ。
「俺は俺の任務をちゃんとやりぬくぞ!(意訳、泣きすぎてあんま覚えてない)」
「ここにいる者は誰も死なせない!!」
「若い芽は摘ませない!」
煉獄さんは死んだ方がマシなんて絶対に言わなかった。炭治郎が言ったように、ここで煉獄さんが倒れると他の全員が死んでしまうかもしれないのだ。煉獄さんは生きている間、ベクトルが常に他人に向いている。炎柱になったことを父褒めてもらえなくとも、その辛さより弟への気遣いを優先した。人のためになるべく生きてきた人だ。死ぬほど苦しくても怖かったとしても少しでも長く生きなくてはならない。人よりも力ある人間は人を助けなくては。みんなのための命だから、粗末にしてはならないということなのか。そんな自己犠牲は狂気ではないか。煉獄さんの考え方はやばい、それは俺にもわかる。しかしこれを美しいと感じてしまう俺自身のやばさも分かる。怖い。煉獄さん怖い。立派すぎて怖い。でも立派な人だ…。
結局、やり抜けない人が自己犠牲に走るのは危ういということなのか。俺にはできない。仕事でも自分の親の世話でも滅私奉公をやり抜くのは不可能だった。多分俺には人より力がないからだ。でも煉獄さんにはできた。それだけ人を助ける力を維持し続けたから誰も不幸にせずにやり抜けたのだ。
朝日と共に映画は終わり、烏が煉獄さんの死を告げた。その後のエンドロールですら俺は目茶苦茶泣いた。煉獄さんの死を烏が告げ回った後に、その烏を腕に止める煉獄さんの絵を見せるなよ。煉獄さん自身もこうして訃報を受け取っていたのかなとか思ってしまうだろうが。煉獄さんはいつも表情が変わらないからこのタイミングでその絵を見せられると変な勘ぐりをしてしまう。
そもそも映画でこの話をやるなよと思った。たとえらこの後泣いた顔で映画館を出る勇気は俺にはない。だからしばらくトイレに篭ったりした。
煉獄さんが口にした命の美しさとは、不可逆的に前に進み続けることだ。常に進み続ける。どんなに辛いことがあっても。漫画やアニメやDVDではともかく、映画館で観る映画は俺の力では止められないし変えられない。もう少しこの素晴らしい映画を見続けていたい、煉獄さんがいる時間の中にまだ居続けたいと思ったところで1分たりとも時は戻らず進み続けるだけなのだ。そんな構造で煉獄さんの物語を見せようとした嫌らしさと巧妙さがしんどい。いや、素直に言うとすごいと思います。
多分、映画を見にきた人々は炭治郎たちと一緒に無限列車に乗せられてしまうのだと思う。共に切符を買い、係員に鋏を入れてもらい、わくわくしながら決められた席に座る。この装置が自分をどこに連れて行ってくれるのか胸を高鳴らせながら。きっと素晴らしい旅になると夜汽車の窓を(俺たちは暗闇に浮かぶスクリーンを)ただ見つめる。彼らがお弁当を食べるようにたまにはジュースを飲んだりポップコーンを食べる。これは楽しい旅だから。
無限列車を作り出した鬼は炭治郎ではなく、自分自身でもなく、スクリーンに向かってこう言うのだ。
「人間の幸せな夢を見たいって言う欲望は本当に強いものなんだからね」
みたいなことを。
楽しい夢を見にきた俺たちは地獄を見せつけられる。多分漫画で予習してきた層にとってもそのはずだ。心躍る旅だと思ったのに、恐ろしいクオリティで畳みかけられる情感と精緻な臨場感で一刻一刻がつらくなる。どちらが素晴らしいと言う話ではなく、漫画の中の煉獄さんの存在感と、この映画の中の煉獄さんの存在感はまた別物だ。どんなに漫画を読んでいても映画を初めて観る人は映画の中の煉獄さんには初めて会うはずなのだ。映画の煉獄さんはすばらしい。絶対に予想を裏切ってくるほどすばらしい(重ねて言いたいのだが決して漫画より優れていると言う意味ではない。自分の頭の中にあった程度の予想など軽く振り切ってしまうほどの出来というほどの意味だ)。映画の煉獄さんは俺たちが頭の中に描いていた予想よりずっと優しく、強く、魅力的だ。だからこそこの人をずっと見ていたいと強く願わされ、その願いを留めておく方法がないことに涙する。映画は止まらない。走り出した汽車も止まらない。列車は時と同じく常に走り去りゆくものだ。また同じ場所を走る時にはまったく違う乗客で満たされているだろう。
不可逆的に前に進み続けること。残されたものは生きていくしかない。それを突きつけられた炭治郎たちの夜は明け、俺たちのスクリーンの夜すらも空けてしまい、俺たちは煉獄さんのいない平凡で平穏な日常に取り残される。それでも進まなくてはならない。だから俺はアホみたいに泣いた顔をマスクで隠してちゃんと歩いた。煉獄さんのいない日常を生きなくてはならない。
でもエンドロールの最後の最後で煉獄さんの折れた刀を見せつけてきたのは誰なのかマジで知りたい。お前のせいで俺はあの瞬間更に涙が決壊した。お前だけはマジで許さん。
フェミの根源にあるのが「力があるものに加害される恐怖」だからじゃないかな。
だから主体が「力あるもの」じゃなければ怖くないので女性向けは気にしない。
極端な話、例えば「殺人も辞さない白人至上主義社会で有色人種が生き延びるべく頑張るが死んでしまう」っていう筋書きのコンテンツがあるとする(これは「強引な性的行為の対比として扱うね。女性も最終的に喜ぶコンテンツはまた別」)。これを作ってるのが有色人種か白人種か?でだいぶ評価が変わると思わない?
白人に人間狩りの的にされる有色人種ののたうち回る様。醜いとからかわれる有色人種の泣く様。いずれも有色人種作家が克明に描いたら「素晴らしい」といわれるだろう。でも白人作家だったら?
「お前、これ“苦しむ有色人種”を楽しんで描いてない?」とちょっとだけ思わない?
現実で一番近いのは2019年あたりの映画「ゲットアウト!」かな。ネタバレは控えるけどやばい白人のせいで気のいい黒人がとんでもない目にあるホラー映画。個人的には大変出来がいいと思うし実際評価も高かったみたいだけど、多くの人が「被差別側である黒人(ハーフ)監督じゃなきゃ非難を浴びただろう」と言っていたし私もそう思う。
たぶんフェミが男性向けに過敏になる理由はこれをもっと強くした感じ。なにせ、有色人種狩りはそうそう実現できないけど、女性狩りは実現できうるからね。BL無罪論はよくないと思うけど、ぶっちゃけ「私が美少年ふたりを捕まえて抱き合え!なんてほぼ不可能だけど、男が女連れ込んで二三回殴って犯す“”」は物理的には可能だよね?写真撮って脅して泣き寝入りさせることも可能だよね?」って思ってるからだと思う。ネズミが猫に「こんなこと言ったら俺食べられちゃいますよ(笑)」というのと猫が「そんなこと言うと食べちゃいますよ(笑)」っていうの、後者洒落にならなくない?って話の延長線上にある話なんじゃないかな。
フェミの根源にあるのが「力があるものに加害される恐怖」だからじゃないかな。
だから主体が「力あるもの」じゃなければ怖くないので女性向けは気にしない。
極端な話、例えば「殺人も辞さない白人至上主義社会で有色人種が生き延びるべく頑張るが死んでしまう」っていう筋書きのコンテンツがあるとする(これは「強引な性的行為の対比として扱うね。女性も最終的に喜ぶコンテンツはまた別」)。これを作ってるのが有色人種か白人種か?でだいぶ評価が変わると思わない?
白人に人間狩りの的にされる有色人種ののたうち回る様。醜いとからかわれる有色人種の泣く様。いずれも有色人種作家が克明に描いたら「素晴らしい」といわれるだろう。でも白人作家だったら?
「お前、これ“苦しむ有色人種”を楽しんで描いてない?」とちょっとだけ思わない?
現実で一番近いのは2019年あたりの映画「ゲットアウト!」かな。ネタバレは控えるけどやばい白人のせいで気のいい黒人がとんでもない目にあるホラー映画。個人的には大変出来がいいと思うし実際評価も高かったみたいだけど、多くの人が「被差別側である黒人(ハーフ)監督じゃなきゃ非難を浴びただろう」と言っていたし私もそう思う。
たぶんフェミが男性向けに過敏になる理由はこれをもっと強くした感じ。なにせ、有色人種狩りはそうそう実現できないけど、女性狩りは実現できうるからね。BL無罪論はよくないと思うけど、ぶっちゃけ「私が美少年ふたりを捕まえて抱き合え!なんてほぼ不可能だけど、男が女連れ込んで二三回殴って犯す“”」は物理的には可能だよね?写真撮って脅して泣き寝入りさせることも可能だよね?」って思ってるからだと思う。ネズミが猫に「こんなこと言ったら俺食べられちゃいますよ(笑)」というのと猫が「そんなこと言うと食べちゃいますよ(笑)」っていうの、後者洒落にならなくない?って話の延長線上にある話なんじゃないかな。
編集済みです。
私にも今の生活があるし、過去の話とどちらを大事にしたいかと言えば今の生活です。(ちなみに彼女との関係は私の中で終焉していました。あの作品を読むまでは)
しばらく様子見はしますが、
正直言えばここで憂さ晴らししてさっさと忘れたいです。善人ぶってる人の裏側も大体こんなもんだなと勉強になりました。
私は彼女の該当作を一度読んでからショックで、読み返すことをしていませんでした。
皆さんの言葉を読んで、冷静になって読み返してみました。過去の私である要素はどのくらいあるのかと。
初めて読んだ時とは印象が違い、はっきり言って訴えるとかそんなことを言えるようなたいしたレベルのモデルではないと思いました。おそらく、別の他人の要素がもっと強く入っています。そしてフィクションもかなり含まれています。私の要素もちょっとはそこに混入させてみた、程度の話かもしれません。また、話としてかなり美化されているのでこれをどうこう言っても仕方ないなと思いました。
この件ではずっとモヤモヤしていたし、他の他人が重要なモデルであったとしても、存命であってもなくても、自伝的な作中でこういったことを描く姿勢には賛成できないなとは思います。(ご遺族に許可など取ってらっしゃるのかもしれませんが、その場合は別として)
ですが、ここに書き込んだことでモヤモヤが昇華されたことは確かです。冷静なコメントで目が覚めた部分もたくさんあります。みなさんありがとうございました。
この件については深追いすることを、私はもうやめにします。私がモデルの中に含まれていたとしても、そうでなくても、それこそ、過去の忘却の彼方へ葬ろうと思います。
(これ以上なにもない限りは)最初に書いた通り、訴えたり、苦情を申し立てたりするつもりもありません。
名前が挙げられているどの作家さんにも、この件に関して言及するのはどうかやめてください。
ありがとうございました。
※再投稿について
自分で再投稿した覚えがないのですが、なぜコピペ再投稿されていたのか謎です。
いたずらでやっている方がいるならばやめてください。
スワローズファンの親元に産まれた時点でその運命は決まっていた。
抗えもせず、私は幼少時から、野球そのものを知る前にスワローズを知り、それを愛した。
スワローズに夢中になり、故野村監督の全盛期から今に至るまで、シーズン中、私の気分の上下は、ほぼこのチームの勝敗に左右された。
『いきなりよわくなったりつよくなったり』のチームを、応援し続けて、今では殆どの選手が年下となっていた。
数少ない年上選手の中で、19年間神宮のマウンドに立ち続け、チームのために投げ続けてくれる石川雅規(愛称カツオ)というベテラン投手がいる。
40歳の開幕投手なんて、と他の球団のファンは思ったかもしれない。
他の球団には、もっと強くて勝てるエースがいるのだろうし、それは素直に羨ましい。実際石川は、華々しいエースというタイプではないだろう。
しかし石川は、怪我人の多さでは他の追随を許さないヤクルトで、19年間ほぼずっとローテを守って投げ続けてくれてた。
しかし、今年は石川にとって辛い登板が続いた。チーム状況も目を逸らしたくなるような有様だ。
『スワローズに勝利を』毎日そう願ってる。でもある日、石川が登板する日に『どうかカツオに勝利を』と願ってる自分を見つけた。
今更気づいた願いは、石川と同期の五十嵐亮太投手の引退を聞いてより切実となった。石川にはまだ投げ続けて欲しい。石川がいないヤクルトは、神宮は、それまでと同じではなくなるような気がした。(神宮が建て替え予定なのは知ってる)
私はここで初めて、自分の世界の中心のスワローズの中心にカツオがいることに気付いた。当たり前のこととして、自覚していなかったけれど。
今年の石川の成績が振るわないこと、年齢的なこと、ヤクルトファンの中でも色々言われてるのは知ってる。それも現実。
でも、この厳しいプロの世界では、どんな若手だって明日のことは分からない。
つまり逆にいえば、石川は、まだまだこれからの選手、の可能性だってあるかもしれない。
選手の応援の仕方なんて人それぞれだから、私は私なりの応援を続けたい。
輝く一等星、流れ星、消えた星、現れた星、そんな選手達に囲まれて、北極星のように中心でずっと動かずに。
野球選手の割には小柄な石川の肩には、今までに去っていった選手の思いも乗っている。ずっとみんなの背中を見送る側だ。
本当なら、その全部を降ろして神宮のマウンドから下りて仕舞えば、その方が楽なのかもしれない。
でも私は、石川にはまだ去って欲しくない。
当たり前のこととして、来年も神宮の『カツオの日』を眺めていたい。
ともすれば、マウンド上で迷子になりがちな若手投手陣に背中を見せ続けて欲しい。
ずっとスワローズを守り続けた石川雅規を、まだまだ誇らせて欲しい
ここに来て私は、カツオへの強い想いを自覚したので、勝手に一蓮托生でいようと決意した。
カツオがヤクルトに入団した時から、これはもう宿命みたいなものだから。
勝てる時も負ける時も、最後の日の最後の一球まで添い遂げる覚悟だ。
どうして急にこの感情が湧き出したか本当に分からない(ほぼ五十嵐のせいな気はする)。こんな押しつけがましい愛を、もちろん伝えられる訳ないので、ここに溢れるままに書いた。これで少しは落ち着けるかなと思う。
だから。
今夜も、私は世界の中心へ愛を叫ぶ。
今思うことを書き散らすのでまとまりのない話になると思うことを予め記す。
自分はアラフォーの無職 is 専業主婦。夫はアラフィフで転勤族の管理職。結婚をしてもう十年近くなる。
最後にセックスしたのはいつだっただろうか。ごく最近になって自分はアセクシャルだったのかもしれないと考えることはあるし実際に子供はいない。加齢の所為にしたらそんなものかとも思う。
少子高齢社会は色々議論になるが自分にとっては縁の無い話だと感じている。心の何処かでまだ受精すらしていない子供に夫を奪われるのが嫌だなとはたまに思う。出産をはじめ養育費やら諸経費などを払える財力もないから無難な選択をしてきた。行政や支援には期待もしていない。
閑話休題。
私は軽度のADHD気質。特に忘れ物等の不注意や多動性、危機管理不足の傾向が強い。スマホや鍵や財布の紛失もよくあるし、注意不足や飽き性でもある。気付かないうちに怪我をしている事も多くて幼少期から生傷が絶えない子供だった。骨折も脱臼も捻挫も肉離れも経験したし様々な整骨院や整形外科にお世話になってきた。
話が飛躍している気がするが、この経験を活かせないかとはずっと前から考えていた。
夫は趣味でジョギングをするような体育会系。毎日遅くに帰ってきては動画を眺めて寝落ちている。時たま首や肩のコリ、脚の張りがつらいと口にする。彼の話を聞く限り、思い当たる節は山の様にある。
私にはその根本的な原因を取り除く事はできない。だけどもしも夫が少しでも楽に不快感なく体を動かせるなら、私はきっととても嬉しいだろう。
三陰交や風池といったすごく簡単な知識と、自分が散々怪我をした時に対処してもらった方法を糧にして、夫にマッサージをする事が最近の日課だ。
素人が闇雲に叩いたり押したりましてや関節をポキポキ鳴らすなどは恐ろしくてできない。筋膜リリースなども仕組みがよくわからない。
幼い頃の肩たたき券のように僅かな知識と手探りで寝る前の夫を揉みほぐす。足先から頭までツボ押しをしながらほぐすといつの間にか2時間以上経過している事も多々ある。
揉み返しがないような力加減と、皮膚が傷まないようにハンドタオルごしに揉むこと、それから最後には水を少し飲んでもらうことだけは一応意識している。
「痛い、そこが気持ちいい、もっと強く揉んでほしい」夫はそういった自己主張がきちんとできる人だからなんだか二人三脚をしているようで少しだけ楽しい。
最近、夫は体をほぐしている最中に寝落ちる頻度が増えた気がする。そういう時は翌朝に「なんだか少し楽になってる」と言われるからとても嬉しい。
自分自身が不注意で怪我を繰り返し施術を受けた経験の真似事であり、資格も何も持ってはいない。それでも夫をサポートできているのかなと思うとやり甲斐は感じる。ポキポキ鳴らすのは流石に怖くてできないけれど、ガチガチの肩や腰が少しずつ和らいで温かくなっていくとホッとする。
まだまだ鍼灸も按摩も整体もストレッチも全てに於いて知識に乏しいけれども、マッサージにくわえて解剖学の勉強も始めた。
だから疲れた時は遠慮なく頼ってほしい。2時間くらいで指が疲れてくるけれど、そこは何かしらの工夫次第だと思っている。指を鍛えたりとか。
これからもっと歳を重ねれば肩や腰以外にも不調は出てくるだろう。疲労も抜けにくくなるだろう。精神的につらいことは今だって抱えているかもしれない。私に話さないだけで。
お互い口下手だからすれ違う事も多いけれども、夫の健康と疲労回復に少しでも貢献できるのであれば、それは私にとってとても誇らしく心から嬉しいことだから。
夫よ、いつもありがとう。
仰向けで首を擦っている時に寝落ちる夫の寝顔を見るたびに私はもっともっと勉強をして自分の体でも何度も試したうえで、金属のように固まった体を液状化させられるよう自分なりに努めていきたいとよく考えている。所詮は肩たたき券と同レベルかもしれないが疲れた時は頼っておくれ。あなたが元気なことがどんなコンビニスイーツよりも私の心を穏やかにするんだ。
半分寝ながら書き散らしたものにこれほど反応を戴けるとは思っていませんでした。読んでくれてありがとうございます。
タイトルに関しては完全に無自覚でした。夫は前屈や柔軟が苦手なので、猫の如く液状化したら怪我予防になるのではという気持ちでした。一度タイトルなしで投稿してしまい、咄嗟に書き足した結果です。
・惚気か
惚気です。マッサージ後だったのでつい。
厳密にはわかりません。ただブコメの「性や子供は欲しくないんだね」の言葉にものすごい勢いで首を縦に振りました。男女というよりパートナーという気持ちです(でも力仕事はよくお願いします)
・入浴
夫はものすごい長湯なのでなるべくその後にマッサージしています。(スマホを持ち込んでいるので1時間以上出てこないときもあります)
・スポーツ
たまに誘われるのですが私があまりにも運動が苦手すぎて断ることが多いです。だけど、今度夫に誘われたら公園までお散歩してみようかなと思いました。ありがとう。
・還元
夫が私をマッサージしてくれる事はあまりないですが、お腹が痛い時に温めてくれたりします。ブコメの「心を許した相手に触れてもらう心地よさ」、そのとおりだと思います。
それ以外だと色々デザートを買ってくれる事やフィットボクシングをしている時のフォームの指摘などがあります。お金以外にも本当に既にいっぱいあります。
夫が揉んでほしいという部位を調べて、骨の形や名称、関連する筋肉の名称、その周囲のツボの効能、怪しい病気の可能性などをノートに書いて何度も読んでいます。それから先に自分の体で試してから夫に行います。どこを押すと何処が伸縮するとか。でもこのあたりは我ながら手探りすぎると今思いました。一度考え直してみます。
・たれぱんだ、猫
好きです。ゆるっとしてていいよね。
教えてくれてありがとう。ストレッチや柔軟の補助の時もあるので調べてみて良さそうなら相談の上で考えてみます。
・骨抜き
おそらく胃袋は奪えていると思うのですが、骨を抜くにはまだまだかかりそうです。夫が私よりも先に火葬されたら絶対にやってやろうと思います。
・瓶詰め、ドロドロ
この休日は夫と一緒に金木犀のシロップ漬けと生姜のシロップ漬けを作りました。私にはこっちの方が向いていそうです。
タイトルで勘違いされた方、期待させてしまった方、ごめんなさい。眠かったです。
小児性愛もひとつの性指向であり、差別されてはならない、という大原則をもっと強く主張していくべきだなと思った。
同性愛はひとつの性指向と認められてはいるが、性的同意なしに同性との性行為が認められているわけではない。
同様に、小児性愛をひとつの性指向と認めた上で、性的同意なしに他者と性行為を行ってはならない(=性交同意年齢前の子どもと性行為を行ってはならない)、という筋をきちんと確立すれば、性指向に基づく差別に反対することと子どもを性的虐待から保護することが両立するのに、なぜか小児性愛者を差別しようという方向に向かうリベラル派が多すぎるんだよな。
表現の自由戦士も腰が引けてるのか、それとも反差別というイシューにはあんまり興味がないのか、表現の自由だとか表現規制反対だとか言うだけで、そもそもの本丸である小児性愛者への差別反対というお題目を口にしたがらないし。
でも、やっぱりそろそろ差別主義への反対を主張すべき時期でしょ。
かつて同性愛者を嫌悪し迫害していた連中はいま差別主義者という扱いを受けて反面教師として扱われるようになっているんだから、いま小児性愛者を嫌悪し迫害している連中もそういう扱いを受けるべきなんだよ。
早稲田行きの荒川線がほとんど空っぽなまま夜の王子駅に入ってくるのを見ると、東十条の夜を思い出す。
真夜中に電話をかけてくるのはだいたい振付師で、出ると必ず「寝てた?」と聞く。こちらが寝ていたとしても別に対応を変えようとはしていない。挨拶がわりに今どこと聞くと、永福町のアパートからかけていることもあれば、聞いたこともない名前の街にいることもあった。
新潟の燕市から夜中の二時過ぎにかけてきた日、東十条にクルド料理のレストランができたのと振付師はいった。半分寝ながら「ああ、ああ」と返事しているうちに、翌週の夕方に同行することになっていた。
レストランは駅近くの雑居ビルにあった。細い階段を登ると、青い壁に赤を基調としたタペストリーがかけられ、トルコ製らしいランプが天井から吊るされた店内は薄暗かった。
二人とも果実の蒸留酒を飲みながらピーチ味のシーシャを吸って馬鹿話をした。振付師は蔦の模様がついたノースリーブのワンピースを着て、耳には銀色のチェーンピアスが揺れていた。
「ね、知ってる? カニコーセンの人」
「カニコーセン?」
「あの、小説の」
「小林多喜二?」
「……?」
「お客さんの事務所の子がね、今度カニコーセンの舞台に出るからって、マネージャーさんが招待券くれて。で、帰りに駅ビルで原作の文庫本買って、バスの中で読んでたのね」
「読んだんだ。どうだった?」
「やばかった。いろいろ。で結局、タキジって殺されちゃうんだよね」
「うん、遺体の脚を見るとね、釘か畳針でグサグサ刺した痕だらけだったんだって。いったいどんだけ憎まれてたんだっていう」
「あの人の書いたものが、それだけ当時の警察機構を動揺させた、ということでもあるのかもね」
「30歳だよ。タキジ死んだの。今の私たちよりも若かったんだよ。それでどれだけの仕事をした? どれだけの人に影響与えた? タキジが生きてる間にカニコーセンは何か国語にも翻訳されて、世界の人が読んでるんだよ? あの時代だって、今だって、20代でそれだけのインパクト出せた作家って、そんなにいないんじゃない?」
「うん、いないだろうね」
「燃え方が足りない」
「足りない?」
「もっとたくさんの人に、私が伝えるはずのことを、私の仕事で、全力で伝えたい。そのためには死に物狂いでいまやってなきゃいけないのに、なにやってるんだろって、思うことがあるんだよ。もう無我夢中で、身体が自分の熱で焼き切れて無くなってしまうくらいに、全力でやってなきゃいけないはずなのに、私はまだなにもやってない」
「毎日家と会社を行ったり来たりしてるだけの僕からすると、日本中を飛び回ってるきみは、ものすごく燃えてるように見えるんだけど」
振付師は無言で何度も頭を振った。と思うとこちらの手を取って、荒々しくかぶりつく犬のような真似をした。
東十条の商店街には縁日が出て、りんご飴、ヨーヨー釣り、プラスチックのお面が裸電球の光を反射していた。振付師は金魚すくいの水槽を見つけると、やりたいと言ってその前にしゃがんだ。出張が多いのに世話できるのかと聞くと、預けるから大丈夫だもんと言った。
西日暮里のホテルに入ると、洗面所のシンクに水を溜めて、小指の先ほどしかない緋色の魚が入ったビニール袋を静かに沈めた。そうするのが金魚にとってよかったのか、二人ともわからなかったけれど、ホテルの部屋に篭っている間に死んで欲しくはなかった。
その後のことはよく覚えていない。いつも通りだったかもしれないし、もっと強く噛んで欲しいと執拗に懇願されたのはそのときだったかどうか、また別の時だったか、いまとなってははっきりしない。
そのときの金魚はいまだに元気で、振付師が熊本に一か月行ってくるといって置いていってから、結局預かりっぱなしになっている。冷蔵庫脇の水槽で年を追うごとに肥えて、握りこぶしほどの大きさになった。
B「Aがやられたようだな」
C「奴は我ら四天王の中でも最強……」
D「これはえらいことになった」
B「修行しよう」
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B「我は四天王の1人B。Aの仇、とらせてもらう!」
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C「Bがやられたようだな」
D「これで四天王は残り半分」
C「まだ修行が足りないのか」
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C「儂は四天王の1人C。これまで戦った四天王と同じだと思うなよ」
勇者「確かに今まで戦った中じゃ一番強いんじゃね。やっぱり弱い順に来てるのか」
――――――――
D「Cまでやられたか」
D「もはや四天王は私1人」
D「揃いも揃って四天王の面汚しどもめ」
D「無様にやられやがって。とっとと勇者を倒してしまえばよかったものを」
――――――――
D「魔王様がやられたようだ」
D「これから私はどうすれば……」
D「……修行だ。もっと強くならないと。ひたすら強くなって勇者を倒すのみ!」
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