はてなキーワード: たっぷりとは
昔知り合いから聞いた話で、海外に遊びにいくのに飛行機に乗ったらサービスでシャンパンが出て、チョーシ乗ってたくさん飲んだ友人が酔っ払ってトイレ行こうとしたんだけど、足元おぼつかなくて通路でよろけて両脇の座席に掴まろうとしたら、間違えて両脇のおじさんの頭を鷲掴みにしちゃったっていう話思い出した…
そのあと友人はぶっ倒れて、SAさんに「お連れの方が意識を失ったみたいだから瞼にタイガーバームを塗ってもいいか?」って言われて、「い、いえす!プリーズ!!!」って言ったら友人の瞼にタイガーバームたっぷり塗られて、友人が飛び起きたって話。
若い画家のご夫婦が絵をかいてたり、現役漫画家しんもとしんさんだったりもみてておもしろいよ>つべの絵描きさんたち
老けvtuberでずんだもん60歳ボイスととりそろえたっていいわけだし、表現も生き方も自由
つべがあることで現代は芸術のおもしろさがものすごく伝わりやすくなってるけど、
じゃあ古い伝わりにくい芸術はどうなん?ていったらゴッホ耳切り落としたんだってよとかいろいろ残ってるわけで。
同時代人にとっては充分エンタメ要素たっぷりだったものが芸術として残りやすい、けどおまえらみたいな普通な人生の芸術家もおったよ。それも芸術https://anond.hatelabo.jp/20240702122142
夫、私30代
子ども2人
気持ちを保ち、整理するために書いている。
夫のカバンからお弁当箱を取り出そうと思ってリュックの中を探っていたら、使いかけのコンドームの箱が出てきた(追記:普段は洗ったお弁当箱がキッチンに出してあるけど、その日は夫が出すのを忘れていてカバンに入れっぱなしだった、だから普段は触らないリュックを開いた)。
第一子妊娠以降、ほとんどセックスはしてなくて、2人目ができたのも奇跡みたいなもん。私から「私はまだ性欲はあるし、できればしたい」と話をしてはいたのだけど「言いにくいことを話してくれてありがとう」という謎のお礼をされただけで、抱かれる事はなかった。
夫を問い詰めたところ、たっぷり5分は黙っていた。窓の外を小型飛行機の編隊が通り過ぎていった。航空ショーかなんか?
おもむろに口を開いた夫は、たまに風俗を利用する事があって、薄いコンドームを持参しているという。風俗にコンドームを持参する客、キモ過ぎるし、嘘だろふざけんな本当は不倫してたんだろという気もする。その場でLINEも開示させたけど、職場の女性やラウンジの女性とのやり取りはあったものの、決定的な証拠は抑えられなかった。
それ以来体がだるくて、涙も出るし、とても辛い。
私は傷ついているらしい。
少しでも夫によく見られようと運動したりしていたのもバカみたいだ。夫だけよそで他の女を抱いていたなんてズルすぎる。それならお互いに性欲は外で発散しましょうと言って欲しかった。
ちなみに今後そういう風に、セックスは他所で済ましませんかと提案してみたけど、「常識的に受け入れられない」と言われた。お前はしてたのに?!舐められすぎてる?
今のところ子ども達の手前、普通に過ごしている。夫といるのは楽しい。話も合うし。でもしんどい。誰にも言えない。
たぶんすぐこの家を出ていくべきだと思う。離婚届と誓約書を両方用意している。でもだるすぎる。気力が湧かない。子どもたちの通園、通学だとか、わたしのパートだとか、最低限の家事をこなすことしかできない。
つらい。どうしたらいい?
追記:
ありがとう、優しさを感じた。そうなんだろうな
舐められすぎじゃない?
そうだよね〜
なるほど…やってやりたいが、それをやって私の心が保つかが不安。でも参考になった、ありがとう。
夫からはその場で
を提案された。
(謝罪もあった、一応。「あなたにはまだその気があって、その話もされていたのにごめん」と。)
うーーーん…お互いできるのか…?
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数日経ったけど、まだ無理。
冒頭、たっぷりと真っ暗な画面、体感では5分くらい。まずここで眠たくなる。
しばらくすると鳥の鳴き声。さらに眠たくなる。
退屈なので眠たくなったんだけど、そう仕向ける演出なんだろう。
だから何度か素直に寝た。
黒い犬が可愛かった。
サーモグラフィみたいな映像で女の子が頑張ってるシーンが良くわからなかった。
彼女の気遣いが裏目に出てたようにも見える。が、良くわからん。
というか、色々わからんかった。
ある家族のお話なんだから、難しいことはあるまいと思ってたけど甘かった。
名前と家族構成くらいは事前に把握しておかないと会話の意味が分からん。
と思い、今確認している。実在してたらしい。お父さん、最期の写真がWikipediaにガッツり載っとるな。
奥さん役の人、最近みたなーって気がしてたけど、「落下の解剖学」のお母さん役の人だった。
そういえば、あの映画も犬が可愛かったな。
オレオレFCは25日、後半戦初戦となるホーム大分トリニータ戦(26日)に向けオレフィールドで調整。6試合無得点が続くFW森永は復活ゴールに意欲を見せた。
前回対戦でも得点している頼れるエースが、流れを変える一撃を放つ。前半戦は23試合でチームトップの7ゴールを挙げるも、5月12日のC大阪戦から6試合無得点中。強い日差しの中、たっぷり汗をかいて調整した森永は「最近、なかなかチームに貢献出来ていない」と話しながら「調子は悪くない。チャンスがあれば点を取り、勝利に導きたいです」と宣言した。
チームは前半戦10勝5分8敗の暫定12位で終えた。「満足はしてない」と振り返りながら「チーム全体で攻守ともに連携を深めていけば勝てる自信もある」と手応えは十分にある。対大分戦は22年の最終戦に勝利してから3試合連続ドローが続く。エースの7試合ぶりゴールが、ロイブル軍団の上昇気流と巻き返しを呼び込む。
○…4月のサガン鳥栖戦で右太腿裏を肉離れし、戦線を離脱していたFW佐藤が練習に部分合流した。シュート練習では強烈なシュートを放つなど、復帰が近づいている。佐藤は「8割方良くなっている」と明るい表情だった。
ChatGPT
はい、「まんじゅうこわい」は古典落語の有名な演目の一つです。この物語は、ある男が「まんじゅう(和菓子)が怖い」と嘘をついて、他の人たちがその嘘を信じてまんじゅうを彼のところにたくさん持ってくる話です。彼は実はまんじゅうが大好きで、この嘘を利用してまんじゅうをたくさん手に入れます。この話は、欲張りや嘘の愚かさを面白おかしく描いています。
「まんじゅうこわい」に完全に一致する英語のことわざや言い回しはありませんが、似たような概念を持つフレーズとして「Reverse psychology(逆心理学)」があります。これは、人が望んでいることを手に入れるために、あえてその逆のことを言う技術を指します。
例えば、「I don't want any chocolate, it's too sweet for me」と言って、本当はチョコレートが欲しいことを暗に伝えるような状況です。「まんじゅうこわい」の場合も、主人公がまんじゅうを怖がるふりをすることで実際にはたくさんのまんじゅうを手に入れるので、逆心理学の一例と言えるでしょう。
Claude
はい、「まんじゅうこわい」という言葉を知っています。これは日本の有名な落語の演目のタイトルです。
この落語は、まんじゅうが怖くて食べられない男性の滑稽な物語です。主人公は、子供の頃にまんじゅうを喉に詰まらせた経験から、まんじゅうに対する強い恐怖心を持つようになりました。
物語の中で、主人公はさまざまな状況でまんじゅうに遭遇し、それを避けようとする姿が描かれます。この落語は、不合理な恐怖心や固定観念をユーモアたっぷりに描いており、聴衆を楽しませると同時に、人間の心理についても考えさせる内容となっています。
Gemini
「まんじゅうこわい」は、古典落語の演目の一つで、広く知られた噺です。あらすじは以下の通りです。
長屋の若い衆が集まって、「怖いもの」の話をしていました。へび、たぬき、クモ、こうもり、毛虫、アリなど、様々な怖いものが話題に上がります。しかし、松つぁんだけは、怖いものが何もないらしいのです。
ところが、松つぁんには、なんと「まんじゅう」が怖いという秘密がありました。名前を聞くのも、見るのも、言うのも、触るのも、全てが怖いというのです。
この話を聞いた若い衆たちは、松つぁんをからかおうと、まんじゅうを使って様々ないたずらをします。障子に穴を開けてまんじゅうを見せたり、まんじゅうを投げつけたり、まんじゅうを枕元に置いて寝かせたりと、松つぁんを次々と恐怖に陥れます。
しかし、松つぁんは必死に我慢し、ついにまんじゅうを食べる決心をするのです。そして、一口食べてみると、まんじゅうは想像以上に美味しくて、松つぁんの恐怖は消えてしまいます。
こうして、松つぁんはまんじゅうの恐怖を克服し、若い衆たちからも尊敬されるようになったというお話です。
「まんじゅうこわい」は、ユーモラスな語り口と意外な展開で、多くの人々に愛されている落語作品です。また、克服できない恐怖心を持つ人間心理をコミカルに描いた作品としても評価されています。
デブは他人よりもスペースを圧迫するし臭い、不潔なやつが多い、むしろ綺麗なデブを見たことがない
とはいえポリコレがうるさい昨今、電車に乗りたいデブの人権もイヤイヤ認めなければならない
改札の床にはかりを埋め込み、改札機と連動させればいい
一定以上の体重が検出された場合は、ICカードからデブ料金で自動引き落とし、切符であればデブ料金の切符でないと改札を通れない仕組みにすればいい
だいたい無駄な脂肪をたっぷりと車内に持ち込んで無駄に電車のエネルギーをロスさせているデブが
普通体型と同じ料金なのがおかしい、普通体型の運賃にデブコストが含まれているだろ、デブの公共交通機関へのフリーライドを許すな
大岡裁き。それは我が子を想う母親の心情を巧みに掬い上げた大岡越前守が名裁決である。
白洲に引き出されたは二人の女と幼き稚児。女どもは我こそが子供の母親であると口々に申し立てる。母は己が益よりも我が子の心身を重んじるはずと考えた大岡越前守は、自らこそ子供の母親であると声を上げる二人の女に子供の手を引っ張らせ、まことの母親であれば子供を諦めないはずであると、敢えて真逆の行為をけしかけた。果たして本物の母親はすぐさまに我が子の身体を想い手を離したのであるが、偽りの母親は最後まで子供の悲鳴にも聞く耳を持たずに手を引き続けた。
この、お白洲という非情がまかり通る場所での親子の情を重んじた名裁決は、またたく間に江戸中の評判となった。大岡越前守の公正かつ賢明な裁きに感銘を受けた江戸の母親達は、我と我が子が白洲へ上げられる最悪の事態に備え、こぞって相手よりも素早く手を離す訓練を始めた。はじめは隣近所で集まり細君同士で児戯の如く交流を重ねていたのだが、次第に規模が膨らみ長屋単位で集うようになり、数月経つ頃には江戸の町全体の奥方を網羅した「大岡裁き番付」が作られるようになっていた。
これが大岡裁きの極限競技〈エクストリーム・スポーツ〉化である。
「大岡裁き」の基本ルールについては今更語るまでもないだろうが、念の為、以下簡潔に説明をする。まず試合場にて競技者たる二人の女と奉行所より公正な基準に則って選ばれた稚児が並ぶ。三者が正面の裁き手へと礼をした後、女・稚児・女の並びに移動し、女がそれぞれ稚児の片腕を取る。そして裁き手の号令にて一斉に手を離す。このとき、最後まで手を持っていた方が敗者となる。お白洲に立ち裁き手の最高位たる大岡越前守より御裁きいただけるのは、番付上位のごく限られた存在だけである。
競技化してからの大岡裁きについて、その全貌を余さず語るには頁が幾らあっても足りることはないが、ここではその初期にあった一つの名勝負を紹介しよう。「突き」が体系化されて技法が複雑化する直前の、純粋たる「離し」の名人達による今もなお語り継がれている試合である。
その日お白洲に現れたのは、枯れ木のようにやせ細った女と、それとは対象的に首や四肢にたっぷりと肉を蓄えた肥えた女であった。二人は丸々とした稚児を挟み向かい合うとニヤリと笑いあった。両者とも当代一の達人との名高い見知り同士であり、両者五勝五敗のこれが通算十一回目の試合であった。
枯れ木のような女の腕名は湖越えのちよという。彼女は軽やかに美しい所作により「離す」名人であり、彼女の「離れ」による跳躍は水辺を渡る鷺の如きであったという。ちよのあまりにも優雅な「離れ」を語る逸話には限りがないが、その中で最も有名なものは彼女の腕名となっている湖越えであろう。ある武家の屋敷にて試合を行っていた彼女であったが、裁き手の号令の瞬間にはそこに残っているのは砂けぶりだけであり、その姿はもはや稚児の傍になく、邸内の池を越えて対岸へと着地していたという。池の幅は少なく見積もっても六間(約11メートル)あり、常人ではとても真似することの出来ない幅であった。彼女の跳躍を間近で目撃した御隠居は、もしあれが池ではなく湖であったとしても、彼女は間違いなく越えていただろうと語った。
もうひとりの太り肉の女は箱根のお松という。彼女はちよと異なり跳躍ではなく縮地による「離れ」を得意としていた。彼女の張りつめた四肢から繰り出される俊足は、十間(約18メートル)を瞬きの間に駆け抜けたという。暫し誤解されることであるが、彼女は純然たる江戸っ子であり、腕名の箱根はちよと同じく試合の逸話に基づくものである。彼女が縮地を己がモノにした頃のある試合において、「離れ」の瞬間、大砲のような轟音が響き、試合の場である屋敷全体が震えた。その揺れの源は、屋敷の塀に衝突したお松であった。塀が大きくたわむ程に突っ込んだお松の縮地は常人が捉えられるものではなく、かろうじて越前守の弟子であった見届け役が認識できただけであった。その驚くべき俊足を見た屋敷に逗留していたとある粋人は、仮に塀がなければ彼女は箱根の峠まで飛んでいったであろうと称したのである。
当代一の名人である二人の勝負は一回で終わることはなかった。裁き手の大岡越前守が号令をかけた瞬間、そこには土煙が残るだけであり、お白洲の両端にちよとお松。そして砂煙が晴れてふくよかな稚児の姿が現れるという始末であった。近年ますます加速化する「離れ」の瞬間に、裁き手たる越前守はこれまで辛うじて追いついていたものの、この二人の速度は群を抜いて速く、副審のからくり手の技能を持ってしても勝敗の判別が不可能であった。
土煙が判決の邪魔をしているのではないかと、砂地に水を撒き再度取り直しをさせたが、稚児の両脇に残ったのは深々と空いた丸穴と抉れた足跡だけであった。何度取り直しても決着がつかず、ついぞ判決に困った越前守は奇策を思いつく。稚児を立たせるのではなく二人で釣り上げて、先に爪先が落ちた方がより早く「離れ」た方だと。この日の稚児は二十五貫(約94キログラム)ある恵体であったが、お白洲に立つのは江戸の最高番付の二人であった。両者は再びニヤリと笑い合うと、片腕で軽々と稚児を釣り上げた。ちよが右手、お松が左手。越前守が号令を下した瞬間、先に爪先が落ちたのは右足──即ちちよの方であった。
後年、お松は「あれは稚児の左足が短かっただけであり、離れは同時であった」と語り、自分の負けを死ぬまで認めることはなかったという。この勝負を切っ掛けに「離れ」の主流はちよの跳躍となった。彼女が残した縮地は「突き」において花開くことになるが、それを本人が見届けることはなかった。
次は、「離れ」に対して「突き」の興りを記さねばなるまい。あくまでも原点に忠実に手を「離す」ことを重視する「離れ」に対して、何よりも早く手を振りほどくことを重要視するのが「突き」である。「突く」行為そのものは競技の興り時点から散見されていたものの、体系化されるまでには長い時間が必要であった。
最初期にはっきりとした「突き」の使い手として名が後世まで残っているのが千手観音の桂子と呼ばれる存在である。それまでの「突き」の使い手と彼女の最大の相違点は、「突き」の「離れ」に対する優位であるといち早く看破したことにある。すなわち、「離れ」る前に「突き」押すことで、相手に稚児の身体を押し付けるのである。この発見により、「突き」戦法が大流行し一時は「離れ」が番付から消滅寸前にまでなった。その後、「突き」に対して優位を取ることができる「躱し」が発明され、今に至るまで知られている三すくみ「離れ」・「突き」・「躱し」が完成された。
この篇の最後に「突き」の名人同士の試合を一つ紹介しよう。「突き」手同士の戦いは間に挟んだ稚児を押し合うこととなるため、両側から押された稚児が地に転がることは日常茶飯事で、中には体にかかる力の作用により、大独楽のごとく勢い良く回転する稚児の姿も見られることも珍しことではない。しかし、「突き」の達人同士となれば、人知を越えた奇跡の瞬間が興り得るのであることを示したのが次の試合である。
その日の最後の取り組みは、寅と辰という、うら若き双子の「突き」手の試合であった。二人は千手観音の桂子の孫であり、祖母から直々に手ほどきを受けた若き俊英であった。二人が公式の場で手合わせをするのは今日が初めてであり、観衆は期待を胸に見分け難い二人を見守っていた。
裁き手の大岡越前守の声とともに同時に二人の体が動き、稚児を押した反動で揃って稚児から半間(約90センチメートル)ほど離れた位置にゆるりと着地する。はじめに異変に気がついたのは観衆であった。
お裁きを見守っていた観客の間から「ホウ」という感嘆の声が上がった。続いて興奮を隠せない小声が観衆の間から漏れ聞こえ始めた。その段階に至り、判決を下すのに集中していた大岡越前守はようやく気がついた。彼が注視していた稚児が、まるであやかしに持ち上げられるように宙空へ浮かんでいることに。稚児は宙に「丁の字」を描くように腕を開いて静止していたのだ。
双子が全くの同時に両側から稚児を押したことで、稚児に伝わった力が正中線でぶつかり合い、その力が幼き肉体を地から持ち上げたのである。しばらくの間稚児は宙へ浮き続け、やがて萎れるように地上へと降り立った。その間、双子たちは周りの喧騒に顔色を変えることもなく、裁き手の判決をただ待ち続けていたという。記録には、さしもの稀代の裁き手大岡越前守も、この妙技の前には両者引き分けを言い渡すしかなかったと記されている。
どこかで拾ってきたパリの写真などを上げてパリ在住のように意図的に演出していたが、同時に東京の写真も上げたりして設定ガバガバ。
語学力のあるものにとっては、当初から「こいつ言ってること怪しすぎるな?」と不審点だらけだったが、バカは気づかない。
知性も品性もないルンペン左翼のガス抜きでたっぷり稼ぐよ青バッジ。
高卒どころか中卒という噂もあるミリタリー雑誌ライター兼シミュレーションゲームデザイナー。
理系でも高校世界史をちゃんとやってたバランスの良い高学歴ならわかる。マジで言ってること歴史学的にはデタラメ。
最近はプロフを東大院に書き換えたらしい。社会人入学でもしたのか? 努力は認めるけど、「独裁者」とか「専制君主」とか重要な歴史用語の使い方がめちゃくちゃなのは学者と呼べるレベルではない。
本当は総会屋はてサの親分瀬川深(https://x.com/segawashin)とか入れたいけど、まあ身分詐称してないだけマシなので圏外に。
他に入れたいの、ある?
のはまだいいわ。
コンサル逃げた途端、一回外した俺に仕事投げてくるのはどういう精神なん?
社内SEしかやったことがない俺増田君ではまだ力不足だと思うので、前職で私が使っていたコンサルを入れましょうって言って半年準備してきた俺外したのはお前だろ中途のクソハゲ。
反発に告ぐ反発で実務者どころか部門長からもそっぽ向かれてストレスで体調崩して逃げたコンサル。
金も時間もたっぷりかけて何の成果も得られなかった中途クソハゲが、どの面下げて俺増田に上から目線でお前がやれって言って来てんの?
OK、おれはこの件に関して最終的かつ不可逆な結論にたどりついてる。そして、俺以外の人間はそうではないように見えてる。
そんなことがあるかって?
もちろん、普通に考えればありえない。
だから俺はこのステキな結論を一晩寝かせることにした。ビールを飲んで、VNLで日本がストレートを喰らうのを見て、読みかけの「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を進めてーーああ、もちろん、この文体はその影響ってわけだ、別にいいだろーー、たっぷり8時間は眠り、先ほど昼飯も食った後に、やっぱり、どうやら俺は正しいってことで、今ラップトップに向かってる。幾つかの議論を見ると、幸いにして、この考えは俺だけのものではないようだ。いや不幸にしてか?俺だけが真のヒーローだってチヤホヤされるチャンスを失ったわけだから。
さて、前置きはこれくらいにしよう。あのMVが炎上したのは、「相手の顔がサルだから」だよ。
例えばこんなことを言う奴らがいる。
https://rna.hatenadiary.jp/entry/2024/06/15/110134
とかだ。簡単に言うと「MVに登場する猿人はいい家に住んでるしマカロン食ってるしメンバーとの交流も一方的には見えないから、『コロンブス一行が文明を教えてやった』ていう筋立てじゃないじゃないか」てわけだ。
でも顔がサルじゃん。
顔がサルってことは下位であって自分が上位だ。サルにはそういう意味がある。
「そんなことない!サルの表象に上下や侮蔑の意味なんてない!そのことを証明するために俺は明日から同僚に親しみをこめて『エテ公』て呼びかけるし、アメリカのダイナーじゃ、『ヘイ、そこのモンキー!ビールを一杯頼むよ』なんて具合で行くぜ」
ていうなら、もちろんそうしたっていいんだけど、眉間をぶち抜かれる時には俺が止めたってことは思い出してくれよな。
あと、こういう奴らもいる。
「コロンブスって実は虐殺ヤローだったってのが定説なんだが知らないのか?」
https://lady-joker.hatenadiary.jp/entry/2024/06/16/011301
とかだ。
でも、これはまったく的外れ。だって虐殺ヤローだからNGってことは、してない奴ならOKってことだろ?そんなのバカげてる。
タイトルが「マルコ・ポーロ」だったら、その相手、つまり中国人(皇帝含む)がサルだったことになるし、「伊藤マンショ」だったらヨーロッパ人(法王含む)がサルだったことになる。どっちだってやっぱり問題アリだ。リンカーンに扮した大森元貴がサルと仲良くやってたら炎上しなかった、と信じられる理由は何ひとつない。
つまり、「実在の人物を出したら、その相手も実在(またはその比喩)と見なされるんだから、それをサルにしちゃダメだよ」ってことだ。ほら、虐殺とかは関係ないだろ?
じゃあサルじゃなかったら、コロンブスが人間たちとキャッキャしてるだけだったら?もちろん、それでも炎上したかもしれない。その場合は虐殺とかも関係あった。でも、それって無意味な仮定だろ?
いつだって、誰だって、実在する誰か(たち)をサルにしちゃいけないんだよ、何も複雑なことはない。作り手たちに不足していたのは、知識なんかじゃない。あのサルを見て「俺らのことか?」て考える奴がいるんじゃないか、て想像力だ。
俺が気に食わないのは、「実在する誰か(たち)をサルにした」っていう、このシンプルで疑いようのない結論を、ほんとうは誰もがわかってるんじゃないかってことだ。どう見たって明らかな理由に、「映像読解には一家言ある勢」とか「歴史認識には一家言ある勢」がワラワラ群がって、見当違いなことを書き散らしてややこしくしてる。彼らが、「顔がサル」であることが見えてないなら、その批判は的を射てると思う。顔がサルじゃなければ、MVの筋立てには啓蒙の意味合いはないし、炎上の理由は虐殺ヤローを脳天気に扱ったからだろう。
でも顔がサルじゃん。
見えてないわけなんかない。でも彼らはそのことを「そっと脇に置いて」自説を高々と垂れている。
いったい彼らは何がしたいんだ?
控除もないのか。
ワイは医療費控除たっぷりやで。税務相談いったら「お前ごときのおちんぎんで医療費控除wwww しなくてもそんなにお前税金納めてねえからwwww」と言う趣旨の事を言われたけどやってるやで。
ベジタリアンとしての生活は、まるでスパイスのないカレーのように思われがちですが、実際は全く逆です。
私たちの食生活は、色とりどりの野菜、豊かな味わい、そして創造性に溢れています。
そして、時には、ホームシックのような感情さえも、美味しい一皿で癒やすことができるのです。
例えば、ある日、私は大豆ミートを使った「フェイクチキンカツ」を作りました。
見た目は本物のチキンカツそっくりですが、味は...まあ、正直言って、チキンカツとは程遠いものでした。
しかし、これが面白いところで、この「フェイクチキンカツ」は、私の家庭の味を思い出させてくれたのです。
なぜなら、私の家庭では、チキンカツはいつも少し焦げていて、ちょっと硬かったからです。
また、ベジタリアンになってから、私は「野菜のステーキ」に挑戦しました。
ズッキーニ、ナス、トマトを厚切りにして、オリーブオイルとハーブでマリネし、グリルで焼きます。
最初は、これがステーキの代わりになるとは思えませんでしたが、食べてみると、そのジューシーさと風味の豊かさに驚かされました。
肉のステーキもいいですが、野菜のステーキもなかなかのものです。
そして、ベジタリアンの最大の挑戦は、やはり「ライスカレー」です。
カレーは、多くの文化で愛されている料理であり、そのバリエーションは無限大です。
私が作るライスカレーは、トマトベースのソースに、レンズ豆、ひよこ豆、そして山盛りのスパイスを加えたものです。
一口食べれば、その辛さで涙が出そうになりますが、それがまたクセになるのです。
ベジタリアンとしての私たちの旅は、時には孤独で、理解されないこともありますが、それでも私たちは、自分たちの選択を誇りに思い、美味しい料理を通じて、新しい発見を楽しんでいます。
だから、次に誰かが「ベジタリアンになると、何を食べるの?」と聞いてきたら、笑顔で「想像力と創造性をたっぷりと」と答えましょう。それが、ベジタリアンの真髄ですから。