はてなキーワード: 話者とは
この辺、ブクマカの奴らがどこまで自覚的かあやしいから、一応、強調しておくわ。
もちろん、「自分にとって役に立っていない」という実感から出発して、(なんらかの理論的な接合点を提示して)「世の中の大半の人にとっても役に立っていない」という立論をすること自体が無理筋なわけではない。
しかし、三角関数をめぐる議論と同様、「社会システムの維持・運用・改善において、どのような役割を果たしているか」を充分に理解して初めて、それを主張する権利があるんじゃないのか、と思う。
言うまでもなく三角関数の社会的な実利の最たるものは、工学の分野における設計・計算・分析、さらにはその背景にある数学的思考法そのものへの貢献だよな?
じゃあ、漢文は?
これに対する答えが全く思いつかない奴は「能力不足により学習成果を碌に得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている馬鹿」だから、発言資格なしな。
【参考】
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/m-dojo.hatenadiary.com/entry/2024/03/01/033138
最近なんかブクマカの傾向が変わって、自分の頭で考えることが苦手で権威に弱い奴が増えているから、わかりやすいように、まず権威を引っ張ってきてやるな。
日本の文学は漢字に非ずや、日本の文学は漢文崩しに非ずや、漢字を用ゆるの法を解せずして、能く文を作ることを得んや、真に文に長ぜんとする者、多く漢文を読まざる可らず
まあ、僕が言いたいことは中江兆民が全部言ってくれているなって感じなんだけど、自論として敷衍すると、主に以下のことを主張したい。
(1)現代社会において(おそらく歴史的にも)、最重視されているのは言語コミュニケーションであり、非言語コミュニケーションは補助的役割しか果たしていない。
(2)よって、社会全体の「言語運用能力」の水準維持・向上は、優先順位が著しく高い。
(3)日本社会においては現代日本語の運用能力が重要であるが、現代日本語は突然変異的に現れたものではなく、漢文や古文といった歴史的蓄積を基盤として成り立っている。
(4)したがって、義務教育において漢文の語彙・修辞を学習することは、多くの人が現代日本語における表現技法に長じることに繋がり、より豊かな自己表現・他者理解の実現という形で、社会全体の福利に資するものである。
(1)と(2)は、まあ大体の人が同意してくれるかと思うけど、一応補足すると、たとえば、「勉強ができない小学生はまず国語ができていない」っていうのはよく指摘されているよな?
なんでって、そりゃ「学習は言語による伝達が前提とされているから」だよな。
これは歴史的に過去の蓄積の継承には言語が最も重要な手段だったからだよね。だって、対面なら非言語的な手法もある程度役に立つけど、時間的・距離的制約からして対面による伝達のみに頼るのは非効率すぎるよね。
今となっては、動画や音声を記録してそれを広く伝播させることも可能にはなったけれど、それだって結局かなりの部分を言語に依存しているよね。
世界中を探せば、たとえば言語ではなく音楽を用いたコミュニケーションを重視する民族が存在するかもしれないけど、そういった方法論は全くヘゲモニーを握っていないよね?
「画像」を共有するインスタ、「動画」を共有するTikTok、それぞれそれなりに流行ったけど、これらがSNSの最大勢力か?違うよね、ここでも「言語」を共有するコミュニケーションツールが最大勢力よね。
したがって、「言語」の問題は、他の「音楽」とか「美術」とかと同列に語ることはできない。
個々の認知・思考への影響もあるけれども、それ以上に社会全体の問題として、人類の発展を支えてきた知恵・知識の継承、認識の共有による社会形成といった点において、「言語」こそが最優先と言ってもいい。
で、どっちかっていうと、(3)や(4)の方が意見の分かれるところだよね。
この辺は実感がない人が一定数いても仕方がないかなとも思うので、いくつか具体例を挙げていく。
たとえば、語彙のレベルでは「五十歩百歩」とか「鼎の軽重を問う」とかになる訳だけど、もう少し広く文章表現にも関係している。
冒頭で書いた「教養なき輩に教養が何たるかを語ることができようか」は【反語】という表現技法で、これ漢文由来です。(もちろん英語にも反語的な表現はあるけど、日本語の文章表現の由来は漢文の方。)
「すべからく~だ」の誤用がちょくちょく話題になるけど、これ【返読文字】という漢文の読み下し技法を由来とする表現だね。(漢文的には「須らく~べし」)
あと、よくあるのは、【対句】かな。「Aはα、Bはβ」みたいなやつ。
杜甫の『春望』の「感時花濺涙 恨別鳥驚心」(時に感じて 花にも涙を濺ぎ 別れを恨んで 鳥にも心を驚かす)が典型例。
項羽の『垓下の歌』の抜山蓋世、正確には「力抜山兮気蓋世」(力山を抜き 気世を覆う)も有名だけど、厳密には対句とはちょっと違うのかな。
それと、結構重要な影響を及ぼしているのが、「同じようなことを複数回表現したいときに、できる限り同じ言葉を使わない」というルール。
冒頭で僕が書いた「能力不足により学習成果を碌に得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている」っていう文章だけど、これ「勉強が苦手だったせいで、勉強による成果が得られなかったせいで、勉強に意味がないと思っている」という表現だったら、どう?
なんだか頭悪そうに見えるし、その点を置いておいても、同じ単語が出てくるせいで目が滑ってあんまり頭に入ってこなくない?
要するに、見栄えが悪いという美学の問題でもあるんだけど、読みやすさや読み手に浮かぶイメージの豊かさの観点から、できる限り、別の語彙で(=表現を吟味し、言葉を尽くして)語るのが良い文章ということだし、これは漢文から大いに技法を学べるところなの。
文化的影響の側面を言い出したら、たとえば井伏鱒二の「さよならだけが人生だ」とかかなり色々あるけど、実利の話としては脱線かもしれないし、そこはまあいいや。
とりあえず、ざっとした話としては、「漢文は現代日本語の語彙・表現・リズムに大きく貢献しているし、それは無意識のうちに現代日本語話者に多大な影響を及ぼしている」とだけ理解してくれればいい。
漢文を学ぶことは現代日本語を学ぶことであり、これ抜きに豊かな文章表現はできない。
できるっていうんなら、実例を持ってきやがれ、ってんだ。
(実際、本当にそういうものがあるのなら、日本語の新たな可能性だから、見てみたいと思う。)
優先度が低い
こっちは優先度が高いと思っていて、その理由を「言語の重要性」と「日本語における漢文の重要性」としてるので、「優先度が低い」とだけ主張しても平行線なのよ。
どちらかの点を否定する論拠がほしい。
現代数学だって当然に突然変異ではなく歴史的蓄積を基盤として成り立つものであるが、数学能力を育むためにユークリッドの原論から始めようという奴はおらぬ。
一理ある。
ただ、問題は、現代日本語の「修辞学」を学ぶ方法がほとんどなく、事実上、漢文がそれを補っている、っていうことなのよ。
断片的な読解テクニックは教えてもらえても、まともに「修辞学」を習えた覚えがない。それを言うなら漢文だって充分ではないけど、有用度は漢文の方がかなり高いと思う。
まあ、しょせん僕の経験でしかないので、ある程度多くの人の共通体験として、「現代文の授業のおかけでこれが身に着いたよね」というのが明確になれば、議論も落ち着くのかもしれない。
そうだっけか。
僕は中一で漢文、中三で三角関数を習ったけど、私立の中高一貫だったので、カリキュラムがいびつだったからなのかも。
もしかして、普通の公立の中学・高校の学校教育のことわかってないかもしらんね。
なるほど、2022年から「論理国語」という科目が増えたんだね。ものを知らずに思い込みで主張して申し訳ない。
https://www.taishukan.co.jp/kokugo/product/?type=textbook&id=63
カリキュラムを見ると、「定義」「具体的/抽象的」「立場・対比・対立・仮説」「統計・分析・分類」等に重点を置いているみたいで良さそうだね。
これを必修化してはどうか、というのはよくわかる。
増田を見ると、ありがちな過ちが目に付く。"言葉の意味を重視しすぎる"ということだ。嘆かわしいことである。
人々の会話の中で、言葉それ自体は重要ではない。言葉それ自体は意味を伝えない。人間のコミュニケーションの作用機序を考えると、"話者の思考感情の顕現→話者が言葉を発話→聴者による受領→聴者が辞書的知識と経験から言葉の意味を"想像"する→聴者が全体の発話を一連の意味として受け取る"と形式化できる。言葉自体の意味が、呪文のように"直接"聴者に影響を及ぼす場面はない。例えば、「maot! Anjeun jalma awon.」なんて知らない言葉で罵倒されても意味が分からないだろう。態度に気分を害することはあるが。
言葉が意味を伝えないからこそ、我々はコミュニケーションを行うためには言葉の意味に拘泥するのではなく、"話者の思考感情"を発話から体感する必要がある。そうしなければ、辞書的な言葉の意味に囚われ、相手の思想を見失い、会話は成立しなくなるだろう。"言葉が通じているのに、話が通じない人"と成り果ててしまうだろう。ディスコミュニケーターの誕生である。言葉に引きずられて幻覚を見てしまうことは悲しい。
相手の言語化が完璧とは限らない。相手が表現の語彙を持っていないかもしれない。我々は言葉と会話するのではなく、人間の思想と会話するのだ。
それは自分の中の思考でもそうだ。言葉を疑え。意味を疑え。君が本当に表現したいものは何だ?それを本当に言葉で表現できているのか?世にある言葉は誰かが作った、誰か(もしくは大衆)の思想を表現したものだ。
思考を既存の言葉に落とし込むと、ポロポロと細かいニュアンスがこぼれ落ちて、まるで別物になってしまった、という経験はないか?
我々は言葉によって世界を定義し、「アレ」と「コレ」の分別を身につけた。しかし真に世界を、人々を正しく見るなら、言葉で考えることから脱する必要がある。世界は言葉で構成されていない。人々の思考もまたそうである。
そうして「アレ」と「コレ」の分別をなくすからこそ、そのアナログな接続が論理的に顕現し、既存の枠組みにない概念となってそれを言葉で表現することができる。不思議なものである。
Q.
A.
>日本語は外国人からすると発音に関しては簡単と言われますが、
そうですか?
中国人や韓国朝鮮人は清音と濁音の区別が難しく感じますし、英米人は伸ばす音と伸ばさない音の区別が苦手です。
どこの「国の言葉」とのことですが、仮に英語が答えだったときは、どこの国の言葉だと回答すればいいのでしょうか。
フランス語だった場合は?ある国の一部でしか話されておらず、その国全体では話されていない言語だった場合は?
日本のように国と言語が一体一で対応している(つまり、その国ではその言語しか話されず、その言語はその国でしか話されない)言語は世界でも稀です。
国がどこかではなく、どの言語かということで解釈してもよろしいですか。
Ethnologue によると、母語話者の多い言語の上位20位は、順に、北京語、スペイン語、英語、ヒンディー語、アラビア語、ポルトガル語、ベンガル語、ロシア語、日本語、ジャワ語、ドイツ語、西パンジャブ語、呉語、テルグ語、マラーティ語、タミル語、フランス語、ベトナム語、韓国朝鮮語、ウルドゥー語です。
しかし、日本では世界に何千とある言語のなかで上位20位に入っているヒンディー語、アラビア語、ベンガル語、ジャワ語ですら、外国語として学習する機会やこれらの言語に触れる機会が少ないことから、マイナー言語扱いされてしまうことがあります。
たとえば、話者数が約二億人のベンガル語や、約八千万人の呉語がマイナー言語として扱われ、その存在すら知らない人がいたり、呉語に関しては大きな書店に行っても、一冊も関連書籍が見つからない一方で、話者数が3万人を切ると言われるハワイ語は、ハワイ関係の雑貨店や料理店、イベントなどでいくつかの単語を見かけたり、書店にもハワイ語を紹介した書籍があったりと、あまりマイナー言語としては扱われていないような印象もあります。アロハくらいは結構多くの人が知っていたりします。
というわけで、言語というのは奥が深いのです。
仮にマイナーでない言語というのを母語話者数トップ10の言語に絞ったとしても、北京語、スペイン語、英語、ヒンディー語、アラビア語、ポルトガル語、ベンガル語、ロシア語すべての発音を知らなければ答えることはできません。
ですから、この質問に回答できる人というのはかなり限られていると思います。
あくまで、私が発音を知っている言語のなかで日本人にとって、母語話者に通じる程度の発音を身に付けるのが簡単だと感じた言語ということで答えさせていただくと、ハワイ語やマオリ語です。
なお、あげてくださった韓国朝鮮語は、日本語にない平音、激音、濃音がありますし、母音の数も日本語と比べると多いので、決して簡単なほうだとは言えないと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13109722433
デンマークといえば、みんな大好き「(植民地とかではない)メインの領土が大陸にあるのに首都が島にある」2か国のうちの1つだけど(もう1つは赤道ギニア)、確かに「現在の」地図を見れば、首都コペンハーゲンはずいぶんと端っこにあるように見える。だが、コペンハーゲンはもともと国土の中心にあった。現在のスウェーデン南部スコーネ地方はもともとデンマーク領だったが、17世紀に戦争でスウェーデンに奪われたのだ。つまりコペンハーゲンは、ユラン半島とスカンジナビア半島南端部というメインの2つの領土をつなぐ、ちょうど真ん中の位置にあったことになる。仮に東北地方がソ連に奪われていたら、東京はずいぶん国土の端っこにあるように見えるのではないだろうか。
言うまでもないだろう。仮に将来南北統一が実現したら、ソウルは統一コリアのど真ん中に位置することになる。
これも言うまでもない。独立当時のアメリカは東部の13州しかなかった。13州のうちの北部と南部のあいだの妥協案として南部に新しい首都が作られたが、地図を見ると、まあ、「真ん中よりちょっと南」の立地と評価できるのではなかろうか。
ソフィアはずいぶんと国土の西側に偏っているが、本来はそこが国土の中心になるはずだった。20世紀の初頭、オスマン帝国領バルカンに残されたマケドニア地方を周辺の3カ国が虎視眈々と狙っていた。セルビア語とブルガリア語の中間のような言葉を話すその地の住民を、セルビアはセルビア人と呼び、ブルガリアはブルガリア人と見做し、ギリシャはスラブ化したギリシャ人の裔であると主張した。二度のバルカン戦争を経て、その地方は主にセルビアとギリシャの間で分割される(このオスマン領マケドニアのうち、セルビア領になった部分が現在の北マケドニア共和国)。……そう、ブルガリアはマケドニアという果実を得られなかったのだ。仮に幻の「大ブルガリア」が実現していれば、ソフィアは「大ブルガリア」の中心部に位置することになっていただろう。
オーストラリアはもともと1つの国だったわけではなく、オーストラリア大陸に作られたいくつもの植民地が寄り集まって独立した国だ。独立するときに二大都市のシドニーとメルボルンのどっちを首都にするかでモメたので、その2都市の間に新しい首都を建設することにした。つまり、国土の中心ではないが、二大都市の中間に首都があるということだ。まあ、オーストラリアの文字通りの中心、人住めなさそうだもんね……
交通に便利なパナマ地峡に街(パナマシティ)が作られる→交通に便利すぎて街のそばに運河が作られる→アメ公が大西洋と太平洋をつなぐ運河の支配権を欲しがる→運河地帯の住民による独立運動を煽ってコロンビアから独立させる、という経緯で作られたのがパナマ共和国。つまり首都のまわりが国土になるように切り取られた国なので、国土の真ん中に首都があるのは当たり前なのだ。
ブラチスラバは国土の端っこにあり、立地的にはほぼウィーンである。スロバキアというのは、元々「ハンガリー王国北部でスラブ系言語を話す人たちが集住しているところ」に過ぎず、伝統的な行政区画を持っていなかった(これは「オーストリア側でスラブ語話者がいっぱい住んでるところ」に過ぎなかったスロベニアと同じ。この2つの国名が似ているのは偶然ではなく、両方とも「クロアチア」みたいに伝統的な地域名を持っていなかったので、それぞれが「スラブ人の土地」と名乗った結果なのだ)。それが第一次世界大戦のドサマギでハンガリーから分離したわけだが、当然「どっからどこまでがスロバキアか」という合意があるわけではなかったので、チェコスロバキアとハンガリーによる実力での分捕り合戦になった。その中で、「大都市(当社比)だし交通の要衝だから、スラブ人率は低いけど占領しとこうぜ!」となって占領されたのがポジョニ、のちのブラチスラバである。ブラチスラバはあまりに「国際色」が強すぎたので(20世紀初頭の時点で人口の4割がドイツ語話者、4割がハンガリー語話者)、国土の中心にあってスロバキア民族運動の拠点でもあったマルティンにスロバキアの首都を遷そうぜ! という議論が戦間期に行われたのだけれど、結局ブラチスラバが首都として維持された(ところで日本語版ウィキペディア、マルティンの記事名が「マルチン」になってるな。確かにスロバキア語ではtiと綴ると「チ」と読むけど、Martinみたいな外来語の場合は「ティ」の音が維持されるんだよ!)。
島国といっても、メインの島が1つなのか、複数なのかでだいぶ違ってくる。というのは、小さな島がたくさんある国だと、まずもって「国土の中心かどうか」というよりも「島のデカさ」で首都が決まることがありえるからだ。そりゃ、真ん中にある小島よりも、端っこにある大きな島に首都置きたいよね……典型的にはトンガとかがそうで、南端にあるトンガタプ島のヌクアロファに首都が置かれている。あるいは、「大きな島+小さな島」の組み合わせでできている国は、たいてい大きな島の方に首都がある。バレッタ(マルタ)とか、バセテール(セントクリストファー・ネイビス)とか、セントジョンズ(アンティグア・バーブーダ)とか、ポートオブスペイン(トリニダード・トバゴ)とか……(元増田が挙げてるニュージーランドは例外)
では、メインの島が1つしかない国はどうだろう? これなら「国土の中心」も定義しやすい……あれ、意外と首都の位置偏ってんな。元増田が挙げてるアンタナナリブ(マダガスカル。ちなみにマダガスカル語ではoと綴ってuと読むので「アンタナナリボ」は間違い)は確かに真ん中ら辺にあるし、ダブリン(アイルランド)やダグラス(マン島)やディリ(東ティモール)やアロフィ(ニウエ)やポートルイス(モーリシャス)やスリジャヤワルダナプラコッテ(スリランカ)もギリギリ真ん中辺りと言えるかもしれないけど、台北(台湾)もハバナ(キューバ)もキングストン(ジャマイカ)もレイキャビーク(アイスランド)もマナーマ(バーレーン)もヌーク(グリーンランド)もヤレン(ナウル)も島の端っこの方にあるな……首里、沖縄本島の中心都市として見ると南すぎるけど、奄美~先島までの琉球王国の首都として考えると割と中心に近くて草。
首都の立地はよくよく考えますよね。ここは盆地で長らく中央集権国家だったから真ん中に首都があるやろとか、端っこの部族が全土を統一したから首都は端っこにあるんだよとか、東部は原生林が多いから人口の多い都市は西部に偏ってるんだよとか、港町を中心に発展したんだよとか、そういうことを地図描きながら妄想するだけですごい楽しい……だから元の「首都が国土の中央部にないのはおかしい」っていうツッコミは全然理解できないっていうか、変な形の国作って変な場所に首都置くのが楽しいんやんけ、となってしまうよね……
れいわ支持者にとって、これはかなり難しいと思う。
だって少なくとも経済政策は筋が通ってる、あるいは通ってるように見える。
考え方自体はアベノミクスと同じで、そこから最大のミスである消費増税を抜いたものなんだから、見る人が見れば山本太郎は希望の星だ。
自民党で積極財政を押す議員は数少なく、いたとしても高市とか西田とかミソのついた奴ばっかで、所信表明演説で頼もしいこと言ってた岸田もあんなんだし。
だから積極財政路線に希望を見出している人にとって、やはり山本太郎は大きな存在なのだ。
今回山本太郎はとんでもない大迷惑行為をやらかして、挙句に開陳したのが周回遅れの作文。化けの皮が剥がれきったという様相だけれど、積極財政派にとって山本は大きな希望で、せっかく掴んだそれから手を離すのはなかなかに難しい。
だからX上でゆるやかに繋がってた積極財政派も変な割れ方してる。日本語話者同士なのに話がまったく通じてない。
少なくともその「アクセントも緩急もなく平板にしゃべる人」の文章での表現が誤解されてないなら、話す場合であってもその文章で行う表現をそのまま使うだけなので、平板で緩急なくても伝わるだろうから、「わかりづらいからイントネーションちゃんとしろよ」みたいに圧力かけられる機会はないのでは?
あと、面倒くさがってるのはただの事実なのでそれをいまさら言われてもって感じ。
話し言葉での意味上のイントネーションの使い分けは学ぼうとしなくても母語話者なら勝手に身につきその意味を言おうとしたとき苦もなく無意識にそう言ってしまうもの。
同じ感覚で通用すると思ったら、書き言葉の場合イントネーションの情報が消失してるから伝わらないんだということは、こういう他人からの何言ってるかわからないいう指摘により初めてカルチャーショックとして経験する問題だと思う(もしくはなんでかまでは何度指摘されても一生気づかないままかも)。
自分自身ギャンブル中毒の自覚アリだからその手の体験談をいろいろ読けど
1ある日某ををきっかけに△△を覚えた
↓
↓
↓
↓
5今も改心するためがんばってます!!
こんな私でも見捨てないでくれるみんなありかとー
治療は終わらないがー
的な締めの文章
というテンプレに従って作文されてることに気づいた。
たまに
なんかの例外処理が挟まれることがあるけど、これだけ抑えておけば中毒者の改心体験談をいくらでも作れると思う
この問題の原因について考えると
1選者
2話者
の3つの原因があると思う
1選者
大体この手の体験談を集めて掲載し世に提示するのはギャンブル中毒治療を推進する側なわけで、「治療失敗」「効果なし」「むしろ悪化」「途中で行方不明」でおわるマイナス例は掲載しないし、
「職歴なし引きこもりのカスがギャンブル中毒になってもっとカスになったので治療して職歴なし引きこもりのカスに更生させた」
みたいな共感を得にくいだろう話より
「普通の範疇の人(クズといってもたかが知れてる人)が崖からおちたのでそこから這い上がろうと努力してる」
(限られた資産の中で前者のような救いようがないクズを助けるより後者のワンちゃんあるクズの方を少しでもおおく集めたいって願望も多分あるんだろうとはちょっと思う)
2話者
自助グループに来る人は基本素人だ。治療の一環として自分の身の上話をするが、素人は自分の身の上話なんかうまくできない。
そこで(おそらくだが)話がうまくわかりやすい先任者の話を真似て話すことになるんだろう。
その中でこういうテンプレが出来上がってく、ということになるんだと思う。
また失敗例やそもそもクズな人間は自助グループという身内以上の公表は望まない、というのもあり得ると思う
最後にそもそもギャンブル中毒者の治療を受けるのはカスの中でも多少なりともマシなカスだけ。という問題もあるんじゃなかろうか。
信頼できる家族や親友がいる、ギャンブル中毒が問題となる程度には社会性がある。
もともと家族間での信頼関係がない、親友などいない引きこもり、無職の引きこもりで社会性がない、みたいな人間は周りから見ると治療する必要性が薄かったりなかったりする。
ギャンブル中毒治療の体験談を話すのはギャンブル中毒治療を受けてる人だけであって、体験談のテンプレから外れるような人はそもそも治療に来ない。
来たとしても周りが非協力的だから長続きしない
なので当然ながら体験談という形になることもないわけだ。
結論として、どれが原因にしてもこのテンプレから外れる類の「元々カスだった俺がもっとカスになった」パターンである俺にたら辛い話である
ギャンブルしてぇなぁ。最後に死ぬほどギャンブルやってそのまま死にたい。そんなことができる金もなくなったし、多少の金があるとギャンブルに使うから全然たまんねぇや
「い抜き」言葉、つまり「やっている」を「やってる」と言ったり書いたりする例は、文法的には間違いとされて(い)ますよね。こういうことは先に話すことのなかで起こるのでしょうか?
つまり、動詞の終止形を連体形と同じ形で書くのはもともと文法的には間違いだったわけですが、これが正しいとなる過程のなかでは、連体形と同じ形で表現することは、書くことにおいてではなく話すことにおいて先に始まったのでしょうか?
それで話しの中での使われ方に押されて、書くときにも使われるようになり、なし崩し的にそっちの方が文法的に正しいということになっていったということなのでしょうか?
い抜き言葉が話し言葉の中でいくら多数派になったとしても、それだけでは文法的に正しいということにはなりませんか?必ず書き言葉の世界でも圧倒的に多数派になる必要があるのですか?
どうにも「文法的に正しい」という表現自体が腑に落ちないのです。誰かなんの権限でもってなにを基準に正しいとか誤りとか断じられるのかと思ってしまうわけです。
文法=母語話者の表現のなかに見いだされる法則、なら、「い抜き」言葉はすでに法則と呼べるレベルに通用してると思うのですが。それを「いや、文法に即していない」といえる根拠ってなんなのでしょうか?たぶんその根拠に立つと、終止形を連体形で表すことだって「文法に即してない」ということになるように思えるのですが…。
そういう動画を見ると、偏った褒めチャンネルがおすすめに大量に上がってくるんだよ
数字が稼げるんだろうなあ
俺はどちらかというとネトウヨネトウヨ言われまくってたガワだけど
以前は雑学チャンネルだったのにそういう方針転換したやつとかきつい、ブロックした
外国出身日本在住Youtuberの日本上げ海外下げもちょっと
見るけど、話半分で見みなきゃならない
割といいのは日本語話者の海外在住のYoutuber、これはフラットに近い、なんせ選択して現地住んでるからね
中韓叩きチャンネルは減ったと思うんだけど(たぶん数字が出ない)
逆に日本下げチャンネルがめっちゃ少ないと思うんだけど、数字でないんだろうな