はてなキーワード: 理想主義とは
[B! 立憲民主党] 枝野幸男 立憲民主党 on Twitter: "「政権発足後、初閣議で直ちに決定する事項」を発表しました。法改正を要する事項などを含まず、文字どおり「直ちに」できることのみ掲げました。 今後発表する政権公約に掲げる各政策・法案・予算措置なども、順次実施します。政権が変わったら、… https://t.co/mph0DgwJLR" https://b.hatena.ne.jp/entry/s/twitter.com/edanoyukio0531/status/1435183473120067584
t_kei これを批判してる人たちって「いつまでモリカケやってるの」と同レベル。ただ枝野もこれらを「直ちに」やることが今後の日本にとってどのような意義があるのか、懇切丁寧に説明すべき。
https://b.hatena.ne.jp/entry/4708012553673288130/comment/t_kei
↑☆が100個近くついてるようだが、かなりおかしな主張だ。批判の大半は「(枝野氏自身が述べている通り)政権をとればすぐに実現すること、ではなく政権をとるために必要なアピールをしてくれ」というものだろう。それを「自民の腐敗を追求するな」と同列に扱うのは悪い方向に煮詰まり過ぎだろう。
正しく価値があることと、目的達成のために必要なことを混同しているように見える。それら必ずしも一致しないし、後者をやるべきだという意見は前者をないがしろにしろという主張ではない。
もちろん、『枝野氏がこれらを「直ちに」やることが今後の日本にとってどのような意義があるのか、懇切丁寧に説明すること』には価値があるが、それが次の選挙での勝利に繋がると考えるのは空想的な理想主義にすぎないだろう。枝野氏にそんな洗脳じみた影響力はないよ。
吉田光雄さんはTwitterを使っています 「小山田圭吾のいじめ発言は、悪趣味ブームだった当時(94〜95年)は別に問題にもならず、 その後だんだん世間の常識が変わってきてからは何度も「これはひどい!」的に掘り起こされてきたという経緯があります。そして、あれは小山田圭吾だけじゃなくて、当時の『QJ』とライターの責任も大きいかと。」 / Twitter
これはちょっと言葉足らずで当時知らない世代には誤解しかならないと思う。
今にも続くけど文科省、教委、PTAの「理想の学校」に対して白けながら「現実の子供は違うんだよw」って露悪してカウンター食らわせる。今は増田含め匿名ネットコミュニティでしか見ないけど昔は雑誌が発信の場だった。
増田にも大勢いるけど「障害者と同じ学級は嫌だ!」「言葉が通じないやつは嫌だ!」という差別心は当時以上に今のほうが支持されるのではないか。
90年代のカウンターブームは別に学校、教育に対してだけでなくて、男女雇用機会均等法への反発や、歴史修正主義みたいな政治分野も雑誌で担ってた
この記事も言葉足らずだからかおかしな反応が見られるな。「露悪的」「本音主義」というのは今で言うと「現実主義」「リアリスト」ってことよ。
当時はまだまだ「理想主義」に力があって「権威」になれた時代だったからカウンターとしていくらでも露悪的に過激になろうとしたし、大海の一滴のサブカルだからそう振る舞ってもスルーされる土壌だったというだけで、常識が当時と今とで違うからという話ではない。
弱者男性差別は存在するから知ってください、フェミニストはこれ以上差別しないでください
https://note.com/mefimefiapple/n/n6b712e954db8
上記のnoteについて「何故女性やフェミニストに言うのか」「強者男性に言うべきでは」との意見がある様なので、何故なのか、読解してみようと思います。
予め断っておくとこれは女性やフェミニストへの攻撃の意図はありません、また件のnoteについても敵意は(受け止められている程には)大きくはないと判断しますが、それについても最後に触れます。
ではどのように読解すればいいでしょうか?いい方法があります。
以下の様に、国語のテストだと思って読解してみてはどうでしょうか?
このように国語のテストだと思えば、noteを読み込んで該当箇所を抽出するのも楽になる人も居る筈です。難しい問題や複雑な問題もゲームやテストだと思えば簡単に解けてしまう人はいるものです。
(これを「ゲーミフィケーション」という言葉に倣って「国語の期末テスティフィケーション」と呼ぶ(「国語の中間テスティフィケーション」でも可))
以下、幾つかのパートに分けて女性やフェミニストに向けられている理由と解釈できる箇所を抜き出します。
上記箇所の様に、このnoteでは女性も抑圧者・加害者になり得る事を繰り返し強調しています。
これがこのnoteの目的だとすると、明らかに女性に向けた方が効率的です。強者男性に向けて「実は女性も抑圧者になり得るんだ」と言っても「お、おう」と成るだけですし、むしろ告げ口に似てしまいます。だから女性本人に言う必要があると言えます。
また、男性が強者側に位置付けられたり、「抑圧者=男性」という図式が前提とされがちな現代では、そうでない側を殊更に強調する必要があり、そこに女性を対象にする必然性もあると言えます
(ただしその様な前提はテキストの外部から読み取る事なので、テキスト内で論理的に完結する必要のある国語のテストとしては回答に出せない部分になります)
上記箇所の様に、noteでは差別そのものに負けず劣らず、差別を否認し、正当化する事への非難に紙幅が割かれます。
例えば、
未婚男性の寿命の短さは無視される上男性の女性虐待の証拠になり、男性のメンタルの悪化と低すぎる幸福度は無意識化された特権意識のせいにされ、ホームレスと引きこもりさえも女性に厳しい差別的構造の例だとされます。
の様に、男性の差別的な境遇を問題化しようとしたときに、それが女性差別の問題へとすり替えられる様子が描かれます。
弱者男性差別そのものは強者男性・女性・フェミニスト共に加害者に成り得ますが、「弱者男性差別→女性差別」の様な差別の主題のスライドは、女性差別を取り沙汰したいフェミニストにしか動機がありません。
従ってこのような差別のスライドを問題にする限りでは、フェミニストの方々に向ける理由があるという事に成ります。
こうなるとフェミニストはもはや、「女性差別は気にするけど男性差別は気にしない」だけではなく、「女性差別は気にするけど男性差別は積極的に口を塞いで透明化する」というセクシストに見えます。
という箇所も同様でしょう。差別のスライドによって「男性差別は積極的に口を塞いで透明化する」という積極的な加害行動が問題化されます。
関連して、
フェミニストの方に考えてほしいのは、「男性差別はない」「あったとしても大きな声で言うのは女性の口をつぐむことだからいけない」という考えはこの時点でかなり人権軽視であったり、性差別的な言葉ということです
という箇所もありました。
ここについてもやはり、「男性差別はない」「あったとしても大きな声で言うのは女性の口をつぐむことだからいけない」といった発言をする動機が大きいのは女性やフェミニストです。対して強者男性にその様な発言をする動機は大してありません。
(例外としてフェミニストかつ強者男性の場合、女性フェミニストと同じ動機を持ち得ますが、当然その場合「フェミニスト」に重なっています)
似た箇所として、以下の部分も上げられます。
なぜ弱者男性が、ジェンダー平等を望む仲間のはずのフェミニストを攻撃してしまうのか、それは一部のフェミニストがジョージ・ワシントンだからということもあるでしょう。
ここでジョージ・ワシントンは「世界で最初の人権を宣言した憲法を書き上げながら、ネイティブ・アメリカンへの虐殺を差別だと認識できなかった」人物として言及されます。
この文意は「一部のフェミニスト」がジョージ・ワシントンと同様の構造(つまり、女性の人権を保護しながら、弱者男性への差別を認識できなかった)を持っている、だと解釈できます。その上で、
自分たちも白人も平等に殺す無法者より、人権を高らかに謳い上げるがお前たちは人間じゃないから殺されてOKと言う、ジョージ・ワシントンの方が憎く見えたでしょう。
という様に加害そのものより、差別の正当化や、「人権を謳い上げる」正義側に無視される事の苦痛が強調されます。
この点に着目した時、フェミニストは(時に露悪的な)強者男性よりも正義を僭称する機会が多く、正義側としての側面が濃い為、強者男性よりも対象にする動機が大きいと言えます。
この箇所では明確に、差別的な度合いが強者男性より女性全般のほうが大きい可能性を検討しています。
女性はこの差別の抑圧者として大きな存在です。上記の差別では明確に女性の影があります。私自身、街を歩いていて嫌悪や指をさして笑う行為、吐き気をするようなジェスチャー、そういったことを度々経験していましたが、すべて女性でした。
以上の様に、女性による直接的な差別や加害もnoteでは幾つか言及されます。
「彼女も作れない人間はセクシストで、そのような人間の悲鳴はすべてミソジニー」というような意見をフェミニストが多くするのが原因です。男らしくならなければジェンダー平等を訴える人たちの間でさえ人間扱いされないどころか、セクシスト扱いされるのです。
これに対して、女性は異性の「点数が低い人達(先程の結果からみると本来は平均的な人たち)」を排除したり、嫌がったり嘲ったりする形で攻撃します。
例えば「女は黙って朝飯作って帰りは正座で待ってくれてないと」のような差別的な言葉と「無職の男とか絶対無理キモい」のような差別的な言葉は同じくらい重い、そう言えます。
こうした直接的な加害は恐らく女性やフェミニストの方々の中でも一部の方がしている事で、女性やフェミニスト全体がしている事ではありません。
従って女性やフェミニスト全体へ向けてこれらの事を直接の告発として言うのは(丁度一部の男性が行った加害を男性全体に向けて非難するという、弱者男性問題の主要な問題の一つと同様)間違っていますが、
「ぶつかりおじさん」の様に、女性側からは見えにくい一部の女性の加害を知って貰う、という可視化としては意味を持ち得ます。
そしてこれらが女性側からは見えにくいのであれば、特に女性に向けて周知する意味があると言えます。
特にその中でも、
最も弱者男性が差別的なことを言っていて、かんたんに論破できるような「女をあてがえ理論」に対するフェミニストたちの反応を見てください。「弱者男性とかキモい無理。女性の人権を侵害している。」、「その考えが差別的。特権意識から降りろ。」、その他諸々。なぜ、「女性が誰と結婚するかは個人の自由なので社会や国家が介入するな。」とだけ言えないんですか??
フェミニストが差別を糾弾する際、「キモい」「特権意識から降りろ」等の余計であったり部分的に適合しない侮蔑を含めてしまうケースが上げられています。
この箇所を「差別を糾弾する際に、別の差別意識が表面化し易い」という意味だと解釈すると、差別を糾弾する機会の多いフェミニストの方々に特に向ける意味があると言えます。
この貧しい家庭に生まれていじめで苦しむことも多い一生弱者男性(これは実際に統計的に全部正しいんです)は、下駄を脱げと言われても脱げる下駄がありません。むしろ、脱出できる可能性、助けてくれるまわりや、ケアしてくれる行政や団体の偏りを考えると、この層においては女性が下駄を履いていると言っても嘘になりません。この層に「下駄を脱げ」というのは、レイシストが「在日コリアンは特権を捨てろ、社会を牛耳ってる支配者のくせに弱者のフリをするな。孫正義を見てみろ。」というような最悪な言葉と大差ないのです。
この箇所はフェミニズムの文脈で男性に向けられがちな「下駄を脱げ」といった言説が、弱者男性の場合には適合せず(脱げる下駄が無い)、「在日特権」の様な存在しない特権の糾弾という、深刻な差別に成ってしまうケースが扱われています。
このようなフェミニズム言説への応答の箇所は、当然フェミニストへ向ける意味を持ちます。
また、
障害や貧困や差別で苦しんでいる中で、誰か一人にでも愛されたくても無理で絶望して今も首をを吊っていってる人たちに、無理とかキモいとかお前の孤独感さえ差別の証だだとか、それはもう加害欲求が暴走している、差別が楽しくてやめられない、としか言えないじゃないですか。
ゲイも、トランスジェンダーも、在日コリアンも、ハーフも、黒人も、障害者も、相手を「キモい」と言って正義の名のもとに糾弾する光景をあまり見ないですが、フェミニストだけは例外です。
の箇所の様に、フェミニズム的な批判に伴って加害欲求が暴走する可能性についても警告しています。ここもやはり強者男性に向ける意味はあまりなく、フェミニストへ向けて初めて意味がある箇所になります。
件のnoteを読み返しながら、国語のテストのつもりで関連しそうな箇所を抜き出してみましたが、結構あるものですね。
ただこれで全部ではないと思います。もしできれば、これを読んでいるあなたも国語のテストのつもりで挑んでみてはいかがでしょうか?
最後に、これまで追ってきたようにあのnoteは女性やフェミニストへ向けて書かれたものですが、「向ける」ということが「攻撃」や「批判」とイコールではない事は強調しておいた方が良さそうです。
現に彼自身、
だから、一部のフェミニストの方がしてしまったことも、不幸なすれ違いだと思うんです。「ただそんな人達がいると知らなかった」だけだと思うんです。なので、ジェンダーで苦しんでいる人間たちは一緒に戦っていける、そう思っています。理想主義的ですが、理想がないと進歩もありませんから。
と書いています。
この増田に付いても女性やフェミニストへの攻撃や批判の意図ではなく、あくまで彼の文章が女性やフェミニストへ「向け」られていた理由を読解する為に書いたものです。
もし彼のnoteやこの増田を読んで自分を責めている女性やフェミニストの方が居たら、自分を責め過ぎないようにしてください、責める事が目的なのではなく、知って貰う事が目的ですから。
彼のnoteは女性やフェミニストへ向けられていますが、それに応答するために女性やフェミニストの方がするべき事は、実はそれほど大きくはない、というのが私の解釈です。まずは「知る」「存在を認める」「積極的な加害はしない」ただそれだけの事で達成できる、ささやかなものなのです。(当然ですが、同様の事を私は女性差別に対しても行います)
そして私が言うまでも無く、彼のnoteへの反応の中で既にそれをしている女性が何人か居た事は知って居ます。そのような方々に尊敬と感謝を申し上げると共に、そうした方々が今後増える事を祈ります。
今回の主題からはズレますが、何故「弱者男性」を取り上げるのか?と疑問を抱いている方も居たので、ごく簡単にですが、ここにも読解を加えておきます。
私は「男性」という属性は、「ヘテロセクシャル」「健常者」といった単純に「強者」とみなしてもあまり問題が発生しないものではなく、特定の属性とつながるととても悪い影響をもたらす属性だと思っています。
「男性」に「障害者」、「貧困者」、「外見が悪い」などが付くと、「女性」にそれをつけた時より状態が悪化するということがあります。これが「弱者男性差別」です。
この箇所で言及されている通り、「障害者」、「貧困者」、「外見が悪い」等の弱者属性と「男性」が組み合わさった場合に特に悪化・深刻化するとすれば、
それは「弱者」単独でも「男性」単独でもなく、「弱者」+「男性」という組み合わせをわざわざ取り上げる強い動機を生む事になります。何故ならそのような悪化・深刻化は組み合わせないと発現せず、見えないからです。
・介助が必要な場合はカスタマーサービスに36時間前までに電話で介助スタッフ予約
https://www.vr.fi/en/facilities-and-services/accessible-train-travel
・乗降サポートのみが必要な場合は事前予約不要、ただ事前連絡が望ましい
・車椅子の形や重量によっては乗車不可
・全ての駅でのサポートは不可
https://www.sj.se/en/we-offer/disabled-community.html
・一緒に持てる荷物は20kg1つまで
https://www.sj.se/en/we-offer/disabled-community.html
コロナによって東京オリンピックの開催がおじゃんになった世界線の2031年。
世は禁酒法ならぬガチャピンが定めた禁嫌法から10年が経っていた。
かつてガチャピンの片腕であったムックは禁嫌法の緩和を訴えるも反嫌法に基づいて電気椅子に送られてしまっていた。
「嫌い」をキめたくて仕方がない人々は、
はてなというアングラなサービスを使い日々「嫌い」という感情をぶちまけるのであった。
いったい、どうしてこんなことになってしまったのか?
このようにきわめて重大な法令を、
国民はなぜこのように圧倒的に、まるできまぐれのように受け容れたのだろうか。
コロナの流行は禁嫌指導者に大きなチャンスを与えることになった。
完全禁嫌プログラムには反対していたはずの人びとの注意はコロナに奪われ、
国家存亡の危機に際しては、人間の自由意志などは些細なことだと考えられた。
またコロナは、ガチャピンに広範な権力を与える思いきった法律制定に、国民を馴らしてしまった。
感情の節約が必要となり、感情節約の手段として、ガチャピンはリベラリストたちに禁嫌奨励することになった。
憲法修正第ガチャピン条はその自然な表現だが、コロナはまたスパルタ式理想主義のムードをもたらした。
マイノリティが良いものであり、マイノリティが生産能率の良い存在であるならば、禁嫌論議は、さしあたり反駁の余地のないものだった。
もしこのコロナとの戦いがすべての争いを終わらせるものであり、勝利が新たな輝かしい世界秩序をもたらすことを可能にすると考えるならば、
この効果的な禁嫌を無限に続ける時代に入っていくことを想像するのは、いかにも容易であった。
そして結局、コロナとの戦いは国民を、即座に結果があらわれないと苛立つように変えてしまった。
2022年と2023年は、やる価値のあるものは何でも、官僚式手続きや反論や快不快や便不便を無視して、即刻やる価値がある、ということになってしまった。
こうした諸勢力の結合は、抵抗し得ないものだった。国民は熱病にかかったように、息せききって、禁嫌のユートピアへの近道を選んだ。
イスラムと中国のパワーアップに対して、リベラル陣営、まあぶっちゃけEUとか、リベラルが掲揚していた陣営は、ここ10年で惨敗した。
ぶっちゃけ、自民党に惨敗する立憲民主党と共産党よりもひどい負け方をしてる。
いままでは、「自由になればこんないい暮らしができるんだぞ」と豊かさを提示できたが、それができない。
自分たちは高貴なリベラル民であり、ごみどものネトウヨ極右とは違うという選民思想に支えられていたが、その実態はただの馬鹿であり、初歩の科学的知識もなく、イデオロギーに凝り固まったただの愚者であることを露呈している。だというのにまだばれていないと自分たちは思っている。
しかし実際には、欧米側の混乱も含めて、期待したような結果にはならず、むしろEUの寛容さが張りぼての理想主義であり、結局のところお題目ほどEUは自由ではなく、スカスカだったことが露呈してしまった。
米国にしても、オバマは結局のところ8年間に何をやったかといえば、この時代の停滞に、ひたすら手をこまねいていただけで、何一つ事態を進展させず、結局のところ自由の敵に、血よりも貴重な時間を与え続けた。
トランプをはじめ、あらゆる各国で反リベラル勢力が台頭し始めたことは、必然だったろう。
きれいごとを言うだけ言うが、結局それを実行するための能力が欠如していたことは、反省点として挙げねばならない。
特に中国は、リベラル勢力が停滞している間に、あっさりと国力を増大させて世界2位の座を奪ってしまった。
だというのにいまだにリベラル派は、その負け続けた戦法を変えようとしない。