はてなキーワード: 永遠にとは
俺はウマ娘の大ファンだ。競馬のことはよく知らない。興味すらなかった。でもウマ娘のおかけで興味を持ち、普段それほどゲームはやらないがウマ娘にはどっぷりと嵌まった。
確かに育成に関してはマンネリ化する面もある。しかしそれを補って余りあるシナリオの良さとキャラクターのかわいさ!どのウマ娘も本当に魅力的だし、かわいさの中にも芯が通った凛々しさというか凛した美しさがある。
ストーリーだって、何度泣かされたか分からない。ウマ娘は熱いんだよ。古き良き昭和を思い出させる熱さがある。そうしたストーリーには何度も心震わされた。ゲームでこれほど感動したのは初めてだと思う。そして、それを誇れるぐらいにはいい話が多い。ウマ娘に影響されて、聖地巡礼として競馬場を巡ったほとだ。
もちろん、ゲーム内でのレースも当然面白い。なんだかんだで毎度手に汗握るし、自分の育てたウマ娘が勝つと本当に嬉しい。
俺は貧乏だから課金はできないけど、今後とも続いてほしい。そしてこれからも、ウマ娘たちの輝くような活躍を見せてほしいんだ。
見て思い出したけどイオンお買い物アプリがめっちゃ糞。iAEONアプリのほうじゃなくてイオンお買い物アプリが糞。アプリ見ただけではクソさは半分も伝わらないので一度実際に店舗で使ってみてほしい。
ちなみにiAEONアプリは使えるんだがしょっちゅうログアウトが入ってログインがめんどくさい。
最近ミスドもポイントアプリが変わったけど、チャージしないと使えなかったカードが来店ポイントつくようになった…ってのが分かりにくいね。チャージしないと使えない仕様に思える。
ファミマのアプリは…これはアプリの話じゃないがポイントつけて電子決済したいだけなのに勝手にポイントから引くおじさん店員がいつまでも改善されず嫌で行かなくなった。
スタバのアプリはなんもわからん。レジでの頼み方もいまだわからんくて指差してこれしか言えんから期間限定の甘いやつばっか飲んでる。
無印良品のアプリのマイルが意味不明すぎてポイントも堪らないし溜まったポイントで出るクーポン安すぎて引く。
ダイコクドラッグのアプリはまじでチープだけどこういうので良いんだよ感。
ウエルシアのアプリはVポイントとかいう意味わかないものになるんだし社長とついでにリニューアルでまともになってほしい。
KADOKAWAのアプリ。まじで意味わからんけどキャンペーンの還元率高くて文句言えない。
個人的に一番クソはPayPayです。
以前、ここで大事な言葉をくれた人の、ブックマークを辿っていた時に「増田がメンヘラにとって救済をもたらすサービスであり続けて欲しい」を見つけた
どのように感じたかは私にしかわからないので、永遠に誰かにこの感情が伝わることはないが
相変わらず私はぐちぐちと思考の飛躍や感情の上下運動に振り回される様子を、増田のしかも匿名で披露している。どうかこのことに何らかの意味があって欲しい。
私は自分自身の人生について、「あまりにも辛く、ほとんどの時間を疲れ果てた状態で過ごし、さらに今にも死にたくなる瞬間がたびたび勃発してしまう」ものであるように感じている。それならば、私の不幸によって同じようにどこかで苦しい思いをしている誰かが救われて欲しい。
ここ、ここだ
私は、こう考えている
インターネットは、あるいは我々が生きているこの世界は、宇宙は
気付けば、私の周りには誰もいなくなっていた
私という惑星を中心としたこの領域には、私しか存在していないようだった
光子の1つ1つが、膨大な時間をかけて星々の生き死にを伝えてくれる
遥か彼方には、どうやら互いを重力で引き寄せあうような星系があるらしい
私には、関係のないことだった
1980年代に入って、天文学者の観測により、数億光年彼方には約2億光年にわたって銀河がまったく観測されない空っぽの空洞が存在することが明らかになった。その後、同じような空洞が他にも幾つか発見されて、こうした銀河の存在しない超巨大空間は「超空洞」と呼ばれるようになった。さらに研究が重ねられ、銀河系の集合した超銀河団は、この超空洞を取り巻くように膜状に連なり、ちょうど石鹸を泡立てた時のように幾重にも泡が積み重なって、宇宙の大規模構造を構成していることが分かった。
「増田がメンヘラにとって救済をもたらすサービスであり続けて欲しい 」は2022年の投稿だ
二階堂奥歯の「八本脚の蝶」に関しては、2003年が最後の投稿になっている
彼ら・彼女らの放った光が届くまで、何年も十何年も何十年もかかる
私が放った言葉も、きっと何年も十何年も何十年もかけて、誰かに届くのだろう
この孤独で残酷な宇宙の中で、ボトルシップのようなやり取りを保証する場所がインターネットという空間であると信じている
ひとりぼっち の だれか の こえ は
――「ひとりぼっち惑星」より
オーケーオーケー。長いこと付き合ってくれてありがとう。誤解のせいで余計に話を長くさせてすまんかった。
元々が与太話なんで、アイディアさえ伝われば、あとの細かい仕様を詰めるのも意味ないんだけど、それなりの移行期間を経れば、「今後、札の肖像部分は変えていくので、読み取り機はここに依存しないようにしてね」みたいな宣言(あくまで一例だよ)で、デザインの変更もできるようになるよ。最短で、渋沢栄一の次のタイミングで宣言できる。もっとも、2044年頃にそんな宣言したって、その宣言が役に立つのは更に20年後の2064年からかもしれなくて、ほとんど紙の現金は流通してなくて、困るようなラーメン屋さんもないかもしれないけど。
永遠に旧札が通用するかどうかは、いまだって聖徳太子が通用する券売機を設置するのは各企業の自由だし、券売機のコストや偽札のリスクを考慮して市場が決めればいいんじゃないかな?
何世代前までの旧札に対応するかは、券売機メーカーや、券売機を選ぶ各企業が決められるよね。設定で切り替えられるならなおよし。
「タイミングの問題だけで結局新札に刷新する毎の読み取り機買い替えが発生することは変わらない」というのも、もともと5年伸ばせるだけでもその間に潰れるラーメン店のことを思えば経済性は向上するだろうし、偽札偽造側が不甲斐なくて「ひと世代飛ばせる」とすれば、だいぶ助かるよね。現実問題、ホログラム無しの1世代前の福沢諭吉だって、いま(あなたが危惧するような、判定機が真札と判定するレベルで)偽造できればいろんなところで通用しちゃうと思うけど、偽札偽造側も案外不甲斐ないよね!
なお、正直
の部分は、とんと理解ができない。もしくは、私の話があなたに伝わっていない。すまんな…。
後半の指摘は理解できるよ。そこにはさらなる議論やアイディアがもたらされてもいいと思うけど、そもそもそこまで熱を上げる話題でもないというブレーキは、そろそろ必要だろう。
「新札の仕様を旧札とほぼ同一にし、新札にはセキュリティチップ以外の差異は無くする」
というのはもう、そもそもなぜ数年に一度札のデザインを変えるのかという目的を見失っている。
永遠に旧札が通用するのならまさに完全に目的を見失っているし、
徐々に旧札を回収して市場が新札だけになった時点で読み取り機をセキュリティチップ対応にするのであれば、
タイミングの問題だけで結局新札に刷新する毎の読み取り機買い替えが発生することは変わらない。
セキュリティチップ搭載以降の新札については買い替え不要になる、という想定なら、
今までの論旨通りの「致命的なリスク」を無から生み出すことになる。
また「こっそり大手メーカーの読み取り機だけ通るテストをする」というのも、
「こっそり」行うせいである時急に零細メーカーの評価が謂われなく地に落ちる、という結果を想定すると国がやって良い事じゃない。
逆に大々的に「A社、B社、C社の読み取り機だけはパスする事を保証します」なんて発表もあり得ないしな。
ついでに、値段の問題などで零細メーカーの読み取り機を使っているラーメン屋さんなどの個人商店が「やはり苦労する」のを是としてしまう結論にはそもそも誰のための読み取り後方互換なんだ?と疑問符しかつかないよ。
大手スーパー、コンビニチェーン、銀行などの元々資本力のある者たちにおもねって庶民の犠牲はやむなしとする方針は、大企業優遇減税に近いヘイトを招くのでは?
ゲーセンにあるようなコインプッシュ型のゲームで、コインを落として手前にコインや商品を落とすだけの簡単なゲームだ
ただし左右に落とすとそれは没収される
(わかりやすいサイトhttps://app-liv.jp/87514/)
で俺はそれをチマチマやってた
それでさ、1年くらい経ったんだけど、昨日ヤケになってコインをドバーッと落としたんだよ
50枚くらいかな
それでさ、特殊コインの中に、左右に壁が一定時間現れるコインがあってさ
それが手前に落ちて、壁ができた
この間は左右にコインが落ちないので、原理的には手前にしかコインや商品が落ちない
これはチャンスとコインを落としまくったんだけど、そしたらまたその壁を作る特殊なコインが落ちてきたんだ
それでまたそのコインを手前に落として、左右の壁ができ続ける
これが永遠に続けられるんだ
な、分かるだろ?
もう終わったんだよこのゲーム
今までは最大100枚くらいしか集まらなかったのに、今は2万枚ある
大谷翔平の気分だよ
あーーーーーーつまんねーー!!!!
なんだよこのクソ設定!!!
横の壁ができるせいで、決して負けないゲームの出来上がりじゃん!!!
うわーーーーん!!!!!
絵を描かない連中が永遠に理解してくれないから、屋上屋を架すことになった。いい加減理解してくれ。
少しでもデジ絵を触ればわかるんだが、生成AIで出力しただけの画像は、見ればもうAI産だとわかる。なんもしてないんだなって。こいつ何も考えてないってわかるんだよ。手が3本生えてるとか、髪がめちゃくちゃとかじゃなくて。もうコンテキストがない。わかるかなぁ。
絵を描くときには基本的に目的があって筆をとってるわけ。そうすると、何処を描き込んで、どこを描き込まないかっていう、気圧の差っていうか、そういうのが産まれるわけ。
これは絵を描くことが楽しいバーサーカーでも同じ。そういうやつはだいたい、普通はそんなことまでやらんってことをしてくる。こいつやりおったって。そういう、画面の向かいのニンゲンの意思が伝わってくる。何を伝えたいのか、なんとなく伝わってくるわけ。これはなにも高尚なメッセージじゃなくても、「金髪のチャンネー最高!」とかでもいい。本当に何でもいいが、おれたちはそのメッセージと、メッセージの伝達方法の工夫を楽しみにネットの絵を見てるわけ。
でも、生成AIから「出しただけ」の絵はそうじゃない。そういうのはもう気圧がめちゃくちゃ。おまえこの絵のどこを見てほしいの?何を伝えたくて書いたの?何もわからない。その結果、おれたちはどうでもいい天井のシワを見つめて、お前たちが伝えたいのはこれなのか……?っておそるおそるプロフを見に行って、やっぱAIじゃねーか!ってなる。全く無駄な行為だったわけだ。そこに意図なんてなかった。誤解したおれが悪かった。そんなことを繰り返した結果、絵を見た瞬間に「それが生成AI産なのか」がわかるようになった。
最近はもう「その雰囲気」を感じ取っただけで見るのをやめてる。昔から知ってる神絵師だけをフォローして、新しいメッセージを、たまにしか降ってこない甘露を、延々と待つようになった。pixivをディグるのはもうやめた。イラストを凝視しても得られるリターンが担保されないので、虚しいからだ。
リターンがなければ、無視すればよろしい。それが黄金則だ。絵師と生成AI絵師は別世界に棲み分ければ良い。実際、生成AIにもメリットと独特の良さがある。それは認めるところである。
だがしかし、絵師には絵師なりの理由があって、今日まで生成AI許すまじと論争を続けている。ある問題があるからだ。
それは、生成AI丸出し、なんのコンテクストもない画像が、何故か一部民衆に受容されつつあるということだ。
他の、著作権がどうのという問題は、絵師が共通で抱えている嫌悪感のすり替えに過ぎない。無視したいが、なぜが周りの民衆が無視しないから、何かの理由を付けて批判せざるを得ないのだ。
冒頭で、審美眼がないと言った。それは一部の生成AI絵師もそうだが、何よりあれを「手書き並のクオリティ」と持て囃す消費者層を形容した言葉だ。
少しでも絵を触ったことがあれば、生成AIのファーストインパクトは「へーすごいね。でも仕事にはならないな。すげーおもちゃだ」だっただろう。それなのに一部の消費者層は、これを大変有り難いと言わんばかりに使い始めたわけだ。
おい待てと。これのどこがいいんだと。じゃあお前らはいままで俺たちが描いたもののどこを見てきたんだと。
当然、嫌悪感を抱く。だが、「だってそれ生成AIで出しただけじゃん!」と伝えても、彼奴等は首を傾げるばかり。
最近は、どうみても実写丸出しの自称「アニメ」がニュースに載った。何より驚いたのは、あれにゴーサインを出した報道陣である。絵に対する恐ろしいまでのリテラシーのなさだ。あれのどこが良いと思ったのか、まるで理解できない。仮にもアニメ制作会社と関係のある会社の振る舞いがこれかと、閉口したものだ。
どうせ伝えても伝わらない。そのうち、この嫌悪感を「そういう層」に伝わるような問題点にすり替えて問題を論ずるようになった。やれ著作権が、権利が、そういったものに。
だが、それらは理論上は手描きでも可能で、AI独自の問題じゃないということは、誰にだってわかる。だから平行線なのだ。
この感覚は、なかなか伝わらないらしい。だから、比較的広い層に伝わりそうな類例を持ってきた。
機械翻訳もまた著しい発展を迎えた界隈である。が、機械翻訳だけで全てが事足りるとは思っていないはずだ。
これはアカデミックに属したことがあればわかるが、英語の論文を機械翻訳して読む、という行為にはまったくの意味がない。著者が伝えたい事実を、機械翻訳は考慮しないからだ。そのうえ、業界の慣習を無視した翻訳がなされるので、その翻訳された文章に意味はない。なんとなく読んだ気になるだけだ。
小説もそうだ。ハリーポッターでもなんでもいい。あれらの「機械翻訳版」と「訳者監修の日訳版」どっちを手に取るか。当然後者だろう。
そうした現状にあるのに、海外製品の公式ドキュメントは多言語翻訳版を機械翻訳によって作成する。「機械学習により作成されたため、不正確な場合があります」と但し書きを付けながら。
これはビックテックであっても例外ではない。訳者を雇う金はありながら、正確な訳を提供しない。
なぜか?日本語話者なんてよく知らないし、どうでもいいからだ。
それでも有り難がる連中がいる。英語を読めない層だ。そんな不正確な日本語読んでる暇があったら英語勉強した方が早いよと伝えても耳を貸さない。それで満足している層に恐怖する。機械翻訳版を読んで何かした気になっているニンゲンの、その感性に恐怖している。それは天井のシミなんだって。そこに別の人間が伝えたかったメッセージは存在しないんだと、伝えても伝わらないことに恐怖している。
というわけだ。
現在抱えている嫌悪感のその本質は、「メッセージ性も何もない破綻した絵を持て囃す連中の審美眼が信じられない」ということになる。
さらに恐ろしいのは、彼らが生成AIの発達とともに、その審美眼と理性を失ったわけではないということだ。
彼らとて、三歳児の落書きと、絵の修練を積んだ人間の描いた絵の区別はついていた。だから、絵師たちは自分たちが絵に込めていたメッセージが市井に伝えられているのだと信じることができた。それを感じ取ってくれているからこそ、自分は市場に支持されているのだと信じることができた。
が、今は違う。
生成AIから出しただけの画像と手書きとの区別もつかない連中がいるのだと知ってしまったからだ。
だから、自分の支持者の中にそんな「肯定派」がいないか魔女狩りもしたくなる。それを肯定する気にはなれないが、その絶望は理解できる。
そうせざるを得ないのは、少しでも正気に戻ったら「生成AI丸出しの画像のクオリティでいいなら、おれたちこんなに心身削って絵を描く意味ないじゃん」と気付いてしまうのを避けているからだ。
高精細なイラストなんていらなかった。市場がそれを求めていなかった。顧客は、一分で生成された「なんかよさげな画像」に吸い寄せられていく。なんだよ。それでいいなら、おれたちこんなに描かなくて良かったじゃん。
そして、この価値観が行き着く先は、「誰も作品に込めたメッセージを理解してくれない」「誰も自らの磨いた技術を評価してくれない」という絶望の世界だ。
それが繰り返されれば、当然続ける意味もなくなる。そして現在の伝統的製法によるイラスト制作技術は失われ、生成AIによる模造品が市場に氾濫することになる。廃業なんて話じゃない。業界自体の喪失だ。絵にメッセージを込めるという行為時代が廃れるのだ。
平成22年頃の2ちゃんねる大法廷によれば、2ちゃんねらーの意見は次のとおりである。
① 初等幾何の問題は、仮にあったとしても、 ベクトル、複素数、方程式のどれかによって解けるし、未解決問題も存在していない。初等幾何の意義は、小中学生の知能指数の
訓練だけである。未到達の問題に到達するのに際して、 幾何学はする必要がない。
③ 数学の哲学においても、時間に関係しない永遠不変の美は存在していない。 永遠不変の技術美は存在しているが、 結論が時間に寄らず永遠に美しいものがあることは
予見されていない。数学になければ人生にもそういうものはないのではないか?
④ 社会科学系、法律学における美 ・・・ 非常に厳しい。 1分か2分に間に輝くかどうかが見られており、1,2分を過ぎると、社会的には誰も見ていない。
① 2ちゃんねる数学板に対して 2ちゃんねるで最も糞な板・・・
① 解くるわけねえだろ。
女を性的に消費するメディアはアニメやマンガ、AVに至るまで下手したら一回使ったらもう二度と使わなくなるけど、
⻑い⻑い文になってしまった。
と文に続いて画像が送られてくる。
だいぶ彼も慌てていたのだろう。
ブラウザのタブに、xvideoの名が残っているのに気づかずに私に送ってきたのが微笑ましい。
Facebookの投稿は、もう1年近く会っていない私の友人、しおり(仮名)のものだった。
そして、墓参りなどは心遣いのみで良いこと。
LINEに「Facebook見てなかったから気づかなかった」と返信をした。
とはいえ、彼女のフォ ローをやめていた私はFacebookを見たとしても気づけなかっただろう。
彼の重い声色と対比するように、私の声はうわずって震えていた。
その震えが、まるで泣きそうな声であるかのように演じながら私は密かに、笑みを浮かべてい た。
本当は大笑いしたかったのだ。
私と亡くなった彼女と、そして連絡をとった彼が出会ったのは、数年前のことだった。
当時私たちは二十歳を過ぎたばかりの頃合いで、バイト仲間として付き合ううちに3人でつる むことが多くなっていた。
そして若かったから、それが恋愛感情を伴う三角関係に移ろうのも自然な流れだった。
彼に片思いをする私たちと、その間でのらりくらりと気付いてるのか気付いてないのか分から ないようなふりで友人関係を保とうとする彼。
そういう微妙なバランスで成り立つ私たちは、バイト先の閉店と共に徐々に疎遠になった。
そしてそこから二年越しで私たちはまた出会う。バイト先の同窓会だ。
まるで三人で喋っているかのような雰囲気で、私は彼女へ話を振っているのに、自然な流れで 私は彼女から完璧に無視されていた。
理系の大学に入り直すの、と彼女が言った時だけ私のことを見てニヤッと笑ったのを覚えてい る。
大学を中退した私への、当て付けであるのは確かだった。(それにダメージを受けるかはとも かくとして)
ただの恋敵から、マウンティングまで始めた彼女を見て、私は小さく、死ねばいいのにと呟い た。
その願いは数年後に叶うとも知らずに。
その同窓会から私と彼はまたつるむようになり、彼から、彼女の近況を時折聞くような日々が続いた。
大学へ入るまでにメンタル的に崩してしまい、入学後もそれを引きずったままであること。
そういう、彼女が不幸な話を聞くたびに、心の中で喝采をあげたいような朗らかな気持ちと、 悲劇のシンデレラを演じて興味を引こうとする彼女のやり口の汚さに辟易する気持ちの二つが 入り混じる。
私はこのまま拒食症になり骨だけの姿になってしまえと思っていた。 もちろんこれも今は叶っている。
彼女の肉は燃え、今は墓の下で骨だけになり壺に押し込められている。
そうして、今回の訃報に至る。
彼は、ここまで来てもずっと私たち三人は良い友達関係であると信じ、私だけに電話をして、 私だけに彼女の死への思いを吐露してきたのだ。
勝った、と思った。
私の心は汚いな、と諫める自分もいたがそれ以上に、祝祭の最中のように心躍る自分の方が強 かった。
後日、私たちは二人だけで、彼女の家へ向かった。 彼が遺族と連絡をとり、仏壇に線香をあげさせてもらうことになったのだ。
多分私は、あの日の、駅から彼女の家までの会話と景色を一生忘れない。 その日は雲が多いけれど晴れていた。 雲の中で光が複雑に揺らめいていて、それはまるで世界の全てが、私の仄暗い歓びを肯定する かのように綺麗だった。
駅から離れた彼女の家まで歩く最中、彼は謝りながら、隠し事を打ち明けてきた。
バイト先が閉店した頃、三人で会うことがほぼ無かったあの時期、実は三ヶ月だけ、あいつと付き合ってたんだよね、と。
彼女が生きてたら、私はその場で自殺したくなるほどの衝撃を受けていただろう。
けれど、今の私には、むしろファンファーレのような爽やかさを伴う言葉に聞こえた。
穏やかな顔で私は嘘をついた。
割とあの子悩んでたよー?なんて、軽口を装い私は更に話を聞き出そうとする。
何だ知ってたのか、とホッとする彼は気を緩めて色々と話してくれた。
どうしても彼女を恋愛対象として見れず、ぎこちない付き合いだったこと。
そのどれもが、私にとっては甘美な言葉たちだった。
これで彼女が生きてたら、この過去の付き合いが再度交際に至る伏線として機能してしまうこ とに怯えていただろう。
そして彼女への殺意が行き場をなくして私の中でいつまでも燻っていたのだと思う。
けれど、彼女は死んでいる。
だからこそ私は安心して、彼女が、彼からきちんとお前は付き合うに値しない存在であると言 い渡され死んでいった事実を喜ぶことができる。
そして、その喜びを表すかのように、世界は輝いているように見えた。
草木はいつもよりもその葉の濃さを増し、空は雲を煌めかせているのだった。
それが私の、高揚感を煽る一番のポイントだった。
あんなに学歴や彼との距離感でマウントをとっていた彼女が、今やただの骨となったことに私 は今までの人生で得たことのない種類の喜びを得ていた。
もう彼女には何もない。
入った大学のキャリアを活かした輝かしい未来なんてもう彼女にはない。
そして、彼のこれから先の人生を眺めることも、彼女にはもう出来ない。
何よりもそれが嬉しい。
彼女の家は、ドラマに出てくるような、「いいところ」の家だった。
リビングには薔薇のドライフラワーが飾られ、テーブルにはレースのクロスが敷かれていた。
演技で涙も出るもんだな、と私は仏壇に手を合わせながら自分自身に感心した。
くっ、くっ、と声が出るのは、昂るからだ。
悲しみにではなく、喜びに、であることは隠せたと思う。
仏壇に手を合わせる彼の面持ちは神妙そうで、私が感情を露わにしているからこそ自分は我慢 しよう、という気概を感じ取れた。
男子だからこそ、気を張らねばという彼のいじらしさがどうにも可愛くて、ああ、やはり私は 彼のことが好きなんだな、と改めて思ってしまった。
リビングへと移り彼女の母と思い出話などをしながらふわりと伺う。
「本当に明るくて(空気が読めないだけ)楽しそうに笑顔を(彼にだけ)見せる子で...だからこそ急な話で驚いてしまって...病気とのことでしたが...」
彼女の母と、私は目で訴え合う。
それを聞くのか?という母親の目と、
死因を教えて楽しませろという私の目。
たった一秒にも満たない僅かな時間で、私はやはりこの女はあいつの親なのだと感じてしまっ た。
あの、喰えない女を産んだ女だ。
「...脳浮腫、でして。...だから、本当に急な死で私も、本当にショックでした」
脳浮腫、というワード以外は一切出さないという意思を読み取り私は、彼と共にいるこの瞬間 を汚さぬように詮索をやめた。
ハッキリとしない死因で、私を楽しませるにはパンチが足りなかった。
けれどその最後は安ら かなものでは無かったであろうことを窺えたことは一つの収穫だ。
彼女の家を早々にお暇し、私たちはまたひたすらに駅を目指し歩く。
話すことも尽きたような振りで彼の話を空返事で返しながら私はGoogle検索で脳浮腫を延々と 調べていた。
脳浮腫。とっさに、本来の死因を隠すために出たワードにしては具体的であり、嘘のようにも思えなかった。
けれども、脳浮腫は医学知識のない私が検索で調べた結果を読解する限り、直接的な死因であるようにも思えない。
脳浮腫とは脳に水分が溜まり脳が圧迫されている状態を指す言葉である。
それを死因として挙げるのは、やや話が飛んでいるように見える。
たとえば、交通事故で全身強打し、内臓破裂で死亡した、というのを、内臓破裂で死んだ、と 表現するような感覚である。
そう、私には、母親はとっさに嘘をつけなかったため、「脳浮腫に至るきっかけ」を伏せると いう形で娘を守ったのではないかと、そう感じた。
まだ何も知らない、違和感に気付いてもいない彼の横顔を見ながら、私は、彼女の今際の際に 想いを馳せて、うっとりとするのであった。
脳浮腫に至るきっかけでありなおかつFacebookの文や母の言葉にあるように急死に繋がるよう な死因はくも膜下出血などが挙げられる。
けれども、そうだとしたら、母親は病名を伏せる必要があるのだろうか? くも膜下出血で亡くなった、という話なら、伏せる必要なんて何もない。
だから、私は、もう一つの、限りなく低い可能性の方に賭けている。
脳浮腫は、多くは脳出血が原因で起きるものである。くも膜下出血などのように身体の内部か ら急にエラーを起こし脳浮腫に至る場合もある。だが外傷により脳出血が起きた結果でも脳浮腫はできる。
そして、私はふと思い出すのだ。
彼女は大学入学前からメンタルが不調になり、夏頃にはアルバイトすらもやめてしまうほどに 追い詰められていたということを。
そして、親が必死で隠す死因と言ったら、一つだろう。
もちろん七割は、私の願望なのであるが。
帰り道は雲も晴れ、傾いた日差しが強く、どこまでも世界は煌めいているような気になってし まうほどだった。
その煌めきの中に、彼も共にいる。
その事実もまた、光の儚さを強調するように感じられてまた私の中で歓びが増えていく。
だから、いいのだ。
彼の口から、今の彼女との結婚のプランの話が出てきたとしても。
彼女が白無垢を着たがって、お金がかかりそう、なんてのろけをされたって。
この世界の美しさの中では、何もかもが許せそうな、そんな気がしたのだ。
だから、その今の彼女の名前を、今回死んだ彼女の仮名に使うくらいのお茶目さは、私だって 許してくれてもいいだろう。
来年の今頃、彼は式を挙げる。
彼の姿が和服になるのかタキシードになるのかは知らないが、彼の最高の笑顔を私は目に焼き 付けることになるんだろう。
それは、恐ろしく悲しく、残酷なことのように思える。けれども私は耐えられる。あの女が、 もうこの世に居なく、そしてあの子は、幸せそうな彼の姿をもう見ることなんてできないのだ と、そう思うだけで痛みに耐えることができるような気がする。
そして、もうひとつ、彼女の死の瞬間を想像するだけで、心が昂り、苦を感じなくなるように 思えた。
彼女は、どのように死んだのだろう。
微妙な高さからコンクリートに叩きつけられるも、脳をぶちまけることなく、脳浮腫という形 で苦しんで死んだのだろうか?
それとも、首に索条痕を残し、その細い骨をパキャリと砕いて亡くなったのだろうか。
ただの私の願望である、 「自殺の上で付随して脳浮腫が出来た」という死因を想像しては、愉快な気持ちが止まらずに 居られない。
けれど、メンタルが追い詰められていた人が亡くなり、その死因を遺族がぼかすとしたら、自 殺しかないんじゃないだろうか。
首吊りや飛び降りなどの脳への外傷が出来そうな死に方をした上でなら、脳浮腫も出来るだろ う。
ああ、彼女は、世界に絶望しながら自分の手で命を落としていて欲しいな、と心からそう思 う。
今までの努力が全て無駄になった上、 彼からは彼女として見れないという烙印を押されたまま、絶望の最中で彼女には死んでいってもらえたらどんなに愉快だろう。
そんな想像をしては、私は笑みを浮かべる。
駅に着き、ひとしきりのろけを聴き終わったところで私たちは別れることにした。 白無垢のために頑張ってお金貯めなよ、なんて笑ってあげた。
「式の時は、俺の白ネクタイ貸してやるよ」と。
来年の今ごろ、私は、礼服姿に、彼が過去に使ったネクタイを纏い彼の人生最高の瞬間を見届 けることになりそうだ。
そう言い聞かせながらも、私は、結婚という幸せな人生を歩んでいく彼の姿を見なくて済む、 死んだあの子を少しだけ羨ましく思う。
死んだら死んだで、それもまた幸せなのかもしれないな、という感情も湧きでてしまい、私は 慌ててその思考に蓋をする。
やっぱりこの世は美しいが、生き地獄だ。
その生き地獄よりも下層の、死の世界へと消えていった彼女を蔑むことでしか、今の私は心を保てない。
この歓びや哀しみやそのほかの色々なものがないまぜになった心持ちに、何かの決着がつくの はまだまだ当分先のことなのだとは思う。
こんな恋愛、二度とできないし、もうしたくない。