はてなキーワード: 峻別とは
何が今できないかはそのうち分かるが、できていること、できうることもわかり得る。どのみち落ち着かないとそれらは峻別できない。
リベラルが望んでる自由主義なるものが何かはしらん。そもそも「リベラルというくくり」自体に興味がない。
何が自由放任でいいか、何を政府が関与して対処しないとならないかの峻別に過ぎない。その峻別に自由主義だから良い、社会主義、共産主義だから悪いというのは全く意味を成さない。
ケインズ主義は自由主義なのか?社会主義なのか?自体も立場によって変わる。
新自由主義者が主導を握っている1990年以降は社会主義と呼ばれるだろうし、1990年以前のマルクス主義とケインズ主義が競っていた時代では、マルクス主義側からは自由主義と呼ばれただろう。
あとそれから、弱者への救済は政府が再分配するというのと、景気が良くて人手不足で労働賃金が上がり転職がしやすい状態に置くことでもなせる。
あとさ、左翼政党の支持が広がらんとかしらん。立憲民主党は内部の新自由主義とケインズ主義/MMTとの対立について党が割れるのを恐れて玉虫色なってるだけ。共産党はマルクス主義ベースだしな。
望まれるのは苦しんでるやつに「休め、休めば判断力が取り戻される。判断力が戻った段階で進むこととやめることの峻別をしなよ。そのうえで、過去こういう話があるんだけど君の参考になるんじゃないか?」と教えてくれるAIじゃないかと思う。
けど、苦しんでるやつは騙す手法で金を出し続けさせたほうがやっぱり儲かるんだよ。
それでいて、苦しんでいる人間は基本的に頭がいっぱいいっぱいだから、周りの話も受け入れられない。その上で攻撃的になるというバグが有る。
まあ苦しんでいるやつが攻撃的になるのは苦しんでるやつを騙そうとするやつがいるための防衛本能じゃないかとおもう。
必要なのは脳の疲労度が観測できるようになり、精神医療で脳疲労のフェーズごとに「まず休むよう支持したほうが良い」「今はこういうアドバイスをしたほうがいい。こういう名言がある」というのを精神科医やカウンセラーに助言するAIじゃないかと思う。
街の占い師にははじめから騙してはめ込んでみつ吸うのを目的としたやつがいっぱいいるからあてにしてはならない。
一度霊感商法に捕まるとそいつは一生救われない。それどころか周りの人間も毒牙にはめようとする。
その後落ち着いてから心理系を中心とした本や漫画や創作を読むのが良い。それでも「教祖しか救えない」みたいなのとか、霊魂、あの世、スピリチュアルなどが書いているのはまがい物。
その上ですることと逃げることの峻別をつけていくことだ。というか人生休んで落ち着いて逃げることと挑むことの峻別をつけていくということが大体の物事の答え。
色恋は相手に合わせるところ合わせて、拒むところ拒んでをしないとならんってこと。
一種の権威主義とも言えるけど、「権威だけ」を盲信しているわけではない点が違う。
科学分野は他の専門家による検証が比較的容易なため、専門家を名乗る人はテレビ番組などでも発言は慎重になるので肩書は信頼性の指標にはなる。
だからこそ悪意のある専門家でも、「◯◯は◯◯の効果が期待できると言われています」というような、
検証されても逃れられるように断言しない言い方を多用してミスリードを狙う。
また、専門家の主張に対してそれは、仮説として言ってるのか、事実として言ってるのかの峻別は素人でも認識する必要がある。
つまり主張のフォーマットを意識して、仮説か、事実か、ミスリードを狙っていそうかを見極められる程度の能力が一般人が持つべき科学リテラシー。
例を挙げると「空気感染してる可能性がある」という仮説と「空気感染するというデータはない」という事実は矛盾しないし「空気感染するというデータはなくマスクの効果は期待できない」はミスリード。飛沫感染だとしてもマスクは有効なので、
資本主義は(新)自由主義とケインズ主義とをきちんと峻別しないとならんで。
新自由主義は政府が金融以外何もしないのが望ましい。税制もフラットが良い。
ケインズ主義は政府が金融、財政、税制をフルに使って経済を調整する。金を貯め込む企業富裕層には高めの税金を課する。
資本主義と言っても似て非なるもの。そして、ケインズ主義は1940-1990年の繁栄を生んだが、新自由主義は1990-2020年の衰退を生んでいる。
だけどさ、日本って昔は上が下を労い、下がそれに報いるという時代だった。だから頑張れば報われるって時代だった。
だけど、もうそんな時代じゃなくなってしまった。上の人間がやる気や善意をむしろ食い物にして、やりがい搾取をするのがいいしやりがい搾取なんかにハマるのは努力不足や自己責任だと石を投げてきた。
そして、まさにコロナが来た。コロナが広がり始めた時点から医師や看護師はどんどん忙しくなっていった。
けども、そんなさなか馬鹿みたいな思いつきが解決案だという首長だとか、重症病床減らしたらかんたんに戻せませんよ?という病院長を無視して重症病棟を目先の金で減らした首長がいた。
まさに善意を食い物にしてきたんだよね。
善意が食い物にされる社会はできることできないことを峻別して、できないことを突っぱねるしかなかろう。
フル稼働で、かつ善意がくいものにされてるのが見えてる状態で500人も出せなんて通じるわけ無いでしょう。できないと突っぱねるしかない。日本は善意は上級国民の餌にしかならない。
一応弱者男性に批判的な人達の中でも数少ないアレな人達だとは思うんだけど(つまりああいう人を全体だと言うつもりは無い)、
本気なのかな?と気になる。
だって明らかに論理的に別物じゃん、上方婚批判とあてがえ論は。
上方婚に偏る事を批判しつつ「自分は独身でいい」「あてがわなくていい」と言うスタンスを取る事は明らかに出来るし、つまり非あてがえ論の上方婚批判は普通に成立し得る。というか大部分はその層だろう。
これってそこまで難しい話じゃないと思うんだが、ああいう人にとっては難しいんだろうか?
失礼ながら「論理的に物事を捉えることが苦手な人なのかな?」と思ってしまう。
上方婚批判自体は、例えばアニメとか漫画の性役割固定的な描写に対して「偏見を強化する」「偏見を内面化している」といった批判だったり、
階級間格差の固定みたいな話と地続きの話で、左派的にも理解しやすいトピックだと思うんだけどな。
あてがえ論は女性側の人権を制限するような、規制論やそれ以上の強い主張である訳だけど、「批判」と「規制」の雑な同一化ってこの人達にとって本当に都合の良い操作なの?
そのまま行くと、作品に対する批判もイコール規制論だとする暴論まで許容しなくてはいけなくなって、ただのオウンゴールだと思うんだけど・・・・・そこまで考える事が出来てないんだろうか?
「批判」と「規制論」の峻別って、「規制を求めてるわけじゃない」と言いつつ批判したい左派にとっては生命線でしょ?なんでその程度の事も分かんないんだろうか?
加えて、そもそも今の日本の左派は、彼らの考える正義や公正さの為には表現の自由等の自由が犠牲になっても致し方ない、という「社会的公正>自由」のスタンスでしょ?(だから「リベラル」では無いわけだが)
それってあてがえ論の様な一方の自由を犠牲にして弱者を支援しようとするやり方に近いって事を自覚してるんだろうか?(尤も、近いだけで同一ではない、あてがえ論は左派の支持するような主張よりも明らかに過激だからね)
イラストのしわとか頬の赤みなんてものを根拠に人の自由を制限しようとする思想って、よくよく考えて見なくてもかなり過激なモノだよ?自覚ある?
上方婚は格差の拡大・再生産を促し、偏見や男性社会の価値観(収入=魅力)の内面化の結果(あるいはその再生産)ではありつつも、それ自体自由な行為でもある。
けれどもそのような自由な行動やその結果を社会問題化したり批判したりも出来る、というのが左派の根幹でしょ?
だからこそ自由なはずの表現行為にジェンダー視点で批判を入れたりも出来る訳だ。
自由で正当な行為であっても、その結果として格差の拡大・再生産を促したり、偏見や男性社会の価値観を内面化したり助長したりもする、そんな事当たり前だし、それこそが左派がこれまでしてきた批判の根拠でしょ?
自分達の批判や主張が何を意味してるのか、ちゃんと論理的に捉えていればこんなこと理解出来てて当然だと思うんだけど、なんで出来てない人が居るの?
いわゆるニートってのは怠け者ではないんだよな。こういう人はそもそも怠けようという意志すらない。
例えば、夏はフリーターで冬の間ずっとスキーをしている人は、根本的にスキーをしたいという欲求を持っていて、すべてがそれを中心に回っている。そんな状況でいいのかという議論はさておき、本人には本人の意志があるから、遊んでばっかでいても、一日中テレビの前で過ごしているようなボケ老人とは違う。このようにやりたいから遊んでいる人と、何もする意欲がない人は峻別する必要がある。
ニートには「やりたいこと」がない。一昔前までは、やりたいことを探すために「自分探し」をするのが流行っていたが、今のニートはそれすらしない。やりたいことがないことを問題だとすら思っていない。やりたいことがある人を「なんであいつらはこんなにくだらないことを一生懸命やっているんだ」と軽蔑している。何も頑張れないよりも、くだらないことを頑張れる方がずっといいのに。
そんな人たちにいきなり勤労意欲を持たせようとするのはハードルが高すぎないか?まずは遊びの意志を身につけるところから始めるべきだよ。
封建主義というか「ここは政府がきっちりと抑えないとならない」という峻別だろうな。
封建主義も良い王様と理想的な法律で動けば理想的だという一つの考えだから。問題は良い王様、理想的な法律に実際なるかは限らないからな。
まさにケインズ主義として、政府が財政出動をしたり、税で行動を誘導しないとならないというのは政府の関与そのものだな。
だが、組織はほっといたら肥大化しやすくなる。政府の一部の人間さえ騙せれば儲かるからレントシーカーも蠢きやすくなる。
何より、産業弱体化や、何らかの資源不足などでの供給由来インフレの懸念はケインズ主義にもあり、いざ起きてからでは何もできないということだ。
政府が関与するべきところは明らかにあるってことだ。どこが関与すべきで、どこが関与すべきではないかの峻別は人類永久の課題だと思う。
自己啓発はいいものも多いんだよ。だけど、組織として作ってしまった時点で、組織自体が儲けて永続しないとならないんで、はめ込んでカネを出させるようにしないとならない。
そうすると、恐怖で煽って逃げれないようにさせたり、逆に教祖様の言うことが明瞭でないとならないから、イケイケドンドンと自己啓発で言われてること全ブリにしないとならない。
新自由主義の本来は不況に落ち込んだらもう何もできることはないのに、都合のいいところ個人の精神論に還元して起業だイノベーションだ煽れば不況を脱せるみたいな精神論の具現化もあるし。
実際は金や時間もかかるし、何よりも妖怪共が跋扈してるから、進むところと逃げるところの峻別をしっかりしないとならない。
これもはずれ。山口先生の論文中では触れられているんだが、データに非正規雇用を含めると労働時間の男女格差への影響が消滅する。これは非正規雇用の男女間では労働時間に差がないから(そして非正規雇用者ってのはかなり多いので)。※1
さらに言えば雇用形態と労働時間で制御しても男女の所得格差は残る。
※1:論文中で触れられている厚労省(2002)のデータでは男女格差に主に影響する要素は勤続年数と職階。しかし正規非正規混合のデータなので、これら2つのファクターが男女差なのか非正規vs正規の格差なのかわからない。そこで山口先生は正規と非正規を峻別できるデータを用いて解析を行った。
勤続年数と労働時間等で補正(寿退社や時短の影響を除外)しても職階の男女格差は残る。これに対して「係長‐課長‐部長という意思決定ラインの登用には男性が優先されていると考えられる」と山口先生は言った。そして山口先生はショーン君の引用元ではそれを差別と呼んでいない。
これは元増田でも書いた。はっきり書いた(※2)。なぜトラバ君は読んでいないのか。
うん?差別?突然出てきたが何の話だ。実際に解析結果では「係長‐課長‐部長という意思決定ラインの登用には男性が優先されている」し、少なくとも引用元では山口先生はそれを差別と呼んでいないぞ。
山口先生がただ結果を述べているだけなのを「男女差別があるのだという解釈」ということにして信頼を毀損しようとする。
やりますねえ!
“女性の昇進意欲が低いエビデンス”は“女性の昇進意欲が男女の賃金格差の要因であるエビデンス”とは異なる。“女性の身長が低いエビデンス”出して賃金格差は女性の身長が低いせいとか言い出したら馬鹿でしょ?
このことは元増田でも書いた(※3)。それとショーン君の出さなかったエビデンスも代わりに出して、昇進意欲では男女の昇進格差を説明できないことも書いた(※4)。
それに女は昇進意欲が小さいんじゃい!と連呼されてもさ、それが職階分布の男女差をどれくらい説明できるのかなんも言ってないじゃん?
いやはややっぱりすり替えがうまい。女は昇進意欲が小さいというエビデンスを、それによって職階分布の男女差ひいては男女の賃金格差が生じているというエビデンスに誤認させてる。
※3:たしか昇進・労働意欲の影響を調べた解析もあった気がする。あ、これだ馬&乾(2016)。これだと係長への昇進は意欲で一部説明可能だが課長以上はできないって結果。ちなみにこの調査では、管理職割合については属性格差(人的資本の男女差)より評価格差(人的資本の評価における男女格差。例えば同じ人的資本を持つ男女では男性の方がより評価されるなど)の影響の方が大きく、男女の職階差は差別的扱いに由来するものと結論付けている。馬ら(2017)でも昇進意欲の影響を見てるがこちらはもっと説明力が少ない。
低い昇進意欲のエビデンスが女性の昇進率を下げているなら、「所得格差は女性が昇進を望まない結果」はあり得る話。話はかみあっている。これを
“低い昇進意欲のエビデンス”は“低い昇進意欲が女性の昇進率を下げているエビデンス”足りえないのは元増田でも↑でも書いた通り。
“話はかみあっている。”も意味が分からない。「所得格差は女性が昇進を望まない結果」と「ショーン (所得格差は)女性が辞めたり時短にしたから」がどう噛み合うんだ。
ここからショーン君は鮮やかな論点ずらしを見せる。「男女格差は女性が辞めたり時短にした結果」という自分の発端のツイートとそれへの指摘は無視して、別の話を始める。
昇進意欲≠寿退社・時短。「寿退社・時短が格差の原因」と言って否定されたら「昇進意欲が格差の原因」と言い出すのがすり替え以外の何なのか。
むしろトラバ君はどういう読解をしたんだ。「男女格差は女性が辞めたり時短にした結果」と「所得格差は女性が昇進を望まない結果」を同じ話だと読んだの?
確かに、読んでないのは分かった。
元増田にはっきり書いたことを、文章の読めないトラバ君に再度解説してる僕も憐れんでください。
「青のSP」という、今放送中のドラマが酷すぎるので怒りに任せて書きます。
中学校に警察官が常駐して学校で起きる問題に対処する、という設定なんだけど、逮捕や指紋の採取という公権力を振りかざす行為があまりにも無批判に行われていてヤバいアンドつらい。
学校内に警察官が常駐し、トラブル対応や予防活動を行う「学校内警察(スクールポリス)」制度。この制度が試験導入されることとなった赤嶺中学校に、主人公・嶋田隆平は自ら志願して配属される。表向きは何の変哲もない公立校に見える赤嶺中学だが、スクールポリス・嶋田の登場によって、SNS、薬物、盗撮、さらにはマタハラやセクハラなど、様々なトラブルがあぶり出されていくことに…。
法に触れれば、教師であろうが生徒であろうが容赦無く逮捕!?常に冷静で毒舌な嶋田が、校内にはびこる“悪”を痛快に成敗する!
これだけでヤバイ匂いはぷんぷんしていましたが、藤原竜也が好きなので見ました。そして憤死しました。
1話では授業中の態度を注意されて逆ギレして暴れた生徒を暴行と器物損壊で現行犯逮捕。
逮捕とはつまり身体の拘束で、公権力による私権の制限は必要最低限になされるべき=逃亡、証拠隠滅のおそれがある場合にのみ行われる行為と認識していたのですが、この世界では違うのか!?
ならドラマの冒頭に、「フィクションです」だけじゃなくて「この作品の世界は現実とはまったく違う構造で動いています。バンバン逮捕しますが気にしないでください」とか表示してほしい。
身元がはっきりしていて保護者ともすぐ連絡がついて、犯行を周囲がばっちり目撃していて証拠隠滅のしようもない。じゃあ在宅でいいじゃん。
逮捕は必要性に迫られて初めて行われる私権の制限であるという認識、警察官にも制作陣にもなさそう…… (現実でも交通死亡事故起こした人が無闇矢鱈に逮捕されてるが、これも行き過ぎだと個人的には思う)
反省文書かせて釈放って、それで済むなら逮捕いらんだろ。ごめんで済むなら警察いらんって逆の意味で初めて使ったわ。
3話では、学校の備品を盗んだ犯人を特定するために、全校生徒と職員の指紋を採取しちゃいます。
指紋採取は一応教員から反対意見が出るんだけど、「そんなことをしたら生徒たちの心の傷が……」って的外れなものだけ。「人権侵害です」「あなたにそんなことをする権限はない」って真っ当なこと言ってくれる大人が誰一人でてこない。
生徒たちもおおむね好意的で、「刑事ドラマみたい」とか「窃盗犯じゃないから別にいいよね〜」「私たち悪いことしてないもんね〜」とか。
「後ろ暗いことがないなら権利を侵害されても問題ない」って、その考え方を無批判に取り上げるのはどうなんだ。
そして藤原竜也演じる警察官、嶋田が「あの生徒の指紋を出してくれ」という場面があるんだけど、担任と思しき教員が、その子の指紋を採った紙を(開錠なりなんなりをする様子もなく)パサーッと出してくる。
いや究極の個人情報だから!!!!!どんな保管しとんねん!!!!!!せめてお前(嶋田)がしっかり管理せんかい!!!!!!!!
あらすじの
実際の警察官もきっとお仕事大変なんでしょうけど、私が思いもやらないようなクズい人間とかにたくさん出会うんでしょうけど。
「国民の生命、身体及び財産の保護」が警察官の職務であって、「守る価値がある人」と「ない人」を峻別しようとする姿勢、根本的なところでアウトちゃうんか……??
しかしSNSでは概ね好評で、「クソガキ全員逮捕しろ」とか「逮捕されてスカッとした〜」とか、正直地獄のような光景としか思えない。
イチイチ引っかかって竜也無双を楽しめない私がおかしいのか?となる。
今後転び公妨とか出てきても「嶋田は機転が利く!」って絶賛されると思う。犯罪の構成要件満たさないのに〇〇の現行犯だ!っつっても特に問題にならなそう。つらい。
ツッコミどころが大変多いんだけど、そもそもドラマとしての質が普通に低いから広まらず、私の観測範囲では特に批判もされてない絶望。
嶋田を持ち上げるために教師はアホアホ綺麗事言いこ事なかれ主義者に描かれるし、犯罪への対処に重点が置かれるから、生徒の抱える事情にもリアリティーや深みがまったくない。
イケてる大人がクソガキを懲らしめるスカッとジャパンでしかなくて、国家権力が個人を「懲らしめる」ことの意味がまったく考えられてない。
何より救いようがないと感じるのが、テレビ局というジャーナリズムの担い手が、これを制作して放送してるということ。
ジャーナリズムの目的って、権力監視じゃなかったんですか……??
ドラマの制作部局と報道部局はほぼつながりなんてないんだろうし、「今度こんなドラマつくりま〜す」とかいちいちやらないんだろうけど、社内に誰か一人でも、この描き方は問題があると声をあげる人はいなかったんでしょうか。
権力の過剰な行使とそれをエンタメとして消費する姿勢を、ジャーナリズムの担い手が肯定してはいけないでしょう。。
このドラマをもとに「権力は学校にもっと介入すべき」みたいな世論が形成されることだってないとは言えないと思うんだけど、制作陣やテレビ局はこのドラマを社会に送り出すことの責任を考えたことはありますか。
今期はもっと他に面白い、つくり手の誠意と意欲を感じるドラマがたくさんあるなかで、こんなクソドラマを広めることに胸が痛む部分はありますが。
私は法律の専門家でもなんでもなく、逮捕云々も一般教養で習ったぐらいのものなので、もっとたくさんの人の目に留まってちゃんと批判されてほしい。それを目的に書きました。
詳しい解説助かる
さっそく自分に当てはめてみたけど
1. 相手が注目・言及してほしいとかんがえていることに焦点があたっていない(例:相手は味について言及してほしいのにそこには注目していない)
2.「あなたの考えを教えてほしい」と言われた時に、feeling について聞かれているのに emotion について回答する(例:「おいしい」ではなく「胸肉だからさっぱりしている」など列挙する)
3. 自分の感じている feeling をうまく言語化できていない
3.についてはfeelingに相当する感情は4つ程度言語化できているので、ここは既に訓練されているか、生得的に不足していないんじゃないかと思う
2.は若干怪しい。feelingについて聞かれている時とemotionについて聞かれているときが同じ「今日の料理についてどう思う」だとしたら
ここはこまめに「今聞いているのはfeeling? emotion?」って問い続ければいいのかな?
1.もダメな気がする。というかfeelingとemotionの区別がついて、言語化ができたとしてもここは克服できない気がする