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はてなキーワード: 峻別とは

2021-01-07

8.6秒バズーカ都市伝説信じてる人って他の都市伝説はどう考えてるのかな?

信じる都市伝説と信じない都市伝説はどう峻別してるの?

水曜日のダウンタウンでやってたダウンタウン松本ロシアスパイ説とか見事に都市伝説を作る作法作成された都市伝説だけど、これと他の都市伝説にどのような違いがあるの?

フリーメイソン支配とかアメリカ大統領選の不正投票とかは信じてる?

割と本気で気になってるから教えて欲しい。

2020-12-17

anond:20201216232011

趣味があるなら30からでもいくらでも友達なんてできるぞ

しろ大人になる前に作った友達とは価値観生活スタイルが合わないけど今から作る友達はそこを峻別できるので長続きする

2020-11-19

anond:20201119084250

オタクヤンキーという時点でおかしいと思わん?

それはもうオタクなのではなく、オタク趣味に勤しんでいるだけでメンタリティヤンキーのまま、つまりただのヤンキーなんだよ。

世間を騒がす犯罪事件は9割方ヤンキー気質が起こしてる。

真のオタクは、ヤンキーが好むオタク作品オタク寄りのオタク作品というのを鋭敏な嗅覚峻別できる。

分かりやすいのだとワンピースとか、進撃、鬼滅なんかもそう。バトルもの少年漫画はだいたいアウト。

2020-10-31

anond:20201031085513

金爆ガイドラインにもあるように借り物のアイコン使って過激SNS発言は完全に時代遅れオッサン峻別できるからこのまま気にせず続けてほしいと思ってる

2020-10-24

anond:20201023204100

まずは一度全部放り出して休め。マインドフルネス瞑想で頭を休めるのが良いぞ。

そのうえで、残すものと捨てるものとの峻別をしていくということ。ただし、残すものと捨てるもの峻別も頭の容量が必要。なので、片付ける以外の仕事をできるだけ減らして、片付けに割く頭の容量を確保。

そのうえで、保管容量以上にものが入らない以上、外にトランクボックスを借りるというのでもない限り、まず捨てるべきものを捨てていくということにならざるをえないんじゃないかと思う。

服の種類ごとに収納ボックスを買うか、ラベル付けする。収納ボックスの分類ごとの容量に入らないものは、入らないという時点で、優先度の低いもの、汚れているもの、よれているものをまとめる。そして捨てる。

基本物が多いというのは、分類ができないというのと、捨てる勇気がないというのもある。まあ、捨てる勇気も基本物を持ちやす人間は頭が十分に休んでいないと持てないが。

anond:20201024122832

何に集中して、何に鈍感になるかは意識をして峻別していかないとならない。もちろん、あなたもね。

鈍感でこいつと付き合って損をするってやつ相手には鈍感でいいのよ。

まれ人種差別するのは良くないが、そいつ自分に何をしてきたか?どう行動しているか?で峻別するのは人として当然。

2020-10-09

追記あり】「キャラクター」はリアクション総体

10/10 17:10 追記しました】

二次創作物判例が出たり、現パロ学パロ女体化増田が見えたりしたので、このへんの私の感覚を書き散らさせて。

同人誌漫画小説ほか)二次創作における「キャラクター」って、突き詰めればリアクション集だと思ってるのですよ。抽象が「キャラクター」という概念なら、具体は「リアクション」。

学園パロディ現代パロディ特に服装を置換してしまうし、小説なら顔立ちは一目瞭然ってわけにはいかない。そういう意味では、原作の服も顔さえも、意外と必須ではないんですよね。名前は元の形が残ったほうがわかりやすいけど、アレンジ名つけちゃうことすらありますし。カタカナ名のキャラを無理やり和名にするとかね。

Aというキャラクターをあるシチュエーションに落とし込むと、どう反応するか? 二次創作中のその反応が、原作から醸成された「キャラクター」の共通イメージから離れていなければ、二次創作として十分成立するように思える。

から二次創作においては、極端なシチュエーションのほうがぶっちゃけ簡単なんですよねえ。キャラクターごとの反応がイメージやすいし、共通イメージとの(ロジック的な)距離もひらきやすいから、いわゆる「解釈違い」案件とも距離があけやすかったりもするし。

学園パロや現代パロ、女体化などが延々と流行るのは、それがリアクションを取らせる上で簡単から。閉じ込めてみた系とかも同じ構造だと思いますよ。

と、このように、少なくとも二次創作で扱う「キャラクター」とは、すなわちリアクションコードだと私は思っています、という一意見でした。

傍証として、ノベルゲーム選択肢システムをあげておきます。あれは、プレイヤーの行動に対して、キャラクターの反応を変えることによって、キャラクターの反応コレクションとして機能しているんですよね。特定シチュエーションにおける微差へのリアクションが豊かであることが、キャラクターを細かく立体的にすることに寄与する、というわけで、こと人格を描きたい恋愛ものとの相性が良いのだなと思います

追記

思ったより反応あって嬉しいので、ちょこちょこ反応しま

>「行動様式の束」って言い方のほうが好き

リアクション集なら二次じゃなくて一次ですればいいのに

やはり私個人としては「同人活動二次創作においては『反応』様式」という言葉のほうがしっくりきます能動的行動を含む場合、それはオリジナリティ成分の比重が高いと感じるためです。そして、一次創作でやるなら「リアクション集」では足りないんです。

いわゆる同人誌一冊全体を眺めた場合、設定流用という意味での二次成分と、アイデアの発露としてのオリジナリティ成分は混ざり合っていて、ある程度グラデーションを成すと思いますそもそも、作中において能動的行動と受動的反応を峻別することは困難です)。

一方で、例えば与えられたシチュエーション(例・学園、現代)の枠組みそのもの破壊するようなレベル能動的行動は、学園パロや現代パロを描く二次創作界隈では通常要求されません。言い換えれば、「所詮は反応」でおさまるレベルの簡易な反応様式描写であっても、二次創作裾野においては十分主流たりえると思います

トラバの「関数みたいだな」を受けて式に例えれば、シチュエーション×キャラ計算結果を描写する、と言い換えもできます。そこには

  1. シチュエーション変数として、キャラの反応を描き続ける視界
  2. キャラ変数とみなして、定型シチュエーション再利用する視界

が並走しているため、シチュエーション部に代入するのは手垢のついたもので構わない、むしろ式がシンプル理解やすくて良いとさえ言えるわけですね。

また、複数ブコメで「キャラが立つ」という表現が見受けられたので、さらに参考として、公式二次創作物における「キャラ立ち」特化作品『おそ松さんから

おそ松さんEDテーマ曲 「SIX SAME FACES ~今夜は最高!!!!!!~楽曲解説

https://togetter.com/li/913575

を参考に挙げます

このまとめ内に

今回は只でさえ個性かに変貌した『おそ松さん』たち6つ子を「誰が誰でもおんなじざんす』に落とし込むという作業です。

今作では、かなり個性的な台詞が、切り出して繋げたら同じことを言ってる的な内容にしたかったのです

というくだりがあります(その方法論も面白いんですが、それはまとめ内で読んでください)。この楽曲は、ミクロの「キャラ」が実質的に口調(声や芝居を含む)であり、マクロの「キャラ」が思考行動様式であることが端的に現れている事例だと考えてます

さらに関連補足として、初音ミクというキャラクターも考えると面白いですよね。彼女自身の「キャラクター」としてある種の〈空-くう、empty〉を獲得していると思いますが、その〈空〉っぷりは、(私から見れば)リアクションコード=反応様式の束がコンセンサスを獲得できないことから来ているように思えます

2020-09-10

anond:20200910110911

いやべつに魂の色の問題自分の納得感の問題しかないんだから

お前がそう思うならおまえはそれでいいんじゃね

ただ人を罵って何もしない人になりたくないだけだわお前がそうなのかは文字から峻別できんし

2020-09-06

anond:20200906063519

> 現時点では悪影響があるという研究結果がでている

こういう、言説の真偽が重要な点を適当に流す態度こそが不誠実で雑だと言われてるんだよ。

エビデンスベースならどこにその結果が示されてるか明示して示せよ。君の意見なら「私は悪影響があると判断した」と記せ。

事実意見峻別もできない奴が、偉そうに大人代表するような使命感でモノを言うなよ。対等に議論しろ

2020-09-01

anond:20200901132146

オタクがこれに過剰に反応してるけど、「オタクが好きな初音ミクの絵」と「オタクが嫌う初音ミクの絵」を見比べてみれば確実にオタクは同じような方向性の絵柄しか受け取ってなくてオタクたちの言う「絵柄が多様」だというのはかなり狭い範囲でのそれこそオタク的なこだわりによる峻別しかないことがわかる

(初音ミクアートサブカル系の人にも浸透したから「萌絵イラストからかけ離れた絵柄の絵もたくさん描かれたのだがオタクの反応はそれらのイラストに関しては一律に冷ややかだったり「これはミクさんではない」といったものだった)

2020-08-27

この素晴らしい世界

ゴキブリ駆除されるが、小型犬は捨てただけで法に触れる

理由なんて簡単さ、そこに美しさがなかったか

フィクション世界で、ゴキブリ人間駆除しようとしたり、猿が人間支配する惑星が出てきたりしたけれど

他を圧倒する種が存在すれば、その種族にとってどんな有効価値があるかによって、他の生き物の存在価値は決定される

群がる小蠅はシューッと殺虫しましょう

豚や牛は美味しく頂きましょう

愛玩用ペットは大切な家族です

減らし過ぎた種は護り、増えすぎた種は間引きましょう

別にアニマルライツを訴えたいわけではありません

だって根本的には人間同士でも同じだから

何千年もの間、隣接する地域では縄張りを主張し合い、殺し合い、

強者弱者を隷属させ、支配する

それが世界史で習った人間歴史です

殺し合う必要性がなくなった近代文明国でも、富や美貌や知能など

その社会構成員を傅かせるに値する、何らかの有用性を持った人間は、そうでない人間に較べ、貴い存在なのです

仕事に貴賎はありません、もちろん人間にも、その他の動物にも貴賎なんて存在しない

ただヒトの意識の中に貴賤があるだけです

有用存在か、そうでない存在かによって、いや意識的ですらなく、それは無意識のうちに既に峻別されています

大局的に見れば、人間もその他の動物も、この絶えず変化する森羅万象の一構成物に過ぎません

人間のカラダに多数の菌が常在し、血が巡り、細胞が分裂を繰り返し、やがては死に朽ちて、土の中に還っていくのと同様に、

莫大な宇宙から見れば、個の人間も菌や細胞と同じようなものです

物差しで自他を推し量りながら、最期はみな、有とも無ともいえない、かつて在りこれからも在り続ける所に還っていく

それは虚しさでもあり、優しい救いでもあるのです

2020-08-21

anond:20200821185819

要は男の影を感じるから駄目なんでしょ

ただねぇ、社会ってそんな単純じゃなくて、片一方の性がすべてを決定しているなんてあり得ないから、

その辺りを峻別しようとするのはかなり荒っぽいと思う

2020-08-09

ジャッジカルチャーってもろにリベラルじゃん。

人の着てる服や人の聞いてる音楽「あり」「なし」とか勝手に判定するのがジャッジカルチャーなんだそうだ。

それを見て「あ、フェミじゃん」とか「リベラルじゃん」と思った。

もろにリベラルじゃん。

ジャッジカルチャー

宇崎ちゃんの胸は「なし」。ananエロ特集「あり」

とか自分たち勝手理屈を作ってジャッジしていいもの悪いもの峻別してる。

でもそれって、頭の悪い奴が他人ファッションを「アリだよねー」「ナシだよねー」とか勝手ジャッジしてるジャッジカルチャーの延長線でしかない。というかそのもの

実際には「好き」か「嫌い」かで判断すべきところを「この世にあるべきもの」「この世にないほうが望ましいもの」にすり替えて判定してる。

何の気になって、審判気取ってるんだろう。誰も審判として認めた覚えはないのに、この世のすべてを「あり」「なし」で判定してるリベラルとかフェミとか。

「嫌いだから」とか言わずに「この世の中にないほうがいい」まで話を進めるから話にならないんだよね。「それあなたが嫌いなんでしょ」っていうところまで戻すだけでも一苦労。

人の話を聞かないし。

相手の話を聞いて妥協点を探すっていう政治と、SNSでのカジュアルジャッジカルチャーはめちゃ相性が悪い。

好きとか嫌いとかその他もろもろをすっ飛ばして、勝手に判定してしまう。

ジャッジカルチャーやばいと思う。

2020-08-03

ここっていつも何が正しい何が間違ってるって不毛なやりとりばかしてて頭おかしい人の集まりなんだと思ってたんだけど

善と悪とを峻別するのがアフラ増田役割なんだからみんなそれに従って議論してるんだなということに気付いて少し感動した

自分もみんなを見習って一見くだらないと思えるような事象についても真剣議論出来るようになりたい

2020-08-02

黒瀬陽平合同会社カオスラによるハラスメントについて」について

例の文章を読んで、細かい点かもしれないが、どうしても気になったことがあるので書く。

トーン・ポリシングと言われたら困るので最初に書いておくが、ハラスメント告発横槍を入れるつもりは毛頭ない。

しろ逆に、あの文章の本旨であるハラスメント告発ではなく、いわゆる「不倫」に関する問題クローズアップされることを恐れるがゆえに、次のことを指摘しておきたい。

立場の不均衡」や「非対称性」といった語は、パワハラの背景を説明する用語として一般的に用いられているはずだ。

しかし、ハラスメント告発する目的で書かれたあの文章では、「不倫」における既婚者と未婚者の関係にもこれらの語が用いられている。

これでは文脈的に、「不倫」における既婚者と未婚者の関係を、ハラスメント加害者被害者関係類比的なものとして捉えるアナロジーが成立してしまう。

まりあ文章では、ハラスメント告発するための論拠である立場の不均衡」や「非対称性」といった語を、「不倫」という別の事柄を捉えるために「転用」してしまっていることで、文章としてハラスメントと「不倫」の問題混同され、結果としてハラスメント告発する意図が弱まっている印象を受けるのだ。

たとえこの事案においてハラスメントと「不倫」が複合体をなしていようと、あくまハラスメントハラスメントであり、「不倫」は「不倫である

ハラスメント批判するには、両者は峻別されなければなるまい。

ハラスメントと「不倫」が混同されてしまうのは、ハラスメント告発する当事者にとっても本意ではなかろうと思って、書いてみた。

2020-07-17

anond:20200717210611

自分はお前よりマシとどの日本人が言おうが圧倒的な現実によって無能峻別されるわけでして

2020-06-19

冠詞機能を語調/抑揚が担っている?

「つぎ、パーティーいつ?」

この発話における不定冠詞(a party)と定冠詞(the party)を峻別する役割日本語ではイントネーションが概ね担っているのではないか

パーティー(↑↓)と発音すれば、普通の(つまり一般的概念としての)誕生日パーティーや社交パーティーのようなものを指すが、「パーティー」をフラット発音すれば、仲間うちのクラブイベントっぽい。つまりは、"あの"パーティーという定冠詞的なニュアンスが出せる訳だ。

いわゆる一般流通しているその語のイントネーションとは違う(しかし、かといって、それについて無知である素振りはないどころか、それについて独特の了解を持っていそうな)独特の(話者同士にのみ共有された"あの"を指す)符丁感がある。わざわざ「あのパーティー」なんて野暮な言い回しをしなくても、ちょっとアクセント位置をズラすことで、ほら、あれだよあれ、って目配せしているような。

2020-06-18

anond:20200618114420

患者だって休みたいけど休めない

 (中略)

無責任に休めといい

このぐらい省略したらわかるか?

まりこのブラック企業経営者メンタルの奴は鬱患者でも休めというのを批判してるんだよ。

むろん休んで判断力を取り戻してくれば、やるべきことやるべきことの峻別はついてくるだろう。

判断力を取り戻すためにも休むことが必要

2020-06-10

死んだ猫の重みを知る人へ

 この世界人間は二つに分けられる。死んだ猫の重みを知っている人とそうでない人である

 数年来の友人に向けてこの文章を書いている。あるいは、見せずにしまっておくかもしれないけれど。


 この話を始める前にまず記憶というものについて書いておきたい。人間にも二種類いるように、記憶もまた二つに大別できる。つまり、忘れても思い出せる記憶と、忘れてしまったきり思い出せなくなる記憶である

 記憶というもの原理的に忘却可能性を含んでいて、それがどんな尊い記憶であれ、厳然と忘れられうるのである。とは言え、尊い記憶は大体忘れた後でも思い出せるのだ。

 例えばそれは親愛なる友人に関する記憶だったり、あるいは情愛を抱いた誰かに対する記憶だったり――そういう類の記憶だ。

 これから話す記憶は、恐らく後者に分類されるものである。死んだ猫の重みに関する記憶は、恐らくは一度忘れしまえば二度と思い出せない記憶である。つまり、その記憶は僕の人生においてそこまで重要記憶ではないということになる。


 タフな人生を生きようとする人間功罪の常で、僕は重要記憶とそうでない記憶峻別することができる。多くの場合その判断は極めて正確だ。

 僕は自分にとって重要物事とそうでない物事を多くの場合峻別できると思っているし、何よりも、自分にとって重要人間とそうでない人間峻別できると思っている。そこが功罪なのである人間自分にとって重要人間とそうでない人間並置し、比較し、時に冷徹判断する。いざという時に切り捨てることのできる人物と、そうでない人物を頭の中の整理棚に分類する傾向がある。とは言え僕は冷酷な人間を自認してる訳ではなくて、基本的に分け隔てなく親切に接することをモットーにしてるのだけれど。それでも、自分にとって大切な人物とそうでない人物は分けて考えなくてはならないと考えている。

 さて、そんなこんなでこ記憶は恐らく僕の人生においてそこまで重要記憶ではないと、僕ははっきりと峻別している。


 大した記憶ではない。道の真ん中で白い猫が轢かれていた。静かな初夏の日和だった。

 その肉体の損傷は一見して分からないが、恐らく内臓が酷く傷ついたのであろう、鮮血が周囲には広がり、血溜まりを作っている。既に絶命している。絶命してからどれくらい時間が経ったのだろう? 正確なところは分からないのだけれど、多分一時間と経ってはいるまい。白い猫はまだ綺麗だった。制限速度の高くない、幹線道路から外れた細い道路だったことが幸いしたと見え、多くの車はゆっくりと車を走らせていた。つまり道路の真ん中で横たわる猫を、更に醜く変形させる前に、彼らはハンドルを切ることができたのだ。

 猫は口と目を半開きにしていた。その筋肉運動はとっくに停止している。

 僕は当時学生で、自宅への帰路にあった。青々と晴れた日だった。白い猫の横を通り過ぎる時、僕は猫のことを横目で見た。

 さて、帰宅する。薄暗いアパートの自室はひんやりとしている。

 猫のことしか頭になかった。アパートからその猫のいる場所までは数百メートル距離があって、僕はあらゆる意味当事者ではなかったにも関わらず保健所に連絡をした。住所をある程度正確に伝えて、電話を切った後にキッチン棚を漁り、そこから掃除用のポリエチレン手袋を取り出した。

 再び自転車に乗って猫のところに向かった。数百メートル距離時間はそれほど掛からず、辿り着いた時には猫は最初のままの姿勢を保っていた。相変わらず見える範囲には傷一つなかった。

 僕は歩道自転車を停めて、車列(鮮血を目の当たりにし、おっかなびっくりハンドルを切って迂回する車列)が十分に途切れたタイミングを見計らって、猫のところに駆け寄った。それで、僕は猫の脚を掴んで、車に引かれる心配のない路端へと引きずった。

 そう、引きずったのである

 抱きかかえた訳ではない。単に引きずったのだ。鮮血が道路に擦れて跡を作った。

 猫は筋肉が弛緩した所為か失禁――脱糞していて、その茶色の飛沫がポリエチレン手袋に付着した。

 そこには愛情は無い。僕の人生残留するべき温かい思念というもの存在していない。

 だから、この記憶は決して僕の中に残留し続けることはないだろう。人生のいずれかのタイミング忘却され、その後決して思い出されることはないだろう。

 僕は猫にそれ以上傷ついてほしくなかっただけである

 猫が道路の上でぐしゃぐしゃになっている姿を見たくなかっただけである

 ある種の同情みたいなものはあった。でも、それは決して愛情ではない。僕は見ず知らずの猫に、しかも既に生命の無い猫に、愛情を抱ける類の人間ではない。

 僕は猫を引きずって、車に傷つけられる心配の無いように、路側帯の辺りまで移動させると、手を離した。そして、そのまま保健所の車がやって来るのを待ち続けた。

 初夏の晴れた静かな日和である。時折、眼前を通り過ぎる車の運転手がギョッとした顔で、猫と道路中間辺りから続く血痕を見遣るだけである。僕は猫から少しだけ距離を空けて、偶に、盗み見るように視線を向けた。本来当事者である近所の主婦達が歩道で、遠巻きに何かを話している。さっきの僕の行動を彼女らは全て見ていた。

 やがて、彼女らの内の一人の若い主婦が僕のところにやって来て、保健所には一応連絡したんです、と言った。僕は短く返事をした。

 彼女は元の場所に戻っていって、相変わらず主婦達と何かを喋っていた。僕は、その場で保健所の到着を待ち続けた。


 やがてやって来たのは、ゴミ処理車であった。内部に回転する鉄塊こそなかったものの、それは紛れもなくゴミ収集車であった。

 この後の描写についてはあっさりしたもので、その車中からスタッフ二名降りてきて、主婦らに挨拶をした後に黒いビニール袋を広げ、手早く猫をその中に入れた。そして、車両収集スペースにその袋を入れると、瞬く間にその場から去っていった。

 僕はそれを見届けた時にやけに安心したのを覚えている。これで、道路の上にもんじゃ焼きのような物体が出現する可能性はなくなったのだと、そう考えていた。僕はそのまま自宅に戻り、猫の糞の付着したポリエチレン手袋を処理した後で、日常ルーチンに戻っていった。


 多分、この記憶は僕の人生残留することはないと思う。単純に、この話の主旨は、僕が猫の死体の重みを知っているという、そのことを主張する他にない。教訓と呼ぶべきものはそこにはない。

 しかし僕自身にとっては多少の教訓と呼ぶべきものはある(どっちだよ)。


 多くの場合、我々の性向とか心の働きのバイタル部分に作用するのは、僕がここまで延々と語った記憶の類ではなく、誰かへの愛情記憶であり、誰かから愛情記憶である

 そういうものを欠くと、我々のバイタル部分は鈍化する。必要以上に鈍化し、何らかの問題を引き起こさずにはいられなくなる。記憶というものを二種類に大別した時に、我々の性向に最も強く、最も好影響を与えるのは、明らかに「思い出しうる」方の記憶だ。そのことに疑いはない。

 とは言え、最近の僕は少しだけその考え方を改めることになった。

 これまで僕が延々と語ったこ記憶は、凡そ間違いなく僕によって忘れ去られるだろう。そして、二度と思い出されることはないだろう。このテの予想が外れることは僕に限ってまずあり得ない。この記憶は僕のバイタルとは無関係なのだ。この記憶によって僕が行動を規定されたり、何らかの関連行動に走るということは――この文章を書いていることを除けば――まずあり得ない。僕にはそのことが手に取るように分かる。

 でも、と思うのだ。

 この記憶は、翻って言えば、忘れられるまでは僕の記憶に残り続ける(トートロジー的な文章だ)。僕は、そのことに少しだけ意義を感じてしまいそうになるのだ。

 記憶には二種類ある。忘れられた後に思い出しうる記憶と、そうでない記憶である。前者に比べれば、この世の中においては後者記憶の方が圧倒的に多い。この世界殆ど記憶後者、つまり他愛のない記憶によって構成されていると言っていい。それらは例外なく忘れ去られる運命の途上にある。

 それでも、と僕は思う

 その記憶は、忘れ去られるそのタイミングまで、じっと待っている。

 僕の記憶の中で息をしている。

 猫の視線の色を、僕は今のところ忘れていない。奇妙に硬直した、黄色い瞳。

 多分、僕の記憶の中に、未だ留まっているところの猫は、待っているのだろうと思う。

 僕が猫のことを忘れ去るその時を。

 じっと、誠実に、待っているのではないかとそう思うのだ。

2020-06-09

何をいったかと、誰がいったかと、取り巻きが誰かと

是々非々でいようとしても敵か味方かで他人峻別して。、義憤暴言誹謗中傷をする人間対処がとても面倒くさい

表現者同士のもめ事場合、どっちも気に入っている場合、片方を気に入っている場合、どっちも気に入らない場合がある

どっちも気に入らない場合は、取り巻き同士でつぶし合ってくれて平和焼け野原になることを祈るしかない

anond:20200609071250

幼少時に性的虐待を受けた人は一般男性が考えるよりずっと多い


からおまえはダメなんだよ

女は「わたし小さい頃性的虐待されてさー」みたいな雑談でもするの?

すくなくとも男はしないよ

そして残念ながら男児性的虐待存在するし

男児女児関わらず、加害者の多くは近親者なんだよ

男と女峻別してるのが的はずれだし、ドールがどうこうとか内心の自由かいってるのも的を外してる

現実をみろ

2020-05-22

世の中の論争たいてい俺に関係ない

アニメキャラ白人に見える…から何?

べつに勝手に言わせときゃいいだろ 白人と実生活で関わりないし、今後関わるとしても仕事とかだろうからアニメのことはどう思っていただいてても結構

ジェンダー感覚の話もどーでもいい 俺が女性と関わるのは仕事関係だけだし、雑談みたいなのもほとんどない 結構願望もないから今後婚活なんかをやることもない 女性上昇婚志向だろうと男性女性蔑視を内面化していようとどうでもいい 俺には関係ない 勝手にやってればいい

なにか関係ある論争があるとしたら、まあ政治関係か 行政は俺にも降りかかってくるから

でもそれにしたって、俺にできることって言ったら結局は選挙に行って一票投じるだけだ それにしたって政権監視頼んだ!とおもって共産党に入れてるだけだ 

なんつうか、全部どうでもいいんだよな

なのに怒りだけ受け取ってしまう 俺が怒ったってしょうがないんだ 関係ないのに

 

「寝取りと寝取られNTRで括るな」派のタカ派だったんだけど、結局のところ誰に感情移入するか・させるかの演出上の匙加減の話に過ぎないのではないかと思い始めているんだけど、どう思う?

これなあ そうなんですよ 寝取られあるところに寝取りありですからね 「日本国内にある上り坂と下り坂はどっちが多いか」みたいな話だ

でもやっぱりその演出上のさじ加減がどっちに寄ってるかってのが大事なんじゃねえかな 寝取りモノでビデオレター撮影して郵送するシーンとかあんまりないじゃないですか せいぜい写真とってLINEで送るくらいでしょ

寝取る側にしか見えないものもあり、寝取られる側にしか見えないものもある どちらを見たいかっていうのが寝取り派・寝取られ派を決めているんであればやっぱりそこは峻別した方がいい気がするなあ

まあハイブリッドというか、双方視点作品も増えてきてて、確かにそういうのは解釈次第としか言いようがないけどね!

2020-03-16

anond:20200316074102

そっか、まあいいけど、「君が今歯が痛い」のは戦かってなおさないとならないけど「歯医者に怒られる」というのは戦わず受け入れておけばいいんじゃね?

その峻別が頭イッパイイッパイが常の君はできてないってことよ。戦力がない状況での全方位作戦って最悪の戦略じゃん?

anond:20200316073236

戦闘するにしても、何に戦うかきめにゃならんし、何にでも戦うとなってるから、常に頭いっぱいいっぱいで何にでも戦えなくなってるんじゃない?

あと、バックは確かに仏教だけど、別に釈迦様の存在なしでも成り立つよ。所詮宗教デカルト科学思考以前に正しいと思われた知識のつめあわせ。

神という存在を前提にしなくても、自分が納得したらそれでいい。

ああ、あと、怒られてもどうでもいいじゃんと今は一回思うことな。で、一度落ち着いて、その上で戦うべきものと戦わないでいいもの峻別し。どのみち落ち着かんと正しい峻別できんよ。

anond:20200316072209

頭いっぱいいっぱいの時はどのみち正しい峻別ができないからすべてのものに対してどう思われてもいいと割り切る。必要であれば逃げる。

落ち着いてゆっくり休めるようになってきて、峻別して、これについてはどう思われたい=頑張らにゃならんと再び挑み直す。というのは置いといて。

どうしてそういう境地に落ち着いている?かといえばマインドフルネス座禅をしているから。あれは徹頭徹尾脳の休息だ。

どこでこういう知識を得たかといえば、小池龍之介の本の仏教の慢の感情から得たな。

最も宗教霊感商法も近いところにあるし、霊感商法は頭いっぱいいっぱいだが何らかの助けがほしい奴に霊感商法依存させるような解を与えるという仕組み。

から安易仏教宗教起源とは言うべきかというのは迷うし、仏教という理由付けなしなしでも枠組みを説明できるから小池龍之介仏教知識の前提なしで書いた。

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