はてなキーワード: 中島敦とは
私は改造人間だ。
遺伝子の適性があり、組織に拉致されてベンガルヤマネコの遺伝子を組み込まれてしまった。
視力も良くなり猫のように獰猛に動くことができるようになった。
今や追われる身だ。
男は私をからかってくる。
毬を用意したり、ガマの穂を振るったりするのだ。
私は改造手術以降、どうも狭くて暗いところが好きになってしまったり、髪を手で撫ぜないと不安になってきたり、人と眼を合わせるのが苦手になったり……色々な副作用が出てきた。
毬やガマの穂を思わず弄ってしまうのもその一つで、男にそれがためにからかわれてしまう。
だんだんと、自分が猫に近づいていく不可逆の感覚がある。術式は長期のスパンを考慮して施されたものではなかったようだ。
「手術の後、気付いたらこうなっていたんだ。だんだんひどくなっていく気がする。中島敦の『山月記』って知ってる? 別にカフカの『変身』でも映画の『ザ・フライ』でもいいんだけどさ……怖いんだ」
男はすぐに毬とガマの穂とを片づけて「からかってすまなかった」と短く述べる。
もちろん、自分がネコになっていくのは怖いことだけれど、本当は、男と毬やガマの穂で遊ぶのは楽しいんだ。
そのことも、ちゃんと告げる。
男はすぐに毬とガマの穂を取り出して、二人でまた遊ぶ。
遊びのはずみで男に抱きついてしまう。いいにおいがするのでクンクンして、顔や髪を押しつけて、手で胸板辺りを揉んでしまう。
男は家で猫を2頭飼っているので慣れたもので、頭を撫ぜなぜしてくれる。気持ちいいので、余計に顔をうずめる。
一緒にお酒飲みに行って、なんどか交尾、じゃなかったセックスをして、今日は初めて男の家に行く。
うっかりしていたのだが、家には先輩猫がいる。ちゃんと挨拶しなきゃあ!
先輩にクンクンさせるのだろう。メスとオスらしい。お腹を見せて眼は合わせず。ゆっくり近づく。
激烈に緊張する。
文字は尚とうとばれなかったが、しかし、思想が軽んじられておったわけではない。一万三千の怪物の中には哲学者も少なくはなかった。ただ、彼らの語彙(ごい)ははなはだ貧弱だったので、最もむずかしい大問題が、最も無邪気な言葉でもって考えられておった。彼らは流沙河(りゅうさが)の河底にそれぞれ考える店を張り、ために、この河底には一脈の哲学的憂鬱が漂うていたほどである。ある賢明な老魚は、美しい庭を買い、明るい窓の下で、永遠の悔いなき幸福について瞑想めいそうしておった。ある高貴な魚族は、美しい縞しまのある鮮緑の藻(も)の蔭かげで、竪琴(たてごと)をかき鳴らしながら、宇宙の音楽的調和を讃(たた)えておった。醜く・鈍く・ばか正直な・それでいて、自分の愚かな苦悩を隠そうともしない悟浄(ごじょう)は、こうした知的な妖怪(ばけもの)どもの間で、いい嬲なぶりものになった。
暴言女性議員とその友人と思しき人の怪文書(Facebookだが)を読んで,承認欲求って本当に大変だなぁと思いました.当方も暴言議員と同じく東大出身,現在は某大学でラボをもっています.このような承認欲求に囚われている人をどう解放するか,私の日々の悩みでもあるのでちょっと雑文でも.
進学校出身の東大卒にありがちなんですが,その中でも承認欲求と他者の評価を得ることに貪欲な層が一定数います.本当に誤解されたくないのですが,東大卒がみんなそうじゃないし,本当に学問が好きな人もいれば,ただのオタクもいるし,凡人っぽい人もいる.そういう意味では多様性はあります.
で,この貪欲層って本当に扱いづらく,「自分が頭が良いことを人に示すために行動をする」という行為を取ります.試験の成績が良いのも,その講義が面白かったからでも(知的好奇心),成績が優だと就職の時に有利に働くから(経済的インセンティブ)でもなく,ただ自分は周囲の人間よりもすごいということを示したい(承認欲求)がために勉強をするのです.本末転倒です.
試験くらいでは,それほど害はないのですが,ラボに入ってきて研究をすることになるともっと大変です.様々な学問分野でいろんな常識があるでしょうが,ラボの仲間は良き同僚であり,良きライバルでもあります.お互いに切磋琢磨して成長することは望ましいのですが,研究は勉強と違って,わかりやすい1番がありません.Aという研究もBという研究もそれぞれ方向性が違うのですから.にもかかわらず,同期を威嚇するような進捗報告,自分がどれだけ頑張っているかを示す進捗報告など,とにかく自分を認めて欲しいアピールがすごいのです.
しかし,研究とは残酷なもので,必ずしも学部時代の成績に沿って,研究成果が出るものではありません.いろいろな要因もあり,運もありますが,得てして楽しそうに研究をしている人のところに成果が出ると思います.私も東大出身ではありますが,遊び呆けていたわけではなく,それなりに真面目に授業に出ていましたが,全く成績は良くなく,優なんて数える程しかなかったものです.しかし,本当に面白いな,この人みたいになりたいなと思う研究者に出会い,野垂れ死んでもいいやと思って研究をやり始めました.最初はまったく成果は出なかったですが,5年ほどかけてやっと成果が出始め,現在はCNSにも通るようになりました.そういう意味で私は遅咲きのタイプでした.
よく冗談で試験前に勉強してないアピールの優等生というのが出てきますが,そういう人は研究に最も向いていないタイプの人です.研究の世界では,知識や知見は通貨であり,これらを交換し合うことで,人類の研究の世界は成り立っています.ギブ&テイクとは言ったもので,最初にギブした人の元には様々なギフトが降ってきます.一方で,得をしようとテイクばかりする人間からは人は離れていくのです.これが人徳に繋がるのかもしれません.
大体において,優等生は高いプライドが邪魔をして,人に相談ができなかったり,しかし自分は優秀だと認めてもらいたくて間違った努力に走ることがあります.その度に私は中島敦の山月記の話をするのですが,頭が良い彼ら/彼女らには,ただの国語の試験問題で読んだ文章としてしか理解されずに,本意は捉えられず,自分のことを認めない研究が嫌いになり(正確に言えば,自分が褒められないフィールドよりは,自分の優位性があるフィールドに移動したいというインセンティブが働き),研究と一切の関係がない外コンや官僚,商社に去っていきます.就職して大学を去る人たちにも研究の面白さを伝えた上で卒業してもらいたいのですが,なかなか難しいようです.卒業生のFacebookをみたときに,研究や大学をひどく罵っている様子を見てしまい,自分の教育者としてダメな部分を痛感します.ただ,浪人もして東大の中で劣等生であった自分が,傷ひとつない経歴の彼らの気持ちや行動原理がわかるかというと,なかなか難しいのも事実です.
外野からの観測からですが,彼/彼女らは自分のことを好きではないのだろうな,だからダメな自分を信じてあげられないんだろうなと思います.かっこ悪い自分を見たくない,失敗したくない.それは誰もがそうです.しかし,「お前が信じるお前を信じろ」ができなければ,人生辛いと思うのです.他人にバカにされようともいいじゃないですか.自分は自分のことをすごいと思っていれば.俺はいつか成果を出してやるんだと思ってがんばれば.なぜ自分を信じてあげないのか,安易に他者の評価を,より正確にいうと,自分よりも圧倒的に頭の悪い他者の評価を得ようとするのですか.そんな人たちに褒められるよりも,あなたの方が賢いのだから,あなたがあなた自身を認め,褒めてあげないと.
あの暴言は全く許されるべきものではないですが,暴言議員のあの咆哮も,山月記だと思えば,臆病な自尊心と尊大な羞恥心に依るものだったのでしょう.悲しいことです.
ひさびさに中島敦『山月記』を読んだら、だいぶ読み方が変わって驚いた。
以前は、強烈な自尊心ゆえに友人や先生に教えを請えないエリートが没落した様を描くことで、「つまらないプライドは捨てて生きていかないとロクなことにならないよ」という教訓を言う話だと思っていた。
が、この読みはどうも浅薄というか、人生の敗北者にとっては厳しすぎるのである。というか結論だけ抜き出せばそこらの自己啓発本と変わらないような気がしてきて、作品の価値を矮小化しているような気さえしてくる。
そこで、もう少し人生の慰めになるような読み方はないか。と考えていたら、これは「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないか、と思い始めた。
中学生の頃に読んだときは、李徴は周囲に教えを請いたりできないプライドの高い男だな、と思ったが、(浅い)人生経験を積んだ今、改めて読むとそうでもない。
李徴が詩人を志したのは、(功名心もあっただろうが)第一には心を揺さぶる先人の詩があったからだろう。そうなると、そうした詩を書く者が周囲にいれば、これに師事したり教えを請いたりしたはずである。
それにもかかわらずそうしなかったのは、自分の追い求める詩人像に値する者が周囲に居なかったからだろう。
①自分の追い求める理想像と、②世で「名を成す」者とがズレることは、現実社会でもしばしばあることである。
李徴は、このズレに気付かないまま自分の理想像を追い求めていったことで、世で「名を成す」ことができなかったばかりか、周囲の人間と折り合いがつかなくなり、「努めて人との交を避けた」結果、「一匹の猛虎」となった。
他方、周囲にいた「己よりも遥かに乏しい才能であ」る者は、世で「名を成す」道を「専一に磨いたがために」、「堂々たる詩家」となった。
李徴は理不尽な世の中に自分を合わせられず、ひたすらに理想を追い求めた結果、社会的に失敗してしまったのである。
これはカフカ『変身』で、社会の求める市民像──(ⅰ)家庭の善良な息子、(ⅱ)有能なセールスマン──を演じていたグレーゴルが、自己の本来性の自覚を持ってしまった瞬間、褐色の虫に変身してしまったのと似ている。
現代社会のルールでは、人間が自己自身の本来性を保持することを許さないのである。
そして、李徴が不幸であったのは、上述した社会のルールに、他ならぬ李徴自身が支配されていた点にある。
李徴としては、徹底的に社会を突き放し、自分の理想像を追求するという途もあった。
しかし、「元来詩人として名を成す積りでいた」李徴は、世で「名を成す」努力をできなかった自分を徹底的に断罪するのである。
李徴の詩を聴いた袁の評価によれば、李徴の詩は「長短凡およそ三十篇、格調高雅、意趣卓逸、一読して作者の才の非凡を思わせるものばかりである」とある。
「第一流の作品となるのには、何処どこか(非常に微妙な点に於いて)欠けるところがある」とは言え、この自己評価は言い過ぎである。
それに、はっきり言って実社会でこんな話は”よくある”ことなのである。
神の手により不幸のどん底に落とされる義人ヨブを、自己責任論に基づいて徹底的にこき下ろす友人エリファズの話だが、どうも李徴の中にはヨブとエリファズが同居しているように思える。
さらに、上記のヨブ記のラストにおいて、ヨブは「仲保者」(=キリスト?)の存在を確信することで救われるが、李徴にこのような仲保者は現れない。
ただ、「向うの山の頂の巖に上り、空谷に向って吼える。この胸を灼く悲しみを誰かに訴えたいのだ。己は昨夕も、彼処で月に向って咆えた。誰かにこの苦しみが分って貰えないかと。」というだけである。
これも社会のルールに合わせられないムルソーという男の不幸を描いた作品である。
ムルソーは物語のラストで、このような自分を排除せず「優しい無関心」を示す自然の存在に気が付き、幸福を得る。
他方、李徴は「獣どもは己の声を聞いて、唯、懼れ、ひれ伏すばかり。山も樹も月も露も、一匹の虎が怒り狂って、哮っているとしか考えない。天に躍り地に伏して嘆いても、誰一人己の気持を分ってくれる者はない。ちょうど、人間だった頃、己の傷つき易い内心を誰も理解してくれなかったように。」というだけである。
ここに来て、山月記という作品は「理不尽な世の中に自分を合わせられない不器用な男が、苛烈な自己責任論で自分を裁いてしまい、自分を受け入れてくれる神も持たなかった結果、精神的な苦境に陥る話」じゃないかと思うのである。
東京大学総合図書館を、平成29年度の一年間閉館する計画が決定されたという。
新図書館の開館に合わせ旧図書館の改修工事を進めるという段階的な予定が、なぜか、いつのまにか前倒されたらしい。
人々が書き残した文章から過去の社会に迫る。そうした人文学を志す私にとって、何よりも思考の源泉となる場所がこの図書館であった。
一年間閉館という自己否定の暴挙を取ろうとするのは、畢竟、図書館や大学当局内ですら図書館の価値が共有されていないからだろう。
議論になるような大きなことを言うのは苦手なので、ここでは私が総合図書館の書庫をさまよった話を記したい。
ある日、昼食から総合図書館に戻った私は、三島由紀夫が「灯台のようだ」と表現した階段を4階まで登った。
進まない研究から目を背けようと手に取ったのは、『中島敦全集』第一巻(筑摩書房、1977年)。
「山月記」や「名人伝」といった誰もが知る短編を読むつもりだったが、「斗南先生」という作品が目に入った。
斗南先生とは、中島敦の伯父にあたる無名の漢詩人中島端のことである。
幼少より秀才の誉れ高く、「にもかゝはらず、一生、何らのまとまった仕事もせず、志を得ないで、世を罵り人を罵りながら死んで行つた」。
その遺稿集『斗南存稿』(文求堂書店、1932年)を帝大・一高の図書館に寄贈するよう、中島敦は親戚に頼まれる。
気質が似ているとも言われた伯父の晩年の姿を思い出し、躊躇しながらも、遺稿は郵便小包で寄贈することにした、という私記の体をとっている。
一通り読み終えた私は、寄贈されたというその遺稿を確かめに、がたがたのエレベーターで一階に下り書庫に分け入った。
私の歩みに合わせて明りの点く書庫を、請求記号を書きとめた紙をたよりにさまよう。
書庫のなかでもとりわけ人気のない、和装本の並ぶ一角でそれを見つけた。
中島敦が寄贈してから80年余が経つその本は、周りの本とともにわずかに埃っぽく並んでいた。
案に違い、他人が頻繁に開いたような跡も、ましてや書き込みもない。
それと知らねば目立つこともない一冊の本にも、一篇の物語がある。ろくに読めない漢詩に目を通しながら、そんなことを思った。
もし反対運動が実って来年度の閉館が撤回されたとしても、数年もすればあの暗い書庫をさまようことはできなくなる。
本を求めてさまよい、手にとって過去を思うといった行いは、ありふれていながら何と贅沢なものだったのだろうか。
知に触れる日々を、願わくは、私から奪わないで欲しい。
クリスチャンになると自然と自然科学に興味が湧く(ダジャレ事故)。
光文社からたまたま出てたダーウィン『種の起源』が分かりやすく面白かったため、自然科学の古典を読んでいきたい。
あと社会科学系の本ばっかり読み過ぎて飽きてきたのもある。
『星界の報告』の新訳。望遠鏡で観た星空の様を感動と共に書いた本、らしい。あと地動説が論じられてるとか。
ニュートンの『プリンキピア』を中学高校レベルの数学で平易に解説した本、らしい。別にこの本じゃなくてもいいんだけど、要するに『プリンキピア』に何が書いてあんのかをざっくり知りたい。
チャンドラセカール『「プリンキピア」講義』なる本も定評があるらしいが、難解らしいので警戒している。
図書館で解説だけ読んだら、あの難解な宮沢賢治の内容がものすごく分かりやすく解説されていて驚いた。本作はその解説(読み方)に従って作品を配列した全集。
といってもどう見てもキリスト教に引っ張られた解釈(「完全な自然と不完全な人間の対比」)で、どこまで鵜呑みにしていいのか分からんけど。
ちなみに有名な『雨ニモマケズ』は、昔からキリスト教っぽい詩だなぁと思っていたのだが、モデルの男と目されている人物(斎藤宗次郎)がクリスチャンらしい。ホントかどうかは知らんが興味深い。
ブコメで勧められたのを検索してたら発見。人生をやり直したいという主人公に神が答えるシーンがものすごく良い。
ドストエフスキーのデビュー作。といっても彼が社会主義者で、ゴリゴリのクリスチャンになる前の作品。なぜか光文社から新訳が出た。
どうも金と愛の話らしい。
クリスチャンになる前はマルキストだったので、この本には昔から興味があった。
古い訳で分厚くでかい本しかなかったので敬遠していたのだが、このたび何故か新訳された。マルクスブーム万歳である。
ついでにヒルファディングの『金融資本論』も新訳してください。
とりあえずこんなところ。
「何かお困りですか?」
って親切な人が着たら、詐欺師を疑うべき。
「ATMはどこか教えてください。」
「タクシー乗り場を教えてください。」
と聞いていくべき。
歳をとって金目当ての女性に言い寄ららるっていうけど、ホントそう。
自分から相手を探さなかったから、都合のいい相手として食われるのだ。
ハンパな人が多いと思う。
成功体験がなさそう。
例のエントリのボス猿とある意味で似てて、ボス猿が根拠のない自信なら、非モテは根拠のないプライド。
負けるのが怖くて、自分からは勝負に出ないで、あれは酸っぱいブドウだと言ってプライドを守ってる。
たまにどうせ俺なんてと自虐るけど、たいした負けは経験してないんでしょ?
モテる男を馬鹿にしてるでしょ?それについていく女を馬鹿にしてるでしょ?
中島敦の山月記の「臆病な自尊心と尊大な羞恥心」という表現そのもの。
「ダサいのは嫌だ!でも、色気つきやがってとは思われたくない!」
ビクビクしないで、お洒落すればいいじゃない。
そうかと思ったら、わざわざ
「これはネタです!」
みたいな格好をしたりして。
そういうエクスキュース、痛いよ。
なんで素直に生きられないのかな?
一緒にご飯が食べたいなら、そう誘えばいいのに。
好きな服を着ればいいのに。
「モテは諦めた。好きなことをして生きる」
今日は初めてデートでプールに行った。楽しかったはずなのだけど、デートの終わりで彼氏と話した内容が図星すぎて、泣いてしまった。人前で泣くのは嫌いだったのに。
言われたのは自分のやってることに関して。いや、前期は遊びまくって忘れようとしていたことだから、逃げ続けてやっていなかったことか。
私はそれなりのレベルの美大に入っているけれど、入れた要因は正直運だけ。褒められたい一心で絵を描いていただけで、デッサンは向上してないし塗りも人並み。予備校にも通ったのに基礎的なことはまるでできていない。
応用的な課題も基礎が出来ていないから全然出来ないんだけど、いまさら基礎からやり直す気にもならない。こんなに後悔するなら予備校での基礎課題を今の課題意識でこなしていればよかった。
彼氏がいろいろ話を聞いてくれるのは優しいけど、話せば話すほどボロが出る。こんな奴に付き合うことないと思う気持ちと、でも別れたくない気持ちがごっちゃになってる。
そして彼氏が言うには、私は自己顕示欲が強すぎで、承認欲求が強すぎるんだそうだ。自分が不甲斐ないことは晒したくないし、みんなには自分のことを優秀だと思っていてほしい。だから、助けようとしてくれる手をはねのけてしまう。
じっさい、周りのみんなだって自分よりは才能がありそうだけど、才能だけでやっていけてるわけじゃない。努力したり、悩んだり、みんなに頼ったりしている。自分はそれすら出来ないってことだ。
なんだか、死にたいほど追い詰められている。
http://anond.hatelabo.jp/20150803235127
まあつまり
人間であった時、己は努めて人との交を避けた。人々は己を倨傲だ、尊大だといった。実は、それが殆ど羞恥心に近いものであることを、人々は知らなかった。勿論、曾ての郷党の鬼才といわれた自分に、自尊心が無かったとは云わない。しかし、それは臆病な自尊心とでもいうべきものであった。己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為である。己の珠に非あらざることを惧れるが故に、敢て刻苦して磨こうともせず、又、己の珠なるべきを半ば信ずるが故に、碌々として瓦に伍することも出来なかった。
去年の僕のtwitterプロフィールに一時期掲載していたのをまとめた。誰のためでもない。自分の為でもない。
参考
僕のtwitter
前編:http://anond.hatelabo.jp/20130522180321
後編:http://anond.hatelabo.jp/20130522180539
題名:無題
何のために大学にいくのかと問われて、即答できる現代人は少ないだろう。かつて大学が数えるほどしかなかった頃、人は大いなる志と目標、夢を抱いて大学の門をくぐった。しかし、昨今の少子化と飽和状態と化した大学数のミスマッチは大学全入時代を招き、結果として「何と無く」「みんな行っているから」「学歴のため」といった本来大学に不要n
幼い頃からKO大学に行くことが夢でした。福沢先生の著作を読み漁り、キャンパスに何度も足を運び、大学の授業にも何度も潜り込みましたが、なぜか勉強できませんでした。そうこうしているうちに、僕は大学でやりたいことがないことに気づきました。KOに入ること、それだけが全てだったのです... (自伝「信者の目録」前書きより抜粋)
題名:何も産み出せない
TSFにしても、今まで3年間やってきた無駄な行いにしても、共通しているのは情報を消費しているだけで、何一つ産み出せていないことです。もちろん生きている限り全くということはないのでしょうが、その全てが自己満足で他人から評価されるようなことが全くと言ってないのです。まるでカルト宗教の信者のように。
なぜ虎になったのか。自分は周りの声を無視して上京した。親はそれを傲慢だと言ったが、実は臆病な自尊心と、尊大な羞恥心の為せる業だったのだ。本当はただ勉強したくなかったからという理由を自ら認めるのを恐れ、そうかと言って、苦労して勉強以外の才を磨くのもできなかった。それが心中の虎であり、ついに本当に虎になったのだ。
養老孟司さんの著書によると、今後生命科学分野の進展によって「進化の遺伝子」が抽出される可能性が出てきたようです。分かりやすくいうと天才のDNAですかね。それが抽出された瞬間、我々凡人の存在意義は無くなります。何事も遺伝。例えば代々東大出身の家系の人はそれまで全く勉強してなくてもたった一年で東大合格したりしますからね。
養老孟司「我々がどんなに頑張ってもイチローにはなれない」by痛い信者
自分は何のために存在しているのかという疑問は、実は地元の高校に入学した時から持っていました。その後その負担に耐えきれずに、自分探しと称して学業を放り投げ東京へ。後は増田の通り。自分なんて東京のどこにもいませんでした。結局今の自分は、勉強の他にもこういった「超えるべき壁」からも、ずっと逃げ回った結果なのかもしれません。