東京大学総合図書館を、平成29年度の一年間閉館する計画が決定されたという。
新図書館の開館に合わせ旧図書館の改修工事を進めるという段階的な予定が、なぜか、いつのまにか前倒されたらしい。
人々が書き残した文章から過去の社会に迫る。そうした人文学を志す私にとって、何よりも思考の源泉となる場所がこの図書館であった。
一年間閉館という自己否定の暴挙を取ろうとするのは、畢竟、図書館や大学当局内ですら図書館の価値が共有されていないからだろう。
議論になるような大きなことを言うのは苦手なので、ここでは私が総合図書館の書庫をさまよった話を記したい。
ある日、昼食から総合図書館に戻った私は、三島由紀夫が「灯台のようだ」と表現した階段を4階まで登った。
進まない研究から目を背けようと手に取ったのは、『中島敦全集』第一巻(筑摩書房、1977年)。
「山月記」や「名人伝」といった誰もが知る短編を読むつもりだったが、「斗南先生」という作品が目に入った。
斗南先生とは、中島敦の伯父にあたる無名の漢詩人中島端のことである。
幼少より秀才の誉れ高く、「にもかゝはらず、一生、何らのまとまった仕事もせず、志を得ないで、世を罵り人を罵りながら死んで行つた」。
その遺稿集『斗南存稿』(文求堂書店、1932年)を帝大・一高の図書館に寄贈するよう、中島敦は親戚に頼まれる。
気質が似ているとも言われた伯父の晩年の姿を思い出し、躊躇しながらも、遺稿は郵便小包で寄贈することにした、という私記の体をとっている。
一通り読み終えた私は、寄贈されたというその遺稿を確かめに、がたがたのエレベーターで一階に下り書庫に分け入った。
私の歩みに合わせて明りの点く書庫を、請求記号を書きとめた紙をたよりにさまよう。
書庫のなかでもとりわけ人気のない、和装本の並ぶ一角でそれを見つけた。
中島敦が寄贈してから80年余が経つその本は、周りの本とともにわずかに埃っぽく並んでいた。
案に違い、他人が頻繁に開いたような跡も、ましてや書き込みもない。
それと知らねば目立つこともない一冊の本にも、一篇の物語がある。ろくに読めない漢詩に目を通しながら、そんなことを思った。
もし反対運動が実って来年度の閉館が撤回されたとしても、数年もすればあの暗い書庫をさまようことはできなくなる。
本を求めてさまよい、手にとって過去を思うといった行いは、ありふれていながら何と贅沢なものだったのだろうか。
知に触れる日々を、願わくは、私から奪わないで欲しい。