はてなキーワード: の憂鬱とは
わたしは大学を卒業してから総合病院の医事課で働いた。職場の人はみんな優しいし仕事を覚えるのは苦労したが今思うととても充実していた気がする。だが、激務が続いたり少し特殊な病院だった事もあり、ストレスで双極性障害Ⅱ型と偏頭痛であると診断された。それでもなんとか働いていたが後に休職、そして退職をした。上司がわたしの事をとても努力して頑張っていたと言われたことがとても嬉しかった。
退職をしてすぐに家から近いクリニックで働き始めた。ほぼワンオペ状態の医療事務だった為大変だったが患者さんとの距離が近いクリニックだった事もあり、すぐに患者さんがわたしの顔を覚えてくれて世間話をしたりケーキの差し入れを貰ったりした事もあり患者さんのために仕事を頑張っていた。そして間もなく異常な偏頭痛に襲われ仕事を1日休んだ。この事がきっかけで職場に精神科に通院中という事がバレて正社員からパートになり、なんだかんだで退職して欲しいという内容の事を言われ腹が立ってすぐに辞めた。
その後、通院先の精神病院でWAIS-IIIを受ける事になった。そしてIQ63の軽度知的障害と診断された。わたしは少し嬉しかった。今まで仕事を覚えるのに苦労したり学校の先生や塾の先生に人一倍頑張ってやっと一人前になれると言われた事がありわたしは必死で頑張ってきたつもりだったが上手くいかない事の方が多くもしかして自分の障害のせいだったんだと思うことで今まで辛かったことが嫌な思い出にならなくなった。
そして、わたしは初めて障害者雇用で働く事になった。事務補助の仕事だった。働き初めてすぐに壁にぶつかった。すぐに就労支援センターという障害者の就労支援をしている施設に電話し相談をした。するとすぐに支援センターの担当と上司と3者面談になり、苦手な仕事はしなくても良いという事になった。わたしは最初はこれで仕事に行く時の憂鬱さから逃れられると思ったがそうはいかなかった。自分がわがままを言って上司や職場に迷惑をかけてしまった無能社員だという悩みに変わってしまたったのだ。そして、会社に迷惑をかけたくない死のうという思考に陥り退職した。
そして、どこかで働かなければならないという思いでいっぱいになりA型作業所で働いた。半年くらい経った頃突然作業所の責任者であるクソ女からうちの社会福祉法人でB型作業所を設立する事になったからそこに移って欲しいと言われた。わたしは驚いてしまい頷くことしか出来なかった。数日経って冷静になったわたしは会社都合退職という形で退職届を書いて提出した。しかし、クソA型作業所は自己都合でないと受け付けないと言い雇用保険の手続きもしてくれなかった。すぐに縁を切りたかったから仕方なく自己都合退職をした。労基やハロワに相談したが労基はあまり取り合ってくれずハロワでは今そのA型に行きたいと言う人には注意喚起をしてくれている、らしい。後で分かったことだがその設立すると言っていたB型作業所は役所によるとB型作業所が出来るという事実は無かったし未だに設立されていない。
なんだかんだで行く場所が無くなったわたしはB型作業所の体験に行った。工賃が700円近いという理由だけで。体験をしてる間は楽しかった、パートのおばさんが優しいし楽しい。喫茶店の厨房で仕込みをしたり一緒に働いている障害者もコミュニケーションに難があったが困った時はいつも助けてくれた。入所について案内をされた時、雨の日とかちょっとしんどいな〜って思ったら電話してくれれば休んでいいからねと言われた。わたしはその時はへぇ、そうなんですね…と言ったがそんな甘い考えで良いのか…と少し過ぎった。B型は雇用契約を結ばないしそんなもんかと考え自分を納得させた。それから正式入所になり何日か通所したが、時々一緒に作業をしている障害者にお前はやる気あんのかと言ってしまいそうになる事があった。厳しい環境で働いてきたからか仕事に責任を持ってやっていない人を見るとイライラしてしまう。障害者だからって怠けて良い訳では無い、もちろん鬱とか体調が悪いなら休息は必要だが。わたしはだんだん今の状況に腹が立ってきた。双極性障害がほぼ寛解状態になり、薬を一切飲んでない状態で次の障害年金が切られる可能性が大きい事もあり焦っているのかこんなところでぬくぬくしてていいのか不安になった。なにより自分より無能な障害者を見ていると自分の無能な社員時代を見ているようで嫌になった。だからわたしは今日作業所にしばらく休むと連絡を入れた。この先どうするか考えていない、働きたいが仕事が見つかるか不安だ。
障害者はしねばいい。無能人間、社会の荷物。本当に生きてる価値ないよ、努力しないで国から金もらって生活して幸せなの?障害者しね!
そしてわたしもしにたい。
現役で慶応に入って、体育会に所属していた彼(おまけに男前)は
「なんかよくわかんないけど、エッチな小説だよ。」とのことだった。
翌週、その本を買い、その後30年程の間に、何度か買い直して
今はKindleの中に入っている。合計10回くらいは読んだと思う。
“誰かを幸福にすることなどできない、他人にしてやれることなんか何もない、
他人をわかってあげるのも無理だ、他人に自分をわかって貰うのも無理だ、
他人を支配するのも不可能だし、支配されることもできない、他人に対して
できることはキラキラと輝いている自分を見せてやることだけなのだ”
“キラキラと輝いていなければ、その人は死人だ。キラキラと輝くか、輝かないか、
その二つしかない。そして、もし何か他人に対してできることがあるとすれば、
キラキラしている自分を見せてやることだけだ。キラキラする自分を示し続ける自信
ある程度本を読んできたと思うけど、自分の行動原則みたいなものに最も影響を
50歳で既婚者の私には彼女(40代前半、既婚者、デートしだして1年3ヶ月)
がいるけど、私が彼女にしてあげられることなんて何もない。彼女はお金には
困ってはいないし、気持ちいいセックスだって私以外に提供できる人はたくさんいる。
私が彼女に何をしてあげられるかっていうことじゃなく、私が楽しく生きている私で
あり続けて、そして、そんな私と一緒にいることが、彼女に楽しさみたいなものを
感じさせるってことなんだろう。
28歳くらいまで、商売がまあまあうまくいっていて、3~5人くらいの女性と定期的
にデートし続ける生活を続けていた。(当時独身)、まあ女性からしてみればクズ死ね
っていう人間だったと思うけど、それはまあガンになって死にかけたので罰も少しは
あたっているし、今後も小さな十字架は背負って生きていくので許して欲しい。
それで商売がうまくいかなくなったときは、自信をなくしてしまって、おまけに病気
(別の病気、ガンは5年後)にもなったりして、けっこうしんどかった
そうしたら、仲良くしていた女性達もみんな私から離れていった。
商売がうまくいっているといっても、金持ちとかそんなレベルではなく、おいしいご飯
を女性達と食べたりすることができるくらいのレベルだったので(車も持ってなかった)
金の切れ目がってことではなかったんだろうなと思う。(回数を減らせば同じデートはできた)
楽しそうにしていない、不安を抱えている私と一緒にいることは女性にとって
楽しくないことで、それがゆえに私から離れていったんだろうなとだいぶ後で思った。
2020年の10月に今の彼女と初めてデートして、そこから1年ちょっとは商売の調子もいい。
基本、私は陽気な人ではあるんだけど、仕事が調子よくて、さらに陽気な人になって
いただろうと思う。そして、それもあって、彼女とこの1年3ヶ月程関係性が継続できて
いたのかもしれないなあって思う。セックスでどれだけ彼女を気持ちよくさせたとか
楽しそうに生きている私がいて、そして私は彼女のことが大好きであるっていう事実
がそこにあればいい。彼女に好かれたいとは思って、グチグチ悩んだりもするし、
そのために、彼女が読んでる本をかたっぱしに買ってみたり、ジムいったり、ランニング
したり、たまにはプレゼント買ってみたりもする、もちろんそれはマイナスではないだろう
けど、リスクだけある関係においては、あんまり大きなことではないんだろう。
幸い、大きめの仕事が決まりそうなので、今年1年くらいはキラキラしていられそう。
今年1年、彼女と仲良くやれたらいいなあ。
きっと子どもの頃に、家族が親族に裏切られる様を見たことが根本原因なので、根深い。
家族親族友人知人、心の本当の奥底で信頼に値する人などいるわけがない。
そんな心で人と世の中を見ているので、友人は少なく、無宗教、無党派。
簡単に人を信じてえらい目に遭う人を見たり、宗教にはまりこんで金をむしり取られたり、支持政党に裏切られたりする様を見つけては「ほら見たことか」と自分の性質を肯定する。なんというピュア、なんという無策。人は信じるに値しない。他人を信じては、ならぬ。
ただ本当のところは、自分のマインドを肯定するための事例を探しているに過ぎないこと、他人を信じてうまくいくケースがあることを知っている。自分にそのケースが当てはまらなかったと言うことも。
すばらしい。5回立て続けに読んでいる。
大筋に感心し、演出に感心し、絵心に感心し、熱意に感心し、読者を感動させてやろう、おもしろがらせてやろう、びっくりさせてやろう、そしてこのマンガにある特定の@@さんをよろこばせてやろうという全ての思いが高いレベルで結実しており感心しかないマンガ。
正直なところ2021年はマンガにとって「終わりの季節」だった。長いマンガが印象的に終了していった。それでいえば、藤本タツキさんの「チェンソーマン」もそうだ。終了してアニメ化がきまるというかっこいいやつ。
世間に目を向けてもコロナという重い重い厄災のなか、起死回生のつもりがトドメの1発になりそうなオリンピックという名の葬儀がそろそろしめやかに開催される。
だけど、「次」への1発がこのタイミングで放たれた。
ルックバック - 藤本タツキ | 少年ジャンプ+ https://shonenjumpplus.com/episode/3269754496401369355
寝起きで読んでぶっとんだ。すごいすごいすごい。
そしてここんところ渦巻いていたはてなやツイッター界隈の憂鬱な流れもぶっ飛ばされた。「いいもん読んだ!がんばろう!」って。こういうとき単純で本当によかったなと思う。
あと、物語に感動できる体質でよかった。
以前、ここで物語はどうせ嘘だから読んでいてもおもしろくないという趣旨の文章がバズったことがある。
この作品を前に何も思わないひとがいるんだとふとそのひとのことを思い出した。
気の毒とかかわいそうと優位に立つつもりはないがもったいなくて損しているなと。
かつてより物語による喜びはあった。ただネットおかげで世界中の物語を参照できる。楽しむことができる。そして「共有」することができる。
たとえば
『カトラ』Netflixで一番ヤバイ作品を観てしまった:telling,(テリング) https://telling.asahi.com/article/14389987
アイスランドの連続ドラマ。アイスランドの連続ドラマを日本の田舎でみることができる。これがおもしろいなんて20世紀にわかる人間はアイスランド近辺の人だけだったろう。
たとえば
ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド : 作品情報 - 映画.com https://eiga.com/movie/89421/
上記藤本タツキさんの「ルックバック」はこれのパクリじゃないか?というネットの書き込みをみる。「ほおどれどれ」とすぐさま確かめることができる。Netflixにあるしアマゾンプライムビデオでも299円でレンタルできる。そしてその疑問をすぐさま自分で確かめることができる。
最高じゃないか。
でも、物語を楽しむことができない人はそのことに楽しみを見出すことができない。
今はいいよ。身体が動くだろう。人間関係も豊かだろうし。ただ、それらは消耗品だ。いずれ衰え途絶え弱くなる。
それをいうなら物語も例外ではない。ただ耐久消費はかなり時間がある。老人が病院のベッドでいつまでも時代劇をみている。身寄りがなく見舞いにきてくれるひともほとんどない。でも、時代劇をみているその間はおもしろさで頭の中は充たされている。
物語が楽しくないとその時間になにをしているのだろう? 20代のときに抱いた女よかったなとか?
んまあいいんだろうけど。おれだったら間が持たないなと。地獄だな。またそんなひとと話ししたくないし。絶対につまらなそうだから。
話を楽しむ能力がないひとは話を作る能力がない。つまり、どんなおもしろい体験をしていてもそれを離して聞かせる能力がない。よってつまらない。
ま、そういうことで「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・ハリウッド」みます。そのあと「ルックバック」もまた読みます。あとオアシスの「ドント・ルック・バック・イン・アンガー」も聞きます(こっちはまちがいなく関係がある)。
https://open.spotify.com/track/1xRRPtBWty61XDG7BvMdmL?si=7042ba673f32459b
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210710/k10013130481000.html
ツイッターをざっと見た限り「女のことを未だに産む機会としか思っていないとしか思えない表現」など言われていて、この文章だけ読むと、確かにそういう印象を受けるかな~と思った。
ただ、もう少し病院に行っていればと苦しんでいる人もいるだろうし、早めに病院に行く必要性を説くこと自体はいい取り組みなのではないかなと思う。
その上で、学校の先生方には、「子どもを産むかどうかは本人とパートナーの意思決定にある」話や、「男性と恋愛をし子どもを育まなければいけない」という価値観を決して押し付けないよう配慮していただきたいなと思う。
それはそれとして。
職場や学校、家庭がいくら気を付けて、変わっていっても、まず病院側が変わらなければならないのでは?という気持ちがある。
私も10年ほど前、生理不順と生理痛がひどく、病院への受診を決めたものの、通える範囲には男性医の方しかおらず、なんとな~く嫌だな~……という気持ちで診察を受けた。問診と触診だった。
その際に言われた言葉は、いまも何となく飲み込み切れなかった魚の骨のように引っ掛かっている。
「そんなにつらそうには見えないけどな」
「妊娠をのぞんでいるんですか? 当分は予定がない。であれば、特に治療や手術は不要だと思いますよ」
こっちは痛みがあって受診しているので、嫌な患者だろうかとも思ったが、原因や病名は……と訊ねて、ようやくレントゲンだったかエコーだかを受けさせてもらった。初診が10,000円くらいだった。後日結果を聞きにいって、特に大きな問題はなさそうですねと帰された。
そのあとも生理不順と生理痛はしばらく続いたが、転院するにしても、またあの憂鬱な診察を経て1万円を払いに病院にかかる気持ちにはなれなかった。
すべての病院がそうとは限らないし、10年前の話なので、いまは改善していると信じたいが……
結局今は生理は40日に1回くらいに落ち着いて、痛みはまあまああるが、2日目と3日目に薬を飲めば平気というくらいだ。
いまは結婚し、ゆる~く妊活をしているが、旦那さんは、まあ子どもができなかったらそのときは二人で楽しく暮らしていこうよと言ってくれている。
これから婦人科を受診する人を脅したい意図はないです、いま通っている産婦人科の先生は話を聞いてくれるし、予定があって生理をズラしたかったときも、低用量ピルなどの相談に乗ってくれた。
でもま~不妊の人が増えた方が婦人科は(産婦人科ではない)儲かるからなのかな~~ 本当にあの病院つぶれないかな~~ということを、ニュースを見て思い出した。
就職活動も、趣味の音楽も、人間関係もとにかく全部に疲れた。苦しい現状を嘆くことすら面倒くさい。
自分の生きている人生そのものにうんざりしている。一念発起したところで自分は自分で、いつまでも救えない愚かな怠け者で、わかっているくせに克己心のかけらも芽生えないあたり本当に救えない人間なんだと思う。
何が悲しいのかすらよく理解していない。自分が嫌いなのか、知人が嫌いなのか、労働が嫌いなのか、社会が嫌いなのか、人間が嫌いなのか。あらゆる全てがなんとなく嫌いだ。誰のことも許せない。狭量な自分のことが一番許せない。
環境に恵まれていたって結局自分は自分で、もし心身ともに豊かに育つことができていたって、今と同じどうしようもなく情けない自分になっていたと確信している。だって今の自分より苦しい過去を背負っていても、今頑張って幸せに生きている人がたくさんいるんだから、じゃあ現状の自分の不幸は自分以外の誰のせいと言えるだろう。
つらいことから逃げれば勝手に幸せになれると思ってた。待っているのは虚しさだけだった。就活のストレスから逃げても、大学を卒業して単位の心配から解放されても、心はずっとなんとなく憂鬱だった。その憂鬱すら怠惰を正当化するための言い訳に違いない。落ち込んでいれば頑張らなくたって許されると思っているから、だから周りの人に励まされるとイライラするんだ。
人並みに生きている真っ当な人たちへの嫉妬が抑えられない。頑張って生きてるからそのご褒美として彼らは幸せを得ているのに、ずるいと思ってしまう。親の脛かじって生き延びている俺の方がずっとずるい。わかっている。
行動しなきゃなにも得られないのは当たり前のことで、だから手を動かそうとしているのに、その手を自分で止めている。どうせ報われないさ、そんなことやって何になる、と、また無気力を正当化する。
2020/1/19(コロナ前)
去年結婚した。結婚に伴い、新卒より働いていた会社をやめ、福岡に越してきた。Web系に再就職したが、給料が安い。自分で選んだとはいえ、みじめだ。仕事はキツくないが、常に追われている感じはずっと続いている。根底には常に焦燥感がある。これならば、前職と変わらないではないか。むしろ、前職の方が良かったかもしれない。
福岡に来て、友達と遊ぶ機会がなくなった。代わりに夫と過ごす時間が増えたが、既にマンネリ気味だ。
他者との交流の代替なのか、kポップのペン同士で交流にのめり込んできた。はじめは、EXOが好きだった。今も好きだけど、どちらかというと、フォローしている人とやり取りするのが楽しくなってきているのかもしれない。一度もあったことがないのに、ツイートを見て、リプライして、現実の友人よりプライオリティが高くなっている。情けない話だ。
プライドが高いせいで、フォローしている人と自分を見比べ、渡韓できないのが悔しくなってしまっている。〇〇がしたい!と思っても、夫の目が気になったり、実際に止められれて、出来ないことが増えた。一人暮らしをしていた時より、不自由なことが増えて、ひとりの時間もなくなり、「結婚とはなんだったのか?」と考えるようになった。
結婚すれば、必ずしも幸せになると盲目的に信じてたわけではないのに、今直面している現実を受け入れられない。不幸なことに、私は金銭的な理由で、離婚なんて決断はできず、おそらくずっとこのままだ。
この状況が好転することはあるのだろうか。薄々気付いているのは、どんな状況でも不平・不満は必ずあると知っていること。それを承知の上で、この先もずっと、この不幸は続いていくのだ。
来年こそはイギリスに行こうと思ったとき、私に来年があるのかと思った。自殺はしないだろうから、来年はあるのだけれど、自由に出来る身体なのか、自由に決断できる環境なんだろうか。
あの時はこんなことを考えるようになるなんて、思いも寄らなかった。新しい人生の始まりに胸がわくわくしてた。まさに、一寸先は闇。
「終わった」人生は、とても味気なく、何のためにこの先も生きていかないといけないのかと考える。いや、考えないようにしてるが、もはや私の人生を生きていた時の気力はなくなった。
顕著なのは、外見がそこまで気にならなくなったこと。そこで、カンフル剤のように私の人生に、喝を入れているのが、EXOだから、これはもう宗教なのかもしれない。
中高での毎日の礼拝は何も響かなかったが、今なら懸命に祈るかもしれない。どこに向かって、人生を進めているか分からない者にとって、キリストの教えは羅針盤のように道を照らしてくれる。古くから人々が宗教にすがってきた理由がよく分かる。
この先もずっと続くであろう鬱々とした私の人生の霧が晴れることはあるのだろうか。それとも、「諦めが肝心」と自分を納得させるしかないのだろうか。おそらく後者であるが、現状を打破する方法が皆目検討つかない。いや、わかってはいるが、怠惰な自分がそれを選んでこなかっただけだ。
いつから、私の人生は終わっていたのだろうか。絶頂期をすぎ、暗く長い坂をゆっくりと転げ落ちている。行き着く先は地獄だが、あまりにゆっくりとしたスピードなので、到着地が地獄なんて気付かなかった。まあ、人生なんてそんなものなのかもしれない。
結局死に向かって突き進むほかないのだから。
この日常に耐えきれなくなったら、その時、また人生について考えようと思う。
2020/1/19の私の日記は、私にしてはよく書けていて思わず感嘆してしまった。
いまの私は五月病なのか、暗い日々を過ごしている。2020/1/19に比べ世界は大きく変わった。大袈裟ではなく、あのコロナウイルスによって生活様式が一変した。「世界が変わった」と言っても差し支えないはずだ。
私自身の環境も大きく変わった。生活を良くするために仕事を変えた。元鞘に戻ったというのだろうか。住むところも変わった。
なのに、この憂鬱な結果はなんだろうか。
ずっと纏わりつく閉塞感、無気力感。当時感じていた強い絶望感はないけど、じわじわと私の気力を奪っていく。何をしても楽しくない。何も食べたくない。もはや人生の目標なんて考えない。目の前の時間を問題なく過ごすことで、いっぱいいっぱいだ。
八方塞がりに近く、ただ日々の時間が過ぎるのを待つ人生。これが、これからも続くのだ。ぞっとする。
コロナで死ぬと遺体となっても、家族と対面出来ないまま灰となる。それは、あまりに酷だ。私は魂の救済や輪廻は信じていないが、遺された家族があまりに不憫で可哀想だ。今までは無かった死に方は、遺された者に多かれ少なかれ影響を与える。なるべくなら、そういう最期は避けたい。
だが反面、不可抗力にも近い形で人生を終わらせることが出来るコロナは、今の私にはとっては福音でもある。恥ずかしい話だが。
あまり苦しまずこの生を終わらせたい。出来れば、交通事故のような突然死ではなく、徐々に時間をかけて自分が死ぬ事実を、家族が理解できるスピードで終わらせたい。
流行りの病で亡くなった事実は、あまりにやるせないが、死に対して一定の説明責任を果たす。本人の精神状態を問わず、運悪く流行りの病に罹患して命を落とした事実だけが残る。精神が鬱屈していたかどうかは関係ないのだ。無視される。好都合だ。
この世界を変えた感染症が収束した時、私の気分は少しでも晴れているといるだろうか。おそらくだが、そこまで明るくなく薄暗いじめじめした中をナメクジのように這いずり生きているだろう。最悪だ。
嬉々として「(名前を言いたくないまとめブログ)に紹介されました!」ってアピールするツイートを今年に入ってから少なくとも2回は見かけたんだけど、しかも、ちょっと信じて好意的に見てたアカウント。
失望しちゃったねえ。
某VTuber四天王も昔同じようなことをしたとき周囲に咎められ軽く炎上して削除したが、件のツイートは炎上も削除もしてない模様。取り巻きの質、ネットリテラシー、年代が違うのだろうか。
逆に言えばVTuber業界はある程度のネットリテラシーの高さがある人間が集まっていて自浄作用があるということなのか。
でも本人もリスナーもほぼ20代前半以下しかいないっぽい(というか自称15歳のリスナーも複数いる)VTuberをアラヒョーのワイが見ていると、無邪気にsi〇eji使ってたりするし、あっ(察し)としか言えなくなる。
若い世代に語り継ぐ機会が失われているのだろうか。インターネット老人会の有志で「ネットリテラシー教科書」みたいなのを作ってナウなヤングたちに読んでもらうことを推奨したりできないものだろうか。
「基本的にアングラである」という性悪説インターネットで育った老人にとっては、現代の性善説インターネット(?)で無邪気に過ごすナウなヤングたちは危なっかしくて仕方がない。