はてなキーワード: 東北とは
ライブというかクラブのノリに合わなくて侘びしかったけどこのアーティストのライブ行くの人生でやりたい事リストの1つだったからできてよかった
・毎回の事ながらアーティストが現実にいることにビビる リック・アンド・モーティや
・BGMがすこぶるいい ノリアキとミュージックラバーズカバーすこ プレイリスト作った
おまいらクラブで酒のんでピザ食ってだべるという時間の過ごし方が過ごせるなら最初からそう言ってくれや!!!
・コール&レスポンスの完成度が高いアイドルライブだった
本当に200曲位出してるのに全曲歌詞+コールも完璧即レスなの強火精鋭集ってた
・前から2列目でみれた
・思ったより早く着いたから
予想より異世界転生感は少なめ
・地下鉄の元気な赤子
・Googleマップで北一番丁通りに牛たん屋さん沢山あるしみんな4つ星以上だから最寄りのお店に入ろうとしたら3件連続営業時間外で4件目でやっとありつけた 牛タン、美味しいけど塩がほしい 店員さんに言ったら「ないです」って言われてそんなこと無いやろ!と思ったけど言えなかった…
・チェーン店でなく観光客も地元の人も集う歴史のありそうな個人店って感じで雰囲気はよかったあと店員さんの人口密度が高い
自分が入ったあと列ができ始めてゆっくり食べるのが申し訳なくて忙しなかった
一回の食事でお腹に入る量が少ないから食道楽の才能が無い 自分の金払って注文した料理残すの嫌
観光の才能…無さすぎ…?!
追記→そうか…仙台で牛タンを初めて出した誉れ高き名店か…偶然巡り会えてラッキーやったわそりゃ名店で塩くれって言われたら…怒る…ヨネ…ゴメン…ネ
いやでもあの言い方は…いやでも…
・牛たん屋さん捜索中に商店街脇道で生演奏ジャズバーと中野ブロードウェイみたいなホビーショップがあって「良ッ」ってなった
しかし薄々気付いていたがジャズって人好きでないと合わない趣味だな‥?
あとでっかい5メートルくらいない?枝の分かれ方がオサレ 街並みもなんか上品に洗練されてる感じある
・正直一昨日見た別のアーティストのライブが良すぎて今日のライブを楽しめるか不安
先日の方は今日の前座位の気持ちだったんだけど理想の倍以上いいライブを見させて貰ったから尚更今日のが「わざわざ遠くから遠征したのにこれ?」ってなったら自分が辛い
漫画で言うならコミティアの同人誌とサンデーマガジンくらい違うから比べるもんではないと思ってたし「チケ取れたから両方行くか」のノリできたけど立て続けて見ると比べてしまう〜
あとこのアーティスト、好きだけどハマったのコロナ直前で今に至るまでの期間で曲の雰囲気とか変わったからそこも不安
あと「アーティストのファン、何だかんだ言って異性が多い説」が浮上したので「ギャグラップで女性ファン多いのって昔のニコ動の歌い手みたいでキッツいな」と思ってしまい行く前から仮想ファン層で若干沈んでる アラサーの男女半々であってくれ…!
あとシンプルに疲れてる時にアップテンポの曲だと自分で金払って見に来たのに「うるっせぇな」と思ってしまいそうで不安
でもライブハウスは「死ぬまでに一回こういう店に行ってみたい」って感じのオサレ小規模?ライブハウスなので確実に楽しみ
あとアーティストもコロナ後開催2回目ライブなので今回行かなかったらさらに時間が経ち曲調が好みから外れてかつての「この人のライブには絶対行きたい」という気持ちが遠ざかってくのが予想されるので直近の今の内に行くしかねえ! latestなのじゃ
・商店街にいる鳩が地元の個体よりみんな丸くて可愛い もちもちしとる
・次の日朝雪で東北って感じがしてよかった
らしんばんはある!
・寿司うまままままま
マグロが噛まなくても腔内で溶ける
脂が腔内の温度で溶けていく…
仙台来て良かった〜!と素直に思えた本当にありがとう 回らないお寿司初めて
脳が優しくパキるという初めての体験
将太の寿司ありがとう 待ち時間に読んでなかったらお寿司食べるという発想はなかった
・オタクショップは全国どこでも実家のような安心感を与えてくれる カ、カップリングがごちゃ混ぜじゃねーか!
・ずんだ餅、あんまり口に合わないかもと心配してたが美味しいHAPPY
・仙台→東京の時にBLUE GIANTのImpressions聞けてHAPPY 東京→仙台の時に我慢したかいありけり
・
・
・仙台、ライブというよりクラブはノリに乗れなかったけど街路樹が並ぶ街頭に雪が降る様子とか異世界感あった+寿司・ずんだ餅とか食べ物美味しかったしお金かけて行ったかいがあった
あと首都圏直下型地震があって、津波や火災旋風が起きたら、1400万人(+900万人)に対応するの現実的に考えて不可能なので、
南関東以外へ疎開するしかないが、老人や足の悪い人に、果たして東北まで移動は可能なものだろうか?
ついでに、『どこからなら電車が動いているか?』その情報はどうやって手に入れたら良いもんかね
というか、いつになったら通信障害が無くなるか・いつでも充電できる状態になるかも完全に未知数だよな
そもそもインフラを担う人たちは果たして出勤可能な状態か?という視点抜けてるよな
お貴族さまにありがちな『貧民はいつでも我のために働いてくれる』みたいな
運送業や電気水道ガスの工事担当はもちろん、医療も深刻だろうな。311ですら東京の医者は休んだり疎開したので、国公立の勤務医以外は期待出来ないでしょうね
消防の人と自衛隊はいつでも期待出来るが・・・警察はどんなもんでしょうね、1400万人(+900万人)の犯罪に果たして対応できるか?
石川の能登は冷やかしどころかボランティアすら断るほどインフラが壊滅していて、現地入りした人が色々と叩かれてるけど、ぶっちゃけSNSにあげるかどうかは別として震災直後の現地を観光してみたいって気持ちはある
311のときの東北は津波で街が流されていて壊滅した瓦礫ばかりである意味圧巻だったようだが、残念なことにそれを見ることなく終わってしまった
なお、そこから1年後に現地入りしてもまだ瓦礫が残っていて被災地としての風情があった(意訳)と知人が言っていたけどね
例の奇跡の一本松とかは今は立派な観光名所になってるがあれはただのレプリカで、本物は震災直後の数週間でしか見れなかった(塩害で死んだので)
岩手の大槌町では建物上に乗り上げた船とか風光明媚なオブジェクトもあったがあえなく解体されたんだが、むしろああいうの残しておけば観光地として生きながらえて過疎地にならずすんだはず
まだ産まれてないが阪神・淡路大震災の崩壊した高速道路とかああいうのもさっさと解体撤去されたけど、ああいう非現実的なものを見れた人が羨ましい
石川の被災地は風情のある古民家が多いしプチ京都みたいな町並みだったが、それが倒壊しまくってる姿は、まさに東京大空襲や関東大震災のときの東京を彷彿とさせてくれるのではないか
これは見たい・・・是非とも見てみたい・・・そういう思いがムクムクと元旦からこみあげてくる
というので連休はまだまだ続くので、被災地入りしてみようかなと思っている
今は関西の某所に住んでいるが、石川の首都である金沢はほとんど無傷でインフラは生きているので、そこまで車や公共交通機関で行ったあとあとは自転車あたりで能登半島まで行ってみたい
例の倒壊した輪島塗の五島屋とか特に立ち入り制限されてないらしいから真っ先に見て写真とってこようと思う
でも炎上はしないだろうね
今日のSNSで春風亭昇太師匠が結構な言われようだったのを見て、自分が高校生の時に林家木久扇師匠が地元に来た時のことを思い出した。
高校2年か3年の時に、文化学習という名目で地元の文化会館で落語を鑑賞するという機会があった。
出演者は笑点で有名な林家木久扇師匠一門。私は東北の地方都市で、人口も10万人を下回るこの町に有名人が来るなんてと胸を踊らせたが、同級生の大半が興味なさそうにしていた。
いざ始まるとお弟子さんが先陣を切って落語を披露してくれた。内容は面白いのに、女子生徒は明らかにつまらなさそうにしている。別に主催者でもないのに、私は申し訳なさを抱きながら高座を見続けた。
そして、林家木久扇師匠の番が来た。流石にテレビに長年出続けているだけあってか場内は待ってましたという万雷の拍手。
どういった内容だったかは忘れてしまったが、落語に興味がない若者相手でも笑えるようなものだったはず。
始まって数分。1時間以上も落語を味わった高校生の反応が重い。最初は期待が勝っていたものの次第に疲れが出てきたのか笑いが薄い。
そんな中で木久扇師匠が噛んだ。明らかに噛んだ。言葉を借りれば素人にも分かるレベルで噛んだ。それ以降、何度も噛んだ。
おいおい大丈夫か?と思っているとまた噛んだ。と、勝手な心配をしていると、木久扇師匠は手のひらを大きく広げ、自分の頬に向かって強く振りかぶった。
パチンという音が広がると会場が一気にどっと沸いた。何やってんだよという笑いに近かったと思う。
私は笑いと一緒に驚きを抱いた。
明らかなミスをした状況下でも笑いに昇華させるベテランの力を目の当たりにしたから。
それまで漫才を始めとするお笑いというのは一言一句間違えないことが良いと思っていた。ただ、平手打ちをした木久扇師匠を見たら、完璧ではないけど笑わせる力、臨機応変さを見る・聴く魅力が落語というかお笑いに含まれているような気がした。
その後、木久扇師匠は何回か噛んだが1番の盛り上がりだった。流石だった。
文化会館を出て、あの状況下だと自分はどう対処するだろうと思ってしまった。
いやあの瞬間では苦笑いしかできないような気がする。言い訳をするような気がする。
とは言っても、
親が気まぐれに買うスクラッチくじに便乗して300円が当たったり
なにかの催し物で行われるガラポンで中の下あたりの賞を貰ったり
とにかく
そういった『ちょっと』の積み重ねではあるが
小雨の降り注ぐ日は登下校時に雲が切れ
冗談半分に
「神様に愛されてるなあ」なんて思っていた。
サンプルは少ないが
てるてる坊主を作って渡すと
「どうしてもこのコンサートに行きたい」と嘆いていたジャニオタの隣席の子に
「クジ運良いからさ!」なんて笑いながら、ノートに『当選祈願』と蛍光ペンで書いてあげた
まあそういう偶然もあるよな、と驚きつつも
喜んでもらえたのでこちらも嬉しく感じていた。
そんな『運』が薄れてきたと感じたのは高校2年あたり
大きな怪我をする事もないため、
落とした定期入れは見つからず
登下校で小雨がやまず
文化祭で雨が降る、といった程度の
そんな『ごくありふれた小さな不運』であった。
自転車通学だったし
当然ながら日頃濡れる事もないので
それはそれで楽しかった。
そして更に認識を改める事になるのは
薄れてきた『運』を補完するような
当然、頻繁に起こる事でもないし
事象同士の期間はずいぶん開く。
しかし『災害の回避』と表現する以外の言葉が見つからないのである。
細かくは覚えていないのだが
少なくともこの15年
1度も揺れに出会っていない。
数度あった豪雨の際も
周囲が水に浸かるなか
住んでいる町は無被害だった。
何もできないし
経験値もないし
受け止める強さもないし
共感する力もないし
ただTwitterでTLを眺め
ニュースばっかでつまんねぇな、と零し
現実を
ほんとうに、「無」なのだ。
何も起こらない、ただひたすらに平穏な
こんな人間もいるんだと
思ってもらうだけでいい。
余談ではあるが
きっと運が良いから
すぐ還っていってしまうんだな、なんて
柄にもなく思ったりしている。
今はとりあえず
何もなかったかのように
あえて無視して
普段通りに
何事にも気を揉まず
・冷蔵庫
冷えるからいいかと思ってたけど、世の中の値上がり傾向を考えて思い切って買うことにした。
同じサイズなのに容量がかなり広くなって、食材の鮮度も全然落ちなくてビビった。
息子が中学生になってよく食べるようになってきたので本当にいいタイミングだった。
・HOKAのスニーカー
プロゲーマーが東北を何日間もかけて歩くという配信を見てて、思わず買ってしまった。
今まで買ったことがないくらい高価な靴だったけど、一歩目からびっくりするくらい感触が良かった。
もともとヘルニア持ちで変な靴を履くとすぐに腰が痛くなるから靴選びは重要なのだけど、すでに半年以上履いてるけど大げさじゃなくて今までで最高にいい靴だった。
・腹筋ローラー
伊之助ボディになりたくて購入。
最初は膝コロもできなかったけど、今は160度くらいまで開くようになった。
腰痛対策で毎日腹筋背筋はしてたけど、負荷が比べ物にならないくらい強くて、最初のうちは死ぬほど筋肉痛になった。
同時にトレーニング用のゴムバンドを買って、背筋と上腕のトレーニングも始めた。
一年で3キロ増えたけど、自分でもわかるくらいマッチョになった。
伊之助ボディはまだまだ遠い。
ペンの先端が細い金属になってるapple pencil用ペン先。
ペン先が視認しやすいという点が売りなのだけど、それ以上に適度な摩擦が生じることで文字がめちゃくちゃ書きやすくなった。
今までペン先が滑って満足に文字がかけないから、せっかくのapple pencilも宝の持ち腐れだったけど、これのお陰で手書きメモが実用レベルになった。
galaxy note系を使ってたこともあるけど、書き心地は過去ナンバーワン。(個人の感想です)
一応ガラスフィルムを使っているので、最悪削れたら交換すればいいやの覚悟。
・焼き鳥焼き器
・買い物じゃないけど
結果はとても綺麗だった。
やるまでは癌の確信があったけど、結局何でもなかった。
色々な不調が同時に重なったところに大腸がんで亡くなる人のニュースが入ってきていつの間にか自分もそうに違いないと思いこんでいた。
年明けすぐに発生した能登半島の地震で、東日本大震災のことを色々と思い出した。
当時小学2年生で、地震発生時は帰りのHR中。関東でもかなり揺れて、確か震度5強か5弱か。揺れてる最中のことはほとんど覚えていなくて、隣の席の机から水筒が落ちてきたこと、その席の子は背が高く頭が入り切ってなくて落ちた水筒が頭にぶつかっていたことだけ覚えている。
そのまま保護者引渡しになって、グラウンドで姉と一緒に親を待っていた。外出中だった母はすぐ迎えに来てくれて、かなり早く家に帰れた気がする。そのまま急いでコンビニに寄って水とカップ麺を買って、ガソリンスタンドで給油して、家に帰った。
この時私はだいぶ興奮していた。
楽しいとか面白いとか、そういうのではなくて、台風で学校が休校になるとかと同じ感じ。地震そのものはめちゃくちゃ怖かったので、どちらかと言えば目が血走ってるような興奮だった。
震度5の揺れなんて初めてで、5分近く揺れ続けたのも初めてで、学校であんな切羽詰まった教頭の放送を聞いたのも初めてだった。昔の地震の記録映像とかでしか見たことないような、知識としてしか知らないような規模の地震だったから、そういう時は学校で一晩明かすとか、しばらく店が閉まって学校も仕事も休みで社会機能が成り立たなくなるとか、そういうレベルのことが起きると思ってた。
実際は普通だった。
平時に比べたら普通じゃない。コンビニで酒が落ちて割れて中身が出たままとか、30分に1回は震度3が来るとか、全然普通ではない。でも、学校も休みにならなかった。テレビも番組は違うけど放送してた。コンビニは瓶が割れてても営業してた。電車も走ってたし電気もついてたし水も出た。
すごくびっくりした。
私の中では震度5強とかはめちゃくちゃ大きい揺れで、生きていくのがしんどくなるようなものだと思ってた。でも、家の皿が何枚か割れても、タワマンのエレベーターが止まったままでも、私から見える生活はほとんど変わらなかった。
今になって考えれば、それだけ災害に対しての備えがあったんだろうな、と思う。
10年以上前だから、今と比べればその備えも足りなかったんだろう。東北では関東と比べ物にならないような揺れだっただろうし、津波では恐ろしいほど被害が出た。東北に住んでいた従兄弟は中々学校が再開しなかったという話も聞いた。
それでも、これだけ大きいと感じた揺れでも、何も私の周りは変わらなかった。親も普通に仕事に行った。私も姉も変わらず学校に行った。あれだけ興奮していたのに、非日常は存在しなかった。存在させないような日々の努力が存在しただけ。
10年以上経って、能登の地震を見て、やっとそれに気がついた。当時より発達したSNSやテレビ放送で、東日本大震災の経験が垣間見えた。日本海に近い実家にいた友人は、津波から逃れるために避難したけど、家は被害に遭わなかったと聞いた。ここは大丈夫といって逃げない家族を引き摺ってでも避難してきた、というツイートを何件も見た。
潰れた家の写真もたくさん見た。
あの時の非日常だった部分が、今こうして活きている。そう見えた。日常のままあの日を通り過ぎた私たちは、血で滲んだ教えを、そうやって生かしていく。
多分、東日本大震災をまともに覚えているのは、私やその1個下の年齢くらいがギリギリなんだろう。今の中学生はそもそも生まれてなかったと聞いて、気が狂いそうになった。全然発狂した。あの震災はもっと最近だって。
そこにあったのは小学2年生の日常でも、私はその日常を続けられたことも、私の見えない場所に非日常だってたくさんあったことも、忘れちゃいけない。
能登半島地震で被害に遭われた方々に、お見舞い申し上げます。募金など間接的な支援しかできませんが、復興をお祈りしています。
自習としてまとめる
死者多数のものだけ
2024/1/1 能登半島地震 Mj7.6
2015/5/30 小笠原諸島西方沖で地震 Mj8.1 史上最深
2011/3/11 東日本大震災 Mj8.4 大津波 日本史上最大
2007/7/16 新潟県中越沖地震 Mj6.8
1995/1/17 阪神淡路大震災 Mj7.3 耐震強度問題
1993/7/12 北海道南西沖地震 Mj7.8 大津波30m 死者・行方不明者230人
1983/5/26 日本海中部地震 Mj7.7 大津波 死者104人
1964/6/16 新潟地震 Mj7.5
1948/6/28 福井地震 Mj7.1 死者・行方不明者数3769人 震度7が制定 複合災害
1946/12/21 南海地震 Mj8.0 死者・行方不明者1443人
1945/1/13 三河地震 Mj6.8 死者・行方不明者2306人
1944/12/7 東南海地震 Mj7.9 大津波 死者・行方不明者1223人
1933/3/3 昭和三陸地震 Mj8.1 大津波 死者・行方不明者3064人
1927/3/7 北丹後地震 Mj7.3 死者2925人
1923/9/1 関東大震災 Mj7.9 死者・行方不明者105385人 日本史上最悪
所感
死者数が増えるのは
・津波
・火災(近年は少ない)
・土砂崩れ
・避難後
戦後、大きな被災があったのはご時世もあったのだろうと考えると、東日本大震災と阪神淡路大震災が異常
・瀬戸内
日本には逃げ場がないとはよく言うが
現代においてそれでも大惨事になる場所というのは限られているとは思う
関東北部〜東北の内陸部、近畿・中国・四国の内陸部、九州北東部など
直下型地震が頻発している地域でなく、かつ沿岸部でなければ被災確率は低そう
沿岸部はチリ地震みたいな例があるのでどうしようもない、逃げ場はない
南海トラフは有名だけど個人的にはやっぱり伊勢と愛知が大人しいのが気になる
でも地震ってむしろ連鎖するから、無いなら無いで数百年行きそうでもあるよね
昭和三陸地震(1933)、明治三陸地震(1896)があったし、三陸沖は地震頻発地域なのに
何で東日本大震災であれだけ被害が出てしまったんだろうというのは結構解せない
80年も経つと忘れるというのがよくわかる
多分東北の震災以降だと思うけど大きな地震や災害が起きてアナウンサーが必死に避難を呼びかけるのを見聞きすると胸がキュッと締め付けられるような感覚があって涙が出そうになる。
あの地震で自分自身が大きな被害を受けたとか、知り合いが大変な目にあったということはない。
確かにあの頃は首都圏で仕事をしていて震災当日はすごく不安だった。周りのビルはグニャングニャンに揺れ、自分がいたビルもなかなか揺れが収まることはなかった。電車もほぼ全て停まったし、かなりの距離を歩いて帰った人もいた。私はたまたま動いてる電車に乗ることができたので難を逃れることができ、被害は周りの人と比べても少なかったと思う。
そう。自身には大したダメージは無かったのだ。それなのに何故だろう、涙が出てきそうになる。自分の気持ちがよくわからない。
しかも、地震で揺れたからといって涙が出るわけではなく、あの避難を呼びかけるアナウンサーの声を聞くと涙が出そうになる。
もしかしたらただ歳をとっただけなのかもしれない。もしくはアナウンサーの技量により心が揺さぶられているのかもしれない。
でも、何か自分の中で消化不良のようなシコリが残っていて、地震の避難の呼びかけのようなものを見るととても揺さぶられているように感じるのだ。
こんな事で実際に被災した時に上手く対処できるのだろうか。とても不安に思う。
この気持ちを上手く言語化できなくてモヤモヤしている。誰か共感する方や腑に落ちるような言語化できる方いらっしゃいませんか?
災害なので当たり前ではあるけどテレビが地震と津波の話一色になってしまったのを見てて段々具合が悪くなってきた
北陸近辺に住んでるわけではないが、こちらも16〜17時は緊急地震速報が鳴る度にグラグラと軽い横揺れを繰り返したからそのせいかもしれない
あの時は東北に親類がいたから余計に、というところはあるけど、被災地で起きたことや向こうの人たちのこれからを思うと胸の辺りに何かこみ上げるような気持ち悪さを覚えてしんどい
このメールを配信した中には、被災されている方が多数いると思います。
直接的な力にはなれないですが、
帰宅して、実際の東北の方に比べる程のものではないですが被災の怖さを感じました。
さて、先日は咄嗟のメールだったので、返信しなくても大丈夫ですからね。
会社は大丈夫です。揺れは大きかったですが、今のところ大きな事故・怪我の連絡は入っていないです。
本当は週明けに全員に送ろうと思っていたメールです。
こんなことくらいしか出来ませんが、履歴書とESをお送りします。
ただ、非常に厳しい条件をつけさせていただきます。
その条件とは1点だけです。
書類選考を希望される方は、添付の専用履歴書とエントリーシートをご確認いただき、
3月15日(火)消印有効でその2枚をセットにし、下記までご郵送ください。
直前に説明会へ予約が出来た場合は、ひとまず書類持参でお越しください。
自分で考えてみてください。
皆様にも言いたいこと、不満があるのは重々承知していました。
全部ではありませんが、私も様々な心の奥にある声を見て・聞いています。