はてなキーワード: 日本国とは
自身に関係ないし崩壊しても関係ない。
だから、年金か生活保護かという二項対立的な議論は、有意義ではない。
この議論は、たとえるなら、大日本帝国が滅亡する時に、軍人が、停戦命令が先か玉音放送が先かを議論しているようなもの。いずれにせよ大日本帝国は滅亡し、自己存在の基盤となっている下部構造は無くなる。
と今の若者が戦中派世代に問うように
と問われるかもしれない。
そもそもの問題解決にも使えるのだが。人類が数千年に渡り人と人とが協力をする事によってあらゆる問題を解決してきた事から今回はその論理の応用編。論理を用いたコミュニケーションについて解き明かしていきたいと思う。
人が人に意思を伝える時にはどんな種類があるだろうか?
※分類できるというわけではなく要素として
一、命令(相手に何かを要請)
一、伝達(単に事実や事柄を)
とまあ色々あるけれど、個々に主観的なものと客観的なものがある。
ではこれらの情報交換を人と人が行う時にお互いの共通認識が多いか少ないかだけでその人とその人が仲良くなったり仲良くならなかったりというのではなんとも勿体無い。
だって誰でもそうだろう。例え偶然でも似たような過去の経験があったり似たような将来像や様々な物事に対して個々に思う感覚が似ているかどうかだけで大概の人は親近感を抱いたり、はたまた嫌悪感を抱いてしまう。
自分はそれは非常に非常に勿体の無い事だと言いたいのだ。
だって、たまたま誰かにとても嫌っている同僚だとか上司がいたとする。お互いに相容れないのがもしこの世に生を受けてからの全ての経験の似通りにたまたま距離があった事で様々な物事に対する認識が離れてずれてしまったのだとするのならば、もし、もしも今後共通の体験をしたり、または知識として何かしらの経験を得たのならば、“今”は協力できないと思っている相手とでもいずれ協力でき、お互いに“楽しい”と思える時間を人生に内に占める部分が増えるのではないだろうか?
例え話しに基づいて解いていく
さてここはある雑談の場だ、そして誰かが話しだす。
※実際はどちらの発言にも主観と客観が交じりあっているが便宜上無視
まず主観的例文
次に客観的例文
「なんか怖い親に育てられた人って背が低いよね」
強引な例だが、こういった雑談の場では今までに聞いた事の無い意見に対して聞いた側がどう思うのかがこれからの検証を進めていく上でとても重要になってくる。なぜなら既に自分の中で“自分はこれに対してこう思う”という一つの自我が既に形成されていると、案外素通りで他者の自分とは異なる意見を受け入れてしまうからだ。
例えば、雨降りの天気に対して
「嫌な天気だね」
と誰かが言ったとする。かなり住んでいる地域の影響も受けるかもしれないが年間数日しか雨が降らない地域の人は絶対にそんな事は思わないだろうし。例え日本国内でも雨に対して一切の「嫌な感じ」を抱かない人もいる。それにその時の状況として洗濯物を天日干しにしよう!などと予定していたのであれば嫌だと思うかもしれない。この場合客観的例文だったので状況に左右されやすいのだが、例えば
「えーっ、不味そう」
と誰かが言えば、味に対しての感覚の相違なんていうものは人それぞれだという前提が多くは幼い頃から経験しているので、さほど相手はそう思うのか程度にしか自分とは相容れない主張に対して不快感を抱かない。
では、何かの物事に対して新規の見かた、新たな捉え方を意見として雑談の場で表明された場合はどうだろう?
「なんか怖い親に育てられた人って背が低いよね」
どうだろう?実際に身体の成長と日常的ストレスまたそれによる日常的な筋肉の緊張には関係があるので、そうだ!と思う人もいれば、関係無いよって思う人もいるだろう。だがここで言いたいのはそんな事ではない。
命題の因果関係が成立するかしないのか?という部分に目を取られてしまうから“こいつとはなんか合うな”とか“こいつとは合わないな”なんていう思い込みで他者との相性を判断してしまうのである。
「なんか怖い親に育てられた人って背が低いよね」
という主張に対し論理の技法にのっとって哲学し分解考察して行こうと思う。では
A “親が怖い”のならば“子の背が低い”
B “子の背が低く”ないなら“親は怖く”ない
C “親が怖く”ないからといって“子の背が低く”ないとは限らない
解りやすくすると
A´ 親が怖いと子の背が低い
B´ 子の背が高いなら親は優しい
C´ 親が優しいからといって子の背が高いとは限らない
そして、それぞれに反論すると
A” 怖い親に育てられても背の高い子はいるはずだ
B” 背の低い子の親でも優しい親はいるはずだ
何かを“そうだ”と言いたい時に、その物事が“在る”事を証明するのは簡単だ。その主張のたった一例であってもそれを相手に提示すればいいだけの事だから。
しかし、何かを物事や事実を“ない”と証明する事は非常に困難を極める。今回の場合で言うと
「なんか怖い親に育てられた人って背が低いよね」
に対して“そんな事は無い”と思った時に、因果関係は別として世界中の全ての怖い親の子が背が高い事を明らかにできればそもそもの因果関係を抜きにしても“そんな事は無い”という事を文字通り証明できるのだが、世界中を調べる事は物理的にも時間的にも不可能に近いしそもそも過去現在未来においてその事実が存在し得ない事を証明するのはそもそも文字通り不可能だ。
ではあなたがだれかと物事に対する感覚や捉え方で不一致を感じた時に、どう考えたら、無駄かもしれない不和発生の原因を取り除けるだろうか?
誰かが何かに対してある考えを持つ時に、自分も相手と同じ境遇、同じ体験、同じ経験をしていたならば同じ事を“今”思うかもしれない。
だって相手は“そう思う”という事実も自分も沢山見聞きしていたら“そう思う”だろう事は、ここまで読んだあなたなら想像つくだろう。
それにそのあらゆる相手の主張する事実は勿論、あなたにとって想像可能な事かもしれないしもしかしたら想像不可能な事かもしれない。けれど、ただ“違う”や“こいつとは違う”と思うのではなく先ほどの“悪魔の証明”により“(自分が)そうとも思える可能性”があるよな!と論理の帰結として言えるのだという事だ。
人生とは様々な物事や関わる相手に対して
なんとなく常に“判断”をしてしまう。
“いいな”とか“やだな”とかなんとなく思ったり・・・
確かに本能として“好感”を持つ対象には関わろうとして“不快感”を抱く相手とは関わろうとしないという現実はある。だがしかし、これは自分自信の経験でもあるけれど、なんかむさ苦しそうだなと思っていた奴が凄い楽しくて面白い奴だったり。なんかいつも不機嫌そうで関わりたくないなと思っていた人が実は共通の趣味がとても多い人だったりという事が多々あったりする。またその発見は良いものだとも自分は思う。
あなたは、ここまでこの日記を読み「論理の技法」を手に入れた。
ある命題に対しては「肯定」「否定」「対偶」があるという事。対偶とは超訳すると、ある意見に対して肯定できないからと言って否定した事にはならないというとても重要な考え方だ。
くどいけれどもう一度おさらいで例文をだす。
アルファベットでないならAではない
さらに拡大解釈をしてみよう!
さらにこの考え方と飛躍拡大していくと
どうせなら自分にとって都合の良いように考えた方が得のはずだ
だって水が低い方に流れるのと同じで人も楽な方に流れている
当たり前の考え方になるだろう
「相手の立場に立って考えなさい」
などと言われているのではないかと思うが
逆の考え そして更に、逆の裏(上記★の部分)を“一念”に置く事で世の中のだいたいの悩み、問題は晴れるだろう。まさしく世界の見え方が変わってくるのだ。そしてこの考え方を上手に活用すればより多くの人と協力が可能になるだろう。
なぜなら
人類は“協力”によって様々な問題を解決し、そして発展してきた。
そしてこれからも
@awaikumo
facebookが全地球上の利用者の行動データを黙々と集め続けているというブログ記事が多くの注目を集めて、ガクブルする人のうめき声や罵詈雑言が飛び交ったことは、これを見ている人はまだ記憶に新しいと思う。
さて、日本語圏の、だいたい日本国と重なるネット社会はどうだと思う?
2ちゃんねるで有名人の殺害予告を書き込んだ奴の家に警察がやってくるというニュースはそんなに珍しくなくなっている。ヤバげな書き込みがあれば、奴らはあっというまにきみの発信者情報を特定してドアをノックするというわけだ。
そういう意味で、すでにぼくたちは「公権力に」よってネット上での行動を監視されているわけだ。
これもよくいわれるんだけど、こういう状況は、ミシェル・フーコーというフランス人が「パノプティコン」と呼んだ状況に似ているかもしれない。
パノプティコンというのは、ベンサムというイギリス人が考えだした刑務所のモデルのこと。監獄がドーナッツ型になっていて、中央の穴の部分に看守の建物がある。囚人たちは、四六時中看守に見られているような気がする。たとえ看守の建物にだれもいなくてもそうなんだ。いつのまにか、囚人は看守の視線を自分の中に取り込んでしまうから、下手なことをしようという気を起こさなくなるというわけ。ようするに、その監獄にいる囚人はどんどん自主規制するような、監視者に都合のいいシステムがパノプティコンだ。
2ちゃんとか自分のブログに何か書こうとしているとき、自分の心の動きを思い出してみて、どうだい?
アイドルを殺すとか、新宿駅を爆破するとか、そういうことを書き込んだら、たとえ冗談でも警官が家に来るらしいってことは漠然と「知って」いるだろ? だからめったなことではやらないだろ? そもそもやろうと思わないだろ?
なぜなら、きみは自分が監視されていることを「知って」いるから。
でもさ、きみはほんとに、どっかの地下司令室みたいな所で、日本中の掲示板やブログの内容を膨大な数の監視員がチェックしているところを見たのかい? SF漫画の中で見ただけじゃないのかい?
たとえそんなところが本当にあったとしても、そこで働いている奴はいま夜食のビッグマックを頬張るのに夢中になっていて、きみの書き込みなんか見ちゃいないかもしれないんだよ?
でもきみは心のどこかで自主規制するよな。だって、ヤバいことを書き込んだら、奴らが来るって「知って」いるから。
ところで、そういうネット上のパノプティコンみたいなものは、べつに「公権力」じゃなくてもこの国では勝手にどんどん作れることは知ってたかな。
ほかでもない、ネット上の風評被害対策とか、「ソーシャルメディアマーケティング」をやっている民間企業だ。こいつらはネット上の自警団というよりは、傭兵だ。金で雇われれば誰でも手にかけるから。
たとえば、きみが2ちゃんか自分のブログである企業の批判をしたとする。傭兵たちは独自のクローラーを毎日ネット上に走らせているので、君の言葉はすぐに見つける。そしたらすぐに2ちゃんの運営ボランティアかブログのプロバイダに削除依頼をかけるか、訴訟をちらつかせながら発信者情報の開示を始める。
誰だって、どこの馬の骨とも知らないやつに自分の居場所を突き止められたくない。弁護士の対応なんてしたくない。
まあ、きみがただ単に相手を傷つけようとして、根拠のない誹謗中傷を垂れ流そうとしてそういう目に合うのなら、自業自得というものだろうね。
でもさ、他人のでたらめを見かけてそれを指摘しようとしたときに、ナイフをちらつかせられたらどう思う?
とくに、企業に雇われた傭兵たちが嘘八百をいい散らしているのを指摘しようとしたときに、訴訟を恐れて自主規制しようとしたら?
そもそも、指摘する声を出せないように傭兵たちが街中の広場をすでに封鎖してしまっていたとしたら?
なんのことはない。きみは気がついたら彼らが勝手に作った「民間刑務所」のなかで監視を恐れながら粛々と労役に励んで、傭兵たちが大声でおすすめする臭い飯を、きみ自身の苦役で稼いだ労賃で買いつづけるわけだ。日本語圏のネット社会は、気がついたらそういうプライベートな監獄で何重にも囲まれていたという話。
たまたまそういった「民間刑務所」の看守見習いがヘマをしでかして、刑務所のオペレーションに関する書類を落としてしまったとする。それを拾った奴が広場で騒ぎ出し、市場のゴミ拾いが日課で壁新聞の好きな奴がその書類を市場の外に、街のいたるところに見えるようにして貼り出してしまった。でもそのゴミ拾い人は傭兵たちの訴訟攻撃にぶるってしまって早速自主規制したまま黙っている。その間に市場での騒ぎは手際よく鎮圧されてしまった。傭兵たちは普段からそれで飯を食っているので、自分たちのこととなると作業は早い。
市場の住人たちも、その外で壁新聞を読んでいた人たちも、なにかおかしなことが起こっていることをばくぜんと感じ取っている。たとえ騒ぎが収まった後でも、そのおかしな感じは消えるだろうか。自分たちが「民間刑務所」の中で暮らしていたことに気づいた後で。
何で天皇は自分の心がつまらないことも理解できないのか。明治憲法にしろ現行憲法にしろこういう子供に何の夢も希望も与えない保守的なものを作るべきでない。私が公民で初めて憲法を見たときは「何が平等だよつまんねえこと言うな」「何だこの古色蒼然とした漢字の羅列は」と思ったものだ。「君が代」も歌詞が意味不明でつまらない。とにかく全体的に退屈で、なぜこんなものが日本国家の礎になるのか、その発想自体が理解不能だ。また天皇の実施する学校制度も極めてつまらない上、ここ30年は失敗している。これでは救いようがない。他方、民間の作るものは実に面白い。天皇が大学入試競争の存在を認めない反面、予備校や出版界は入試競争や偏差値差別の存在を認め、学生の心を明るくする情報操作に満ちている。こういう面では、天皇より、民間やヤクザの方が優れている。しかし、天皇制にはかなりの程度支配力があって、楽しんでいる者の邪魔さえする程度に達している。今の日本の真っ暗さをみれば明らかだろう。つまり天皇制とは鬱の象徴であって、せっかく躁状態になっている社会を脅かす存在なのである。日本は常に躁状態で世界制覇を目指せばよい。ところがなぜか日本の歴史には常に天皇制という厄介なものがあって、つまらない真面目腐ったことを言って楽しんでいる人の邪魔をしてくる。しかもその程度が尋常でないのは裁判所の長ったらしい判決文や警察の取調べをみても分かる。精神を殺しにかかってくるレベルなのである。なぜこうなるのか。それはもともと日本社会に鬱的傾向があって、それが支配的だからだろう。民間やヤクザのように、差別のある明るい躁状態の社会は例外的で、日本人なんて何をやってもだめだし、どうせ地道に生きるしかないという本質的な諦念がこの国に鬱という原則をもたらしている。それがここ数十年のグローバリズムで、何が何でも躁にならなければいけないという風潮が、天皇制を抑圧し、民間やヤクザの価値観の伸張を可能にしてきたが、二度の経済失敗によって再び日本全体が鬱状態になり、天皇制にすがろうという空気と、ここまでやったからには諦め切れぬという民間やヤクザの勢力が拮抗状態になっているのが現状である。しかし、鬱の天皇制と躁の民間ヤクザが戦争をするうちに、日本人の精神はズタボロになって、様々な紛争や事件が起こる中で絆を喪失し、気がついたら精神が空洞化した地獄が現出していたわけである。このように鬱と躁が戦争をするとろくなことにはならない。しかも鬱勢力の執拗さはすさまじいものがある。日本はそろそろ鬱の天皇制をかなぐり捨てて、差別のある明るい躁社会のデザイン設計をしなければならないのではないか。それにはまず受験競争を認めたうえで、東大を中心とする帝国社会へと再編成して、学力により人間を序列化することだ。それによって日本は極めて面白い社会になるはずだ。
「所得が低い人ほど消費性向が高いから、消費税は逆進性がある」という話があるけど、
消費の中身を見ると、低所得者ほど非耐久消費財への支出が多くて、
非耐久消費財なんて今はほとんど中国とかからの輸入品が多いから、
耐久消費財(家電、自動車、住宅等)の方が国内産品の割合は高いし、
サービス業とかもほとんど国内だから、ここへの消費を下支えしたほうがいい。
日本国内の低所得者って、実際には年金生活者や生活保護受給者が大部分だから、
逆進性がある消費税の導入は、実質的には社会保障の減額と同じ意味がある。
この辺の階層への課税を抑えても、家電や車を買ったり、家を買ったりするようになるとは思えない。
逆に消費税が数%上がっても、飯は食うだろうし服も着るだろうから、ここらへんの層の消費が減ることはない。
むしろアッパーミドル辺りへの課税を抑えて、新車に乗り換えてもらった方が景気にはいい。
消費税増税と所得税減税を同時にやれば、年金生活者から給与所得者への所得移動と同じ効果がある。
暴論だが、復興費用16兆円、復興増税云々が取りざたされているが、
被災者数が100万人程度なら、1人当り1,000万円を交付して、他県に移住してもらった方が
(100万人×1,000万円=10兆円<16兆円)
4人家族なら4,000万円交付なので、相当な生活支援になる。
その上で、三陸沿岸を「放棄」する。最低限のガレキ処理は行うが、それ以上は行わない。
高空家率は、インフラの無駄遣いであるし、防犯上の問題もある。
三陸被災者が各所に移住することで、空き家率も減る。(1%減る計算)
鉄道の稼働率が上がるということは、廃線の心配が減ることだし、
学校の稼働率が上がるということは、教育コストが下がるということ。
②三陸で市街再建する、ということは、遠い将来の津波リスクを内包することになる。
移住してもらえば、そのリスクが減る。
三陸を再建したい、というのは、超暴論で言えば、「被災者の感情論」でしかないのであって、
3.11以降、僕は東北の野菜を食べることが出来なくなってしまった。スーパーで安い、と思って手にとっても「宮城県産」やらの表記があると慌てて陳列棚に戻してしまう。結構そういう人も多いんじゃないかと思う。なぜだろう?
多くの人は何より素朴に「気持ち悪い」と感じるからだと思う。ただ漠然と怖い、と感じているんだと思う。「そういうバカが風評被害を起こすのだ」という人もいるかもしれないけど、小さな子供を抱える主婦に同じ事を言えるだろうか。言えるならばどういう根拠で言えるだろうか。いろいろ考えてみたけど、今ひとつ良い回答を僕は思いつかなかった。(この問題は合理的に納得出来るか、ということではなく、誰もが安心出来るかがポイントになっていることを断っておく。ちなみに僕は消費者は三秒で安全性を示されなければ安心できないと考えている。)
「気持ち悪い」の正体って何だろう。この問題を考えない限り、消費者は安心感を得ることも出来ないし、生産者から見た風評被害を抑えることもできないと思う。
それは大事故の後にも関わらず流通のシステムが変わらない(変わったか分からない)ことに対する漠然とした不安感なんだと思う。
これほどまでに言論空間を通して(最近はテレビでも)「東北の野菜は危ない」という議論が展開されているのに、マスメディアや小売業者も「風評被害を起こさないように」と報道し、「がんばろう東北フェア」みたいなキャンペーンをやるばかりで、以前と全く変わらず「宮城県産」のラベルを貼っている。その行為の不透明さに消費者は怯えているんじゃないだろうか。汚染食材が出回った、という情報が日常的に飛び交う中、どうして消費者は安心して消費できるっていうんだろう。
いま消費者は安心して消費するための明確な方針を失ってしまっているように思える。
今までは「日本国産」の野菜ならまぁ大丈夫だろう、という信頼に基づいて野菜を消費することができた。もちろんこれは、言論空間での知見をマスメディアが拡大した、「国産対非国産」、「農薬対無農薬」みたいなわかりやすい安全確認コードのもとに成り立っていた。
しかし、現在ではマスメディアが「汚染食材流出」「風評被害に負けるな東北」といった矛盾するようなメッセージを流している。これでは消費者は安心して消費することが出来ず、結果として風評被害を招いてしまうのも仕方が無いだろう。
この状況を打開するためには、問題である「流通のシステムが変わらない(変わったか分からない)ことに対する漠然とした不安感」を解消する必要があるのではないか。
もちろんマスコミはジャーナリズムとしての責務がある。安心させるために「汚染食材流出」を隠すなどといった行為はできないし、するべきでもない。
ならば出来ることは「流通の透明化」だけだと僕は思う。「こんな検査をしています」「放射能OK!」みたいなのを一発で示すステッカーを国や小売店が発行して製品に貼りつければいいじゃないか。「生産者の顔が見える○○」なんてできるくらいなんだから、そのくらい朝飯前のはずでしょう?どうしてやってくれないんだろう。そんなことをしたら何も売れなくなるくらい悪いの、なんて想像もしたくなってしまう。僕は東北出身で親戚も友人もたくさん東北にいる。もし状況がそれほど悪いなら教えて欲しいし、そうじゃないんなら宮城県産の野菜を買いたいのに…
小売店でも国でもいいので何とかしてください。
日本国外に財が出て行っても
「戻ってくれば」(要するに、日本国のサービスを諸外国も購入してくれるなら)
そうやって世界全体が潤うのは賛成だけどね。
でもさー
ぶっちゃけ、グリーやモバゲーが国内で提供してるサービス内容が、世界で通用すると思う?
社長が「ヒットしたゲームシステムは類似品をバンバン出せばいい」とかほざいてるくせに、未だに「Angry Birds」もパクれないような会社だよ?
日本国外に財が出て行っても
「戻ってくれば」(要するに、日本国のサービスを諸外国も購入してくれるなら)
そうやって世界全体が潤うのは賛成だけどね。
経済はグローバルな存在になってしまったんだと考えるほうがいいかも。
(ゲームの存在が、世界を豊かにしているかといった面は別として)
日本人の多くが、海外の人たちに魅力ある物やサービスを提供できるかにかかってるわけだ。
人口は減少気味なんだし、地域密着型の商売だけで経済は回らないと思う。移民を受け入れたくないとしたら、なおのこと。
そして今は円高でもあり、海外へ円が出ていくのもある意味よかろうて。
>社長やら関係者やらの言動を見る限り、せいぜい残り2年か3年で市場そのものを使い潰す気満々なんだよね。
むしろ、こっちが気になるん?俺はそう。
最近の「企業家」って、おしなべて小魚っぽいというかセコイと思う。
世間の需要を満たしたり、自分が実現したい夢を叶えるためではなくて
「金」が先だもんね。
精神構造の根はバブルオヤジとそっくり。まだIPOとか狙ってるのかな?
中身じゃなくて、箱や封筒・溶剤ばっかり集めてどうすんの?と思う。
まったくもって経済まわしてくれてて有難いけどな。
ただあそこの場合はちょっと事情が違ってて、回す先が国内とは限らないんだよね。
馬鹿から巻き上げた小銭の行き先が何故か中国だったりアメリカだったりと、日本国内へ回ってるのは広告費と鯖の維持費くらいか。
むしろ最近は海外に出て行く額の方が多くなりつつあったり。で、国外へ投資した分を回収出来る見込みがあるかっつーと、これが全然無かったり。
なんつーか、信者から巻き上げた大金で自己満足のためだけに海外の賞とか名誉なんたらとかを買いあさってる創価学会の池田大作みたいな状態になってる。
儲けた金で従来のゲーム産業なり何なりに相応の投資をしてくれているのならネット上での評価は多少違っていたのかも知れんのだが、社長やら関係者やらの言動を見る限り、せいぜい残り2年か3年で市場そのものを使い潰す気満々なんだよね。
任天堂がファミリーコンピュータを発売して約28年、ソニーがプレステを発売して約17年経ってるわけだけど、グリーやモバゲーが5年後に生き残ってる未来が全く想像出来ん。
日本航空が破綻したときは、確か、退職金か何か知らないが、会社に積み立てたお金を(一部?)没収することになったような気がする。会社が倒産する瀬戸際だからなのか、公的資金を会社に注入するからだからなのか、だったと思う。
さて、日本国の財政は危機的だ。積みあがった借金が半端ないらしいね。さらに、一部世代への出費がかさんでいるらしいね。政治家は次の世代に負担を残すなと必死だ。
その結果が所得税のようだね。
ところで、バブル前の繁栄を築いた功労、という考え方があるようだ。たしかに戦争に従軍し、戦後産業を復興させた世代の功労はあるのだろう。その後何かあったんだろうね。今の財政は危機的だよ。この失敗の原因は何だろう。
先の日航にむりやり例えれば、従業員の給料を削減するのが所得税。積立金を没収するのが年金制度の変革、又は年金の減額。日航の売上を増加させるのが消費税。
ここでも老害は逃げ切ろうとしているわけだ。
白人が生み出した科学技術や社会制度、思想、価値観は人類すべてにとって普遍的に価値を持つものだった。
「価値があると誰もが認めるはずだ」と信じてもらえるに足りるものを生み出すものであった。
白人文明が最も人類にとって普遍的に価値ある概念を提供したからであり、
今回はたまたまその中で最も貢献度合いが高かった国が英米だったからである。
実際問題非英語ネイティブといっても、欧州言語母語話者にとっては英語は方言のようなものなのだから、
日本国内で次は大阪が首都になるから関西弁が共通語になる程度の感覚だろう。
また古代日本も中国から文字や箸や仏教や儒教や暦が伝来するまでは文明のない未開のクニだった。
現在の日本語がカナ含めすべて中国由来の文字によって書かれているのは中国によって文明化されたことの結果である。
今の英語世界共通語化はこれまで存在したいかなる人種差別や民族差別をも上回る人類最大の差別だと思っているが、
これは英米人が人類に「金を稼がせる手段」となる文明を与えたことへの対価なのだろうと考えると仕方がないと悟るようになった。
バンコクで今月九日開店したタイでのユニクロ第一号店へ足を運んでみた。
やはり品揃えはユニクロなので、日本人にとっては商品に目新しい点は何も無い。
しかし、驚いたのはその店舗の様子。
快適な通路幅、絶妙な照明などかなり清潔感あふれる仕上がりになっている。
また、相当に広い店舗だが、商品配置も日本の同社店舗と同程度に工夫されており、バンコクの他社店舗と比較すると、かなり分かりやすい。
加えて、タイというか東南アジア一帯で頻繁に見られる"無駄な店員"が全くいない。
店員数も極めて適当であるし、その店員も「彼らは日本人か?」と思わせるほど良く働く。
その上、"店員としての愛想の良さ※"まで身に付けている。
(※個人としての愛想の良さではなく、「あの店員は感じが良い」という接客スキルとしての愛想)
全体としてブランドショップとしてのユニクロを作り上げるのに成功していると思う。
当初は、日本国内でのユニクロのイメージから、これだけ安い価格の服飾品が溢れている東南アジアで、同社が成功するものかと否定的に考えていたが、これはもしかするともしかするかもしれない。
何より衝撃を受けたのは、日本国内での販売が8割以上を占める同社が、海外出店のノウハウを既にかなりのレベルまで蓄えていた、という点。
"「日本で当たり前のことを当たり前にやる」、これが出来ればどんな国が相手でも通用させることが出来る"という同社なりの確信を垣間見たような気がした。
タイ生活3年目、マンネリ化した日々の中で、久々に刺激を受けた出来事だった。、
最近の日本人の傾向に、お前は所詮最悪な自己愛者だという真実を言ってもケロリとしていることがある。特に公
務員などは突き詰めると「はあ。で?」というふうに諦めており、自分が今までにどれだけの書物を読んだり書いた
りしてものを考えてきたかを忘れている。ヤクザなどはもともとクズなので、お前は自己愛者だと言っても、「じゃき
なんか、でやすぞ、お前」くらいしか言わないだろう。こいつらの思考自体、意味不明だ。これだけ学校教育や司法
行政等の発達しているはずの日本国家がなぜこのザマなのだろう。日頃自分が言ってることと、本音がなぜ真逆
なのか。矛盾どころの話ではない。むろん、分析してみれば事の真相は簡単だ。学問や行政司法は、所詮過去の
一部の日本人が性感のためにそれを欲し、他人に押し付けていた時期があったというにすぎない。その人が死ね
ば、もちろんそういう文化もなくなる。後はただ形骸が残っているだけというわけだ。したがって今の公務員は、正
義に合致したような言葉遣いをしながら悪事ばかり働いている。中身はないが形骸は守る必要があって、その中
で本音となっている悪事をするにはどうすればいいかを考えるのでこうなるわけだ。いやそもそも最初から素晴ら
しい人間などいなかったのだ。悪代官が千利休のような人を政治利用していただけのことだ。日本社会の本質は
私は基本的人権を理解していないが、ほとんどの日本人も基本的人権を理解していないと思う。
高校無償化問題だ。朝鮮学校の生徒は無償化される権利があると考えているらしい。
当然、弁護士が付き、専門的に正しく主張しているのだろう。
よく分からないので、例え話をしたい。
私は多くのお金を持っている。これを、近所の子供に分け与えることにする。
近所に子供は100人いた。そのうち1人は私自身と国籍が違うので、あげないことにした。
問題があるのだろうか。
自分自身の財産を誰に対して処分するかは、その人の自由であると思う。
日本国は、日本の主権の及ぶ範囲に住む人から、税金を取る。日本国は、その範囲の内の秩序を保ち、住む人はその恩恵を受けるからだろう。
「いやなら見るな」というビートたけしについて、これは以前ネットゲリラが原発問題に関連してコメントしたとおり、芸能人のヨイショ、単なる野次馬の言葉なのだから、それほど大げさに取り上げることではないのではないかな。
http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/04/post_8072.html
フジテレビに対するデモがあるというが、まあ先日のお散歩同様、元気にお祭り騒ぎをすることは極めて健全な社会現象じゃないのかな。
民間会社の活動にアレコレいう筋合いがあるのか、という物言いは、ちょっと常識をうたがう。
市民である私たちがいいたいことがあれば、いつだっていいたいことを言う。その権利がちゃんと保障されているのが日本国のはず。
もちろん、いいたいことを、「どうやって」言うのかは、その振る舞いが当然問われてしかるべきだけど。
自分はフジが媚韓とか、高岡が嫌韓だとか、という話題にあまり関心ないのだが。
言っては悪いが、この問題、「売れない俳優である高岡某」が発言している、という点を軽視してはいけない。
彼にとっては、フジが韓流に走るというのは、「純粋な経済問題」なのである。
それをネトウヨが「政治問題」にしようとするから、話が変になる。
つまり、
「韓流ドラマが増えれば増えるほど、日本国内製作ドラマの本数が減り、日本俳優の出演頻度が減り、
高岡の発言は自分のクビが掛かっているのだから、ネトウヨが「文化的政治的に嫌韓運動している」のとは、
質が根本的に違う。
あと私見だが、日本の人口が減少し、特に視聴者のメーンターゲットであるF1層M1層が激減しているのだから、
ドラマ制作本数が減るのは「自然の摂理」だと思うし、日本製作ドラマで埋めきれない時間帯を砂嵐にしないための「埋め草」に
F1層M1層の人口減少、という現実を直視せずに、失業したくないからと言って韓流批判する
高岡某は、少し「違う」と思う。